旧塩山の恵林寺界隈を見物した
 
旧塩山の恵林寺界隈を見物した
四脚門だ。ここにこもった快川は「心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残す。


旧塩山の恵林寺界隈を見物した
鬼の形相の像があった。焼かれる四脚門で快川の
「心頭滅却すれば火も亦た涼し」言葉を誰が聞いた。


旧塩山の恵林寺界隈を見物した庭には枯葉が散っている。秋だ。


旧塩山の恵林寺界隈を見物した
現代の葡萄館ではない。由緒ある家が葡萄館として公開されている。
椅子とテーブルは手が込んだつくりである。昔は当たり前だったのだ。


旧塩山の恵林寺界隈を見物した
隼温泉の様子を目にした。温泉が増えたので足が遠のいている。


旧塩山の恵林寺界隈を見物した

(本文)

 旧塩山の恵林寺界隈を見物した。今の市だか町だか村だかの名前は知らない。この付近には甲斐市、甲州市、中央市などというのがあるらしい。

 週末にこの付近の隼温泉にでかけ、川をのぼって行って信州に抜ける道を走って遊んでいた。福井から高速道路を使わずに尾根筋の道を東京に戻るときにもこの道を通った。

 恵林寺は武田勝頼が喪主となり信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われたところであり、和尚の快川紹喜は導師を務めた。快川紹喜は勝頼の代にも政務顧問であった。恵林寺を信玄の菩提寺と快川は定めた。恵林寺は乾徳山恵林寺という。1330年に夢窓国師によって創建された。『孫子』を座右の書とし武田信玄の尊敬を受けて入山したのが快川国師である。武田信玄の風林火山がどこからきているか推察されよう。

 天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏は亡ぶ。そのおり快川は信長に敵対した佐々木次郎(六角義定)、三井寺の上福院、足利義昭の家臣の大和淡路守らを恵林寺にかくまう。織田信忠の引渡し要求を拒否。中世では寺院は聖域であったためだ。恵林寺は織田氏に焼討ちされる。四脚門にこもった快川は「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残した。これが有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。天下一のやせ我慢の面目躍如たるものあり。

 隼(はやぶさ)温泉は白いアルカリ性の強い湯である。ある人が言った。ラジウム温泉がこの付近にあるそうだが、と。あるにはあるが信州の川上村に通じる塩川の上流だから塩山からは遠い。ラジウム温泉で有名な岩手だかの玉川温泉は医者が見放した病から人を救う。そういえば塩山の反対側にはラドン温泉があった。ラドンのタイルを張った温泉である。信ずるものは救われる。

 恵林寺は秋の始まりであった。2週間前の仙台も同じだった。恵林寺には武田24将の絵葉書がおいてあった。1871年(明治4年)の信玄公三百回忌に際して山梨郡中萩原村(甲州市塩山中萩原)出身の幕臣・真下晩菘(ました ばんすう)が松本楓湖(まつもとふうこ)筆の「武田二十四将図」を奉納したことと縁がある。真田に2将そして横田に馬場。この馬場が先祖であると話す知り合いがいた。北条家に通じる血筋であると語る人も知っている。甲斐鐵太郎の祖先は勇将・名将となっているが眉唾だ。

 京都の庭園を恵林寺に見たのは楽しいことだった。葡萄館では椅子に興味が引かれた。潜ってみると金具はなかった。今の日本の有名家具は平たくして輸送して金具で留めて仕上げる。皆そうである。

 宿の食事は江戸の人を満足させなかった。朝飯は青のりよりひどいものが海苔だった。家に戻って食べた山本山がなんと美味しいことよ。甲州で美味いのは葡萄であった。規格外れを送らせて近所に分けたら喜ばれた。この葡萄で1週間が潤いに満ちていた。


(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)
 

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

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