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思い出を記録する道具としてのカメラ
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思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
上の写真はライカフレックス SL 正面の姿
ライカM5の50周年モデルだ。欲しい人は欲しい。
50mm f2にライカのズミクロンRマウントだ
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど
上の写真はライカフレックス SL 斜め横の姿
ライカのM5のブラックの50周年モデルだ。欲しい人は欲しい。
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど
50mm f2にライカのズミクロンRマウントだ
上の写真はライカフレックス SL 上からの姿
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど
ニコンF 下の距離計連動式にペンタプリズムを載せた
NikonS2は50mmf2付き モノクロで切れる写真になる
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど
ニッコールの50mmf2レンズはモノクロ撮影に向いている
1971年にライカのM5は標準レンズのF2が付いて50万円。
50mm f2ライカのズミクロンMマウントだ
思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
(タイトル)
思い出を記録する道具としてのカメラ
ニコンFとライカフレックスSLのことなど
(本文)
普通に生活する人にとってカメラは時を経てみると思い出を記録する道具であった。1949年に生まれた人間にはカメラは憧れても持てる対象になるのは1970年ころになってからだ。中学生が個人でカメラを持つことなどできないから修学旅行には知り合いから借りた。高校生になると同級生のハーフサイズの押すだけのオリンパス・ペンを使った。とオリンパスペンFが買えるかもしれないとカメラ屋のショーウインドウをみていた。用意したお金はホンダの自動二輪に回っカメラへの関心は薄れた。
学生の身になる。夏休みに友人たちと避暑地にでかけて写した写真が思い出に残る。写真好きがハーフサイズカメラで写したものだ。大学4年になって山に登るようになった。それ以前でも高尾山には週末にでかけていたのだが八ヶ岳に登るようになると写真を撮るための自分のカメラが欲しくなった。アサヒペンタックスSPと24㎜レンズを使った。大学の写真部の同級生はニコマートを使っていた。写真部の部長はローライフレックスの良いレンズの二眼レフに憧れていた。
山岳雑誌に掲載される写真を真似る。レンズは24㎜、50㎜、200㎜の三本、カメラはニコンFになっていた。写真の技法を学んで撮っても産が買う雑誌とは別のものになった。自分の行動の記録としての写真は残った。
ニコンFと24㎜、50㎜、200㎜の三本のレンズをリュックに詰めると他の物が入らない。ズームレンズが普及するのは後のことである。ニコンのズームレンズは値が張った。手が届く品ではない。山の写真を撮る熱情がニコンFへと私を向かわせた。一緒にでかけていた知人は装備が軽くなるからとキャノン7を使い、8ミリ写真に移っていった。
私はライカに憧れていた。ライカM3は遠い存在だったからLEICAFLEX SLと50㎜レンズを手に入れる。ニコンFを取得してから7年が経過していた。LEICAFLEX SLのレンズはf値が2の50㎜ズミクロン1本だけである。私のライカフレックス SL による写真はズミクロンによる。このレンズで撮影できる写真が私のライカフレックス SLの写真だ。
ニコンFはレンジファインダー機のニコンSPにプリズムの載せてつくられた。ニコンSPは右手中指でレンズの焦点合わせのためのダイヤルを回し、人差し指でシャッターボタンを押す構造になっている。シャッターボタンの位置がニコンFにそのまま残った。ニコンF は露光計を組み込まない状態では簡素なつくりであり軽くもある。ニコンFはサイズとしてはニコンSPと同等でありニコンS2とも通じる。
ライカM3はニコンSPと同じ距離計連動式の35ミリカメラである。ライカはM3をそのまま一眼レフカメラのLEICAFLEX(初代)に移し替えなかった。ファインダーの像が空中空像式であることはM3からでている発想だ。一眼レフ二代目のLEICAFLEX SLは初代と同じボディーである。M3の巻き上げリボンなどは流用されていてもM3の手ごろな大きさがLEICAFLEX(初代)、LEICAFLEX SL、LEICAFLEX SL2では巨大化した。構造が違うが後継機のLEICA R3は大きなボディーサイズである。LEICA R4から手に収まる小さなサイズになる。LEICA R4でLEICAはM3の大きさに戻る。バルナック型ライカの小さなボディーサイズはデジタルカメラ時代になって実現される。
写真を撮影するためのレンズの良し悪しについては私にはわからない。文章を読んでみるものの実感としては捉えられない。露光の良し悪しについては見ればわかる。その程度のことしかわからない。
写真を撮る道具としてはLEICAFLEX SLが手に馴染んで使いよい。TTL測光方式を採用していることなど様ざまな要素があるがマニュアル測光方式のための操作部はシャッタースピードを設定するダイヤルだけがある。巻き戻し部にはフィルム感度設定のダイヤルが組み込まれている。存在を意識させないようダイヤル周りに数値が刻んである。ボディー前面にセルフタイマーレバー、絞り込みボタン、レンズ脱着ボタンが付いている。フラッシュの接点金具もボディー前面に配置。裏ブタの開閉はストッパーの丸いぼっちを押して止め金具を上にスライドさせる。バルナック型ライカ、M型ライカまでのフィルム着脱方式がLEICAFLEX(初代)になって単純な裏蓋開閉方式になった。エルンスト・ライツはフィルム押さえとその平滑性、裏蓋の剛性にこだわった。LEICAFLEX(初代)、LEICAFLEX SL、LEICAFLEX SL2のボディー背面が円弧であること、裏蓋もボディー背面に対をなして円弧であることはボディーと裏蓋の大きな剛性につながっている。35㎜フィルムではもっとも強靭な裏蓋である。初代LEICAFLEXにあったミラーアップ装置は以後にはなくなった。端末がフィルム面に伸びている広角レンズのためにミラーを上に跳ね上げていた。レンズ端を短くした新しいのができたのでミラーアップしないで撮影できるようになった。ミラーアップレバーは絞り込みボタンに変わった。
カメラの上面を軍艦部と呼ぶ習わしになっている。LEICAFLEXほど簡素な軍艦部はない。LEICAFLEX(初代)ではプリズム部分に外部測光用の窓と電池室が配置されていてこれがアクセントにになっていた。LEICAFLEX SL、LEICAFLEX SL2ではこれがなくなった。カメラ前面のオデコの部分がのっぺりしてしまう。そこで長方形の横板を渡したうえで黒い革を八巻状に添えて調和をとった。R3以降ではLeitzあるいはLeicaの名を赤い丸に白抜きで入れた板を貼るようになった。
初代LEICAFLEXのボディーの質量は820グラムである。LEICAFLEX SL、LEICAFLEX SL2は770グラム。ボディーの寸法は幅148×高さ97×奥行57mmでLEICAFLEXはみな同じだ。
ニコンFは1959年に発売された。LEICAFLEX(初代)は1965年に登場する。6年遅れであるが35㎜一眼レフカメラ市場の主役にはなれなかった。ニコンの3倍という値段の高さとともに、レンズなどを含めたシステムカメラとして体制をとれなかったためである。
一眼レフ二代目のLEICAFLEX SLはTTL測光方式であり、手にした時のフィット感が抜群であることなどからニコンFあるいはニコンF2に匹敵するカメラである。ボディーと質量の大きさはライバルのニコンを利することになる。ニコンFおよびニコンF2にしても携行性はよくはない。ライカM3と同等のボディーサイズを実現したオリンパスOM-1はその後の一眼レフカメラの小型化の先駆けになり、ニコンFやLEICAFLEXに対して有利性をもつことになる。一眼レフカメラは自動焦点方式の進展で大きく重くなる。これは技術上の制約によるものでフィルムカメラ末期ではキャノンEOS・kissなどで大きく重いから脱却する。
写真を撮る道具としてのカメラは携行性を含めた使い勝手ということで手ごろな大きさと重さがある。LEICAFLEX(初代)LEICAFLEX SL、LEICAFLEX SL2は大き過ぎ、重過ぎる。LEICA R3も同じだ。LEICA R4が登場するころには自動焦点カメラの時代になっていた。いつからかLEICAは一周遅れでカメラ市場に存在するようになっていた。
LEICAFLEX SLは大きく重いが手に馴染む形状は絶品である。ファインダーは青みを帯びるが眩しい光を適度にいなしている。線を交差させてピントをみる方式ではないが明るくてよい。焦点リングを行ったり来たりさせるために時間がかかるがこれはカメラの性質だと割り切る。シャッター速度を先に設定して絞り操作で定点合わせをして露光する。シャッターを切ったときに絞りボタンに中指がかかっていると跳ね返りがあって驚くがこれは握り方の慣れで対処する。
握ったときに角張った感じがないのはその後にでたLEICA R3にはるかに勝る。LEICAFLEX SLのファインダーは優れている。芸術の領域にあるのがLEICAFLEX SLのファインダーである。エルンスト・ライツがLEICA M3で実現した究極の距離計連動式カメラのファインダーの意地と誇りをLEICAFLEX SLに注いだのだ。エルンスト・ライツでなければつくれない優れたファインダーである。
LEICAは日本のカメラメーカーが一眼レフをつくるようになる前に似た構造の写真撮影機材を用意していた39mm径スクリューマウントのバルナックライカ時代にもM型バイヨネットマウントのM3の時代にもビゾフレックスが供給されていた。長超焦点レンズを付けて望遠撮影をする。ビゾフレックスで接写もできる。写真撮影の用途の全てに対応していた。
ニコンFは東京オリンピックで活躍した。望遠レンズを取り付けたニコンFという一眼レフカメラはトラック競技やフィールド競技を撮影するのに便利だった。同じ機能を持っているライカのビゾレックスでは到底及ばない速射性を望遠レンズを取り付けたニコンFはやってのけたのである。東京オリンピックにおける報道カメラとしてのニコンFの活躍がその後の一眼レフカメラの隆盛を決定づけた。
LEICAFLEX(初代)は東京オリンピックの翌年の1965年に登場した。M型ライカにできないことをするためにLEICAFLEX(初代)を発売した。エルンスト・ライツはM型ライカの成功に影響されて一眼レフカメラに距離計連動の方式を残存させた。それがLEICAFLEX(初代)が中央部だけで焦点合わせをする方式となった。マット面がない空中像方式だった。構造上LEICAFLEX(初代)は絞り込みボタンを付けておらず、被写界深度の確認できない。一眼レフカメラに特有の被写界深度確認機能がないことはエルンスト・ライツのM型ライカの成功の残像である。ライカフレックス(LEICAFLEX(初代))の前期型はフイルムカウンター窓が扇形であったが、後期型は丸形になり、その丸形は後継機に引き継がれる。
一眼レフカメラに備えられたライカの露光計は独特である。それは写真撮影文化ともいえる領域のものでスポット測光方式を採用していたのを手始めに、適正値の表示にあわせて撮影すると撮影シーンによってはなるほどと思わせる露光をする。アンダー気味に測光することで写真のできばえをよくする。ニコンなどは多分割測光と演算処理によってシーンに合わせた露光をさせる手法を用いるようになったが、ライカは同じ結果をもたらす露光をさせていた。
M型ライカのM3の後継機であるライカM5が登場したのが1971年である。この時代の一眼レフライカはLEICAFLEX SL(ライカフレックスSL)である。手にしたときの大きさと重さの感覚がライカM5とライカフレックスSLは似ている。バルナック型ライカの小ささとライカM5及びライカフレックスSLの大きさの対比をカメラつくりの思想としてどのように受け止めるのか戸惑う。ライカM5とライカフレックスSLは私の好きなカメラである。ただし大きく重いということで山には持って行きたくい。とくにライカフレックスSLはそうである。あえてということになればレンズは50mmのズミクロン一本ということになる。
望遠レンズを使い、広角レンズを使い撮りたいものを撮りたいだけバチバチと撮っておいて、後で使える画像を探すというのがデジタルカメラ時代の撮影方法になっている。露光と焦点は自動であるからファインダーを覗かないで撮影することがある。webで使う写真はデジタルカメラで撮影する。
カメラを操作することを楽しむこと、一枚の写真を思い出とともに残すことを目的に撮影するために使うカメラがあっていい。趣味と趣向の世界に属することである。フィルムカメラ時代のライカは人を引き付ける。ファインダーを覗き、構図をとって、シャッターボタンを押す。ミラーが上下して布幕のシャッターが右から左に走るのと同時にミラーが上下する。その感触、その動作音と余韻は官能を呼び起こす。ワンショットごとに感動する。その官能と幸せ感はエルンスト・ライツがLEICAFLEX SLにして、その大きさ、その質量によって実現しえた。文化遺産のようなそうしたものが残されていて現に使うことができることは有り難い。
50mmのズミクロンをキャノンのフルサイズデジタル一眼に取り付けて使う。キャノンのデジタル一眼カメラは大きな開口部と短いフランジバック(レンズマウントのマウント面から、フィルムもしくは撮像素子までの距離)のためにアダプターを取り付けて別のレンズを使うことができる。私のライカレンズはズミクロン一本だけである。そのズミクロンをフィルムカメラの写りに似せた絵作りをするキャノンのフルサイズ・デジタル一眼レフカメラ、EOS-5Dに装着して使う。オールドライカレンズを持ち出してゆっくりとじっくりと写真を撮ってwebなどにアップして楽しむ使い方ができるようになった。写真撮影はフィルム感度ASA100なら晴れた日にはシャッター速度250分の1秒で絞り11。難しく考えないでシャッターボタンを押せば写真ができあがる。
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思い出を記録する道具としてのカメラ ニコンFとライカフレックスSLのことなど 執筆 旅行家 甲斐鐵太郞
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私と上高地-その3-上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
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横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた
夕暮れどきの高山市古い町並み2018年6月23日、18:06:44
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6月に晴れる 小さなリゾート地相模湖で憩う
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夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時
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近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり
特別な位置にいる投手としての大谷翔平
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奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった
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金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。
東京の桜は散って新緑の季節になりました
武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)
北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)
陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう
埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎
数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
(インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道)
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
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(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)
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