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物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

(副題)田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況

(副副題)
日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。

(タイトル)
物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)
【田中舘愛橘の写真とその説明】

写真は平成14年文化人郵便切手に描かれた田中舘愛橘の肖像。

切手には「田中舘愛橘の肖像とタイプライター・地球」が描かれている。
日本の物理学の祖である田中舘愛橘は東大教授として多くの物理学者を育てた。
地球の絵があるのは国際度量衡委員をはじめとして多くの国際委員を勤めていて世界中を駆け回ったことを意味してのことである。
タイプライターは日本にローマ字を普及した功績を表現する。
発行は平成14年11月5日(火)では発行枚数は900万枚。80円切手である。

平成14年文化人郵便切手では田中舘愛橘の肖像とタイプライター・地球、正岡子規の肖像と俳句、鳥居清長画「大川端夕涼み図」の三つが発行された。
田中舘愛橘は正岡子規より12年前に東京大学に入学している。

田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国後に教授。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。

正岡子規は1867年10月14日(慶応3年9月17日)生れ。没年は1902年(明治35年)9月19日)1890年(明治23年)。帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。

物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)
(副題)田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況
(副副題)日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。

はじめに

 本稿は明治政府のもとで日本の物理学教育の草分けとして大きな働きをする田中舘愛橘を中心にして、この人の周囲に登場する人物にももう一つの焦点をあてて明治の人々がどのような生き方をしたのか探るために企図された。

 田中舘愛橘は日本で最初に国際度量衡委員に選出された人である。国際度量衡委員としての活動や日本におけるメートル法普及の活動がどのようであったか良くはつかめていない。その方面の事績や逸話を拾い上げることができていない段階での一文である。

第1話。
明治前夜


 明治という世の中を考えるにその前夜の日本の状況を捉えておくことにする。

 10代将軍徳川家治の時世の始まりの年である宝暦10年(1760年5月13日) はイギリスで産業革命が起きた年である。つづく11代将軍徳川家斉の時世の天明7年 (1787年4月15日) から天保8年(1837年 4月2日)、12代将軍徳川家慶の時世の天保8年(1837年4月2日) から嘉永6年(1853年6月22日) には産業革命進展のまっただなかであった。将軍職在位1年の15代将軍徳川慶喜の時世は慶応2年12月5日(1867年1月10日)から慶応3年12月9日(1868年1月3日)である。15代将軍徳川慶喜は徳川時代と明治時代をつなぐことになるが、慶喜の思いと結果の間にはどのようなことがあっただろう。

 幕末とはいつの時期であるか。嘉永6年(1853年)にペリー艦隊来航とそれに連動する幕府大老井伊直弼を安政7年3月3日(1860年3月24日)水戸浪士らが襲撃した桜田門外の変を区切りとされる。

 1760年ころに始まったイギリスの産業革命は1830年代にかけて勢いを増す。産業革命をつうじてイギリスは資本蓄積をする。また植民地支配などを通じて市場を拡大する。1840年に清を相手にアヘン戦争をおこし2年の戦いののち勝利する。つづいて第二次アヘン戦争を1856年から1860年にかけてフランスと連合して戦って勝利し、清に不平等条約を結ばせる。イギリスは九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲させる。

 ロシアが和平を仲介する。ロシアはの仲介をした見返りとして外満洲をロシア領とする。オホーツク海沿岸全域に及ぶ沿海地方をロシア領であるとするのが帝政ロシア時代からの主張である。

 イギリスで起こった産業革命はベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシアへと波及する。産業革命が近代とそれ以前を区切るようになった。

 阿片を清国に売り込むことを認めさせたイギリスは日本への進出を図る。フランスも同じでありロシアは南下政策によって日本に通商を求る。

第2話。
帝政ロシアの遣日通商使節の2度の来航。

 帝政ロシアは、ラクスマンを第1回遣日通商使節として寛政4年(1792)に派遣する。ラクスマンは通商を促す国書を持参して根室に入港しようとする。幕府は長崎以外に異国船の入港は認められないとして長崎入港の許可書(信牌)を与えただけで、ロシアの国書を受け取らなかった。

 寛政4年(1792)のラクスマンを第1回遣日通商使節派遣から12年後の文化元年(1804)の9月に、第2回遣日使節としてレザーノフが長崎に来航する。ラクスマンに交付した信牌の写しとロシア皇帝アレクサンドル1世の親書をたずさえたレザーノフは翌年3月まで滞在したが、幕府は親書を受けとらずに退去を求める。

 ロシアの第2回遣日使節のレザーノフが、長崎に来航したころにはイギリスは産業革命はそのまっただなかにあった。

第3話
ペリー艦隊来航から15年、桜田門外の変から8年で明治政府が成立する。

 1860年はイギリスがフランスと連合して第二次アヘン戦争を起こして清に不平等条約を押し付けた年である。ペリー艦隊の来航が嘉永6年(1853年)であり、安政の大獄を主導した幕府大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのが安政7年3月3日(1860年3月24日)である。風雲急を告げる二つの象徴的なできごとであった。

 徳川幕府最後の15代将軍徳川慶喜が退位したのは慶応3年12月9日(1868年1月3日)である。ペリー艦隊来航から15年、桜田門外の変から8年で明治政府が成立する。

 アヘン戦争で清がイギリスとフランスに敗れたことを深刻に考える男がいた。9歳にして明倫館の兵学師範となり、11歳のときに藩主の毛利慶親への御前講義をした偉才の吉田松陰である。

 吉田松陰は15歳で山田亦介によって長沼流兵学を伝授される。これによって松陰は山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧をおさめた。アヘン戦争で清を圧倒したイギリス軍の兵器とそれを使っての戦闘方法の威力に震かんした松陰である。山鹿流兵学では西洋列強の軍事力には太刀打ちできない。西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に行く。また江戸にでて佐久間象山と安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵とともに山鹿素水にも学ぶ。松陰は佐久間象山を師と仰ぎ行動もともにする。

 松陰は宮部鼎蔵は嘉永3年(1850年)び北方視察ということで東北を旅行する。文政4年4月23日(1821年5月24日)にあった南部藩士の下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)による南部騒動 (檜山騒動)の襲撃計画現場に足を運ぶ。下斗米秀之進の津軽藩不義をいさめ、北方警備の要を求める行動弘前藩主津軽寧親を襲撃計画がとなった。密告があったために未遂となる。俗にいわれる相馬大作事件である。

第4話
「わが国の百年の憂いをなすものは露国なり」

 帝政ロシアは、寛政4年(1792)のラクスマンを第1回遣日通商使節を送り、12年後のレザーノフによる第2回遣日使節の文化元年(1804)を派遣している。

 ロシアの南下政策が明瞭であることから下斗米秀之進は「わが国の百年の憂いをなすものは露国(なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と説くようになる。このことを実行す津ために1818年(文政元年)から郷里の南部藩福岡に開いていた私塾の兵聖閣(へいせいかく)を開く。兵聖閣には200人を超える門弟が集まった。ここに起居する者も多かった。兵聖閣は吉田松陰の松下村塾よりさきに開かれた地方における学問と武芸の私塾としての道場である。

 吉田松陰の松下村塾は1842年(天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開いたものであり、少年だった松陰も入門した。松下村塾は町民、農民はもちろん、武士に仕えながら卒、軽輩と呼ばれた足軽や中間なども入門できた。藩校の明倫館は士分のためにつくられていた。

第5話
下斗米秀之進の兵聖閣と吉田松陰の松下村塾。

 下斗米秀之進は兵聖閣で、樺太の中ほどに防備帯を敷いてそこに屯田兵の形で駐屯して北方警備に当たるという構想で兵を鍛えた。吉田松陰の松下村塾も新しい時代の軍事行動は国民皆兵のもとでなされると考えた。下斗米秀之進の兵聖閣の開設は松下村塾より24年前のことである。下斗米秀之進と吉田松陰とは32歳差と世代が離れている。下斗米秀之進が享年34にして刑死したこともあって松陰と秀之進に面識はないが共通するところを多い。

 事件現場を訪ねたその詳細を現地の人に聞いた。そして長歌を詠じて秀之進を弔った。吉川弘文館『国史大辞典』に記載の吉田松陰の下斗米秀之進に対する評は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあった」とある。

第6話。
ロシアの南下政策と日本への通商使節の来訪。

 徳川幕府は、鎖国政策によってオランダ以外の西洋諸国に対して国を閉ざしていた。徳川幕府に開国と通商を最初に求めたのは、南下政策によって貿易の拡大と領土拡張を目論むロシアであった。

 帝政ロシア皇帝の国書を持ってラクスマンが寛政4年(1792)に通商を求めて根室に来航する。ロシアの第1回遣日使節である。幕府は長崎以外に異国船の入港は認められない決まりを伝える。そして長崎入港の許可書をだしただけで、ロシアの通商を求める国書はを受け取らなかった。

 ロシアの第1回遣日使節の来訪から12年後の文化元年(1804)の9月、ラクスマンに交付した許可書の写しとロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を持ってレザーノフが、長崎に来航する。ロシアの第2回遣日使節である。レザーノフは翌年3月まで滞在して交渉を求めたが、幕府は親書を受けとらずレザーノフのロシア船に退去を命じた。

 以上のロシア船来航のことは幕府の外交資料集である『通航一覧』や『視聴草』に「異国船来航」の詳細な記事と図が収録されている。

 レザーノフの一行を乗せたクルーゼンシュテルン提督が率いるロシア船は、聖ペテルスブルグの外港から、大西洋を横断し、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎に来航した。

 ロシアにいた漂流民津太夫(つだゆう)ほかが、レザーノフのその船に乗って日本に帰った。津太夫は、寛政5年(1793)11月に石巻港(宮城県石巻市)をでたあとで漂流する。翌年アリューシャン列島のある島に漂着する。津太夫らはロシアに8年滞留する。レザーノフの使節船に日本に出発するのに便乗して日本に帰った。日本へ帰ることができると知ってもロシア残留を希望する者が6名いた。この6名をのぞいた津太夫ら4名が長崎に来航した。『環海異聞』が以上のことやロシアの社会や風俗などを絵入りで記している。

 漂流者の見聞録『環海異聞』(文化4年(1807)成立、全16冊)をまとまたのは蘭学者の大槻茂質(おおつきしげかた、通称は玄沢(げんたく))である。

 レザーノフが乗船したのは世界周航をめざすクルーゼンシュテルン提督の艦隊であった。クルーゼンシュテルン提督の世界周航船は、聖ペテルスブルグの外港を出帆、大西洋を横断し、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎に至る。津太夫らは世界を船で一周したことになり、『環海異聞』の書名もこれに由来する。『環海異聞』には長崎における日露間のやりとりをも記している。

第7話。
ロシア艦隊にも米艦隊にも乗船を企図した吉田松陰の海外事情への強い関心。

 イギリスの産業革命は1830年代にかけて勢いを増していて資本蓄積が進む。産業革命は武器の製造でも分野にも大きな進展をもたらす。武器が発達し大量戦争の仕方は変わる。イギリスが清を相手にアヘン戦争をおこしたのは1840年であり2年の戦いがあって圧勝する。イギリスは新しい武器とその量を用いた。これが第一次アヘン戦争である。

 第二次アヘン戦争を1856年から1860年にかけてイギリスとフランスが連合して戦いこれも圧勝する。

 吉田松陰が生まれたのは文政13年(1830年)8月4日である。吉田松陰は第一次アヘン戦争のときに10歳、第二次アヘン戦争のときに26歳。松陰の没年は安政6年10月27日(1859年11月21日)、満29歳である。安政の大獄に連座し江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄のおりに、松陰は老中暗殺の間部要撃策を自ら進んで話したことによって伝馬町牢屋敷にて斬首刑にされた。

 イギリスと清による第一次アヘン戦争の様子は松陰に伝わっていた。9歳にして明倫館の兵学師範となり、11歳のとき藩主の毛利慶親への御前講義をした吉田松陰である。松陰は15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を学び取っている。江戸時代の兵学に通じていた松陰には伝え聞くイギリスの兵器と戦争の仕方と日本のそれとを突き合わせた。

 兵器が違えば戦い方が違ってくる。このことが松陰をつき動かす。

 皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航したプチャーチン提督は1854年12月21日に日本との間で下田の長楽寺で日露和親条約の締結を実現する。ペリー艦隊が1854年に下田を去って4カ月後のことであった。

 ロシアのプチャーチン提督1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号など4隻の艦隊を率いて長崎に来航していた。長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという知らせを受けて、11月23日の長崎を離れ、一旦上海に向かった。

 吉田松陰の海外の事情への関心が特別に強いのは日本の守りや自身の兵学をつくりあげるためでもあった。そのために外国の事情を視察することが大事であると考えた。

 次のことがそれを物語る。

 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると師である佐久間象山と黒船を見に行く。蒸気船の威力とその大きさに感じたことであろう。宮部鼎蔵に書簡を送ってった書簡には「聞くところによれば、彼らは、来年、国書への回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されている。これは攘夷思想の発露である。

 佐久間象山との話し合いのなかで松陰自身が外国に渡って西洋文明の姿を見聞することを決意する。

 ペリーに遅れること1ヵ月半後の1853年8月22日(嘉永6年7月18日)に、ロシアのプチャーチン提督は旗艦パルラダ号など4隻の艦隊を率いて長崎に来航し日露和親条約の締結を求めている。プチャーチン提督の艦隊はヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したために予定を繰り上げて長崎港を出航する。

 吉田松陰はプチャーチン艦隊に同乗して欧州に渡る決意で足軽の塾生の金子重之輔と準備をしていたが、予定を繰り上げて長崎港を出航したためにこれができなかった。

 プチャーチン艦隊に同乗して欧州に渡ることができなかった松陰は、嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結のために再来航したときに、同じことを実行する。金子重之輔と二人で、小舟で旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船する。幕府からは渡航の許諾は得られず伝馬町牢屋敷に投獄される。幕府では佐久間象山と吉田松陰を死罪にする動きがあったが老中の松平忠固と老中首座の阿部正弘の配慮により松陰は国許蟄居となった。

第8話
軍艦や大砲を備え軍備を固め、蝦夷の地に諸大名を封じ、カムチャッカを奪い取る。

 松陰は密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記している。

 『幽囚録』では、勢いが盛んであった皇朝の歴史に触れ、蒙古襲来など「古来三度の変動」を説き、「外国人の前に膝を屈し、首をたれて、そのなすがままに任せている」現状を歎き国勢の衰えを示す。「下田米艦密航については、机上の空論に走り、口先だけで論議する者たちと組することはできず、黙って坐視していることはできないので、やむにやまれぬことだった」とする。「日本書紀」の敏達天皇の件(くだり)を提示しながら外患の問題打開の方策を述べる。松陰は兵学校の設置、艦船の建造、参勤交代の艦船利用、蝦夷地の開拓などを説く。明治維新の「富国強兵」の考えがここに示されている。

 吉田松陰の考えは次ぎによって簡潔に示される。中公クラッシック「吉田松陰」からの抜粋である。

 「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう」

第9話。
日米修好通商条約調印と安政五カ国条約。

 ペリーの浦賀来航は米国の産業革命の進行にともなって機械の潤滑油としてマッコウクジラの脂をとることが一つの目的であり、伊豆沖と北洋における操業のための水や食糧を 調達するためであった。ペリー艦隊の大きな蒸気船が走る姿をみただけでも日米の国力の差は明瞭であり。欧米に大きく立ち後れの原因が徳川幕府による幕藩体制にあるとう考える者は多くなる。

 安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれたのがての日米修好通商条約である。江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名がなされている。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠してハリス条約(Harris Treaty)ともいう。日米修好通商条約の内容は日本に不利な不平等なものであった。この解消は日清戦争に後の1899年(明治32年)7月17日まで待つことになる。

 日米修好通商条約調印のおりの幕府大老は彦根藩の藩主井伊直弼である。

 幕府は安政5年6月19日(1858年)に日米修好通商条約調印したのにつづいて、7月10日に日蘭修好通商条約、7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約、9月3日に日仏修好通商条約に調印する。安政5年(1858年)の安政五カ国条約と呼ばれる。1860年ポルトガル、1861年にとも同様の条約を結んだ。そしてこれらの国に文久遣欧使節が派遣された。

 スイスとは1864年に、ベルギーとは1866年に、イタリアとは1866年に、デンマークちは1866年に条約が結ばれる。明治になってからは1868年にスペインと、1868年にスウェーデンおよびノルウェーと、1869年にオーストリア・ハンガリーと条約を結ぶ。

第10話
安政の大獄と吉田松陰の刑死。

 安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて幕府への批判勢力へ行なった大弾圧である。

 日米修好通商条約調印に際して勅許を得なかったと非難する勢力への弾圧である。また将軍世継ぎをめぐっての対立があり、大老井伊直弼や老中間部詮勝らは徳川家茂を将軍にすることに反対した一橋派の大名や公卿への政治弾圧であった。

 政治弾圧は大老の井伊直弼によって命令された。徳川慶勝、松平慶永、徳川斉昭そして一橋慶喜に対しては隠居謹慎命令、徳川慶篤には登城停止と謹慎命令であった。

 尊皇攘夷思想をうちかためた吉田松陰は無勅許で日米修好通商条約を締結した幕府に条約破棄と攘夷の実行を迫る決意を固める。老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、容れられなければ討ち取るという策である。武器弾薬の借用を長州藩に願い出るも拒絶される。松下村塾で教えたの久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎らは自重をうながした。

 松陰は幕府が日本最大の障害になっていると倒幕を唱えるようになっていた。長州藩からは危険視され、てふたたび野山獄に幽囚される。松陰は伝馬町老屋敷に移された。そこで襲撃計画を自ら進んで話したために死罪になり処刑される。

第11話
兵学を修め、学問にも通じ、剣でも長じていた下斗米秀之進と吉田松陰。

 下斗米秀之進は、寛政10年(1798年)の生れである。文政4 (1821) 年に義を通すことと北方警備の要を求めることが高じて弘前藩主津軽寧親を襲撃する計画が未遂におわる南部騒動 (檜山騒動)により文政5年(1822年)8月29日、死罪により処刑される。享年34。下斗米秀之進は下斗米秀之進将真(まさざね)ともいう。世に聞こえる別名は相馬大作。

 吉田松陰は文政13年(1830年)8月4日の生まれ。その行動と生涯はさきに触れた。東北方面の視察をしたおりに松陰は檜山騒動の事件現場を訪ねて下斗米秀之進の行動は「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあった」と結論づけている。

 幕府の使者である老中首座の間部詮勝が孝明天皇に弁明のため上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという襲撃を計画するが実現しなかった。この咎(ちが)によって安政6年(1859年)10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑にされる。享年30(満29歳没)。

 兵学を修め、学問にも通じ、剣でも長じていた下斗米秀之進と吉田松陰は産業革命によって国力を急激に高めている欧米と日本の差を憂えていた。義と国防を訴えるあまりの要人への果たし状を懐にして襲撃することも同じであった。あまりに似ている二人である。

 二人の歳の差は32。下斗米秀之進が刑死は享年34。吉田松陰は安政6年(1859年)10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑にされる。享年30(満29歳没)。

第12話
兵国際度量衡委員田中舘愛橘と農商務省権度課長高野瀬宗則。

 下斗米秀之進と吉田松陰の二人の縁に通じるのが明治時代において日本と世界で度量衡とメートル法の普及のために国際度量衡委員として活躍する南部藩士族の田中舘愛橘であり、彦根藩士族でり日本の度量衡制度をつくりあげる農商務省権度課長の高野瀬宗則である。

 田中舘愛橘の祖母は下斗米秀之進の姉であり、祖父はまた下斗米秀之進の私塾である兵聖閣の共同運営者であった。農商務省権度課長の高野瀬宗則の父は大老井伊直弼が桜田門に倒れたおりに国許へ急報の使者となった。

 田中舘愛橘より高野瀬宗則は少しだけ年長であるが同じころに東京大学理学部を卒業していて、ともに母校で教鞭をとっていた。高野瀬宗則は日本の度量衡制度をつくるために農商務省に喚ばれた。田中舘愛橘はイギリスに赴いてラスゴー大学教授のケルビンに師事して帰国して東大理学部教授に就任する。このころの東大理学部の卒業者は10人ほどの人数であった。東大全体としても100人ほどであった。

 田中舘愛橘は日本を代表して理学関係の国際会議に出席することが多く、そのうちに日本人最初の国際度量衡委員に選出されて、その後も長く国際会議の場で活躍する。

(つづく)

(書き殴って読み返しておりません。調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください。横田俊英)

【上の本文とは関係ない余録です】

 『すばる』2月号(08年)の古井由吉氏の講演文書を面白く読んだ。

 古井氏は71年に芥川賞と受けている。大学教員が文学賞を受賞するというのは何だか詐欺のように思えるのだが、その後の作家家業は決して平穏ではないと察しはにつく。古井氏は午前10時に起きて馬事公苑を散歩して、午後5時まで嫌だ嫌だと思いながら書き仕事をして、その後散歩にでて晩酌をして本を読んで午前1時か2時に寝る。大学のドイツ語の教員をしていれば大きな業績を残そうとしなければもっと楽に過ごすことができたことだろうから。

 「夜に書いたものは、書いている時はたいそう高揚して感じられるけれど、昼になって読み返すとロクなことはない。そういうことに何度かこりているわけです。だから夜はたいてい読んで過ごす。これこそ悠々自適の閑暇の時です」と述べている。

 私たちのアイディアも少し間をおいて考え直してみないと地に足が付いたものかどうか判別しがたい。

 話しが飛ぶと「作家にとって体調を保つことはスポーツ選手にとってと同じくらい大事なこと」だという。そして「同じ文学でも詩と小説とは違って、詩人がやっていることは細き手の技だけれど、小説はいわば土方仕事」だともいう。

 小説は「なにしろ手続きが多い。たちまち読んで過ごしてしわまれるようなことでも、その経緯などを踏んでおかなくてはならない。物を積んだり、地面を掘ったりするのと、同じこと、つまり肉体の力が要るのです」ということだそうだ。

 馬事公苑を散歩する古井由吉氏と同じその場所を犬を連れて毎日散歩する知人がいるということも興味深いことではあるものの、私の知人は氏のことは知らないことであろう。

第64回芥川賞[昭和45年下半期(1971年1月18日 受賞発表)]
古井由吉 [受賞時:33歳]作品は『杳子(ようこ)』

(執筆 横田俊英)

(書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)

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