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縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-
At the foot of Mt. Yatsugatake, where the life of Jomon was Part 8
執筆 甲斐鐵太郎

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-
執筆 甲斐鐵太郎 旅行家

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-甲斐鐵太郞

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-甲斐鐵太郞
縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

清泉寮旧館の木造建築。アメリカ式になっている。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

清泉寮の花壇とそこ奥にある石積みの洋館。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

5月の清泉寮。背後に八ヶ岳主峰の赤岳がそびえる。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

清泉寮建設1950年。左から3人目がポールラッシュ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

林が広がる。レタス畑が侵食しているのが川上村だ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

川上村のレタス畑。晴れると八ヶ岳連峰がみえる。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。


縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-甲斐鐵太郞


(本文)

 縄文の人々の暮らしの跡は日本国中に広がっている。八ヶ岳山麓には縄文人の暮らしの跡が良く残っている。縄文の暮らしを確かめることは現代人の暮らしを見つめることでもある。山暮らし、森や林と隣接して暮らすこと、あるいは川べりに、湖や沼の端に、そして海辺での縄文の暮らしを確かめていく。


 縄文の暮らしと道具を調べる。弓は人類の古い時代からの道具である。弓から放たれた矢が動物に向けられていた時代は平和である。矢が人に向けられるようになる。縄文の遺跡から矢を受けた人がでているかどうかを詳しくは知らない。事例があってもごく僅かであるだろう。こうした事実を聞いていないからそのように考える。




田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞
田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

清泉寮旧館の木造建築。アメリカ式になっている。

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

清泉寮の花壇とそこ奥にある石積みの洋館。

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

5月の清泉寮。背後に八ヶ岳主峰の赤岳がそびえる。

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

清泉寮建設1950年。左から3人目がポールラッシュ。

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

林が広がる。レタス畑が侵食しているのが川上村だ。

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

川上村のレタス畑。晴れると八ヶ岳連峰がみえる。

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。

(本文)

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞

田渕義雄さんの暮らしにヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」を重ねる

 「寒山の森から」の田渕義雄さんは聖なる人である。千曲川源流と小川山というロッククライミングの岩場の山に近い川上村川端下に初期アメリカ風の家で暮らすその様子は世俗の観念で切ることができないものなのだ。何よりも「寒山の森から」という著書であり、アウトドア雑誌への常連寄稿家であり、そうしたことで生活を成り立たせていることに羨(うらや)ましさがあった。田渕義雄さんの暮らしにヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」を重ねるのだ。フライフィッシングの訳本をだし、フライフィッシングの大家であり、ロッククライミングに興じるというのは願ってもできないことなのだ。バックパッカーであり海外の野山を駆けて北米の川で釣りに興じているのだから。

6月の八ヶ岳登山では南東の眼下にビニールの白い畝(うね)が広がっているのは不思議な光景であった

 長野県南佐久郡川上村のことは知り合いが1970年代に牧畜農家の暮らしぶりを撮影して発表したことで知った。この時代に川上村は高冷地農業でレタス栽培が盛んだったのだがそうした写真は印象にない。6月の八ヶ岳登山では南東の眼下にビニールの白い畝(うね)が広がっているのは不思議な光景であった。野辺山や川上村のレタス畑であることを後に知る。道端に捨てられたレタスの苗をベランダで育てると結球するこなく細く長い葉の先に花が咲いた。

共に暮らすつれあいは単行本の編集者だ。田渕義雄さんは文筆家になっていてアウトドア雑誌などの定期執筆をする

 1982年は田渕義雄さんが川上村川端下の板張りの家に住み始めた年である。どの道を通ったののか覚えていない。38歳であった。共に暮らすつれあいは単行本の編集者だ。田渕義雄さんは文筆家になっていてアウトドア雑誌などの定期執筆をする。図書もだす。人気作家であれば別荘で執筆して暮らせる。文章の題材は世俗から拾うのだから隠遁してはいられない。田渕義雄さんはフライフィッシングとロッククライミングとその道具と川上村川端下のことを題材にして執筆した。文章は都会暮らしの人の癒(いや)しとなった。また都会から抜け出して田舎暮らしを始める人にきっかけを与えた。多くの場合には八ヶ岳周辺の別荘暮らしへの誘(いざな)いとなった。

田渕義雄さんが刺激しなくても1980年代には別荘暮らしへの憧れがふくらんでいた

 私の知り合いの一人は八ヶ岳を通過して蓼科山の裏に回ったところに別荘を建てて足蹴く通った。新聞印刷の会社で編集指導をする人であった。全身全霊で山登りに打ち込んだ姿は周囲の女性の憧れとなり或る人が連れ合いに選ばれた。田渕義雄さんが刺激しなくても1980年代には別荘暮らしへの憧れがふくらんでいた。この人は釣りは殺生だからとしなかった。もう一人の知り合いは新潟県湯沢町に別荘をつくった。湯沢町を流れる魚沼川に誘われてイワナ釣り、ヤマメ釣り、アユ釣りに興じた。この人は新聞印刷会社に勤務する顧客担当であった。蓼科山山麓と湯沢町の魚沼川近くに別荘を建てて人はともに連れ合いが地方公務員であった。そして共働きして週末を別荘を拠点にして遊ぶのである。ある一人の知り合いは甲斐駒ケ岳を南面にみる地に別荘を建てて東京から移り住んだ。オーディオが趣味で凝った装置を来訪者に披歴した。地方公務員の連れ合いは歌手とそん色ない歌を歌い、YouTubeに投稿された動画が高視聴である。蓼科山麓と魚沼川の別荘には薪(まき)ストーブが据えられていた。

望岳荘と名付けのは蓼科山麓の住民である、魚沼荘はそのままだ、私には高尾山麓荘というのがある

 地方公務員をつれあいにする別荘暮らしの三人は、別荘で会社業務をしなかったし、別荘暮らしを通じて収入を得ることをしなかった。その必要がないこともあったが特別な才覚をもたなかった。蓼科山麓と魚沼川の別荘の住人は薪(まき)を地元の知り合いから買っていた。薪の費用は大きい。苦労を口にすること度々だった。望岳荘と名付けのは蓼科山麓の住民である。魚沼荘はそのままだ。私には高尾山麓荘というのがある。人は別荘だと理解するがそうではない。

つれあいは単行本編集者だという田淵義男さんは如何なる経歴の持ち主か

 つれあいはブックメーカーすなわち単行本編集者だという田淵義男さんは如何なる経歴の持ち主か。都内下町のガソリン販売店の三男であり、小学校では「学業は優良といえるが、協調性に欠ける嫌いがある」と担任教諭に評価される。早稲田大学文学部哲学科を卒業する。大学では生物の研究会で昆虫を対象として活動する。リュックを背に山に分け入るのが活動である。私は北アルプスを廃道状態の伊藤新道の危険な道を命からがら下って晴嵐壮にたどり着いた。晴嵐壮に宿泊しにきた青年は昆虫を右手でひょいと捕まえて簡単に解説した。昆虫のために山に分け入る人がいることと青年の純真無垢さ驚き、またそうした人の行動が清々しかった。7月の北アルプスの夏であった。

い田淵さんはヘンリー・D・ソローと「ウォールデン-森の生活-」を教本にしていたことを確かめた

 ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン-森の生活-」を田淵義雄さんが強く意識していることを感じていたが、田淵さんはヘンリー・D・ソローと「ウォールデン-森の生活-」を教本にしていたことを確かめた。虫取りは田淵義雄さんを山に運ばせバックパッカーにさせた。北米を旅すればニジマス釣りにであること必然であるからフライフィッシングの世界が田淵義男さんについてくる。それでもなお或る何かがありそうだ。みつかったのが次のような一文である。

学生時代の後半は学園紛争に明け暮れる日々としてあった、擦り切れた全学連旗を掲げてデモの先頭に立ったこともあった

 「わたしの学生時代の後半は、学園紛争に明け暮れる日々としてあった。擦り切れた全学連旗を掲げて街頭デモの先頭に立ったこともあった。青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学んだし、機動隊の棍棒は痛いものだと知った。我々は、野良猫のように蹴散らかされた。そして、高度経済成長の渦に投げ込まれた。あの時代のあの学生運動への情熱がなんであったのかは、自分には永遠の謎としてある。だが協調性に欠ける学徒達の腹いせだったかも知れない、という羞恥は残るにしても、後悔はない。何故なら、そこには時代や社会に対する“純真さ”があったからである。」

旧制高校はリベラルアーツ、大学や旧制高等学校の自治と思想の自由は一体のものであった

 1960年末の日米安保条約改定と学費問題で大学が騒然としていた時代に田淵義男さんは早稲田の学生であった。日米安保条約はそのご自動改定されるようになり日本の社会は経済発展の爛熟を迎えた。日本の内閣・政府に歯向かう大学、大学教職員そして学生は邪魔者であるから政府は大学を徹底して懲らしめた。大学の自治を破壊し学問の自由を奪った。旧制高校はリベラルアーツということで人類が残したあらゆる学問と芸術を学ぶところであった。そのために思想の自由は欠かせない。大学や旧制高等学校の自治と思想の自由は一体のものであった。

日本の大学は世界で一番魅力のない大学になってしまったと宇沢弘文氏はいう

 連合国軍最高司令官総司令部GHQ(ジーエイチキュー)に駆り出されて戦後の日本の統制と経済の行方を決める物事を通訳として見聞してきたのが経済学者で社会学者でもある宇沢弘文氏である。「自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)」の著者、宇沢弘文氏は、70年安保を政府の意を受けて賀屋興宣氏が右翼などを動員して大学と学生教職員を徹底して弾圧したことを明かす。このために日本の大学は世界で一番魅力のない大学になってしまったと公言する。

岸信介氏と賀屋興宣氏のGHQによる釈放とその後の日本の米国支配を宇沢弘文氏は論証的に説明する

 賀屋興宣氏は岸信介氏とともにA級戦犯であったが東条英機の絞首刑の翌日にGHQの手によって釈放される。賀屋興宣氏は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で再び大蔵大臣であった。を務めて戦時経済を担当したが、東郷茂徳外務大臣と共に米英に対する開戦には終始反対だった。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。岸信介氏と賀屋興宣氏のGHQによる釈放とその後の日本の米国支配との関係を宇沢弘文氏は論証的に指摘する。

「機動隊」によって「野良猫のように蹴散らかされた」や、虫取りと、薪ストーブへの憧れが田渕義雄さんの「寒山の森」生活の下地となった

 「青い林檎にかじりついて、その酸っぱさを学ん」び、「機動隊」によって「野良猫のように蹴散らかされた」田渕義雄さんであった。この経験と虫取りと、薪ストーブへの憧れが田渕義雄さんの「寒山の森」生活の下地となり動機になっている。このように推察する。

【参考のために】

田渕義雄(たぶち・よしお)さん

 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学哲学科を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。都会暮らしというのは公園の緑があっても、緑の並木道があってもそれは造られた人工物である。本物の自然ではない。公園の緑は決して人を癒やしきらない。あるとすればせいぜい日除けとしての緑だ。

 鮎釣りの名士が言った。東京大学入学を志していたのだが釣りをしているときに「もしかしたら人生は釣りをしていればいいのではないか」と決断をしたらすべての惑いが消えた。釣りは人を虜(とりこ)にする。

 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。

 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。

 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。家は自分の手で建てた。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。

ソローと『森の生活』

 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称です。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。

ナチュラリスト

 ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。

ヘンリー・D・ソロー

 ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。

 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。

 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとするは金銭的な豊かさを求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌は人々の尊敬と共感を得た。

 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。

 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。

 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。

 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。

 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。

田渕義雄さん関連のこと

早稲田大学文学部哲学科

 早稲田大学文学部哲学科をでて故あって大工になり薪ストーブ設計で右にでるものがいないと自負する人が知り合いにいる。田淵義男さんと同年代だ。その人も著述を業にしていたことがある。自らは最後のトップ屋だと称した。知能豊かで博識な人だった。

ヘンリー・ソローを意識していた田淵義雄さん

 田淵義雄さんは30年を超える寒山暮らしによって自らがナチュラリストであることを確かめる。田淵義男さんの自問自答の言葉がつづく。決定的な言葉がある「エコロジーは自然を顧みない体制に対する反体制的哲学としてある」と。田淵義雄さんの寒山の暮らしがヘンリー・ソローの森の生活を意識していた。田淵義雄さんの言葉を拾い上げていく。

ソロー「自分の貧困を耕せ、物事は変わらない、変わるべきは我々だ」

 田淵義男さんは述べる。わたしの座右の書である「ウォールデン、森の生活」の結びで、ヘンリー・デビッド・ソローはこう書いている。「菜園を耕す如く、自分の貧困を耕せ。新しい物を疑え。新しい友達や流行の衣服を欲しがるな。古いモノに向かえ、そこに戻れ。物事は変わらない。変わるべきは我々だ」

ガソリン屋の三男は石油とガソリンの臭いが嫌いだった

 冬越しの薪の備えは完璧だ、というよりは、それが完璧でなかった年の瀬なんか、この三十数年間一度もなかった。わたしは、東京の下町のガソリン屋の三男として育った。この子供は、石油とガソリンの臭いが嫌いだった。だからこの子は大人になって、薪ストーブを焚くためにこの寒い山に来た。恒例の寒山薪作り祭は11月の第三週末に行われた。総勢10人余りの年中行事だが、もう十年以上つづいている。

夢は薪ストーブを焚いてら山で暮らすことだった

 今にして思えば、タブチ君は個性的な子供だった。この子供は自分の趣味にしか興味がなかった。盆栽と魚釣りと、それから昆虫採集。季節を巡ってこれらの趣味を渡り歩いた。彼の友達は自然趣味だった。自然趣味には、自然を巡る教養が必要だ。この子供は盆栽と魚釣りと昆虫採集の本と雑誌をたくさん読んだ。「学業はおおむね優良といえるが、協調性に欠けるきらいがある」。彼の通信簿の通信欄にはいつもそう書いてあった。盆栽好きな老人以外には、彼に友達はいなかった。友達が欲しいとも思わなかった。この子供は、人間よりも自然に興味があった。だから、彼は誰も苛めなかったし誰にも苛められなかった。この子供の夢は、いつか薪ストーブを焚きながら山で暮らすことだった。資本主義の最大の欠点は、人が人や人が造った物ばかりと人生を分かち合うようにプロパガンダしつづけることだ。それが、資本主義のテーゼ(綱領)だからである。資本主義にとって、自然趣味は危険な存在だ。

東京都国立市で13年間借家住まいをしていた

 わたしが13年間借家住まいをしていた東京の郊外の国立市あたりは、多摩川の河口だった。縄文人は武蔵野台地の崖の上に住んでいた。干潮時に貝を採取して、美味しい暮らしをしていた。我が川上村には、日本一標高の高い縄文人の村があった。標高1,500メートル、“天狗山縄文遺跡”だ。この遺跡からは、素晴らしい世界遺産的縄文土器が数多く発掘されている。思うに、この村の住人は暑い夏が嫌いな天狗だった。

33年前雑木林の片隅に引っ越した、真新しい板張りの家が眩しかった

 今から33年前、信濃台風が山と森をピカピカに洗い流した秋に、我々はこの雑木林の片隅に引っ越してきた。電気も電話も水道もガスシステムも間に合わなかった。それを承知でここに来た。真新しい板張りの家が眩しかった。赤いトタン屋根にミズナラの青いドングリが降って、コロコロ音立てて転がっていった。我々は、スバル・レオーネの4輪駆動車にキャンプ道具だけを積み込んでここに来た。渋谷の東急ハンズで買った台湾製の薪ストーブだけが、この家には設備されていた。それで、充分だった。裏庭の谷を刻んでいる涸れ沢に綺麗な水が沸いていた。紅葉した落ち葉を除けて、その水を汲んで暮らした。夜はコールマンのガソリンランタンを灯した。台湾製のフランクリン・ストーブに火を起こして、鉄釜で御飯を炊いた。この山住を始めるまでの10年間、わたしはキャンプ生活に明け暮れていた。この引っ越しは、夏から秋へアメリカのノースウェストを3ヶ月間キャンプ旅行した直後のことだった。だから、電気も水道もない生活なんてごく当たり前のことだった。今にして思えば、電気と水道と電話が来るまでのこの数週間は、超ロマンチックだった。

ガーデニングと木工と薪ストーブとフライフィッシングと趣味のある人生を生きた

 野望や野心を抱く人がいることが理解できない。自分は我が儘な人間だが、自分に野心はない。あるのは、ちょっとした物欲だけだ。山を下りて街へ行くときには、鏡の前に立って身だしなみを整える。みっともない格好をして人前に立つのが嫌だからだ。自分が身に纏うアパレルを蔑ろにするのはよくない。流行的衣類を着棄てる者は愚かだ。着古して自分の体に馴染んだ衣服を身に纏う快適さを知ることがないからだ。そんなきみは、ショーウィンドウのマネキンにすぎない。自分がどこにもいない。自分は金持ちではないので、安物は買わない。安物よりも10倍高価であっても、心ある商品はそれ以上に安心でロングライフだからだ。ガーデニング趣味と木工と薪ストーブと、それからフライフィッシング趣味のある人生を生きてきてよかった。

わたしはクライミングとフライフィッシングを満喫したくてここにきた

 レトロな雑貨が若者に人気なのは面白いことだ。なぜならそれは発展的な社会化状況として捉えることができるからである。人がレトロな物に興味を示し欲しがることを、後ろ向きなこととして捉える者もいよう。が、大量生産、大量物流、大量廃棄、レトロな物に人の心が動くのは、あからさまな使い捨て的文明にみんながうんざりしはじめたからだ。村のスーパーマーケットであるNANA’Sの駐車場に“Calafate”が出店した。クライマーとアウトドアーのためのショップだ。我が集落の村外れには、小川山の岩峰群がそびえ立つ。日本で一番人気のあるフリークライミングとボルダリングのメッカだ。わたしは、クライミングとフライフィッシングを満喫したくてここに来た。ナナーズでシース・ナイフを見つけ一目で気に入った。7千円だった。フィンランドの遊牧民であるラップランダーの工芸品をプロダクツした商品だ。気の利いた雑貨を輸入する業者にありがとう。この新しいナイフが来て失ったナイフの喪失感は日毎に癒えている。

「森からの伝言」が韓国で翻訳出版された

 Good news!。拙書「森からの伝言」(ネコパブリシィング刊)が韓国で翻訳出版されます。「列島と半島と中国大陸は一衣帯水の地。我々は仲良しになりましょう」。願いがたちまち半島に届いたんです。

明日が見えていた時代なんてなかった

 明日が見えない時代だ」。みんながそう言う。まだ若い人たちには、特にそうかも知れない、と思わないでもない。「明日が見えていた時代なんてあったことがあるんだろうか?」と思う。わたしは、文学部の哲学科の学生だった。就職の窓口だったらしい学生課がどこにあったのさえ今も知らない。娑婆と折り合いがつかないことを憂えるな。きみには今少しモラトリアム(待機期間)が必要なだけだ。“三年寝太郎”という昔話がある。三年間なんにもしないで寝てばかりいた太郎が、ある日がばっと起き上げって村のためによい仕事をしたという逸話だ。

森の片隅に小さな家を建てよう、電気も水道もいらない

 きみが街に住んでて、自然が恋しいなら、週末遊牧民になることをすすめる。何処か森の片隅に小さな家を建てよう。電気も水道もいらない。そんな土地なら、何処にでもある。買ってしまってもいいし、借りてもいい。Less is more. 森の小さな家にはなにもいらない。オイルランプと小さな薪ストーブがあればね。そこで、なにをするのかって?馬鹿だなー、NHK みたいな質問すんなよ。なんにもしないんだよ。枯れ枝拾い集めて薪ストーブ焚いて、暖かいなー。夜になったらオイルランプの黄色い焔みつめて、ガールフレンドとうっとりしてればそれでいいんだ。

薪ストーブと木工趣味がなかったら冬は山にはいなかったかも知れない

 もしも、自分に薪ストーブと木工趣味がなかったら。自分は何をしてこの山の冬を暮らしたんだろうか。もしもそうなら、絵を描いていたかも知れない。冬はこの山にはいなかったかも知れない。IFのない社会には、昨日も明日もない。あるのは今日だけ。朝起きて思うこと、それは今日は川に行こうか森に行こうか?ということだけ。Be Here Now. 今、此処に、在れ。70年代のインテリヒッピーのスローガンがそうであったように、イゾラドは自由を尊ぶ人たちなのだ。

我が家の薪エネルギーの年間コストは20万円

 1年分の薪用の丸太のコストは10万円。薪作り祭の経費も10万円。我が家の薪エネルギーの年間コストは20万円。安い高いで薪ストーブを焚いているわけではない。しかし、断言することができる。薪エネルギーのコストは、電力や化石エネルギーのコストよりも断然リーズナブルだと。薪エネルギーは、手作りの高貴なエネルギーである。それと化石エネルギーのコストを比較すること自体が、もともとナンセンスなのだが、人はとかく安い高いで言ったほうが納得がいく。我思うに、本当のことを言えば、全てのエネルギーのコストは同価なのではなかろうか。エネルギーの利便性が、そのコストを決定する。電力は化石燃料よりも利便性に優れている。で、エネルギー換算するに電気代よりもガス代の方が安く、ガスよりも灯油代の方が安い。同じ理由で、灯油は薪よりも高価だ。思うに、この家と木工場の暖房を全て灯油で賄うとすれば、その年間コストは100万円に及ぶだろう。

薪ストーブは1740年にベンジャミン・フランクリンが発明した

 我が菜園の野菜はリアル・オーガニックだが、この家の薪ストーブはリアル・ツールそのものだ。薪ストーブはおしなべてリアル・ツールスだが、なかでもこのアンコールはリアル・ツールスのなかのリアル・ツールだ。薪ストーブは、鋳物または鋼板で造られた自立型の暖炉として捉えることができる。それは、1740年にベンジャミン・フランクリンによって発明された。ベンジャミンは、鋳物の箱に火を閉じ込めることで、暖炉を退行的に進化させることに成功した。暖炉といえば、リビングルームに築かれた装飾的な暖房器具のように思われがちだ。暖炉ではなく囲炉裏を愛用してきた我が国では、特にそうだ。しかし、暖炉は欧米の囲炉裏であり、囲炉裏はニッポンの暖炉だ。その違いは、煙道(チムニー、煙突)を持つか持たないかだけだ。茅葺き屋根の家に住んだ日本人の暖炉には煙道が必要なかった。茅葺き屋根は分厚い天然素材のゴアテックスだ。煙と湿気は屋外に排出するが、雨水は遮断する。

長野県南佐久郡川上村

 長野県南佐久郡川上村は私にとっては遠い地である。同時に八ヶ岳が広がってみえる特別のところである。東京の夏にうだされて夜のうちに北八ヶ岳登山口の松原湖駅に行って夜明かしした小海線の沿線でもある。自転車に乗って旅行していたころには韮崎から峠を越えて行くところであった。釣りが好きになってからはイワナを釣る渓流がある場所に変わった。いまでは八ヶ岳をレタス畑越しにみるところになった。

川上村の暮らしと経済

 川上村(かわかみむら)は長野県南佐久郡にある千曲川の最上流部に位置する村だ。何時しか夏のレタス産地になった。平成27年度国勢調査では川上村の就業者の76.3%が第一次産業に従事していた。村は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。川上村に奥秩父の印象が付いて回るのはこのためだ。川上村の東部と南部は奥秩父山塊の主脈に属する。西部は八ヶ岳の広大な裾野(野辺山高原)である。村域全体が1,000mを超える。川上村役場は標高1,185mにあり市町村としては最も標高の高い場所にある。寒冷地農業が研究され川上村と周辺村域は高冷地農業が営まれるようになって野菜の端境期を上手く埋めている。レタス生産が主力で一戸あたりの年商は2,500万円ほどである。平成27年度の川上村の世帯数1,205戸であり、人口総数は4,607人、うち男2,731人、女1,876人である。昭和40年度の世帯数1,170戸、人口総数5,176人とあまり変わりがない。稼げる働き口があれば人口は減らないことを示している。

川上村の気候とレタス栽培

 川上村の8月の日平均気温は19.5℃であり札幌市の20.5℃よりも低い。降水は夏季の前後、梅雨と秋雨の時期にまとまっている。日照時間も長い。7月の平均気温は21.7℃、最高気温は27.6℃。8月平均気温は19.7℃、最高気温は24.2℃。高冷地の野菜栽培は夏季集中型である。夜明けから日暮れまで、そして夜間作業で収穫し出荷する。近年は外国人研修制度によって中国人が農作業に従事していたがコロナ禍で足止めをくった。農作業には多用途のトラクターが使われているが今後はさらなる農業の機械化を推進することになる。

2020-07-06-investigate-the-motivation-for-living-in-the-cold-mountain-fForest-by-mr-tabuti-yoshio-






旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞
縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その8-甲斐鐵太郞

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その7-甲斐鐵太郞

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クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞

ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

川上村と私 甲斐鐵太郞

甲府盆地の7月は桃の季節で8月になるとブドウが本格化する 甲斐鐵太郞

霧ヶ峰高原とレンゲツツジ 甲斐鐵太郎

安岡章太郎が描く軍隊と現代の人々の生への現実 甲斐鐵太郎

現代の人には死はない 甲斐鐵太郎

真夏の暑さのなか快適に作業するために一階にパソコンを移す 甲斐鐵太郎

椅子とヒキガエルと葛の根を考える 甲斐鉄太郎

パソコン業務のためにモニターと机と椅子の位置関係を求めて苦闘する 甲斐鉄太郎

バラの花の向こうに甲斐の山々と青空が広がっていた 甲斐鐵太郞

2020年桃の果実の行方、山梨の果樹農家の不安は拭えない

塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞

6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞

茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞

川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞

春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞

無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞

「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する

大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞

5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞

緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎

白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞

八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖

思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。

主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ


YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する


田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎

地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ

富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ


霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞

中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした

暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎

灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

地震と津波

地震計は地震を予知する機能を持たない

旅行や自然や風景の動画 目次-その2-

旅行や自然や風景の動画 目次-その1-

地震計は地震を予知する機能を持たない

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

ニセアカシアを知る-アカシア情報-

アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です


真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました)
 執筆 甲斐鐵太郎

輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎

富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎


中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる

富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎

国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎

霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎

石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎

富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)

富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎

富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった


山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎

太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎

大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎

上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎

江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎

林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎

山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎

晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎

カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎

10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎

11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎

10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎

信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎

信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎

金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた

夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う

白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ

夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時

よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ

近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり

特別な位置にいる投手としての大谷翔平

「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。

東京の桜は散って新緑の季節になりました

武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)

北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)


陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう

埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

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数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

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(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)

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