田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長) |
田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長) |
田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長) 日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。 田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長) (本文) 第44話。 物理学校に度量衡科が設置されて度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が行われた。 物理学校に修業年限1年2学期の度量衡科が設置されて度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が行われた。度量衡科では数学、物理などの基礎科目にくわえて各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などが教えられた。度量衡科の開設期間は明治24年9月から26年7月までの二年ほどであった。この二年間に度量衡科を卒業したのは68名である。物理学校の修業年数は明治24(1891年)以前は2年であった。その後は5学期2年半になった。明治14年に開学した物理学講習所、後に物理学校は1年に2回、2月と9月に入学させ、2月と7月を卒業月としていた。 度量衡法公布は明治24年(1891年)3月、施行は明治26年(1893年)1月である。物理学校に度量衡科が設置された時期に重なる。物理学校創立の一人である東京大学仏語物理学科卒業の高野瀬宗則は明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘されて度量衡法の改正に尽力していた。明治32年には度量衡器の第一回定期検定が実施されることになっていて、この難事業を成し遂げるのに物理学校度量衡科卒業生の働きがあった。 明治36年12月23日に農商務省は中央度量衡器検定所を設置(勅令第283号)した。業務開始は明治37年1月1日からで、東京都京橋区木挽町の農商務省内に建設された。同時に中央度量衡器検定所大阪支所が大阪市西区江の子島の大阪府庁構内に設置された。それぞれ所長には農商務省技師の橘川司亮が任命された。明治42年には中央度量衡器検定所福岡支所が開設された。 大正2年6月13日に農商務省官制が改正されて商工局権度課が廃止され、この日中央度量衡器検定所は中央度量衡検定所に名称変更し行政事務をも担当することになった。 農商務省中央度量衡器検定所が明治36年12月23日に設置されると度量衡講習が開始された。物理学校度量衡科が廃止されたのが明治26年7月であるから10年ぶりに度量衡器検査官ならびに度量衡器の製作に従事すべきものの養成が再開した。 明治19年(1886年)に農商務相の権度課長に招聘された高野瀬宗則は、明治36年12月23日に農商務省中央度量衡器検定所が設置されたのを機会に官を辞した。高野瀬は退官後の明治40年、大日本度量衡株式会社を設立している。 東京物理学校50年小史は高野瀬宗則」を次のように伝えている。 「明治19年農商務省権度課長ニ挙ゲラル。爾後専心本邦度量衡改正ニ盡瘁セラレ当時大臣次官局長ノ更迭頻数ニシテ容易ニ目的ヲ達する事能ハサリシモ、先生ノ意益々顰シ。明治22年陸奥宗光氏大臣ニ、斉藤修一郎氏次官トナルニ當リ先生又度量衡改正問題ヲ提ゲテ其己ムヲ得サルヲ痛論スルコト数回、遂ニ其賛成ヲ得テ第一帝国議会(明治23年)ニ提出セラレ、直ニ協賛ヲ得ニ至レリ・・・・・爾来其実施ニ付テ引続キ心血ヲ注ガレ計図畫策皆宜キヲ得、明治32年ニ至リ予テ難事業ト思惟セラレタル第1回定期検査モ無事終了スルコトを得タリ」 物理学校は 当時、母校は2月と7月の2回卒業生を出していた。修業年数は明治24(1891年)以前は2年であった。その後は5学期2年半になった。1学年を2学期制として、3年を6学期編成にしていた。そして1年に2回、2月と9月入学、2月と7月が卒業月であった。明治32年2月の学校規則改正により中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学できるようにした。 明治14年に開学した物理学校の度量衡科設置当時の生徒数は次のとおりである。 明治21年、2月、217人、12月小川町校舎を購入。 9月、303人、7月職工学校受験科設置。 明治24年、2月、352人、7月職工学校受験科廃止。 9月、413人、9月度量衡科設置。 明治26年、2月、314人、7月度量衡科廃止。 東京物理学校50年小史は「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」とあるとし、26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生をだした。 明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。 農商務省権度課長の高野瀬宗則は度量衡法制定の後の計量行政の実施、とりわけ度量衡器検定のために係員を都道府県に配置することが課題になっていたため物理學校に修業年限1年の度量衡科の設置を求めたのであった。度量衡科は度量衡器検定のために係員と度量衡器制作者の養成を目的にしていた。高野瀬宗則は東京大学仏語物理学科卒業の20名ほどの同志とともに物理学講習所設立にかかわっており、権度課長の職務ののち午後8時から物理学を講義していた。 物理学校の度量衡科は2年の間の設置期間であり、68名の修業者があった。最後の年度の修業者に関菊治がいる。関菊治は後に大阪府権度課長と中央度量衡器検定所大坂支所長を兼務する。大阪府権度課長としての関菊治の度量衡行政分野における活動は関課長のもとに全国の度量衡行政の権限があるかのごとくであった。 高野瀬宗則は日本度量衡協会副会長として日本のメートル法推進に強くかかわる。田中館愛橘は日本度量衡協会に役員として名を連ね、この間に国際度量衡委員として活躍した。関菊治は日本のメートル法推進は日本の産業振興をなすものと命を賭すほどの打ち込みをする。高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治はともにメートル法推進のためにそれぞれの立場から大きな働きをする。田中館愛橘は科学分野における国際会議に日本を代表して出席していた。田中館愛橘は物理学校の卒業式に何時もは顔をだしており、ときに挨拶代わりにラジウムの実験をしてみせていた。関菊治(旧姓宮内菊治)は1893年明治26年2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業した。田中館愛橘はいつも卒業式に出席していた。田中館愛橘は明治26年から明治29年までの四カ年、夏季休業中は全国を回って地磁気を測量している。 高野瀬宗則、田中館愛橘、関菊治は、農商務省権度課長、東京大学物理学科教授、大阪府権度課長・中央度量衡器検定所大坂支所長の立場で働いていて、日本度量衡協会のもとでメートル法推進に心血を注いでいた。 第45話。 物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長) 関菊治は1874年 明治7年 5月12日 山口県阿武名郡那須佐村194番地で、宮内善平、チセの次男として生まれる。那須佐村は萩市の隣に位置する。家は農業を営む傍ら、醤油、石油、たばこ、の販売をし、二から三人の職人を雇っての農機具の製造販売をしていた。7歳のころ母を失い、継母のウメを迎えた。 生家のある長州の萩市あたりは文武の盛んな土地柄だけあって、関菊治(旧姓宮内菊治)は幼少時代は、相当厳格な躾のもとに育てられた。几帳面で礼儀正しく、そして負けず嫌いの性格は、その幼年時代からの厳しい躾に負うところが大きい。 関菊治は山口県阿武名郡那須佐村にある育英小学校の高等科を卒業する。私塾に通いながら、育英小学校の分校へ代用教員として勤務した。この時の年齢は10歳をわずかに出たばかりであった。誠に可愛い先生であったことから、生徒からは「こんまい先生」の愛称で呼ばれていた。 関菊治(旧姓宮内菊治)の実弟である加藤亀松は次のように菊治のことを語る。「私たち兄妹は、男5人、女3人で、菊治兄と私以外は早死にしました。(注・いずれも70歳以上で他界したことを指しての表現である)。なにぶん80年も前のことで」と。 づづけて実弟、加藤亀松は次のように述べる。「私たち弟妹には、大変優しい兄で、よく面倒を見てくれたものです。当時の育英小学校というのは、尋常科4年、高等科2年でで、生徒数も120人程度いたようでした。兄は成績がよい方で、ず−と一番で通していたようです。当時この小学校が新築され、その完成披露に県知事原安太郎氏が見え、兄が生徒代表で答辞を読んだのを覚えております。毎年、村の天満宮のお祭りに、習字の展覧会行われていましたが、これにも兄はいつも最優秀に選ばれていたようです。代用教員は四、五年やっていたいたでしょうか。毎日分校まで一里余の道を、袴にぞうりを履き、弁当を小脇にかかえて通っていました。そのうち教員を辞めて、丁度東京に叔父が居るのを幸いにこれを頼って上京してゆきました」 関菊治(旧姓宮内菊治)は1893年明治26年2月19日、東京物理学校度量衡科を卒業する。卒業にまつわる逸話がある。 卒業の直前、学校幹部須藤某氏から、卒業する全員に「就職斡旋の必要上履歴書を提出するように」との申し渡しがあった。ところが関菊治(旧姓宮内菊治)だけは「学校は、物を教えていただくところで、そこに就職のお世話までかけるのはもっての外、私は卒業の栄冠だけで結構です。私自身でなんとかします」と就職の斡旋を断り、履歴書を提出しなかった。 関菊治(旧姓宮内菊治)は数府県庁に向けて、自ら作成した「就職申込書」なるものを送り、自信満々好機到来を待ったが、これへの返事は、大阪府、島根県の「本書受理すべき限りに非ず」の付箋付き返送と、他には反応なしという無惨な結果であった。 この後、大阪の米屋さんに奉公などして生活の糧を得ながら就職運動に体当たりした甲斐あってか、明治26年1893年12月10日兵庫県雇として採用され、兵庫県内務部第二課で、当時の度量衡主任松尾磯四郎氏の元に勤めることになった。 関菊治(旧姓宮内菊治)は明治31年7月12日、神戸市において、上司の世話で関勲と結婚する。関勲は明治11年石川県に生まれ、京都府立高等女学校卒業の才媛である。関勲の父、勝重は先祖代々前田家に使える武家で禄100石であった。維新後は北海道に渡って漁業をするも台風に遭って明治13年6月漁船転覆して帰らず。34歳であった。関勲はこのとき3歳。関勝重夫人は京都にでて関勲を養育する。宮内菊治は関勲との婚姻を機会に関菊治を名のる。禄100石は高野瀬宗則の父の150石、長州藩士で上士である高杉晋作の150石と比較するとその多寡が想定される。高杉晋作は長州藩の富裕層となじられていたのである。 関菊治の官界生活は次のような経歴である。 明治26年、兵庫県雇として計量界への第一歩を踏み出す。翌明治27年2月には大阪府に転じ、ついで明治28年9月には早くも富山県度量衡主任技手に抜擢されている。明治29年4月6日、富山県からふたたび兵庫県に移り、度量衡主任技手に任命される。この年から中央度量衡器検定所大阪支所長を兼務する。兼務期間は兵庫県から大阪府に転ずるまでの11年間、さらに大阪府の初代権度課長時代に就任して大正13年に退官するまでの18年間つづく。官界生活は通算30余年になる。 (調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英) 2018-12-04-tanakadate-aikitsu-11-physics-school-and-metrology-department-seki-kikuji-measurement-data-bank-web-a- |
田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治) 明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた 田中館愛橘とその時代−その12−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。 田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長) 田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き) 田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆) 田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄 田中館愛橘とその時代−その7−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則 田中館愛橘とその時代−その6−(田中館愛橘と高野瀬宗則) 日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則 田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情) 日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5- 日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英) 日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2- 日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3- 日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4- |
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日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2- |