富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
山中湖。白鳥がいる。ここにいるのはコブハクチョウだ。手前は氷。
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
道志村を流れ落ちてきた水はこの先の津久井湖で山中湖、
忍野経由の水と合流して相模灘に注ぐ。水は低きに移る。
富士山の雨集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
道志川の最下流では岸辺の芦やススキを刈っていた。
何故するかわからない。放っておけば樹木が林立する。
(タイトル)
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
(本文)
その昔、道志村で鮎釣りをするには相模湖駅からのバスに乗って半日の行程であった。釣って一泊し、半日釣って帰る。遠い遥かななる道志道の鮎釣りであった。相模湖駅は与瀬駅と呼ばれていた。高尾駅は浅川駅であった。相模ダムができてからは与瀬のアユ釣り場は底に沈んだ。相模川の鮎に解禁ともなると与瀬駅に前日に降り立って川を渡った宿に雑魚寝をして備えるのだった。これは戦前のことであるから聞いた話である。湖に沈んだ宿は保証金で丘の上に宿を再建した。中央道が相模湖まで開通したころには遊覧船乗り場に行列ができた。客が減ったら乗客の取り合いをして殺人事件がおきた。
与瀬から名称田名までの相模川の船下りが行われていた。明治の物理学者である田中館愛橘の弟子たちが師を田名の川魚料亭でもてなした。弟子たちの多くは帝国大学の物理学教授になっていた。弟子たちが退官しても師を田名や房州の姉ヶ崎に誘った。田中館愛橘は貴族院議員をつとめ昭和天皇に物理学を進講していた。天皇裕仁はあの話はどうしたといって田中館にローマ字論を誘った。田中館愛橘は人に好かれる人だった。
平成天皇が皇太子時代に魚学を進講したのが東大教授だった広末恭雄であり『魚・自然・人間』がある。東大受験に失敗をかさめて心を病んだある人は河原でふと思った。人生は釣りをしていればいいのだと。この人は有名な釣り師になった。私が釣りに誘った中学生は道志川で鮎釣りをしたために釣りのとりこになって釣具店に勤めるようになった。
山中湖は富士山麓の湖であるから標高が高い。水面の標高980.5mである。終着点の相模原市緑区にある津久井湖の湖面の標高は125mである。相模湖の湖面の標高は167m。これらはすべて相模川水系であり水は忍野、都留、大月をへて850mほどの落差を旅する。標高差を利用しての自転車旅行である。
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する