田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄
    田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄
田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄


彦根藩主にして大老井伊直弼(いい・なおすけ)の肖像。

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族の子弟は作人館で和漢ほかを教わった。作人館は盛岡中学の元になった。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでない。高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に愛橘の教育のこともあって父子ともに東京へ移る。愛橘は慶應義塾で英語を学び、つづいて官立東京開成学校予科に入学、学制の変化に翻弄されるなか、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に助教授になり、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事し、ドイツのベルリン大学で学んで帰国。帰国してすぐに東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期であった時代に田中館愛橘教授の薫陶があって多くの人材が世に羽ばたいた。

田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

(本文)

第41話。(その1)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

 大老職に就いた井伊直弼は幕府への反対勢力への大弾圧を行った。桜田門外への変があった安政7年3月3日(1860年3月24日)から幕末の政局は大きく動く。尊王・攘夷派など幕府に敵対する勢力への大弾圧である「安政の大獄」が契機になった。安政の大獄は政府の側の尋常でない行動である。安政の大獄は安政5年(1858年)から安政6年(1859年)の間になされた。将軍の名代という強大な権力を付与された大老職に就いた井伊直弼が反対勢力を大弾圧した事情と経緯は前章で述べた。

 安政の大獄における処罰の「隠居」とは藩主の地位から退けられることである。吉田松陰ほか10数名が処刑された。水戸藩家老安島帯刀は切腹。「獄死」の形をとっているものも実質上は刑死。

 水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内容堂、佐倉藩主堀田正睦、前掛川藩主太田資始が「隠居」を命ぜられた。

 安政の大獄で死刑ならびに獄死した者は次のとおり。
吉田松陰 長州毛利大膳家臣、斬罪
橋本左内 越前松平慶永家臣、斬罪
頼三樹三郎 京都町儒者、斬罪
安島帯刀 水戸藩家老、切腹
鵜飼吉左衛門 水戸藩家臣、斬罪
鵜飼幸吉 水戸藩家臣、獄門
茅根伊予之介 水戸藩士、斬罪
梅田雲浜 小浜藩士、獄死
飯泉喜内 元土浦藩士・三条家家来、斬罪
日下部伊三治 薩摩藩士、獄死
藤井尚弼 西園寺家家臣、獄死
信海 僧侶、月照の弟、獄死
近藤正慎 清水寺成就院坊、獄死
中井数馬 与力、獄死

 隠居・謹慎を命ぜられた者は次のとおり。
一橋慶喜 一橋徳川家当主(徳川慶喜)
徳川慶篤 水戸藩主(9月30日に免除)
徳川慶勝 尾張藩主
松平春嶽 福井藩主
伊達宗城 宇和島藩主
山内容堂 土佐藩主
堀田正睦 佐倉藩主
太田資始 前掛川藩主
川路聖謨 江戸城西丸留守居
大久保忠寛 江戸城西丸留守居
中山信宝 水戸藩家老(9月27日に免除)
松平忠固 上田藩主
本郷泰固 川成島藩主・若年寄(1万石から5千石へ減封、川成島藩は消滅)
土岐頼旨 大目付・海防掛
石河政平 一橋徳川家家老

 桜田門外の変があったのが安政7年旧暦3月3日(1860年3月24日)。つづいて次のような事件が起きた。江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し負傷させた事件「坂下門外の変」(1862年)、生麦事件(1862年)、寺田屋騒動(1862年)、生野の乱(1863年)、天誅組の挙兵(1863年)、薩英戦争(1863年)、池田屋騒動(1864年)、蛤御門の変(1864年)、下関砲撃事件(1864年)がそれである。

第41話。(その2)
安政の大獄と吉田松陰に下された斬罪の刑。

 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結する。この時代になると朝廷への手続きがやかましく問われるようになる。幕府の力が弱ったことの反映でもある。強固な尊皇攘夷の考えをもつ吉田松陰は、老中首座間部詮勝が孝明天皇に弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫る。このような行動で態度を変える幕府ではないことを承知の上で談判し、聞き入れられなければ殺すというのだ。獄に捕らえられた吉田松陰は言い逃れる道があったのに、自ら行動計画を語ったことで死罪となる。世の中に向けての政治宣伝行動である。命を賭して討幕を訴えたことになる。

 本気でそれをやろうとした松陰は長州藩に大砲と武器弾薬の提供を求めた。藩はこれに応じない。松陰は参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受けて伏見要駕策への参加を迫ろうとする。 計画を知らされた久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは伏見要駕策の自重を求めて反対した。松陰の失望はこの上ない。松陰は、伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱く。その後に草莽崛起論を唱えるようになる。

 松陰は、幕府が日本にとって最大の障害になっている考え倒幕を唱えるようになる。長州藩は吉田松陰を危険思想の持ち主として野山獄に幽囚する。

 安政6年(1859年)に勤王の志士で、小浜藩士の梅田雲浜は幕府に捕縛される。梅田雲浜は萩に滞在した際に吉田松陰と面会していること、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武二郎が雲浜の門下生であったことなどによって、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄される。獄にあった吉田松陰が問いただされたのは、雲浜が萩に滞在したおりの話の内容であった。松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を意図して話す。話せば極刑になる。吉田松陰は安政6年(1859年)10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑になる。享年30(満29歳没)。

第41話。(その3)
南部藩士・下斗米秀之進(相馬大作)の考え方とその行動は吉田松陰の行動の下絵になった。

 北方警備を自らの手によって実行するために私塾かつ道場をつくっていたのが相馬大作である。ロシアの蝦夷地上陸を阻止し日本による実行支配を維持しようというのである。相馬大作(そうまだいさく)は南部藩士の下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)の江戸での名前である。北方警備を南部藩とともに担うことになっている弘前藩主の津軽寧親の怠慢を正す行動を計画する。意見して聞き入れられなければ津軽寧親を殺すというのだ。37年後に吉田松陰が同じことを計画する。相馬大作は実行に移すが内部通報によって津軽寧親は難を逃れる。文政4年4月23日(1821年5月24日)に画策された。

 南部藩には藩領を津軽一族に盗み取られたという感情がある。感情の背景となる事実の是非は別にして、このことと併せて北方防備を怠る津軽寧親を武力をもって諫めるという行動に出た。参勤交代の帰国、国境の峠に大砲を備えて襲撃する計画を立てて実行に移した。内部通報によって未遂に終わる。相馬大作は江戸に身を隠すが津軽藩の密偵に見つかって、幕府に通報され捕縛される。相馬大作は小塚原で処刑される。幕府は事件後、津軽寧親を隠居させる。家督を次男の信順に渡された。文政8年(1825年)4月10日のことである。喧嘩両成敗の処置となった。

 南部藩士・下斗米秀之進(相馬大作)の考え方とその行動は吉田松陰の行動の下絵になった。

第41話。(その4)
明治13年と15年に東京大学理学部を卒業した士族出身の二人がいた。高野瀬宗典の卒業は明治13年に田中館愛橘は明治15年7月に卒業。

 明治の物理学の草創期に活躍した田中舘愛橘の祖祖母は相馬大作こと南部藩士下斗米秀之進の姉である。尊皇攘夷の名分によって反幕府勢力を大弾圧して井伊直弼の家臣であった高野瀬喜助の子息の高野瀬宗典と下斗米秀之進の子孫にあたる田中舘愛橘はともに東京大学の理学部卒業する。高野瀬宗典の卒業は明治13年である。田中館愛橘は明治15年7月に卒業する。高野瀬宗典は東京大学フランス語物理学科の卒業である。田中館愛橘はフランス語物理学科が廃されていて英語による物理学を習得しての卒業であった。この時代、普仏戦争によるフランスの敗北が国の政策をイギリスの方式を用いるように動いていった。大学の在り方もそれが反映している。

 高野瀬宗則は、田中舘愛橘より二年前に東大理学部を卒業する。高野瀬宗則が卒業したのはフランス語で授業をする東京大学仏語理学部であった。仏語物理学科はフランス式の物理学である。この時代フランスの提唱によってメートル法が推進され、1875年(明治8年)に11か国によってメートル条約が締結されている。日本が近代度量衡制度を築くための土台にしたのがフランスが提唱したメートル法の考え方であった。高野瀬宗則は大蔵省によって所管されていた度量衡行が政農商務省の設立と同時に移管されたその時に権度課長として招聘されてその任に就いた。高野瀬宗則は東京大学仏語理学部を卒業して駒場農学校で教鞭を執っていた。

 彦根藩井伊家による安政の大獄という反幕府勢力への弾圧と、弾圧によって刑死した吉田松陰。吉田松陰の北方警備の考えに啓示を与えた下斗米秀之進とその私塾。下斗米秀之進は田中舘愛橘の祖祖母は下斗米秀之進の姉である。田中舘愛橘は南部支藩福岡の兵法の家系であった。井伊直弼の死を彦根藩に伝える急報の使者は高野瀬宗則の父、高野瀬喜介であった。高野瀬喜介は彦根藩の御目付け役の任に就いたことがある。

(つづく)

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)

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田中館愛橘とその時代−その12−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
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田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代−その7−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その6−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

 
 
 


田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
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日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘−その1−(執筆 横田俊英)




冬の山中湖と富士山

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る

正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった

上高地 晩夏

風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません

川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-