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縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-
At the foot of Mt. Yatsugatake, where the life of Jomon was Part 9
執筆 甲斐鐵太郎

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-
執筆 甲斐鐵太郎 旅行家

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-甲斐鐵太郞

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-甲斐鐵太郞
縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

清泉寮旧館の木造建築。アメリカ式になっている。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

清泉寮の花壇とそこ奥にある石積みの洋館。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

5月の清泉寮。背後に八ヶ岳主峰の赤岳がそびえる。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

清泉寮建設1950年。左から3人目がポールラッシュ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

林が広がる。レタス畑が侵食しているのが川上村だ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

川上村のレタス畑。晴れると八ヶ岳連峰がみえる。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。

縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-

川上村を街中を東へ進む。6月のレタス栽培の時期だ。


縄文の暮らしがあった八ヶ岳山麓-その9-甲斐鐵太郞

(本文)

 縄文の人々の暮らしの跡は日本国中に広がっている。八ヶ岳山麓には縄文人の暮らしの跡が良く残っている。縄文の暮らしを確かめることは現代人の暮らしを見つめることでもある。山暮らし、森や林と隣接して暮らすこと、あるいは川べりに、湖や沼の端に、そして海辺での縄文の暮らしを確かめていく。


 縄文の暮らしと道具を調べる。弓は人類の古い時代からの道具である。弓から放たれた矢が動物に向けられていた時代は平和である。矢が人に向けられるようになる。縄文の遺跡から矢を受けた人がでているかどうかを詳しくは知らない。事例があってもごく僅かであるだろう。こうした事実を聞いていないからそのように考える。



「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞
「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー

川上村3月のレタス畑。八ヶ岳連峰が南に聳える。

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー

「寒山の森」からの便りはこの館から発せられる。

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー

「寒山の森」の家具工房はこの館のなかにある。

「寒山家具工房」田淵義雄さんのウインザーチェアー

「寒山の森」の立木にひっそりと札が付けられている。

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー

寒山家具工房のウインザーチェアーのロックタイプ。

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー

寒山家具工房の背もたれは自然木をそのまま使う。

「寒山家具工房」田淵義雄さんのウインザーチェアー

林が広がる。レタス畑が侵食しているのが川上村だ。

「寒山家具工房」の主、田淵義男さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞

(本文)

 二日間、田淵義男さんのウインザーチェアー製作を理解しようと椅子のことを調べておりました。私はパソコン業務を机と椅子でします。普通はそうするのですが、机と椅子の位置関係ほかのことを含めて快適性をもとめて、あれこれと身動きし、呻吟しております。

 田渕義雄さんは「寒山の森の木工室」で家具ほかをつくっております。住まいの一部が木工室になり、何時しか家具つくり、木工のための機械が据えられるようになりました。

 私は高山市の家具会社であるキツツキ・マークの飛騨産業と柏木工のショールームを見物しました。柏木工の家具の愛用者です。家具メーカーの家具は家具販売会社への運送の便を考慮しているために、分解して小さくして梱包できるようにしてあります。家具メーカーの多くはそのようにできております。ボルトとナットで留めるように設計されているのです。そうでないものもありますが、輸送コストが椅子やテーブルの価格に比べて大きくなる不具合が生じます。やむを得ないことなのでしょう。

 私が使っている日本間用の座卓は木組みによって脚部をはめ込むようになっています。無垢の一枚の厚板に溝を掘ってあって、脚を横滑りさせてきっちりとはめ込むのです。この座卓は一枚板を痛めないために板全部を樹脂に漬け込んでおります。木目が綺麗にみえる樹脂板です。もったいない、という気持ちが過ぎて素材の美を台無しにしてしまいました。誰かが言いました。形あるものは壊れる、と。このことを踏まえていまければならないのでしょう。

 家具製作者で「寒山の森の木工室」という標識を小さな板に書いて、慎ましやかに仕事をしているのが田渕義雄さんです。家具つくりは寒山の森の冬期になされるようです。年間に椅子を20脚つくる程度のようです。宣伝しない、広告しないのですが製作を依頼する人は多いのだそうです。英国の元を発する厚板の座面と枝木によって構成されるウインザーチェアーを主につくります。テーブルもつくるのですが価格が二倍もするテーブルよりも手間がかかるにもかかわらず価格をたかくできないウインザーチェアーをつくりたがります。田渕義雄さんがつくるウインザーチェアーは家具メーカーの価格と変わりません。労働を売る、労働を価格にする、ということが嫌だからなのです。

 早稲田大学で生物同好会にいて昆虫班に属し、虫屋である田渕義雄さんは蝶が好きで蝶を追いかけて野山に分け入りました。田渕さんは盆栽が好きな変わった小学生でした。盆栽は美の世界であり芸術です。芸術に属する感性はこうしたことで育まれたのでしょう。

 子供は興味の対象に向かって走り出します。無意識に走り出すのです。蝶をみれば走り出すのが蝶の採集家です。子供は夢中で蝉をとりトンボを追いかけます。昔、東京と千代田区九段にアブラゼミが大量に発生したことがありました。保育園年長組の蕎麦屋(そばや)の長男のアキオくんは虫籠いっぱいに蝉を詰め込みました。霧中で蝉を捕るアキオくんは難しいことを考えません。

 蝉を捕まえるアキオくんに一匹100円だからもっと捕れと囁(ささや)いたとします。囁きに反応した途端にアキオくんの蝉捕りは一匹100円の行為になります。蝉捕りの質が転換してしまいます。

 ウインザーチェアーなど家具つくりをする量を自ら規制するのは田渕義雄さんの「寒山の森で暮らす」こととの兼ね合いからなのでしょう。

 ボルトもナットも釘も木ネジも使わない田渕義雄さんのウインザーチェアを一つ欲しいのです。ロッキングチェアと肘掛け付きにライティング・チェアーです。いつか手に入れます。

 椅子のことを調べた二日間、いや様々なことを含めると1週間でした。それまでにも氏食べておりましたが、この1週間に私の椅子への関心は大きくなりました。

 次は田渕義雄さんが木工、ウインザーチェアーへの考え方です。

田淵義男さんのウインザーチェアー製作そして木工

薪焚き人の椅子作り

 ウィンザーチェアーの座面をシェイビングしている。豆反り鉋(まめぞりかんな)で、その曲面を整えている。根気のいる手仕事だが、曲面の仕上げ的シェイビングは旧来からのこの工法に行き着いた。2014年の夏を、豆反り鉋でカリカリと削っている。この夏は、10脚余りのウィンザーチェアーを仕上げた。7月8月の来る日来る日を木工に興じた。山桜の堅さ、その滑らかさと戯れた。たかだか死んでいくまでの人生の、今日一日を、好きな木工で暇つぶしすることができてよかった。

私は1982年の秋に寒い山に辿り着いた、以来30年以上木工に興じている

 1982年の秋に、この寒い山に辿り着いた。来たときの道は忘れてしまった。以来、ずっと木工に興じている。フルタイムの木工家ではないので、その道行きはベリースローだった。今もそうである。だが、30年以上木工に興じてみれば、自分の木工術に自信もつき、人に誇れる何かを習得しつつあると自負したい。愛好家は、愛好家であるがゆえに、プロの垣根を心ならずも飛び越えてしまうことができる、ということがあるんじゃないだろうか?。

わたしは美しい木工品や椅子の部品になれますという木の囁(ささや)き

 わたしの木工のルーツは、熱心な薪焚き人である事から来ている。チェンソーで木を伐り、斧で薪を作ってみれば、そこから見えてくる木への造詣が芽生える。「わたしも燃やしてしまうの?わたしを加工して研いでくれれば、わたしは美しい木工品や椅子の部品になれるんですけど」そういう声が、聞こえてくる。

わたしの最初の椅子は木工への憧れと祈りによって作られた

 ウィンザーチェアーを作りはじめた。わたしの木工の出発は、もともと自給自足的なそれとしてあった。最初のウィンザーチェアーは1986年に作られた。薪材である楢の丸太から、チェンソーで座板を切り出した。それを加工し、ドリルで円溝(まるみぞ)を穿った。そこに枝木の脚とスピンドルを差し込んだ。斧で割られてカーブしている薪を加工して、背板とした。最初の椅子は、木工への憧れと祈りによって作られた。それから、憧れが情熱に変わり、木を敬う心がわたしの木工をバックアップした。

人類最古の椅子、それがウィンザーチェアーだ

 椅子(chair)は背もたれのある腰掛けのことだが、人類最古のそれはウィンザーチェアーだったのではなかろうか。わたしが最初に作ったそれがそうであったように、厚い板に穴をあけて、そこに枝木を差し込んだ椅子、それがウィンザーチェアーだ。スツールやベンチやテーブルも、そのようにして作ることができる。木工品はおしなべて美しい物である。なぜならそこには、よりよく生きたいと願う先人の祈りが宿っているからである。

自分の体形や身長に最適な椅子を使え

 椅子は、肉体的な家具であり、パーソナルな物だ。自分の体形や身長に最適な椅子に腰掛けるべきである。日本人は、つい昨日まで畳の上で暮らし、椅子のない生活をしていた。で、我々は椅子の価値やその機能に無頓着になりがち。日本人に腰痛持ちが多いのは、それと気付かないままよくない椅子に掛けつづけている。腰痛に悩んでいる人は、先ずもって自分の椅子を見直してみることを助言したい。我々は就寝時間と同じくらいか、それ以上の時を椅子と共に暮らしている。人は、一生の間にどのくらいの時を椅子と共に暮らすことになるのだろうか。そう考えれば、椅子のランニングコストは極めて低廉なものだ。

掛け心地を決定する椅子の寸法など

 よい椅子の分析は、人間工学的な見地から科学的になされている。座面の巾と奥行き。座面の前後傾斜角度。背もたれの傾斜角度とその高さ。背もたれの巾は十分に広く、肩がすっぽりと収まる高さであるべきだ。同じデザインの椅子であっても、座面の奥行きと脚高とのバランスの良さが、その人にとっての掛け心地を運命づける。

彼の地のレストランではウィンザーチェアーは常連席専用だった

 クロスや革張りの椅子は、ウレタンフォーム等の緩衝材をマットにして、掛け心地をソフトなものにしている。緩衝材は平面として張られている。尻と腰は本当には収まっていない。で、掛け心地が不安定になり疲れる。大衆食堂であれ高級レストランであれ、掛け心地のいい椅子に出会ったことがない。食事を済ましたらさっさと帰って欲しいからである。彼の地のレストランで、掛け心地のよさそうなウィンザーチェアーが置かれた一角があった。その椅子が置かれたテーブルに付きたいとリクエストした。そうしたら、断られた。そこは、金持ち的常連の席なのであった。

使い手が最適なデザインのウィンザーチェアーを年間20脚、それくらしか作れない

 私が作るウィンザーチェアーの座面は、尻の形に彫られている。座板の板厚は43ミリメートル、最深部で25ミリメートル、シェイビングする。フットプリント状にサンダル面を成型してあるビルケンシュトックのそれは、履き心地に優れている。そして、健康にいい。一足一万円以上と高価だが、ロングライフだしサンダルはビルケンと決めている。ウィンザーチェアーの座板の曲面は同じ理屈で彫られる。使い手に最適なデザインのウィンザーチェアーを、その座面の奥行きと脚高を調整しなが作っている。年間20脚ぐらいのそれしか作れない。で、広告はしない。「そういう椅子作り人がいてもいいじゃないか」というのが寒山家具工房の言い分である。

日本の木を切り削るのが好きだ、自分の国の木のことが知りたいからだ

 日本の家や家具なら、日本産の木で造るべきだ。「日本の木材はやっぱり島国育ちなんだな」。それは、極東温帯アジアの極西太平洋に浮かぶ弧状列島に育った樹木なんです。アジアモンスーンとシベリアからの冬将軍。そして台風。夏期の亜熱帯並高温多湿と冬期の低温乾燥。加えてエリアエリアの多様な気候と風土。大陸育ちの輸入材はクセが少なく大らか。なので、扱いやすい。加工しやすい。国内材はその逆。しかし苦労して仕上げてみれば、国産のそれはそれぞれに個性的で素晴らしい家具になり椅子になる。日本の木は日本人みたいなのではなかろうか。わたしは日本の木を切り削るのが好きだ。もっともっと自分の国の木のことが知りたいからだ。

2020-07-07-yoshio-tabuchi-s-woodworking-room-in-the-cold-mountain-forest-windsor-chair-

【参考】

田渕義雄(たぶち・よしお)さん

 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学哲学科を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。都会暮らしというのは公園の緑があっても、緑の並木道があってもそれは造られた人工物である。本物の自然ではない。公園の緑は決して人を癒やしきらない。あるとすればせいぜい日除けとしての緑だ。

 鮎釣りの名士が言った。東京大学入学を志していたのだが釣りをしているときに「もしかしたら人生は釣りをしていればいいのではないか」と決断をしたらすべての惑いが消えた。釣りは人を虜(とりこ)にする。

 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。

 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。

 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。家は自分の手で建てた。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。

ソローと『森の生活』

 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称です。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。

 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。

ナチュラリスト

 ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。

ヘンリー・D・ソロー

 ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。

 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。

 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとするは金銭的な豊かさを求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌は人々の尊敬と共感を得た。

 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。

 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。

 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。

 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。

 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。

田渕義雄さんの勘定書にウィンザーチェアーが加わる

 田渕義雄さんの寒い山の木工室のロッキングチェアの家具が人気だ。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。畑を耕して薪をつくって、調理をし、あれこれするうちの一つにロッキングチェア製作がある。ソローの森の生活の家計簿には自作した作物と買うものとの勘定書がある。田渕義雄さんの勘定書の項目には執筆料、印税収入に加えてウィンザーチェアーの販売が計上されるようになった。

 自然と向き合って自然に働きかけて何物かを得ることが人の働きである。寒村の暮らしは畑仕事が主なものになる。よほどの働きをしなければ得られるものは少ない。働くと自分の時間は極小になる。働き者でなければ森の生活はできない。都会と組織が嫌で森の生活に逃げ出しても怠け者は生きていけない。森では怠けられない。



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クマも鳥も虫も神である国の寒山の森の暮らし 甲斐鐵太郞
ナチュラリストのエマソンとソローと、日本の自然のなかの田渕義雄さん

「寒山家具工房」の主、田淵義雄さんのウインザーチェアー 甲斐鐵太郞

田渕義雄さんの「寒山の森」暮らしの動機を推察する 甲斐鐵太郞

ソローの森の生活と寒山の森の田渕義雄さん 甲斐鐵太郞

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

川上村と私 甲斐鐵太郞

甲府盆地の7月は桃の季節で8月になるとブドウが本格化する 甲斐鐵太郞

霧ヶ峰高原とレンゲツツジ 甲斐鐵太郎

安岡章太郎が描く軍隊と現代の人々の生への現実 甲斐鐵太郎

現代の人には死はない 甲斐鐵太郎

真夏の暑さのなか快適に作業するために一階にパソコンを移す 甲斐鐵太郎

椅子とヒキガエルと葛の根を考える 甲斐鉄太郎

パソコン業務のためにモニターと机と椅子の位置関係を求めて苦闘する 甲斐鉄太郎

バラの花の向こうに甲斐の山々と青空が広がっていた 甲斐鐵太郞

2020年桃の果実の行方、山梨の果樹農家の不安は拭えない

塩山市の丘で果樹農園のサクランボを買った 甲斐鐵太郞

6月、カッコウの声が八島湿原の草原の向こうで響いている 甲斐鐵太郞

茅ヶ岳と八ヶ岳の山麓の高台から6月の南アルプスを眺める 甲斐鐵太郞

川上村の5月の青空は八ヶ岳を背にして夏色であった 甲斐鐵太郞

春未だ浅い野辺山と川上村のレタス畑 甲斐鐵太郞

無線式のキーボードの便利さを知った喜び 甲斐鐵太郞

「型板」「鋳型」を使ってwebページを作成する

大菩薩峠の入り口、裂石の番屋小屋でほうとうを食べる 甲斐鐵太郞

5月始めに開かれている城端曳山祭 甲斐鐵太郞

緑が萌え始める信州に遊ぶ 甲斐鐡太郎

白い雲と青空と太陽の輝きは誰のためにあるのか 甲斐鐵太郞

八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑なだれによる崖

思いがけずに出現した八ヶ岳山体崩壊による28kmほどの岩屑(がんせつ)なだれの崖 旅行家 甲斐鐵太郞 動画 YouTube。

主題 Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 7D を使うための備忘録 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
副題1 ライカのR50mmレンズはフルサイズのCanon EOS 5Dに付けて使う
副題2 Canon EOS 5Dはライカ単焦点レンズを使う最上のカメラだ


YAMAHA RX- E100アンプとYAMAHA NS BP100スピーカー 執筆 甲斐鉄太郎
映画コンバットの砲撃や銃声は外付けアンプとスピーカーから出力する


田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

美ヶ原高原と春の雪 執筆 甲斐鉄太郎

地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ

富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ


霜が降りるまでヤマモミジは真っ赤に燃えていた 執筆 甲斐鐵太郞

中央道須玉IC付近右手にみえる七里岩。八ヶ岳が山体崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

霞ヶ浦の岸辺で遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカの一眼レフを使う 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ロッキングチェアでパソコンと遊ぶ 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その1- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

紅葉の富士山と河口湖-その2- 11月3日 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

中部横断自動車道を走る トンネルと橋でできた道だ 2019年10月21日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ライカM5は特別な感覚領域を備えていて私を虜(とりこ)にした

暑い夏の日に紀伊半島の山中をさまよっていた 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

黒羽観光やなと那珂川の清流 文章 旅行家 甲斐鉄太郎

灰色の街と紅い夕日 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

大山阿夫利神社と山麓の梨 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

安曇野の夏、8月18日には稲が実りかけておりました 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

高山市の古い町並みの暖簾(のれん)が良い 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】YouTube

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

地震と津波

地震計は地震を予知する機能を持たない

旅行や自然や風景の動画 目次-その2-

旅行や自然や風景の動画 目次-その1-

地震計は地震を予知する機能を持たない

【八ヶ岳連峰 硫黄岳への夏山登山 動画】

八ヶ岳連峰 硫黄岳へ夏休み登山 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

夏至の日の八島湿原のアヤメ 執筆 旅行家 甲斐鐵太郎

ニセアカシアを知る-アカシア情報-

アカシアの白い花が咲いていた 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

松本市と松本城そして穂高連峰 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

上田城跡と白土三平と霧隠才蔵 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

真田の上田城をみる 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

ありふれた一日の覚書 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
午前9時までに4時間の調べ事、そして都内で新聞の業務です


真澄の宮坂酒造で利き酒する諏訪の旅 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

5月19日、山梨県清里の清泉寮にでかけました 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

ある一日、木曜日の典型的な行動です。執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

良い景色のところにでかけて自然に身体を浸すように心がけたい 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

フェリーで伊勢旅行 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

伊勢旅行したら草臥れ果てて椅子に座れなくなりました。
(そのためにキーボードとの位置関係のよい椅子を買って対処しました)
 執筆 甲斐鐵太郎

輝く虹の環水平アークと日暈(ひがさ)の出現に沸いた2019年4月28日 執筆 甲斐鐵太郎

富士芝桜まつり 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

八ヶ岳と野辺山高原そして川上村の景色 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

3月7日、別所温泉の和風・老舗旅館に泊まる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

webページとYouTubeで構成された私の音楽室 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

出雲崎町「良寛記念館」を訪ねる 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう-その2-執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

日本海の幸を寺泊で味わう 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞

土曜日、ガストで新調したパソコンの動作を確かめる。快調だと朝定食を食べて喜ぶ。執筆 甲斐鐵太郎


中央道下り諏訪から北アルプスがみえる 執筆 甲斐鐵太郎
中央道下り諏訪から穂高岳、槍ヶ岳、常念岳がみえる

富士市の富士山展望の宿に泊まった 執筆 甲斐鐵太郎

国道158号線 松本市に向かう冬の旅である 執筆 甲斐鐵太郎

霧ヶ峰高原 八島湿原 八ヶ岳の雪と青い空 執筆 甲斐鐵太郎

石老山(標高702 m)2月1日、雪の朝 執筆 甲斐鐵太郎

富士山を見るために二週連続で富士宮駅前のホテルがでかけた 執筆 甲斐鐵太郎
(ダイヤモンド富士が出現する暦、年中ダイヤモンド富士が見られます 執筆 甲斐鐵太郎)

富士山に陽が昇る 執筆 甲斐鐵太郎

富士山が見えている夕方に「吉田のうどん」を食べる 執筆 甲斐鐵太郎
(副題)本を読むこと、文章を書くこと、とwebが一体になった


山中湖から富士山を仰ぎ見るのを楽しみにしている。執筆 甲斐鐵太郎

太陽が平原の林に沈んだ。月が輝きだした。高原の冬である。執筆 甲斐鐵太郎

大王わさび農場を冬至の日に訪れる 執筆 甲斐鐵太郎

上高地夏至のころ 執筆 甲斐鐵太郎

江戸の人々の山岳信仰の山だった大山(標高1,252m) 執筆 甲斐鐵太郎

林の向こうに青空が見えると嬉しくなります 執筆 甲斐鐵太郎

山手のレストランとBOSEのスピーカー 旅行家 甲斐鐵太郎

晩秋の霧ヶ峰高原 霧に包まれたカラ松の高原道路を走る 執筆 甲斐鐵太郎

カラマツは黄色と赤の中間色に燃えていた。カラマツ林の裾に民家があった。茅野市である。執筆 甲斐鐵太郎

10月の下旬に新潟市の界隈をうろついた 執筆 甲斐鐵太郎

11月の旅 壊れているフィルムカメラを旅の途中で買った これが酒の肴にはいい 執筆 甲斐鐵太郎

10月12日、川上村のレタス畑は最後の収穫をしていた 執筆 甲斐鐵太郎

信州の秋をめぐる 諏訪から佐久にでる 千曲川沿いを走る 執筆 甲斐鐵太郎

信州松本市郊外で秋のめぐみに出会う 執筆 甲斐鐵太郎

金曜日の夜は紅葉と夕日と星空の八ヶ岳、霧ケ峰そして美ケ原を走っていた 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その6-上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

私と上高地-その5-格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その4-槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地-その1-槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた

夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う

白いヒナと黒い3羽のヒナを連れて湖面を移動するコブハクチョウ

夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時

よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ

近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり

特別な位置にいる投手としての大谷翔平

「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。

東京の桜は散って新緑の季節になりました

武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)

北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)


陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう

埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)

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