田中館愛橘とその時代ーその5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
    日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘


 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族のの子弟は作人館で和漢ほかを教わった。そのご作人館は盛岡中学に変わる。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでないが、高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。

(本文)
第29話。
現代では「東京で就学のため暮らす費用は4年間で1千万円になる」。


 「東京で就学のため暮らす費用は4年間で1千万円になる」ということが東京のある大学の理事長の言葉である。東京都国分寺に本部をおく私立大学で在籍者数6,743名。

 豪商の大倉喜八郎が西洋諸国と並ぶ商業の知識・道徳を備える人材を育てるため、私財を投ずることを決意、渋沢栄一、渡辺洪基、石黒忠悳の名による商業学校設立の趣意書を公表、1900(明治33)年9月1日に大倉商業学校開校を東京・赤坂葵町に開校した。翌年1月、夜学専修科を開校。1919(大正8)年、高等商業学校として認可され、名称が大倉高等商業学校と変わる。名門高商として運営され、戦後になって新制の大学になった。

 文部科学省発表の進学率などの平成28年5月1日現在の資料は次のとおり。大学・短大進学率(過年度卒含む)は56.8%(平成22年度と同率)、大学(学部)進学率(過年度卒含む)は52.0%でともに過去最高。専門学校進学率(過年度卒含む)は22.3%。高等教育機関進学率(過年度卒含む)は80.0%で過去最高(平成26年度と同率)。大学在学者数が287万4千人で,前年度より1万3千人増加している。

 私立学校に在学する学生・生徒などの割合は、大学・短大で約8割を占めており、それぞれが建学の精神に基づく個性豊かな活動をしている。というのは文科省の説明である。

 経常費補助を中心とする私学助成事業、日本私立学校振興・共済事業団における貸付事業、税制上の特例措置、学校法人の経営改善支援が国の私学支援の内容だ。国公立大学の授業料は既に私学並みになっているから私学であるから学生生活が金銭面で窮屈だという単純な理屈はなりたたない。4年間で1千万円の負担をする親元は苦しい家計となり学生自身もアルバイト収入に依存するから勉学の時間が少なくなる。大学とはこのような事情になっている。

第30話。
明治28年の当該年齢に占める高等教育機関への在学者数は0.3%であった。


 高等教育就学者の統計がでてくるのは明治28年(1895年)からである。明治28年の当該年齢に占める高等教育機関への在学者数は0.3%であった。明治38年(1905年)は0.9%。大正4年(1915年)は1%。大正14年(1925年)は2.5%。昭和10年(1935年)は3.0%。昭和25年(1950年)は6.2%。昭和35年(1960年)は10.2%。昭和36年(1961年)は10.2%。高等教育機関の数は明治28年(1895年)63校、昭和37年(1962年)は565校。昭和37年ころは高等教育機関の60%を私立が占めていた。

 明治28年の全生産人口に占める高等教育機関への在学者数は0.1%であった。同じく中等教育機関は0.2%、初等教育機関は15.6%、不就学者は84.1%。昭和10年(1935年)は上に同じように1.6%、9.2%、82.1%、7.1%、。以上は文部省発表の資料による。文部省は学校教育とりわけ高等教育の就学率の生産性向上に寄与することを説くことを企図してこの資料を作成している。

第31話。
国民皆学と国民皆兵から国民皆大学と国民皆勤め人の時代に。


 富国強兵のために国民の初等教育機関機関への就学が強く推し進められたことにより明治28年の全生産人口に占める不就学率84.1%が、昭和10年(1935年)には7.1%にまで減っている。規律と読み書きソロバンの初歩ができていなければ兵士として鍛え上げることができないからだ。大正14年(1925年)には20.0%まで不就学率が減っている。国を挙げて初等教育の普及につとめた。

 現在の大学在学者数が287万4千人がいて4年間で1千万円を教育費と生活費で費やすのであるから、これによって生じる消費の金額は莫大であり望ましいことではないが経済の回転に効果している。明治・大正を通じて小学校教育への就学率が向上した。国民皆学は国民皆兵の下地となった。現代の国民の8割が高等教育機関で学び卒業する状態は国民皆兵が国民皆勤め人の素地をつくっている。経済活動のための兵士をつくるのが現代の高等教育であるのかもしれない。ある時代には宿帳に無職と記名されているとお金持ちだと判断されたのである。

第32話。
明治10年(1877)創設の「東京大学」は国の指導者養成機関であった。

 次は「昭和37年11月1日 荒木萬壽夫 文部大臣」名の文書から引用である。

指導者養成

 近代化の初期において、まだ教育の普及がじゅうぶんでなかつた時期に,近代化を推進する指導者の役割は大きかった。近代以前の高等教育は,身分制度による指導者養成であつたが明治5年「学制」以後の高等教育は出身階層のいかんを問わず、ただその指導者たるにふさわしい知識能力の高さだけを問題とする高等教育制度であったことが、広く人材の開発に役立ったのである。

 明治期の高等教育機関には,帝国大学・専門学校・高等師範学校などがあった。

 明治2年(1869)に政府は幕府から引き継いだ昌平校・開成所・医学所を併せてこれを「大学」とした。これがやがて明治10年(1877)「東京大学」,明治19年(1886)「東京帝国大学」となり、明治30年(1897)までわが国の唯一の総合大学であり、国の指導者養成機関であった。

 開成所・医学所の時代から、洋学と医学が指導者養成の大きな柱であったが、明治10年(1877)「東京大学」となると、医学部・理学部・文学部のほかに、法学部が加わり、近代的管理者の養成が始められた。

 また明治19年(1886)には工科大学が、同23年(1890)には農科大学ができた。このような医・理・法・工・農の順序は、わが国の近代化の初期に、どのような専門分野の人材が要請されたかを示すものとして興味深い。

 次に明治初期の高等教育の普及を,学生の出身層の面から考察する。明治5年(1872)「学制」の公布によって、教育における士農工商の身分制が一掃され、すべての国民が教育の機会を均等に与えられることとなった。さらに初等教育を終了したものには、すべて上級の学校に進む機会が与えられた。ここに学生の出身層がどのように推移していったかを東京大学在学者の社会出身層によって推察してみよう 。

(表3 「東京大学」在学者の族籍別出身層の分布)

 表に見るように明治11年(1878)に3対1であった士族・平民の子弟の割合は、明治15年(1882)にほぼ同じ割合を占めるに至っている。明治7年(1874)当時の戸籍調査から類推すると,士族層は全人口の5.6%にすぎなかった。この割合からみると士族層の子弟が教育を受ける機会は、平民のそれと比較してきわめてその率が高かったといえよう。

 しかしこれが能力において平民の子弟より士族の子弟のほうがすぐれていたことを示すものではなく教育への関心が士族層のほうが平民層よりも比較的高かったことと経済的理由によるものとみるべきであろう。

 いずれにせよ平民層の子弟が明治15年には当時特権的な存在であった「東京大学」の在学者のほぼ半数を占めていたことは注目に値する。

 このようにして「学制」に明示された精神は初等教育、中等教育においてはもちろん高等教育の上にもその実現をみつつあったのである。
(以上、出典は文部省の政策分野の文章であるが、そのまた先の出典は昭和37年11月1日 荒木萬壽夫文部大臣名の文章)

第33話。
士族の子の人口比は5.6%で「東京大学」在学者は華族0.5%、士族77.7%、平民21.8%。


 江戸期の庶民の子弟は寺子屋などで読み書きソロバンの手習いをした。

 明治の初めころまでは武士の子弟は藩校などで半ば義務として漢学、武術ほかを学んでいた。藩校から直接に東大予備門に入る者もいたが英語などが入学試験科目になっていたこともあって慶應義塾などでそれを学んで試験に備えることもあった。田中館愛橘は藩校で学んだのち慶應義塾で英語を学ぶも学費が高いために辞めて外国人夫人に英語を教わった。

 藩校はのちに旧制中学に変わっていく。そうした事情を考察すると藩校では中等教育に相当していた。

 戦後に新憲法が施行されるまでは人には士族の子、平民の子など戸籍に書かれていた。華族の子というのもある。

 士族の子の人口比は5.6%であった。士族は江戸期においては部門の人ではなく行政に従事する公務員であった。行政に従事するためには知識と修養に努めなければならないから漢籍、和学ほかを学んでいた。武家に良い跡取りがいない場合には他家から養子をとる。養子には町民の子も選ばれた。町民の子は何処かで行政職を務めるための修養を積んでいたのである。

 明治12年の「東京大学」在学者の族籍別出身層の分布は次のようであった。華族0.5%、士族77.7%、平民21.8%。これが明治14年には華族0.0%、士族51.8%、平民48.2%。藩校が旧制中学校に変わって平民の子もこの学校で学ぶことができるようになったことによって士族のこの割合は減じている。華族の子弟では徳川家の子孫が学習院から無試験で東京大学に進んでいる記録がある。人口比は5.6%の士族の子弟の東京大学への進学の度合いは大きい。なお東京大学入学者の数は多くないので比率算出のための母数が小さいので年度別の比較にはそのことを考慮しておきたい。

第34話。
南部藩家老の一族の原敬は東京大学法学部を在学3年で追われた。


 初期の東京大学と後に東京大学に組み入れられる学校は寮に入り食費と小遣いなどが支給されていた。

 盛岡藩家老の子孫である原敬は藩校ののちに東京にでて兵学寮(後に官軍士官学校)の試験を受けるが願いがかなわず、横浜で英語を学んで後の東京大学法学部になる学校に2番の成績で入学する。その学校の寮での食事の内容改善と求める学制の抗議行動への処分の緩和を求めて行動したために在学3年で同校を追われた。

 原敬はその後に外務省にいた陸奥宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日(1844年8月20日)から 明治30年(1897年)8月24日)に誘われて外務省にはいり、陸奥宗光のもと外交官として働く。陸奥宗光は、日本の政治家、外交官、武士(紀州藩藩士)。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。

第35話。
田中館愛橘に門下生たちがが飽かず聞かされた語った明治初年のころの書生気質士。


 東京帝國大学理科大学教授中村清二はその著『田中館愛橘先生』(昭和18年 中央公論社刊)に田中館愛橘が語った明治初年のころの書生気質を記している。

 何でも貢進政時代?のことか、学生は寄宿舎住まいで寄宿料無料であるばかりでなく、着物さえも支給された。しかるに誰やらの時代に食料は官費だが着物は自弁であければならぬと申し渡された。それが不服で当局に談判に行った。その文句が面白い。「われわれは国家のために勉強しているのに着物をくれないという法があるか」というのだ。まったく当時の若い者は国家を背負って立っているという意気込みであったから凄いよ。

第36話。
開成学校は予科が2年、本科が4年で6年。生徒の数は大体100名足らず。


 同じく『田中館愛橘先生』の一節である。

 明治9年になって英語学校(英語学校は東大予備門の開成学校から独立した外国語学校の一部であるが、開成学校の本体は明治7年5月に東京開成学校と称せられることになり、同年12月には外国語学校から私どもにいた英語学校を全く分離して東京英語学校を新設し、もっぱら東京開成学校に進入すべき生徒の準備教育を施すところとなった)の第一級第二級の上級生はみな開成学校に入れられることに規則が変わって、その入学試験を行うことになった。

 このさい生徒の一部十五、六人は開拓使(北海道を支配する官衛、北海道庁の前身)の勧誘に応じて札幌の農学校に転学した。故北海道帝国大学総長の佐藤昌介氏などはその一人である。

 入学試験に合格して明治9年9月に東京開成学校の予科の3級生になりました。年齢は21歳でした。

 この試験に合格したのは90人内外でしたが、試験は英語、数学を主とし漢学もありました。漢学の問題は、漢退之千里馬の片仮名で電信文のように、のべつに唐紙に大きく書いたのを張り出して、それを漢文に書き直せというのである。

 これは私が東京に出る前に国元で暗唱させられたもおだから大抵書けたつもりだった。ただ焉(エン)とか矣(イ)とかの置き字太氏かでなかった。また英語学校の教科書は算術も塵も歴史も英語ので習ったのだから、どうやら及第したのである。

 開成学校は予科が2年、本科が4年で6年かかって卒業するのです。生徒は仙台、新潟、広島、長崎、大阪などからと、私どものような東京英語学校の上級から拾い上げられたものとの集まりで、その数は大体100名足らずです。それを30名づつくらいのA、B、Cの三組に分けたものです。

第37話。
明治9年の入学90余人、明治15年の卒業は33名、法理文三学部の総数である。


 開成学校に入ったとき、なかのようすが一向にわからない、落第しては大変だと思ってやたらに勉強した。ところで大試験のあと、どうかと思って張出しを見たらA組の一番となったので驚いた。

 明治10年は西南戦争の年だからその4月11日に開成学校の予科が廃されて、東京大学予備門と改称せられ服部一三氏が主幹となり、開成学校の本科は東京医学校を併せて東京大学となった。ただしこの医学校は東京大学医学部と少子池田謙斉死が東京大学医学部綜理としてこれを統べ、開成学校の本科の方は法学部文学部理学部を含み東京大学法理文三学部として加藤弘之氏がその綜理となった。

 明治15年7月10日に先生(田中舘愛橘)はめでたく卒業せられ、翌日準助任ぜられた。

 この時代の学制は官の貸費生でみな寄宿舎に収容せられてあったのだが、試験が実に厳しくて一回の不合格は落第で原級に止まり二回の不合格では退学が命ぜられたのであるから、明治9年の入学のときに90余人であったものが明治15年の卒業のときには33名となった。もちろんこれは法理文三学部の総体である。

第38話。
『田中館愛橘先生』を書いた門弟の中村清二。


 中村清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日(1869年10月28日)から1960年(昭和35年)7月18日)は日本の物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。1925年に創刊された理科年表には、物理部の監修者として名を連ねている。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。

 妻との間に二男二女が生まれた。また、女優の中村メイコは兄の孫にあたる。

 旅行が趣味であり、90歳で亡くなる1ヵ月前にも長男らと飛騨高山、淡路島などを巡っている。島嶼を好み、台湾、樺太、満州、朝鮮半島などを訪れた。特に伊豆大島を好み、別荘を大島町に寄付している。

 読書家でもあり、ウマル・ハイヤームの詩を原文で読むためペルシア語を独学したり、伊勢物語に傾倒したりした。

 1869年10月28日、福井県鯖江町(現・鯖江市)に生まれる。1892年7月10日、理科大学(現・東京大学理学部)物理学科を卒業。在学中は田中舘愛橘に学ぶ。1895年12月3日、旧制第一高等学校教授に就任。1900年4月20日、東京帝國大学理科大学助教授となる。1903年2月23日からドイツに留学。1906年7月3日に帰国。1907年5月5日付で理学博士の学位を取得。1911年11月28日、東京帝國大学理科大学教授に就任。1924年6月27日付で帝国学士院(現・日本学士院)会員になる。1929年6月2日、東京帝國大学名誉教授となる。1953年11月9日、文化功労者となる。1960年7月18日、没した。

(つづく)

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)

田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

 
 
 

田中館愛橘とその時代(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘−その1−(執筆 横田俊英)




冬の山中湖と富士山

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る

正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった

上高地 晩夏

風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません

川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-