数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
安曇野に下る山道の向こうに常念岳がみえた。5月1日、信州・松本市の山間で撮影)
(タイトル)
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)
(本文)
文字を人は骨に書いた。日本では木の板に書いていた。短冊とはこの名残か。書く場所がないと洞窟の壁に書いた。文字が発明されなかった時代には絵を描いた。それがアルタミラの壁画である。日本だって墳墓の内壁に絵を描いた。キトラ古墳の白虎である。文字は紙に書いて表現する時代が長く続いた。筆記用具を使って手で書いていたのが日本人である。アルファベット文字を用いる文化圏ではタイプライターを発明してキーボードを叩いて文字を書くようになった。
日本だって平仮名や片仮名を使えばタイプライターを使える。読んで音を拾いながら漢字を連想して意味を考えることになるので不便である。夏目漱石は平仮名と漢字混交で現代の日本の文体に通ずる文章形式を使いだした。それによって読み物が大衆に普及した。普通の人も漱石の文体を真似すれば事実や心模様の表現がたやすく行える。日本の現代の文章に果たした漱石の役割は大きい。小説はまた漱石によって誰でもが書けるようになった。読むに値するかどうかは別のことだが。
テレビを見ていたら文章を書くことを両手の指をぺなぺなさせて表現する人がいた。古い世代ではペンを握って文字を紙に書く仕草をしたことだろう。ワープロ世代あるいはパソコン世代と旧世代が分かれる。コンピュータの能力が高まったことで日本語の漢字表現への障壁が消えた。
江戸の時代であれば絵をかいて表現していたことを写真が代わってする。事実の写し取りということでは写真は絵の及ぶところではない。ニュース報道は絵ですべてを語ることができるほどだ。絵のない報道は怪しさが付きまとうほどである。意図して絵に嘘を含ませることができなくはないが大儀なことなので余程のことがないとそれはしない。誰が誰といつどこで会って「男たちの悪だくみ」があったかを示したのが首相府時による写真で示され。深い仲が事実として示されると様々なことがそこから発すると推察されてしまう。そうではないと否定しても信用する人はいない。何もなかったと決めているのは本人だけだから、それによってご自身は救われる。
紙に書かれた事実はそのままだと疑われるから疑わしい事実を紙から消し去ることを財務省が行った。文章削除を実行した財務省職員は遺書を残して命を絶った。命令した者は罪に問われるが形だけの刑がでるはずだ。紙に書いた事実を消し去ることに命が掛かった。
「男たちの悪だくみ」の手助けをした首相官邸に出向したキャリア官僚は事実の明言は避けとおすついでに、記憶も記録もないと言い張り、さらに自分の行動は職務に誠実であったと強弁した。2018年5月10日の加計学園獣医学部開設にかかる国会参考人招致の場面である。この人は罪に問われることがなさそうなので財務省関係者は気の毒なことだ。
数字と記号によって数学が描く世界は成立する。幾何の分野では図形が加わる。数学者たちは頭脳が繰り広げる世界を事実だと思っている。それがそのように展開すればこのようになる、という世界は数学者たちには事実なのである。理論物理学者たちの思考も同じである。頭に思い描くこと事実であるのが数学者たちの世界だ。
物理学も数学も多くの学芸や技術の世界も過去の人々の業績の蓄積の上に成立する。ニュートンがいなければアインシュタインはなかった。身近にアインシュタインに影響を与えた物理学者と物理理論は沢山ある。アインシュタインがいなければハッブルもハッブル宇宙望遠鏡もなかった。そして爆発宇宙理論もでてこなかった。重力によって空間が歪むとアインシュタインは言った。空間が歪むと光は歪んだところを走るので一定である光の速度は歪まないところを通った光との間に到着時間に差を生ずる。巨大な仕掛けの光波干渉計はこの事実をとらえた。また重力によって光が歪んで通過すると物体の背景の見えない部分が見える。この二つのことが確かめられた。アインシュタインが思い描い事実は、実験と観測によって事実として確かめられた。
事実と現実の奇妙な関係であるが、光波干渉による測定システムによってアインシュタイン事実として思い描いた構想が事実として確かめられこの研究者たちにノーベル物理学賞が贈られた。