私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
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私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
「からまつはさびしかりけり、たびゆくはさびしかりけり」白秋。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
何気なく上高地に遊びにいって奥穂高岳に登ってしまった。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
空の輝、流れる雲をみても、風の歌を聴いても、人は悲しい。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
「風の歌を聴いても、流れる白い雲をみても」人は悲しい。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
森の深い緑に抱かれていても人はやるせなさにもだえ苦しむ。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
大正池に水鳥が浮かぶ。やるせない心には哀れにみえる。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
「世の中よ あはれなりけり、常なれどうれしかりけり」白秋。
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義
「やるせないモヤモヤは空に告げて慰めて涙を流すしかない」
私と上高地-その2-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
(本文)
登山は英雄主義とロマンチズムだ。自然の美を歌うのは感傷主義でもある。感傷主義は英語の方が伝わりやすい。センチメンタリズムである。このようなものがないまぜになっての山と山登りである。登山雑誌はこれを煽(あお)る。都会に暮らす若者は昭和40年代には山に繰り出した。夜行列車を中央線の塩山駅で降りて、そのまま歩いて大菩薩峠に登る。大衆登山の黎明期には穂高でもそうであった。穂高岳や槍ヶ岳そして剱岳に登ることで普通の人が英雄になった。登山によって普通の人は滅多にはなれないヒロイズムの世界にしたることができた。
知り合いの女性が登山雑誌のモデルをしている。稽古事をする妻と娘の知り合いである。応募して選ばれた。夏山登山の取材は発行の一年前になされる。NHKテレビは女優に登山させて山の番組をつくる。妻と娘は雑誌に掲載されたモデルの活躍ぶりが眩しい。その人は東京の下町の出身だが大阪に転勤した。妻は大阪にでかけて食い道楽の大阪を案内してもらって喜んだ。
ある知り合いは何気なく上高地に遊びにいってそのまま奥穂高岳に登った。水をもっただけで手回り品はない。好天であったから若い力は奥穂高はものともしなかった。この人は登山クラブをつくって本式に登山を始めた。登山クラブにはその後に連れ合いになる人が参加していた。活発な活動があったのち、長い休みがつづいていた。2年前に英雄の妻になった人が槍ヶ岳に登りたいといった。夫婦と昔の登山仲間で表銀座を縦走した。中房温泉から燕岳、大天井岳、槍ヶ岳へと尾根筋を歩いた。表銀座コースだ。大天井岳から槍ヶ岳に向かわずに常念岳を経て安曇野に下る順路も表銀座コースになるらしい。70歳を前にして夫婦は山に登った。夫人は槍ヶ岳に登っておきたかったのだ。
20代はじめにして山に目覚めたその人は給与を前借してまで山に足を運んだ。登山用具はゴローの靴をいくつもそろえ山スキーにも熱心にとりくんだ。ザイルを使っての岩登をした。積雪期登山もした。男は山の英雄になっていた。
英雄とその夫人たちで表銀座コースで槍ヶ岳に登る一年前にある前ぶれがあった。南アルプスの宝剣岳登山の基地となる千畳敷カールのホテルに滞在して山を楽しむ計画に夫人は興奮した。ロープウエイで行ける高山のホテルに友人を誘った。意気込んで千畳敷に向かっているときに夫の体に異変がおきた。呼吸困難と心臓の動悸にによって身動きが取れなくなった。甲府市の公立病院に駆け込んだ。そのまま入院して一月を過ごした。一年後には槍ヶ岳登山をした。異変には原因があった。肺疾患であった。病院を探して治療をつづけた。登山の翌年には体調が悪化した。発作があるために日常生活に支障をきたした。肺疾患が原因で別の臓器の動きが悪くなった。新しい治療薬と治療方法に期待した。
肺疾患がわかった翌年の5月には諏訪地方は7年に一度の御柱祭りがあった。私は塩尻駅前の宿に1週間泊まっていた。蓼科山麓の佐久側にその夫婦の別荘がある。御柱の合間に夫婦を訪ねた。5月の新緑と真っ青な空の別荘を訪ねた。コーヒーを飲んで少し話をした。秋になった。夫婦が別荘に行くというので顔をだした。冬支度のために水道の凍結防止をしていた。肺疾患のことを夫人が語り身体を冷やしてはいけないのだと冗談のように言っていた。病を苦する気配がなかった。このときもコーヒーを飲んだだけで私はほど近い鹿教湯温泉に泊まった。夫婦の楽しみは老後に別荘で過ごすことであった。夫人の願いが強い。普段は東京の下町で暮らしている。
あくる年、御柱のあった翌年の5月に夫婦の別荘の近くまでいった。迷ったが投宿の時刻を考えて通過した。この2カ月のち、7月に英雄は帰らぬ人となった。この人は編集の技が優れていて定年後も乞われて仕事をした。編集の仕方などの講師をすること度々であった。髭を生やしていた。髭は職場ではただ一人だった。生き方に誇りを持っていた。お洒落な人だ。
知人のある男は脳溢血に襲われた。難病を併発した。身体の動きが悪くなった。八ヶ岳連峰の東側に別荘で寛(くつろ)ぐことを楽しんでいた。身体が効かなくなると出かけるのに助けがいる。この人は地方公務員を勤め上げた人である。人の世話をすることを生きがいにしていた。
人の明日はわからない。明日がわからないからは不安である。イエス・キリストはいう「汝、明日を煩うな」と。人には大きな願いもあれば取るに足らない楽しみもある。好きだった音楽も心が閉ざされると取り合わなくなる。好きな料理だってそうだし、好きな所にだって行きたくなくなる。
人の心はいつも悲しい。面白おかしくふるまっていても心の奥底は悲しさに沈んでいる。空の輝や、流れる白い雲をみても、森の深い緑に抱かれていても、風の歌を聴いても、人は悲しい。人はやるせなさ、むなしさ、苦しさにもだえる。サトウハチロウが詩をつくり加藤和彦が曲をつけザ・フォーク・クルセダーズが歌う。苦しさは明日につづき、むなしさに救いはない。やるせないモヤモヤは、空をながめ、空に告げて慰めて涙を流すしかない。北山修は精神科医になった。「あの素晴らしい愛をもう一度」と歌っていたのだ。
山に行くのも林を散策するのも感傷と諦念が入りまじる。北原白秋は水墨集の「落葉松」で「からまつはさびしかりけり、たびゆくはさびしかりけり、世の中よ あはれなりけり、常なれどうれしかりけり」と歌う。寂しく哀れであるのが世の中である。
2018-07-23-2-kamikochi-hymn-part-2-mountaineering-and-romanticism-and-sentimentism-writing-tetutaro-kai-
(写真と文は甲斐鐵太郎)
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