田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた

   田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた

田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。


田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


高野瀬宗典は権度課課長の職のかたわら夜には「物理学校」で熱学を教えていた

 物理学校の修業年数は5学期2年半であり、1891(明治24)年以前は2年であった。

 高野瀬宗典は権度課課長の職のかたわら、夜には「物理学校」で熱学を教えていた。度量衡法の制定にともない権度行政の施行体制の整備は緊急の課題であり、そのためには人材の育成をしなければならない。高野瀬宗典は東京帝国大学仏語物理学科の1年先輩で、当時物理学校の校長をしていた寺尾寿に修業年限1年2学期の度量衡科の新設を依頼してこれを実現する。1891(明治24)年のことである。度量衡科は数学、物理などの基礎科目にくわえて各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などを学んだ。

 寺尾寿は高野瀬宗典を物理学普及にかかる同志と呼んでいた。度量衡科の設置も国にまかせていたら何時になるかわからない、物理学校だからこそ臨機応変に対応できるし、また即戦力になる人材の養成もできる、また学校経営上も損はないと考え、度量衡官吏の養成はのちに国の機関に移されることになるが、物理学校度量衡科修了の大阪府権度課長の関菊治は度量衡行政に手腕をふるった。度量衡科設置にあたり高野瀬宗典は寺尾寿に「度量衡制度はできたがわが国には度量衡機器の検定をしたり、製作するさいの知識を有する者が決定的に不足しているので、物理学校に度量衡科を設けてその人材を養成してほしい」と強く要請した。当時の日本は度量衡器をはじめ各種の計測器や科学機器の製造の手ほどきを役所が行っていた。

 当時の物理学校の修業年数は5学期2年半であり、1891(明治24)年以前は2年であった。

 高野瀬宗典は権度課課長のかたわら、夜には「物理学校」で熱学を教えた。度量衡法の制定にともない権度行政の施行体制の整備は緊急課題であった。高野瀬宗典は東京帝国大学仏語物理学科の1年先輩で、当時物理学校の校長をしていた寺尾寿に頼んで修業年限1年2学期の度量衡科を新設した。1891(明治24)年のことである。度量衡科は数学、物理などの基礎科目にくわえて各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などを学んだ。

度量衡科の設置も国にまかせていたら何時になるかわからない、物理学校だからこそ臨機応変に対応し即戦力になる人材の養成もできる

 東京理科大学の記念誌に度量衡科のことが次のように書かれている。

 「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」あり、明治26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生を出している。明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。メートル法を基本にした度量衡制度を敷いて度量衡行政を実施するために度量衡吏員と度量衡技術者の養成が急務であった。高野瀬宗則は農商務省権度課長であり物理学校運営の21名の同士であった。高野瀬は明治40年、退官に伴い関係者の好意の支援によって大日本度量衡株式会社を設立している。

 寺尾寿は次のように考えた。度量衡科の設置も国にまかせていたら何時になるかわからない、物理学校だからこそ臨機応変に対応し即戦力になる人材の養成もできる。学校経営上も損はない。度量衡官吏の養成はのちに国の機関に移されることになるが、物理学校度量衡科は大阪府権度課長の立場から度量衡行政に手腕をふるった関菊治を排出した。関菊治は高野瀬宗則とは知己であり、高野瀬宗則は大日本度量衡会の副会長を務めた。関菊治は大阪府権度課長を退官後に日本計量協会の会長職に推されたが固く辞退した。関菊治は中央度量衡検定所大阪支所長を兼ね、また全国の計量行政職員の実質上の任免権限をもっていた。関菊治は物理学校が排出した逸材である。それはまた高野瀬宗則の薫陶であったのか。

「度量衡制度はできたがわが国には度量衡機器の検定をしたり、製作する知識と技術を有する者が足りない」

 度量衡科設置にあたり高野瀬宗典は寺尾寿に「度量衡制度はできたがわが国には度量衡機器の検定をしたり、製作する知識と技術を有する者が足りない。物理学校に度量衡科で人材を養成することを企てた。寺尾寿は東京帝国大学仏語物理学科を卒業ののちフランスに留学中に日本で最初の理学士の称号を得る。フランス留学から帰ると28歳で東京帝国大学理科大学教授兼東京天文台台長の職に就いた。

 物理学校は東京帝国大学の物理教員や卒業生が集まってつくった学校である。東京帝国大学総長の浜尾新は「寺尾の物理学校」だからということで特例で実験機器の貸し出しをし卒業式に出席して祝辞を述べていた。

 物理学校は1881(明治14)年9月11日に東京物理学講習所として開校した。東京帝国大学総長浜尾新はこの日の祝辞で「東京帝国大学理学部を初めて卒業した20余名の本邦初の理学士たちが物理学校を設置し」と述べている。卒業式には東京帝国大学理科大学学長の菊池大麓(東京帝国大学第5代総長)、同教授山川健次郎、田中館愛橘などが出席した。

 田中館愛橘は日本人初の国際度量衡委員であり国際舞台で活躍し、ローマ字論者でもあった。田中館愛橘は長女出産時に妻を亡くしておりその後終生独り身をとおし長女が奥さんの役割をする。田中館愛橘に寺尾寿は「おい、元気でやっているか」と言葉をかける。田中館愛橘は国際度量衡委員、寺尾寿は度量衡官吏養成のための物理学校度量衡科設立の要人、菊池大麓は東京帝国大学第5代総長になった。

関菊治と物理学校度量衡科

 物理学校の修業年数は5学期2年半であり、1891(明治24)年以前は2年で、明治14年に開学した物理学校の度量衡科設置当時の生徒数などは次のとおりであった。

明治21年、2月、217人、12月小川町校舎を購入。
       9月、303人、7月職工学校受験科設置。
明治24年、2月、352人、7月職工学校受験科廃止。
       9月、413人、9月度量衡科設置。
明治26年、2月、314人、7月度量衡科廃止。

  東京物理学校50年小史は「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」あるが、明治26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生としてる。ほか関連する記述だ。

1891年 学則を改正し修業年限2年半の5学期制とする。
1891年、9月 修業年限1年の度量衡科を新設。新「度量衡法」の講習。

 明治36年、東京工業大学の前身東京職工学校(23年に東京工業学校と改称している)は専門学校令によって東京高等工業学校になった。36年の専門学校令で理工科系で専門学校になったのは、東京高等工業のほか大阪高等工業の2校でいずれも官立であった。早稲田大学に理工学部が開設されたのは明治42年である。東京物理学校が理数系の専門学校として発足したのは大正6年だった。

東京大学仏語物理学科卒業の彦根藩士高野瀬宗則

 高野瀬宗則は次のような人物であった。高野瀬宗則の経歴をウッキペディア(2018年12月3日現在)では次のように記す。これは東京理科大学関係者の視点によってつくらえれたようであるが他の資料と概ね一致する。ウッキペディアは記述が増えたり減ったりなくなったりするので2018年12月3日の文章を残すことにした。

1852年(嘉永5年)  近江国彦根に生まれる。
1879年(明治12年)7月  東京大学仏語物理学科第2期卒業。
卒業後は、駒場農学校で教鞭をとる。
1881年(明治14年)  東京物理学講習所の創立者の一人となる。
1883年(明治16年)  東京物理学講習所所長を辞する。
1885年(明治18年)  東京物理学校維持同盟員となる。
1886年(明治19年)  農商務省工務局権度課長となる。
1891年(明治24年)  度量衡法を制定する。
1894年(明治27年)3月  大日本度量衡協会(後に、日本度量衡協会、日本計量協会、現在の日本計量振興協会)設立に伴い、副会長となる。
1907年(明治40年) 退官し大日本度量衡株式会社を設立。

 1877年、東京開成学校は東京医学校と合併して東京大学と改称し、法学部、文学部、理学部、医学部の4学部を置いて発足した。欧州各国に派遣していた留学生の相次いで帰国して日本の物理学教育の担い手になった。東京物理学校の創設者は全員が東京大学理学部仏語物理学科卒業生であった。若き21名の理学士が、1881年(明治14年)東京の九段坂下に東京物理学講習所を開所した。

 東京物理学講習所を開所その105年前の1776年はアメリカ独立宣言の年で、日本では平賀源内がエレキテルを完成させている。その後、世界の覇権は大きく変わる。1799年オランダの東インド会社解散、ナポレオンの皇帝即位、アヘン戦争、ペリー来航、1858年の英国によるインド統治と続き、次いで日本では1860年の桜田門外の変、6年後の薩長同盟、1868年の明治維新、会津落城にいたる。 明治維新の3年後、1871年(明治4年)にはフランスが普仏戦争で敗れ、日本の軍事、法律、理学に対するフランスの影響は薄れ、日本の文明開化は英、米、独に強く傾斜する。

  江戸幕府の最高学府、昌平校の開校は東京物理学講習所開設の84年前の1797年である。以後、1855年の洋学所、1861年の西洋医学所、1863年の開成校と続き、1869年(明治2年)には明治政府の大学本校(昌平校)、大学南校(開成校)、大学東校(医学校)となった。しかし最も古い大学本校(昌平校)は明治3年に閉鎖された。

国費による貢進生制度と高野瀬宗則

  明治3年、広く人材を求める貢進生制度が創られ、各藩から選ばれた秀才300人ほどが大学南校に入学したが、明治4年、廃藩置県と同時に貢進制度は廃止され、南校に残ったのは130人ほどであった。 開成校と医学校は1877年(明治10年)東京大学となったが、東京物理学講習所を設立した若き21名は開成校または東京大学卒の理学士であり、そのうち7名は貢進生であった。16人は明治11年、12年、13年の東京大学の仏語物理学科の卒業生である。そして明治13年、仏語物理学科は廃止された。

 高野瀬宗則は彦根藩士の子弟である。井伊直弼が桜田門で討ち死にしたことを国元に知らせる使者は高野瀬宗則の父である。井伊直弼を病死としたことで井伊家は存続できた。貢進生とは各藩から推薦された国の給費生である。高野瀬宗則は1879年(明治12年)7月に 東京大学仏語物理学科を第2期生として卒業する。 卒業後に駒場農学校で教鞭をとっていた高野瀬宗則が度量衡制度と度量衡法の制定の大任を負うのはフランス語物理学科卒業したことが所以である。近代計量制度としてのメートル法制定をつくりだしたフランスであり、この制度を下敷きにして日本の計量制度をつくることが目論まれた。度量衡法をつくり、これの実施体制を整備することは車の両輪である。国の度量衡の責任者、高野瀬宗則にとって度量衡吏員と計量器製造の技術者の養成は緊急課題であった。このための学校が物理学校の度量衡科であった。

 高野瀬宗則はこの事情を次のように語る。

「明治19年農商務省権度課長ニ挙ゲラル。爾後専心本邦度量衡改正ニ盡瘁セラレ当時大臣次官局長ノ更迭頻数ニシテ容易ニ目的ヲ達する事能ハサリシモ、先生ノ意益々顰シ。明治22年陸奥宗光氏大臣ニ、斉藤修一郎氏次官トナルニ當リ先生又度量衡改正問題ヲ提ゲテ其己ムヲ得サルヲ痛論スルコト数回、遂ニ其賛成ヲ得テ第一帝国議会(明治23年)ニ提出セラレ、直ニ協賛ヲ得ニ至レリ、爾来其実施ニ付テ引続キ心血ヲ注ガレ計図畫策皆宜キヲ得、明治32年ニ至リ予テ難事業ト思惟セラレタル第1回定期検査モ無事終了スルコトを得タリ」

 話が少し転ずる。昭和4年東京工業大学が設置されると、物理学校の卒業生を受け入れることもあって物理学校には多くの入学者があった。「高等学校の卒業生を押しのけて入ってきては困る」という反発がでたために昭和16年10月14日、文部省は通牒で物理学校の卒業生のうち大学の学部に入学できるのは54名以内にすると制限かけた。

寺尾の物理学校そして盟友度量衡行政官吏の高野瀬宗則

 東京大学仏語物理学科卒業と高野瀬宗則の度量衡行政官吏への道は必然ともいえた。同じように仏語物理学科を卒業した寺尾寿はメートル法ならびにメートル原器と深くかかわる。

 寺尾寿物理学校在職満25年祝賀会に於ける東京大学物理学科藤沢教授は寺尾寿がメートル原器をフランスから持ち帰ったことを次のように話す。
 
「明治22年ニハ測地学ノ本邦代表ノ委員トシテ巴里ノ万国会議ニ御列席ニナッテ居リマス、一寸ソノ巴里ニ御出張ニナリマシタコトニ就テ此席ニテ胸ニ浮ビマシタノハ私ノ記憶ノ誤リカモ知レマセヌガ御帰リノ時分ニ現ニ本邦デ用ヰテ居リマス現今商務省ニ保管サレテ居ル我国ノ基本尺及ビ基本分銅ハ寺尾君ガ巴里カラ責任ヲ以テ御携帯ニナッタ様ニ記憶致シマス」とある。

 日本国がメートル原器を受け取ったのは明治23年(1890年)であった。

寺尾寿がフランスからわが国メートル原器となる器物運ぶ

 東京理科大学の年史に寺尾寿がわが国のメートル原器をフランスから持ち帰った話しがある。「寺尾寿」在職満25年祝賀会に於ける東京大学藤沢教授の演説である。
 
「明治22年ニハ測地学ノ本邦代表ノ委員トシテ巴里ノ万国会議ニ御列席ニナッテ居リマス、一寸ソノ巴里ニ御出張ニナリマシタコトニ就テ此席ニテ胸ニ浮ビマシタノハ私ノ記憶ノ誤リカモ知レマセヌガ御帰リノ時分ニ現ニ本邦デ用ヰテ居リマス現今商務省ニ保管サレテ居ル我国ノ基本尺及ビ基本分銅ハ寺尾君ガ巴里カラ責任ヲ以テ御携帯ニナッタ様ニ記憶致シマス」

とある。わが国がメートル原器を受け取ったのは明治23年(1890年)である。

 東京物理学校50年小史によると「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」あるが、26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生を出している。明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。恐らく政府は国内で混乱していた度量衡をメートル法導入を機会にまとめる必要があり、技術者の養成を物理学校に依頼したものだろう。だが一方職工学校の入学希望者の入学試験準備の受け入れや、度量衡科の設置は直接学校の貴重な収入源につながったことも事実であった。

  この時代の農商務省権度課長は維持会員の高野瀬宗則であった。高野瀬は退官後の明治40年、大日本度量衡株式会社を設立している。

専門学校になった東京物理学校の第1回入学生は269名、3年後無事に卒業したのは15名

 大正6年4月、東京物理学校を専門学校に組織替えして財団法人東京物理学校校長に中村精男、主事に桜井房記を選んだ。新発足の専門学校は本科、高等師範科あわせて269名が入学した。入学資格は中学校卒業程度とし入学試験はなかった。専門学校は従来の3年6学期制を3学年制に改め、大正9年3月専門学校として始めて第1回の卒業生をだす。高等師範科の卒業生は15名だったから進級は難儀だった。

臨席の来賓は卒業生より多かった

  3月28日に実施された第67回(専門学校第1回)の卒業式に出席した来賓は次のとおり。

 菊池大麓(理化学研究所初代所長)、辻新次(日本教育学会初代会長)、浜尾新(帝大総長)、桜井錠ニ(東京帝国大学理科大学長)、久原躬弦(学士院会員)、中川元、山川健太郎(東大総長)、藤沢利喜太郎(学士院会員)、渡辺洪基(帝大総長)、高松豊吉(稿本化学訳語集の編者)、杉浦重剛(東宮御学問所御用係)、田中館愛橘(学士院会員)、村岡範為馳(算術教科書著作者)、木下広次、長岡半太郎、大森房吉(地震大森公式の発見者)、平山信(小惑星の研究者)、田中正平(邦楽の5線譜化)、高山保綱、隈本有尚、池田菊苗、鶴田賢次。(役職名は卒業式時点でない場合がある)

戦局の悪化を理由に昭和19年文部省の指示で無試験入学制度を廃止

 関菊治(旧姓宮内菊治)が物理学校の度量衡科で学び卒業した事績を知るために物理学校のようすの記述するという回り道する。

  物理学校の無試験入学と徴兵延期の制度は、満州事変から米国との開戦があってもつづけられていた。徴兵猶予の理数科ということもあって物理学校は志願者f校門の前に列をなした。昭和19年文部省の指示で無試験入学の制度が廃止され入学定員を1部400名、2部250名と定められて入学試験が行われるようになった。物理学校の無試入学験制度はここで終了する。

 東京物理学校年度別卒業者数
          卒業生数             卒業生数
    大正2年   31名       昭和2年   74名
      3年   44名         3年  110名
      4年   45名         4年   99名
      5年   32名         5年  123名
      6年   31名         6年  135名
      7年   35名         7年  166名
      8年   27名         8年  140名
      9年   31名(専門学校第1回卒業式)
     10年   51名         9年  216名
     11年   37名        10年  175名
     12年   48名        11年  203名
     13年   53名
     14年   45名
     15年   71名(1部,2部卒業生)

明治20年から37年までの物理学校の卒業生369名のうち技術官は27名、実業家は20名と少なかった

 明治14年5月26日、文部省が東京職工学校を蔵前に設立した。東京職工学校の受験準備のために物理学校に生徒が集まった。授業開始は15年11月。物理学校の開校は明治14年9月11日だ。明治18年から中等教員免許状の文部省教員検定試験が始まったこともあって入学者が増える。職工学校への進学と中等教員検定のために生徒数が増えた。運営難であった学校経営に資するものであった。

  明治36年「専門学校令」(勅令61号)が公布されているが、物理学校が専門学校になったもものの、中等教員無試験検定の資格が付与されるのは、大正9年のことであった。多くの理数科の教員を全国に輩出した物理学校は中等教員検定試験の予備校のような状態であった。寺尾寿、三輪桓一郎、千本福隆らは中等教員検定試験の学力試験委員であった。寺尾寿は第1回からに二十回以上にわたって毎年学力検定試験委員である。

 当時、中等教員になるためには高等師範学校を卒業しなければならなかった。明治33年の「教員免許令」(勅令134号)によると「特定ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ニ依リ免許状ヲ有スル者ニ非サレバ教員タルコトヲ得ス但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員ニ充テルコトヲ得」とある。事実、明治末期の全国の公私立中学校では3分の1以上が高等師範を卒業しない、いわゆる無免許の教師が中等教育を支えていた。

 物理学校を卒業して無免許で教職に就き、何年か経験を積む傍ら勉強に励み、中等教員の検定試験に合格して正規の教員になる事例があった。実力があると定評のあった物理学校の卒業生は正規の免許状が無くても漱石の「坊っちゃん」のように物理学校を卒業して8日目に四国愛媛の松山中学校からお呼びがかかったのである。 明治末期には物理学校の卒業者は高く評価されていた。

 明治20年から37年までの間、物理学校の卒業生369名(死者23名、行方不明者17名を除くと329名)の内中学校長、教諭及び教員168名、教員助手等53名、師範学校教諭、教員17名、計238名(72.34%)が中等教員であった。教員検定試験に合格した者の中には、物理学校卒業者、在籍者、中途退学者が多かった。この期間における物理学校卒業者のうち技術官は27名、実業家は20名と少なかった。物理学校度量衡科を卒業した関菊治(旧姓宮内菊治)は 明治24年9月、設置の度量衡科が明治26年7月度量衡科廃止されるまでの卒業者のうちの一人である。関菊治の度量衡行政における働きは後述する。

明治15年の東京の人力車の数は2万5千人の車夫で同じほどの書生がいた

 大学といえば東京大学があるだけの時代が長く続く。全学生は3000人、あとは私学で慶応義塾、東京法学校(法政大学)、明治法律学校(明治大学)、英吉利法律学校(中央大学)、専修学校(専修大学)、東京専門学校(早稲田大学)があった。数多くの私塾が神田界隈に集まり大学進学塾をかねていた。このころ東京に集まってきた人々を分類すると書生と人力車夫であった。明治15年の東京の人力車の数は2万5千台だからその数の車夫がいた。車夫と書生が同数いた。「書生々々と軽蔑するな 明日は太政官のお役人」と書生節に歌われたのは明治14年ころのことである。田中館愛橘は慶應義塾で英語を習い大学予備門に進んだ。高野瀬宗則は彦根藩が推薦した者の学費を国がもつ貢進生という恵まれた立場にあり、開成学校、東京大学仏語物理学科に進み卒業する。田中館愛橘も官立の英語学校から東京大学物理学科に進む。大学に進むまでの生徒は成績が悪いと放校処分となった。夏目漱石は苦労して東京大学文学部に進んだ。

夏目漱石の東京大学進学までの苦労話

 夏目漱石は「私の経過した学生時代」として予備校の成立学舎を次のように語る。

 「その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分汚いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃してから、暫く、約1年許りも麹町の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要――英語を修めなければ静止していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曽我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学費を得るために、内職として勤めているのが多かった」

 漱石は大学に通う傍ら江東義塾の教師、東京専門学校の講師をしている。

坊っちゃんは3カ月の間に教師ののち街鉄の技手に変わって清と暮らす

 東京に戻った坊っちゃんは街鉄(東京市街鉄道)の「技手」となり清と一緒暮らす。給料は松山の教師時代の月給40円がから25円に下がる。この時代の中学教師の給与は高かった。街鉄は花形の技術畑であった。

 昭和の初期の東京で理工科系の学校は大学では早稲田大学理工学部、日本大学工学部、専門学校では東京物理学校が1校あるのみであった。

物理学校の教科とその内容

 物理学校の1年生は学科の区別なく一まとめにして教育された。2年に進まなければ物理学校の生徒と世間ではされなかった。 良い年で50パーセント、悪い年で30パーセントの生徒が1年から2年に進級できた。無試験で入学できても、だいたい半数以上が2年に進級するとき落第した。大正6年、専門学校になってからの東京物理学校規則、第9・生徒処分、第26条に「続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と決められた。物理学校に落第はつきもので、明治20年の規則にも「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明記されている。大正6年の規則は緩和された。何回か落第しているうちに卒業は無理だと悟り自主退学することが多かった。

明治19年11月、小川町1番地の仏文会に間借りした東京物理学校は学校体制を整え、 明治20年7月から、終業年限2ヶ年を4学期に分け半年毎に進級させることにし、教科課程を次のように改正した。

第1学期 算術、代数学、幾何学。
第2学期 算術、代数学、幾何学、物理学、(化学)。
第3学期 幾何学、三角法、代数学、物理学、化学。
第4学期 代数幾何学、重学、測量、物理学、化学。

  明治年12月、さらに規則を改正、2学期に化学を加え、2〜4学期において物理学・化学2科を総称して理化学科とし、その他の諸科を総称して数学科とした。 1学期は(21年の規則改定で入学期日を年に2回、学期はじめとした)全員同じ教科課程で学習し2〜3学期において物理学・化学の2科を選択すると理化学撰科、その他の学科を選択することを数学撰科とした。全ての教科を学ぶことを全科と呼んだ。理化は物理学、化学を意味した。

戦争時期の物理学校への徴兵忌避のための入学

 昭和18年(1943年)10月21日、徴兵延期停止により、出陣する学徒壮行大会が神宮競技場で挙行された。東京近在77校の学徒数万人が雨の中分列行進を行った。この時を限りに理工科系統及び教員養成諸学校学生を除くその他は徴兵猶予を停止された。昭和18年(1943年)10月12日の閣議で決定。

 物理学校の徴兵猶予の特典と無試験入学は徴兵忌避につかわれた。物理学校の生徒になれば25歳まで徴兵が猶予された。入学願書提出日には物理学校の濠端に行列ができた。昭和19年度からは文部省の指示で入学定員が決められ試験が実施された。入学生は、第一高等学校をしくじったいわゆる「一高くずれ」に始まり、文科志望の生徒、美術学校、音楽学校志望の者までが物理学校を受験した。

 理科系の専門学校と大学での徴兵延期の制度は最後までつづいた。政府高官の師弟が沢山入学していたから、とうわさされた。

 太平洋戦争も末期、毎年恒例の進級者の発表会場に異変がおきていた。以前なら進級者の発表のみに止まり、それ以外、名簿からもれたものは落第と決まっていたが、新たに落第者の氏名が発表されることになった。

 昭和18年(1943年)の入学者は内申書と身体検査票が考慮され3150名(前年度からの落第生を含む)が無試験で入学した。1年生はA〜G まで7組で編成され1組の定員450名、教室の定員が240名だから当然教室には収容し切れるものではなかった。授業も午前と午後の2部授業であった。

 1年生は同じ教科で授業がなされ、2年に進級すると明治からの伝統で、初めて各学科に分かれることになっていた。昭和18年(1943年)の入学者が昭和19年(1945年)の2年に進級する際、550名が進級、350名が落第、残りの2250名が退学(放校)と発表された。

徴兵忌避としての物理学校入学、落第放校は即徴兵

 昭和19年(1944年)度から開校以来始めて入学試験が行われ450名が合格、落第生と併せて800名で新1年生が編成された。進級者と落第者からもれたものは退学、つまり放校されることを意味していた。学校規則、第9生徒処分、第21条、5に「学力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタル者」適用したのか落第生以下のものは放校、つまり学籍を失い、当時の状況としては退学即徴兵を意味していた。中庭で落第者の中から"万歳“の歓声が起こり胴上げが起きる。落第者は進級組よりも長く学校にいられるからだ。

  進級者の発表は旧1号館の講堂脇に張り出され、落第者の氏名は1階化学実験室前の廊下に張り出された。どちらにも名前ガ無かった放校組みは「元気でお国のために働いてくれ」との言葉に送られてでていった。

 明治22年の物理学校の各学期の在籍数を見ると1学期309名、2学期193名、3学期60名4学期22名、計584名となっている。当時は終業年限2年、半年毎に1学級進級、4学級終えると卒業)であった。

 明治22年2月の学校の授業料収入を計算すると次のとおりだ。

1  学期在籍数     309名×50銭=154.5円。
2  学期在籍数     193名×70銭=135.1円。
3,4学期在籍数      82名× 1円=82円。
                        計371.6円。

開校当初物理学校の卒業生の数

 明治18年〜25年7月までの卒業生の数。数字は東京理科大学50年小史による。
18年      1名
19年      1名
20年7月    6名
21年7月    4名
22年2月    9名            22年7月   11名
23年2月    9名            23年7月    8名
24年2月   10名            24年7月   19名
25年2月   10名            25年7月   22名

 明治22年2月、9月それぞれの第1学期在籍者が一度も落第せずに順調に進級したとして2年後、第4学期を終了して滞りなく卒業した数は次のとおり。各学期の生徒数は、落第した生徒数を含むから下から進級した生徒数はさらに少ない。

22年2月1学期309名        22年9月2学期49名
23年2月3学期30名         23年9月4学期14名
24年2月に卒業したものは10名、22年2月に入学、24年2月に滞ることな卒業した生徒は3.2パーセントに過ぎない。
                                        
22年9月1学期311名        23年2月2学期67名
23年9月3学期31名         24年2月4学期21名

物理学校卒業者は社会で厚遇された

  明治24年7月に卒業したものは19名、22年9月に入学、滞ることなく24年7月に卒業した者は6パーセンに過ぎない。卒業生の中には何回か落第を繰り返し卒業した者もいる。落第なしに物理学校を卒業できる者は何人もいななかった。

  明治20年12月、規則改正に際し落第について「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と39年6月には「引続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と明記された。しかし、実際には大分、事情が考慮されていたようである。しかし、物理学校を卒業した者の数より、その数をはるかに勝る数の生徒が学校を離れてった。

 物理学校を卒業するのは難しかった。明治23年卒業生4名が高等師範の卒業生に伍して月俸35円〜30円で中学校、師範学校へ招聘されている。明治33年〜37年頃の公務員と銀行員の初任給は、東京市内の小学校の教員、警視庁の巡査で10〜13円、帝国大学卒の銀行員で35円であったから35円は待遇である。「坊ちゃん」は物理学校を卒業しただけの無資格教員でありながら月給40円で松山へ赴任している。東京物理学校校長中村精男は創立25周年記念式の挨拶で明治20年より37年春までの卒業生369名中、中学校長、教諭、教員、186名、師範学校教諭、教員17名と中学教員が半数以上を占めていることを述べている。

田中館愛橘の東京における教育は南部藩福岡の屋敷を整理した資金を元にした

 明治3年まで大学南校の生徒は貢進生として政府の命令で各藩から推薦された人材である。各藩の藩士の子弟など優れた人物が選定された。貢進生制度は国費によって営まれた。明治3年この制度が決められたとき16歳以上という規定であった。年貢進生は安政2〜4年か、それ以前に生まれた者から選ばれた。この制度は1年ほどで廃止された。

  明治4年に大学が文部省の所管になると、文部省は貢進生に大学南校から退去を命じ、学校を一時閉鎖、南校と改称して改めて開校した。退去を命じられた大学南校の生徒は4年以降、南校に再度入学しようだ。彦根藩士の子弟の高野瀬宗則が貢進生に選ばれ、制度がなくなったあとは私費によって学校に通い卒業したのはこのような事情による。田中館愛橘の東京における教育は南部藩福岡の屋敷を整理した資金を元にしている。旧姓宮内菊治であり、結婚して改名した関菊治は幼い年齢にして小学校教員をしていた身であったが志して上京し物理学校度量衡科を卒業した。旧姓宮内菊治は私費であった。

  貢進生たちは、南校でフランス語を学んでいた。明治6年、開成学校から外国語学校が分離、新たにフランス語による諸芸学科が開設されると、それにともなって外国語学校か諸芸学科のどちらかに移った。このころの学校制度の変遷は複雑であるのでここではこれ以上は触れない。

貢進生制度と東京大学仏語物理学科卒業の21名

 東京物理学講習所の設立にかかわった東京大学仏語物理学科卒業の21名の卒業生は次のような経歴を持つ人々であった。

櫻井 房記
明治2年開成学校に入学、3年貢進生に選ばれ、同11年12月24日、東京大学仏語物理学科を卒業。

高野瀬宗則
明治4年19歳で貢進生として大学南校に入学、貢進生の制度が廃止された後、私費で再度開成学校に入っている。明治12年、東京大学仏語物理学科を卒業。

本 福隆
貢進生として南校に入学、明治11年12月24日、東京大学仏語物理学科を卒業。

中村 精男
明治4年16歳で松下村塾から東京へ遊学、同12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。

寺尾 寿
明治6年19歳で外国語学校・開成学校を経て明治11年、東京大学仏語物理学科を卒業。

保田 棟太
明治3年、大阪開成所に入る。同7年東京開成学校に入学、天文学・諸芸を修め,同13年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。

桐山篤三郎
明治13年7月10日、東京大学仏語物理学科を卒業。

信谷 定爾
明治2年開成所に入りフランス語を学ぶ。3年、大学南校の貢進生に選ばれ、普通学と諸芸学を履修する。7年天文学科に移るが、廃止になり再び諸芸に戻る。8年諸芸学科の廃止により、東京大学仏語物理学科に入り、11年12月卒業。三守と同じコースをたどっている。

谷田部梅吉
13歳で貢進生に選ばれて大学南校に入学、明治12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。

三守 守
明治5年第一大学区第一中学に入学、天文学、諸芸から同年13年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。

難波 正
明治6年、開成学校に入学し、12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。

和田 雄治
明治12年7月、東京大学仏語物理学科を卒業。

沢野 忠基
外国語学校でフランス語を学び、、東京大学仏語物理学科に入学、明治13年に卒業。

三輪桓一郎
外務省でフランス人などから仏語を履修、東京開成学校の仏語の学生を経て、東京大学仏語物理学科に編入、明治13年7月卒業。

 明治初年、開成校時代の貢進生は幕府の昌平坂学問所時代からの伝統的な思想を持ち続けていた。彼らは諸費用を全て国が負担、各藩あるいは国から選ばれた人材であり、先進的指導者になることを自負しまた期待されていた。学校の名称が東京大学と変わっても学生にはその気風がみなぎり、社会に役立つことを責務と考えていた。

 明治11年から13年にわたり東京大学仏語物理学科を卒業した20数名余はわが国の理学の遅れを憂い、これを広く世間に普及し国の発展に役立てることを申し合わせていた。

明治の初めの日本は物理学を学問と考えなかった

  日本で物理学が自然科学の1分野として確立したのは20世紀になってからのことある。それまでのわが国では物理学が学問として全く認識されていなかった。明治5年(1872)片山純吉が「物理階梯・文部省刊」(東京理科大学近代科学資料館所蔵)をはじめてあらわすまでは日本には物理の教科書らしいものはなかった。最も普及したと言われるこの本ですら物理学というよりむしろ、一般の科学教科書の域をでないものであった。当時は物理という言葉さえ耳新しく、世間では易学か妖術ぐらいに思われていた。 大学でも物理学は数学、天文学、測量学などと一緒にされ諸芸学科として扱われていた。学者仲間からも「芸者」呼ばれる洋学を学んだ技術者ぐらいにしか評価されていなかった。
 
  明治28年東京物理学校卒業式での帝国大学総長の浜尾新の演説である。

「今ヨリ二,三十年前ニ於ケル理科学術ノ状況ヲ観マスレバ未開ノ有様デアリ,例ヘバ物理学ノ如キハ訳述書ニテハ気海観測格物入門ノヤウナモノ・・・物理学ノ理論実験ヲ明ラカニシタルモノ殆ンド無キヤウノコトデアリ、尤モ数学ノ如キハ物理学ノ如キ比ニアラズシテ和算ハ古来開クルモ洋算ハ当時未ダ十分ニ開ケズシテ高等数学ニ明カナルモノノハ尚ホ多カラズ,況シテ物理ト数理ト相待チテ考究スルモノニ至リテハ極メテ少キヤウノコトデアリマシタ、所デ開成学校ヨリ大学ニ及ビ段々専門学科ヲ設置シ物理学等卒業の専門学士ヲ出ダスニ至リ高等物理学高等数学等ヲ講究スルモノ増加スルニ至リ追々世間ニ幡及シ大ニ面目ヲ一変スルニ至リタル次第デアリマス、」

田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治を結ぶ計量の絆

 物理学の神髄を理解した田中館愛橘は物理学の研究と普及に命懸けで取り組む。大らかな人柄によって海外の物理学者と交流し日本のメートル法普及の立役者にもなる。高野瀬宗則は日本の度量衡法の成立をはかり、計量制度の敷設に尽力する。田中館愛橘と高野瀬宗則はフランスで開かれる国際度量衡総会に一緒に出席している。田中館愛橘は国際度量衡委員ほかの国際委員として活躍する。旧姓宮内菊治は士族の娘と結婚して関菊治と名を改める。関菊治は中央度量衡検定所大阪支所長と大阪府権度課長の役職を長く勤め日本の度量衡制度の施行に力を発揮した。

(つづく

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)

【予備文章】

  とくに前回明治39年、創立25周年を兼ね神楽坂新校舎落成の記念式の来賓(前回記載)と、第67回卒業式の来賓名を列記したのは、母校を現在に見る総合理工科系の大学の基礎を作ったと言うべき第4代校長大河内正敏を迎える人脈があったと考えられるからである。これについてはあとで詳しく触れる。
 卒業式に列席した学校職員と来賓の数を加えれば卒業生の数をはるかに上回った。この年を境に昭和4年まで卒業式を中断する。理由は明らかでないが大正8年から銀時計下賜と卒業式を廃止した東京帝国大学に習ったのではないかと言われている。
  この間の,本科、高等師範科他入学した生徒、在学生の数は次の通り

神楽坂校舎の開校

  明治39年9月29日午後2時より、神楽坂校舎で新築落成式をかね本校創立25周年の記念式典を行った。同年11月3日発行の東京物理学校雑誌(180号)には東京物理学校創立満25年、新築落成記念号に当日の模様が詳しく記載されている。
  式は午後2時にはじまり、冒頭中村精男校長より新校舎落成並びに創立25年を迎える祝辞と校舎建設の募金に協力した卒業生に対する感謝の言葉が述べられた。次いで同窓会と卒業生を代表して山下安太郎の挨拶があった。来賓挨拶には加藤弘之男爵(明治10. 東京大学法理文綜理)、田中舘愛橘博士(大正14.第1回貴族院帝国学士院会員議員)は祝辞に代えてラジウムの実験を公開して式が終了した。
  当日の来賓は上記2人のほか菊池大麓男爵(理化学研究所初代所長)浜尾新東大学長、沢柳政太郎文部次官、藤沢利喜太郎、長岡半太郎、本多光太郎、田丸卓郎、桜井、高松、平山、池田等の諸博士、学士など理学に関係ある名士、同窓会員と卒業生をあわせて500名余が参集したとある。桜井は桜井錠ニ、池田は池田菊苗のことだと思う。
  桜井錠ニは維持員桜井房記の弟で東大在学中英国に留学、有機化学者A.W.ウィリアムソンの指導を受け、帰国した翌明治15年東大の教授となり退職するまで多くの優れた科学者を育てた。早くから理論化学の重要性を指摘した。研究として有名なのは門弟味の素の発明で知られている池田菊苗と共に溶液の沸点上昇の測定ベックマン法の改良で知られている。菊苗は漱石が英国に留学中、同じ下宿に同宿、親しい間柄であった。
  錠ニは菊池大麓らと理化学研究所の創立に尽力し、大正6年開設後は副所長に就任している。大正15年帝国学士院長、後に学術研究会議長、日本学術振興会理事長を兼任しながら昭和14年死に至るまで国際的にも活躍している。東京物理学校職員録を見ると明治40年、寺田寅彦の名があるが漱石と桜井房記の関係かと思われる。明治30年前後に吉田茂が学習院に入学前に在籍するなど物理学校の人脈を調べるのも一興である。

かなり長期にわたり食った同じ釜の飯が団結精神を強くした
彼らは、開成学校、外国語学校、天文学科、諸芸学科と各自いろいろなコースをたどるが明治8年物理学科が新設されると、みなここに集まることになる。在学中、学科にはいろいろ変遷はあったがフランス語ひとすじに歩いた仲間たちであった。明治3年から13年まで10年ほどの間に、少しの先輩、後輩の年齢差があったとしても同じ釜の飯を食い、同じ年に卒業した仲間なのである。それにフランス物理学科最後の卒業生となれば同窓生としての結束も固くても不思議は無い。東京物理学校が今にある原点は設立者21名のフランス物理学を軸にした仲間の団結と言わねばならない。
 この仲間の団結が明治18年の創立者による[東京物理学校維持同盟]の結成になり、この精神を受け継いだ卒業生が明治22年[東京物理学校同窓会]が発足させるのである。22年を含めて卒業生32名、8名を除き同窓会員になっている。

も流行)ように全国から集まった書生は皆といってよいほど官吏になり出世することを夢見ていた。

明治16年9月には、東京物理学講習所を東京物理学校と改称、フランス留学から帰朝して東京大学理学部講師となったばかりの寺尾寿を初代校長に決めた。新校舎も完成、新しい学校の出発であった。

進文学舎・成立学舎は東京大学予備門の予備校だった

  明治10年、東京開成学校と東京医学校が合併、東京大学と改称すると共に大学に付属させる予科予備門を創設した。このことによって、小学校から大学までの学制がひかれ当時唯一の最高学府東京大学を目指す若者が続々と上京してきた。それに応えるかのように東京大学の周囲には予備門を受験する学生の塾と称する予備校が乱立することになった。漱石、子規、鴎外などみな予備門に入る前に世話になっている。この慣習は現在まで続いている。

  当時、中学校で英語を学んで卒業したものは殆ど無試験で予備門に入れたようだ。しかし漱石や子規のように英語の学力の無い者は入学が難しく、そのため大抵の者は入学試験準備のために英語の塾舎に通った。

)に入学する。1871年(明治4年) 
貢進生制度廃止後、私費で開成学校に入学。

  母校が開学当時わずかな期間だが間借りした進文学舎、成立学舎ともに予備門進学のための予備校で明治の著名な文学者が在籍したのでその名は文学辞典にまで記載されているが、間借りしていた物理学校の名前は出てこない。進文学舎、成立学舎、共立学舎などが有名で、東京大学の学生の学費稼ぎの教師が多かったようだ。

学舎に関係して英語を教え、若い学生の面倒をみている。逍遥は16年9月高田半峰(早苗)の勧めで早稲田と因縁を持つことになるが、母校が進文学舎に間借りしていた当時昼間、坪内逍遥は同所で英語を教授していたことになる。
  また、森鴎外は明治5年10歳から2年間同所でドイツ語を学び、2年後東京医学校予科(東京大学医学部の前身)に入学、14年東京大学医学部を20歳で卒業している。    
 正岡子規は16年6月松山から上京、一時須田学舎に入るが後共立学舎(開成中学の前身)移る。そして翌17年東京大学予備門に入学するが、子規は進文学舎で坪内の英語の夏期講習を受けたというが、16年の夏ということになる。
  子規が進文学舎に在学した時は母校が転出した後ということになる。校舎は畳敷きで机などもなく、先生を真ん中に車座に坐って暗いランプの下で講義を聴いた様子が想像される。

在のスーパーマーケットか百貨店のような店)があるほど町は賑っていた。市電が開通すると、神保町、須田町は市電最大の乗り換え場所になり、さらに市内で指折りの繁華街として成長していった。

  明治33年、神田錦町3丁目、貸席・錦輝館では東京で始めて映画が上映され連日満員の盛況だった。庶民の町としての一方学生の町としても栄えた。東京大学の開設で周辺に予備門受験準備のための塾舎(予備校)が乱立し学生(書生)で溢れていた。交通の無い時代早朝から始まる塾舎にあわせるため学生は皆小川町周辺に下宿を余儀なくされたのであろう。さらに多くの私学の誕生はこの現象に拍車をかけることになったのである。官員を目指し立身出世を願う若者が殺到したのだった。古本屋の町としても栄え、一時は300軒を数えた。

  民法施行をめぐってフランス法学派とイギリス法学派が論争をまきおこしていた時代である。この論争は私学間で激しくどちらが選ばれるかは学校の将来の問題だとして死活をかけての対立だった。フランス派には、明治法律学校と東京法学校、イギリス派には英吉利法律学校があった。
  母校は時代的にも場所的にもそんな事件に囲まれながら理学の道1本に進んでいた。

  結局、対立は政府がドイツ・イギリス法にならったことでフランス学派は敗退することになったが、フランス物理学の系譜を担い、東京大学フランス物理学科最後の卒業生としてこの事実をどう見ていたのだろうか。

することとす。」と書かれている。つまり、18年に学校の財政的危機を救うべく発足した維持会の懸念は2年足らずで払拭できたと言ってよいだろう。
  明治18年、維持会が結成された頃の授業は、算術・三角法(櫻井)、代数(信谷)、幾何・重学(三守)、代数補充・代数幾何(三輪)、測量・天文学(寺尾)、物理学大意(鮫島)、物理学(高野瀬)、化学大意・化学(中村恭平)が受け持っていた。だが、20年、中村恭平は福島へ、谷田部は山口高等中学校の教諭兼教頭から翌21年にはマニラ領事に任じ、同年、難波は仙台に第2高等学校が出来ると教諭兼教頭に、さらに玉名も鹿児島へ、23年になると櫻井も熊本に赴任している。

寺尾は、明治22年(1889)、測地学のわが国代表としてパリーの万国会議に列席した際、日本にメートル原器を持ち帰ったとされている。わが国は明治18年(1885)にメートル条約に加盟、22年にメートル及びキログラム原器各3個の公布を受けている。国際度量衡総会は6年ごとに開かれ、1889年に開催されているからこの総会に寺尾は出席したものと思われる。現在、メートルの定義は改められているが、原器の歴史的な意義は大きい。

物理学校の卒業生に中学校無試験検定の資格が与えられるようになったのはそれからしばらくして、明治39年、物理学校が現在の所在地、神楽坂に移り、大正6年専門学校として認可された後のことである。

生徒増の大きな原因は、先に触れたように東京職工学校(東京工業大学の前身)の受験生が多く学ぶという事態が起きたことによる。学校でもこれに対処すべく明治21年から24年まで東京職工学校の依頼で、終業1ヵ年の特別科を設置している。さらに、文部省の教員検定試験の受験希望者が増えること、初めて学校経営がすべて授業料で賄えるようになり、それまで学校の諸経費を援助してきた維持同盟員の醵金に頼らなくてもよいことになった。

明治11年の卒業生を見ると、櫻井、信谷、千本、寺尾、中村(恭)は順調に卒業したものと考えても間違いはあるまい。13年の卒業生で三守と保田は、8年物理学科開設と共に入学している。この点においては11年卒の信谷と同じである。
 8年から13年まで5年間にわたるフランス物理学科の生徒移動の詳しい経過は分から

明治2年(1869年)開成校、昌平校、医学所をあわせて大学に      

  あとで東京物理学講習所を発足させる東京大学・物理学科の卒業生の履歴を考察するうえで明治初期、彼らの学んだ東京大学が開成学校と言われた時代の歴史が大切となるのでまず初め、ここから話を進める。

  安政2年(1855)、幕府は洋学所を開設、翌3年、これを蕃書調所(ばんしょしらべじょ)と改めた。文久2年(1862)に洋学書調所とし、3年になると開成校と改称した。
  明治元年(1868)開成校は明治政府に接収されて名称を開成学校と改め、翌2年1月に開校した。
  同年6月、政府は開成学校と旧幕府の高等教育機関、昌平校(儒学・国学)、と医学所(西洋医学)と合併して7月には官制の大学校の基礎を作った。そして、昌平学校を大学本校に、開成、医学の両校を分校とし、3校をあわせ学校としての形をととのえ大学とした。
 一ツ橋にあった開成学校が、御茶ノ水の昌平学校、つまり本校の南にあったことから大学南校と呼び、御徒町の医学校が東にあることから大学東校と呼ぶことにした。

 3年(1870)、南校は普通、専門(法科、理科、文科)の2科に分けたが、実際には普通科の開講のみに止まった。学力は高等学校程度であったようだ。政府は各藩に対してその石高に応じ一定数の人材を選抜し、16歳以上、1000名を大学南校に入学させることを命じた。貢進生制度である。結果300名が入学することになった。
  しかし、まえまえから大学内部の国漢学派と洋学派が、学校のありかたをめぐっての対立し、紛争になったのを機会に、古い学問は新しい時代の潮流にそぐわないと、何の対策も無いまま南校と東校を残して大学本校を閉鎖してしまった。このことは洋学派が国漢派を抑え学校の主導権を握ることを意味していた。

明治8年(1875)大学南校(もとの開成校)に物理学科が始めて開設される

 4年、文部省の設置にともない大学は文部省の所管に移り大学南校を南校と改称、貢進生を退学させて大学を一時閉鎖、学制を改革を行い新入生を募集し大学を再び開校した。 また、新しく外国人教師(明治10年、創立当時の東京大学4学部の教授数39名のうち27名が外人教授であった。)を雇い入れ西洋的学問の高等機関に成長していくことになった。当時は講義で日本語を使用することが許されず外国語で行っていた。当初は英、仏、独語が使われていた。だが、物理学をひとつの学科として取り上げるにはさらに時間を要した。
 この年、政府は岩倉具視を全権大使として総数48名の使節団を欧米に派遣している。目的は条約改正の予備交渉であったが、他に日本の将来に向けてのビジョンをつかむことでもあった。欧米の旅から彼らが確信を得たことはわが国の文化に英米の仕組みを即急に導入することだった。
 5年、南校は第一大学区第一番中学と改称、さらに6年には元の開成学校に戻り、7年には東京開成学校と名前を変えている。
 6年(1873)、外国語を英語に限定して法理工の3科と、諸芸(佛語)鉱山(独語)の暫定学科をつくり、開成学校から外国語学校を分離独立させた。7年にはさらに外国語学校から英語科を切り離し東京英語学校を開設している。8年になると諸芸、鉱山の2学科が廃止され、ようやく数学・物理の重要性が認識されるようになり物理学科(仏語)が新設された。

「・・・・20年前デアリマスルガ東京開成学校ニ於イテ学科ヲ改正シ専門学科ヲ設置スルノ時二当リマシテ当局者ノ思ハレマスルニ理科ハ至重至要ニシテ一般ノ教育ヲ充実ナラシムル為メニモ百工技芸ノ応用学術ヲ拡充セシムル為メニモ之ガ基礎タル物理学数学等ノ純正学術ヲ振興シ上進セシムルニアラザレバ教育ヲ整備シ学術ノ進歩ヲ図カルコトハ能ハザルベケレバ特ニ物理学等ノ専門学科ノ設置ヲ急務トセラレタル次第デ、当時教科ノ改正ニ際シ物理学ヲ一科専門トシテ設置コトトナリ遠ク海外ヨリ物理学及数学専門ノ教師ヲ招傭シ仏語ヲ以テ予科ヲ履修セル学生ヲシテ就キテ専修セシメラレタル次第デアリマス、夫レヨリ数年ナラズシテ始メテ二十餘名ノ物理学卒業ノ学士ヲ出ダスニ至リマシテ尋デ当物理学校ヲ設立セラレタル者ハ即チ此等物理学専修ノ人々デアリマス・・・・」
明治28年2月17日,帝国大学総長 浜尾 新の東京物理学校卒業式に於いての演説(東京物理学校雑誌)

明治10年(1877)医学校と開成校が合併、東京大学に

 10年(1877)には東京医学校と東京開成学校は合併して東京大学と改称、法理文の3学部と医学部計4学部を置いた。文学部は史学・哲学および政治学科と和漢文学科の2学科、理学部は化学科、数学・物理学・星学科、生物学科、工学科、地質学・採鉱学科の5学科で構成され、物理学は数学と星学と一緒にされてしまった。と同時に東京英語学校は東京大学予備門と改称して法理文3学部の予科になることになった。第一高等学校の前身である。以上が明治元年から13年まで開成校が東京大学に到る大まかな経過である。

  理学部で数学、物理学、星学科がそれぞれ3科に分かれたのは、フランス物理学科が廃止になった13年7月の翌年、14年のことであった。  
 ここに学んだ卒業生が後に東京物理学講習所の創立にからんでくるのである。この歴史の中で東京物理学講習所を起こした東京大学理学部物理学科の明治11年より13年までの卒業生21名の履歴を物理学校雑誌の中から拾ってみよう。

物理学校でお世話になった上原覚先生(大正13年理化学科卒)から次のような話をよく聞かされた。「メートル原器の材質、白金イリジュウムの値段が高く、はじめ製作したものは個数も限られていた。本来、世界のメートル原器はすべて同じ釜で同時に溶かされた金属で作られていなければならない。しかし、日本の原器は2度目に鋳造されたもので厳密に言うと、はじめに作られたものと材質が異なるものだ」「キログラム原器をフランネルでこすると、何回で何グラム減るか」など質問も受けた。
  上原先生は化学の教師であり別にメートル原器に興味を持っていたともおもわれず、恐らく学生時代原器について相当詳しく話しを聞かされたのだ

2018-12-04-tanakadate-aikitsu-11-physics-school-and-metrology-department-seki-kikuji-measurement-data-bank-web-a-

田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代−その12−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代−その7−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その6−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

 
 
 


田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代−その7−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その6−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘−その1−(執筆 横田俊英)

メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏(計量の歴史物語 執筆 横田俊英)






冬の山中湖と富士山

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る

正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった

上高地 晩夏

風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません

川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-