田中館愛橘とその時代−その3−(東京大学の学制の変化と田中舘愛橘の年譜)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-
    日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-
田中館愛橘とその時代−その3−(東京大学の学制の変化と田中舘愛橘の年譜)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。

第21話
相馬大作、吉田松陰、井伊直弼とその家臣で高野瀬宗則の父がおりなす綾(あや)は幕末と明治期


 産業革命を経て欧米の生産力は跳ね上がった。工業の生産力は日本の遠く及ばないところのなり、英、仏、露、米が力づくで通商を求めてるようになった。ロシアが北辺の地、蝦夷に足を踏み入れたらどうなるのかということも憂国の士には切実なことであった。

 江戸末期を飛び越えて明治初年過ぎの北海道はどのようであったか。明治10年(1877年)に札幌農学校が開設されたころの北海道の人口は10万人でそれが道南にかたまっていた。札幌の人口は3千人である。北海道の人口は2015年国勢調査では538万3579人である。10年の前回調査(確報)より2.2%減った。1995年が最高で569万2321人である。札幌の人口は現在は200万人である(平成29年12月1日現在944,184世帯1,963,570人である)。まばらにしか人が居住しない北海道にロシアが戦略をもって乗り込んでくるようなことになると日本の独立が怪しくなる。

 田中舘愛橘の叔父であり盛岡藩二戸の地にあって北辺の防御を徒手ででも実行する気構えで修練所をつくっていたのが下斗米秀之進である。この思いは残念なことに弘前藩主津軽寧親の北方警備へのだらしない態度を正すことに向けられる。津軽寧親を襲撃して命を奪う行動にでるが内輪の者の通報によって未遂となる。津軽家が南部家の出でありながら不忠義であることと重ね合わせた行動であった。

 相馬大作は刑死するが津軽寧親は隠居の処分も同時に下される。下斗米秀之進は江戸では相馬大作と名のっていたため相馬大作事件とも南部騒動とも呼ばれる。吉田松陰は下斗米秀之進の行動に関心をもっていた。東北の視察にでかけて相馬大作事件の真相を当地の人々に聴き「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、両家の和親について自覚を促すことにあった」との理解に至った。

 松陰は安政の大獄によって斬首刑にされる。米国との開国条約締結を孝明天皇に説明のため上洛する老中首座の間部詮勝をつかまえて、その破棄と攘夷を迫ってそれが聞き入れられなければ殺すという行動にでる。下斗米秀之進と同じように未遂に帰す。天才吉田松陰をしてそこまで突き動かした江戸末期の日本の状態がある。

  井伊直弼によって安政の大獄がなされた。直弼の死を彦根に伝える急報の使者となったのが高野瀬宗則の父である。田中舘愛橘の祖祖父の妻は姉は相馬大作こと下斗米秀之進の姉である。相馬大作、吉田松陰、井伊直弼とその家臣で高野瀬宗則の父がおりなす綾(あや)は幕末と明治期を紐解(ひもと)くことにつながる。

第22話
東京大学の学制の変化と田中舘愛橘の年譜


 札幌農学校一期生の佐藤昌介は南部藩士の子であり二期生の新渡戸稲造も同じである。それぞれ東京にでて田中舘愛橘とともに東大予備門の開成学校に通っていたが札幌農学校の設立にあわせてそちらに移っている。『武士道』でも知られる新渡戸稲造であり、北海道帝国大学初代学長の佐藤昌介である。ここに南部藩士の子の原敬が盛岡の藩校時代からの勉学仲間として加わっていた。

 東京大学の学制の変化は目まぐるしい。一つに工部大学校があり、大学南校と大学東校があった。大学南校は明治5年第一大学区第一版中学校となり、明治6年4月10日に開成学校と改称される。そのなかから11月4日に外国語学校が独立した。その後にまた変遷する。

 田中舘愛橘の年譜から進路をたどろう。

 安政3年(1856)年陸奥国二戸郡福岡町に誕生。文久1年(1861年)5歳、叔父小保内定身に和漢の書を授けられる。元治1年(1864年)8歳、下斗米軍七に就き武芸を、欠端武敏に就き書を学ぶ。慶応1年(1865年)9歳、藩校令斉場に入り文武の学を修める。明治2年(1869年)13歳、盛岡に出て照井全都に就き経書を学ぶ。明治3年(1870年)14歳、盛岡藩校修文所に入学、和漢の学を修める。明治4年(1871年)15歳、修文所を退き、太田代恒徳の塾に入り漢学を学ぶ。

 明治5年(1872年)7月、16歳、一家、東京に移る。明治5年(1872年)9月、16歳、慶應義塾に入り英語を学ぶ。明治6年(1873年11月、17歳、慶應義塾退学、フェントン夫人に就き英語を学ぶ。明治7年(1874年)3月、18歳、外国語学校の一部たる英語学校に入学。明治9年(1876年)9月、20歳、東京開成学校に進入、予科3級に編入。明治10年(1877年)4月、21歳、東京開成学校予科廃止され、東京大学予備門と改称。

 明治11年(1878年)9月、22歳、東京大学理学部入学。明治11年(1878年)10月、22歳、米国より物理学教師メンデンホール、英国より機械工学教師ユーイング来日。明治13年(1880年)2月、24歳、5月までメンデンホール指導の下に東京の重力測定。明治13年(1880年)8月、24歳、富士山の重力測定。明治14年(1881年6月、25歳、メンデンホール解任帰国、ユーイング物理学の授業担任。明治14年(1881年)8月、25歳、札幌の重力測定。明治15年(1882年)7月26歳、東京大学理学部卒業、準助教授に任ぜられる。

 明治15年(1882年)8月、26歳、理学部学生を率いて、鹿児島、沖縄の重力測定。明治16年(1883年)6月、27歳、ユーイング解任帰国。明治16年(1883年)7月、27歳、帰省。明治16年(1883年)9月27歳、英国より物理学教師ノット来日。明治16年(1883年)12月、27歳、父君郷里において死去。東京大学助教授に任ぜられる。

 明治17年(1884年)8月、28歳、小笠原島の重力測定。明治18年(1885年)9月、29歳、理学部校舎神田一ツ橋より本郷本富士町に移籍する。明治19年(1886年)3月、30歳、東京大学廃止され、帝国大学となる。明治19年(1886年)5月、30歳、Romazi Sinsei発行。明治20年(1887年)6月から11月まで、31歳、日本全域の地磁気測定に当たり、奔放南部および朝鮮南部を受け持つ。明治21年(1888年)1月、32歳、依願免本官英国グラスゴー大学入学。明治23年(1890年)4月、34歳、ベルリン大学へ移る。明治24年(1891)6月、35歳、ノット解任帰国。明治24年(1891年)7月、35歳、帰朝。帝国大学理科大学教授に任ぜられる。明治24年(1891年)8月、35歳、理学博士の学位授与される。

第23話
勧誘に応じて札幌の農学校に転学した一期生の故北海道帝国大学総長の佐藤昌介など


 明治の学制の大略は上のようなことであり、これによって札幌農学校の第一期生になった佐藤昌介のことがわかりやすい。

 中村清二著『田中舘愛橘先生』(昭和18年中央公論社より刊行)に載っている文章である。

 明治7年3月に外国語学校の一部をなしていた英語学科へ試験を受けに行き幸いに合格して第6級に編入され英語を修めることになった。私(田中舘愛橘)の入学した英語学科は開成学校から独立した外国語学校の一部であるが、開成学校の本体は明治7年5月に東京開成学校と称せられることになり、同年12月には外国語学校から私どものいた英語学科を全く分離して東京英語学校を新設し、もっぱら東京開成学校に進入すべき生徒の準備教育を施す所となった。

 明治9年になって英語学校の第1級第2級の上級生は開成学校へ入れられることに規則が改まって、その入学試験を行うことになった。この際生徒の一部、一五、六人は開拓使(北海道を支配する官衛、北海道庁の前身)の勧誘に応じて札幌の農学校に転学した。故北海道帝国大学総長の佐藤昌介氏などその一人である。

 入学試験に及第して明治9年9月に東京開成学校の予科の三年生になりました。年齢は21歳でした。この試験に及第したのは90人内外でしたが、試験は英語、数学を主とし漢学もありました。かくして私は明治11年9月に東京大学理学部本科一年生になった。

第24話
明治9年の入学時の90余人が明治15年の卒業のときには32名となった東京大学法理文三学部。


(以下は中村清二が田中舘愛橘の手記などをもとにした文章である)

 この時代の東京大学理学部には一つの学修学科があって数学、物理学、星学の三学科を集めたのが一つ、地質、最高学科をまとめたのが今一つ、このほかに化学、生物学、工学の三学科があった。

 このように多学科を一まとめにすることは今日から考えればもちろん学問の領域が広すぎるが、当時の情況では西洋の学問を輸入にこの方がかえってよいとも言える。同級生四人のうち、藤澤利喜太郎は数学に、隅本有尚は星学に、田中舘先生と田中正平の両人は物理に傾いていったのである。

 校舎はいわゆる一ツ橋時代の名の示す通り現在の学士会館があるところで一ツ橋からお茶の水に行く道路の右側に表門がありその向かい側に共立講堂のある辺りに東京外国語学校があった。(中略)教師は物理学が山川健次郎先生、数学が菊地大麓先生で他は外国教師である。入学の翌月に英国からユーイング、米国からメンデンホールが来任したがユーイングは機械工学の教師として聘せられたのでブル地の教師はメンデンホールであった。

 明治15年7月10日に先生はめでたく理学部を卒業せられ、翌日に準助教授に任ぜられた。この時分の学制は官の貸費生で皆寄宿舎に収容せられてあったが試験は実に厳しくて一回の不合格は落第で原級の止まり二回の不合格は退学が命ぜられたのであるから、明治9年の入学の時に90余人であったものが明治15年の卒業のときには32名となった。(中略)もちろん法理文三学部の総体である。

 準助教授になって先生がうけもたれたのは物理学、数学、化学、工学の第二年生の物理実験であった。

 明治10年12月の大学卒業式に山川先生はブンゼン電池70個でアーク灯をつけられたことは既に記したが、明治15年7月の卒業式にダイナモを使用してエジソン新発明の白熱電灯を点火することになって、卒業したこの先生、いや新助教授殿が山川先生、ユーイング教師のもとでこれを担当せられることになった。

 いったい先生はこの卒業式に卒業生総代として答辞を述べることを同級生から使命競られたのであったが、電灯点火の方が忙しいからとてこれを断り、文科の山田一郎が得意の文を草して答辞を読んだ。

(つづく)

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)
 
 
 

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霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

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ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

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カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-