紀州犬物語(85) 紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。 執筆 横田俊英。
(タイトル)
紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。
(紀州犬の歩調は人によく調和する。)
第85章 紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。 執筆 横田俊英
紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。
(紀州犬の歩調は人によく調和する。)
猫より少し大きいほどの犬を飼っていれば大抵は平和である。
人が好きになる犬は移り変わる。特別に犬に関心をもたない人でもあのころは世の中にあの犬があふれていた、ということを幾つか思い浮かべることができると思う。
紀州犬が大人気になったのは昭和の終わりころであった。その少し前が人気の絶頂であった。
小さい犬は大きな犬より力が小さい。どこにいても大して目障りではないから二〇一三年のいまころはこの小さな犬を飼う人が多い。
猫より小さな犬がよく飼われるようになった。猫くらいの犬か猫より少し大きいほどの犬を飼っていれば大抵は平和である。
紀州犬のオスのたくましさはそのまま美しさにつながる。
(メスには優しさは別の意味での美しさである。)
紀州犬はオスとメスとでは身体の大きさが違う。
その差は一回りというよりは二回りといったほうが了解しやすいというのが、実際に紀州犬を飼っている人の間の素直な気持ちであろう。このように言ってもそれを素直にというか、ある実感をもって受けとめられないのが、初めて犬を飼う人である。
紀州犬のオスとメスの差をどのようにとらえるか。
動物としての美しさということではその差を問うことはできない。
オスのたくましさはそのまま美しさにつながる。
私が飼っているオス犬を外に出して構えさせるとその格好良さ、たくましさにほとんどの人が感嘆の声を上げる。
メスには優しさが宿う。筋骨が発達するということではない。どことなく優しさが全体を包む。ここにも別の意味での美しさがある。
紀州犬はオスとメスとが総合していてこれを紀州犬というのであるから、どちらがいいかという問いに答えを用意することはない。
身体が小さいからメスが良いということであれば、身体が小さい犬種を選べばいい。
大きいからオスが良いというのであれば、身体が大きな犬種を選ぶことである。
紀州犬の大きさはオスの体高は52センチメートルであり、これから上下に3センチメートルを基本とする。
メスの大きさ(体高)は、49センチメートルでありこれから上下に3センチメートルを基本とする。メスの場合には標準体高49センチメートルにとどきにくい傾向だ。
紀州犬の歴史の伝承が教義に変わり宗教の形式をとる事例がある。
紀州犬の歴史のことはこれを学ぶことは大事である。その歴史の真実と実際と、これの伝承との間にズレがないか、心許ない。語られる歴史がいつの間にかある形に固まって、これが教義となり、その教義によって宗教のようなものが形成される。そのようにして出来上がっている教義やその延長の宗教のようなものがいくつかあるようにも思われる。
紀州犬の気性の在り方、形の在り方については、その基本は日本犬標準のうちの紀州犬標準に求めることになる。その内容にはここでは触れない。
ともあれそうしたことの一つの結果は、人に馴染み、ある程度は犬に馴染んで、普通の家庭で家族とともに平和に暮らすことができる犬である、ということになる。
そのような犬であっても何かあれば他人に責任を求めるのが今の日本の社会風潮であるから、飼い犬を人に触らせない、飼い犬を余所の犬と接触させない、ということを押しとおすことが大事である。絶対にそのようにして欲しいと思う。
私の場合にもそのようにしている。例外としてその犬を良く知った人には触らせる。留守中に代わりに世話をお願いしている人などだkら当然といえば当然である。
紀州犬を知りたいといって見学にきた人にも、犬と人の相性などを注意深く観察し、試験してから、その犬との散歩の行動させて、紀州犬を知らしめる。
聞きかじりの論理を振る舞わしていて、これに答えのような説明をしても反応が定かでない人は、紀州犬と縁を結んではならない人だと判断することになる。
日本人の観念にしみついたそれをぬぐい去ることは私の仕事ではないし、その人の考えを変えることはその場において簡単にできないことである。
よい犬は人の心にしみる。よい紀州犬は心にしみる。
犬は人の心にしみる存在であるかも知れない。よい犬は人の心にしみる。
私の心にしみるのは紀州犬である。
柴犬だってそうであるだろう。
紀州犬の歩調は人によく調和する。
人と歩いてその歩調がほんとうに人と良く調和する。これが紀州犬である。
ラブラドールなどは歩くと腰を振り振りのモンロー歩きになり、柴犬はチョコチョコ歩きである。
これが紀州犬では違う。後足を蹴ると腰が真っ直ぐにスッと前にでて、前足を後に蹴ると同じように身体が真っ直ぐに前にスッとでる。それも人の歩調にあってスッとでるのである。
紀州犬のこのような歩き方になれると西洋犬の大きな犬ののっしのっしで、腰を振り振りは受け入れられないのだ。
【写真】(下)は生後10カ月の紀州犬のオス犬の歩く姿。身体はこれより少し大きくなります。
普通の日本人の何気ない生活のそのそばに紀州犬がいて、犬がいるためによるものといってよい散歩の習慣ができて、散歩に犬を伴う。
滅多にないよい気分の朝もある。よい気分の朝ではなくても、犬を連れだして外と空気を吸って、歩みをすすめると身体が軽くなり、頭の澱(おり)も落ちる。
紀州犬には家庭犬も、ほかの用途の飼い方の区別もない。
日本の風土で日本人と共に生きてきた犬の一つが紀州犬である。
その紀州犬を伴って生活することは何気ない日本人の暮らしによく調和する。
飾らないそのままの姿と行動が日本の風土が生んだ紀州犬である。
人が犬と暮らす、ことは何気ない状態である。
人の暮らしにある種の伴が欲しいときにそれが犬であることがある。
紀伊半島でイノシシ猟をよくするために残されてきた犬が紀州犬であった。
そしてその伴に紀州犬を選ぶこともある。
紀州犬は縄文の犬ではないようであるが、縄文の時代にも似たくらいの大きさの犬がいた。
紀州犬は朝鮮経由で伝来した犬であり、弥生時代に日本に来たことになっている。その真実のほどは私にはわからない。
紀伊半島でイノシシ猟をよくするために残されてきた犬が紀州犬であった。
その犬が現代につながっていて、それが私たちが飼う紀州犬である。
紀州犬を飼う多くの人々がいることで現代の紀州犬が成立する。
紀州犬に対する考え方がいろいろあっても、紀州犬がいなければ将来の紀州犬もない。
ある血液の純粋性を信じて、それに絶対的な価値を求める状態がある。
ある血液の純粋性を信じて、それに絶対的な価値を求める、という状態がある。
ある犬種団体の牽引者は、近親交配を思い切って実施して、そこから望ましい犬を残していくのは一つの方法だ、と説いてこれを実行していた。ごく少数の犬しかいない場合にはそのようなこともしなくてはならないかも知れない。
しかしこれを連続することはできない。その後にはできの悪い犬と思われる犬との交配を交えて行かなくてはならないのである。
平岩米吉氏とシェパードの飼育、そして近親交配の事例。
日本犬保存会の創立に貢献した平岩米吉氏は、シェパードの飼育者でもあった。
シェパードのメス犬「イリス」は、同胎犬を交配して生まれた。「イリス」は驚くほどの知能を持ち、また狙いの一つであった姿の美しさも際だっていた。この犬は精神のある種の異常性をもち、1歳5カ月にきた初発情では、心臓衰弱の状態になった。身体の薬などへの過敏症をもっていた。心身ともに特別な状態にあり、先祖犬が噛障事故を起こしたことがないのに「イリス」は嫉妬などのために飼い主の家族を噛んだ。
「イリス」などシェパードの遺伝と犬の性質と性能のことを平岩米吉氏は実際の飼育を通じて観察してこれを記録して、考察して文章にして本を残している。
「イリス」は、「チム」というシェパードのオス犬の俊敏、聡明、忠実、姿を遺伝的に残存させる目的で繁殖した。
「チム」は、父子の交配によって生まれた。ことは当然のことメス犬のことである。その「チム」の種を宿す同胎犬のうちからオスとメスを選んで交配して、「チム」が生まれた。
「チム」の父親と母犬は他に五頭の同胎犬がいた。「イリス」は一頭だけ生まれた。チムはそのご一度に十頭の子犬を生んだ。
犬のよい資質を子孫に残し、それを確かな状態にするという強い望みは正当である。望みが正当であっても、それを実現する方法を吟味して実行することでないと、禍根を残す。
得難い猟性能に引きつけられると、この犬の子孫を残したくなるのは当然なことだが、ついつい交配が近親の血液によって濃くなってしまうようだ。
平岩米吉氏の「イリス」は、「チム」というシェパード犬の近親交配があったのは昭和16年ころのことである。
「チム」はフィラリアで死に、「イリス」の父親もフィラリアで死んだ。このころ若くして死ぬ原因はフィラリアであった。
「イリス」の母親は「イリス」が10カ月のときに突然死した。解剖すると心臓に3匹の小さなフィラリア3匹と大きなのが1匹いたがこれが原因ではなく、また心臓肥大もあったがこれが原因ともいえない突然死であった。
犬が死ねば解剖して原因究明するのが平岩米吉氏の常であり、これはフィラリアの予防がその主な目的であった。
「イリス」などシェパードの遺伝と犬の性質と性能のことを平岩米吉氏は実際の飼育を通じて観察してこれを記録して、考察して文章にして本を残している。
平岩米吉氏は亀戸の竹問屋に生まれた人である。美術を志し、文学をして、犬の研究にも没頭し、フィラリアの撲滅にきっかけをつくっている。
狼の研究は自分で朝鮮狼など幾種類かの狼を実際に飼った。
狼を飼いならして犬と同じように街を歩いてもそれが狼であると気付く人がいなかったことを伝えている。
犬の精神の遺伝、それは行動の遺伝でもあり、この遺伝性をシェパードの繁殖を通じて幾つもの事例を記録している。
犬と食事。
その犬が動物性タンパク質を多く摂らなくても大概の大きさと体型の犬として成長することも確かめている。
ドッグフードの宣伝では栄養素などのことにふてて、ああすればこうなると説く。動物や犬の身体など構成要素を通じて割り出した食事の内容を用意する事例がある。それでもよい。しかしそうでなくてもよい。
犬に自分でつくった完全手作りの食事を与えるのだと宣言して、犬を飼ったいた人がいる。結構ですね、と答えるしかない。それよりも犬の仕合わせは飼い主と一緒に散歩することである。その人は犬が三歳になるころに病気で死んだ。その犬の引き取りを求められたある人は仰天するとともに途方に暮れた。
犬と食事に関係してはアレルギーのことがあるので、このことは試行錯誤を要する。何もなければそれで良いことになり、何かあれば対処しなければなならない。
汝、明日をわずらうことなかれ。
犬の身体から発せられるある種の成分が人のアレルギー反応を引き起こすことがある。あるときまではこれがなくても、どこかの時期を節目にこれがおきることがある。
今はよい。そのよい状態がつづけばよいが、続かないこともある。
犬の事故死。人の病気。人の都合。ほかである。
難しく考えると犬を飼うことができない。
「汝、明日をわずらうことなかれ」とはキリストが述べている言葉である。生きているときにはこの程度の緩みをもっていて良いのであろう。
(読み返しておりません。誤字、誤変換、その他の不都合をご容赦ください。)
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