すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ
すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ
計量計測のエッセー 
すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ
写真は本文とは連動しない挿絵です。

夜明けの富士山(標高3,776m)山梨県本栖湖から。

(タイトル)
すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ

(本文)

 身体が先か、読み書きソロバンが先か。身体をつくり、人としての行動の在り方と考える力をつくることの優先順位のことである。これは相互に関連したことである。福沢諭吉の考え方はどうか。福沢諭吉は身体が先だという。8、9、10歳になって初めて教育をほどこす。それまでは卑劣(ひれつ)なことをしたり賤(いや)しい言葉を真似したりすればそれを咎(とが)める。ほかは一切投げやりにして、もっぱら身体を大事にみてやる。遠足や柔術・体操が年齢以上によくできれば褒(ほ)めてやる。読書などは褒めないどころか止(と)める。

 福沢諭吉には9子がある。うち男児は4人。長男一太郎、次男捨次郎は修学に3年か4年かかる帝国大学予備門に入った。予備門に3カ月通うと胃がおかしくなって3カ月養生をする。帝国大学予備門の修学方法を改めないと生徒を殺すことになり、そうでないばあいには精神異常者にしてしまう。帝国大学予備門の修学方法では人を半死半生にしてしまうと、懇意の間柄であった文部の長官であった田中不二麿に進言する。長男一太郎、次男捨次郎は予備門の修行に堪えないために慶応義塾の普通の学科を習得させて長男20歳、次男18歳のおりの明治16年(1883年)に、一緒に米国の大学に送り込んでいる。田中館愛橘が東京大学理学部を卒業した翌年のことである。

 田中館愛橘は、官立の外国語学校の一つである英語学校から官立の開成学校の予科に進む。開成学校は予科が2年、本科が4年で6年かかって卒業する。生徒は百人足らずで三十人ずつ三組に分けれれていた。田中館愛橘は6年かかって官立開成学校を卒業して東京大学理学部に入学、開成学校、東京大学理学部時代を寄宿舎で暮らす。

 田中館愛橘は明治15年(1882年)7月10日に東京大学理学部を卒業する。このころは学生は官の貸費生でみな寄宿舎に収容されていた。試験は厳しくて一回の不合格は落第で原級に留まり、二回の不合格では退学を命ぜられた。明治9年(1876年)の入学のときには九十余人であったものが明治15年(1882年)7月6日の卒業のときには32名になっていた。これは東京大学法理文三学部の総数である。この時代の学制の変更は激しい。官立開成学校が官立東京開成学校になったり、官立東京開成学校が東京大学予備門になったり、東京大学が帝国大学になり、さらに東京帝国大学になり、もう一度東京大学になる。こだわると年表と首っ引きしなければならない。

 開成学校は予科は仙台、新潟、広島、長崎、大阪等からと田中館愛橘ら東京英語学校から拾い上げられたものなどで、総数は百人足らずである。それを三十人づつA、B、Cの三組に分けていた。中のようすが一向に分からないから田中館愛橘は落第しては大変だと無暗に勉強した。大試験の成績はA組の一番であった。

 無暗な勉強のためか田中館愛橘の身体の具合が悪くなった。肺病になっては大変だと田中館愛橘は肝油を飲みだした。ただ飲んだのでは効き目が薄いと食事のときに汁やらお菜に入れて、よく染み込ませて食べた。匂いはよくないが鼻の感じを少し抑えて味わってみればなかなか良い。学生仲間からは非常に感心された。肝油を二年ばかり用いたことは事実である。しかしこれを人にあえて勧(すす)めない。胃の弱い人が下痢をしてはいけないから。学友の土方寧は田中館愛橘が丈夫になったのは肝油のせいだといっている。本人は実のところはよくわからないという。

 福沢諭吉の長男一太郎は田中館愛橘より7歳若い、次男捨次郎は9歳若い。田中館愛橘の開成学校入学は曲折があったために早くはない。福沢諭吉の子は早くに開成学校に進んでいる。田中館愛橘と福沢一太郎、福沢捨次郎の三人は同時代に開成学校で就学していたことになる。福沢諭吉は二人の子供のようすから開成学校の修学方式では半死半生の人にしてしまうと強い調子で不満を述べる。田中館愛橘は開成学校の勉強に打ち込んで身体の具合を悪くした。肝油を飲んでいたことは自身が教えた学生に語っている。

 武家の子弟が明治の世になって身を立てていく一つの方法が学問であるから、田中館愛橘はこの修得に命がけで取り組んだ。田中館愛橘は理学の分野に進んだ経緯を次のように述べている。「平素先輩から、人間の目的は己をおさめ天下を治むるにある、もし世に用いられないときには書いたものを後世に残せ、そのために文を修めよ、と聞かされていたからそれまでは国家を治める道を学ぼうと思った。しかし今まで見たところでは国を治める道については西洋の修身治国を説いたものが在来の孔孟の教えに優るとは思えない。これに反して理科方面は大いに学びたいものがある。それで理科の根本たる物理学を修めて大いにわが国家の欠を補いたいと感じ、父に許しをこうて了解された」と述べている。

 会津藩家老の子で白虎隊士であった山川健次郎は明治政府に選ばれて米国のエール大学で学んだ。日本の遅れは理学分野での開明度の低さにあると考える。そのようなことで物理学を専攻して卒業する。田中館愛橘は開成学校時代から山川健次郎の教えを受ける。福沢一太郎、福沢捨次郎の二人も開成学校で山川健次郎の講義を聞いているはずである。山川健次郎は東京大学理学部長につづいて総長となった。

 田中館愛橘は慶應義塾で英語を学ぶ。慶應義塾の月謝が高いために続かず、フェントン夫人に英語を学ぶ。後に官立の外国語学校の一つである英語学校に進んだ。福沢諭吉が47歳のおりの明治13年(1880年)に慶應義塾は経営が困難になった。諭吉は廃塾を決意したが小幡篤次郎らが奔走して存続となった。田中館愛橘が慶應義塾で英語を学んだのは明治5年(1872年)9月から明治6年(1873年)11月までであった。田中館愛橘は南部藩福岡の武家の出である。子弟の学問のために田中館家は家財を売り払って東京で家を買う。ここを拠点に父は商売をし子は学校に通う。田中館愛橘の弟の一人は東京大学理学部をでて理論物理学の道に進んだ。田中館愛橘は日本人で最初に国際度量衡委員に就任した。

 慶応義塾が慶応義塾大学となって文学、法学、理財の三科を置いたのが明治22年(1889年)である。福沢諭吉は安政4年(1857年)緒方塾に学ぶ。緒方塾では塾長になった。このころのことについて「愉快なる塾生活の傍ら主として生理学、医学、物理学、化学等に関する原書を読みファラデーの電気学説にも接する機会を得る」と福翁自伝で述べている。緒方塾の時代はオランダ語によって売洋学をひも解いていた。後に英語あるいは仏語によってこれをするようになった。オランダと英国、仏国の産業と科学技術ほかの差が反映したものである。

 生理学、医学、物理学、化学の洋学を愉快に学んだ福沢諭吉である。心と身体がしっかりしてこそ、丈夫な身体、丈夫な心あってこそ人の生活であり学問であると考えた。慶応大学に医学部があるのは福沢諭吉が緒方塾で医学書を読みこれを和訳したことと縁があるのだろう。

2019-01-05-with-a-strong-body-and-a-strong-heart-article-editorial-

(不適切な表現などについてはご容赦ください)
 
計量計測のエッセー


計量計測のエッセー ( 2018年1月22日から日本計量新報の社説と同じ内容の論説です)


計量の教養こそ身に付けるべき課題だ
写真は本文とは連動しない挿絵です。

夏に咲く広い花の綿帽子。

0.1%の計量器の検定・検査が世のなかに適正計量をもたらす
写真は本文とは連動しません。

月と木星や土星はときどき接近して見える。


見えないモノを見えるようにする計測技術
強い欲求をもっているとニーズは自ずと分かるものらしい
すべては丈夫な身体と丈夫な心あってこそ
消費は人口減少の度合いで減りGDPも同様に推移する
キログラムは新定義を満足させたうえ50 µgから10 µgに精度向上
質量と重量の違い及び質量の単位キログラムの定義変更
規則に照らせば不正でも総合性能としては問題ない事柄
バベルの塔とノアの箱舟の伝説と旧カヤバ工業の免震性能偽装
計量と計測は人の間にどのようにかかわるか
自動ハカリの検定実施は日本の計量制度に大きな転換をもたらす
2018年11月16日開催の国際度量衡総会で質量の単位キログラム(kg)を定義変更
日本人の頭骨の変化を計測値が示す副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
優良事業所が適正計量管理事業所の指定を受ける社会的責任
計測の目的と求められる確かを考える
地方計量行政の模範県を躊躇なく真似たい
自動ハカリの指定検定機関制度と行政組織の関わり方
1%の検定で計量の安全を実現している日本の計量制度
自動ハカリの指定定期検査機関の動向を観察する
計測の在り方と計測値の表示をめぐる諸事情
計量協会webサイトから日本の計量行政の未来が見える
光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した
収賄で終身刑になる中国要人と首相をかばい罪に問われる日本の官僚

ウィキペディアによる計量の世界の説明は1割ほど
時代の波と計量器産業の浮き沈み
世界でも範たる状態を築いている日本の計量行政
中国では日本以上の人口減少状態が出現している
ハカリの定期検査実施漏れは計量憲法である計量法違反だ
城下町の鍛冶屋が日本の産業の元になった
山口高志投手の球がベース通過時点で一番速かった
福島産の農産物と海産物と放射線測定器
通信と自己診断機能は計量器の法制度を変える
計れと人を管理したQC運動に対比される品質工学
モノの数量表現と性質表現の仕組みである国際単位系(SI)
計量法の実質の内容を変える政省令の理解と解釈
ハンドルで曲がらずブレーキで車は止まらない
計量計測のエッセー

学校は記憶容量とアプリケーションを確認するところ
計量検定所長の仕事は検査機関運営費をたっぷりと確保すること
社会の計量の安全の確保は住民サービスの基礎
神鋼素材は計測器性能に影響がない
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方





自動ハカリの検定実施は日本の計量制度に大きな転換をもたらす
2018年11月16日開催の国際度量衡総会で質量の単位キログラム(kg)を定義変更
事実は小説よりも奇なり 二つの事件
計測システムがわかることが計測における教養だ
世の中は計測でできている
計測の目的と精密さの実現の整合
日本人の頭骨の変化を計測値が示す副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
優良事業所が適正計量管理事業所の指定を受ける社会的責任
計測の目的と求められる確かを考える
地方計量行政の模範県を躊躇なく真似たい
自動ハカリの指定検定機関制度と行政組織の関わり方
1%の検定で計量の安全を実現している日本の計量制度

学校は記憶容量とアプリケーションを確認するところ
計量検定所長の仕事は検査機関運営費をたっぷりと確保すること
社会の計量の安全の確保は住民サービスの基礎
神鋼素材は計測器性能に影響がない
田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方

 
旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ

霧ヶ峰 雪景色

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上高地 晩夏

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川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

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ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

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仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 
 
 
旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 

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