霧ヶ峰高原 晩秋 |
霧ヶ峰高原 晩秋 |
霧ヶ峰高原 晩秋 雪が降っていた。11月20日には二つ玉低気圧で山は雪になった。 霧ヶ峰高原 晩秋 湿原に下る木道の階段だ。正面に車山が見えている。 霧ヶ峰高原 晩秋 何時も見る八島湿原の景色である。湖面は凍っている。 霧ヶ峰高原 晩秋 目の前の池は凍っている。高層湿原の秋の終わりの風景だ。 霧ヶ峰高原 晩秋 カメラを持った人がいた。よく来るのだという。冬の風景も良いのだと。 霧ヶ峰高原 晩秋 車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。 霧ヶ峰高原 晩秋 八島湿原の向こうに鷲ヶ峰がみえる。駐車場に車はない。 |
霧ヶ峰高原 晩秋 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40pほどだ。スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。 (写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)
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霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色 霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原 霧ヶ峰高原 晩秋 和歌山市加太港の浜に立つ 山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。 ダイヤモンド富士 酉の市(おとりさま) 浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた 旧塩山の恵林寺界隈を見物した 仙台藩と青葉城 カラスウリが赤くなって秋です スズランが赤い実を付ける秋の始まりです |
├ ├滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた ├ ├京都三条の街は気詰まりで滅入る ├ ├神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ ├ |