紀州犬物語(86) 人のための栄養学、そして犬の食事と成長などを含めた栄養の在り方。 執筆 横田俊英。
(タイトル)
人のための栄養学、そして犬の食事と成長などを含めた栄養の在り方
(生後8カ月ころまでは太り過ぎと体重の事などを気にしないで食事を与える。)
第86章 人のための栄養学、そして犬の食事と成長などを含めた栄養の在り方。 執筆 横田俊英
人のための営業額、そして犬の食事と成長などを含めた栄養の在り方。
(生後8カ月ころまでは太り過ぎと体重の事などを気にしないで食事を与える。)
子犬の感染症予防ワクチンを接種について。
私は子犬が生後28日になることに感染症予防ワクチンを接種します。
28日に接種するのは2種混合ワクチンで、ジステンパーとパルボ対応です。
写真は生後28日にジステンパーとパルボ対応2種混合ワクチンを接種したあとの子犬たち。
このころに接種できるのはこの2種混合ワクチンです。
このあと生後42日前後に2度目の接種をします。8週混合ワクチンです。その後は生後3カ月ころにもう一度接種します。これも8種混合ワクチンです。
感染症予防ワクチンの接種はそれ自体が恐いことです。異常な生体反応があるためです。ハラハラしながらの接種となります。
感染症予防ワクチンを接種したその日は非常に心配です。
遊んでいる子犬のその横で1匹が仰向けになっていると、死んだのではないと揺すって生きていることを確かめるのです。
揺すられた子犬は両手足を上に向けてすやすやと眠っていたのに、と迷惑がります。
早くに外に出したいから早くにワクチンを打つ。
感染症予防ワクチンを生後28日に接種して、生後42日前後に2度目を接種するのは、子犬のこの方面への病気の心配があるからですが、できるだけ早めに外に出せるようにするためでもあります。
獣医師や動物病院は感染症予防ワクチンを接種してこの効力がでるまでは外に出すな、ということを指示します。
これを生後60日を基点にしてやると3回目の予防接種を終えて免疫ができたとされるのは、早くても生後90日を過ぎてしまいます。
この関係のことは考え方ですから私がどうのこうのと言ってもどうでもよいことです。しかし私はそのような方法を採りたいのです。
健康であること、性格が良いこと、紀州犬らしいことの3要素
犬が人と暮らして、人も犬も嬉しいし、よい関係でいられるためには、次の事が備わっていると良いと思います。
健康であること、性格が良いこと、紀州犬であればそれなりにといいますか、如何にも紀州犬らしいこと、そしてもう一つ欲をだすとよい子を産み育てることができること。オス犬であれば、よい子を生ませることができること、ですが、オス犬は選ばれる立場にありますから、普通に飼っているオス犬にその種(たね)を欲しいと要望されることは滅多にありません。
子犬への食事の与え方
子犬は小さなころは食べるだけ食べさせていればよいのです。
一度にどかっと食物をだしてやるとそれを食べますが、沢山食べたために次に似たような量を食べることができません。
大体は一日に食べることができる量がきまっておりますから、それを飼い主の都合で何度かに分けて与えます。どうしても都合がつかないときには一日に一度にします。私は一日に一度ということをやむを得ず、ときどきします。
悪い風邪をひいて足も腰も立たず、頭も朦朧(もうろう)としているときには、子犬に食事を与えないでしまうこともあります。このときには、すまない、悪いね、ごめんね、とつぶやいております。
飲み水は器に入れておけばよいのですから、これは何時でも飲めるように子犬の住まいに入れておきます。子犬によってはこの水を器から掻き出して遊ぶのがおります。困ったことですが、このような子犬用にはペロペロなめて飲む給水器などを用意して対応します。
生後8カ月ころまでは太り過ぎと体重を気にしないで食事を与える。
紀州犬の子犬は生後8ヶ月ころまでは、あるいは生後10カ月ころまでは、体重のことなど考えずに食べたいだけ食べさせても構いません。やりすぎはよくありませんが、このころの月齢の犬に、大人の犬と同じような体型を求めて、食事を制限することはありません。
食事を少しずつ減らせばやがて体重は落ちます。
紀州犬の体型といいますか、その肉の付き方は、岩肌に和紙を貼ったような状態という言い方があります。矢鱈にぶよぶよしていてはよくないのです。しかしこの状態を求めるのは生後1年(あるいは8カ月)以上になってからと考えるとよいと思います
紀州犬の子犬は生後8カ月ころに大体は大人の体高に近くなります。
子犬の成長と私が経験した事例。
その後の成長はゆっくりですが、私の飼い犬のオス犬の「ハナキズ」は、生後8カ月から1年経過したら体高が2センチメートル伸びました。同じオス犬の「小五郎」は生後8カ月から11カ月の間に3センチメートルほど伸びました。
メス犬の「チビ」はやがて三歳になり、これまでに二度子犬を生み育てております。小さな身体だったので「チビ」と呼んでいるのですが、三歳になるころに背丈を測ったところ生後10カ月ころから3センチメートルほど伸びていて、普通の紀州犬のメス犬の体高になりました。
自分の飼い犬をほかの犬とまともな形で比較できないと、これで良いのかどうか判断がつかなくなります。ある人はとても大きなデブデブの紀州犬と自分の犬を比較して、小さい、細いと思って、食べない食事を食べさせるために特別仕立ての食事を用意しているのでした。
ドッグフードにキャベツと豚肉を煮たのをかけてやればそれで十分なのですが、タンパク質の固まりのような犬用の缶詰を与えると、ドッグフードを食べなくなるのです。悪循環といいますか、当たり前の循環がそこには生じます。
人のための栄養学、そして犬の食事と成長などを含めた栄養の在り方。
平岩米吉氏は戦時中に山形に疎開して、タンパク質などない粗末な食事を摂っているシェパードが体型の変化もなく過ごしている事実から、犬は接種する食物の栄養素が身体を構成する養分と違っていてもよいようだ、と考えたのです。
人のためにつくられた栄養学は、そのまま犬のための栄養学にはならないのです。像(ゾウ)は草食ですがあれだけの身体をつくります。
人はその犬がいれば嬉しいと思うのであればそれでいいのです。そして人はその犬を散歩のお伴に連れて歩くことが嬉しいのであればいいのです。
散歩の時間はその人が取れる時間でよいのです。その時間が5分では犬は排泄をするだけですから、平均すれば1日に1時間ほどは犬を連れての散歩の時間をとりたいと考えます。散歩にでるためにもたもたして、糞を拾うための作業をしていると簡単に30分は過ぎてしまいます。
散歩の時間は2時間であったり、5分であることがあってもよいのです。
犬の仕合わせよりも人の仕合わせのことを考えてください。犬は人が仕合わせでないと、仕合わせではいられません。
ムシャクシャした気分で犬との散歩にでて、その犬の行動が気にくわないといってせっかんをする人がおります。そのようなときには散歩などしなくてよいのです。
生後1歳半を過ぎて、3歳にもなれば、犬は1日1時間の散歩とほどほどの食事を与えていれば、格好いい姿になります。
食事の目安は与えれば喜んで直ぐに食べてしまう程度です。
岩肌に和紙を貼ったような、と表現される日本犬の身体の在り方。
岩肌に和紙を貼ったような、ということでは大きく呼吸をするとあばら骨が見えるような状態でもあります。
ある人の犬は岩肌に分厚い脂身を貼りつけたようになっておりました。参考にしてはならない犬を見て、大きくしたい、太らせたい、と思い込んで、食べたがらない食事をもっと食べろと、いうことでやきもきしているのです。犬は食事の量は十分すぎるのでもう要らないといっているのに、飼い主はそれでは足りないからもっと食べろ、もっと食べろと誤った考えで行動していたのです。
犬を飼ったら気分のよいことだけをして欲しいと思います。
犬のためなどとは決して思ってはならないのです。自分が気持ちのよいことと、犬を飼うこととが連動し、重なり合っていて欲しいのです。
犬は食事や運動のことでムキになっても、その分だけよい犬になるとは限りません。
「散歩させられないなら犬を殺してしまえ」(近藤啓太郎氏)
「犬の仕合わせは飼い主との散歩」そして「散歩させられないなら犬を殺してしまえ」(近藤啓太郎氏)というのは、犬を鎖に繋いで飼っていたり、庭に放しておけばそれでよい、という日本人の犬の飼い方への警句として意図して発しているのです。
飼い主がこの犬がいれば嬉しい、この犬を連れて日に一度か二度散歩することが嬉しい、ということであればいいのです。犬がオシッコをしたいという生理作用のためには日に二度の散歩ができればそれは好ましいことです。
人の仕合わせこそ犬の仕合わせといいました。
ある人は意に反して重病になりました。犬を世話することなどできません。
このような人は大勢おり、個別の事例を陳列することができますが、やはり人は何時でも何時までも仕合わせな状態でいることはできません。
「今日も一日生きていた、よかった」(五木寛之氏)
犬のためにと無理して身体をこわした人もおります。それほどまでにムキになり、身体を酷使してはならないと思っていると、やはりその人は身体をこわしてしまいました。
またある人は訳もなく犬のことだけを考えて、この犬にはあれが足りない、これが足りないとやっていて、やがては飼い主が精神を病む状態になりました。そこまで行かなくてもおかしなことになって、犬を飼うことが苦痛になる人もおります。
飼い犬と散歩していて、ああいい気分だと思えることが一年に一度あればそれで良いではありませんか。気分が良くなかったけれども飼い犬を連れて散歩していたら心が晴れたでもよいのです。「まあ、いいか」ということで、その日一日を受け入れていくのもよいのです。
五木寛之氏は、今日も一日生きていた、よかった、と思うのだそうです。
随分と控えめで天を恐れる態度ですが、そういうものかも知れません。
(読み返しておりません。分別の足りない表現や誤字、脱字、誤変換などがありますことをお断りして、お詫びも申し上げます。)
(同じ項目でありながら、ですます体、である体が混同していることをお断り申しあげます。)
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