紀州犬物語(88) 人がありふれた生活をしていて、そこに犬がいる。人と犬はこの程度のことでいい。 執筆 横田俊英。
(タイトル)
人がありふれた生活をしていて、そこに犬がいる。人と犬はこの程度のことでいい。。
(「人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です。」(太宰治氏))
第88章 人がありふれた生活をしていて、そこに犬がいる。人と犬はこの程度のことでいい。 執筆 横田俊英
人がありふれた生活をしていて、そこに犬がいる。人と犬はこの程度のことでいい。
(「人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です。」(太宰治氏))
よい目覚めがあって、インスタントコーヒーに砂糖とミルクをいれて、これをゆっくりと飲む。黒い液体が喉を通ってお腹に落ちてそこでたむろしていると、人の頭が働きだし、身体に少しの力が湧いてくる。
「そうだ庭には犬がいる」とわかりきっていることを思う。
こいつはよく歩くし、よく走る。そして俺のことが好きだし、俺もこいつが好きだ。
黒い瞳、犬ではあるがまるで人とも思えるこいつがいると俺の心は浮き立つ。
跳躍し、疾駆し、スタスタと歩き、ゆっくりと人の歩調にあわせる。
どの道を行こうか。
春にも、夏にも、秋にも、アザミの咲く日の当たる坂道にしようか。
小さな祠から湧き水がでる、朴の木のある木陰の道にしようか。
動き出して足が向いた方に行こう。
いつの間にかキンモクセイが匂うようになったのだ。彼岸花が燃える季節があっという間に終わり、桂の木は一番始めに黄葉し、桜がそれを追う。
栗の実が落ちている道ばたにも秋を感じる。
カマキリがると網戸にとまっていたなあ。
勝手なことがつぎつぎに頭の中をよぎり、やがては何を考えていたのか忘れてしまう。
暑くもなく寒くもない。空は青いし、空気もうまい。お日さまだって射している。
そうだ犬を連れていたんだ。
ウム、犬はこのように歩くのか。右足を出し、左足を出し、そして飼い主の顔をときおりのぞき見している。
わかっている、顔を見たって知らん振りをしなければならないのが飼い主なのだ。
そうしないと犬が人を支配するようになる。
だから家に戻ったら少しだけ褒めてやるろう。
背筋がすっきりした。
頭も軽くなった。
これでいい、それでは戻ろうか。
これはある人の朝の決まり事になっている犬を連れての散歩である。
しかし、いつもいつもが、このような朝ではない。
人生を苦にしていた太宰治は短編小説『ヴィヨンの妻』で登場人物に次のように語らせる。
「人間三百六十五日、何の心配も無い日が、一日、いや半日あったら、それは仕合せな人間です。」
その言葉の全段には「人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔、とは、まったく本当の事でございますね。一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっついてまいります。」というのが付いている。
ある犬飼は犬が思い通りにならないと、せっかんする。それがたびたび度を超す。結果には触れない。格好いい犬を飼うことが名誉だという身勝手がそうさせる。
人がありふれた生活をしていて、そこに犬がいる。
人の散歩に犬を連れて行く。犬はまた人の散歩に伴うことを悦びとしている。
人はまたそうした犬の気持ちが嬉しい。
人と犬との間はこの程度でいい。
(読み返しておりません。誤字、誤変換、その他の不都合をご容赦ください。)
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