田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)
  田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)
田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)


肥田城を水攻めと肥田城の位置を示す見取り図。


肥田城と宇曽川そして堤を描いた図。下方が北側。

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。

田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

(本文)

第42話。
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖と推定される高野瀬秀隆)

 高野瀬秀隆は六角義賢に従っていた。高野瀬秀隆は現在の彦根市肥田町に肥田城を築いていた。この城を拠点に六角義賢に敵対する浅井長政との戦いの最前線にあったのが肥田城である。六角義賢と浅井長政の力はときどきで変動した。味方に付くものが増えれば強くなり、減れば弱くなる。どちらに付くかは周囲の勢力の動きを含めた様々な要因による。

 肥田城高野瀬秀隆は六角義賢の側から浅井長政の側に移る。高野瀬秀隆を討たなけれた勢力の挽回ができないから六角義賢は肥田城を攻める。取った方法は肥田城を水没させる水攻めであった。肥田城は城下町を有する新しい形式の城であった。守りの堅固さを美濃国主の斎藤義龍が褒めた書状が残されている。肥田城の北は宇曽川があり、南には愛知川がある。この二つの川を天然の堀としてな防御は堅固であった。平野部につくられた平城が肥田城である。

 水攻めのことを少しまとめてみよう。中国では春秋時代に「晋陽の戦い」で水攻めが行われた、後漢末期に曹操は水攻めの戦法を採っている。日本最初の水攻めは文明15年(1483年)の若江城水攻めである。六角軍いよる肥田城水攻めは永禄2年(1559)4月3日(旧暦)である。名高いと羽柴秀吉による備中高松城水攻めは天正10年(1582年)である。秀吉にはほかにも紀州太田城と竹ヶ鼻城)の水攻めがある。秀吉の命によって石田三成による忍城を水攻めにした。

 水攻めは費用が掛かる。備中高松城水攻めに要した費用は「安土城を2つ築城してもまだお釣りが出るくらい」と語られる。話半分だとしても費用を要する。秀吉による備中高松城水攻めのための土塁は、底の幅12間(23mほど)、上部の幅6間(11mほど)、高さ2丈余(6mほど)、長さ30余町(3.3qほど)。これに要した費用は70万貫文(1千億円ほど)だという。

 六角軍は、肥田城から距離にして200mの宇曽川と1qほどの愛知川の水を肥田城に流し込む作戦を取った。永禄2年(1559)4月3日(旧暦)のことである。水かさが増しているなか5月28日(旧暦)に降った大雨は溜池の役目をしていた堤を決壊させた。これによって水攻めは失敗する。切れた堤があったところが廿八という地名として残っている。水攻めは肥田城を幅23m、長さ6.3qの土塁(堤防)を築いて囲むものであった。堤防の高さを示す資料をがないのが残念なことである。肥田城の土塁は築城のときに城の警護のために築かれていたという見方があるが定かではない。

 水攻めに失敗した六角義賢はなおも肥田城を攻める。肥田城をどちらが獲るかは決定的であった。兵の数では六角義賢が浅井長政を上回っていた。浅井長政は野良田表の合戦で六角義賢を打ち破る。この勝利によって浅井長政の名が戦国の世に広がる。同じ年、織田信長は桶狭間で今川義元を討っている。浅井長政に織田信長の妹のお市が嫁いだのは後のことである。

 勢力を広げ、また戦に勝てばのし上がる戦国の世における高野瀬秀隆と肥田城そして高野瀬一族のことである。

 高野瀬氏の始まりは近江守護佐々木氏の分家が高野瀬村を与えられて住んだ。また三上山の大ムカデ退治や平将門の乱を平定した藤原秀郷の子孫が源平合戦のときに源頼朝についていて高野瀬に住むようになった。これら二つが伝えれれている。もう一つ鎌倉幕府が終焉を迎えるときに六波羅探題であった北条仲時を高野瀬隆重の働きで番場宿で自害させたという伝えがある高野瀬氏は鎌倉時代末期までに高野瀬村に落ち着いて、この地名を氏とし築城した。近くには高野瀬氏が信仰していた天稚彦神社がある。

 古くから高野瀬村に土着した高野瀬一族は勢力を広げる。14世紀後半から15世紀に佐々木六角氏の命で肥田城を築城したとされている。鎌倉時代から戦国時代まで高野瀬村周辺を治めていたころに、明(中国)との貿易をしていたようだ。城跡から明銭が大量に出土している。紙の生産や瓜(うり)の取引も行っていた。佐々木(六角)氏をつうじて朝廷に瓜(うり)が献上されていた。東山道(中山道)には下枝の関をつくっていて、関銭五十文を徴収していた。通行税といったもので500円ほどの金額だ。

 高野瀬一族は応仁元年(1467)から始まった応仁の乱に巻き込まれる。

 江州の地では北の京極氏(東軍)と南の六角氏(西軍)に分かれて戦いが行われる。両軍の勢力の境目は現在の彦根市であった。高野瀬一族はこの戦乱の渦中にあって六角氏の側にあった。佐々木一族が近江守護職の名を冠した時代のことである。

 応仁の乱から戦国時代に移行する。江州のちにあっては勢力争いがつづく。西軍に属していた六角氏は、都で権力を握った東軍の細川氏との戦い明け暮れる。浅井久政は京極氏を打ち破って湖北の実権を握る。六角義賢は浅井久政と江州の覇権を争う。高野瀬一族の高野瀬備前守は六角義賢に属して戦うが天文22年(1553)の討ち死にする。高野瀬備前守の後を継いで肥田城主になったのが高野瀬秀隆である。高野瀬秀隆は先代の仇である浅井氏の側に付く。浅井有利の状況ができていたからだろうか。

 江州の地の覇権を浅井氏と六角氏が争うようになった。高野瀬秀隆は浅井長政に従うようになった。浅井長政が織田信長に討たれたあとには織田に従う。浅井氏側に信長の家老である柴田勝家の軍に組み入れられた高野瀬秀隆と隆景親子は越前で討ち死にする。

 肥田城主である高野瀬秀の子孫はは近江の地に生き残っていた。江州彦根藩主井伊家の家臣「役名 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石」がそれである。このように推察される。

(つづく)

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)

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田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代−その12−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代−その7−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その6−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

 
 
 

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初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘−その1−(執筆 横田俊英)

メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏(計量の歴史物語 執筆 横田俊英)






冬の山中湖と富士山

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る

正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった

上高地 晩夏

風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません

川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-