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縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-
At the foot of Mt. Yatsugatake, where the life of Jomon was Part 2
執筆 甲斐鐵太郎

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

執筆 甲斐鐵太郎 旅行家

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-甲斐鐵太郞

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-甲斐鐵太郞
縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

清泉寮旧館の木造建築。アメリカ式になっている。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

清泉寮の花壇とそこ奥にある石積みの洋館。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

5月の清泉寮。背後に八ヶ岳主峰の赤岳がそびえる。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

清泉寮建設1950年。左から3人目がポールラッシュ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

林が広がる。レタス畑が侵食しているのが川上村だ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

川上村のレタス畑。晴れると八ヶ岳連峰がみえる。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。


縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その2-甲斐鐵太郞

(本文)

 縄文の人々の暮らしの跡は日本国中に広がっている。八ヶ岳山麓には縄文人の暮らしの跡が良く残っている。縄文の暮らしを確かめることは現代人の暮らしを見つめることでもある。山暮らし、森や林と隣接して暮らすこと、あるいは川べりに、湖や沼の端に、そして海辺での縄文の暮らしを確かめていく。


 縄文の暮らしと道具を調べる。弓は人類の古い時代からの道具である。弓から放たれた矢が動物に向けられていた時代は平和である。矢が人に向けられるようになる。縄文の遺跡から矢を受けた人がでているかどうかを詳しくは知らない。事例があってもごく僅かであるだろう。こうした事実を聞いていないからそのように考える。



寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

清里の清泉寮は寒冷地農業の開発に貢献した。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

右上に掲げてある写真が開祖のポール・ラッシュ氏。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

清泉寮の牧場の正面に金峰山がそびえている。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

茅野市の八ヶ岳実験農場の先に広がる八ヶ岳連峰。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

川上村の夏月はレタスの緑、青空、白い雲とで彩られる。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

雲間から光が筋となって川上村のレタス畑に降り注。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

田渕義雄さん「寒山の森」に近い6月のレタス畑。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

3月の八ヶ岳は川上村のレタス畑とともに雪をかぶる。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

八ヶ岳が大きく広がる景色は雄大である。3月に撮影。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

JR野辺山駅から東に向かうと川上村にでる。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

村一番のスーパー、ナナーズ。下はアンテナショップ。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

2016年夏にはパタゴニアがアンテナショップをだした。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

八ヶ岳は山体崩壊したために現在の高さになった。

(タイトル)
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

(本文)

八ヶ岳に憧れる

 八ヶ岳に憧れている。八ヶ岳とその山麓の空気は私には特別な刺激であった。八ヶ岳登山は美濃戸口経由で阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳とぐるりと回ることで始まった。美濃戸口からの八ヶ岳登山はそれだけでも八ヶ岳山麓の雰囲気を醸すものであった。その後に野辺山など小海線沿線の登山口から北八ヶ岳に足を運ぶようになって八ヶ岳とその山麓がおりなす風景に魅了されるようになった。清里の清泉寮の頭上を覆う赤岳はよい。

 野辺山からあがった八ヶ岳ヒュッテはお屋敷を移した建物であり贅沢なつくりであった。ここを舞台にできの悪いドラマの主人公を田宮次郎が演じていた。冬に撮影されたドラマであったことや社会派風の人間ドラマであるために八ヶ岳山麓の魅力はなかった。

 八ヶ岳ヒュッテのある野辺山の西には八ヶ岳が翼を大きく広げている。野辺山や川上村からの八ヶ岳の眺望は爽やかさと雄大さこの上ない。仕事での会合の帰り道、知り合いをこうした風景を案内し雰囲気のよいレストランで食事をしたことがあった。この人は数年も経ないうちに八ヶ岳山麓に邸宅を建てて移り住んだ。定年を節目に完全に八ヶ岳の住民になった。オーディオが趣味で奥さんは歌をYouTubeにアップすると人気になる人であった。東京六大学のある一つの大学で電気工学を学んだ人であった。オーディオには特別な思いがある。音響のための設備をした部屋でクラシック音楽を流してくつろぐのである。ある知人が招かれたときの様子を私に語っていた。

山麓生活ということでの別荘暮らしとなると八ヶ岳山麓が選ばれる。その別荘は小淵沢から西側の方面の南麓がよい。知人も個々に住居を移してオーディオの趣味を満喫している。

私の夏休みは八ヶ岳で過ごすことであった。八ヶ岳登山をし山麓の宿から周辺の川に釣りに行くことなどである。正月には清里の清泉寮に泊まることが多かった。年が明けるその時間に外国人たちが爆竹を鳴らしてはしゃぐのを珍しくみていた。清泉寮の洋館を張り込んだことなどは思い出である。ポール・ラッシュはこの地に寒冷地農業を普及させたことになっていて、清泉寮もこの人の尽力で建設された。清泉寮の洋館は石を積み上げてつくられていて他にはない趣がある。アーリー・アメリカとアメリカキリスト教はとはこういうものなのだと洋館に泊まって思ったものだ。

清泉寮の石積みの洋館

 清泉寮の洋館のような部屋が一つあれば八ヶ岳での暮らしはそれですむという思いがある。机を一つ、小さな調理場がついていればそれでいい。冬場の暖房が一度切れると暖めるまで二日三日かかる。建物ぜんぶが冷え切るからだ。薪(まき)ストーブにはあえてこだわらない。タンクを外に設置する石油ストーブを使う。このようなことを考えている。

 川上村を八ヶ岳山麓と決めてしまうのには抵抗がある。川上村からの登山に金峰山がある。小川山は岩場の登山で人気である。金峰山登山のために廻り目平キャンプ場と併設の宿をたびたび利用した。5月の連休の金峰山では足下の雪に悩まされたことがあった。登山の後先には千曲川の支流をなす幾つかの川でイワナを釣った。雪解けの水が冷たい川だ。廻り目平にいるとここは八ヶ岳山麓だと思わない。野辺山の方面に移動すると八ヶ岳の裾野がここまで流れてきていてレタス畑が開墾されているのだと思う。

韮崎市の七里岩は八ヶ岳が崩壊したことによる岩屑雪崩の跡だ

 八ヶ岳は火山性の山地である。何度も噴火して山がもりあがりそして山が崩れた。韮崎市の七里岩は八ヶ岳が崩壊したことによる岩屑雪崩の跡である。須玉から韮崎にかけて走る尾根を断層だと思っていた。八ヶ岳の崩壊による岩屑(がんせつ)雪崩の堆積などを計算すると富士山より高い山だった。八ヶ岳山麓の広がりはそのようなことだと納得させる。八ヶ岳崩壊は近代における磐梯山崩壊が教える。火山の噴石でできた山は脆い。地下水がマグマの影響で沸騰すると水蒸気爆発を起こす。北八ヶ岳方面の山塊が崩壊し川を堰き止めて千曲川のみならず流れ下って信濃川の洪水を引き起こしている。台風の大水によっても似たことがおこる。

川上村川端下の地に住む田渕義雄さん

 韮崎から増富方面に向かい塩川ダムを経て信州峠を越えて川上村にでる道順で車を走らせる。車に自転車を積んでいて峠からの下りを駆け下りるのは贅沢な遊びであった。廻り目平まで行ってそこから林道に入って国師岳に抜ける道は冒険心を満足させる。廻り目平から国師岳方面に向かう道の途中に住んでいるのが田渕義雄さんであった。川上村川端下(かわはけ)の地である。イワナがいる川が流れ小川山の岩場がそばにある。昔はなかったレタス畑がこの地にまで上がっている。

 都会のマンション暮らしをしていると野にでたくなる。そして川上村を流れる小さな渓流や千曲川本流の流れでの釣りをすることは夢見心地に心境だ。矢も楯もたまらず川上村の川に行きたい。そのような気持ちが充満するマンション暮らしである。都内の釣具屋で釣り具をみては千曲川を思う。書店に行っては釣りや野外遊びの本を手にする。そのようにし巡りあったのが田渕義雄さんの著書であった。「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」(田渕義雄)。フライフィッシング教書 初心者から上級者までの戦略と詐術のためにフライフィッシング教書(シェリダン・アンダーソン、田渕義雄訳)。この二冊の本と田渕義雄さんと川上村一まとめになって私の川上村と田渕義雄さんが形成された。

ナチュラリストの田渕義雄(たぶち・よしお)さん

 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。都会暮らしというのは公園の緑があっても、緑の並木道があってもそれは造られた人工物である。本物の自然ではない。公園の緑は決して人を癒やしきらない。あるとすればせいぜい日除けとしての緑だ。

 鮎釣りの名士が言った。東京大学入学を志していたのだが釣りをしているときに「もしかしたら人生は釣りをしていればいいのではないか」と決断をしたらすべての惑いが消えた。釣りは人を虜(とりこ)にする。

ソローの「ウォールデン 森の生活」と田渕義雄さんの川上村川端下の暮らしが重なる

 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)の暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。

 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。

 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。家は自分の手で建てた。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。

ソローと『森の生活』

 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称です。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。

 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。

ナチュラリスト

 ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。

嫌いならば都会と組織から抜け出せばいい

 都市での暮らしに馴染めない。あるいは組織機構に組み込まれた業務が苦手な人がいる。いつしか都市生活にも組織での仕事に嫌気がさして逃げ出す人がいる。逃げ出すというよりもそれができない、それをしたくない、身体と精神が拒絶反応をするという人がいる。ある割合でこのような人が世の中に組み込まれているのだ。東大入学が絶対課題になっていた人は人生は釣りをしていればいいのだ、と決めてそれから抜け出した。都会が嫌で、組織での仕事が嫌な人は抜け出せばいい。嫌なものはしない。嫌なことをしているのなら止めればいい。あとは何とかなる。自然の中がいいならばそうしたらいい。日本が農業国であった戦前は都会が嫌な人を田舎が受け入れた。

ヘンリー・D・ソロー

 ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。

 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。

 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとするは金銭的な豊かさを求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌は人々の尊敬と共感を得た。

 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。

 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。

 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。

 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。

 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。

田渕義雄さんの勘定書にウィンザーチェアーが加わる

 田渕義雄さんの寒い山の木工室のロッキングチェアの家具が人気だ。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。畑を耕して薪をつくって、調理をし、あれこれするうちの一つにロッキングチェア製作がある。ソローの森の生活の家計簿には自作した作物と買うものとの勘定書がある。田渕義雄さんの勘定書の項目には執筆料、印税収入に加えてウィンザーチェアーの販売が計上されるようになった。

 自然と向き合って自然に働きかけて何物かを得ることが人の働きである。寒村の暮らしは畑仕事が主なものになる。よほどの働きをしなければ得られるものは少ない。働くと自分の時間は極小になる。働き者でなければ森の生活はできない。都会と組織が嫌で森の生活に逃げ出しても怠け者は生きていけない。森では怠けられない。

長野県南佐久郡川上村

 長野県南佐久郡川上村は私にとっては遠い地である。同時に八ヶ岳が広がってみえる特別のところである。東京の夏にうだされて夜のうちに北八ヶ岳登山口の松原湖駅に行って夜明かしした小海線の沿線でもある。自転車に乗って旅行していたころには韮崎から峠を越えて行くところであった。釣りが好きになってからはイワナを釣る渓流がある場所に変わった。いまでは八ヶ岳をレタス畑越しにみるところになった。

川上村の暮らしと経済

 川上村(かわかみむら)は長野県南佐久郡にある千曲川の最上流部に位置する村だ。何時しか夏のレタス産地になった。平成27年度国勢調査では川上村の就業者の76.3%が第一次産業に従事していた。村は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。川上村に奥秩父の印象が付いて回るのはこのためだ。川上村の東部と南部は奥秩父山塊の主脈に属する。西部は八ヶ岳の広大な裾野(野辺山高原)である。村域全体が1,000mを超える。川上村役場は標高1,185mにあり市町村としては最も標高の高い場所にある。寒冷地農業が研究され川上村と周辺村域は高冷地農業が営まれるようになって野菜の端境期を上手く埋めている。レタス生産が主力で一戸あたりの年商は2,500万円ほどである。平成27年度の川上村の世帯数1,205戸であり、人口総数は4,607人、うち男2,731人、女1,876人である。昭和40年度の世帯数1,170戸、人口総数5,176人とあまり変わりがない。稼げる働き口があれば人口は減らないことを示している。

川上村の気候とレタス栽培

 川上村の8月の日平均気温は19.5℃であり札幌市の20.5℃よりも低い。降水は夏季の前後、梅雨と秋雨の時期にまとまっている。日照時間も長い。7月の平均気温は21.7℃、最高気温は27.6℃。8月平均気温は19.7℃、最高気温は24.2℃。高冷地の野菜栽培は夏季集中型である。夜明けから日暮れまで、そして夜間作業で収穫し出荷する。近年は外国人研修制度によって中国人が農作業に従事していたがコロナ禍で足止めをくった。農作業には多用途のトラクターが使われているが今後はさらなる農業の機械化を推進することになる。

縄文期に人が暮らしていた川上村

 この川上村の歴史を概観する。八ヶ岳山麓や中央高地は縄文時代の遺跡が数多く分布する地域だ。川上村にも後期旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が分布する。馬場平遺跡や大深山遺跡がある。大深山遺跡は日本で一番標高の高い場所に立地する集落遺跡だ。弥生時代の遺跡は少ない。古墳時代から奈良時代のものとされる遺跡はない。平安時代の遺跡はある。戦国時代に信濃は甲斐国の武田氏の領国となり、武田領国においては甲斐本国の黒川金山(山梨県甲州市)をはじめ金鉱山が開発された。川上村でも梓久保金山遺跡では金鉱山の採掘・精錬用具や金粒付着土器が出土している。金の採掘や精錬作業が行われていた痕跡だ。近世に信濃国では小藩が分立するが、川上村は幕府直轄領として八か村があった。1889年(明治22年)の町村制の施行により居倉村、原村、御所平村、大深山村、秋山村、梓山村、川端下村、大明村の一部である樋沢の区域をもって川上村が発足し現在に至る。

川上村の象徴となったレタスと川上犬

 川上村は交通不便なところであったために在来の日本の犬が原始に近いまま残されていた。この地域からでた十国犬は有名である。長野県によって天然記念物に指定されている川上犬は十国犬の風貌を残している。川上犬はレタスと重ね合わせて川上村マスコットキャラクター「レタ助」になっている。川上村川端下には田渕義雄さんが住んでいた。出版社に勤務していた編集者でナチュラリストである。「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」という本を出していて私には羨望の人であった。田渕義雄さんはいつしかそこそこの規模でレタス畑を運営し、ウインザーチェア方式のロッキングチェアなどをつくる工房の主にもなっていた。

ウインザーチェアのロッキングチェア

 私は快適にパソコン業務をするために椅子にこだわる。こだわるというよりも椅子と机とモニターの快適な位置を探して奮戦している。机を物色する日々がつづき、ウインザーチェアのロッキングチェアを手に入れては喜び、これですべてが足りることがないので、別の椅子も用意する。ぐるぐる回りの関係が果てしなく続く。田渕義雄さんがウインザーチェア製作に取り組む心情がわかる。どんなものでも自作しようとするナチュラリストの行動は椅子つくりをすると達人の域に至った。

頭に引っかかって離れない物事の解決を夢見る

 私の望みは何か。子供のころから特に学生時代に考えていて解決や結論がでていない事柄を引き続いて思索していくことである。お金に汲々とし、時間を作り出すこと苦労している身ではなかなか叶わない願いだ。「森の生活-ウォールデン-」のソローは二年二カ月の帳簿を残した。農業の収支計算簿である。身を粉にして働いても残るものは少ない。田渕義雄さんの田舎暮らし「寒山の森から」は都会の人々に刺激を与えた。そのことだけで田渕義雄さんは英雄になったのだが引き続いて自然の暮らしの図書をだし、アウトドア雑誌の常連執筆者として活躍する。人生最大の暇つぶしと言いながら自分が使うものは自分でつくっていた田渕義雄さんは、頼まれてロッキングチェアなどのウインザーチェアーをつくるようになった。労働を金銭に換算してはかる考えがあってはできないことだ。

田舎暮らしに憧れても田舎に行くと「ぐうたら」を決め込むのが普通の人だ

 田渕義雄さんの寒山の森の暮らしを知ると私などは暇をつくっては本を読み、時々ものを考えて、備忘録の短い文章をしたためて、喜んでいればいいのだ。大それたことを考えてはならないと自分を戒める。働き終えて八ヶ岳山麓で暮らす知人は甲斐駒ヶ岳がみえる日差し豊かな部屋に好みのオーディオを据えてモーツァルトを聴いているのだろうな。真空管アンプのチリチリした音がよいとか、スピーカーはこれでなければいけないとか、アンプはやはりトランスが重く大きなものに限るとか、ぐるぐる回りの思考をしていることが想像できる。これなどは田渕義雄さんの反対側にいるぐーたらな仕合わせ者である。人はみな後者でありたがる。

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旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞
縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞

ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

川上村と私 甲斐鐵太郞

甲府盆地の7月は桃の季節で8月になるとブドウが本格化する 甲斐鐵太郞

霧ヶ峰高原とレンゲツツジ 甲斐鐵太郎

安岡章太郎が描く軍隊と現代の人々の生への現実 甲斐鐵太郎

現代の人には死はない 甲斐鐵太郎

真夏の暑さのなか快適に作業するために一階にパソコンを移す 甲斐鐵太郎

椅子とヒキガエルと葛の根を考える 甲斐鉄太郎

パソコン業務のためにモニターと机と椅子の位置関係を求めて苦闘する 甲斐鉄太郎

バラの花の向こうに甲斐の山々と青空が広がっていた 甲斐鐵太郞

2020年桃の果実の行方、山梨の果樹農家の不安は拭えない

塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞

6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞

茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞

川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞

春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞

無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞

「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する

大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞

5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞

緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎

白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞

八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖

思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。

主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ


YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する


田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎

地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ

富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ


霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞

中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした

暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎

灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

地震と津波

地震計は地震を予知する機能を持たない

旅行や自然や風景の動画 目次-その2-

旅行や自然や風景の動画 目次-その1-

地震計は地震を予知する機能を持たない

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

ニセアカシアを知る-アカシア情報-

アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です


真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました)
 執筆 甲斐鐵太郎

輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎

富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎


中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる

富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎

国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎

霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎

石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎

富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)

富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎

富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった


山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎

太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎

大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎

上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎

江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎

林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎

山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎

晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎

カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎

10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎

11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎

10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎

信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎

信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎

金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた

夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う

白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ

夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時

よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ

近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり

特別な位置にいる投手としての大谷翔平

「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。

東京の桜は散って新緑の季節になりました

武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)

北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)


陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう

埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)

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