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縄文、弥生、犬、オオカミの考古学と歴史-雑記帳-
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縄文、弥生、犬、オオカミの考古学と歴史-雑記帳-
縄文、弥生、犬、オオカミの考古学と歴史-雑記帳-
犬の頭骨と歯の図。犬とオオカミは歯の数などが共通である。
犬の骨格図。全身骨格図奈良県文化財研究所による。
縄文、弥生、犬、オオカミの考古学と歴史-雑記帳-
(本文)
https://aomori-jomon.jp/essay/?p=534
岡田康博 1957年弘前市生まれ 青森県教育庁文化財保護課長
少年時代から、考古学者の叔父や歴史を教えていた教員の父親の影響を強く受け、考古学ファンとなる。
1981年弘前大学卒業後、青森県教育庁埋蔵文化財調査センターに入る。県内の遺跡調査の後、1992年から三内丸山遺跡の発掘調査責任者となり、 1995年1月新設された県教育庁文化課(現文化財保護課)三内丸山遺跡対策室に異動、特別史跡三内丸山遺跡の調査、研究、整備、活用を手がける。
2002年4月より、文化庁記念物課文化財調査官となり、2006年4月、県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡対策室長(現三内丸山遺跡保存活用推進室)として県に復帰、2009年4月より現職。
第10回 「縄文時代、犬は大事な友達」 岡田康博 2009年1月28日
昨年の父の日、我が家に新しい家族がやって来ました。そう、イヌを飼い始めたのです。なんとも言えずかわいく、せっせと散歩に連れ出してはコミュニケーションを図っています。実は、すでに縄文時代からイヌは飼われていました。ですから一万年以上もの長い付き合いをしてきたわけです。
イヌの骨の中には、まとまって出土する場合があり、明らかに埋葬されたものがあった
二ッ森貝塚の埋葬犬
縄文時代からイヌは飼われていた
縄文犬想像図
全国の縄文遺跡からは度々イヌの骨が出土します。愛媛県や神奈川県では縄文時代早期(約8,000年前)のイヌの骨が見つかっていますので、縄文時代の開始当初から縄文犬が飼われていたようです。県内でも三内丸山遺跡や各地の貝塚などから出土しています。
動物考古学の専門家である国立歴史民俗博物館の西本豊弘さんは、出土した骨の特徴から、縄文犬の姿を「体高は40cmほどの小型犬で、四肢が太く、短い、がっしりとしたたくましい体つきで、前頭部にくぼみのないキツネのような顔立ち」と推定しています。現在だと小型の柴犬に似ていると言えそうです。骨には骨折や骨折が自然治癒したものがあり、狩りなどで果敢に動物に立ち向かったことが考えられます。
イヌの骨の中には、まとまって出土する場合があり、明らかに埋葬されたものがあります。死ぬと墓を作り、丁寧に埋葬されているわけです。中には人間と一緒に埋葬された例もあります。縄文時代にはイヌ以外の動物には墓を作りませんでしたので、これからもイヌは縄文人にとって特別な動物であったことがわかります。仲の良い大事な友達、あるいは家族の一員と言ってもいいのかもしれません。
先日、九州国立博物館で開催した「あおもり縄文展」では、七戸町の史跡二ッ森貝塚から出土した埋葬犬の実物を展示したところ、見学者がその場で足を止めることが多く、興味関心をもったようです。この埋葬犬は縄文時代中期後半(約4,500~4,000年前)のもので、食料の貯蔵穴に埋葬されていました。おそらく、食料貯蔵穴が使われなくなった直後に、穴の底に遺骸が置かれ、土がかけられた後にさらにその上にヤマトシジミやハマグリなどの貝が棄てられたものと考えられます。体を大きく曲げ、前足と後ろ足を前方に投げ出した姿勢となっています。骨の大きさや歯の状態から生後5~6か月の幼犬で、メスの可能性が高いと考えられています。
縄文人の良き友達であったイヌですが、大陸から本格的な稲作が伝わる弥生時代には食料とされていました。それは遺跡から骨がばらばらの状態で多数見つかったり、中には解体の痕跡が残っているものもあります。縄文時代にイヌを食べる習慣はなかったようですが、稲作とともにイヌを食べる食習慣も日本列島へ伝わってきたものと考えられます。
https://aomori-jomon.jp/essay/?p=1101
第31回 キラリ!黒曜石の話 岡田康博 2010年6月4日
小学生の頃、遺跡で拾った黒曜石は宝物でした。どこでも拾えるものではなく、何度も何度も遺跡を歩き、たまに出会うことのできる貴重品でもありました。ちなみに遺跡で土器や石器などを見つけやすいのは雨の日の翌日です。普通は土が着いているため、周りの土と見分けがつきにくいのですが、雨が土をきれいに洗い流すと発見はそんなにも難しいことではありません。そう、ちょうど春先に畑を作り始めるときが最大のチャンスでしたので、自転車にまたがり郊外の畑めぐりをしたものです。
北海道産の黒曜石
宝物の黒曜石はきらきらと光沢があり、割れ口はガラスのように鋭く、何でも切れそうでした。太陽にかざすと薄い部分は光が透けて見え、他の石器にはない不思議な魅力がありました。当時は、日本では黒曜石は北海道や長野県で採れるとされていましたので、手の中にある黒曜石は遠く離れたところから持ち込まれたものだと漠然と思っていました。
黒曜石は火山岩の一種で、字のごとく黒色をしていますが、中には茶色や縞模様のものもあり、北海道では十勝石と呼ばれたりしています。ガラスとよく似た性質ですので、鋭く割れ、縄文時代以前からも石器の材料として利用されてきました。アステカ文明では外科の手術用メスとして使われることもあったそうです。とにかく切れ味は抜群です。現在日本では70ヶ所を越える黒曜石原産地が確認されています。本県でもつがる市出来島海岸や深浦町、青森市戸門などで黒曜石を採取することができます。出来島海岸ではピンポン球大の黒曜石が点々と落ちていますが、表面が白く風化しているため、慣れないと見つけにくいかもしれません。黒曜石は含まれる微量元素の違いによって、その原産地の推定が可能となっています。
長野県産の黒曜石
さて、三内丸山遺跡では数多くの黒曜石製石器や黒曜石片が出土しており、原産地を明らかにするため1,000点近くが分析されています。その結果、興味深いことがわかってきました。まず、三内丸山にムラができたころは比較的近い県内の黒曜石が使われていますが、ムラが大きくなるにつれてより遠くの原産地の黒曜石が利用されていました。地元産は石器には向いていないようで、あまり利用されていません。最もムラが大きくなる4,500年前には北海道はもちろん長野県や佐渡、山形の月山など日本海側を中心とした各地の黒曜石が出土しています。北海道産は大型のナイフ、長野県産は矢の先に着ける鏃(やじり)に加工され、完成品として三内丸山ムラに持ち込まれたようです。
もちろん、これらの黒曜石は人が運んだもので、多くの黒曜石が集まる三内丸山ムラはまさに交流・交易、物流の拠点であったことがわかります。
http://www.jomon-shiba.com/img/ohkamizakkou1.pdf
ニホンオオカミ雑稿 岩手県立博物館 藤 井 忠 志
私が現在、勤務している岩手県立博物館には、1枚のニホンオオカミ(Canis hodophilax)と言われる毛皮が寄託されている。寄託者は二戸市在住の黒沢修一氏であるが、この毛皮がニホンオオカミであることを示す記録は存在しない。ただ黒沢氏の聞きとりから、1910年(明治43年)黒沢家の祖父で毛皮商であった黒沢繁左衛門氏(明治12年~昭和6年)が地元の猟師である大端福治氏(明治9年~昭和16年)から購入したものである。なめしの状態は良好であるが4肢がなく尾もないのが残念である。毛皮や乳首の状態から、授乳中のメス成獣であり、散弾で撃たれた痕跡がある。従って、捕獲されたのは夏期であり、当然ながら巣穴には何頭かの幼獣もいたと推測される。この毛皮について、日本を代表するニホンオオカミ研究者の今泉吉典氏は、耳介の前に長い毛の頬髭がある(ヤマイヌにはこの頬髭がない?)こと、吻端から眼までの距離と眼から耳孔までの距離が手持ちの和歌山大学のオオカミ頭骨の計算値にほぼ一致したことを根拠に「ニホンオオカミに間違いない」とテレビ岩手の取材で断言されていたが、毛の特徴や計測結果がたまたま合致・近似していただけのこととも解釈できる。いずれ重要なのは、時代が進み、科学的手法がより高度になる時代が近い将来、訪れるだろうことを期待して、この標本を維持・管理しながら、資料的価値を高めるということであり、そのことが資料の存在する県立博物館としての使命と認識している。また、ニホンオオカミのタイプ標本(模式標本)には、オランダのナチュラーリス国立自然史博物館のものが知られているが、新種記載の際には、命名者が唯一の標本を選んでホロタイプ(完模式)に指定する必要がある。しかしテミンクは剥製と頭骨2本、そして骨格標本をタイプ標本としたことから、動物命名規約上の問題に発展することも示唆されている(大石2004)。ニホンオオカミには、様々で複雑な問題や混乱の他に、分類学上からの問題もある。 独立種としてのニホンオオカミが果たして存在していたかどうか?という根幹に関わる問題である。 このように謎が多い理由として、現存する剥製標本の絶対数が極小数であることにある。 具体的に列挙するならば、日本国内に3体、海外に2体の計5体しか現存せずそれらすべてが薬品処理されていること、イヌもニホンオオカミもイヌ科イヌ属(Canis)であること、 特定できるニホンオオカミの遺伝子情報がないことなどがあげられる。 つまりいろいろな種や品種で入り交じっているために、 mt.DNAの塩基配列の分析でもイヌとオオカミははっきり分けられるものではない(VILAet al.1997)という現時点での結論である。さらに、イヌとオオカミは、お互いの子どもを作ることは可能で、その子ども(F1)もまた 茂原2007)1代限りではないことなど、生物学的な種としての定義からはずれ、別種にするのは困難な現状にある。しかし2003年1月、アメロゲニンと呼ばれる歯のエナメル質のタンパク質をつくる遺伝子の一部の塩基配列が、ラブラドルレトリバー種のイヌやモンゴル産オオカミとも異なることが判明し、アミノ酸配列の差異を根拠に独立種の可能性もあることが示唆されている。これまで未解決だったニホンオオカミの分類学的視点に一縷の望みを与える明るい情報である。さらに、ニホンオオカミが独立種か否か?という長年の課題解決のためには、二戸地区にニホンオオカミをまとめて埋葬したと言われる地があり、その場所もある程度特定できることから、発掘作業に着手するのが当館の役割かとも、勝手に思いこんでいる。100年以上経過し、酸性土壌であることから、肉片はもちろん骨格等は剥離・分解されているかもしれないが、犬歯などの歯は十分残存していると考えられ、前述したアメロゲニンの塩基配列から、信頼度の高い遺伝子情報やデータが抽出できるかもしれない。余談:私がこうして柴犬100号に投稿することになったのは、このオオカミの毛皮?の詳細を知る必要性に迫られ、黒沢氏から事務局長の五味氏を紹介されたことから始まる。今では、何でも相談できる良き理解者・五味氏というのが柴犬研究会事務局長に対する率直な感想ではあるが、柴犬研究会の新しい世代には、ニホンオオカミと柴犬のルーツをこれまで以上に徹底して調査・研究して欲しいと願っている。
文 献
大石雅之 2004 ニホンオオオカミの謎にふれる 岩
手県立博物館だより No.103
茂原信生2007 形から探る-イヌ 生物科学第58号
第3巻 :130-129 農文協,東京.
VILA,C.et al. 1997 Science276:1687-1689.
https://www.toibito.com/column/humanities/archaeology/1050
縄文人はなぜイヌを埋葬したか 佐藤 孝雄 Sato et al. 2015: Fig.3
縄文時代の遺跡からはイヌの骨が多数見つかっています。その中にはほぼ全身骨格を保ち、埋葬された個体に由来する資料も少なくありません。縄文時代人はなぜイヌを埋葬したのでしょうか。1962年に愛媛県久万高原町(旧美川村)の上黒岩岩陰遺跡で発掘された2体の犬骨は、国内最古の埋葬犬資料としてつとに知られていましたが、不幸にして発掘後約半世紀に亘って所在が不明となっていました。私達は、2011年に慶應義塾大学三田キャンパスでこの犬骨を再発見、改めて精査したところ、2体とも生前に歯牙の一部を失っていたことがわかりました。こうした歯牙の生前喪失は、この2体がしばしば「猟犬」として利用されていたことを示唆してくれます。
愛媛県上黒岩岩陰出土1号犬・2号犬頭蓋骨の上面観・側面観・底面観
2号犬上・下顎骨の咬合面 前臼歯の一部を生前に失っていたことがわかる
アメリカの古人類学者パット・シップマンは、ネアンデルタール人の絶滅にも犬が重要な役割を果たしたと説きます。更新世末期のヨーロッパで、共に頂点捕食者であったネアンデルタール人類、ホモ・サピエンス、オオカミが獲物を奪い合っていた状況下、やがて、サピエンスがオオカミの馴化に成功。馴化されたオオカミ、すなわちイヌと連携して狩猟に当たり、獲物の捕獲精度を高めたことが、ネアンデルタール人類が絶滅に追い込まれた一因だというのです。ヒトよりも足が速く、逃げ足の速い獲物を噛み止めすることができるイヌ。足の速さには劣るものの、道具を駆使し、獲物を仕留めることには長けたヒト。その両者の連携が、体格に勝りより多くの肉を必要としたネアンデルタール人類から必要な栄養を奪い取ったとする仮説は、学会に少なからぬ衝撃を与えています。その当否はともかく、ヒトとイヌは更新世の昔から互恵的な関係にあったことは間違いないでしょう。興味深いことに、縄文時代の遺跡から出土する埋葬犬骨には、四肢骨に骨折・治癒痕が確認された事例も知られています。副木を用いた整復処置なども無かったとみられる往時、骨折したイヌは、猟犬としてはもはや使いものにならなくなったはずです。にもかかわらず、骨折が治癒するまで生きられたことは、不具になった後もエサを与え続けられたことを意味します。この事実は、縄文時代人が少なくとも一部のイヌを、狩りの道具としてのみ見ていなかったことを示唆してくれます。もしかすると、彼らは一部のイヌを、共に生きる仲間あるいは家族同然の存在と考えていたのかもしれません。神話研究で著名な文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、先住民にとって、人間と動物は分かちがたく結びつく存在であることを指摘しました。ハイダ族やトリンギィット族など北米先住民に知られる、特定の動物を自分たちの出自とも結びつけるトーテミズムは、その最たる例と言えます。また、サハリン、北海道、千島列島に暮らすアイヌの人々は、自身に肉や毛皮をもたらしてくれる動物を神の化身と考えてきました。こうした、異なる事象を結びつける能力は、私たちサピエンスの心の基体をなすと見るべきでしょう。自己と他者、文化と自然、人と動物、宗教と科学、過去と未来など。西洋近代科学はその誕生から一貫して「分離すること」「区別すること」を志向してきました。既存の学問が専門分化によって発展・深化してきたことを否定するつもりは毛頭ありません。ただ、その一方、今日では、一つの事象を一つの学問領域だけで研究することが困難になりつつもあります。遺跡から出土する犬骨の研究ひとつとっても、動物考古学のみならず、生物学、解剖学、獣医学、年代学、遺伝学、骨化学などとの連携が欠かせません。考古遺跡から出土する動物遺体の研究は、深めれば深めるほど、それが文化の研究なのか自然の研究なのかわからなくなる側面も持ちます。もとより、自然も文化も西洋近代学が創出した概念に過ぎませんから、それも蓋し当然と言えましょう。新たな知の地平を開く上では、異なる事象を結びつける流動的知性を発動させ、既存の学問の枠組みを超える営みこそが不可欠なのだと思います。
「文責:トイビト加藤」
https://news.mynavi.jp/article/20131015-a033/
“日本犬”の祖先、縄文早期には猟犬だった!? 2013/10/15 10:02
縄文犬と現在の柴犬の、頭蓋骨の側面の比較
生前に前臼歯が失われた痕跡(矢印)
(* いずれも佐賀市教委の発表資料から)
佐賀県内で約7,000年前の遺跡から出土した犬の骨について、佐賀市教育委員会が調査結果を公表した。犬の骨のDNA解析では、柴犬や秋田犬などと同じ遺伝子の組み合わせタイプを持つことが分かり、これら日本在来の「日本犬」の祖先が縄文時代早期にまでさかのぼれることになった。犬の骨は、佐賀市金立町の「東名(ひがしみょう)遺跡」の貝塚群から2004-07年の発掘調査で107 点が出土した。このうちの頭蓋(がい)骨や下顎(かがく)骨などの鑑定を、慶應義塾大学の佐藤孝雄教授らの研究チームに依頼していた。DNA解析の結果、遺伝子の組み合わせのM1タイプが現生の柴犬、秋田犬、紀州犬と一致し、M20タイプも柴犬、琉球犬と一致した。M1タイプは、これまでに国内の縄文時代の遺跡から出土した犬(縄文犬)の骨から初めて確認された。犬の骨の出土例は神奈川県横須賀市の「夏島貝塚」(約9,500年前)が国内最古だが、骨の量が少なくDNA解析はできなかった。推定される犬の姿は、頭部から吻(ふん)部にかけての横顔が直線的で、これまで確認されている縄文時代前期から晩期までの犬の特徴と同じだった。体高は43-47センチメートルと、縄文犬としては大きな部類だった。また、上顎骨には前臼歯が生前に失われた痕跡があり、「猟犬として獲物の攻撃や捕獲に当たっていたと考えられる」という。※本記事は掲載時点の情報であり、最新のものとは異なる場合があります。予めご了承ください。※新型コロナウイルス感染症についての最新情報は、 厚生労働省、 内閣官房、 首相官邸 のウェブサイトなど公的機関で発表されている情報も合わせてご確認ください。
https://manabi-japan.jp/culture/20191010_15910/
柴保の犬
現在の柴犬はすべて「中号」(1948年4月生まれ)という牡犬を先祖に持つそうだ。この中号を中心に、柴保の柴犬も日本犬保存会の柴犬も作られており、その中で縄文犬の骨格にこだわった作出を続けているのが柴保の柴犬ということになる。「縄文時代の遺跡から出てくる犬の骨」がどんなものかと言えば、体高は40㎝弱~大きなもので47㎝ほど。ストップ(額段)がほぼなく、なだらかだ。その骨格を目指して犬を選出し、約70年間交配をしてきた結果、柴保の犬は狼や狐を思わせる細面の、小柄な犬となっている。
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ナビ不調で蝶ヶ岳と常念岳への登山口に迷い込んだ2020年9月21日のこと 甲斐鐵太郞
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夏の陽光に輝く善光寺の参道 甲斐鐵太郞
ヒョウモンチョウが舞う夏の八島湿原 甲斐鐵太郞
クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
(ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん 甲斐鐵太郞)
「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞
田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞
ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞
川上村と私 甲斐鐵太郞
甲府盆地の7月は桃の季節で8月になるとブドウが本格化する 甲斐鐵太郞
霧ヶ峰高原とレンゲツツジ 甲斐鐵太郎
安岡章太郎が描く軍隊と現代の人々の生への現実 甲斐鐵太郎
現代の人には死はない 甲斐鐵太郎
真夏の暑さのなか快適に作業するために一階にパソコンを移す 甲斐鐵太郎
椅子とヒキガエルと葛の根を考える 甲斐鉄太郎
パソコン業務のためにモニターと机と椅子の位置関係を求めて苦闘する 甲斐鉄太郎
バラの花の向こうに甲斐の山々と青空が広がっていた 甲斐鐵太郞
2020年桃の果実の行方、山梨の果樹農家の不安は拭えない
塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞
6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞
茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞
川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞
フィルムでの写真撮影にかかる実際費用 甲斐鐵太郞
R型ズミクロンをEOS 5Dで使う 甲斐鐵太郞
R型ズミクロンの初期型をキャノンイオスデジタルの5Dを使う
レオタックスFを私は気に入っている 甲斐鐵太郞
新型コロナウイルスと肺炎疾患を考える-その資料一覧 №2-
説明する児玉龍彦氏(東大先端研がん代謝PT)
児玉龍彦さん(東大先端研がん代謝PT)と金子勝さん(立教大特任教授)にうかがう最新の新型コロナ情報。なんと、日本人を含め東アジア沿岸部は、SARS以降に今回のウイルスに根幹の似たウイルスに暴露し免疫を持っている人が多いのかもしれないという仮説が出てきました。そして、ウイルスの特徴から感染後に重症化する人を見分けてケアし、軽症者の重症化を防ぐ手立ても見えてきました。そのような状況の中で、どうしたら感染を制御して社会生活・経済生活を再開できるのか、それを考えます。収録は、2020年5月16日(デモクラシータイムス)
春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞
無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞
「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する
大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞
裂石付近の番屋小屋。ここは東京と山梨の境に位置する。
新型コロナウイルス禍を理解する 甲斐鐵太郞
5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞
緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎
白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞
八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖
思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。
主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ
YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する
田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた
田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。
田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)
田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)
田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)
田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄
田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則
田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則
田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-
日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)
初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)
美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎
地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ)
富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ
霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞
中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした
暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎
灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube
八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
地震と津波
地震計は地震を予知する機能を持たない
旅行や自然や風景の動画 目次-その2-
旅行や自然や風景の動画 目次-その1-
地震計は地震を予知する機能を持たない
【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】
八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
オリンピックの自転車ロード競技のテストイベントを見物する 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
2019年郡上おどり2日目7月14日は午後10時半まで盛大に 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
2019年の郡上おどり始まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
飛騨市古川町にNHK 朝ドラの「さくら」がいた。執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
海をみに行く。房総半島を右回りで旅行した。 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎
ニセアカシアを知る-アカシア情報-
アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です
真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました) 執筆 甲斐鐵太郎
輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎
湘南の海岸通りを走る 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ウイルス防御ソフトの「ブロック」表示との格闘三日間 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
ウイルス・ソフトのパソコンへのアップの顛末記 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
「ハッピーエンド」を聴く 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎
キャノン7とキャノンP 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
(中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる)
富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎
国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎
霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎
石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎
熱海桜は河津桜よりも確実に早く咲く 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎
富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)
1月10日、京都えびす神社の「えべっさん」 執筆 甲斐鐵太郎
富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎
富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった
山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎
太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎
大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎
上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎
江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎
林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎
山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎
三浦岬をぐるりと巡って葉山マリーナにでた 執筆 甲斐鐵太郎
浅草の場外馬券売り場前の飲み屋で一杯 執筆 甲斐鐵太郎
お酉さま 執筆 甲斐鐵太郎
晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎
カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎
10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎
11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎
10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎
信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎
信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎
金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎
私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた
夕暮れどきの高山市古い町並み2018年6月23日、18:06:44
夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する
6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです
6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う
白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ
夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時
よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ
近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり
特別な位置にいる投手としての大谷翔平
「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる
奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった
松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ
金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。
東京の桜は散って新緑の季節になりました
武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)
北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)
陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう
埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎
数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
(インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道)
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)
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