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縄文時代を理解する
縄文時代の区分とその文化の内容
Classification of the Jomon period and its cultural content
Understand the Jomon period
執筆 甲斐鐵太郎

縄文時代を理解する
縄文時代の区分とその文化の内容
Classification of the Jomon period and its cultural content.
執筆 甲斐鐵太郎 旅行家

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

栃原岩陰遺跡から数kmの縄文中期の大深山遺跡。


縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

縄文中期の大深山遺跡の周囲の雑木林。

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

長野県北相木村の栃原岩陰遺跡。発掘当時の写真。

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

北相木村役場隣にある博物館に復元された遺跡。

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

栃原岩陰遺跡から数kmの縄文中期の大深山遺跡。

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

(本文)

縄文時代とは

 縄文時代(じょうもんじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などがあげられる。始期と終期については多くの議論がある。始期は一般的に16,000±100年前とされている。終期は3,000年ほど前とされる。

 地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、終期は地域差が大きい。定型的な水田稲作や金属器の使用を特徴とする弥生文化が始まるのをもって終期とされる。年代は紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までだ。

 沖縄県の縄文時代は貝塚時代前期に区分される。つづく時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承された。このような事情のもとにある縄文文化の形式を続縄文時代として区分する動きがある。

現代までの時代区分を西暦によって記載するとつぎのとおり。
1、旧石器時代 紀元前14000年頃
1、縄文時代 前14000年頃から前10世紀
1、弥生時代 前4世紀から後3世紀中頃
1、古墳時代 3世紀中頃から7世紀頃
1、飛鳥時代 592年から710年
1、奈良時代 710年から794年
1、平安時代 794年から1185年
 王朝国家 10世紀初頭から12世紀後期
 平氏政権 1167年から1185年
1、鎌倉時代 1185年から1333年
1、建武の新政 1333年から1336年
1、室町時代 1336年から1573年
 南北朝時代 1336年から1392年
 戦国時代 1467年(1493年から1590年
1、安土桃山時代 1573年から1603年
1、江戸時代 1603年から1868年
 鎖国 1639年から1854年
 幕末 1853年から1868年
1、明治時代 1868年から1912年
1、大正時代 1912年から1926年
1、昭和時代 1926年から1989年
 GHQ/SCAP占領下 1945年から1952年
1、平成時代 1989年から 2019年
1、令和時代 2019年から

縄文時代の概要

 明治時代に始まる日本の先史時代の研究は、当初は石器時代という概念で先史時代を捉えていた。そこでは縄文土器を使用した時期と、弥生土器を使用した時期が存在した記述された。19世紀中は、日本列島の先史時代の住民をアイヌやコロボックルと考える説が支配していた。この説は1920年代に退けられた。この時期には記紀神話を日本列島の先史時代の歴史とする考える歴史観が社会を支配していた。日本列島の先史時代に対する考え方が考古学上の知識を元にするようになったのは第二次世界大戦の後である。戦後に編纂された歴史教科書は日本列島の先史時代に弥生文化と縄文文化の二つの文化の存在を示していた。登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘などによって縄文時代と弥生時代のようすがより明瞭となった。1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻は縄文時代と「弥生時代の区分を明確にしました。縄文時代を縄文土器が使用された時代区分としていた状態から発掘された遺跡から明になってくる生活様式を書き加えるようになった。磨製石器をつくり、煮炊きに土器の使用し、狩猟採集をし後期になるにつれて簡単な農耕を営むように形、後期に移行するにつてて定住するようになったのが縄文人でありこれらの文化形式をもつ社会と時代が縄文時代である。

縄文の名称

 縄文の名は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年から1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と表現したことに由来する。この用語を矢田部良吉は索紋土器(さくもんどき)と翻訳した。その後に白井光太郎は縄紋土器と翻訳表現した。これより後には縄文土器の名称が定着し、縄文土器を使う生活様式を縄文時代とするようになった。

縄文時代の時期区分

 縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別するのに役立つ。土器型式によって縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分ける時代区分方式がある。当初は、前期、中期、後期の三期区分だった。発掘資料が増えたことなどによって早期、晩期が加わり、さらに草創期が追加された。これらの時代区分は土器調査の経緯によるものであるため中期が縄文時代の中頃ということではない。生活様式や文化内容による時代区分をすることが想定されるとはいえ草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期は慣用化した時期区分となりつつある。質量分析の原理とタンデム加速器の特徴を組み合わせ、試料に含まれる極微量の同位体を正確に数えて同位体比を測定する分析法である加速器質量分析法であるAMSで測定が示す年代区分は、草創期は約1万6,000から1万2,000年前、早期は約1万2,000から7,000年前、前期は約7,000から5,500年前、中期は約5,500から4,500年前、後期は約4,500から3,300年前、晩期は約3,300から2,800年前となる。土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式によって区分することもある。

ある考古学者Aによる縄文時代の区分

 ある考古学者は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは、住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であるとする。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。早期末から前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場ができあがる。中期後半には、東日本では地域色がつよまり強まり、ここでは大規模な集落が出現しており発見される遺跡の数はもっとも多い。西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には後退しているようすがある。後期になると東北から中部山岳地帯であ発見される遺跡数は少なくなる。後期になると関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。後期後半には近畿から九州まで定住集落のようすが出現する。この傾向は晩期前半までつづき後半は定住するようすが顕著になり、瀬戸内地方から九州北部は水田稲作農耕を始まっていて、その動きがつづいて弥生時代早期へとまたがって行く。

ある文化人類学者Bによる縄文時代の区分

 ある文化人類学者のは縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文Ⅰ期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文Ⅱ、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文Ⅲ期に分類している。

ある考古学者Cの縄文時代の区分

 ある考古学者Cによる時代区分は、縄文草創期「模索期、縄文早期を実験期、縄文前期から晩期までを安定期としている。

旧石器から縄文へ

 日本の気候は最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期の約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わっている。針葉樹林が日本列島を覆っていたのが西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が拡がり北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われる状態に変化した。気候温暖化によって東日本はコナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し亜寒帯針葉樹林が進出した。日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになった。気候温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、ナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させることとない、1万年ほど前までに日本列島では大型哺乳動物が絶滅した。

縄文草創期

 縄文草創期には新しい道具が短期間に数多く出現した。石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、縄文草創期に出現した。使用される石器などが入れ替わる現象が起こったのである。草創期前半では、遺跡によって使われる石器の組み合わに多様性がみられる。急激な気候の変化によって生える植物や狩猟の対象となる動物が変わる。海岸線の移動は海産物の変化を呼び起こし、漁具がこれに伴って変わっていく。。狩猟、植物採取、植物栽培、漁労といった生活と文化様式によって、それまでよりも食料を効率よく手に入れることができるようになった。

縄文時代早期

 日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物であるヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなどを狩った。中型あるいは小型哺乳動物のニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなども旧石器時代の人々の狩猟対象であった。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動する。旧石器時代人の野営、露営、宿営ははどのようなものだったろう。季節ごとに移動する動物を追う生活は、萌え出ずる草を求めて移動する遊牧民の姿に重ねることができる。旧石器時代人は移動先にある洞窟や岩陰を知っていて寝ぐらとして使った。岩陰などの寝ぐらに一定期間住んで周囲にいる獲物を狩った。洞窟遺跡、岩陰遺跡は縄文期、弥生期の人々の生活の跡を残す。狩猟した大型哺乳動物の解体場あるいは野営の場所であったことを示す礫群、炭の粒の集中す場所は日本列島内で数千ヶ所みつかっている。旧石器時代の人々は更新世の末まで、野営、露営による遊動生活をした。野営とはいっても岩陰、洞窟のあり場所を知っていれば苦労は少ない。行き当たりばったりの野営ではなく岩陰、洞窟を仮住居として獲物を狩った。

 旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活をするようになっ。縄文早期になると定住生活のようすがみられる。縄文時代早期初頭の鹿児島市にある加栗山遺跡では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが発掘されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡と異なり、中央広場を囲むようにに竪穴住居が配置されている。

 縄文早期前半には関東地方では竪穴住居が普及した。竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超える。規模が大きいのが東京都府中市武蔵台遺跡であり、24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されている。竪穴式住居は弥生期に引き継がれ、古墳時代で同じ形式の住居が使われた。米倉などは弥生期には床を上げた造り方にして湿気による腐敗に対処している。この米倉は古墳時代にもつづく。

 南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器が大型化しており出土個体数も増えている。定住生活の主な食物は堅果類がであった。南関東の定住集落では植物採集活動に漁労活動が加わる。

 北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土、その数は40万点にものぼる。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が行われ長期の定住生活が営まれていた。東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡では28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡では狩猟で使用する石鏃2,168点が出土している。富士山麓の遺跡から発掘される遺物には哺乳動物が多い。富士山麓には、小谷が多く形成され、舌状台地が連続されているために狩りの対象となる動物が多く生息していたことを示す。

 移動生活から定住的な生活に切り替わることによって、居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り拓かれた。クリやクルミなどを食料となる樹木が植えられるようになった。人の定住に伴って燃料となる薪(まき)を切り出した跡には日の当る林や野原ができ、ここにはワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルといった食用植物が生える。食料を得るための新しい環境が広がっていった。縄文時代の建築材はクリの木が多い。

縄文文化の歴史的変遷

縄文文化の分布範囲

 縄文文化の定義は一様ではない。縄文土器の分布を目安にすると、北は樺太南部と千島列島、南は沖縄本島を南限とする。宮古島や八重山諸島には分布しない。八重山諸島は台湾島の土器と同系統となる。現在の日本国の国境線とは少しずれた範囲が縄文土器の分布域となる。

気候の変化と縄文文化の発展

 縄文時代は1万年と長いがこの間に気候は何度か大きく変動している。南北に長く、高地と海岸線では標高差があるために、縄文文化の地域差は大きかった。このことが縄文時代の文化形式の多様性の元になっている。

 20,000年ほど前に最終氷期が終わり、その後の6,000年前頃には地球の気候は温暖化した。この間に日本列島は100mほどの海面上昇があった。縄文土器編年区分においてはこれは13,000年前から6,000年前の縄文草創期から縄文前期に相当する。6,000ほど年前には海面が現在より4mから5m高い縄文海進があった。

 縄文草創期の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も出現していた。北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷していて本州ともつながった。瀬戸内海は存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は島であった。島と朝鮮半島の間に幅15kmの水路は温暖化による海面が上昇の結果、対馬と朝鮮半島間の水路の広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込んだ。日本列島の気候が変わり日本海側に豪雪地帯が出現し豊富な雪解け水によってブナなどの森林ができた。

 縄文早期には定住集落が登場した。漁業が普及し関東では外洋航行のが始まった。1万年ほど前に通年の定住が開始された。植物相では縄文早期前半は落葉樹が優勢であり、照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られていた。

 縄文前期から中期にかけては縄文文化が栄えた時期である。三内丸山遺跡はこの時期に形成された文化の様式である。海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在より温暖であった。縄文海進によって沿岸部には好漁場となり海産物が多く捕れるた。関ヶ原の西側は照葉樹林帯となった。

 縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かった。弥生海退により海水面が低下した。関東では貝類の好漁場であった干潟が縮小した。西日本や東北では低湿地が増加した。中部や関東では堅果類がクリからトチに変化した。青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡の花粉の遺物を分析では、トチからソバへと主力栽培種が変化している。寒冷化に伴ってこれまで得られていた食べ物が減った。これによって人口の減少がおきた。文化圏は4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは、弥生時代にも引き継がれ、東日本、九州を除く西日本、九州、沖縄と現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層となっている。縄文文化の地域性ということでは、縄文文化は日本列島のどの地域でも同質ではなく、多様な地域性を備えた文化群であった。

土偶の分布に見る地域性

 縄文人の土偶が縄文時代の全期間を通して日本列島各地でつくられていたのではない。時期と地域の二つの要素によって限定されている。土偶は、縄文早期の、その前半期に関東地方の東部で集中的につくられた。縄文中期に土偶製作は消滅している。縄文後期の前半に東日本で再びつくられるようになった。それまで土偶が見られなかった九州では縄文後期になって出現する。落葉樹のブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの堅果類を主食とした地域と、西日本の照葉樹林帯との生業形態の違いが土偶の製作に影響すると考えられている。落葉性堅果類であるクリ、ドングリは秋に収穫される。クリやドングリを採集するために集落で共同して作業したことが想像される。人の共同作業の必要と土偶に関わりを求める考え方があり、土偶は祭祀に役割をなしたとされる。状況はあっても証明の条件にはなっていない。

縄文時代の文化圏

 縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。

石狩低地以東の北海道

 石狩低地以東の北海道ではエゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域がその一つである。トチやクリが分布していない地域である。トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣を捕獲するための回転式離頭銛が発達した。

北海道西南部および東北北部

 北海道西南部および東北北部は石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲もなされたが、カモシカやイノシシなどの陸上の哺乳類の狩猟もしたことが石狩以東と違う。

東北南部

 東北南部における動物性の食料は陸上ではニホンジカ、イノシシ、海産物はカツオ、マグロ、サメ、イルカであった。この文化圏の沖合を暖流が流れるために寒流系の海獣狩猟は行われなかった。

関東

 関東文化圏の特徴は、照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労による食料である。日本列島全体の貝塚のうち6割がこの文化圏にある。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心である。海ではハマグリ、アサリを採取した。スズキやクロダイも多く獲った。海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業も行われた。

北陸

 北陸では、シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生はトチノキ、ナラなどの落葉広葉樹であった。豪雪地帯であることと家屋の大型に因果関係をみる者がいる。

東海・甲信

 関東および信越における狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリの根なども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。

北陸、近畿、伊勢湾沿岸、中国・四国、豊前、豊後

 北陸、近畿、伊勢湾沿岸、中国・四国、豊前、豊後における狩猟対象はシカとイノシシで、植生はシイ、カシなどの落葉広葉樹に照葉樹であり、漁業面では石を加工して作った錘を使った網による漁業がなされていた。関東の土器片による錘の技術が伝播したと考えられている。

九州(豊前・豊後を除く)

 九州(豊前・豊後を除く)における狩猟対象はシカとイノシシである。植生は照葉樹林帯だ。九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を渡り歩く外洋性の漁労活動がなされた。西北九州型結合釣バリや石鋸を漁具とした。結合釣バリは、複数の部材を縛り合わせた大型の釣バリのことで、古代ポリネシアでも同じものが使われている。朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣バリと分布域が重なる。九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、壊滅的な被害を受け、ほぼ全滅と考えられている。

トカラ列島以南

 トカラ列島以南の植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労があった。シャコガイやタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いている。九州文化圏との交流もあった。

9つの文化圏の間の関係

 9つの文化圏は、縄文文化という一つの文化圏内での差異は発展の方向を同じくする別個の地域文化であるとも考えられている。それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した文化要素を選択保持している。ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素が出現する。

 縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、北海道西南部および東北北部、東北南部、関東、北陸、東海および甲信、の5つがまとまって単一の照葉樹林文化論におけるナラ林文化の文化圏を構成するようになる。北陸、伊勢湾沿岸、中国、四国、豊前、豊後九州がまとまった照葉樹林文化論における照葉樹林文化圏が構成された。縄文後期および晩期には文化圏の数は4つに減少する。これは気象条件がもたらした。

勾玉(まがたま)からみる地域交流

 縄文中期(BC5,000年)頃にはヒスイ製の勾玉(まがたま)が作られていた。新潟県糸魚川の長者ケ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が見つかっている。蛍光X線分析によって青森県の三内丸山遺跡や北海道南部から見つかっているヒスイが糸魚川産であることが分かっている。縄文人は広範囲で交易をしていた。日本の勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

植物栽培

 縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実である。福井県の鳥浜貝塚の前期の層からアズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなどの栽培植物が出土している。早期の層からはヒョウタンが出ている。北部九州の後期および晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた。熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されている。東日本では後期および晩期の10箇所を超える遺跡から焼畑農耕による栽培であると推定されるソバの花粉が検出されている。。

稲作の始まり

 プラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。プラントオパールとは土中に見られる植物に由来する珪酸(けいさん)体をいう。珪酸はイネ科植物の葉中に特に多く含まれるため、プラントオパールの有無や多少が、過去の植生を推定する手がかりになる。

 イネ(Oryza sativa)には、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。

 列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールが見出され、岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点の中の4点からイネのプラント・オパールが見出された。うち2点は、縄文時代後期中頃、炭素14年代測定の結果3,500年前ほど前のものであった。岡山県古代吉備文化財センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される穂摘み具の石器や、打製土掘り具と見られる石器を発見している。

 現在発見されている最古の水田跡とされているのは、晩期の突帯文土器を伴う岡山市北区津島の津島江道遺跡である。3メートル×5メートル前後の面積をもつ水田遺構が見つかっている。

 縄文後期後半の日本列島ではイネが栽培されていた。イネは単独で栽培されていたのでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていたらしい。

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信楽焼と甲賀衆 甲斐鐵太郞

安楽椅子の延長として電動リクライニングベッドに行き着いた 甲斐鐵太郞

伊賀上野は忍者の街 甲斐鐵太郞

稲城の梨「稲城」と狛江市の慈恵第三病院 甲斐鐵太郞

郡上おどり、長良川そして郡上市のこと(その1) 甲斐鐵太郞

郡上おどり、長良川そして郡上市のこと(その2) 甲斐鐵太郞

60インチモニターと桃とブドウと椅子とテーブル 甲斐鐵太郞

どろどろに溶けたサナギの身体から蝶がでてくる不思議な世界 甲斐鐵太郞

甲府盆地勝沼の葡萄園 甲斐鐵太郞

甲府盆地は御坂の桃 甲斐鐵太郞

食卓テーブルにウインザーチェアーが私の作業台 甲斐鐵太郞

霧ヶ峰高原の夏はよい 甲斐鐵太郞

夏の陽光に輝く善光寺の参道 甲斐鐵太郞

ヒョウモンチョウが舞う夏の八島湿原 甲斐鐵太郞

クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん 甲斐鐵太郞

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞

ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

川上村と私 甲斐鐵太郞

甲府盆地の7月は桃の季節で8月になるとブドウが本格化する 甲斐鐵太郞

霧ヶ峰高原とレンゲツツジ 甲斐鐵太郎

安岡章太郎が描く軍隊と現代の人々の生への現実 甲斐鐵太郎

現代の人には死はない 甲斐鐵太郎

真夏の暑さのなか快適に作業するために一階にパソコンを移す 甲斐鐵太郎

椅子とヒキガエルと葛の根を考える 甲斐鉄太郎

パソコン業務のためにモニターと机と椅子の位置関係を求めて苦闘する 甲斐鉄太郎

バラの花の向こうに甲斐の山々と青空が広がっていた 甲斐鐵太郞

2020年桃の果実の行方、山梨の果樹農家の不安は拭えない

塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞

6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞

茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞

川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞

フィルムでの写真撮影にかかる実際費用 甲斐鐵太郞

R型ズミクロンをEOS 5Dで使う 甲斐鐵太郞

R型ズミクロンの初期型をキャノンイオスデジタルの5Dを使う

レオタックスFを私は気に入っている 甲斐鐵太郞

新型コロナウイルスと肺炎疾患を考える-その資料一覧 №2-

説明する児玉龍彦氏(東大先端研がん代謝PT)
児玉龍彦さん(東大先端研がん代謝PT)と金子勝さん(立教大特任教授)にうかがう最新の新型コロナ情報。なんと、日本人を含め東アジア沿岸部は、SARS以降に今回のウイルスに根幹の似たウイルスに暴露し免疫を持っている人が多いのかもしれないという仮説が出てきました。そして、ウイルスの特徴から感染後に重症化する人を見分けてケアし、軽症者の重症化を防ぐ手立ても見えてきました。そのような状況の中で、どうしたら感染を制御して社会生活・経済生活を再開できるのか、それを考えます。収録は、2020年5月16日(デモクラシータイムス)

春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞

無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞

「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する

大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞

裂石付近の番屋小屋。ここは東京と山梨の境に位置する。

新型コロナウイルス禍を理解する 甲斐鐵太郞

5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞

緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎

白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞

八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖

思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。

主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ


YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する


田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎

地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ

富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ


霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞

中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした

暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎

灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

地震と津波

地震計は地震を予知する機能を持たない

旅行や自然や風景の動画 目次-その2-

旅行や自然や風景の動画 目次-その1-

地震計は地震を予知する機能を持たない

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

オリンピックの自転車ロード競技のテストイベントを見物する 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

2019年郡上おどり2日目7‎月‎14‎日は午後10時半まで盛大に 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

2019年の郡上おどり始まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

飛騨市古川町にNHK 朝ドラの「さくら」がいた。執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

海をみに行く。房総半島を右回りで旅行した。 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

ニセアカシアを知る-アカシア情報-

アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です


真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました)
 執筆 甲斐鐵太郎

輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎

湘南の海岸通りを走る 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ウイルス防御ソフトの「ブロック」表示との格闘三日間 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ウイルス・ソフトのパソコンへのアップの顛末記 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

「ハッピーエンド」を聴く 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎


キャノン7とキャノンP 執筆 甲斐鐵太郎

中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる

富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎

国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎

霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎

石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎

真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎

熱海桜は河津桜よりも確実に早く咲く 執筆 甲斐鐵太郎
真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎

真鶴と湯河原をぶらりとする 執筆 甲斐鐵太郎

富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)

1月10日、京都えびす神社の「えべっさん」 執筆 甲斐鐵太郎

富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎

富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった


山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎

太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎

大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎

上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎

江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎

林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎

山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎

三浦岬をぐるりと巡って葉山マリーナにでた 執筆 甲斐鐵太郎

浅草の場外馬券売り場前の飲み屋で一杯 執筆 甲斐鐵太郎

お酉さま 執筆 甲斐鐵太郎

晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎

カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎

10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎

11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎

10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎

信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎

信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎

金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎

日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた

夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う

白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ

夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時

よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ

近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり

特別な位置にいる投手としての大谷翔平

「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。

東京の桜は散って新緑の季節になりました

武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)

北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)


陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう

埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)


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