紀州犬物語167 紀州犬はことに処して自らの命を顧みない「もののふ」だ(横田俊英)
(副題)この犬は愛嬌がないわけではない。しかし人に諂(へつら)うことをしない
(副副題)普段は大人しい。利口で胆が座っている。紀州犬の神々しさの由来だ。
第167章 紀州犬はことに処して自らの命を顧みない「もののふ」だ 執筆 横田俊英
紀州犬のオス犬3歳の顔だ。派手ではない。素朴だ。
(本文)
犬に音楽がわかるかどうか知らない。音楽を流しも犬のようすは変わらない。この犬は大きな音に驚かない。CDの音楽を流すときにボリームの位置をうっかり大音量にしてあっても同じだ。目の前にものが倒れて大きな音を立てても動じない。花火大会の真下にいても何も変わらない。そのような犬だ。
大きな音も小さな音もこの犬は何とも感じない。子犬のときからテレビとラジオの音を聞き、オーディオからながれる音楽を聴いた。犬がいる庭にはラジオから昼夜音がでていた。普段は庭に据えられた犬舎で静かに過ごす。犬は何時でもそこにいる。人は犬がいるのが当たり前で長い年月をともに過ごしている。犬がいるからどうだこうだということない。気まぐれにおやつをやりに庭に行き、散歩に「行くぞ」と声をかける。するとむっくりと起き上がる。そのような暮らしがつづく。
犬と音とのことで誤解があってはならないので事例を一つ添える。知人の紀州犬は雷が鳴ると網戸を破って居間に飛び込む。犬の音への感覚である。
庭にいる犬がお産のために居間でいるときには音楽を流す。これは犬のためというより人が静かな心になるためにする。犬はそれだからといって変化をみせない。犬が子を産んで育てることは厳(おごそ)かなことだと人は思うからそのような音楽にする。
流す音楽は神山純一の八ヶ岳シンフォニーである。シリーズになっていてフォレスト、やさしさに包まれて、冬のアダージョ、スノー・プレリュード(Snow
Prelude)などだ。ピアノなのかシンセサイザーなのか単純な楽器編成で高く跳ねたり大きく踊ったりのない音楽である。ドラムやギターや金管楽器の音はしない。緩やかな高低の音符が載せられて時が刻まれる。ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」わけてもハレルヤ、あるいはベートーベンの第九の合唱は掛けない。こころを躍らせる音楽は除けられる。
犬は居間で子を生む。お産に付き合うようにしているが前兆なしに生むことがある。ヘソの緒を切って身体をなめて乾かすと子犬は母親の乳首にしがみつく。飼い主は朝になってようすをみて狂喜する。母犬は犬の生活をそのままにする。子を生むこともその一つである。何事もなかったように子を生み育てる。
13歳になっても若いころと同じように暮らしているこのメス犬は愛嬌がないわけではない。人に諂(へつら)わない。それが自分の在り方であって飼い主への礼儀というのだろうか。泰然自若という言葉が似合う。出された食事はゆっくりと食べる。お腹が空いていてもそうだ。この犬が生んだオス犬はガツガツと食べる。もう一頭のオス犬はさほどではない。
この犬はあの曲がり角で出会った狸(たぬき)のことを考えている。別の曲がり角には狐(きつね)がいる。林のある散歩道にはイノシシがいる。その子のウリボウもいる。ウサギもいる。心は獣たちを獲ってしまおうと充満している。そのようにして過ごす日々である。
道でイノシシに出会ったらどうするか。イノシシが飛び出した。夜のことだ。イノシシは鼻をブーブー鳴らして犬に向かってきた。人はたじろぐ。犬はイノシシに向かって行こうとする。引き綱を離す。犬は声もなくイノシシの首に咬みついた。イノシシはブーと声を立てた。首を振って振りほどき犬に牙を立てようとする。犬は腰を低くして踏ん張って咬みついている。反撃するイノシシの牙が犬には脅威(きょうい)だ。イノシシが弱気になったのをみてもうよいと引き離した。
日本犬がイノシシを追うときの闘争心はすさまじい。イノシシを追っていた犬が腹を裂かれて腸が飛び出した。犬は走るのに邪魔な腸を食いちぎってイノシシを追った。狩り好きの西郷隆盛が薩摩犬を連れて伊豆でイノシシ狩りをしたときの逸話である。直木賞作家の戸川幸夫氏の一文にある。
犬には自己の命を考慮しないの行動様式がある。もののふ(士)の命を捨てることを恐れない精神と一緒だ。人に勝る神々しいまでの精神のメス犬はイノシシを恐れない。イノシシが出現すればそれを獲りに行く。物事に動じず為すべき行動に移る。普段は大人しい犬である。姿かたちのよい伊豆半島に暮らすメス犬は散歩の途中で二頭のイノシシを獲った。
和歌山県日高郡旧美山村長であった池本功氏は紀州犬の繁殖に努め素性のよい紀州犬を世に残した。猟のために狩猟免許を取って自ら鉄砲を担ぎ紀州犬を鍛えた。
その池本氏は次のように述べる。「紀州犬の特色は沈着怜悧。普段は非常におとなしいが、猪猟につれていくと勇猛果敢、絶対に後ろに引かない烈しい性質を持っている」と。
私はこの言葉が紀州犬を定義すると考える。由来など歴史経緯を添えればそれ以上ない紀州犬の定義になる。
獣の臭いを取るやいなやリードを噛み切って常願寺川に飛び込んで7メートルもある滝を落下して駆け下った犬がいた。私の飼い犬がである。。このメス犬もイノシシと格闘することたびたび。イノシシに怯(ひる)むことがなかった。常願寺川に飛び込んだ犬は、ここで語っている13歳になるメス犬の叔母である。
new-kisyu-dog-story-a-167-It is "Samurai" which does not respect
its own life
(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)
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