私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)-その1-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第1編 公務員人生を歩みだす
千葉県中の「ハカリ」を検査を一人でする。新品は係長が検定をやる。日曜もなしだ。
齊藤勝夫氏
はじめに
03年、「私が千葉県計量協会会長として取り組んだ事業」という表題で、懐かしい計量界に戻り、突然帰って早々、大先輩の天命をいただき、関東甲信越ブロックの1都9県の計量協会と計量士会の合同連絡協議会を歴史的に初めて開催に漕ぎつけ、一定の道筋をつけて、当番の新潟県さんにバトンをわたし、順調に、ブロックの人心が一つになって運命共同体に新しく構築結集できつつあると、本欄に延々、30回をこえ、まとめの第6編「24年振りの計量の世界」まで綴らせていただき、32回まで、歴史を共に刻ませてもらった証を残させていただくという無上の光栄にたどりつくことができた幸運を心から、改めて関係の皆様に感謝を申し上げる次第である。
軍隊から生還
私の歩んだ道を回顧させていただく。表題どおり、私を中心にした主演版であることを、予めご理解賜りたい。
顧みて思えば、遠い過去の出来事になるが、あの太平洋戦争の終戦の日の昭和20年8月15日の翌々の日、学徒出陣で軍隊勤務していた陸軍航空本部(立川航空隊)から、なにはともあれ生きて生まれ故郷に帰ってきた。入営中、両親揃って面会に来て、母は何回も何回も振り返り父と一緒に涙して帰っていったときの光景を思い出して、両親と再会した。
昭和21年6月13日、公務員としてスタート
虚脱状態の日々。やがてとある実篤の方から、父に千葉県庁への勤務を奨められた。父から弱き立場の人々にたって働くことこそ、敗れた日本のために一番大事なこと、と説得された。役場にいた叔父からも県庁こそ働き甲斐あると強く役人になるべしとの諠託があり、受験し、面接まで進み、一週間で採用決定(当時は郵便事情悪く、自ら出頭して採否をきく)となった。時は昭和21年6月13日。この日から、私の役人人生の歩みの第一歩が踏み出された。これが長い計量公務員の門出になるとは、そのときは全く感ずることなく、夢々知る由もない。
唯々、焼け野原とうろつく旧軍隊服と痛々しい服装の貧しさと飢えに苦しむ戦災母子、家もない人々の困窮どん底生活の姿。猛然と湧く正義感。勤務配属は、内務部建設課である。
生活必需物資の調達(旧陸海軍とヤミ商人の隠匿物資の摘発押収)と配給の統制経済の要の仕事で、県警本部の保安課と、大物は米国占領軍の軍政部と行動を共にして、敗戦利得者の情報を得ての土足での一斉捜索の踏み込みで発見しては没収する荒仕事。配給を受けて喜ぶ戦災者。
やがて、軍政部の管理下にある賠償工場の日本側管理を行っている賠償係に、軍政部と人脈があるという理由で移動した。赴任先は、経済部商工課である。
ここに、度量衡係が隣にあった。係長以下3人がいる筈だが、なにをしているかも知る由もない。係長は、そのうち復員して復職してくることまでは分かっていた。やがて復員してきた人が、小林義雄度量衡係長である。髭を生やして大陸帰りらしい風貌である。毎日席にいない。あるとき尋ねると「くる日も、くる日も、度量衡器の検定をしている」と短い口調で答えてくれた。
計量人生の第一歩
商工課長から、度量衡係を手伝ってくれとの命令だ。小林さんのところに行くと、開口一番
「なにはともあれ、資格を持つことが先決だ。丁度良い。戦後第1回の度量衡講習が東京で始まる。大変でも、4カ月間東京通いをして欲しい。そこを修了してくれば、度量衡の仕事は、形式上なんでもできる。帰ってきたら度量衡取締もやれるようになる。米の供出米(農家から政府に生産した米は、自家用を除いて強制売渡命令)の検査のハカリを正しいかどうか検査をしてくれと食糧事務所から催促されている」。
話をきけば、尤もなことで、最優先の仕事だ。度量衡の歴史も法の仕組みも仕事のあらましの説明もない。ときに、県庁勤めして2年の昭和23年6月1日のこと。度量衡講習は9月1日から12月25日までだった。
もう、やるしかない。国民が一日「二合四勺の配給の米」と「さつまいも」の配給で命をつないでいるのだ。毎日毎日食べることしか頭にない世の中である。千葉県中の残っている「ハカリ」を検査する難事業だ。しかも一人でやるのだ。新品は係長が検定をやることで精一杯だ。ときに日曜もなし。
係長はさらに言葉をつないだ。「講習に行くまで、ハカリの構造と中の機械の部品の名前だけでも覚えておいてくれ。俺についてきて一緒に見て覚えてほしい。よく検定のやり方を教え込むから」。新しい仕事に飛び込む使命感と情熱がこの瞬間から、五体に漲ってきたことを今でも覚えている。
ここから、私の計量人生の文字通り第一歩となった。
花の第1期生
さて、新しい仕事即ち度量衡係となって、なにはともあれ、度量衡講習に行くことが先決と決まった以上、使命感と情熱が湧いてきた。同時に長期の派遣命令という県庁勤務して初めての経験、一方では、ひどい食糧難と、一日に数えるしかない列車の本数の事情で多いに不安があった。
9月に入って講習が始まる。場所は商工省中央度量衡検定所というところで、銀座の木挽町にあった。ここに集まったのは全国、北は北海道から南は鹿児島まで40余名。千差万別の年令不揃い、服装は学生服から軍隊復員服まで選り取り見取りで、紳士服は形ばかりのものをちぐはぐに着こなしている者が数える程。すぐ様生い立ちと出身地の自己紹介が始まる。数日で仲間となり戦友意識が芽生える。
勉強もさることながら、「齊藤は千葉県で、通ってくるから、毎日『さつまいも』をもってきて仲間に食べさせてやってくれ」。誰いうとなく自然に役割が決まり、母の日課となった。講習終了の日に多くの仲間から礼を言われ、これが後に戦後第1回度量衡講習生(花の第1期生といわれる)の血縁的契りの起こりであり、所以でもある。
人格形成の礎
何故、講習の中身より人と人との人間関係を述べたか。それは現代の計量行政機関相互の交りと意思の疎通の仕方には、私が千葉県の計量検定所長時代のブロック内所長同志とブロック単位同志と、さらに、中央の計量課や計量研究所と地方計量行政機関との相互関係が、時代の変遷のためだからという言い方だけでは済まされない際だった違いが感じ、読み取れて致し方がないからである。当時は計量行政の運営、施行の問題、法改正の問題、要望や論点の集約、首尾一貫した行動、一糸乱れない結束、どれをとっても阿吽の呼吸でやってこられた信頼関係が築かれていた。
我田引水だが、何か月にもわたって苦楽を共にした、同じ飯を食べて過ごした仲間意識が根っこにあるからである。ましてや、この戦後第1期生から、北海道では野呂幸治所長、福島では小野伝所長、千葉では齊藤、群馬では藤田孟司所長、神奈川では小関喜知所長、滋賀では小森所長、愛知では小鹿和夫計量課長補佐、四国の徳島では福永勝所長、鹿児島では久永忠義、有村敬吉所長をはじめ、計量検定所の主要職を占める強者が澎湃として続出してきている。このような仲間だから強い絆で結ばれている。理屈以前の人間行動が計量人の人格形成の礎となっている。
集団あげての人作り
さらに加えて講習から帰って仕事につくと、時により、ブロック内の計量行政会議がある。勿論、新参者の顔見せ行事が待っている。他県の所長や古参先輩方からは、まるで自分の県の部下のごとき仕打ちと扱いである。当然ながら君呼ばりの出陣である。神奈川県の齊藤総彦所長の初見えでは「同じ姓ですぐ覚えた。戦後、度量衡法時代は終わり、新しい法ができる。これからは、君たちの時代だ。歴史を見極めて、伝統をしっかり引き継いでくれ」、と威厳があった。
何年経っても教えは忘れない。河原義勝小田原支所長(後に所長となる。千葉県の小林義雄さんと同期という)は理屈先行型だが、物分かりが速い。群馬県の大津所長、三木所長は、君とも言わず呼び捨ての常連、栃木県の助川一所長、根っからお人好しの言動、真面目な髭の茨城県横谷忠政所長、埼玉県の廣吉秀俊所長は一番寡黙の方だ。
とにもかくにも、会えば、お節介にも、寄ってたかっての説教と仕事の経験話し、先輩の言い付けは守るべしとの集団あげての人作り。教育を受ける方は、耐える一途である。日がたつにつれ、有難みが身にしみる。こんな光景は今はなし。遠い出来事として消え去っている。
いまでも自ら育った環境と歴史を顧みて、現代に、それに似た何かがあってよさそうだと沈思黙考するが、地方分権推進の時代には無理というものであろうか。賢者のお教えを得たい。
話は、当時の講習内容と教えてくれた恩師にふれてみたい。
講習は中検が中心で進める
全国から集まった戦後第1回度量衡講習生であるので、年輩者もいるし、かけ出しの若者もいるし、驚く程の年齢差のある集団である。常識的には、まとまりが難しいところであるが、度量衡講習といっても、中身は知らないで集まった連中である。
とにもかくにも、講習の内容の良いも悪いもない。全員一丸となって、唯々夢中で取り組む、いやいや、取り組まざるを得ない環境の職場事情だ。上京していることは、例外なしに境遇が一致しているので、真剣に正面から取り組み、まとまって、否応なしにおちこぼれなく助け合って勉強した。
講習は、商工省中央度量衡検定所が全面に背負って進められた。勿論、商工省の度量衡係も管轄であろうが、手薄で多忙で殆ど顔を出さない。必然的に中検(当時の略称)の名だたる誇り高い、自ら学者であり、その道の大家と自称する程の日本有数の専門官僚集団が勢揃いした。
当時、度量衡界最強の講師のチーム編成に違いなく、そのように講習生も聞かされた。中検側も、敗戦から地方の度量衡職員の人材育成に取り組む新しい使命感を持ってのぞんできた。
講習内容は持ち時間の3分の2は座学の専門学科と度量衡法令で、残り3分の1は基礎学科と検定の実施方法の実習である。戦災を免れた器具機械を使っての実務講習である。
当時は、米軍の占領下に入って3年ばかりで、世の中は食うや食わずの貧困の状況下である。今の時代の人には、当時の状況を説明しても実感として分からないだろう。感じ得ない日本の悲惨の世上である。それでも、度量衡講習生は助けあい、お互いがそれぞれの県の検定所の仕事を通して、日本の復興に立ち上がり、働こうと決意を一つにして、毎日を過したことは確かである。
度量衡界最強の講師陣
まず、教師側の筆頭は、商工省度量衡検定所の所長である。不思議である。威厳がある。今でも教壇に立った雄姿が目に浮かぶ。日本の度量衡行政の仕組みとメートル条約と中央度量衡検定所の内容と組織図の基本的説明がなされた。その人の名は的場鞆哉所長である。学校でいえば校長である。
次に、話す口調、頭の毛が薄く横に少ない毛を揃えての風采も、諄々と技術論を説く次長にあたる方、玉野光男さんのお出ましである。話を先に進めるとこのお方は、我々第1期が地方に帰ってから比較的長く中検の所長としてお付き合いし、親交を重ねることとなり、この講習生時代の師弟の関係が、後にものをいうことになった。人懐しい温厚な学者風の珍しい技術役人(高等官)であった。
「はかり」の三先生
座学の筆頭講座は「はかり」である。担当は戦後の新型の「ハカリ」の生みの親とも称された、民間にも名が知れわたっていた岡田嘉信先生である。
我々も先生とも呼んだ。トリード型の代用円の振り子型の日本版式を導入され、学問的に教えられた。「てこ」の原理と応用を繰り返し教え込まれた。棒ばかりの単一のものから、上皿棹ばかり、台ばかりにと、さらに、バネを使った懸垂はかり、ロバーバルの定義とロバーバル機構とバネ式はかり(斜面型)と今でも記憶に残る名演説。
戦後の「はかり」の復活、新型の導入、制温装置の研究と型式の導入と貢献度は枚挙にいとまがない程の貢献人であることは衆人の認めるお方である。その岡田さんを支え、補ってくれた二人の高橋さん。温厚な凱さんは座学と実習を分かり易く教授された。もう一人は照二さんで、コツコツと研究向きの方であった。
つまるところ当時としては度量衡の衡の代名詞は「はかり」と言える程、代表的な存在の講座が「はかり」であった。名高き有能な三先生に出会うことができたことは、戦後第1回生なるが故に、幸運そのものであった。
次は、他の講座に移ることにしたい。なお、当時の先生方は、今はご存命の方が少なくなってきているので、特にこの稿をしたためるに当たって、我々の恩師の一人でもあり、同郷でもあり、私が所長時代公私にわたってご交誼とご指導を得た蓑輪善蔵さんに、ご助言と実名のため誤記のないようお教えを乞うたところ、喜んでご指摘とご指導の配慮を賜れたことを特に付記させていただき、次の課目にふれてみたい。
はかりはすべて機械式だった
さて、「はかり」は全く機械式一辺倒であって、棒はかり(木棹と金棹に略称)が地方、農漁村に行けば、大事な・貴重な「はかり」の代表選手であることが、懐かしい。現代の計量人には、想像もつかない、今にしては、目に触れないし、検定方法(絞りや感じの検定方法)も知る由もない。私ども戦後第1期生(通算第40期、昭和23年度、正確には入講生総員37名の変わり種にして、異色とやる気の面々)は、ここからスタートとしたことを述懐するものである。
圧力計の講師は蓑輪善蔵さん
次の課目は、度量衡の言葉では範疇に入らないが、当時の度量衡法上は、歴とした法定の種類である温度計(ガラス製、金属製、光高温計)、密度計、比重計等の浮ひょう、圧力計、ガスメーター、水道メーター、ガソリン量器、化学用体積計(メートルグラス)。この辺が計量器の用語を当て込めていた。
そこで座学は、機構学が基本で、講習生の大半は耳新しい講座。現れた方が、東京帝国大学出で若い見るからに利口そうに見える人で、名は加藤芳三さんという。教え方は熱心に、黒板に書き、分類して説くが、講習生は、授業時間が終わると、一勢に難しい、分からないの声続出。特に福島の小野(当時は雪野)伝は、うめき声。「飽きずにやれよ」と激励するが通じない。
熱力学と温度については、米田麟吉さんが受けもって、常に、あらぬ方向を向いて熱弁。講習生は熱弁にしては、熱が上がらず、浮かぬ顔。米田さんの一人旅は続いて半分程度は合点がいく。
光高温計はマドロスタバコが似合って洒落者の酒井五郎さんの独壇場。佐藤朗さんは博学で、なんでもこなしてくれた学者風の色白きインテリゲンチア。皆は朗さんと呼んでいた。
講習生がこぞって好感をもって学んで、後々まで出身検定所へ戻って実務で役立つことになった器種の教師は、圧力計の理論と検定方法を手をとり、足をとって、分からずやの集団の第40回生の花の戦後1期生に根気よく伝授してくれた若き中検の技術のホープ蓑輪善蔵さんである。いつも笑顔で、何回でも説明し、実技を手解いてくれた。
人格形成にも役立ったことしきりである。ましてや、後に、計量法施行後、最高の名教習所長として、多くの英逸材を計量界に送り出した人であり、私にとっても「私の履歴書」の中でかつ、我々仲間にとってもとりあげるべき後日談のあるお方であり、恩師でもあり無二の親友でもあるお方である。
岩崎課長の薫陶で敢然と取締
一方、法令関係については、度量衡法の逐条解釈というようなやり方でなく、専ら、明日に役立つ実戦向きの講義方法である。
取締の章は、時の全国度量衡界の有名人である東京都の権度課長岩崎栄さんである。がっちりした体格の威厳の薫りが、ふんぷんとただようお方で、今にしても50有余年たっても目に浮かぶ忘れ得ぬ強烈な個性のある典型的役人の中の役人である。
度量衡法第8条の説明、製作製造の定義、修覆(当時は修理の法令用語)の定義、営業の法令解釈、判例の説明、強行法規の意義、罪刑法定主義の鉄則。驚いたことに、取締に当たっては、当時、国税反則者処分法を準用して処分する強い取締法規であり、度量衡法の占める重要度が身にしみついて、所長に後になっても、教えられた数々の内容が、物事の判断上、多いに役立つことになった。変造の実態と定義は、時代の古今に関係がない。
取締の手法は、誠に見事に奥の手の秘伝的なものも話してくれた。この時の、若き情熱時代、燃ゆる思いが、後に敢然と無登録販売者の悪質者に対し、渋る担当部長を差しおいて、刑事訴訟法第239条を振りかざして、説得して、部下の検査課長に命じて、所轄警察署長に告発し、警察署はすぐに動いた実績を持っているが、これぞ遠因に岩崎栄権度課長の若き時代の薫陶が光っていると自問自答したものである。
意義のある講習時代の一席の話でもある。
再会を約して健闘誓う
かくして、食べることに困窮しつつ、苦難にして、助け合いつつ、なんとか入講者37名は、無事勉学を了し、それぞれ第一線の地方計量検定所の戦後の混乱と人手不足の真っ只中に帰任した。統制経済の中で、やっと調達した貴重な度器、量器、衡器の資材を昼夜兼行で製造された器物が検定所へ押し寄せている日々に直面することをお互いに覚悟していた。「また、会おう」。再会を約して相互の健闘を誓う。
北海道の野呂幸治も、青森の田村律(穏やかだが、心根の強い後の所長)も、福島の雪野も、近い同じブロックの仲間の群馬の藤田孟司も、宇都宮市の大房忠一も(忠さんと愛称で呼ばれた大柄のお人好し)、中検組の矢島克己(物故)、須藤清二(物故)、沈思黙考型の神奈川の小関喜知(物故)、静岡の山田理三郎も、愛知県の理論家小鹿和夫も、一番の年長組の一人滋賀の有森賢次、行動の男広島県の武田信彦(若くして物故、惜しい親友)、今でも無二の親友徳島の福永勝、福岡の白水生久、熊本の南條謙介、真面目一筋の宮崎の和知一男、講習後も激励親交厚い鹿児島の久永忠義、有村敬吉、加えて米倉重範、良き学びの友は散って行った。惜しくも失った友もその後不幸にも出た。いい友だった。神奈川県の加藤辰男。君、今にして存命ならば、戦後の関東ブロックの計量の世界も今よりも変わっていただろう。今振り返り友を懐古する。
来る日も来る日も検定
話は、今にして思えば自らの度量衡法末期の仕事ぶりの一節である。
度量衡講習を修了した私を待っていたのは、前述の小林義雄度量衡係長(計量法施行後必置された初代千葉県計量検定所長、小職は二代目にあたる)その人である。
来る日も来る日も検定、検定の連続である。はかり(木製・金属製の尺貫系の棒はかり、上皿桿秤、懸垂(手はかり)、塩掛はかり、台はかり、ばね式はかり、上皿天びん、薬剤天びん等、さらに分銅、増錘の数々)、度器では巻き尺、竹製物差し、箱尺、量器では木製枡、やっても、やっても増える一方。しかも、手数料収入は、国の事務で収入印紙である。そのため毎年二月会計検査院の監査がある。
一方、免許制度の製造、修履、販売(試験制度)の事務も加わってくる。考える余裕などない。特に分銅、増錘の検定には手を焼いた。人力にも限界がある。
小林係長は言う。「一騎当千でやる」。言葉の響きは良いが、現実には通じない。人の増員の必要を説いた。係長も腰をあげ、人事当局から、一名割り当ててきた。県庁へ入ってきた早々で後に論客とも言われた人である。宇佐美剛三郎技師である。物事に動じないが、柔軟性に富む人物である。機を見るに敏な性分とも見受けた。
社会の信用と人心の安らぎの回復めざして
彼も暫くは、自分と同じ運命を歩まねばならないと思うとき、どう思い打開の道を探るのか、悩むだろう。年末も12月30日まで検定をやらねばならない。そして、やりとげた。何のために。「はかり」の品不足で商取引の正確性の確保が危ういのを少しでもなくそうとすることと、社会の信用と人心を「はかり」を通して安らぎを回復しようということ、常に言いきかせていた。
昭和38年5月、38才で所長に
あれから何年たっても、「はかり」はいつの世でも、人と人との相互の人心を安らぎと安心を与える、世の中の架橋そのものと信じている。そう思って夢中で使命を果たそうとした。人の力を越える仕事量を背負って働いていたとき、この辛さを、後輩には、自ら責任者になったとき、味あわせてはならないと心に決め、所長に。昭和38年5月、ときに、38才。
経験と辛さは次の飛躍の原動力
一年間で9名から倍増の22名に大増員した手法と論理的な人事当局への攻めの戦法はそのとき培い育ってきたそのものであった。経験と辛さは必ず、次の飛躍を生む原動力であることをいやという程、知り体得することができた重要な、ときの世相がなせる業であった。
今日の世相は正反対
今日の世相は、正に正反対、いかにリストラするか、予算を減らすか、規制をはずして手間暇をなくすか、それが行革と信じている。国民のためにどのような計量社会が、秩序を実現させるかの理想と理念を忘れての現象そのものを追っていると思えて、仕方がない。寂しい限りである。 次は、度量衡法末期の第一種度量衡取締(今の定期検査)の実状を述べてみたい。
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