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縄文研究-その2-

縄文研究-その2-
Jomon study Part 2

縄文研究-その2-

縄文研究-その2-

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

栃木県埋蔵文化センター ホームページ上でお答えをする質問コーナー

縄文時代の名前の由来は?
「縄文時代」という名前は、「縄文土器が使われた時代」として名付けられました。「縄文土器」とは、「縄文」という撚り紐(よりひも)を土器の表面に転がしてつけた文様が多くみられるので、そのように呼ばれるようになりました。明治時代になり、東京大学が作られると、外国人の学者をやとって、日本人学生に近代的な学問を教えました。そうした外国人学者の中に、エドワード.シルベスター.モースという動物学を専門とするアメリカ人の学者がいました。彼は、1877年(明治10年)に東京都大森貝塚を発掘調査し、その調査報告書(英文)を刊行します。これは、日本における最初の科学的な発掘調査といわれています。彼はその報告書の中で、大森貝塚から発見された土器に縄目模様があることから「cord marked pottery」と名付けます。これを後に日本人の学者がいろいろと日本語に訳しますが、その中で白井光太郎という学者が「縄紋」と訳しました。この名称が定着し、後に「縄文」と書かれるようになりました。(現在は、「縄文」と書く研究者と「縄紋」と書く研究者の両方がいます。)

縄文時代の人は何を食べていたの?
縄文時代は、主に植物採集(木の実や山菜などをと採ること)、狩猟(しゅりょう:狩りのこと)、漁撈(ぎょろう:魚とりのこと)の三つの活動によって、食べ物を得ていたと考えられています。まず、もっとも重要なのが植物質の食べ物です。縄文時代というと、狩りでとった獣(けもの)が主な食べ物であるというイメージが強いのですが、実際には植物質の食べ物の占(し)めていた割合が高かったと考えられています。その中でも秋にとれる木の実類は、主食といえるほど重要なものです。現在でも食べているクリ、クルミのほか、ドングリ類(ナラ、カシ、シイなどの実)やトチの実の殻(から)が縄文時代の遺跡から発見されます。ドングリ類やトチの実はそのままでは食べることができませんので、水でさらしたり、縄文土器で煮(に)たりしてアクを抜いていました。トチの実のアク抜きには、水でさらしたうえ、灰を混ぜて煮るといった複雑な作業が必要となります。他にもカヤ、ヤマモモ、サンショウ、ヒシ、ノビルなど、約40種類の植物が、縄文時代の遺跡から発見され、食料とされていたことがわかります。しかし、山菜(さんさい:タラの芽、ウド、ワラビ、ゼンマイなど)やキノコあるいは根茎類(こんけいるい:ヤマイモ、ユリの根、カタクリの根など)などは腐(くさ)りやすく遺跡には残りません。実際に食べられていたものはもっと多く、55種類以上にのぼったと考えられます。植物質の食べ物についで重要だったのが魚です。狩りで獣をとるのは主に冬です。そして、とれる時ととれない時があります。それに比べて魚は、種類を組み合わせれば1年を通じて、毎回ほぼ確実に一定の量をとることができます。動物質の食べ物のうち、獣よりも魚の占めていた割合が高かったと考えられています。つい最近まで、日本人のおかずは、肉ではなく魚が主だったわけですが、縄文時代以来の伝統といえるかもしれません。魚は、地域によってその種類が異なります。東北地方の三陸海岸など外洋と呼ばれる地域では、マグロ、カツオ、マダイなどを、釣りやモリで突いてとっていました。東京湾などの内海では、クロダイやスズキが主なえものとなり、縄文時代の後半は網による漁が行われていました。海のない内陸部ではフナ、コイ、ニゴイ、ギバチなどの淡水魚をとっていました。特に東日本では、春に川をさかのぼるマス、秋のサケが重要な食料となっていたと考えられます。70種類以上の魚類が食べられていたと思われます。フグも食べられており、すでにフグの毒の抜き方を知っていたようです。また貝類も盛んにとっており、各地に貝塚が形成されます。350種類以上の貝が食べられていました。狩りの獲物(えもの)でもっとも多いのがシカとイノシシです。前にものべたとおり、狩りは主に冬行われます。夏は木々の葉が繁り、獲物が発見しずらく、また子育ての時期ですので、この時期とってしまえば、数を減らすことになります。また食べてもおいしくありませんし、毛皮も利用することができません。縄文時代の遺跡からは、多数のやじりが発見されるので、主に弓矢を使って狩りをしていたことがわかります。また、狩りの重要なパートナーとして犬を飼っていたこともわかっています。他にも、落とし穴を使って狩りをしていたことがわかります。シカやイノシシのほか、サルやタヌキなど60種類以上の動物が食べられていたことがわかっています。狩猟、漁撈、植物採集のほか、縄文時代に農業があったのではないかという学説があります。賛成、反対とそれぞれの学説があるのですが、縄文時代の遺跡から出土した植物の中に、日本にはもともと自生(じせい)しない栽培植物(リョクトウ、ヒョウタン、シソ、エゴマなど)があります。農業といわないまでも、簡単な植物栽培をしていたことがわかっています。

縄文時代にどうやってクジラをとったの?
縄文時代の貝塚からは、クジラの骨が発見されており、クジラを食べていたことが判っています。また、クジラの骨も利用されていました。クジラの脊椎(せきつい:背骨)を、縄文土器を作るときの台として使ったことも知られています。そして、縄文時代の遺跡から発見されるクジラの骨は、子どものクジラだけではなく、大人のクジラのものが多数発見されています。ところで、世界中のいろいろな国で、昔からクジラとりが行われていましたが、そのとり方は、どこでもだいたい同じようなものです。海面に息をつぎにきたクジラを発見し、舟で近寄り、ひものついた銛(もり)でつきさし、クジラが弱るのを待って引き寄せ、とどめをさすという方法です。昔は手こぎの舟だったのが、エンジンつきの舟に変わったりしましたが、とり方じたいはあまり変わっていません。縄文時代には、丸木舟もあり、シカの角で作った銛(もり)もありました。しかし、丸木舟をこぎ出し、銛を使ってのクジラとりは行っていなかったようです。クジラは、泳ぐ早さが早く、丸木舟で追いかけられたでしょうか。また、大きいクジラを追いかけて仕留めるためには、大人数が必要ですが、果たして縄文時代に大人数を集めることが簡単にできたでしょうか。また、仮に仕留めたとしても、大きいクジラの体を運べたでしょうか。特に、セミクジラ、マッコウクジラ以外のクジラは、死ぬと海に沈んでしまいますので、小さな手こぎの丸木舟で運べたでしょうか。このようなことから、縄文時代には、舟と銛を使ったクジラ漁はなかったと考えられています。しかし、クジラは時々浜辺に漂着(ひょうちゃく)して、身動きできなくなることがあります。クジラにはシャチという天敵がいるので、これに追われて浜に乗り上げることがあるようです。縄文時代には、このようにして漂着したクジラをとっていたと考えられています。日本で、舟と銛を使って、集団による本格的にクジラとりが行われるのは、室町時代の終わりから江戸時代のはじめ頃からです。なお、縄文時代には、イルカ漁は行われていたようです。丸木舟を使って、狭い湾にイルカを追い込み、銛で仕留めていたようです。

縄文時代はどんな暮らしをしていましたか?
縄文時代は、植物採集、狩猟(狩り)、漁撈(魚とり)によって食べ物を得ていました。本格的な農業はまだはじめられていなかったと考えられています。主な食べ物は、木の実など植物質のものであったようです。クリ、クルミなどのほか、ドングリ(シイやカシの実)やトチの実などを食べていました。クルミやクリはそれほど手をかけなくても食べられますが、ドングリ類は水にさらしたり、煮てシブを抜きます。また、トチの実は、水にさらしたうえ、灰を加えて煮て、アクを抜いたようです。各地の縄文時代の遺跡から、水さらし場のあとがみつかっています。まら、ドングリやトチを煮るのに欠かせない道具が、縄文土器なのです。縄文時代になる前(旧石器時代とよばれる時代)には、土器がありませんでしたから、ドングリやトチなどは食べることはできませんでした。物は煮ることができず、生で食べるか、焼くしかありません。食べられる物の種類も非常に少なかったようです。縄文土器が使われるようになったことは、日本列島での人間の歴史において、非常に大きな意味をもっています。日本列島は春夏秋冬の季節がはっきりしています。各季節によってとれる食べ物もちがってきます。縄文時代の人々は、季節ごとにとれる食べ物をたくみに組み合わせていたようです。しかし、それだけでは1年を通じてじゅうぶんな食べ物を確保することは難しいです。そのために、食べ物の「貯蔵」ということを行っていました。特に、木の実類は秋にしかとれません。これを貯え、食べ物の無い時期に食べていました。縄文時代の遺跡から、木の実を貯えた貯蔵用の穴が発見されます。このように、縄文時代の人々は、季節ごとの食べ物を組み合わせ、さらに貯蔵を行うことによって、豊かな食生活を送っていたと考えられています。縄文時代の人々は、食べ物を探して移動していたのではなく、一カ所にムラを作って住んでいました。縄文時代の家の中で代表的なのは、「竪穴住居跡」と呼ばれる、地面を掘りくぼめ、屋根をかけたかたちの家です。こうした家が中央の広場を取り囲むように、丸く配置された大きなムラの跡も見つかっています。鉄や銅などの金属の道具は使われていませんでした。道具類は、石、動物の角や骨、木などで作っていました。なかでも、石で作った「石器」は、縄文時代の遺跡から数多く発見されます。狩りの時の弓矢の矢につける石のやじり、木を切ったり加工したりする磨製石斧、木の実を粉にする石皿、擦り石、土掘り具の打製石斧などさまざまな物があります。魚をとるヤスやモリ、釣り針はおもに鹿の角で作っていました。木をくりぬいて作った器もありました。また大木をくりぬいた独木舟も使っていました。植物の繊維を撚った糸があり、これを編んだ布もありました。衣服はこの布を使っていたと考えられています。必ずしも毛皮だけではなかったようです(夏は暑くて毛皮は不向きと思われます)。 縄文時代の人々は、自分のムラの周囲だけですべての物をまかなっていたわけではありません。場合によっては、遠いところの物を物々交換によって得ていました。やじりの原料となる黒曜石は、長野県や伊豆七島の神津島などから運ばれてきます。ヒスイで作った玉は、新潟県糸魚川から全国に運ばれました。その他オオツタノハおよばれる南の海でしかとれない貝で作った腕輪も縄文時代の遺跡から見つかっています。縄文時代には、高度に発達した技術があったことも判っています。前に述べたヒスイの玉ですが、ヒスイは最も硬い種類の石であるにもかかわらず、鉄がなくても穴をあけています。日本に伝統的な漆ぬりの技術も縄文時代に開発されました。土器や木の器、あるいは編み物に漆をぬったものが発見されています。

縄文時代に安定した食べ物はあったの?
縄文時代は、植物採集(木の実や山菜、イモ類などをとること)、狩り、魚とりによって自然界から食物をとっていました(本格的な農業は始まっていなかった)。そして食物がとれない時のために、貯えをしていたこともわかっています。このようにして、生活するのにじゅうぶんな食物を確保していたようです。主な食べ物は、クリ、クルミ、ドングリ、トチの実などの木の実類であったと考えられています。クリ、クルミなどはあまり手を加えなくても、食べることができます。ドングリは煮てシブを抜き、トチの実は、灰汁で煮てアクを中和してから食べていました。しかし、1年を通じてこれらの木の実が主な食べ物であったかどうかはわかりません。別な食べ物で補っていた時期があるかもしれません。また、縄文時代といっても、日本列島全体で、一万年以上も続いていますので、いつの時期、すべての地域において、じゅうぶんな食べ物が確保できていたかどうかはわかっていません。

縄文時代にパンや米などはあったの?
<パンについて>
 現在わたしたちが食べているパンは、小麦粉をこね、イースト菌を混ぜて発酵させて、焼いたものです。このようなパンが縄文時代にあったかどうかはわかっていません。しかし、縄文時代の遺跡から、焼けこげたパンのようなものは発見されています。このパンのようなものは、何から作ったかははっきりとわかっていません。おそらく、クリやドングリなどの木の実の粉やヤマイモなどのイモ類をこね、焼いて作ったのではないかと考えられています。現在の考古学の研究では、発酵させたかどうかはわかりませんので、縄文時代の遺跡から発見されたものを「パン」と言いきることはできません。また、日本列島全体で1万年以上続いた縄文時代のうち、すべての時期、すべての地域でこのパンのようなものがあったかどうかもわかりません。今のところ、縄文時代中頃の東日本を中心にこのパンのようなものがあったことがわかっています。また、焼けこげたパンのようなものの中から、エゴマやシソなどの栽培植物の実が発見されています。これらは、香りをつけるために混ぜられたのかもしれません。
 なお、縄文時代の遺跡からは、焼けこげたクッキーのようなものも発見されています。これは、木の実の粉にけものの肉や卵を混ぜたものを焼いたと考えられています。これは現在のクッキー(小麦粉にバターなどを混ぜて焼いたもの)に近いものかもしれません。
<米について>
 水田を作って本格的な稲作をはじめたのは、弥生時代になってからと考えられています。しかし、その前の縄文時代にもイネがあったことが判っています。縄文土器にイネの籾(もみ)のあとが付いていたり、焼けこげたイネの籾(もみ)が縄文時代の遺跡から発見されています。また、縄文時代の遺跡の土を顕微鏡などで調べると、プラントオパールというイネに特徴的な細胞が発見されることがあります。しかし、縄文時代の人々は、植物採集、狩り、魚とりによって生活をし、水田を作った本格的な稲作はまだ始めていなかったと考えられています。ムラの周りに、イネ籾をまき、実ったものをかりとるといった、ごく簡単なイネ作りが、一部で行われていたと思われます。

なぜ、縄文土器の模様は、縄や竹でつけるの?
これは、難しい質問だな~。本を調べても、よく分らないというのは、春菜さんの知りたいことが研究の核心に近いということだからなのです。つまり、考古学の研究者も、まだ、よく分らないのです。でも、「分からなかったら無視して頂けばいい」というのは、挑戦状を叩き付けられたのと同じなので、当センターの縄文時代研究者の見解を御紹介いたしましょう。なぜ、縄文土器の模様は縄や、竹でつけるのか。縄や竹を使う理由は、身近にあって手に入りやすいものだったからというのが、一番の理由と考えられます。手軽に入手できて、使いやすく、便利であるというのは大切な条件です。特に、縄や竹は、粘土に押しつけたり転がしたりするのに、ちょうど良い道具であるからです。また、縄や竹以外にも、貝殻や木の棒や小枝・爪などで文様を描いていました。そして、粘土を貼り付けて文様(模様)とする場合もあります。では、なぜ、文様を付けたのでしょうか。今のところ、最初に土器に文様をつけた理由は分っていません。当時、すでにあった「かご」をまねたという説があります。でも、手元にあった縄を押したり転がしたら、面白い文様になったので流行したというだけの簡単な理由だという説もあり、本当のところは、誰も分りません。しかし、文様をつける意味は、少しずつ分かってきています。縄文土器の文様の中には、土器をぐるっと回してみると、物語を表現しているようなものがあります。こうした土器は、当時の宇宙・世界のこと、ムラとムラとの関係、人と人のつながりを表現していると考えられています。また、ヘビや鳥、狩りの様子、子供が生まれるときの姿など、具体的なものを土器に表現し、祈りや思いを込めたと考えられるものもあります。こうした土器の表現が、広い地域に見られることは、次のように考えられます。みなさんの服に流行があるように、縄文時代には、地方ごとに共通の土器の形・文様がつけられる流行がありました。そして、その地方の外には、別の流行があり、そうした人々の間にも交流がありました。だから、地方ごとの人々が、自分たちの文化を表現する方法として、また、同じ文化を共有する証明として、同じ文様を大切にしたと考えられるのです。きっと、土器以外のものにも、そうした文様は使われていたと考えられます。言いかえれば、自分たちの存在や仲間意識を示すマークのようなものです。今でも、野球やサッカーなどのチームでは、ユニホームやロゴマークを見ただけで、どこのチームか分りますよね。特にプロチームなら多くの人が区別できます。これと同じです。そして、そうした仲間意識が、親から子供へと受け継がれたことが、ある一定期間、土器に同じ文様がつけられたことだとも考えられるのです。けれど、何代にもわたって受け継がれる間には、手抜きがあったり、他の地方の文様とのブレンドがあったりして、いろいろと変化することもあります。火炎土器のように、私たちはこんな立派な土器を作れるんだぞーって、主張しているようなものもあります。考古学研究者は、これらの分析を行って、当時の人と人との交流や、地域ごとの文化の違いを研究しているのです。

縄文時代の狩りで、サングラスをかけていたって本当?
O.rさんは、どこで狩りの時にサングラスを着けていたと聞いたのかな。確かに、以前、こういう説がありました。しかし、今では、狩りの時にサングラスを着けていた説は、否定されています。 では、狩りの時にサングラスを着けていた説とはどういうものか、また、なぜ、否定されているのかをお話ししましょう。今から3,000年前の、縄文時代晩期、東北地方で流行した土偶(どぐう)に、遮光器土偶(しゃこうきどぐう)があります。この遮光器土偶の特徴は、大きな腫(は)れぼったい瞼(まぶた)を閉じているような目にあります。明治24年(1891)、坪井正五郎という考古学者(人類学者)は、イギリスの大英博物館で、シベリアの人が、雪の反射光を避(さ)けるために使用する遮光器(しゃこうき)〔板に細い線のような切れ目を入れ、それをメガネのように使用する=雪眼鏡(ゆきメガネ)〕を見つけました。そして、日本の土偶でよく似たものがあることに気が付き、あの土偶の目はこれだったのかと、遮光器土偶と名前をつけました。ところが、その後、遮光器土偶が多く発掘され、色々な分析をしたところ、土偶の模様や飾りの部分の表現の変化に合わせて目の形も変化することがわかりました。つまり、最初は遮光器のような目ではなく、模様が派手になったとき、目も遮光器のようになったのだと考えられるようになり、現在の研究では、狩りの時に遮光器(サングラス)を使用していないと考えるようになりました。今後、木でつくられた遮光器が、腐らずに残って出土したら考え方は変わると思いますが、今のところ、遮光器(サングラス)が出土していない以上、日本ではサングラスは無かったということになります。また、疑問に思ったことがあったら質問をお寄せ下さい。

縄文時代は夏に山菜は食べていたんですか?また、アク抜きの遺構がある遺跡は見つかっていますか?
こんにちは。昔の人の食生活について興味を持っています。遺跡から出土する植物遺体などに興味があります。植物観察などの自然観察も好きで行く機会があります。縄文人は旬のものを食べていたと言われています。春は山菜があります。今ごろの季節、縄文時代など、野菜の栽培などされる以前は植物食、特に菜っ葉、葉っぱものはどんなものを食べていたのでしょう?今ごろの野山にある植物は意外と食べられない毒草、有害なものが多いそうです。栃木県といったらトチノキですが、トチの実などはアク抜きが必要ですが、アク抜きの水さらしの遺構は栃木では出ていますか。お忙しい所すみませんが、栃木の知人からの質問なのでよろしくお願いします。
ご質問有難う御座います。縄文時代は、地域の環境に順応した食性の中、けっこう豊かに暮らしていたのではないかと考えられています。概説的に申しますと、夏期は海産物や河川流域の魚・蟹などを主体的に捕っていたとされています。しかし、これが、海なし県に当てはまるわけがありません。では、植物採集で暮らしていたのか?といっても、お尋ねの8月前後は、食用可能な植生が減じている時期であることはご指摘のとおりです。そこで、8月前後に現在の栃木県で採集できる食用可能な植物を探してみました。思ったより種類がありますが、これが縄文時代の植生そのものではないので注意してください。また、縄文時代が採集植物で、全ての食生活をまかなっていたわけではありません。特に、縄文時代は粉の文化とも言われ、秋に収穫した堅果類(ドングリ・シイ・トチノキなど)の保存とそれらを製粉してパン・ハンバーグ・クッキーなどに加工していたと考えられています。そして、肉類を薫製にして保存する技術なども発達しており、それらを様々に工夫しながら食べていたのでしょう。ですから、食用植物の少ない時期でも打撃を受けることはないと思われます。それと、灰汁抜きについてですが、アクを抜くための方法は、煮沸(加熱)・水さらし・凍結・発酵・吸着・酸化・酸素分解など様々で、代表的なものが水さらしです。栃木県では、小山市寺野東遺跡で確認された遺構が有名です。
栃木県で採集できる夏期の食用可能植物
植物名 採取時期 食用部位

ハシバミ 8~9月 果実
ヒメコウゾ 7月 果実
コウゾ 7月 果実(生食すると刺毛が舌にささる)
クワ 春~秋 新芽・若芽・果実
ホウノキ 初夏 若芽
トガスグリ 8月 果実
ウワミズザクラ 8~10月 果実
クマイチゴ 6~8月 果実
ニガイチゴ 6~7月 果実
バライチゴ・ヒメバライチゴ 8月 果実
エビガライチゴ 7~8月 果実
ナワシロイチゴ 6~7月 果実
クロイチゴ 8~9月 果実
コバノフユイチゴ 8月 果実
クマヤナギ 7~8月 果実(リキュールむき)
ニッコウナツグミ 7~8月 果実
ニワトコ 春/6~8月 若芽・若葉/果実
ギョウジャニンニク 春/夏~秋 若葉・若茎/茎
ツルボ 春~夏 花と葉
ユキザサ 5月~7月 若芽
ウワバミソウ 春~夏 茎・茎根・葉・むかご
ヤマトキホコリ 初夏~夏 茎
ウスバサイシン 春~初夏 若芽・若葉
スベリヒユ 6月~8月 茎先
ジュンサイ 春~夏 新葉
バイカモ 3月~11月 水中の茎葉(毒性あり)
コガネイチゴ 8月~9月 果実
ミヤコグサ 4月~8月 若葉・花
ゲンノショウコ 真夏 全草(乾燥させ煎じてのむ)
カタバミ 5月~10月 花・葉
ヤマゼリ 春~秋9月 若葉・茎先・蕾
コヒルガオ・ヒロハヒルガオ 晩春~初夏 つる先/地下茎・花
キランソウ 春~秋 葉
オオバコ 春~秋 全草(乾燥させ煎じてのむ)
ノコンギク 4月~6月/8月~10月 若葉・若芽/花・蕾
ユウガギク 4月~7月 若芽・新葉
モミジガサ 5月~7月 若芽


縄文時代に調味料はあったのですか?
縄文時代は約11,000年の間続いたとても長い時代です。弥生時代から現代までは約2,300年ですから、一言で縄文時代と括れないほど長い時代なのです。しかし、ナベを使って調理をする日々の生活は、今も昔も変わりありません。それが、土で作ったナベ(土器)か金属製のナベかの違いだけなのです。ですから、当然、甘い物、苦い物、辛い物などの味覚はあり、美味しい物と美味しくないものは、区別していたことでしょう。そして、毎日の食事は耙沢ではないにしろ、四季折々の食材が使われていたと考えられています。そこで、調味料の問題ですが、人間は塩分がないと死んでしまうって知っていますよね。だから、塩のない生活は考えられないのです。塩は、海水から作る方法と、岩塩から採る方法があります。岩塩については考古学的に不明なところが多いのでお話しできませんが、海水から塩をとる方法は、製塩につかう土器が、縄文時代後期末から晩期にかけて、日本海沿岸を除く東日本の主に沿岸の地域で広く発見されています。しかし、それ以前の時代に塩が無かったかといいますと、そうではありません。縄文時代中期に多くつくられた貝塚は、貝をとって日干しにした工場跡と考えられています。そうすると、海草や貝を乾燥させた製品が、流通していたことになります。千葉県に中心をもつ文化圏の土器が、同時代にひろく移動していることは、遺跡の発掘からわかっていますので、これらが、海草や貝の塩分を含んだ製品移動の容器であったと考えられるのです。さて、もう一つのご質問の砂糖についてですが、これは無かったことと思われます。砂糖の生産自体が江戸時代の和三盆に代表されるように新しく、それも庶民の手の届くものではなかったことからも分かります。ただ、縄文時代に甘味がなかったわけではありません。つまり、アケビや柿は食べていたからです。しかし、調味料に使っていたかは不明です。あと、魚を発酵させてつくる魚醤というショウユのあった可能性があります。お役に立てましたか?頑張って色々なことを調べてみてください。

縄文人はマグロを食べていたの?
福井県三方町にある鳥浜貝塚は、今から12,000~5,000年前の約7,000年間に縄文人が住み続けた遺跡です。遺跡は、海抜0m~-4.0mにある低湿地帯貝塚で、赤漆塗り櫛他漆製品・石斧柄・しゃもじ・編物・縄などの有機物でつくられた遺物やヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウ等の植物、丸木舟、糞石など様々な遺物が発掘されました。何度かの発掘で、約5,500年前の遺物層が約60cmの厚さで見つかり、その中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されました。これらから、秋に採取した森の食べ物を冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝をとっていたことが分かりました。また、土をフルイにかけて魚の小骨まで洗い出した結果、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかりました。漁撈関係では、他にスズキ・マダイ・クロダイ・サメ・フグ・イルカ・シャチ・クジラなどの骨も出土しています。このように間違いなくマグロは食されており、生・串焼き・煮るなどして食べられたことが想像できます。残念ながら、タタキがあったかは分かりません。

縄文時代に焼き芋はあったのですか?
焼き芋を食する文化の有無についてですが、考古学的には「分かっていません」と答えるしかありません。なぜなら、考古学というのは、難しく言うと「物証史学」と言い、モノを証拠に理論を組み立てていく学問だからなのです。ですから、焼き芋が出土していないと語れないのです。将来、縄文人が焼きすぎて、炭にしてしまった焼き芋が出土することをU.mさんも祈っていてください。しかし、この程度の回答では埋文センターとしては芸がないので、現在の研究から考えられることをお話ししましょう。当時の食生活を考察する手段に、気候や地質などの植生と出土した植物遺体から類推する方法と、道具から類推する方法とがあります。縄文時代は約一万年の時間幅があります。その間には、氷河期の終烽竅A温度が上昇して海面が上昇する時期などがあり、現代と近い気温になるのは約2000年前のことです。ですから、どの時点での植生を考えるかで話は違ってきますが、そんな厳密な状況ではなく、東アジアの温帯から暖帯に分布する植生と、日本の在来種という観点から見ていきますと、ヤマノイモ(やまのいも科ヤマノイモ属)=所謂ジネンジョ。トコロ(やまのいも科ヤマノイモ属)=食用にするには苦い。ヒメドコロ(やまのいも科ヤマノイモ属)=本州の関東以西と四国・九州に自生する。テンナンショウ属(さといも科テンナンショウ属)=37種類あり本州・四国・九州に自生する。が縄文時代に自生していた所謂「いも」になります。これらのいも科の植物は、食用する部分が地下茎となりますので、採取には「掘る」という作業が必要となります。現在ではクワと掘り棒の2種類があり、クワはL字の先端に金属の刃を着けたもの、掘り棒は長い棒の先端に金属の刃を着けたものです。縄文時代には、打製石斧という道具があり、一説にはこれを土おこしにも使用したのではないかと言われています。ですから、現在のクワと掘り棒の先の刃の役割は、もともと打製石器が担っていたとも考えられるわけです。つまり、縄文人は芋を掘って食べていた!! と考えられるのです。当然、火は使用していましたから、焼き芋にすることも可能です。しかし、今のサツマイモではなかったので、直火で焼いたり、蒸し焼きにしたりしても、今ほど美味しかったかは疑問です。因みにサツマイモの原産地は、メキシコを中心とする熱帯アメリカで、日本には、1597年に宮古島に入ったのが最初と言われています。その後、1609年以降に薩摩へと伝わり、江戸時代初~中期には、飢蚫の救荒作物として注目され、全国にひろまりました。現在、在来種といわれるものに、源氏・蔓無源氏・四十日・花魁・太白・紅赤・七福などがあり、いづれも明治時代に輸入されたものです。

栃木に海があったって本当?
約5,500年前の縄文時代前期は、今よりも気候があたたかく、海面が約10m高いところにありました。そのため、東京湾が栃木県の野木町や藤岡町の近くまで入り込んでいました。その付近から見つかっている貝塚の貝を調べてみると、海でとれるアサリやカキも見られますが、海水と川の水がまじりあうところに多いシジミがほとんどです。ですから、浜辺というよりも河口に近い場所であったと考えられます。このホームページには、藤岡町の篠山貝塚と野木町の野渡貝塚が「栃木県の遺跡」に紹介してありますので、見て下さいね。

栃木県埋蔵文化センター ホームページ上でお答えをする質問コーナー
Q.38 「鍵の穴」のような形の古墳は、なぜそのような形になったの?
Q.37 卑弥呼はなぜなくなったの?
Q.36 縄文時代の名前の由来は?
Q.35 弥生時代の人は米以外に何を食べていたの?
Q.34 弥生時代の米作りと今の米作りは何がちがうの?
Q.33 縄文時代の人は何を食べていたの?
Q.32 弥生時代にはなぜ戦争が起こったの?
Q.31 弥生時代の名前の由来は?
Q.30 縄文時代にどうやってクジラをとったの?
Q.29 縄文時代はどんな暮らしをしていましたか?
Q.28 どんな理由で戦争が起こったの?
Q.27 縄文時代に安定した食べ物はあったの?
Q.26 縄文時代にパンや米などはあったの?
Q.25 なぜ、縄文土器の模様は、縄や竹でつけるの?
Q.24 食べ物争いはなかったの?
Q.23 土器の実測図の書き方を教えて?
Q.22 土器の修復方法について教えて?
Q.21 芳賀地区の貝塚と出土遺物を教えて?
Q.20 縄文時代の狩りで、サングラスをかけていたって本当?
Q.19 縄文時代は夏に山菜は食べていたんですか?また、アク抜きの遺構がある遺跡は見つかっていますか?
Q.18 土器を撮影したら調べてもらえますか?
Q.17 埴輪と土偶の違いは何?
Q.16 「寺野東遺跡5」の報告書は重版しないの?
Q.15 栃木で蔵を建てるときの石材を教えて。
Q.14 大平町で土器を拾ったのですが...
Q.13 縄文時代に調味料はあったのですか?
Q.12 松本彦七郎の層位概念の表の凡例について教えてください。
Q.11 栃木県内で、小学生の社会見学で見られる遺跡を教えてください。
Q.10 縄文人はマグロを食べていたの?
Q.09 縄文時代に焼き芋はあったのですか?
Q.08 栃木から七支刀に似たものが出ているって本当?
Q.07 大平町のマルキ舟って見られるの?
Q.06 昔の話だけど防空壕を掘ったら土器が出てきた記憶があります。その話で何がわかりますか。
Q.05 城とか城跡も遺跡や遺構になるの?
Q.04 保存処理って出土遺物以外にもするの?
Q.03 寺野東遺跡とは、縄文時代のいつ頃の遺跡ですか。また環状盛土遺構と北海道の環状土矍との違いはなんですか。
Q.02 現地説明会についてのアンケート調査をお願いします。
Q.01 栃木に海があったって本当?

旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

縄文研究

縄文研究-その1-

縄文研究-その2-

縄文研究-その3-

縄文研究-その4-


縄文研究-その2-
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旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

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Japanese dog height, wolf height, Kishu height
日本犬の体高、オオカミの体高、紀州の体高

Wolf fossils and bones-Miscellaneous notes Part 2-
オオカミの化石と骨-雑記帳 その2-

Wolf fossils and bones-Miscellaneous notes Part 1-
オオカミの化石と骨-雑記帳 その1-

Archeology and history of Jomon, Yayoi, dogs and wolves of notebook
縄文、弥生、犬、オオカミの考古学と歴史-雑記帳-

旧石器時代の定義そして日本の旧石器時代を知る 甲斐鐵太郞

縄文時代を理解する 甲斐鐵太郞

社会を知る
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英国は何故EUを離脱したいのか
イギリスのEU離脱には訳がある。玉虫色の離脱案。(放送はザ・ファクト)

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音楽を聴く
Joan Baez(ジョーン バエズ)
山本潤子(jyunko yamamoto)
由紀さおり、安田祥子(saori yuki、satiko yasuda)
webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
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Joan Baez(ジョーン バエズ)
Joan Baez 風に吹かれて(blowin in the wind)
Joan Baez-Diamonds and Rust (With Lyrics)
音楽を聴く 音楽家と演奏
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音楽を聴く 音楽家と演奏
音楽(ブルース)
ユーチューブ音楽 エリック・クラプトン Layla 2014ジャパン・ツアー
(レイラは渋い、日本向けアレンジか)
Eric Clapton  Tears in Heaven live Crossroads 2013
(若くはなくなったクラプトン テアーズ・イン・ヘブンを歌うライブ音源)
Eric Clapton I Shot The Sheriff (Live)
(ギターに電気を入れてギンギンに鳴らします)
音楽の項目
音楽とオーディオ 目次
音楽・オーディオの文化・評論(芥川賞作家の五味康祐氏)
五味康祐氏の音楽とオーディオ評論(エッセー)
楽曲(音楽)とユーチューブ(動画)目次
楽曲(音楽)とユーチューブ(動画)-その内容 1-
YAMAHAコンサート用のPAスピーカー S0108T 執筆 甲斐鐵太郎
「ハッピーエンド」を聴く 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

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