紀州犬物語(63)【日本在来犬と紀州犬(その3)】(執筆横田俊英)

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紀州犬物語(63)【日本在来犬と紀州犬(その3)】(執筆横田俊英)

日本列島に古くからいた犬たちと縄文遺跡の犬骨
(純粋日本犬という言い方をする犬たちのこと)
(縄文期は犬は人の友だち、だった)

【写真】下は、青森県青森市にある三内丸山遺跡の展示館にある少年と縄文時代の犬の像。縄文期、犬は人の友達だった、と考えていい。あるいは犬は人の伴であった。人と犬は一緒に暮らし、犬は人の住まいの護衛をし、ときに狩りをし、そして人は犬に食糧を与えた。縄文期には人のそばに犬が埋葬されている事例が多くある。写真の犬は肩までの高さが40cmほど、を想定してつくられている。立耳、巻尾の古代犬を像にしている。
 
(タイトル)

紀州犬物語(63)【日本在来犬と紀州犬(その3)】(執筆横田俊英)

日本列島に古くからいた犬たちと縄文遺跡の犬骨
(純粋日本犬という言い方をする犬たちのこと)
(縄文期は犬は人の友だち、だった)



(本文)

縄文時代に日本列島で人と犬とが一緒に暮らしていた

 日本列島の旧石器時代の遺跡からは犬の骨は発見されておりません。縄文時代の遺跡からは犬の骨が数多くでております。縄文時代に日本列島で人と犬とが一緒に暮らしていたことは出土した人の骨と埋葬された犬の骨の状態から、確かです。縄文時代の犬の多様性は遺跡の発掘調査によって明らかになってきております。弥生時代になると出土した犬の骨から推察される犬の様子は、縄文時代の犬と変化がみられます。縄文時代には一つの遺跡から犬を埋葬した状態と埋葬しない状態で出土しております。弥生時代になると犬を埋葬しなかったことになっておりますが、このことについてもその後に新しい事例が出てくるかも知れませんので、断定は禁物です。

外国からきた犬へと好んで交雑させた

 外国との交易が広まる時代になると来訪する人々が連れてきた犬と在来の日本の犬とが交雑するようになったようです。自然に交雑するというよりも、外国からきた犬への珍しさから多くの場合には好んで在来の犬と交雑させたようでもあります。
 南蛮船が頻繁にそして恒常的に来航するようになると、日本の在来犬は外国から来た犬と交雑が進みました。平安時代の絵巻物には耳のたれたブチ犬(斑犬)の姿が描かれております。こうした犬が縄文時代から日本にいたかといいますと、縄文遺跡から出土する犬の骨の形態や大きさから推察して、そのような犬はいなかったと結論づけることができます。それは弥生期の銅鐸などに描かれた狩りをする犬の姿からも明らかです。古墳時代の遺跡から出土した犬の埴輪(はにわ)は、立耳と巻尾でした。

米国人が江戸の街の犬は人を恐れずに歩いているのに驚

 日本人の犬への態度のことで、米国人が江戸の街を犬がどうどうと歩いている姿をみて、驚いたということが伝えられております。欧米の犬は街を歩いているときにはいつ人に襲われるかとおどおどしているのに、江戸の街の犬は人を恐れずに歩いているのに驚いたというのです。

 これは日本人の犬に対するある種の態度であると思われます。犬が街を歩いているのは普通のことであり、それを何やかやと気に掛けない、ということです。昭和の30年代まではそのような状態であったと思います。とくに地方においてはそうでありましたし、現代でも山里では犬は鎖にもつながれずに、勝手気ままに道を歩いていることがあります。

 犬はそうして飼われていましたから、行きずりの犬同士が交尾をして子を産むことになります。産まれた子は誰かが飼っていて、やはり鎖にもつながれずに飼われていて、朝や晩に残飯を与えるということでありました。自動車が走っていない社会では道は犬の勝手気ままな通り道でありました。

人も犬も同じモノを食べてきたので顎の骨が退化している

 多くの日本人はその辺にいる犬に特段の意識をもたないでおり、犬も人にへつらうことなく、道を行き来し、食事時間などには飼い主のところにやってきて食糧に有り付くということでした。

 現代の日本人は柔らかいものだけを食べるので、顎の骨が小さくなって歯が顎の骨に収まらない状態がよくみられます。江戸時代の徳川将軍も代が下るほどにこのような現象が顕著になっていたことがしられております。現代の日本人は徳川将軍家と同じような顎のじょうたいになっているのです。

 歯と顎のバランスを積極的に確保するということを考えると、現代人は幼児にスルメを噛ませると良いと、本気で考えている筆者です。

 人の食糧を犬がそのまま食糧にすることが中世以後の日本ではつづいています。現代の犬の主食はドッグフードです。粒状のドッグフードをカリカリ音をたてて食べるか、そのまま丸呑みします。飼い犬可愛さの高じた人は缶詰の柔らかいドッグフードを与えます。こうしたことを続けていると、犬の顎の骨とその筋肉は退化するという研究が発表されています。そこでは現代に柴犬はそのような現象が顕著に出現していると記されています。筆者はそれは自然な退化現象ではなく、繁殖の方向性がもたらす要素が大きいようにの思います。

日本の犬は中世以降は咀嚼器官の変化(退化)がみられる

 獨協医科大学医学部講師(1989年時)の茂原信生氏は1989年度に発表した『日本古代家犬を通してみたヒトの家畜化現象の特徴』という論文のなかで、

 「縄文時代から中世の鎌倉時代までは数千年の長さにもかかわらず大きな咀嚼器官の変化は見られていないのに対し、中世以降は咀嚼器官の変化(退化)がみられるようになった。それに伴って顔面の幅や頭蓋の高さにも変化が見られる。この変化は現生のシバイヌで頂点に達し、極端な咀嚼器官の退化やそれに伴った病変が見られるようになっている。

 時代的な変化は次のようなところに現われる。

1、下顎骨の厚さの減少(虚弱化)。
2、下顎縫合のすぐ後部の下顎底に切痕が現われる。
3、口蓋の長さが減少し、幅が大きくなる。それに伴って、歯の近遠心径が縮小し、頬舌径が拡大する。
4、口蓋の長さの減少は顔面が短くなる変化をもたらす。
5、顔面の幅が相対的に大きくなる。
6、咀嚼筋の退化は矢状稜の発達の悪さで明かで、これに伴って脳頭蓋の高さが増加する。」

と述べております。

 また同論文では

 「イヌはヒトの残飯を食べることによってヒトとあまり違わない食性となっている。この結果、実質的には数百年でかなりの変化を見せていることになる。特に最近のイヌの変化は、第二次大戦後の日本人の変化に見られるように急速に咀嚼器官が退化しており、ヒトの家畜化現象の加速を上回る速度で進んでいることが確認された。」

とも述べております。

顎大きくし歯が全部おさめるために子供にスルメを噛ませるべき

 筆者の見解はさきに少し述べました。犬を構わずに放っておけば茂原信生氏の論文のような結果になることでしょう。事実そのような現象が顕著であることも想像できます。人の子供にあるいは幼児にスルメを噛ませるように、犬にも硬い骨などを噛ませたりしていれば下顎骨の厚さの減少(虚弱化)は防ぐことができるように思います。もっとも狼を祖先とする犬は、概して狼に比べて咀嚼器官が退化していくことは明らかです。

西洋文化輸入と共に日本の犬の目が青くなった

 外国からやってきた犬と交雑した犬もそのように扱われていたので、交雑した犬がさらに交雑して、耳のたれたのやら、斑(ぶち)の毛をもった犬やら、眼の青いの犬やらが日本中に広まったということでしょう。

 明治期になって西洋文化の影響を受けた特別な犬好きは血統書の付いた純粋種を求めて飼っていたことでありましょうが、市井(しせい)の多くの人々はそのようなことには特別な意識をもたなかったようです。仮に血統書の付いた純血種を買い求めようとしても手の届くような値段ではありませんでした。

在来日本犬の心身両面の美しさ

 このような事情によって明治時代を過ぎ、大正時代を経過し、昭和に時代にはいると在来日本犬は、その姿を見ることがなくなりました。このままで推移すれば日本の在来犬は消えてしまうという危惧の念をもった人々がおりました。在来日本犬がいなくなってしまう危惧とあわせて、在来日本犬の心身両面の美しさにも惹かれることがあったということでしょう。そうした人々の代表ともいえるのが斎藤弘吉氏です。

日本犬保存運動と斎藤弘吉氏の活躍

 斎藤弘吉氏などの尽力によって昭和3年(1928年)に日本犬保存会が設立されました。ともに設立に関わりをもったのは犬への見識のある権威者としての東大教授なども含まれておりましたが、実際の行動面では斎藤弘吉氏が群を抜いていたようです。

 斉藤弘吉氏の活躍のようすは直木賞作家の戸川幸夫氏が『犬ばか物語』で詳細に記しております。戸川幸夫氏は他界しましたが、斉藤弘吉氏ともどもついこの前まで存命でした。

 日本犬への斎藤弘吉氏の卓見は素晴らしいです。斎藤弘吉氏が日本犬保存会を離れた後でも日本犬保存運動はつづきますが、斎藤弘吉氏が素直な形でこの運動に関わっていれば、日本犬の在り方は今の状態とは違ったと想像します。

斎藤弘吉、長谷部言人、平岩米吉の三氏

 斉藤弘吉氏が日本犬保存の運動に全身全霊で打ち込んだのは20代という若い時代のころでした。その若さでということで不思議な気になりますが、どのような具合でか斎藤弘吉氏は日本犬への思いが募っていたということなのでしょう。

 日本犬保存会が設立されたのが昭和3年です。そして文部省に社団法人として認められたのが昭和7年でした。そうして日本犬保存のための全国的な運動がおこるのですが、この運動に意識的に直接に関わった人はさほど多くはなかったようです。

 東京大学教授で日本犬の考古学的研究をしていた長谷部言人氏(博士)もこの運動にかかわりました。同氏はさまざまな形で日本犬保存運動に関与しましたが、その是非についてはよくわかりません。

 日本犬保存会から分かれた柴犬保存会にもかかわっておりました。東京大学総合博物館に保管されている日本の遺跡から発掘された犬の骨などの多くの資料の収集に長谷部言人氏(博士)は考古学会の権威者として深く関わっておりました。犬の研究家の平岩米吉氏なども日本犬保存運動にかかわりました。

日本の在来犬の繁殖は自然に任せているような状態であった

 日本人はどうしたわけか日本の在来犬の保存という意識を強く持つことがなかったようです。そのようなことから日本の在来犬の繁殖は自然に任せているような状態でしたので、昔からのそのままの姿を留めた日本の在来犬は激減していて、大正時代の末年ころには交通不便な山奥の村落に数が残されている程度でした。そうした犬は狩猟に用いられることで命をつないできたものと考えられます。家には犬はいるけれども狩猟犬としても役立つということだったのでしょう。

長野県川上村産の小型犬「十石号」と斉藤弘吉氏


 日本犬保存会を創設した斎藤弘吉氏などた積極的に行動を開始したころには、在来の日本犬は危機一髪の状態で少しの数が残っていたのです。ほとんど根絶の状態にあった日本犬を救い出したといってもよい活動をしたのが斉藤弘吉氏です。斎藤弘吉氏を中心とする人々は、あれこれと聞き出しては在来日本犬の居そうな山村部に入って調査をし、その犬を連れてきては保存のための繁殖をするという活動をしたのです。

 斎藤弘吉氏が見つけ出した純度の高い在来日本犬の代表が、長野県川上村産の小型犬「十石号」です。この犬の姿態などを標本にして、日本犬の姿や精神の在り方を確認して、日本犬の保存運動に弾みがついたものと思われます。

9000年前の神奈川県にある夏島貝塚から犬の骨が出土

 最古の犬とされてるのが、今から約2~3万年前の旧石器時代の遺跡であるシベリアのクラスノヤルスカ遺跡から出土した犬骨とされておりますが、今ではこの事例を引用せずにそれから1万年ほど後の遺跡が示されおります。

 日本における犬の骨の出土は、最も古いものでは約9000年前の神奈川県にある夏島貝塚からのものです。縄文時代早期に日本犬の先祖ともいえる犬骨が発見されております。

 縄文期発掘の犬骨43例の体高は、最低のもが35cmで最高は48cmであり、平均値は41cmでした。時代ごとの平均体高は弥生期42cm、中世45cm、近世47cmと徐々に向上しております。縄文期の犬の中に48cmの体高のものがありますから、これは現在日本犬保存会が規定している日本犬標準の小型犬(柴犬)の標準体高オス39.5cm、メス36.5cmよりもずっと大きいのです。

犬を調べることによって、縄文人や弥生人の様子などを探ることができる

 人は犬を切り離しても生きることができますが、犬は人がいなくては生きていけないのが普通です。ですから人が移動すると、犬が人に伴って移動したと推定されます。そのようなことから、犬の移動の調査をすることによって、日本列島にいた人々の移動のようすを探ることができると思われます。

 日本列島には旧石器時代人そして新石器時代人の縄文人をはじめとして弥生人など様々な人々が住んでおりましたので、それぞれの時代の犬を調べることによって、縄文人や弥生人の様子などを探ることができると想定できます。実際にそのような調査・研究が行われ、犬の資料によって考古学の分野に貴重な事実が提供されております。

 斎藤弘吉氏らの在来日本犬の調査によって、日本犬には大きなもの、中程度のもの、小型のものがあるされています。それをもとに大型犬、中型犬、小型犬と日本犬を3つに分類して、これを保存することにしたのでした。大型犬の代表は秋田犬です。中型犬には紀州犬、四国犬、甲斐犬、北海道犬などがあります。小型犬は柴犬です。保存運動のはじめのころには体のサイズに基づいて大中小のどれかに入れて保存したようでありますが、その詳細は知りません。

 江戸期の前半には大型犬はいなかったようです。

中型日本犬の紀州犬

 在来犬としての日本犬はそれぞれの地域で特有の個性をもった犬として残存しておりました。

 「地犬」(じいぬ)とも呼ばれていたようです。紀伊半島の和歌山県、三重県のほか奈良県の3県で狩猟用に用いられていた地犬が、日本犬保存運動その他の結果、昭和9年に文部省から天然記念物として指定を受けるのですが、このときに付けられた名称が「紀州犬」でありました。

 それまでは紀州犬という呼び名は用いられなかったようです。一般には「和犬」(わけん)と呼ばれたり、和歌山県、三重県のほか奈良県の3県では山稼ぎをする狩猟用の犬ということで「山犬」(やまいぬ)と呼ばれたりしていたようです。

 また猟師の間ではその犬の出所の地名を用い、たとえば熊野犬(くまのけん)、太地犬(だいちけん)などと呼ばれておりましたが、文部省から天然記念物の指定を受けるときに用いられた「紀州犬」の名称がその後一般的に用いられるようになりました。ただし、紀州犬は地元ではその後長いこと産地名で呼ばれることが多かったようです。

中型日本犬の解説

 日本犬保存会では日本犬のことを規定した「日本犬標準」を定めております。これの純粋な抜粋では長くなってしまいますから、平岩米吉氏の解釈を折り込んで中型日本犬の概要を以下に示します。日本犬の根幹をなすのが中型日本犬です(平岩米吉氏『日本犬を飼う知恵』より)。

 体高(肩までの背丈)はオスが49から52cm、メスが46から52cmです。オスの体高と体長の比率は10対11です。メスに関しては体高に比して体長はやや長いとありますが、これはオスの体高と体長比10対11よりも体長が長いという意味として受け止められます。
 気性に関する規定は次のように受け止められます。気魄(きはく)があってなおかつ素朴であることとされております。感覚は鋭敏でまた動作は機敏であることが求められます。動作は軽快であることとされております。そして体格は強く引き締まっていることとされます。

 次のような規定に関しては解釈のための添え文が必要だと思われますが、それはせずにそのまま掲載しますと次のとおりです。

 耳は小さな三角形で、やや前傾して立っていること。
 目は濃い茶褐色であること。額(ひたい)は広いこと。
 鼻梁(びりょう)は直であること。
 唇(くちびる)は締まっていること。
 歯の噛み合わせが正しいこと。
 前胸が張っていること。
 胸が深いこと。
 四肢(しし)の踏ん張りが強いこと。
 足先が締まっていること。
 尾は差尾または巻尾であり、短尾は望ましくないこと。
 被毛は剛い直毛であること。
 尾毛はやや長く開立(かいりつ)すること。
 被毛色は胡麻(ごま)、赤、黒、虎、白など。

縄文期に日本列島にいた犬

 犬は人間の最も古い家畜であることが判明しております。これは今から約2~3万年前の旧石器時代の遺跡であるシベリアのクラスノヤルスカ遺跡から出土した犬骨によって証明されております。現代は考古学の発見の時代ですから、人間の活動がいま判明しているものよりももっと古い時代にさかのぼることがあり得ますし、犬についても同じです。

 日本における犬の骨の出土は、最も古いものでは約9000年前の神奈川県にある夏島貝塚からのものです。縄文時代早期に日本犬の先祖ともいえる犬骨が発見されております。

 縄文期発掘の犬骨43例の体高は、最低のもが35cmで最高は48cmであり、平均値は41cmでした。平均体高は弥生期42cm、中世45cm、近世47cmと徐々に向上しております。縄文期の犬の中に48cmの体高のものがありますから、これは現代日本犬の中の小型犬(柴犬)の標準体高オス39.5cm、メス36.5cmよりはるかに大きいですから、これを現代日本犬の中型犬(紀州犬、四国犬など)と考えることもできなくはありません。

犬と人との関係

 人と犬の関係ですが、人は犬の能力を利用し、犬は人により添うことによって生きていくことができるという相互の利益が共有されることになって、人と犬の密接な関係ができあがったことになります。

 この関係ができて以後、人と犬は一緒に生きてきました。人は犬を切り離しても生きることができますが、犬は人がいなくては生きていけないことになりました。人の移動に犬が伴っていることが想定されます。したがって犬を調査することによって、日本列島にいた人がどのような人であったかの手がかりがつかめることになります。

 日本列島には旧石器時代人そして新石器時代人の縄文人をはじめとして弥生人など様々な人々が住んでおりましたが、それぞれの時代の犬を調べることによって、縄文人や弥生人のルーツを探ることができると考えられます。実際にそのような調査・研究が行われており、考古学の分野で貴重な資料が提供されております。

純粋日本犬と紀州犬の保存

 日本人はどうしたわけか日本の在来犬の保存という意識を強く持つことがありませんでした。日本の在来犬の繁殖は自然に任せてしまっていましたから、純粋と思われる日本在来犬は大正時代の末年頃には交通不便な山村部に狩猟用としてわずかな数が残されている程度になっていました。

 ほとんど根絶の状態にあり、危機一髪のところから日本犬を救い出したのが斉藤弘吉氏を中心とする人々でありました。現在のこの人々によって日本犬保存会の前身の組織ができるのですが、斉藤弘吉氏は山村部に調査に入り、長野県川上村産の小型犬「十石号」などを見つけて、在来に本件の保存運動を進めました。

 日本犬保存会(正式名称はこれとは違ったかも知れませんが)設立されたのが昭和3年です。そして文部省に社団法人として認められたのが昭和7年でした。古い昔のことではありません。斉藤弘吉氏は20代の若さで日本犬保存の運動に全身全霊で打ち込んだのです。斉藤弘吉氏のことは戸川幸夫氏が『犬ばか物語』などで書いております。戸川幸夫氏は他界しましたが、斉藤弘吉氏ともども、ついこの前まで存命でした。日本犬保存運動が始まったのは古い古い時代のことではないのです。

 日本犬には大きなもの、中程度のもの、小型のものがありましたから、保存にあたってこれを大型犬、中型犬、小型犬と3つに分類したということになっております。大型犬の代表は秋田犬です。中型犬には紀州犬、四国犬、甲斐犬、北海道犬などがあります。小型犬は柴犬です。保存開始当初は体のサイズに基づいて大中小のどれかに入れて保存したようです。

 大型犬として規定されている秋田犬は、縄文期を含めてその程度に大きな犬の骨は発掘されていないので、この秋田犬は江戸期以降につくりだされた犬であります。

青森県七戸町の二ツ森遺跡から縄文犬骨が出土

 青森県七戸町の縄文遺跡の二ツ森貝塚(二ツ森遺跡)のフラスコ状土坑底から縄文犬骨が出土しております。この遺跡は同じ青森県青森市の三内丸山遺跡と年代がほぼ重なります。三内丸山遺跡などでも骨は酸性土壌のために残りにくいために、人の骨はほんの少しだけ出土しただけで、犬の骨は出ていないということです。

 七戸町の縄文遺跡の二ツ森貝塚は小川原湖のそばにあり、犬骨を埋めたその上にシジミ貝を積み重ねていたことや湿地帯などの要素が重なって、骨が溶けないで残っていたもののようです。20人以上の団体であらかじめ七戸町の教育委員会に申し込むことによって、二ツ森貝塚から出土した犬の骨を見ることができます。

縄文期は犬は人の友達だった

 青森県教育庁文化財保護課長岡田康博氏(1957年弘前市生まれ、1981年弘前大学卒業後、青森県教育庁埋蔵文化財調査センターに入る。県内の遺跡調査の後、1992年から三内丸山遺跡の発掘調査責任者となり、1995年1月新設された県教育庁文化課(現文化財保護課)三内丸山遺跡対策室に異動、特別史跡三内丸山遺跡の調査、研究、整備、活用を手がける。)は、縄文遺跡の発掘調査を通じて、「縄文時代、犬は人の大事な友だち」と考えているようです。

 筆者は犬は人の友だちであって、犬は人の家族ではないと考えます。

 犬が人の家族になってしまうと、人と人との関係がグチャグチャになってしまって収集がつかないだけではなく、論理も成り立たなくなるからです。

 青森県の縄文遺跡の発掘者たちは、縄文時代の犬の大きさをおおよそ40cmと考えているようです。

 この40cmとはオスとメスとを分けていないのが気がかりですが、オスメスあわせた平均値として考えているのでしょう。縄文時代の犬の大きさの平均値は大体その程度のものであったようです。三内丸山遺跡も二ツ森遺跡も年代はともに5,500年から4,000年前のものです。

(読み返しが不十分斜めに変換ミスなどによる誤字、脱字などについてはご容赦ください)

紀州犬物語153 気迫と威厳、忠実と従順、飾り気のない気品と風格、これが齋藤弘吉氏の日本犬観である。(横田俊英)


紀州犬物語153 気迫と威厳、忠実と従順、飾り気のない気品と風格、これが齋藤弘吉氏の日本犬観である。(横田俊英)
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人の肌は柔らかい、だから甲冑(かっちゅう)で防護する。)
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巷(ちまた)に流れる犬(イヌ)という言葉の意味と起源。
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紀州犬物語(125)「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。(横田俊英)
(タイトル)
「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。
和歌山県日高郡旧美山村村長の有色紀州犬復活のための取り組み。
(サブタイトル)
「姿芸両全」(しげいりょうぜん)の紀州犬を育てるために狩猟を始める。このときに鉄砲を持つようになった。狩猟に出かけるのは犬を鍛錬するためである。
第125章 「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。 執筆 横田俊英

 
 
 
生後4カ月のときの紀州犬のオス犬です。 



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紀州犬物語(125)「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。(横田俊英)
(タイトル)
「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。
和歌山県日高郡旧美山村村長の有色紀州犬復活のための取り組み。
(サブタイトル)
「姿芸両全」(しげいりょうぜん)の紀州犬を育てるために狩猟を始める。このときに鉄砲を持つようになった。狩猟に出かけるのは犬を鍛錬するためである。
第125章 「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。 執筆 横田俊英




紀州犬物語(63)【日本在来犬と紀州犬(その3)】(執筆横田俊英)
日本列島に古くからいた犬たちと縄文遺跡の犬骨
(純粋日本犬という言い方をする犬たちのこと)
(縄文期は犬は人の友だち、だった)


紀州犬物語(62)【日本在来犬と紀州犬(その2)】(執筆横田俊英)
縄文遺跡から犬の骨は出ており、旧石器時代の遺跡から犬の骨は出ていない
野尻湖で犬は人と伴にナウマン象を追ったか
(野尻湖のナウマン象の発掘調査では犬の骨は出ていない)


紀州犬物語(61)【日本在来犬と紀州犬(その1)】(執筆横田俊英)
遺跡からでてきた犬の骨とそのもっとも古い年代
(人と犬は利用し利用される共存関係にあった)


紀州犬物語【シロの学校とその生徒のポチとブンの物語(5)】(60)(執筆 横田俊英)
第60章 紀州犬メスシロの学校とその生徒のポチとブンの物語(5)
(紀州犬の大人のメス犬のシロの学校で、生後5カ月の紀州犬のオス犬のポチと生後6カ月の紀州犬のオス犬のブンが教育を受け、訓練を積んでいるのです。ポチもブンも散歩を楽しみにしていて、綺麗な姿態と歩様で散歩ができるのです。)


紀州犬物語【シロの学校とその生徒のポチとミーとブンの物語(4)】(59)(執筆 横田俊英)
第59章 紀州犬メス シロの学校とその生徒のポチとミーとブンの物語(4)
(詫びや寂などまだ先のことですから、対象外です。しかしブンより一月遅く産まれている紀州犬オス犬の「ポチ」のほうにそれを感じることがあります。三つ子の魂百まで、ということが言えるのでしょうか。)


紀州犬物語【シロの学校とその生徒のポチとミーの物語(3)】(58)(執筆 横田俊英)
第58章 紀州犬メス シロの学校とその生徒のポチとミーの物語(3)
(私は紀州犬のメス犬のシロの学校と題してお伽の国のような話しをしております。書いていることはすべて事実ですが、すべての紀州犬がこのようにできる訳ではありません。たまたま性質のよいシロというメス犬の大人がいて、たまたま、或いはこの時期に限って喧嘩をしない2匹の子犬がいて、それにもう1頭加わったということであります。子犬同士の折り合いがあって、幼児組と小学生組の2クラスに分けての学校運営になりました。)


紀州犬物語【シロの学校とその生徒のポチとミーの物語(2)】(57)(執筆 横田俊英)
第57章 紀州犬メス シロの学校とその生徒のポチとミーの物語(2)
(今で飼い主が寛いでいるときに、また夜にテレビを見ながらビールを飲んでいるときにポチとミーはその気配を全身で受けとめていて、声を掛けると犬舎の格子に顔を挟んで応えます。)


紀州犬物語【シロの学校とその生徒のポチとミーの物語(1)】(56)(執筆 横田俊英)
第56章 紀州犬メス シロの学校とその生徒のポチとミーの物語(1)
(子育てを終えたシロ(白)には生後3カ月ほどのオスとメスの子犬の学校の先生の新しい役目が与えられ、シロはこの仕事を喜んでしております。シロが先生を勤める学校の生徒はオスの子犬が「ポチ」で、メスの子犬が「ミー」です。シロとポチとミーの3頭は喧嘩とも見えるレスリング風の遊技を嬉々として演じております。)


紀州犬物語【紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(4)】(55)(執筆 横田俊英)
第55章 紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(4)
(ポチは生後76日に子育てを終えた白を母親代わりに暮らすことになりました。白は不思議なことにポチを自分の子犬と同じように遊技をしてやります。ポチもまた実の母親と思っているようです。あるいはただの犬の仲間と思っているのかも知れません。)


紀州犬物語【紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(6)】(54)(執筆 横田俊英)
第54章 紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(6)
(子犬は母親に徹底的に遊んでもらって、身体をうんと使い、手も足も腰も胴も身体を鍛えることになるのです。その遊びたるや人間の子どもが身体を動かすのを厭わないのと同じです。)


紀州犬物語【紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(3)】(53)(執筆 横田俊英)
第53章 紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(3)
(生後70日ころのポチは乗車訓練に取り組み、またリードをつけて60メートルほどの散歩の練習もします。家の向こうの畑で遊ぶポチはモンシロチョウやツバメを眼で追いかけて外界の様子を知っていくのです。)


紀州犬物語【紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(2)】(52)(執筆 横田俊英)
第52章 紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(2)
(子犬の喉につかえないことを前提に生後70日の頃にはパピーのほかに、ラン・ミールも少しだけ与えます。生後5カ月、6カ月、7カ月、8カ月になるに従ってラン・ミールの割合を増やして、生後8カ月過ぎにはラン・ミールを中心にします。一家の主人が紀州犬に惚れていないのなら紀州犬を飼ってはなりません。一家の主人と思いを同じにする家族のもとで飼われる紀州犬は仕合わせであり、その一家も仕合わせであることになります。)


紀州犬物語【紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(1)】(51)(執筆 横田俊英)
第51章 紀州犬オス ぽち(ポチ)の物語(1)
(チビの子どもの白と黒は母親と別れ、母親と別れてきた紀州犬オス犬のポチはこの家でずっと過ごしてきたように振る舞います。)


紀州犬物語【紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(5)】(50)(執筆 横田俊英)
第50章 紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(5)
(生後30日ころから母親は子犬が乳を吸いにくるとグワーと吠えて拒絶することがしばしばです。夜中にもこの声が聞こえます。犬の親と子の自然がここにあるのです。)


紀州犬物語【紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(4)】(49)(執筆 横田俊英)
第49章 紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(4)
(駐車場横の畑では菜の花が黄色い色を見事に周囲に放っております。この先一週間して春が進むと新緑の美しい季節になります。もう雑草むしりを余儀なくされました。)

紀州犬物語【紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(3)】(48)(執筆 横田俊英)
第48章 紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(3)
(子犬たちが生後三週間を迎えたこの日、遅れていた春が進んで、この地は梅の花とサクラの花と水仙とツツジに似た花が一斉に咲きました。)

紀州犬物語【紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(2)】(47)(執筆 横田俊英)
第47章 紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(2)
(子犬を身体をまるめて抱いて、お尻をなめて排泄を促してそれをなめてやってと健気な子育てがつづきます。)

紀州犬物語【紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(1)】(46)(執筆 横田俊英)
第46章 紀州犬メス犬シロの出産と子育て物語(1)
(シロが2匹の子犬を産んだその夜、空には金星が燦然と輝いておりました。)






紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(39)(執筆 横田俊英)
第39章 子犬のさまざまな行動への対応(紀州犬の躾け(シツケ)に関する考察)

(子犬は飼い主が思うようにはしつからない)


紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(40)(執筆 横田俊英)
第40章 安岡章太郎さんは紀州犬の気性の美しさを物語にした
(近藤啓太郎さんは飼い犬の健康美あるいは紀州犬特有の美しさに魅せられた)

紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(41)(執筆 横田俊英)
第41章 紀州犬が内に秘めている特性
(紀州犬の正しい理解のために近藤啓太郎さんと安岡章太郎の小説を読むことをお奨めします)

紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(42)(執筆 横田俊英)
第42章 泣かない騒がいのが紀州犬が美徳

(安岡章太郎さんのコンタは家に来た夜に、「ウォー」と一声あげただけでした)

紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(43)(執筆 横田俊英)
第43章 犬を飼うときに人の側の力量は何時でも不測しております
(紀州犬は歩く速度があるいはリズムが波長が人の散歩に調和しております)

紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(44)(執筆 横田俊英)
第44章 素直な、素朴な、賢い、格好いい紀州犬に育てたい
(藤井聡さんの『シツケの仕方で犬がどんどん賢くなる』を読めば人も犬も賢くなる)

紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす】(45)(執筆 横田俊英)
第45章 子犬を怪我させないことが一番大事
(子犬は親から離されるとしばらく夜泣きを含めてなくものだと考えていたらよいでしょう)


紀州犬物語【紀州犬メス犬シロ(白)の物語】(37) (執筆 横田俊英)

紀州犬物語【紀州犬を連れて散歩し紀州犬と暮らす日々】(38)(執筆 横田俊英)
紀州犬物語 第38章 紀州犬に主従関係を教える、そして犬の性質を知る
(その問題は子犬の問題ではなく飼い主がつくっている問題なのです)




 
お渡しできる 紀州犬の 子犬

○紀州犬の子犬 白、オス 2012年1月初旬生まれ オス犬 その1。血統書込み 17万円 直ぐお渡しできます。
この子をお連れになれば、直ぐに散歩を楽しむことができます。格好のいい素晴らしい紀州犬が家庭にいることは楽しいことです。
オスですが、性格がよくて、優しいので、家庭犬として飼うにはとても良いと思います。良い縁があるとよいですね。
散歩ができて、夜泣きせず、必要に応じて家の護衛のための警報の行動をします。
 (この子は生後8カ月になりますが、めでたく完全歯になりました。感染症予防8種混合ワクチン3度接種済み。
  フィラリア薬も投与済み。虫下し薬投与済み。ダニ除けのフロントライン液滴下済み。狂犬病予防接種は新しい飼い主がしてください。)


○紀州犬の子犬 白、オス その1 2012年6月14生まれ (オス犬 その1です)血統書込み。ワクチン1回接種済み。10万円。直ぐお渡しできます。

○紀州犬の子犬 白、オス その2 2012年6月14生まれ (オス犬 その2です)血統書込み。ワクチン1回接種済み。10万円。直ぐお渡しできます。

○紀州犬の子犬 白、オス 2012年7月21日生まれ オス犬 その1。血統書込10万円。お渡しは9月初旬です。(メスの子犬ともおりますのでお問い合わせください。電話(携帯090-5580-8226))。兄弟犬で胡麻毛のオスの子犬も生まれていますのでお問い合わせください。携帯090-5580-8226 横田俊英(よこたしゅんえい)  

○紀州犬の子犬、胡麻毛 2012年7月21日生まれ オス犬 その1。血統書込10万円。お渡しは9月初旬です。(白のオスおよびメスの子犬もおりますのでお問い合わせください。電話(携帯090-5580-8226))。兄弟犬で白毛のオスの子犬も生まれていますのでお問い合わせください。携帯090-5580-8226 横田俊英(よこたしゅんえい)

○紀州犬の子犬 白、メス 2012年7月21日生まれ メス犬 その1。血統書込10万円。お渡しは9月初旬です。(オスの子犬ともおりますのでお問い合わせください。電話(携帯090-5580-8226))。白と胡麻毛のオスの子犬も生まれていますのでお問い合わせください。携帯090-5580-8226 横田俊英(よこたしゅんえい) 

○紀州犬の子犬、白、オス、2012年8月26日生まれ(出産予定)(オスその1) 血統書込10万円 予約受付中、お渡しは10月初旬 (携帯090-5580-8226横田俊英)

○紀州犬の子犬、白、オス、2012年8月26日生まれ(出産予定)(オスその2) 血統書込10万円 予約受付中、お渡しは10月初旬 (携帯090-5580-8226横田俊英)

○紀州犬の子犬、白、メス、2012年8月26日生まれ(出産予定)(メスその1) 血統書込10万円 予約受付中、お渡しは10月初旬 (携帯090-5580-8226横田俊英)

○紀州犬の子犬、白、メス、2012年8月26日生まれ(出産予定)(メスその2) 血統書込10万円 予約受付中、お渡しは10月初旬 (携帯090-5580-8226横田俊英)  
 
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