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日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-
apanese dog Jomon dog Yayoi dog Modern Japanese dog Wolf database of notebook

日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-
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日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-

犬の骨格図。全身骨格図奈良県文化財研究所による。


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日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース-雑記帳-

(本文)

ttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4760/
化石からイヌの家畜化の歴史が判明?
2011.08.22
シベリアで発見されたイヌの頭骨の化石。
Photograph courtesy Yaroslav Kuzmin, PLoS ONE
 ロシアで発見された化石から、3万3000年前のイヌの詳細が明らかになった。1970年代にロシアのシベリア南部、アルタイ山脈で見つかった保存状態の良いイヌ科動物の化石が、最古の“飼い犬”である可能性が出てきたという。 家畜動物として最も長い歴史を持つイヌは、1万4000年前までの化石が多く、2万6500年前を境に発見がほぼ途絶えている。約2万年前にピークを迎えた最終氷期極大期と重なり、氷床が最も拡大していたためと考えられている。
 記録が少ないため、オオカミがイヌに枝分かれした時期や過程についてはほとんど解明されていない。 「われわれの研究が重要な意味を持つ。好条件に恵まれていた」と、研究の共同責任者であるロシア科学アカデミー・シベリア支部(所在地はシベリア南部の都市ノボシビルスク)のヤロスラフ・クズミン氏は話す。
 今回の化石の種は絶滅しているが、完全に家畜化されたイヌの先駆けとなる特徴をいくつか有している。
◆イヌの起源は一カ所ではない?
 クズミン氏のチームは3つの研究施設で放射性炭素測定を行い、イヌの頭骨とアゴを分析。すべての施設で同じ分析結果が導き出され、化石の年代は約3万3000年前と確定した。
 発見されたラズボイニクヤ洞穴(Razboinichya Cave)では、焼かれた小枝も発見されており、なんらかの目的で狩猟採集民が住んでいたらしい。イヌの死因は明らかになっていないが、彼らに飼われていた可能性が高いという。
「洞穴内は気温が非常に低く、非酸性の土壌が化石の良好な保存状態に影響したのだろう」とクズミン氏は付け加える。
 研究チームはこの化石を、最終氷期極大期以前に生息していた野生オオカミ、現代のオオカミ、現代のイヌ、2万6500年前より古い初期のイヌ科動物と比較した。
 外見の比較では、体重と骨格はグリーンランドのそり引き犬、容貌は現代のサモエド(シベリア原産の原始犬に近い犬種)に似ていたらしい。
 一方、化石のイヌは、オオカミのような鋭い歯をはじめ、祖先種の特徴がいくつか残っている。家畜化の程度は低く、しかも古代や現代のオオカミ、ロシアの他地域に住む犬種との類似点もない。
 つまり他の犬種から派生したのではなく、独自の進化を遂げて人間との関わりを持ちはじめた可能性が高い。過去のDNA分析の結果から、イヌの家畜化は東アジアに起源を発するという説が有力視されていたが、他の地域にもその可能性が出てきた。
◆好奇心旺盛なオオカミからイヌへ
 研究の共同責任者に名を連ね、カナダのビクトリア大学で人類学と動物考古学を専門にしているスーザン・クロックフォード氏によると、イヌ科動物の家畜化は、石器時代の人々が住居の周囲に捨てた食べ残しを目当てに、好奇心旺盛なオオカミが接近したことがきっかけだと言う。
 研究チームによると、同様の現象はヨーロッパや中東、中国でも見られる。
「オオカミは人間の近くでうまく生活することを覚えると、成長過程を変化させる。やがては繁殖パターンや体の大きさ、骨格の形状の変化につながり、イヌとなる」というのがクロックフォード氏の見解だ。
「イヌはオオカミよりも体格が小さく、頭骨の幅が広い。一度に産む子どもの数も平均するとオオカミより多い。好奇心旺盛で人間をあまり恐れない“先駆者”のオオカミたちが仲間同士で交配を繰り返し、その特徴を強めていったのだろう」と同氏は話した。
◆家畜化は複雑なプロセス
「しかし、アジアやヨーロッパでのイヌの家畜化に関しては、次々と新しい種が生まれては絶滅しており、非常に複雑なプロセスのようだ」とクズミン氏は述べる。
 例えばロシアで発見された今回の種は、氷河時代の進行に伴い、狩猟採集民が食料を求めて行動範囲を広げたことが原因で絶滅した可能性が高いという。
「オオカミは同じ場所に数十年留まっていないと、完全に家畜化されないという学説もある」。ミズーリ大学コロンビア校の人類学者R・リー・ライマン氏は、「動物の家畜化はたった一回の“事象”では説明できず、一連のプロセスとして考える必要がある。遺伝子が変化し、野生の祖先種から家畜化された種に進化するためには、長い時間がかかる」とメールでコメントを寄せている。「この研究は、考古学者が見落としがちなこの点を際立たせている」。
 研究の詳細は、「PLoS ONE」誌で7月28日に発表された。
Photograph courtesy Yaroslav Kuzmin, PLoS ONE
文=Christine Dell'Amore

http://digx.hatenablog.com/entry/2016/05/10/195801
2016-06-08イヌの起源 「オオカミ、ヒトに出会う」犬遺伝学生物
最古の家畜 イヌ
 イヌは文句なく最古の家畜である。
 そしてその起源は、家畜の中でも桁外れの数万年(もう一桁多い予測もある)という単位が出てくるほど古くまで遡ってしまう。
 そしてその古さ故に、家畜としてのイヌの起源の追及は、人類の移住の歴史とも関わってくる。
 実は、出アフリカ民である日本の縄文人の祖先と無関係な話で済まないほど、というか、現生人類が世界中に拡がった人類史との関係性を持つほどに、イヌの起源は極端に古いのだ。(イヌもおそらく一万年以上前から日本列島にいて、いつ誰が連れてきたかが問題となる)
 今回は、ここ数年イヌの起源にまつわるニュースが錯綜していることもあり、結局今はどのような判断になってるのか、まとめてみることにした。
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 左:柴犬 右:ニューギニアシンギングドッグ 今回断りのない画像の出典はすべてwikipediaのCC0。
 まずは基礎知識を書いておこう。
狭い意味のイヌであるイエイヌ(英語でdomestic dog。学名Canis lupus familiaris)は、すべての犬種が、タイリクオオカミ(別名ハイイロオオカミ。学名Canis lupus)を家畜化したもの。
タイリクオオカミがアフリカにいないため、少なくともイヌはユーラシア起源だと考えられている。で、詳しい場所を追及すると、中国・東南アジア・インド・中東・中央アジア・ヨーロッパと、いろいろな地名が登場することになる。
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 オランダの動物園のタイリクオオカミ (Canis lupus lupus)。By Warsocket
オーストラリアなどのディンゴ(学名Canis lupus dingo)はイエイヌが再野生化したものと考えられていて、オーストラリアに現れたのはせいぜい5000年前ぐらいのようだ。
ニューギニア・シンギング・ドッグ(トップから2枚目の写真)*1もこのディンゴの一変種で、学名でもDingo。
同じようにこのディンゴと同類とされるイヌに、タイ・リッジバック・ドッグ(タイ)やプー・クォック・リッジバック・ドッグ(ベトナム)もいて、この東南アジアあたりがディンゴ類の起源だと考えられている。
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 ディンゴの子供
イヌの起源論には、一つの大きな障害がある。イヌと、近縁のイヌ属のオオカミ(ユーラシア・アメリカ)・コヨーテ(アメリカ)・ジャッカル(インド・中東・アフリカ)・リカオン(アフリカ)・ドール(ユーラシア東南部)などは(もちろんイエイヌと変わりのないディンゴ類も含めて)染色体の本数も同じで相互に遺伝的に交配可能であり、その子供も子孫を残すことができるのだ。
犬種(サイズとか)にもよるが、イヌとオオカミがもともと自然状態でも交配可能であり、実際に世界各地で交配があったと見られることは、イヌの起源の追及を難しくしている。DNAを調べて関係が近いという結果が出ても、それはお互いに後の時代の交配の影響だと考えられるからだ。実際、ヨーロッパのオオカミとヨーロッパのイヌが近いだとか、中国のオオカミと中国のイヌが近いということが、現状として同時に起こっているわけである。
(なお、日本などには意図的にオオカミと猟犬を交配させたという、いくぶん伝承的な話もあったりする。紀州犬にも伝承がある。派生して村上和潔さんの話だとか)
イヌとオオカミなどが生殖的に隔離された種ではないため、その境目をどこに置くかも問題となる。何を持ってイエイヌがオオカミから分かれたことになるか、家畜化されたというのはどういう状態を意味するのか(これはイヌ限定ではない家畜化の定義問題)、基準をどこに置くかも議論となるわけだ。(もちろん基準次第でその起源地も変わってくることが大いにあり得る)
するとイヌの起源は、(これは個人的な予測ではあるが)ストーリー展開のある起源譚となると考えられる。イヌの起源譚は、ヒトが出アフリカした後で、中東でタイリクオオカミと始めて出会い(おそらく始めて出会った場所に関しては異論がない)、○○で何が起こり、○○で何が起こったとか、最終的にイエイヌはデンプンを消化する能力も持っている(これは農耕開始以降のことだと考えられる)だとか、いろいろな変化を並べ立てていく必要があると考えられるのだ。
(実は、ネアンデルタールなどがイヌの起源と関係している可能性もある。タイリクオオカミの側から見れば、現生人類以前にネアンデルタールのような化石人類と出会っているはずなのだ)
イヌの場合も、まず、オオカミがヒトのすぐ近くで生活を始め、ヒトの作り出した世界にある程度適応する(生態と形態が変わる)という家畜化の前段階があったはずである。
(これは家畜だけでなく、ネズミ・スズメ・カラス・ゴキブリ・シラミ*2などヒトの近くに棲む動物すべてが該当する。だからこの段階を家畜化と表現することはないだろう。そして実は、ネコはこの「ヒトの近くで自由に獲物を捕り、自由に繁殖していた」状態が長かったと考えられ、家畜化の定義を難しくする動物となっている。ネコは「ヒトが意識的に家畜化したのでなく、ネコが自らヒトの作り出した世界に適応して、結果的にヒトと共生する道を選んだ」と考えられるのだ)
オオカミ(ヒトを怖れることを知らない子供だったかも知れない)は、まずヒトの食べ残し(ゴミ)を狙って、オオカミの側からヒトに近づいたと考えられている。最古の家畜であるイヌの場合もネコのように、自らヒトの作り出した世界に適応することから始まっていると考えられているのだ。(ヒトが意識的に家畜化を始めるのも、このような無意識の家畜化の経験を経てからではないだろうか?)
人間は犬に飼いならされた? | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
 基本的にわれわれは、進化における適者生存について最も強く優勢な種が生き残り、脆弱な種が滅びると考えがちだ。ところが、ほとんどの犬種はぜい肉を落として競争力をつけたのではなく、人なつこさが決め手になった。
 最も可能性が高いのは、人間からオオカミにアプローチしたのではなく、オオカミが人間にすり寄ったという説だ。おそらく、人間の居住地の隅にあるゴミ捨て場をあさることがきっかけになったはずだ。勇敢だが攻撃的なオオカミは人間に殺され、大胆で人懐っこいオオカミだけが受け入れられた。
f:id:digx:20160509133703j:plain  オオカミの子供。©2011-2016 woxys
次は日本のイヌについて。
日本で最古のイヌの骨の出土例は、奈良文化財研究所骨データベースによれば、「約1万年前の神奈川県夏島貝塚の縄文時代早期初頭の貝層から出土したのが最古で、やや遅れて佐賀県東名遺跡や愛媛県上黒岩岩陰遺跡から」
夏島貝塚。骨が少ししか出ていないため分析できないようだ。市のサイトなど公式的なところを探してもwikipediaを見てもイヌの骨への言及が出てこない。
東名(ひがしみょう)遺跡。たくさんの骨が出土。飼育されていたと考えられている。DNA解析で現生の柴犬・秋田犬・紀州犬・琉球犬に認められるタイプの遺伝子の組み合わせが確認された(つまり、後のイヌが持つ変異マーカーが出た、現在の日本犬と共通する系統)、という。
上黒岩岩陰遺跡。イヌが埋葬されていたとわかる日本最古の例。
ちなみに、イヌの骨は、琉球の古人骨が見つかった旧石器時代の遺跡からは未だに出てきていないようだ。出てきていればどこかに記述が見つかるはずだから。
縄文時代以前のイヌは縄文犬と呼ばれる。大きさはちょうど柴犬と同じぐらいだが、額の形などに違いがある。(ただしディンゴの頭骨と似てるし、柴犬の顔の変化は子供の顔に似てるし、その顔立ちの変化ってペット化が進んでヒトが可愛い顔を選んで幼形成熟した、人為選択による変化ではないかと思うのだが。ディンゴとオオカミの子供の写真を参照してほしい)
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 左は東名遺跡の記事より。右はwikipediaにあったディンゴの頭骨。額の角度に注意。
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 絶滅した日本のオオカミの遺伝的系統より。http://ci.nii.ac.jp/naid/10030556934
 縄文犬のサイズは柴犬やニューギニアシンギングドッグ(トップの写真で並べた二種)と同じぐらい。
 なお、秋田犬はエゾオオカミよりは小さいが、日本犬で唯一の大型犬種となっている異例の存在。
ただし、イヌの骨も人骨と同様に日本の土壌では分解されてしまうため、基本的に古い物が出てこない。だから、実際に日本列島へのイヌの到来がどこまで遡るかは定かではない。(今のところ旧石器時代の琉球から出てこないことが非常に重要か)
日本犬は遺伝的にタイリクオオカミに非常に近いことで知られる。(日本犬が交配していたと考えられるのはニホンオオカミであり、ずっと昔にタイリクオオカミから海で切り離された種だったのだが)
柴犬は遺伝的にもっともオオカミに近いイヌだったという次のグラフは、犬好きには有名だと思われる。(秋田犬も三番目にいる。秋田犬は日本犬の中でも交配によって大きくしたイヌだがそれでもこんな位置に来る。ただし、ディンゴなどリストにないイヌがたくさんいることに注意)
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 犬が持つ4つのDNA情報を分析し犬種ごとに分類するとこんな感じになる - GIGAZINE
 元ネタHow to Build a Dog - Family Ties - Pictures, More From National Geographic Magazine
 この記事は2012年だが、元にされた研究は2004年に遡る。Genetic structure of the purebred domestic dog. - PubMed - NCBI
 最後のグラフに関わった人たち(Heidi G. ParkerとElaine A. Ostrander)には、2010年の別の論文もある。
 Man’s Best Friend Becomes Biology’s Best in Show: Genome Analyses in the Domestic Dog
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 このグラフで見て欲しい場所。
オオカミもちゃんと地域別に見ていることが重要。(オオカミが残ってないせいもあって脱落している地域もあるし、適当なヨーロッパ特有要素はなかったのかと思うが)
オオカミ側にもイヌからの遺伝要素が入っているとわかる。(たぶん、イヌの存在の歴史が長くて数量もあるところの方が混ざりも多くなるんだよ。数学的に考えれば)
中東のオオカミには犬要素が多くてアジア要素も入ってるのに、中国オオカミに中東要素はない。アジア東方と中東の間で移動があったのか、逆に中東要素の一部だけがアジアに移動して繁栄しアジア要素となったのか。(だから間のインドとか東南アジアが気になる。中央アジア側の影響は薄いから、南方ルートであるはずだし、人類史を踏まえても、アジア要素の真の起源地である可能性がある)
ところが犬はオオカミと逆だ。アジア要素は他の地域の犬にそれほど広まっていない。しかし東アジアの犬には中東要素が入ってる。しかも秋田犬もアラスカン・マラミュートもエスキモー犬も。(エスキモー犬はむしろ新しい犬種に似てるし、アジア要素も少ないし、西からシベリア経由かもしれないが)
しかしディンゴとニューギニア・シンギング・ドッグ(NGSD)は中東要素が薄い。中東要素はいつどんなルートで移動したのだろう?
個人的なイヌの起源の想定シナリオ。
家畜化初期(最初は家畜化の前段階に当たる)のイヌの先祖において、東南アジアで発生したアジア要素の中東への移動があった。(人類も氷河期に東南アジア中心で人口の増えた時期があったため、そのタイミングに当たると見る。ヒトY染色体ハプログループでは、世界に広まっているCおよびPQR集団あたりが鍵。ただし、初期のオーストラリア移住者などがイヌ類を伴っていないことに注意。西方向は犬の存在証拠が古いんだけどね)
しかしイヌはその後中東を中心に発展。後の時代にその犬種が世界へ広まる。
ディンゴ類は、その移動は比較的遅かったが、中東の影響を受ける前の古い犬種だった。
ミトコンドリアによる人口変化の予測http://mbe.oxfordjournals.org/content/25/2/468.long
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(縄文犬はどちらだったのだろう。中東の影響があるか、ディンゴに似ていたのかが、移動時期や中東犬種の広まり時期の問題に関わる。交配の多い秋田犬より縄文犬に似た柴犬を調べて欲しかったな。……いや、それより古い骨自体を調べるべきか。日本は、ニホンオオカミも古くに大陸から切り離された種だったわけだし、結構この犬の問題にとって重要な情報を秘めてるはずなんだよ)
(それと、どの時点で・どの場所でイエイヌとなったかの解答は、定義をどうするかの問題となる。ディンゴ類をイエイヌと認めるなら、この解答は東南アジアかインドになりそうだが、ここで、縄文犬がディンゴに近かったかの問題が出てくるわけ。縄文犬がディンゴに近いなら、東アジアも候補に入るのだ。つまり、日本犬の研究者頑張れってことです。何も言わないと、欧米の研究者は日本犬としては異例の秋田犬しか調べないぞ)
 では、ここ最近の起源論争に関係するニュースを書いていこう。
 (実はいくつかのニュースは、イヌの起源の議論の流れを踏まえずに書かれた、あおりのようなニュースであり、ここまでに書いてきた知識に、新しい情報や判断を付け加える物ではない場合もある)
2011年8月
まずは「イヌ科動物」(原文canine)という表現が曲者。イヌ科だとキツネまで含んでしまうし、イヌ類だとしてもイヌだけを指さずオオカミなど近縁種をすべて含む表現であり、これをイヌと訳してはいけないのだ。
しかも「家畜化の程度は低く、しかも古代や現代のオオカミ、ロシアの他地域に住む犬種との類似点もない。つまり他の犬種から派生したのではなく、独自の進化を遂げて人間との関わりを持ちはじめた可能性が高い。」とも書いてあるわけだ。
この家畜化的な形態変化は、ヒトの作り出した世界への適応による、ヒトのまわりに棲む動物一般に存在する適応変化ではないかと考えられる。(むしろ、動物の変化を調べることでヒトの歴史がわかる、という事実のほうが重要かも知れない。その時期のヒトの存在証拠になるのだから)
2013年11月
これは、ヨーロッパのオオカミとの近さを調べていることが問題だった研究。
イヌとオオカミが各地でそれぞれ交配してる=比較すれば同じ地域のイヌとオオカミが近いだろうというのは、両者が交配できることのわかった時点で既に予測されてたことなのだ。
それに、ニュースの見出しの末尾が「?」とか「か」で終わるのは、そんなに信頼できるニュースじゃないのだよ。
2015年2月
これはイヌの祖先の物だとされていた骨が、オオカミのものだったという研究。(ただし論理としては、イヌの祖先であることを否定したわけではない)
最古の証拠は15000年前だという言い方からすると、ここで直接否定している骨だけでなく、この年代より古いイヌの証拠だとされるすべての骨が、実際はまだイヌとは言えないオオカミの範疇だと主張しているようだ。
ここにはイエイヌの定義の問題も絡んでくるところ。確かに、イエイヌは穀物を食べ消化できるようになってから、その形態も適応によって大きく変化してるはず(ヒトと同じように!)で、ある程度の真理は突いているだろう。最終的には「定義の問題」だけれど。
これより前にこんな話もあった。2013年。
イヌとヒトは共に進化した | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
 シカゴ大学を初めとする国際研究機関から集まった研究者らは、ヒトとイヌの遺伝子を調べ、複数の遺伝子グループが何千年にもわたり並行して進化していたことを発見した。これら遺伝子は、食事や消化、そして神経学上の作用や疾病などに関連するものだ。
 研究によれば、ヒトとイヌの並行進化は環境の共有によって起きた可能性が高いという。
この記事には「イヌの家畜化が始まった地域について、中東という従来の推定と異なり東南アジアとする」というのもある。ヒトの近くに棲むことによる適応を「家畜化の始まり」としているわけ。
2015年10月 (このへんからがニュースのメインディッシュ)
これは飼育犬種じゃなく、各地の"Village dog"(そこらへんの無名のイヌ)を中心に調べたもの。ボルネオ(インドネシア)のイヌのように明確に名付けられていないが気になる存在(ディンゴ類と推測できるが)もいたり、他の論文で見たことのないデータもあって面白い。
しかし何よりも気になることがある。それはこの論文の言う中央アジアが、ネパールとモンゴルであること。なんでそんなユニークな地域分けしちゃうかな……この研究、実際にはネパール起源説と呼ぶのが妥当。(まあ、生物学の専門家は地理学の専門家じゃないんで、地域分けは気をつけなくちゃいけない。なんでそんなところで地域を分けてるんだよってことがたまにあるので)
それと、古い者ほど周囲に散るように移動し、僻地に残る現象を考えると、結局は比較的普通のインド周辺起源と考えることも可能ではなかろうか。後の時代の動きの激しいところは、古い者がかき消されて残らないわけで。
以下の図は論文から。Genetic structure in village dogs reveals a Central Asian domestication origin
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 ネパールが中央アジアになってることに、この図で気づいた。(インド集団が散っているため、インドの延長にも見える。というか地理的にそう見るべきだと思うのだが。あとは、ブータン・チベット・ミャンマー・ラオス・雲南あたりの、「アジアを舞台とした起源問題で、結局いつでも問題になってるインドと中国の間の地域」+αを調べるとどうなるか、か)
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 この図を見ると、ネパールとモンゴルをまとめたくなる気持ちがわかる。
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 こっちの図だと、起源地はインドから東南アジアという定番の解読になると思われる。
2015年12月
ヘッダーは中国と書いてあって違う地域のように見えるが、実際は「東アジア南部(英文だとsouthern East Asia。これほとんど東南アジアだよな)のどこか」と書いてあって、結局上の記事でも問題になった中国西南方面の、インドとの間が気になる話になっている。(これもミャンマーとかは調査してない)
なお、これも中国の"indigenous dog"(無名の地イヌ)を調べてる。
以下の図は論文から。Out of southern East Asia: the natural history of domestic dogs across the world
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ま、結局最近本命として意識されてるのはどの論文も東南アジアだと思われる。ただし、この段階は家畜化ではなくてその前段階の適応状態に当たるだろうけれど。
起源論でいつも問題となる、インドと中国の一部も含む東南アジア(インドシナ)地域。(イネ・ソバ・サトイモ・茶・蚕・ニワトリ・ブタなど*3)
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NOAAのBathymetric data viewerの画像を使用し、自分で日本語の地名を追加。
なお、照葉樹林文化論に雲南省を中心とした地域を指す東亜半月弧という言葉がある(この地域は日本人学者が得意とするフィールドだ)が、古い起源問題を追及する場合は、もっと南寄りか高度の低い別の地域を意識することが多くなる。
考えているのが氷河期ならば、当然その寒さによる気候環境の変化を考慮する必要があるからだ。
(チベット高原などの高地は山岳氷河も発達した不毛の大地となるため、後のチベット人など高地に住む民族や野生動物たちも、もう少し環境の良い場所にいただろう。まあ、現生人類はデニソワ人を不毛の高地に追いやって滅ぼしてしまったかも知れないが)
(気候が寒くなる→山の周辺で快適に過ごせる場所が減って、ヒトと動物たちの集中と出会いと衝突が多くなる、といった想定をするのも一興。氷河期が終わると今度は海が上昇して陸を呑み込むが)
ついでにもう一つ。2016年3月。
12460年前(やけに細かい数字だ)のシベリアのイヌは何を教えてくれるのだろう?
6月追加の新しいニュース。遺跡の骨と地イヌ(インドと中国に、チベットとベトナムが加わってる)の研究。
産経の記事はwiredだからこんなところか。
よくあることだが、だんだんサイエンスマガジンの元の記事と違うニュアンスになってるから、そこはツッコんでおく必要がある。
そもそもヨーロッパとアジアだけで家畜化されたと言ってるわけでなく、家畜化が一度きりでなく、アジア以外でも独自に家畜化されたのではないか、という主張なのだ。
さらに元の論文もサイエンスにある。
Genomic and archaeological evidence suggest a dual origin of domestic dogs | Science
タイトルに"dual origin"という、なんだか日本人の見慣れた言葉が使われていたり。
サイエンスの記事でSavolainen先生(2015中国起源説)とWayne先生(2013ヨーロッパ説)がコメントしてる。Wayneは「まだ答えは混沌としている」、Savolainenは「素晴しいデータだが、1000年だと誤差の範囲」「ヨーロッパの古いイヌのルーツもアジアの可能性がある」(意訳)みたいなことを言ってる。
これはSavolainen先生のおっしゃる通りで、こういう年代は誤差が結構大きいためそれほどはっきりしたことが言えず、古いヨーロッパ犬種のルーツがどこか指し示す情報が発見されたわけでもないわけだ。
それにこの問題は、どこからイヌとするかの定義次第で答えが変わるため、決着が難しいところもある。イヌ化の始まったイヌの祖先が、各地に拡がって各地で飼育され始めたとすると、イヌの基準の置き方次第で答えも変わってしまうのだ。

よみがえる縄文犬 〜人と犬の関係史〜 石川県立歴史博物館
 当館の第1展示室に入ると、最初に縄文時代の犬が迎えてくれます。この縄文犬は、七尾市三み引びき遺跡から出土した約7000年前の犬の骨にもとづいて復元しました。歴史博物館なのに犬の展示?と疑問に思う方もおられるかもしれませんが、犬は人と関係の深い動物なので、犬の歴史をひもとくと、人の歴史も見えてきます。犬は、人がオオカミを飼いならした動物で、その起源は約3~2万年前にさかのぼり、最も古い家畜と言われています。日本では縄文時代に現われますが、大陸から人に連れられて渡ってきたと考えられています。三引遺跡の縄文犬の復元を監修していただいた茂原信生氏(しげはらのぶお、京都大学名誉教授)の分析によると、この遺跡の犬は体高(肩までの高さ)が41cmで、現在の柴犬より少しだけ大きいことがわかりました。体の大きさは柴犬に似ていますが、縄文犬の骨は太く頑丈です。頭骨をみると、額ひたいから鼻にかけての段差が小さく、鼻筋がとおる顔に復元され、祖先のオオカミに似ています。こうした特徴は、他の遺跡で見つかる縄文犬の骨と一致しています。
 縄文時代(約15000~2900年前)は、主に狩猟採集を生業としていた時代で、犬はシカやイノシシなどの狩猟の際に獲物を追い込むなどの役割を果たしていたと考えられています。三引遺跡では特にシカの骨がたくさん出土しているので、シカ猟が盛んだったようです。縄文時代の人びとは、狩りのパートナーとして犬を大切に飼っていたようで、遺跡から犬の墓が見つかることがあります。亡くなった犬をしのんで、丁重に埋葬してあげたのでしょう。
 縄文時代には、犬は猟犬として大切にされていましたが、弥生時代になると、人びとは犬を食べるようになりました。弥生時代以降の遺跡からは、刃物で肉を刻んだ解体痕を残す犬の骨が見つかるようになります。弥生時代に朝鮮半島から水田稲作が伝来し、米食とともに、犬を食べる食文化も伝わったと考えられています。また、弥生時代には、農耕が定着することによって食料を生産するという考え方が広がり、犬もブタと同じように食肉用の家畜とみなされるようになったようです。犬にとっては受難の歴史ですが、人と犬の関係は時代の移り変わりに応じて変化してきたのです。
 愛玩用のペットとして犬を飼うことが広がったのは、江戸時代になってからです。外国から洋犬などの外来種が輸入され、グレイハウンドや狆ちんなど、大小さまざまな犬種が
飼われていました。「唐とう犬けん」や「南なん蛮ばん犬」と呼ばれた外来犬は、特に大名たちに人気があり、長崎のオランダ商館などを通じて輸入された犬が大名の間で贈呈されたり、将軍へ献上されたりしていました。1634(寛かん永えい11)年、加賀藩主の前田光高も、三代将軍の徳川家光南蛮犬を下賜(かし)されています。
 最近でもロシア大統領に秋田犬が贈られたことが話題になりましたが、犬が外交の舞台に登場するのは古代にさかのぼります。平安時代の823(弘こう仁にん14)年、中国東北地方~ロシア沿海地方にあった渤ぼっ海かいという国の使節が冬の日本海をこえて加賀に来着しました。この渤海使は、「契丹大狗」2匹と「㹻子(かし)」2匹を連れてきました。契丹大狗は蒙もう古こ犬のような大陸産の大型犬、㹻子はその子犬か別種の小型犬とみられます。この時の渤海使は平安京への入京を許されませんでしたが、犬たちは他の進物といっしょに都の天皇のもとへ届けられました。
 古代の契丹大狗や近世の南蛮犬のように、海外の珍しい犬は権力者に重宝され、彼らのステータスシンボルになっていたことでしょう。渤海から船でやってきた犬たちには、加賀の地はどのように見えたのでしょうか。犬の目線で歴史を考えてみるのも楽しく、当館の縄文犬にぜひ会いに来ていただければと思います。(学芸主任 三浦俊明)石川県立歴史博物館

https://www.nabunken.go.jp/research/environmental/dog.html
イヌ(Dog) 奈良県文化財研究所
概要
 イヌは食肉目イヌ科に属する。日本列島では、約1万年前の神奈川県夏島貝塚の縄文時代早期初頭の貝層から出土したのが最古で、やや遅れて佐賀県東名遺跡や愛媛県上黒岩岩陰遺跡からの出土し、それ以降、時代が下るに従って類例が増加する。縄文犬は一般的に体高38cm~45cmの柴犬くらいの小型犬が主流で、頭蓋骨の特徴は、額から吻部までの凹み(ストップ=額段)が小さく、鼻筋の通った細面の顔である。弥生時代になるとやや大型化した現生の四国犬クラスの中型犬が、大阪府亀井遺跡から出土している。中世の広島県草戸千軒町遺跡からも多くのイヌが出土したが、形態的には概して縄文犬の系譜をひく小型犬が主体であった。 【参考文献】松井章 編2008『動物考古学』京都大学学術出版会。

日本犬はどこから来たのか(No.58)更新日:2013年12月18日
左・亀井遺跡出土の弥生犬右・復元された弥生犬
考えてみると、犬が自分の意思で北や東に勝手に移動することはないのです。犬はヒトに伴って移動するのです。東京大学の人類学者埴原和郎さんは、弥生文化の成立時には、在来の縄紋人を上回るような大量の人々が渡来したと推定されています。その主張を聞いてみましょう。まず、縄紋時代末期の日本列島内の人口を75000人、7世紀初めの人口を文献資料から約540万人と仮定し、その千年間の人口増加率を0.2パーセントで計算すると、じつに150万人の渡来者があったと結論されたのです。人口増加率を0.4パーセントと最大限の高率に見積ったとしても、94000人という数字が得られるのです。発表されたこの数字は、これまでの研究者が漠然といだいていた日本人の生成イメージを大きく揺るがせる衝撃を与えたのです。埴原説によれば、まさに、弥生時代は渡来人によって日本列島が席巻された時代だったのです。その渡来人は稲作文化をもたらしたのですが、彼らに伴って犬も上陸したのです。ところが、その犬は縄紋犬と違って猟犬ではなかったのです。弥生時代の遺跡の調査で見つかる犬の骨は、バラバラになったものが多いのです。縄紋犬は猟犬あるいは番犬として飼育されてきたのですが、弥生時代に渡来した犬は、食用の家畜として飼われていた可能性が強いのです。食用の家畜としては、犬のほかに豚も持ち込まれたのですが、食用家畜を飼育する文化は、その後日本には根づかなかったようです。渡来人と共にやって来た北方系の犬は、在来の南方系の縄紋犬と交配した痕跡が日本犬(柴犬、紀州犬、秋田犬、甲斐犬、四国犬)の遺伝子に記憶されているのです。北海道と南九州および琉球列島には、渡来人が行かなかったか、あるいは極めて少なかったので、在来の縄紋犬の血統がほぼ純粋に保たれたと考えられるのです。それが北海道犬であり、琉球犬なのです。いま、わたしたちのコンパニオンとなっている日本犬は、日本人の生成の秘密を解き明かす情報も秘めているのです。ついでですが、日本に愛玩犬が登場するのは、『日本書紀』によれば、天武朝(7世紀後半)です。新羅から愛玩犬がもたらされたことが記録されているのです。おそらく、この犬の犬種は、のちの記録から推して「ちん」だと考えられます。
写真:左・亀井遺跡出土の弥生犬[大阪府文化財センター提供]
右・復元された弥生犬[大阪府立弥生文化博物館提供]
『広報ふじいでら』第308号 1995年1月号より
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朝日遺跡出土のイヌと動物遺体のまとめ 西本 豊弘(国立歴史民俗博物館)
じめに
ここでは、先の報告書で記載できなかったイヌの内容についてまず報告し、その後、朝日遺跡出土の動物遺跡全体の特徴について述べることとする。イヌ以外の未報告の資料としては魚類・爬虫類などが残されているが、これらは小さな破片が多く、種と部位の同定
に時間がかかるので別の機会に報告したい。
1.イヌ
a.出土量
朝日遺跡から出土したイヌの主要部位は約200点である。そのうち頭蓋骨・下顎骨・四肢骨154点の内容を表2~4に示した。発掘区及び時期別に別個体であると考えると、下顎骨の左側の数量からみて、この遺跡では少なくとも27個体のイヌが出土していることになる。右側の下顎骨が別個体であるとすると実際には40個体以上出土していると推定される。四肢骨の出土量は最も多い部位である上腕骨をみても左側は11点であり、最小個体数27個体に比べてかなり少ない。この部位ごとの出土量のアンバランスは縄文時代でも少しはみられるが、これ程大きな部位ごとの差異は縄文時代にはみられない。
b.形質
イヌの形質については、頭蓋骨と下顎骨を中心にみてみよう。縄文犬は一般に前頭部から吻部にかけてのくぼみが無く、前頭部から吻部にかけて直線的な側面観をもっている。晩期になって少し前頭部にくぼみ(ストップと言われる)をもつものが現れるが、これは弥生犬の影響の可能性もある。縄文犬は、前頭部の正中線部分はくぼまず平坦であることも特徴である。下顎骨では歯列の弯曲が強く、下顎底が丸みをもち、下顎体高は第1後臼歯部分が最も高く2前臼歯部分が最も細くなる。それに対して、弥生犬は一般に前額部のくぼみが強く、吻部が短く高い。後頭部も縄文犬より高い。弥生犬の下顎骨は縄文犬よりも下顎底の丸みが弱くなり、これ以降現代犬に近くなるにしたがって下顎底は平坦化し、下顎体高は前方部と後方部の差が小さくなる。大きさは縄文犬と弥生犬はほぼ同程度であり、体高35~45cm程度の小型から中型犬である。また弥生犬以降では大小のバラエティが大きくなる傾向がみられる。このような縄文犬と弥生犬の所見を基にこの遺跡のイヌをみてみると、頭蓋骨の61AB-283・745・850・328,60D-182・183はストップがあり前頭部中央がくぼんでおり典型的な弥生犬である。61AB-217・995,61D-072はストップがなく前頭部もくぼまず縄文犬との区別がつかない。また頭蓋骨61F・002はストップがみられる点は弥生犬的であるが前頭部中央は平坦であり、縄文的要素がみられる。このイヌは縄文晩期のイヌに近い。このタイプのイヌは独自の品種として存在したのかもしれないが、頭蓋骨の形態が弥生犬と縄文犬の中間的なものであることから両品種の混血的なものと考えたほうが自然である。尚、前頭部のくぼまない縄文的なイヌは弥生時代に少量みられるものの、中世以降の日本では全くみられないものである。(現在のところ古墳時代の資料は無いので古墳時代のイヌの形質は不明である)おそらく、弥生時代に縄文犬との混血により全く消滅してしまったのであろう。この遺跡でも古い時代には縄文的なものが多く、表採資料(Ⅰ期)に弥生犬的なイヌが多いことは偶然ではないであろう。
遺   跡   名 シ カ イノシシ ) ブ タ イ ヌ (全 体 に 占め る割 合 ・% )
愛 知 県 ・朝   日   遺   跡 3 5 140 2 7 (1 3 )4 )
佐 賀 県 ・莱   畑   遺   跡 27 5 1 5 ( 6 .0 )
大 阪 府 ・池   上   遺   跡 17 60 5 ( 6 )0 )
大 阪 府 ) 恩   地   遺   跡 5 24 6 (17 .1)
大 阪 府 ・亀   井   遺   跡 20 63 多   量
岡 山 県 ) 門   田   遺   跡 25 43 5 ( 6 .8 )
大 分 県 ・下  郡  桑  苗  遺  跡 3 23 3 (10 .3 )
表1 主要弥生時代遺跡出土のシカ、イノシシ・ブタ、イヌの最小個体数329
C.大きさについて
イヌの大きさは、さまざまな部位から推定した体高を用いて見てみよう。まず下顎骨では13例の体高を推定できた。それによると体高は37-42cmであり、縄文犬とほぼ同大でしかも体高の大小の幅が小さい。四肢骨では同一個体のものを除いて12例であり、体高の分布域は37-46cmである。同一個体の資料からみると、下顎骨では四肢骨よりも大きく推測される傾向がみられるので下顎骨からの推定体高は1ないし2cm差し引く必要がある。しかし四肢骨からの推定値の方が範囲が大きいのでこの遺跡では体高37~46cmの小型から中型のイヌが主体であったとしてよいであろう。
d.狩猟犬か食用犬かの問題
縄文時代ではイヌは狩猟に用いられた。イヌの骨に解体痕がみられることもあるが、一般にイヌは埋葬される。四肢骨がバラバラでみられることもあるが、頭蓋骨から指骨まで全身揃って出土することが多い。弥生時代になると、骨がバラバラになって出土し、解体痕をもつ骨も縄文時代より多くなる。この遺跡でも一個体のイヌの骨がまとまって出土する例が1例みられるが(61AB―220~234)、大部分は散乱状態で出土している。縄文時代のイヌとは異なって埋葬されずに食用とされた可能性が高い。解体痕のみられるものは頭蓋骨1例・四肢骨3例と少ないが、いずれも鉄器によると思われる鋭利な傷であった。
e.年齢・性別
この遺跡の資料の特徴の一つは、幼若獣が殆ど含まれていないことである。頭蓋骨・下顎骨では永久歯が未萌出の幼若獣は全くみられない。四肢骨でも関節部が外れた亜成獣は3点しかない。性別は後頭部の側鎖線と矢状稜の状態から判断したが、確率はあまり高くない。少なくとも雌雄の両方が含まれることは確実である。
f.病変
この遺跡のイヌでは老獣が比較的多く、下顎骨では第1・第2前臼歯が早く脱落し歯槽が埋っている例が多い。これは人為的に歯が抜かれたというのではなく、恐らく歯周症による歯の脱落の可能性が高い。また頭蓋骨の例(60D-183)では前頭部右側にくぼみがあり、なんらかの病気によるものと思われる。脛骨のひとつ(61B―107)では腓骨が癒着していた。縄文時代では四肢骨の他に椎骨や肋骨の骨折及び癒着したものが多いが脛骨の1例を除いて、この遺跡では椎骨や肋骨の骨折などは全くみられなかった。イヌを用いた狩猟活動が縄文時代に比べて活発ではなかったことを示すのかもしれない。
2.朝日遺跡の動物遺体の特徴
3.哺乳類
弥生時代の主要な遺跡のシカ・イノシシ・ブタ・イヌの出土量を表1に示した。これらの4種以外の動物は出土量が少ないので省略する。弥生時代では、縄文時代に比べてシカが少なく、イノシシ・ブタが多い事が特徴である。そして、イノシシとブタの割合は、例えば、朝日遺跡では1:4程度であることが分かっている。それに対して、菜畑遺跡や門田遺跡ではシカの出土量はイノシシ・ブタの約半分であり、シカの出土量がかなり多い。これらの遺跡では、おそらくブタの量が朝日遺跡等よりも少なく、イノシシとブタがほぼ同程度と思われる。イヌについて見てみると、弥生時代の場合、イヌがある程度の量で出土することが知られており、一般に1遺跡当たり数頭程度である。それに対して朝日遺跡では、今回の報告分だけでも少なくとも27個体が含まれており、イヌが多いことがこの遺跡の特徴である。また、イヌの出土量状態については、一体分がまとまったものは1例しかなく、大部分は散乱状態で出土した。これらのイヌは主に食用とされたと推測される。
b.鳥類
鳥類については、弥生時代は出土量が少ないと言われているが、この遺跡ではガン・カモ類を主体にかなり多く出土している。ツルやバクチョウ等の大型の鳥類も見られる。そして、ニワトリが確認された事も特徴の一つであり、そのニワトリがチャボ程度の小型のものであることが明らかとなった。しかし、ニワトリの量は1点しかなく、多くは飼われてはいなかったと思われる。
C.まとめ
朝日遺跡の動物遺体の特徴はイノシシ・ブタが最小個体数140と多量に出土した事である。発掘面積が大きいという理由もあるが、骨の保存条件も良かったことが影響しているのであろう。更に、朝日遺跡がおそらく弥生人の植民地的性格の遺跡であり、渡来系の弥生人が千人から2千人の規模で生活していた可能性がある。そのため、この遺跡で、イノシシ・ブタが多量に出土するのではなかろうか。表1に示した朝日・菜畑・下郡桑苗・池上・恩地・亀井・門田遺跡は動物遺跡が多量に出土しているが、いずれもその地域での中心的な集落である。そのような集落は渡来系の弥生人の植民地的な性格があったのではなかろうか。その意味では、動物遺体も遺跡の性格を示すと言えよう。

弥生時代 (やよいじだい) 防府歴史用語辞典 防府市教育委員会防府市教育委員会
基本的には稲作農耕が始まってから、前方後円墳[ぜんぽうこうえんふん]が造られるようになるまでの期間を言います。だいたい紀元前3・4世紀から紀元後3世紀中頃までを指します。

弥生時代 ウィキペディアウィキペディア
弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。

弥生時代とは 鹿島デジタル博物館
弥生時代の始まりをいつと捉えるかは難しい問題ですが,一般的には稲作の開始が弥生時代の始まりとされています。様々な研究の成果や発掘調査の増加に伴い,北九州ではこれまで縄文時代晩期とされていた時期に稲作が開始されていることが明らかになり,弥生時代の開始がこれまでよりも遡る可能性もでてきました。
日本の稲作は,約2600年前に九州北部から始まり,九州・四国・本州のほぼ全域で行われるようになりました。しかし,稲作が九州地方から東北地方に伝わるまでには500年もの時間を要し,更に水田に向かない火山性の台地や河岸段丘といった土地はかなりの時間が経過してから稲作が開始されました
弥生時代の特徴としては,金属器の使用が開始が挙げられます。弥生時代前期には青銅器の鋳造技術が朝鮮半島を経て北九州にもたらされ,銅剣や銅矛,銅鐸などが武器や祭祀道具として使用されるようになりました。また,日本国内での鉄の鍛冶加工も始まり,鉄製品の農具等が増え,農耕などの生産力が向上し飛躍的に人々の生活を発展させました。
そのような背景の元に弥生時代は,地域の統合,小国家の形成の土台を構築する階級社会を生み出しました。そして小国家の形成は,人々を支配する豪族を誕生させ,古墳時代へと繋がっていきます。

弥生ミュージアムについて 国営吉野ヶ里歴史公園
弥生ミュージアムは、国営吉野ヶ里歴史公園が、吉野ヶ里遺跡にとどまらず弥生時代全般について、広く興味・関心を喚起すべく、運営しております。このサイトを通して多くの方に弥生時代ひいては、吉野ヶ里遺跡に興味、関心をもっていただければと考えております。
なお、本ホームページの制作にあたっては、以下の方々にご協力頂きました。
(財)大阪市文化財協会 大阪歴史博物館
春日市教育委員会
北区飛鳥山博物館
佐賀県教育委員会
桜井市教育委員会
滋賀県教育委員会
滋賀県埋蔵文化財センター
静岡市教育委員会
田原本町教育委員会
津和野町
鳥取県埋蔵文化財センター
福岡県教育委員会
福岡市教育委員会
福岡市博物館
文化庁
(財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター
米子市教育委員会
(50音順)
第一章 弥生時代の年代
弥生時代のはじまりは紀元前300年頃、終わりは紀元後300年頃(この間約600年)というのが、これまでの通説です。最近、自然科学的な年代測定法により弥生時代中期の年代が100年近く遡り、始まりも500年近く早くなるという説も出てきています。
1.社会組織・階層
階層の出現を裏付ける弥生時代の王墓
弥生時代の人々の階層については魏志倭人伝は大人(支配者層)、下戸(一般的身分層)、生口(奴隷身分)という階層が存在したことを伝えています。 こうした階層の存在を裏付けるのが弥生時代の墳墓です。弥生時代になると他とは異なり、多くの副葬品や墳丘などを持つ「王墓」とも言える墓が出現してきます。 こうした階層を表す王墓は、弥生時代の前期末~中期初頭に、まず北部九州地方に現れます。福岡県福岡市吉武高木遺跡では、甕棺墓・木棺墓等11基より朝鮮大陸製の多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)1面をはじめ、銅戈、銅矛(11口)、玉類などの副葬品が出土しました。これらの副葬品が出土した墳墓群の東50m付近からは同時代に属する大型の掘立柱建物跡も発見されています。
第二章 弥生時代の集落と墓
弥生時代の集落は、水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。10軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘った貯蔵穴、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的な集落のすがたです。 こうした一般的な集落とは別に周囲を壕で囲んだ大規模な集落が登場してくるのも弥生時代の集落の特徴です。
1.弥生時代の自然環境
今からおよそ6,000年前の縄文時代前期、地球規模の気候温暖化により氷河がとけ、海水面が10m 近く上昇し、海岸線が陸地の奥深く入り込んでいました。縄文時代中期後半以降、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始めます。
海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていきました。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだと考えられています。
海退によって出現した湿地や沖積平野は初期の水田稲作にとって絶好の耕地となりました。集落も台地上から平野部に進出するようになります。 稲作の開始と進展に伴い、大規模な森林伐採が行われるようになります。稲作を行うために必要な農具、水田を作るために必要な矢板など木材の需要が飛躍的に高まります。北部九州地方で木を伐採するために必要な福岡県今山産の太型蛤刃石斧が広い地域に普及するようになったのも、こうした状況の表れでしょう。森林伐採は、西日本の平野部で集落が急激に増加する弥生時代中期以降、さらに進んでいったと考えられます。
写真:今山産の太型蛤刃石斧
今山産の太型蛤刃石斧
しかし、そうした伐採が山林の荒廃を引き起こし、自然環境を決定的破壊していった痕跡は見られません。弥生時代は縄文時代以来の自然環境の変化によって形成された沖積平野に水田を作って耕し、その近辺の低い台地上に集落を営み、背後の丘陵から山にかけての森林から生活のために必要なだけの木材や資材を得るという、長く日本に根付いた土地利用の原型が生まれた時代だと言えます。
2.弥生人の身体的特徴
弥生人の身体的特徴を最も雄弁に物語るのが、北部九州地方の甕棺墓等から出土する人骨です。佐賀県の三津永田遺跡や吉野ヶ里遺跡、山口県の土井ケ浜遺跡出土の弥生人骨は面高で身長が高く、中国黄河流域や朝鮮で出土した人骨と同じ特徴を備えています。一方、同時期の西北九州や東日本から出土する人骨は、そうした特長は見られず身長も縄文人同様の低身長です。
これらのことから、縄文時代晩期から弥生時代にかけて中国大陸や朝鮮半島から人々が日本列島に渡来したが、渡来系の人々の数はそう多くなく、北部九州周辺に分布する程度であったことが窺えます。
イラスト:縄文人の頭蓋骨と渡来系弥生人の頭蓋骨の比較
縄文人の頭蓋骨と渡来系弥生人の頭蓋骨の比較
渡来弥生人の身体的特徴を在来の縄文人と比較すると次のようになります。
縄文人 渡来系弥生人 
顔全体 ・幅が広く(横長)四角い
・彫りが深い ・上下に長い
・のっぺりしている
鼻 比較的大きい 鼻幅が細く低い
瞼 二重 一重(厚い)
唇 厚い 薄い
歯のサイズ 現代人より小さい 現代人より大きい
噛み合わせ 上下の歯がぶつかり合う 上の前歯が下の前歯に
覆い被さる(現代人と同じ)
身長(推定平均) 男性:158cmぐらい
女性:148cmくらい 男性:164cmぐらい
女性:150cmくらい
体毛 濃い(眉毛も濃い) 薄い
これらを総合すると、
縄文人・・・背が低く、丸顔で彫が深く、二重瞼で鼻が大きく、唇が厚い
渡来弥生人・・・長身で面長、彫が浅く一重瞼、鼻は小さく唇も薄い
第三章 弥生時代の自然と人
水田稲作は弥生時代の自然環境をたくみに生かして営まれました。各地の遺跡から出土する人骨は、弥生時代に朝鮮半島や中国大陸から日本列島に渡来してきた人々が存在したことを示しています。こうした渡来人と縄文以来の在来の人々との混血が、現在の日本人の形質を形づくっていったと考えられます。
第四章 弥生時代の生活
水田稲作や金属器や織物など、新しい技術や文化が中国大陸や朝鮮半島からもたらされ、衣食住の生活も狩猟採集の縄文時代から変化していきます。稲作の農耕サイクルに合わせて確立されていった新しい生活パターンは、その後の日本の農村生活の原形になっていったと考えられます。
第五章 弥生時代の社会
農耕の開始と発展により現れてきた身分階層の分化や、地域格差は新しい世界観や支配秩序をもたらします。やがてそれはより強大な政治的権力を生み出し、次の古墳時代には巨大な前方後円墳が築造され、古代王権・古代国家の形成へと向かっていきます。

藤尾慎一郎(Wikipedia)
藤尾 慎一郎(ふじお しんいちろう、1959年 - )は、日本の考古学者。福岡県生まれ。国立歴史民俗博物館考古研究系教授、総合研究大学院大学教授。
目次
1 略歴
2 著書
3 主要論文
3.1 共著
略歴
1981年:広島大学文学部考古学卒
1986年:九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、九州大学文学部助手
1988年:国立歴史民俗博物館考古研究部助手
1999年:助教授
2007年:准教授
2008年:教授、副館長・総合研究大学院大学教授
2002年:「弥生変革期の考古学的研究 縄文人が水田稲作に専業化した理由」で広島大学博士(文学)。
製品名 弥生時代の歴史
著者名 著:藤尾 慎一郎
発売日 2015年08月20日
価格 定価 : 本体800円(税別)
ISBN 978-4-06-288330-6
通巻番号 2330
判型 新書
ページ数 256ページ
シリーズ 講談社現代新書
稲作は五〇〇年も早く始まっていた! AMS炭素14年代測定法が明らかにした衝撃の事実をもとに、弥生時代の歴史を書き換える。
はじめに
プロローグ 弥生前史──弥生開始前夜の東アジアと縄文晩期社会──コメの出現
第一章 弥生早期前半(前一〇世紀後半~前九世紀中ごろ)──水田稲作の始まり
第二章 弥生早期後半~前期後半(前九世紀後半~前五世紀)──農耕社会の成立と水田稲作の拡散
第三章 弥生前期末~中期前半(前四世紀~前三世紀)──金属器の登場
第四章 弥生中期後半~中期末(前二世紀~前一世紀)──文明との接触とくにの成立
第五章 弥生後期(一世紀~三世紀)──古墳時代への道
エピローグ──弥生ってなに
出典一覧
あとがき
 AMS炭素14年代測定に基づき、水田稲作の開始は従来よりも500年早かったとした国立歴史民俗博物館の研究発表は当時、社会的にも大きなセンセーションを巻き起こしました。発表時には当時の常識からあまりにもかけ離れていたために疑問を呈する研究者も数多くいましたが、その後、測定点数も4500点ほどまでにと飛躍的に増加を遂げ、現在では歴博説の正しさがほぼ確定されています。
では、水田稲作の開始が500年早まると、日本列島の歴史はどのように書き換えられるのでしょうか。一言で言えば、「弥生式土器・水田稲作・鉄器の使用」という、長らく弥生文化の指標とされていた3点セットが崩れ、「弥生文化」という定義そのものがやり直しになったと言うことです。この3つは同時に導入されたものではなく、別々の時期に導入されたものでした。例えば鉄器は水田稲作が始まってから600年ほど経ってからようやく出現します。つまりそれ以前の耕作は、石器で行われていたのです。また水田稲作そのものの日本列島への浸透も非常に緩やかなものでした。水田稲作は伝来以来、長い間九州北部を出ることがなく、それ以外の地域は依然として縄文色の強い生活様式を保持していました。また東北北部のように、いったん稲作を取り入れた後でそれを放棄した地域もありました。関東南部で水田稲作が始まるのは、ようやく前3~2世紀になってからでした。
とすると、これまで歴史の教科書で教えていたように、何世紀から何世紀までが縄文時代で、その後に弥生時代が来ると単純に言うことはできなくなります。水田農耕社会であるという弥生「時代」の定義は、ある時期までは日本列島のごくごく一部の地域にしか当てはめられなくなるからです。
本書は、このような問題意識の元で「弥生文化」が日本列島に浸透していく歴史を「通史」として描く初めての本です。

中学校社会 歴史/弥生時代 < 中学校社会 歴史
目次
1 稲作と金属器の伝来
2 弥生時代のくらし
3 国々の誕生
4 中国の三国時代
5 邪馬台国(やまたいこく)
稲作と金属器の伝来
紀元前4世紀ごろから、稲作が、大陸や朝鮮半島から、西日本へと伝わった。そして稲作は西日本から東日本へと広がっていったというものが定説。
いっぽう、実は縄文時代に稲作が伝わっていたという説もある( (※ 範囲外)「縄文稲作」説または「縄文農耕」説 )。
どちらの説にせよ、紀元前4世紀ごろには、すでに日本に稲作が伝わっており、日本人は水田を耕作しはじめた。稲だけでなく、麦やクリなども栽培していました。 ただし、北海道と沖縄には、稲作は伝わらず、北海道と沖縄では、それぞれ独自の文化ができた。
青銅器や鉄器も、紀元前4世紀ごろに、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から日本へと伝わっている。
物だけでなく、人間も大陸(中国)や朝鮮半島から、多くの人が、九州などに やってきたと思われている。遺跡から発見された人骨などの特徴から、大陸や朝鮮半島の人々と近い特徴の人骨が見つかっている。
このような中国や朝鮮からやってきた人たちと ともに、稲作や青銅器などの技術も伝わったと思われています。
弥生時代のくらし
弥生土器(やよい どき)
愛知県 名古屋市 熱田区 高蔵町熱田貝塚出土 重要文化財(東京国立博物館蔵)
弥生土器
東京都 大田区 の 久が原 で出土。(東京国立博物館所蔵)
弥生土器(やよい どき)
縄文土器とはちがう、新しい土器が見つかっており、縄文土器より、うすくて、かたい。また色が褐色(かっしょく)である。高温で土を焼ける技術が発達したため、このような、うすめの土器が作れるようになった。縄目(なわめ)は無く、表面は なめらかである。このような土器の名を、最初に発見された場所の東京都 文京区(ぶんきょうく) 弥生町(やよいちょう)から、この土器を弥生土器(やよい どき)という。
また、弥生土器の発見される地層が、縄文土器の地層よりも新しい地層であることが多いことから、時代の順序が分かる。
このころの時代を 弥生時代(やよいじだい) という。この弥生土器の発掘されたものには、よく、米や籾(もみ)がついており、この土器の時代に稲作が始まっていたことが分かる。
弥生土器の製法(社会科の範囲では無いので、覚えなくても良い。)
まず、弥生土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、うすくて かたい。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼き(のやき)をするのに対し、弥生土器ではワラや土などをかぶせる「覆い焼き」(おおいやき)を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されるが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われる。また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがある。
石包丁(いしぼうちょう)。
石包丁は、イネの穂先を刈り取るのに、使われたと思われている。
高床倉庫(たかゆか そうこ)
イネを保管するための、高床倉庫(たかゆか そうこ)の遺跡も、発見されている。 ねずみや湿気をふせぐために、高くしてあり、柱にはネズミよけの返しがついている。
高床倉庫 妻側より(復元、神奈川県、大塚・歳勝土遺跡)
高床倉庫(復元、吉野ヶ里遺跡)
農具
農具には、木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を作って、使っていたと思われています。
青銅器
絵のある銅鐸(どうたく)。香川県出土(東京国立博物館蔵、国宝)
左下に、うす と きね を用いた作業の絵がある。右下は高床倉庫の絵。右上は弓矢で動物を射る絵。
青銅器や鉄器が、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から伝わっている。 銅鏡(どうきょう)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)などの青銅器がある。
※ 名前は「銅剣」、「銅矛」、「銅鐸」だが、材質は純粋な銅ではなく、青銅であるのが普通(※ 参考文献: 高校の山川出版の日本史Bの用語集)。
発見された銅鐸に、うす や きね を用いた作業の様子を ほった絵がある。このことからも、稲作が行われていることがわかる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。
青銅器の多くは、おもに、いのり の道具に使われていたと思われています。 豊作などを、祈っていたと思われています。
鉄器
鉄器は、工具や武具、農具など実用品に用いられた。
農具や工具や武具には、石器や木器もあわせて、もちいられた。 以上のような弥生時代は、紀元前4世紀ごろから、紀元3世紀ごろまでのあいだ、約700年間ほど続く。
国々の誕生
稲作など農業で、人口が増える。農地に必要な土地や水などの配分をめぐって、村と村との間で、争い(あらそい)が増えた。
吉野ケ里遺跡,遠景。 佐賀県。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがり いせき)から、争いのあとが見つかっている。吉野ヶ里遺跡は、集落のまわりに、柵(さく)や濠(ほり)の有る集落であり、しかも矢が刺さった人骨が見つかっており、 物見やぐら も、ある。
なお、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた集落のことを、環壕集落(かんごう しゅうらく)という。吉野ヶ里遺跡は、環壕集落の代表例でもある。
中国(漢)の歴史書によると、紀元前1世紀ごろには、倭人(わじん、日本人のこと)が100あまりの小国を作っていた、という。(『漢書』(かんじょ)による。) 漢での日本国の呼び名は、中国の歴史書では、「倭」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記している。
のちの時代の日本で、「倭」の代わりに「和」という漢字が当てられる。「倭」という文字には「まかせる」と受け取れる意味があったり( 「委任」(いにん)の「委」に字が近い。 )、小さいことを意味する「矮小」(わいしょう)の「矮」(わい)に近く、のちの時代の日本が嫌がったためである。すくなくとも752年(天平勝宝4年)ごろから日本のことを言う時に「和」という名称を用いている。 現代の日本で、日本風のことを「和風」と言ったりするときの「和」の語源は、この「倭」である。
いっぽう日本の、この時代には、文字を持っていなかったので、中国の歴史書が、現代での弥生時代の歴史研究でも手がかりになっている
金印(きんいん)。漢委奴国王印。 国宝。福岡県の志賀島(しかのしま)で発見された。(福岡市博物館蔵。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。)
金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。
また、別の歴史書の『後漢書』(ごかんじょ)の東夷伝(とういでん)という部分によると、1世紀半ばに、倭(わ)の奴国(なこく、現在の福岡県あたり)の王が、漢に使いを送り、皇帝から金印(きんいん)などをあたえられたという。
金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の志賀島(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「漢委奴国王」(かんのわのなのくに)と、漢字が刻まれている。
『後漢書』の「後漢」というのは、漢の王朝は、いったん、途絶えたが復活したので、いったん途絶える前の漢を「前漢」(ぜんかん)といい、復活したあとの時代の漢のことを「後漢」(ごかん)という。
「奴国王」という言い方から分かるるように、日本の各地に「国」があり、「王」に当たる階級があったことが分かる。つまり、この時代の日本には、すでに階級があって、人々どうしの貧富の差も大きかったと考えられている。
その後の時代の様子からも、すでにこの弥生時代の日本に「王」に当たる特権階級が出来ていたと思われている。
中国の三国時代
三国時代・要図(262年)
漢(中国)では西暦184年から民衆の反乱である 黄巾の乱(こうきんの らん) により、漢は従えていた諸国の軍勢を動員した。黄巾の乱は平定されたが、諸国の軍勢の権力が強まり、これによって諸国の軍事力なしでは漢は政治ができなくなり、諸国どうしが中国の支配をめぐって争い、長い戦乱の時代が始まり、後漢はおとろえた。 漢の王朝は220年まで残っていたが、190年ごろから、実質的に中国は戦乱の時代になっており、多くの国々に別れて戦争をしていたが、220年ごろには、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国に集約されていった。それぞれの3国が、べつべつの皇帝を立てていた。220年ごろから280年ごろの中国の時代を三国時代(さんごく じだい)という。184年の黄巾の乱から280年までを三国時代にふくめる場合も有る。
最終的に、中国で三国を統一する国は、魏のながれをくむ「晋」(しん)という王朝である。
邪馬台国(やまたいこく)
中国の歴史書『三国志』のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)に、倭人についての記述である倭人伝(わじんでん)によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。
邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿説と九州説が、有力な説である。
この時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。
倭人伝の内容
魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(抜粋)
『魏志』倭人伝より、邪馬台国について。
倭人の国は、多くの国に分かれている。使者が調べたところ、今のところ、30あまりの国である。
【卑弥呼について】
倭国は、もともと男の王が治めていたが、戦乱が長く続いたので、諸国が共同して一人の女子を王にした。その女王の名を卑弥呼という。卑弥呼は、鬼道(「きどう」、まじない のこと)で政治を行っている。卑弥呼は成人しているが、夫はおらず、弟が政治を助けている。王位についてからの卑弥呼を見た者は少なく、1000人の召使いをやとっており、宮殿の奥にこもる。卑弥呼の宮殿には、物見やぐら や柵が儲けられており、厳重に守られており、番人が武器を持って守衛している。
卑弥呼が死んだとき、直径100歩あまりの大きな墓がつくられ、奴隷100人がともに葬られた。
【風習について】
男たちは、いれずみをしている。服は、幅の広い布をまとっており、ほとんど縫われていない。女は髪を後ろで結い、服は布の中央に穴をあけ、頭を通して着ている。
稲と紵麻(からむし)を植えている。桑(くわ)と蚕(かいこ)を育てており、糸を紡いで糸を作っている。土地は温暖であり、冬も夏も野菜を食べ、はだしで暮らしている。
下戸(げこ、民衆)が大人(たいじん、権力者)と出会うと、下戸は草むらに後ずさりして、道をゆずる。また下戸が大人に言葉を伝えたりするときは、ひざまずき、両手を地面につける。
(『魏志』倭人伝。抜粋、要約。 上述の説明では、節の順序を入れ替えしてある(教育的な順番にした)。卑弥呼についての節と、風習についての節の順番を入れ替えてある。)
弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。
2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした[2]。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている[3]。一方放射性炭素年代測定や年輪年代学の技術は充分に確立されたとはいえないことから、開始期の繰り上げに根強い反対も存在する[要出典]。
弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され[4]、2世紀末畿内に倭国が成立[5]。3世紀中頃古墳時代に移行した。
名称
弥生式土器
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する[6]。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。
概要
弥生時代の稲作(国立科学博物館展示の模型)。
弥生人と弥生犬の復元模型(国立科学博物館)[7]
紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群(糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡(糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。
1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡[8]として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている[9]。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。またその伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、堰・水路・畦畔といった灌漑技術を備えた状態であったことが判っている[10]。なお弥生時代(および次代の古墳時代に至るまで)の水田形態は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度となる「小区画水田」が無数に集合したものが主流である[11]。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。
道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた(倭・倭人関連の中国文献)。
一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美群島の歴史、先島諸島の歴史も参照のこと。
弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった[12][13]。
時期区分
弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。
そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。
そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。
現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。
弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。
2003年、国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは、炭素同位体比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。
春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている[14]。これに対して宝賀寿男(日本家系図学会会長、家系研究協議会会長)は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と疑問を呈している。即ち殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系(海神族の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる[15]。
中国(長江文明)における稲作は、長江中流域における陸稲が約10000 - 12000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6000 - 7000年前に遡ると言われている。『翰苑』の『魏略』逸文などは、倭人は呉の太伯(文王の伯父、紀元前12世紀頃の人とされる)の末裔を称したとしている。
早期(先I期)前期(I期)中期(II - IV期)後期(V期)
早期前半早期後半前期前半前期中葉前期後半中期前半中期中葉中期後半後期前半後期後半
縄文
晩期弥生
早期弥生
前期弥生
中期弥生
後期弥生
終末
前1000前900前800前700前600前500前400前300前200前1000100200
時期区分を視覚的にしてみたが、少しずれていることに注意。最上段は歴博グループによる炭素年代、二段目はこれを前期(黄)・中葉(緑)・後期(青)に等分したもの、三段目は従来の年代観、四段目は一世紀ごとの目安[16]。
定義の変遷
弥生時代の定義は発掘調査の進展に伴い、大きく変化してきている。そのため、文字資料から情報を得る場合、どの時点でどのような認識が主流だったのかを確認しておく必要がある。
江戸時代から
先住民と渡来人の交替があったとする人種交替説が主流で、日本人は中国人や朝鮮人など大陸のアジア人と同種であると認識されていた。当時、海外の著名人の著作物も同様の認識で書かれている。
1884年(明治17年)
弥生式土器が発見されたが、当初は縄文式土器の一様式と認識されていた。
1898年(明治31年)
弥生式土器が複数発見され、縄文土器との比較から別種とされ、土器の発見場所から弥生時代という名称が生まれた。
1916~21年(大正5~10年)
縄文土器と弥生土器の違いは何であるかや、年代的な先後関係については論争があったが、1916年(大正5年)に発見された鹿児島県指宿市の橋牟礼川遺跡で、濱田耕作が行った発掘調査により、縄文土器が弥生土器より下の包含層から出土し、年代的に古いということが層位学的に確認された[17]。この時濱田耕作が弥生土器だと認識していた土器は、実は古墳時代後期の「成川式土器」という南九州独特の土器様式であることが後に判明するが[18]、縄文土器と弥生土器の違いが年代差であることや、「縄文時代から弥生時代へ」という変遷の認識はこの時から始まった。
1936〜7年(昭和11〜12年)
奈良県唐古遺跡で行われた発掘調査で弥生土器と共に農耕具が発見されたことから、弥生土器の時代に農耕が行われていたことが明らかになり[19]、弥生時代は農耕社会であるとされた。また、土器の変遷から時代をはかる「土器編年」が確立した。
1938年(昭和13年)~1940年代
1943年(昭和18年)、静岡県静岡市で登呂遺跡が発見され、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までの発掘調査で日本初の弥生時代水田遺構が検出される[20]。
1950年代
弥生時代の人骨が出土するようになり、その特徴と縄文人骨との相違点から、渡来系の人骨であるとされた。
金関丈夫の混血説
鈴木尚の文化・環境による形質変化がおきたという変形説などが発生する。
1970〜1980年代
弥生時代が稲作を主体とする時代であることが定説になり[21]、弥生時代の特徴は、稲作・農耕・高床式住居・布の服・戦争などであり、渡来人によってもたらされたという考えが一般的となった。
1990年以降
目覚ましい発掘調査の進展により、それまで弥生時代の特徴とされていた
稲作
農耕
高床式倉庫
大規模集落
木工技術
布の服
などが縄文時代に既に存在していたことがわかった[要出典]。また、遺伝子の研究という新しいアプローチから下記の事が判明している[要出典]。
人種の置き換えは起きていない
渡来系の人骨の発掘には地域差がある
文化伝搬の地域差が激しく、人種も完全に入れ替わってはいないこともわかり、弥生時代と縄文時代を明確に分割することが困難となり、開始年代やそもそもの定義について議論が起きている。
弥生時代の意義は稲作の始まりにあるのではなく、稲作を踏まえて国家形成への道を歩み始めることが重要とする見解が示されるようになり[22]、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化、弥生時代とする認識が生まれていった[23]。
この新たな弥生時代の定義によれば、西日本の弥生文化こそが典型的な弥生文化であって、東日本のものはそれとは大幅に異なる[24]別文化であるとする見解が示される様になった[25]。この弥生併行期の東日本の文化については「縄文系弥生文化」[26]、「続(エピ)縄文」[27]、「東日本型弥生文化」[28]など研究者によって様々な呼称が与えられており、定まった名称はない。
ただしこの新たな定義については、自らの研究領域が弥生時代の定義から外れる事になる東日本の研究者からの強い反発がある[29]。
弥生文化の発生と展開
縄文時代後期、西日本では生業の一部として既に農耕が行われていたが[30]水田農耕の本格的な開始は紀元前10 - 9世紀の九州北部が最初とされる[31]。紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では既に集落内に階層差が存在したことが確認されている[32]。
北部九州に弥生文化が発生して約250年後、弥生文化は西日本各地に伝播し始め、高知平野では紀元前8世紀、山陰・瀬戸内では紀元前7世紀に弥生時代が始まり[33]、畿内の河内平野では紀元前750〜550年頃の間に弥生時代が始まったとされている[34]。紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散したが[35]、弥生文化の拡散は濃尾平野、伊勢湾地域でいったん停止した。
東日本には紀元前3世紀、関東地方西部に初めて弥生文化が定着したことが、小田原市の中里遺跡の発掘によって確認されている。中里遺跡では集団の編成方法や運営、生活技術などに畿内の影響が指摘されており、近畿中央部からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっている[36]。その後紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。
これよりさかのぼって、紀元前4世紀の津軽・砂沢遺跡、紀元前3世紀の垂柳遺跡で水田稲作の痕跡が確認されているが、水田農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されておらず、弥生文化には含まれない[37]。
弥生文化/弥生時代は関東地方西部を東限とし、新潟県から千葉県を結ぶラインより西側にのみ存在したとされている[38]。
弥生時代の研究では、弥生文化発生時の担い手が誰であったのかが議論になっている。考古学では九州の研究者は北部九州在来の縄文人が弥生化したと考えるのに対し、近畿の研究者の多くは渡来人が主体的な役割を果たしたとしている[39]。人類学の埴原和郎は北部九州に渡来人が来て、稲作を始め、クニを作ったとしている。その後人口の増加とともに東へ移動し古墳時代には西日本一帯に広がったとする[40]。埴原よると現代でも弥生〜古墳時代の人口動態の影響があるという。すなわち西日本は渡来系(弥生系)人種、北海道(アイヌ)、沖縄は縄文系人種、東日本はその両者が混雑した中間種であるとしている[41][42]。
政治
戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)
弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。
受傷人骨
弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつて[いつ?]は、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈される[誰によって?]ことが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年[いつ?]では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある[誰によって?]。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者[誰?]もいる。
北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される[誰によって?]。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者[誰?]もいる。佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている[誰によって?]。戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者[誰?]もいるが、未だ論証されていない。
受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている[誰によって?]。
また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており[誰によって?]、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている[誰によって?]。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。
大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している[43]。死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である[44]。
なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている[45]。
環濠集落・高地性集落
環濠集落・高地性集落は、集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられてきた。環濠集落の北限は、太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ、日本海側では新潟県新八幡山である。ただ、秋田市地蔵田B弥生ムラが4軒の家を柵で囲んでおり、これを入れるとすると日本海側の防御集落の北限がさらに北上する。これにより戦争による緊張感は広く全国的で、日本海側の方が北まで広がっていたのではないかと考える者もいる。
しかし、これには反論が存在する。北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっており、戦争があったと推定されるが、南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。遠江、静岡県浜松市には伊場遺跡などの環濠集落はあるが、登呂遺跡などの静岡市周辺の大規模な弥生ムラには環濠はなく、戦争があった可能性は薄い。神奈川県逗子市周辺は農耕的性格を示していながらも食料採集にも大きく依存していたことを示しており、戦争はなかったと考えられる。北関東と東北地方の広い範囲は、米の生産高が低かったからこそ戦争とは無関係であったのであろうと推測する説もある。[46]
さらに、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠がほとんどない弥生時代早期にさかのぼる事(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半 - 中期前半、特に中期初頭以降の北部九州ではむしろ環濠集落の事例は少ない事、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用して環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることによって外敵を有利にしてしまう(盛り土を矢避けにしたり盛り土の上から攻撃できる)事などから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考えるのではなく、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことによって共同体の結束を高めることが目的であった、又は環濠によって集団を囲い込むことによって集団意識を高めることが目的であったとする議論も提出されてきている。しかし弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められること(愛知県朝日遺跡など)などから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が多い事もまた明らかである。環濠の性格については地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないかといった主張がある。
一方、古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。高地性集落は、弥生時代中期後半 - 末(IV期後半 - 末)、そして後期中葉 - 末(V期中葉 - 末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50〜300メートル以上)に営まれている集落のことである。北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年 - 250年ごろに比定されていた。
史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半 - 末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末 - V期前半期に該当していた。このため、高地性集落の盛行は倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。畿内と九州の年代の併行関係が是正されると、倭国大乱は畿内V期後半 - 末に該当する。畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張が多いが、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られる。後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われている。一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めている。
倭国大乱
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝・霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。
近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。
ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。
邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。倭国大乱の原因については、古事記、日本書紀等の神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。
地域勢力と大型墳丘墓の出現
時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。
吉備地域
瀬戸内地方のなかでも吉備と呼ばれる岡山県と広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。これらの土器は、吉備地方で発生後、美作・備前・備中・備後の地域に分布する。その発達の中心は、備中南部の平野であった。そして、これらの地域の周辺地域では使用されていないのが特徴である。
山陰地域
中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には台形土器と壺形土器。出雲と吉備の両地域に同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。
これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳(前方後円墳など)の形成につながったとされている。
弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。
人々の生活
水田農耕
日本人の主食は、弥生時代に水稲耕作を始めてから米を常食としていたと考えられてきたが、1917年(大正6年)内務省、1878年(明治11年)大蔵省による全国食料調査の結果から、市部・市街地及び郡部・村落部の順に米を食べる量が段々少なくなっていることなどから、必ずしもそうではないともされる[47]。
では、弥生水田の収穫量はどのくらいであったのか。弥生時代前期は下田・下々田、中期は下田・下々田、後期(登呂)中田・下田。収穫量は多いとは言えない。一日あたりの米の摂取量は先進地帯でも前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかった[48]。デンプン質不足量をドングリなどの堅果類で補っていた[49]。
家畜利用
弥生時代には水田農耕が行われるが、大陸における農耕がブタやウマ、ウシなど家畜利用を伴うものであったのに対し、弥生時代の研究においては長らく家畜の存在が見られなかったため「欠畜農耕」であるとも理解されていた[50]。これに対し、1988年・1989年に大分県大分市の下郡桑苗遺跡で関係のイノシシ頭蓋骨3点、ブタ頭蓋骨が出土した[51]。イノシシ類頭蓋骨に関しては西本豊弘が形質的特徴からこれを家畜化されたブタであると判断し、以来弥生ブタの出土事例が相次いだ[52]。また、1992年には愛知県の朝日遺跡で出土したニワトリの中足骨が出土している[53]。
弥生ブタの系統に関しては、縄文時代からイノシシの飼養が行われてはいるものの、イノシシからブタに至る過渡的な個体の出土事例がなく、また日本列島では島嶼化によりイノシシ個体のサイズに大小があるのに対し、弥生ブタはこの地域差からかけはなれた個体サイズであるため、弥生ブタは大陸から持ち込まれたとも考えられている[54]。
弥生ブタの系統の検討には、ミトコンドリアDNA分析を用いた分析も行われている[55]。2000年の小澤智生による分析では12点の試料のうち11点がニホンイノシシと判定された[56]。2003年の石黒直隆らが小澤とは異なる手法を用いて分析を行い、10点の試料のうち6点は現生ニホンイノシシと同一グループ、4点は東アジア系家畜ブタと同一グループに含まれるとし、両者で異なる結果がでている[57]。なお、石黒らは加えて後者のグループは西日本西部の一部の地域に限られて分布している点も指摘している[58]。 また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌに関しては、大陸から食用家畜としてイヌが導入された[59]。
狩猟・漁労
狩猟
漁労
縄文貝塚の衰退と弥生時代の漁労
縄文時代の関東地方では東京湾岸などで大規模な貝塚が形成され、クロダイ・スズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労が行われていた[60]。関東地方では縄文晩期に貝塚数が減少し、弥生時代前期には縄文型貝塚が消滅するに至る[61]。一方、三浦半島など外洋沿岸地域では引き続き外洋漁労が行われている[62]。外洋漁労の痕跡を残す洞穴遺跡では外洋沿岸岩礁のアワビやサザエ、外洋性回遊魚のカツオ、サメ、外洋沿岸魚のマダイが出土している[63]。アワビは縄文時代において出土事例が少なく、弥生時代には潜水漁が行われていたとも考えられている[64]。遺物では漁具として釣針、銛(もり)、ヤスなどが出土しており、特に縄文後期に東北地方太平洋岸で特異的に見られる回転式銛頭が出土している点が注目される[65]。
弥生中期には全国的に内湾干潟の貝類であるハマグリ・イボキサゴを主体とする貝塚の形成が行われるが、小規模で数も少ない。漁労においても大陸から渡来した管状土錘を使用した網漁が行われ、網漁は後に増加・多様化し、瀬戸内海で特に発達した。また、内湾型の漁労としてイイダコの蛸壺漁も行われている[66]。
こうした縄文以来の漁労活動が継続した関東においても弥生中期には稲作農耕社会が成立する[67]。稲作農耕と漁労の関係を示す遺跡として神奈川県逗子市の池子遺跡がある。池子遺跡は弥生中期の集落遺跡で、稲作農耕と外洋漁労の痕跡を示す貝塚が共に見られる[68]。池子遺跡では銛漁やカツオの釣漁、網漁が行われいたと考えられており、カツオなど農繁期と重なる夏場に漁期を持つ魚類が見られることや、専門性の高い銛漁・釣漁が行われていることから、農耕民とは別に漁業を専門とする技術集団がいたと考えられている[69]。
淡水漁労の開始
また、弥生時代には稲作農耕の開始により、水田や用水路など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産魚類・貝類を対象とした漁労も行われる[70]。愛知県清須市の朝日遺跡は大規模な貝塚を伴う漁労と稲作農耕を兼ねた集落遺跡で、内湾漁労のほかタニシ、コイ科、フナ、ナマズ、ドジョウを対象とした淡水漁労も行われている[71]。淡水漁労の成立に伴い専用の漁具も生まれ、大阪市八尾市の山賀遺跡や福岡県春日市の辻畑遺跡では淡水魚を捕獲する筌(うけ)と考えられている漁具が出土している[72]。
各地の漁労活動
北海道では稲作農耕が需要されなかったため縄文型漁撈が継続し、海獣猟や寒流性の魚類を対象とした狩猟・漁業が行われた[73]。
九州北部では縄文時代に外洋漁業が発達し、西北九州型結合式釣針と呼ばれる独自の釣針が生まれた。この釣針の分布は縄文時代には北部九州にとどまっているが、弥生時代には山陰地方へ普及している[74]。
関西地方では大阪湾岸の宮の下貝塚など縄文型の貝塚が継続した事例が見られ、縄文晩期から弥生中期に至るまで継続して貝塚が営まれている[75]。
道具類
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができる。
石器
石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。打製石器は、石鏃やスクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。 石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。
青銅器
青銅器は半島と大陸から北部九州に伝えられた。北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。また、銅鏡も弥生時代前期末に渡来した。中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。
青銅器は、最初期の一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例が存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末 - 中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。
鉄器
弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。
弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。
北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。
弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。
土器
土器は、弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。弥生土器の初めは、板付I式土器(後に遠賀川式土器)であり、西日本はもちろんのこと東北の青森県にまで伝播した。弥生文化が本州の北端まで広がったことを物語る土器である。縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。
土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別して、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。
木器
木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具には漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。
集落
弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものに、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。
弥生時代の人々の住居には、主として竪穴住居が使われた。平面形態は円形・方形が主流で、長方形・隅丸方形がそれに次ぐ位置を占めるが、地域によって多様な様相を示す。早期の北部九州の住居には、縄文時代晩期の系譜を引き継ぐと考えられる平面方形のもののほかに、平面円形で中央に浅い皿状のくぼみを持ち、その両脇に小さな穴(柱穴か)を1対持つ特徴的な形態の住居が存在する。この形態の円形住居は、同時期の朝鮮半島南部に広く分布しており、韓国忠清南道扶余郡松菊里遺跡で最初に注目されたことから、「松菊里型住居」ともよばれる(ただしこの名称は日本国内に限定して使用され、韓国考古学界ではむしろ「松菊里類型」という用語は住居跡の形態のみでなく土器や石器組成を含めた文化総体の名称として用いられることが一般的となっている)。この松菊里型住居は、縄文時代後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡とともに、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。弥生時代中期には、住居のプランは北部九州から西日本一帯で円形プランのものが卓越すると、一部に隅丸方形のものが見られるが、弥生時代後期に入ると西日本一帯で突如として平面プランが方形あるいは長方形へと変化する。その後、次第に長方形へと統一されていく。
このほか、南部九州には「花弁型住居」と呼ばれる特異な平面プランの住居跡が分布すると、また兵庫県西部(播磨)地域には円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布するなど、竪穴住居の形態には多様な地域性があり、注目される。
弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居や掘立柱建物が想定される。平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない。
弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島から伝播するが、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られ、いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。
中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が現れ、これが主要な倉庫の形態となる。
墓制
詳細は「弥生時代の墓制」を参照
弥生時代の墓制を示す用語に、支石墓、墳丘墓、周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓、土壙墓、木棺墓、石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。
甕棺墓は、北部九州弥生時代前 - 中期の代表的な墓制である。前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用されるが、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立する。朝鮮半島に甕棺墓が現れるのは日本の約100年後であり、半島から伝来したとは考えにくい。その形状は壷形土器から甕形土器へと移行する。中期には北部九州各地で少しずつその形態を変えながらも基本的には同じ形質的特徴を共有する成人用大型甕棺が北部九州に定着するとともに、小児・乳幼児用に日常容器として使われる通常のサイズの甕形土器が埋葬容器として一般的に使われるようになり、甕棺墓制が確立する。同時に、成人用大型甕棺に付属する蓋として、大型の鉢形土器が成立する。甕棺墓は成人用甕棺が二つ合わせ口として組み合わされるものが一般的であるが、このほかにこの鉢形の甕棺専用蓋が用いられるものも多く、また木製や石製の蓋が使われることも多い。甕棺墓制は後期には急速に衰退して石蓋土壙墓・箱式石棺墓などに取って代わられ、糸島地域のみで細々と継続するほかは旧甕棺墓制分布域で散発的に認められるのみとなり、古墳時代までには消滅する。主たる分布域は北部九州地域でも筑前・筑後・肥前東部域であり、この周辺地域では副次的な墓制として分布する。
木棺墓は、明確な出自は明らかになってはいないものの縄文文化には認められない墓制であることから半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つである。弥生時代の木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の計6枚の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を作るものである。しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。板材の組み合わせ方には、両側板が小口板を挟み込む形式のものと小口板が両側板を挟み込む形式のものとがあり、これが被葬者の[出自]集団を表すとする論があるが、証明されてはいない。弥生時代前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用され、特に畿内などでは土壙墓とともに中期の方形周溝墓の主体部として採用される。弥生時代後期にはやはり石蓋土壙墓や箱式石棺墓などに取って代わられ、衰退する。また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期 - 前期前半期に特徴的に認められる。
土壙墓、特に素掘りの土壙墓は、縄文時代に一般的な墓制であり、弥生時代にもしばしば認められる墓制である。縄文時代の土壙墓と弥生時代の(特に西日本の)土壙墓とはその形状に差があり、後者の方が全長が長い。これは、埋葬姿勢の差異に由来するものと考えられる(縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められる一方、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的である)。弥生時代に新たに現れる土壙墓の形式の一つに、蓋を板石で覆う石蓋土壙墓があり、弥生時代後期に広く西日本全域で一般化する。箱式石棺墓との関連性も考えられる(箱式石棺墓の蓋石以外を省略すると石蓋土壙墓となるため)。
中国との通交
中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている[76]。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある[77]。
稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない稲の品種が確認されており、今までの朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている[78]。しかし、この説には発見された中国中南部の稲の品種はごく少量であることと水稲農耕は中国ではなく、朝鮮半島から始まった農耕である[要出典]という問題点がある。また近年、渡来系弥生人のDNAと下戸の遺伝子の関連性が調査されている[79]。
中国の史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、ついで漢書が前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。
『後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。
三国志の『魏志倭人伝』には、3世紀の倭国の状況が詳しく記されており、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。
詳細は「倭・倭人関連の中国文献」を参照
中国の三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。
山梨県西八代郡市川三郷町大塚の鳥居原塚古墳出土の赤烏(せきう)元年(238年)の紀年銘をもつ。
兵庫県宝塚市安倉古墳(あくらこふん)出土の赤烏七年(244年)の紀年銘をもつ。
朝鮮半島との関係
現代の日本人の起源についてはさまざまな仮説があったが、今の遺伝子学の研究結果によると現代の日本人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人が縄文人と混血して形成されたという。[80]
弥生人の特徴
渡来系弥生人の男性の頭骨(レプリカ)。二塚山遺跡(佐賀県)出土。国立科学博物館の展示[81]。
渡来系弥生人の女性の頭骨(レプリカ)。朝日北遺跡(佐賀県)出土。国立科学博物館の展示[81]。
大陸と半島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系を伝えた渡来系の弥生人の形質に最も近い集団は頭蓋骨の計測値に基づく自然人類学的研究によると河南省の新石器時代人、青銅器時代の江蘇人と山東臨淄の人であった[82]。また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、歯のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものであるが、南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。
近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、弥生系の人骨だと判定されている。
つまり、最初に弥生系と考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは弥生系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。水田稲作の先進地帯でも、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。[83]
鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究後、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。
一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し[84]、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[85]。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた[86]。
佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている[87]。
また丸橋賢は、弥生人の形質は生来的に退化し易い形質で、「食生活の向上」による咀嚼の減少が咀嚼力の退化に繋がり、それが結果的に日本人の生命力自体の退化に繋がったとしている。[88]
そもそも弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという見方もある[89][90][91]。
弥生時代の終焉と古墳時代への移行
弥生中期にそれぞれの地域内に複数存在した政治的まとまりが、弥生後期にはより広域の政治的まとまりに発展し[92]、2世紀末には畿内を中心とする西日本広域の国連合に発展していった[93]。中国鏡の分配主体は北部九州から畿内に移り[94]、環濠集落は消滅し首長居館が出現した[95]。2世紀第2四半期には纒向に巨大集落の建設が始まった[96]。
3世紀、西日本の大半と東日本の一部によって倭国が建国された[97]。大和の政治勢力が主導したとされる[98](ヤマト王権)。
変化は首長層だけにとどまらず、農民層の生活でも起こった。弥生時代の住居は西日本では円形、多筒形、隅円方形などさまざまであったのが終末期には方形区画の住居が急速に普及し、古墳時代前期には東日本にも広まった[99]。縄文時代から使われてきた石器は消滅し[100]、弥生後期後半には北部九州から畿内で食器が木製から土器に転換した[101]。
古墳時代の開始期にはすでに九州から東北南部の間で広域の地域間交流が成立していたとされる[102]。都出比呂志は古墳時代の開始、前方後円墳体制の成立は、弥生時代から始まった民族形成において決定的な役割を果たしたとしている[103]。
ただしこれらは主として西日本で起こった変化であることを注意しなければならない。青山博樹によれば古墳文化は西日本の弥生文化から継承された要素は多いが、東日本の弥生文化から古墳文化に継承された要素は皆無だと指摘し[104]、東日本の古墳文化は、西日本の弥生文化を継承した古墳文化に転換することによって成立したとしている[105]。
参考文献
日本考古学協会『登呂(本編)』(発掘調査報告書)毎日新聞社 1954年
滝沢誠「第7章 日本型農耕社会の形成-古墳時代における水田開発-」『食糧生産社会の考古学』(現代の考古学3)朝倉書店 1999年 pp.173~193
樋泉岳二「漁撈活動の変遷」西本豊弘編『人と動物の日本史1 動物の考古学』吉川弘文館、2008年
新美倫子「弥生文化の家畜管理」『弥生時代の考古学5 食糧の獲得と生産』同成社、2009年
濱田, 耕作「薩摩国揖宿村土器包含層調査報告」 (pdf) 『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第6巻、京都帝国大学、1921年10月15日、 29-48頁、2017年8月21日閲覧。
『成川式土器ってなんだ? -鹿大キャンパスの遺跡で出土する土器-』鹿児島大学総合研究博物館、鹿児島大学総合研究博物館、2015年9月30日。NCID BB19652584。
橋本, 達也『成川式土器の研究の道』(pdf)、2015年9月30日。

日本では弥生時代の稲作とともに大豆が普及 不二製油株式会社
 日本最大級の縄文集落跡、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡の本格調査が1992(平成4)年に開始されて以来、縄文人は狩猟採集を糧に移動する生活ではなく、温暖な気候の下、大きな栗林や木の実が多くなる森の近くに定住し、栗やドングリを主食にしていたことがわかってきました。また、巨木を用いた高層建築もつくる高い文化を持っていたともされています。
しかし、縄文時代も紀元前2,000年頃になると、世界的に気候は寒冷化に向かい、繁茂していた栗林も衰退、栗などの陸の食料、動物が激減し、縄文人も最盛期の約26万人から約8万人に減少しました。
 気候の寒冷化にともなって、稲作技術を完成させていた中国大陸や朝鮮半島の人々が新たな土地を求めて南下、日本に高度な稲作技術が伝わり、大規模の水田開発が進められる弥生時代が始まります。また平野部が狭い日本では水田開発とともに、水田以外の土地で豆類や雑穀の栽培も推し進められていきました。中国では古くから平地での稲作と丘陵地での大豆栽培を経験していたので、稲作とともに本格的な大豆栽培も普及していきました。その他、水田に不向きな土地では、あわ、ひえ、麦、蕎麦などの雑穀類、里芋や山芋などのいも類、まめ類では大豆の他に小豆、ササゲなどを植えていました。

橘倉酒造の土用越しの熟成酒、秋あがりの純米吟醸、冷やおろし
飲んだのは橘倉酒造の土用越しの熟成酒、秋あがりの純米吟醸、冷やおろしである。春に搾った酒を一度火入れして秋まで熟成させ蔵と外気の温度が同じ気温になるころには丸みが出て、グッと味わい深くなる。これを秋あがりの冷やおろしという。諏訪の酒蔵の搾ったばかり酒である荒ばしりは、泡が吹いているようで若い日本酒のおもむきがある。八王子の少し馴染みの酒屋の店主は、荒ばしりを冷蔵庫で長く保存しておくと円やかになってこれはこれで美味いといっていた。秋あがりの冷やおろしはそうした酒である。

https://manabi-japan.jp/special-interview/20190907_15184/
日本犬はオオカミと最も遺伝子が近い? そのルーツを紐解き 答えるのは麻布大学教授菊水健史氏。
 北海道犬、秋田犬、柴犬、甲斐犬、紀州犬、四国犬……。天然記念物に指定された6犬種を始め、日本には多様な地犬がいます。その多くは三角形の立ち耳、太く力強い尾、素朴で粗い被毛を持ち、他人にやすやすと心を開かない「一代一主」の気性。一途で実直、まるで武士のような性質が海外からも注目を集めていますが、彼ら「日本犬」はどこからきて、どのような進化を辿った犬なのでしょう?そのルーツと進化の歴史について、動物行動学に詳しく、犬に関する著書も多い麻布大学獣医学部教授・菊水健史先生に話を伺いました。
オオカミと犬は同じ祖先を持つ別の種
 犬の祖先はオオカミ――。長らく、そう信じられてきました。実際、ミトコンドリアDNAの配列をコヨーテやジャッカルなどと比べた時、犬はオオカミと最も近い位置に存在し、近縁であることが分かっています。ですが、実際には両者は、同じ祖先から分岐した違う種(亜種)であることが近年の研究で明らかになってきました。じつは、犬は1990年代まで行動学や遺伝学の研究対象になっていませんでした。2000年に入ってから世界的に犬の研究が盛んになり、今はまさに犬研究期の黄金時代。犬だけに認められる人との高いコミュニケーション能力など、オオカミとの違いが次々と報告されています。それでは、犬がいつどのようにオオカミとの共通祖先と分岐して「犬」という種になったのでしょう。その答えはまだ調査の途上ですが、恐らくはオオカミと犬の共通の祖先の中から怖がりではない個体、人に接近できる個体がでてきて、人もその「オオカミにそっくりな、でも人に寄ってくる動物」を狩りや夜警のパートナーなどに寛容的に受け入れる必要があったのではないでしょうか。それが恐らく人と犬の祖先の出会い。その中からよりフレンドリーな個体を選び、交配して生まれたのが犬だと考えられています。
オオカミと最もDNAが近い日本犬
 「犬」が地球上に登場し、人と暮らすなかで用途に合わせた交配が繰り返され、今や世界中に多種多様な犬種が広まりました。その中で、「オオカミと遺伝子が最も近い」と世界的に注目を浴びているのが日本犬、特に柴犬と秋田犬です。これはつまり、「オオカミと分岐する前の共通祖先」と共通のDNAを保有する可能性が高いということになります。日本犬の他人に心を許さない性質や勇猛果敢さ、自分で考えて行動する頭の良さは、この原始の気質が色濃く残っているためかもしれません。また、日本犬の特徴である三角形の立ち耳や巻尾(または差し尾)、全体的に小柄な体型は、数千年前の遺跡から出てきた犬とほぼ変わらず、原始的な犬の特徴を色濃く残しています。これは、島国という日本の環境と、ごく近年まで人為的な交配をしていなかった(自然に任せていた)ために純潔が保たれたからだと考えられます。
人と共に渡来してきた2種類の犬たち
 では、いよいよ日本の犬のルーツです。国内でもっとも古い犬の骨は神奈川県の縄文時代初期、およそ9500年前の遺跡から発見されており、縄文人が大陸から一緒に連れてきたのではないかと考えられています。愛媛県にある7200~7300年前の遺跡からは埋葬された犬の骨も見つかっており、縄文時代に人と犬が共生していたことは明らかです。その後、弥生時代になると、弥生人が弥生犬という別の犬を連れて朝鮮半島から入ってきます。犬は人と行動していますから、弥生人が勢力を広げるにつれ、追いやられた縄文人は縄文犬と共に日本列島を南北へと移動していく。その結果、日本の真ん中くらいに弥生犬、北海道や沖縄の両端に縄文犬が多くなりました。もちろん、この二種が交雑した犬も多く、今の日本犬のルーツはこの縄文犬と弥生犬、そしてその交雑種だろうと考えられます。また、人里に下りずに山や森林で暮らした犬達の中には、ニホンオオカミと交雑したものがいたかもしれません。そういう意味では、日本犬の中にオオカミの血が入っている可能性は十分あると言えるでしょう。
犬種は自然淘汰と人の用途で固まった
 最後に、縄文犬と弥生犬からどのように現在見られる日本犬ができたかですが、犬達は土地土地の環境や、どのように使われるかで変化していき、今の姿へと推移したと考えられます。例えば、秋田犬は熊狩りに使われるので体が大きい。山岳地帯で羚羊などを狩って生きていた甲斐犬は、45度の傾斜もものともせず駆け上がる強い足を持っている……。日本は山林や崖が多いことから、俊敏に動き回って獲物を捕らえやすいよう、小型化したであろうということも推測され、そのために日本犬の多くは小型~中型の大きさです。
後肢の飛節が発達しており、崖や岩場も身軽に跳躍する甲斐犬
 また、「用途」に合わせた変化といっても、日本では50年前くらいまでは犬はほとんど放し飼いで、交配も自然に任せていたところがあります。だからこそ強い者同士が子孫を残し、原種に近い遺伝子が保持されているのかもしれません。ヨーロッパでは交配の歴史がおよそ200年もあり、人間が目的をもって厳しく交配を管理していました。洋犬に社交的な性格が多く、人の言うことを聞く頭の良さがあるのに対し、日本犬が非社交的で自分で考えて行動するのは、交配の歴史の長さが大きく関係しています。近年、日本犬にもブリーダーが増え、飼いやすく大人しい気質、より小柄な体など、本来との性質・姿とは異なる日本犬も増えてきました。また、天然記念物6種以外には、保存されずひっそりと姿を消していく日本犬たちもいます。もしかすると今は、純血をつないできた日本の犬たちの過渡期かもしれません。その一方で、縄文時代の遺跡から出てきた骨格を参考に古来の犬を再現する交配を数十年間続けている「天然記念物柴犬保存会」など、原種保存を守り通している団体もあります。縄文時代に人と共に新天地にやってきた、生きていくために欠かせないパートナーであったであろう日本犬。その血を今後も守っていきたいものです。
菊水健史(きくすい たけふみ)
麻布大学 獣医学部 介在動物学研究室 教授
1970年、鹿児島県生まれ。東京大学農学部獣医学科卒業。東京大学農学生命科学研究科(動物行動学研究室)助手を経て、2007年、麻布大学獣医学部伴侶動物学研究室准教授、2009年から現職。専門は動物行動学。主な著書に「いきもの散歩道」(文永堂出版)、「ソーシャルブレイン」(東大出版会)、「イヌとネコの行動学」(学窓社)、「日本の犬 人とともに生きる」(共著・東京大学出版会)、「愛と分子 惹かれあう二人のケミストリー」(東京化学同人) などがある。

Japanese dog Jomon dog Yayoi dog Modern Japanese dog Wolf database
日本の犬 縄文の犬 弥生の犬 現代の日本犬 オオカミ データベース

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ナビ不調で蝶ヶ岳と常念岳への登山口に迷い込んだ2020‎年‎9‎月‎21‎日のこと 甲斐鐵太郞

田渕義雄さん自作のウインザーチェアーに触発されて机と椅子を考察する 甲斐鐵太郞

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クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
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ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞

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安岡章太郎が描く軍隊と現代の人々の生への現実 甲斐鐵太郎

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バラの花の向こうに甲斐の山々と青空が広がっていた 甲斐鐵太郞

2020年桃の果実の行方、山梨の果樹農家の不安は拭えない

塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞

6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞

茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞

川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞

フィルムでの写真撮影にかかる実際費用 甲斐鐵太郞

R型ズミクロンをEOS 5Dで使う 甲斐鐵太郞

R型ズミクロンの初期型をキャノンイオスデジタルの5Dを使う

レオタックスFを私は気に入っている 甲斐鐵太郞

新型コロナウイルスと肺炎疾患を考える-その資料一覧 №2-

説明する児玉龍彦氏(東大先端研がん代謝PT)
児玉龍彦さん(東大先端研がん代謝PT)と金子勝さん(立教大特任教授)にうかがう最新の新型コロナ情報。なんと、日本人を含め東アジア沿岸部は、SARS以降に今回のウイルスに根幹の似たウイルスに暴露し免疫を持っている人が多いのかもしれないという仮説が出てきました。そして、ウイルスの特徴から感染後に重症化する人を見分けてケアし、軽症者の重症化を防ぐ手立ても見えてきました。そのような状況の中で、どうしたら感染を制御して社会生活・経済生活を再開できるのか、それを考えます。収録は、2020年5月16日(デモクラシータイムス)

春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞

無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞

「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する

大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞

裂石付近の番屋小屋。ここは東京と山梨の境に位置する。

新型コロナウイルス禍を理解する 甲斐鐵太郞

5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞

緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎

白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞

八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖

思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。

主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ


YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する


田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎

地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ

富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ


霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞

中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした

暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎

灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

地震と津波

地震計は地震を予知する機能を持たない

旅行や自然や風景の動画 目次-その2-

旅行や自然や風景の動画 目次-その1-

地震計は地震を予知する機能を持たない

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

オリンピックの自転車ロード競技のテストイベントを見物する 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

2019年郡上おどり2日目7‎月‎14‎日は午後10時半まで盛大に 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

2019年の郡上おどり始まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

飛騨市古川町にNHK 朝ドラの「さくら」がいた。執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

海をみに行く。房総半島を右回りで旅行した。 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

ニセアカシアを知る-アカシア情報-

アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です


真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました)
 執筆 甲斐鐵太郎

輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎

湘南の海岸通りを走る 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ウイルス防御ソフトの「ブロック」表示との格闘三日間 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ウイルス・ソフトのパソコンへのアップの顛末記 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

「ハッピーエンド」を聴く 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎


キャノン7とキャノンP 執筆 甲斐鐵太郎

中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる

富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎

国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎

霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎

石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎

真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎

熱海桜は河津桜よりも確実に早く咲く 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎

真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎

富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)

1月10日、京都えびす神社の「えべっさん」 執筆 甲斐鐵太郎

富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎

富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった


山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎

太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎

大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎

上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎

江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎

林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎

山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎

三浦岬をぐるりと巡って葉山マリーナにでた 執筆 甲斐鐵太郎

浅草の場外馬券売り場前の飲み屋で一杯 執筆 甲斐鐵太郎

お酉さま 執筆 甲斐鐵太郎

晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎

カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎

10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎

11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎

10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎

信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎

信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎

金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎

日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた

夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う

白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ

夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時

よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ

近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり

特別な位置にいる投手としての大谷翔平

「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。

東京の桜は散って新緑の季節になりました

武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)

北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)


陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう

埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)


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