田中館愛橘の物理普及講演と寺田寅彦の物理学を元にした随筆
濃尾大地震の調査は物理学としての初めての地震調査であり寺田寅彦はその当事者であった
Tanakakan Ai Tachibana's physics promotion lecture and essay based on Torahiko Terada's physics
田中館愛橘の物理普及講演と寺田寅彦の物理学を元にした随筆
計量計測のエッセー 
田中館愛橘の物理普及講演と寺田寅彦の物理学を元にした随筆
写真は根尾谷断層岐阜県本巣市根尾地域の活断層

地震のあった1891年(明治24年)当時の根尾谷断層。


現在の根尾谷断層。道路は段差を削って付けられる。


現在も残る根尾谷断層の落差。人は断層の上に家を建てる。


根尾谷断層の掘削面と地震断層観察館。

(タイトル)
田中館愛橘の物理普及講演と寺田寅彦の物理学を元にした随筆

(本文)

 日本計量新報では田中館愛橘の業績を追いかけることで明治以降の物理学の動向を明かす試みをしている。田中館愛橘と長岡半太郎は師弟関係にあり同時によき同僚であった。田中館愛橘と長岡半太郎の薫陶を受けたのが寺田寅彦である。寺田寅彦は随筆をものにした。田中館愛橘は物理学を社会と民衆に普及するための場として講演をもようした。これの延長が物理学によるものの見方の随筆が寺田寅彦の図書だ。

 「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう、つまるところ)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう」(寺田寅彦、1934年11月「経済往来」)

 田中館愛橘と長岡半太郎そして寺田寅彦は濃尾地震の調査をした。この調査で根尾谷断層が見つかった。根尾谷断層は日本で確認できる最古の地震断層として記録された。小藤文次郎が撮影して論文にした根尾谷断層の記録が名高い。田中館愛橘らの調査の記録として捉えるとよい。濃尾大地震の調査は物理学としての初めての地震調査であり寺田寅彦はその当事者であった。濃尾地震は最大横ずれ変位量8m、最大上下変位量6mの根尾谷断層を出現させた。

 寺田寅彦の教えを受けたのが玉野光男である。玉野光男は工事現場の下にはモノが落ちてくると同じ中等学校を卒業した日本計量新報の記者に語った。危険要素を説いただけのことだ。玉野光男のことが次のように語られている。「中検技師の面々。中央度量衡検定所(中検)は1933年の庶務細則では、本所に1部、2部、3部と庶務係を置くとの規程がありましたが、私が入所した頃は、研究、検査、検定等を技師が分担処理していた模様で、一度も技師を呼ぶのに部長という言葉を聞いたこともありませんでした。長さ測定における光波干渉測定で世界的な研究成果をあげた渡辺襄氏が二代目所長で、その下に、本所には米田麟吉技師、今泉門助技師、玉野光男技師、岡田嘉信技師、天野清技師、佐藤朗技師と属兼技手の友森肇さん、大阪支所長に糸雅俊三技師、福岡支所長に的場鞆哉技師が居られ分担して総ての指揮をとっていたようでした。私などから見れば雲の上の方々ですが、先輩達は皆「さん」づけで畏(かしこ)まっているようなところはみえませんでした」(私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励。計量計測データバンク)

 危険要素を減らすためには交差点の信号待ちは信号機から離れることだ。道を渡るときには車がやってきたらどうするか。あれをしてもこれをしても安心も安全も確保はできないのに、安全と安心を安請け合いする風潮がある。学校は考えることを教えるのではなく所定の回答を求める。だから児童が手を挙げて進めば車が停まると覚える。ブレーキを踏んでも車は止まらない。ハンドルを切っても車は曲がらない。自動車会社が安全と安心を軽々しく口にすることに寺田寅彦は苦笑するだろう。田中館愛橘は自転車で転んで脚を骨折した。遠心力と舵角の調整をしても別の要素で自転車は転倒する。田中館愛橘の骨折事故は東京大学理学部の学生たちの語り草になった。それでも自転車に乗った。骨折のために田中館愛橘の足は歩行に影響が現れるほどに片方が少し短くなった。このころの理学部の学生は数十名であり教員はその一割ほどである。田中館愛橘は簡便な形での知識の伝授はしなかった。理論と原理を自分で咀嚼して物事を語った。計算尺の対数目盛の意味を述べるのに深淵極まる話しをしたのに対して、これによって対数の意味がよくわかったと教え子が述懐する。中央度量衡検定所技師の米田麟吉の講義のもようを元千葉県計量検定所長齊藤勝夫が語る。「熱力学と温度については、米田麟吉さんが受けもって、常に、あらぬ方向を向いて熱弁。講習生は熱弁にしては、熱が上がらず、浮かぬ顔。米田さんの一人旅は続いて半分程度は合点がいく」。田中館愛橘に対して要点だけを簡便に教てもらえばよいという不満をもつ学生がいたことを門下生が伝えている。米田麟吉の講義は田中館愛橘に類似していた。

 米田麟吉の人物像を語る言葉をひろう。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい「これこれについてしかじかの条件下で何々が」と長々しい収吾をしつらえ、文末に「……が研究された」と書く。先生それをサッとご覧になって「頭が重いよ」と批評なさる。つまり「主語が長すぎるよ」という意味なのだ。計量研欧文報で「頭が重くない」抄録がお目にとまるとすれば、それは米田先生ご自身か、もしくは先生に「頭が重いよ」と注意された後輩か、どちらかの閲読を経たものといって差し支えあるまい」と同じ新聞の1979年(昭和54年)1月28日号に追悼文を書いている。

 大きな質量の物体が高速度で運行する現代社会で発生する損害の程度は累進する。平生から防御策を講じなければならない。天災がきわめてまれにしか起こらないが交通事故は頻発しているのだから人は所要の心得をしなくてはならない。

2020-02-13-tanakakan-ai-tachibana-s-physics-promotion-lecture-and-essay-based-on-torahiko -terada-s-physics-article-editorial-

(不適切な表現などについては意に反するものですのでご容赦ください)

【関連資料】

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

長岡半太郎-Wikipedia。長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月19日(慶応元年6月28日)-1950年(昭和25年)12月11日)は、日本の物理学者。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。東京帝国大学教授として多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や帝国学士院院長などの要職も歴任した。 1937年、第一回文化勲章受章。正三位勲一等旭日大綬章追贈。本多光太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。

寺田寅彦-Wikipedia寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人。吉村冬彦(大正11年から使用)、寅日子、牛頓(“ニュートン”)、藪柑子(“やぶこうじ”)の筆名でも知られる。高知県出身(出生地は東京市)。

田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

中村清二写真は中村清二東京帝国大学歴代学部長任期大15.12~昭4.12
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/overview/former_deans/data.html?num=007

中村清二-Wikipedia中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日(1869年10月28日) - 1960年(昭和35年)7月18日)は日本の物理学者。
『田中館愛橘先生』を書いた門弟の中村清二。
中村清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日(1869年10月28日)から1960年(昭和35年)7月18日)は日本の物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。1925年に創刊された理科年表には、物理部の監修者として名を連ねている。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。妻との間に二男二女が生まれた。また、女優の中村メイコは兄の孫にあたる。旅行が趣味であり、90歳で亡くなる1ヵ月前にも長男らと飛騨高山、淡路島などを巡っている。島嶼を好み、台湾、樺太、満州、朝鮮半島などを訪れた。特に伊豆大島を好み、別荘を大島町に寄付している。読書家でもあり、ウマル・ハイヤームの詩を原文で読むためペルシア語を独学したり、伊勢物語に傾倒したりした。1869年10月28日、福井県鯖江町(現・鯖江市)に生まれる。1892年7月10日、理科大学(現・東京大学理学部)物理学科を卒業。在学中は田中舘愛橘に学ぶ。1895年12月3日、旧制第一高等学校教授に就任。1900年4月20日、東京帝國大学理科大学助教授となる。1903年2月23日からドイツに留学。1906年7月3日に帰国。1907年5月5日付で理学博士の学位を取得。1911年11月28日、東京帝國大学理科大学教授に就任。1924年6月27日付で帝国学士院(現・日本学士院)会員になる。1929年6月2日、東京帝國大学名誉教授となる。1953年11月9日、文化功労者となる。1960年7月18日、没した。田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-からの引用)

文春オンライン「レクサス」はなぜ暴走したのか-元特捜検察のエースvs.トヨタ 真っ向から対立する言い分 村山 治2020/02/18 06:00

諏訪湖畔と「琵琶湖周航の歌」と作詞者の小口太郎(1月13日 撮影甲斐鐵太郎)

私の履歴書 齊藤勝夫 第1編(公務員人生を歩みだす 私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)-その1-第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って)

私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励。計量計測データバンク
 
計量計測のエッセー

いつでも使える計量辞書としての国際単位系ページの利用

田中館愛橘の物理普及講演と寺田寅彦の物理学を元にした随筆

適正な計量の実施は国家と地方公共団体が共同して実現すべきもの

富士山より高かった八ヶ岳が崩壊すると泥流は甲府盆地の向こうまで流れた執筆 甲斐鐵太郞
韮崎と須玉に連なる丘の七里岩は八ヶ岳崩壊による岩屑(がんせつ)なだれの跡だ


計量計測のエッセー ( 2018年1月22日から日本計量新報の社説と同じ内容の論説です)

素直でない人は嘘をつく 素直とは正直者のことだ

法人とその構成員の意欲と能力を映し出しているwebサイト

数値や言葉を翻訳変換して診断する

大手情報媒体が低俗化しフェイク情報が充満する

人は他の人を映し鏡として生きる意義を成立されている

カメラの撮影枚数にみる技術開発とリチウムイオン電池


地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ

球速表示160kmは確かか(球速表示160kmは信ずるに値するものなのか)

内需依存型産業社会日本と人口減少社会の在り方

(タイトル)
控えめな計量法が適用されて実現する平和な社会
(サブタイトル)キログラムの単位記号はkgでありKGではない。メートルの単位記号はmでありMではない。

計量の教養こそ身に付けるべき課題だ

0.1%の計量器の検定・検査が世のなかに適正計量を実現をもたらす

地が裂け山が崩れ洪水が人を襲う日本の自然(ハザードマップは人が住んではならない場所を示す地図だ
見えないモノを見えるようにする計測技術
強い欲求をもっているとニーズは自ずと分かるものらしい
すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ
消費は人口減少の度合いで減りGDPも同様に推移する
キログラムは新定義を満足させたうえ50 µgから10 µgに精度向上
質量と重量の違い及び質量の単位キログラムの定義変更
規則に照らせば不正でも総合性能としては問題ない事柄
バベルの塔とノアの箱舟の伝説と旧カヤバ工業の免震性能偽装
計量と計測は人の間にどのようにかかわるか
自動ハカリの検定実施は日本の計量制度に大きな転換をもたらす
2018年11月16日開催の国際度量衡総会で質量の単位キログラム(kg)を定義変更
日本人の頭骨の変化を計測値が示す副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
優良事業所が適正計量管理事業所の指定を受ける社会的責任
計測の目的と求められる確かを考える
地方計量行政の模範県を躊躇なく真似たい
自動ハカリの指定検定機関制度と行政組織の関わり方
1%の検定で計量の安全を実現している日本の計量制度
自動ハカリの指定定期検査機関の動向を観察する
計測の在り方と計測値の表示をめぐる諸事情
計量協会webサイトから日本の計量行政の未来が見える
光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した
収賄で終身刑になる中国要人と首相をかばい罪に問われる日本の官僚

ウィキペディアによる計量の世界の説明は1割ほど
時代の波と計量器産業の浮き沈み
世界でも範たる状態を築いている日本の計量行政
中国では日本以上の人口減少状態が出現している
ハカリの定期検査実施漏れは計量憲法である計量法違反だ
城下町の鍛冶屋が日本の産業の元になった
山口高志投手の球がベース通過時点で一番速かった
福島産の農産物と海産物と放射線測定器
通信と自己診断機能は計量器の法制度を変える
計れと人を管理したQC運動に対比される品質工学
モノの数量表現と性質表現の仕組みである国際単位系(SI)
計量法の実質の内容を変える政省令の理解と解釈
ハンドルで曲がらずブレーキで車は止まらない
計量計測のエッセー

学校は記憶容量とアプリケーションを確認するところ
計量検定所長の仕事は検査機関運営費をたっぷりと確保すること
社会の計量の安全の確保は住民サービスの基礎
神鋼素材は計測器性能に影響がない
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

自動ハカリの検定実施は日本の計量制度に大きな転換をもたらす
2018年11月16日開催の国際度量衡総会で質量の単位キログラム(kg)を定義変更
事実は小説よりも奇なり 二つの事件
計測システムがわかることが計測における教養だ
世の中は計測でできている
計測の目的と精密さの実現の整合
日本人の頭骨の変化を計測値が示す副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
優良事業所が適正計量管理事業所の指定を受ける社会的責任
計測の目的と求められる確かを考える
地方計量行政の模範県を躊躇なく真似たい
自動ハカリの指定検定機関制度と行政組織の関わり方
1%の検定で計量の安全を実現している日本の計量制度

学校は記憶容量とアプリケーションを確認するところ
計量検定所長の仕事は検査機関運営費をたっぷりと確保すること
社会の計量の安全の確保は住民サービスの基礎
神鋼素材は計測器性能に影響がない
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

 
旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ

霧ヶ峰 雪景色

秩父札所二十四番 光智山法泉寺

6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る

正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった

上高地 晩夏

風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません

川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 
 
 
旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 

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