1月13日 諏訪湖畔と「琵琶湖周航の歌」と作詞者の小口太郎(撮影甲斐鐵太郎)
(1月13日 撮影 旅行家 甲斐鐵太郎)
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【写真の説明】諏訪湖の水の出口は茅野市反対側の岡谷市にあって、その出口を釜口という。この地が第三高等学校寮歌の「」琵琶湖周航の歌」作詞者の小口太郎の生まれ育ったところである。この歌は三高ボート部員として琵琶湖の湖上にありながら、故郷の諏訪湖を思い、そしてはかない恋におわるその恋の未来を予測するかのように書かれたのが「琵琶湖周航の歌」である。諏訪湖はその後3分の1ほどが埋められて現在の姿になっている。岸辺の平地と旅館街は埋め立てられた跡である。人はもったいないことをするものである。(撮影 甲斐鐵太郎))
 
写真 上は 諏訪湖か間口水門付近に建てられて小口太郎像(撮影 旅行家 甲斐鐵太郎)  
 
上は 小口太郎像の後ろ姿で富士山の方角をみつめる(撮影 旅行家 甲斐鐵太郎) 
 
 
写真上は、小口太郎像の目の前に広がる諏訪湖。諏訪地方は小口の姓が多い。 
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(タイトル)
諏訪湖畔と「琵琶湖周航の歌」と作詞者の小口太郎(1月13日 撮影甲斐鐵太郎)


(本文)

 小口太郎は1917年(大正6年)に旧制の三高寮歌「琵琶湖周航の歌」をつくった人である。その歌詞が刻まれた記念碑が大津市三保ケ崎の琵琶湖畔の艇庫前に建てられている。それは当たり前のことで何の不思議もない。その小口太郎の立像が長野県岡谷市の諏訪湖の釜口にある。なぜだろうと思うが、小口太郎が生まれたのが諏訪湖であるからだ。小口太郎は現在の諏訪市の像が建っている場所の近くで生まれ育った。中学校は旧制の諏訪中学であり、卒業後にこの地に残るために小学校で代用教員をした。いとこが三高にいて郷里に帰ると高校生活のようすを語り、太郎を刺激した。太郎は三高の試験を受けて合格する。理甲という理科であった。太郎が生まれ育った諏訪湖と三高ボート部でボートを漕いだ琵琶湖とは重なる。諏訪湖と琵琶湖は規模が違っていても小口太郎の生まれた諏訪湖畔の旧湊村と三保ケ崎の艇庫前は形状も構造も似ている。背後の山も似ているし、そこが川につながる出口付近ということもそうである。

「琵琶湖周航の歌」は加藤登紀子がうたっていいる。作詞者は当時の第三高等学校の生徒であった小口太郎である。曲は当時親しまれていた吉田千秋の「ひつじぐさ」を借りている。逗子開成中学校生徒12名が明治43年1月にボートでの事故死を追悼した歌「真白き富士の嶺」」と歌われる「七里ヶ浜の哀歌」に似た曲調であり、この歌は賛美歌からとられている。したがって「琵琶湖周航の歌」も賛美歌を原曲としている。親しみやすさはここからきている。

 諏訪生まれの小口太郎が「われは湖の子」といえば諏訪湖生まれの子供ということにもなる。「さすらいの旅にしあれば」ということは諏訪から京都に出て修行をしていることになる。「滋賀の都よいざさらば」と「はかない恋に泣くかや」は後に小口太郎が叶わぬ恋に打ちひしがれ、また物理学の研究に没頭するうちに心の病を患って28歳にして自ら死を選ぶということにつながる「歌詞」と読める。

 小口太郎は1919年(大正8年)に第三高等学校から東京帝国大学理学部物理学科に進学している。卒業後は同大学の航空研究所に入所して研究生活をしていた。この文章を送ったら日本計量新報論説員の横田俊英から東京帝国大学理学部物理学科に計量の分野で活躍した芝亀吉と米田麟吉がいることを含め以下のことを知らされた。

 芝亀吉は徳島中学校の出で、1918年(大正7年)に第三高等学校を卒業している。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。米田麟吉は東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。3人とも1922年(大正11年)に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。米田麟吉は電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授に転じている。芝亀吉は東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となっている。米田麟吉のことを齊藤勝夫が日本計量新報に連載した「私の履歴書 齊藤勝夫第7編」で戦後第1回度量衡講習の折りの様子を「熱力学と温度については、米田麟吉さんが受けもって、常に、あらぬ方向を向いて熱弁。講習生は熱弁にしては、熱が上がらず、浮かぬ顔。米田さんの一人旅は続いて半分程度は合点がいく。」と述べている。横田俊英は久保田誠のともをするなどして芝亀吉と米田麟吉に会っている。芝亀吉と米田麟吉は小口太郎のことをたずねられて次のように述べている。芝亀吉は「目立った存在ではなかった」と。

 そして米田麟吉は「理学部の二人の教授と話していた時に、小口は『アマゾンのようですね』といったところ、教授が大変関心したのを覚えています。話の内容が何であれ的確な表現で二人を感心させたのは小口の才覚が普通でないことを証明しています」と。このことは飯田忠義著『琵琶湖周航の歌』(小口太郎と吉田千秋の青春)に書かれている。芝亀吉と米田麟吉が小口太郎の印象を語った言葉はこの二人の人となりを物語るように思われる。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい『これこれについてしかじかの条件下で何々が』と長々しい収吾をしつらえ、文末に『……が研究された』と書く。先生それをサッとご覧になって『頭が重いよ』と批評なさる。つまり『主語が長すぎるよ』という意味なのだ。計量研欧文報で『頭が重くない』抄録がお目にとまるとすれば、それは米田先生ご自身か、もしくは先生に『頭が重いよ』と注意された後輩か、どちらかの閲読を経たものといって差し支えあるまい」と同じ新聞の1979年(昭和54年)1月28日号に追悼文を書いている。

 私のつれあいは諏訪を訪れると諏訪大社下社秋宮となりの「新鶴本店」の塩羊羹(しおようかん)を買うことに熱心である。その「新鶴本店」の鈴子は小口太郎の縁戚であり、小口太郎が恋い焦がれた人であることを飯田忠義著『琵琶湖周航の歌』(小口太郎と吉田千秋の青春)が述べている。小口太郎の思いを寄せたその人は音楽学校のピアノ科に学んだのち、いろんな経過があって役場に勤めていた「新鶴本店」の跡継ぎに嫁いで店を切り盛りして繁盛させてきた。時の経過は鶴子の寿命をこえてしまっている。「新鶴本店」は塩羊羹のほかに柿の実に似せた創作菓子などを販売していて確かな味を提供している。いま急に人気になった万治の石仏が「新鶴本店」の近くにある。

 小口太郎と横田俊英は芝亀吉と米田麟吉をつうじてつながっており、甲斐鐵太郎と小口太郎は菓子の新鶴本店の塩羊羹と万治の石仏との縁になっている。人の縁(えにし)の妙とも思える。それは妙であるのか何やかやとこじつけた縁であり屁理屈であるかもしれない。



 (写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) (書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)   【登山・ハイキング】 【登山・ハイキング】

 
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