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計測はモノをみる目である 計測からみた原子力事故と地球環境
放射線と健康被害
原発被害が及ぼす社会影響とどのように向き合うか

放射線と健康被害 原発被害が及ぼす社会影響とどのように向き合うか
(計測はモノをみる目である 計測からみた原子力事故と地球環境)

放射線と健康被害 原発被害が及ぼす社会影響とどのように向き合うか
(計測はモノをみる目である 計測からみた原子力事故と地球環境)

放射線の単位であるシーベルトとベクレルとグレイの関係
原子力発電と福島第一原発事故がもたらしている被害の現実
原子力発電と福島第一原発事故がもたらしている被害の現実-その2-
東京電力が福島第二原子力発電所の廃炉を決定
日本の原子力発電所の現状-その1-
福島原子力発電所事故と放射性物質そして放射線測定

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放射線と健康被害 原発被害が及ぼす社会影響とどのように向き合うか


写真は霧ヶ峰高原のダケカンバの新緑。5月19日撮影。

(タイトル)
放射線と健康被害 原発被害が及ぼす社会影響とどのように向き合うか
(計測はモノをみる目である 計測からみた原子力事故と地球環境)

(本文)

第一話 臓器吸収線量が2グレイの場合は、皮膚がんの過剰相対リスクが1.5となる。

 放射線を被曝すると遺伝子に傷がつくことによってガンが発生するリスクが高まる。臓器吸収線量が2グレイの場合は、皮膚がんの過剰相対リスクが1.5となる。放射線を受けなかった集団と比べて1.5倍のリスクが過剰に発症しているる。2グレイ被ばくした集団では皮膚がんの発症リスクは、放射線を受けていない集団(1倍)の2.5倍(1+1.5)になる。疫学研究の結果は乳腺、皮膚、結腸等は、放射線によってがんが出やすい組織・臓器であることを示す。これは環境省が発表している原爆被爆者を対象にした研究の結果である。

 広島と長崎の原爆による放射線被曝と福島第一原子力発電所の原子炉事故による現地の汚染とその後の状況は単純に比較できないが、現在のままで第一原発近くに戻って住むとなると広島と長崎の放射線被曝をはるかに多くなる。原子炉からの放射線物質の漏洩はつづいていて、汚染水は蓄蔵の限界を超えるからいずれ海洋投棄となり、原発も燃料棒などをすべて回収することはできないので、厚いコンクリートで覆わざるをえない。

 福島第一原子力発電所の原子炉事故は非常に大きな事故であり被害はこの後もつづく。人への被曝影響では米国の原子力空母の乗組員に白血病ほかの病状がでていて、このことを小泉純一郎元総理が確かめている。原発から放出された4.7kgほどの放射線物質は偏西風にのって太平洋に飛散した。日本の国土に落下したのはそのうちの750gほどなのだが、毒性の強い放射性物質は原発周辺を汚染して人がまともに暮らすことができない土地にした。

 日本政府がIAEAに行った報告では福島第一原子力発電所事故によって大気中に放出されたセシウム137の放射能量は、1.5×10の16乗ベクレルである。このほとんどが偏西風にのって太平洋に流れていった。日本の陸地に降り注いだのは金沢星稜女子短期大学部にいた沢野伸浩氏の計算では2.4×10の15乗ベクレルである。これを質量に換算すると大気中に放出されたセシウム137は4.7キログラムであり、日本の陸地に降り注いだセシウム137は750グラム(0.75キログラム)である。750グラム(0.75キログラム)のセシウム137がばらまかれたならば広大な地域を放射線管理区域にしなければならなかった。これほどにセシウム137は毒性が強い放射能なのだ。

 20ミリシーベルトという年間被曝量は放射線従事者に限定して法的制限をかけていた値である。現地に暮らす、あるいは30kmを越える周辺地域で暮らすときに20ミリシーベルト以下の年間被曝量を設けることによって「安全地帯」の範囲を広げてしまった。京都大学原子炉実験所に勤務していた小出裕章元助教や今中哲二元助教などは原子炉施設から外部にでるときに身体に放射線が付着していれば皮膚をこそぎ落として基準値以下にした。

 放射線を浴びることによる健康被害への知識をもつことの大事さは語るまでもない。その放射線被曝に関連して人の心の健康被害が懸念される。今中哲二元助教は東京で暮らしている娘と孫のことについてふれて「なんとしても、またなんとか東京で生き延びてほしい」と事故発生直後に語っていた。事故直後の放射線の飛散と行方はそれほどまでに危惧されたのであった。

 環境省は「放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料」(平成28年度版)の最終章の第10章に「こころの健康度・生活習慣に関する調査」報告を掲載している。京都大学原子炉実験所に勤務していた小出裕章元助教や今中哲二元助教などは原発周辺地域の現在の放射線量を考慮すると現地に戻って暮らすことを推奨することはできない、と述べている。その後の放射線量のことと被爆のことを推計すると人が住むのに適さないとも述べる。決めるのは政府の政策と関連して住民がすることであるとの前提の上である。

 被爆被害と心の問題は難しく、また場合によっては深刻である。放射線被曝の知識集めれば集めるほどに放射線が人の健康と暮らしに与える影響は抜き差しならないことを知る。原発直近の元住民の若い世代は現地には戻らないと決めている人が多い。子供への健康影響を考慮すると戻れないのである。子供を育て暮らしていくための収入を現地に求めることができない。

 放射線被曝と健康への影響のことを調べると膀胱ガンや肺がんは発生の頻度が高い。こうした数値を聞くとガンができたのは福島第一原子力発電所事故による放射線被害であると結論づける人がいる。放射線被曝による心的シンドローム(症候群)が大量発生している。

第二話 放射線被曝心的シンドローム(症候群)


 放射線被曝心的シンドローム(症候群)は現地元住民、放射線汚染の多い福島県在住者に多い。遠隔地の人にも放射線被曝心的シンドローム(症候群)が発生している。こちらは別な心的ストレスや心的障害が放射線被曝心的シンドロームに転化したと推定されるものもある。

 大阪市に住み京都市のある大学の大学院に通う女性である。この人は実際には心の病の抜け口が放射線被曝心的シンドロームであった。原発事故後に体調が変化でした。今までにない体調の異変を感じるようになった。食べ物をすべて西日本のものにすると一カ月もしないうちにそれまで感じていた体調異変の全てがに消えた。

 体調異変を感じるようになったころにインターネットで放射線による内部被曝のことを知る。福島第一原子力発電所事故による放射線汚染とチェルノブイリなどの資料に触れるうちに「原発事故後に放射能汚染された食べ物から内部被爆をしていて、それが原因で体調不良が起こったのだと結論を出した」。どれだけの線量をどこに受けるとがんのリスクが増加するかなどを「理解」したのだという。結論は日本から出ることである。どんなに金銭的に苦しい日々が続いても自分の学術的・知的技術を駆使して出した結論を絶対のものとして「自分がこんな苦労をしてまでもここにいるという選択は絶対に正しい」と決めて踏ん張る。

 海外ではいつの間にか白系の外人と暮らすようになるがその人が心に起因する薬物依存であったのは因果応報というと皮肉すぎる。

 日本でも東京への放射線の影響を恐れて熊本へ移り住んだ子連れの若い夫婦がいた。熊本ではその後に大きな地震が起きた。九州には原発が多く稼働もしている。地価には地震原因の断層があり危険地帯である。福島第一原子力発電所事故で飛び散った放射線は海洋の飛散して海を渡って米国西海岸に向かっている。やがて大きな汚染をもたらす。人には逃げる場所がない。

第三話 「20ミリシーベルト」を被爆汚染地域に用いる危険

「20ミリシーベルト」と幻の安全・安心論

 「被曝影響と甲状腺がん「20ミリシーベルト」と幻の安全・安心論 今中哲二 いまなか てつじ 京都大学原子炉実験所」という文章がある。

 内容は次のようなものだ。

 この3月末に飯舘村の大部分や川俣町山木屋 地区など福島第一原発周辺の汚染地域で避難指示 が解除された。私は避難指示解除に反対ではない。

 この6年,飯舘村などの放射能汚染調査に関わってきたが,仮設住宅で窮屈な生活を続けているお年寄りをみて,「帰りたい人は早く戻してあげたらいいのに」と私は思ってきた。もちろん,買い物や医療といったインフラのサービスを行政が提供するという条件の下での話であるが。

 いまの避難指示解除の問題点は,避難生活を支えてきた補償を打ち切ったり学校を元の村で再開したりして,戻りたくない人まで無理矢理に戻そうとする政策にある。避難指示の対象でない地域からの自主避難者も,避難先での家賃補助を打ち切られたそうだ。

 チェルノブイリの避難地域では,勝手に元の家に戻った人は,「サマショール(勝手な 人々)」と呼ばれているが,福島では反対に,戻りたくない人が「わがままな人々」になりつつあるらしい。

 福島に行くと地元の人から,環境省や自治体が「年20ミリシーベルト(mSv)以下は安全・安心で す」というキャンペーンを行っていると聞かされてきた。汚染調査をした後には地元で説明会を行い,「1mSvは1mSvなりに,20mSvは20mSvなりの被曝リスクがあります」と言っている私としては,誰がどんな根拠で20mSv安全・安心キ ャンペーンをしているのか整理して問題点を指摘しようと思って調べはじめた。ところが,ネットで検索する限りではそのような安全・安心キャンペーンは見つからなかった。

 避難指示を解除する根拠を辿ると,ICRP (国際放射線防護委員会)が言っている「現存被曝状況」に行き着く。しかし,ICRPとて「現存被曝状況なら安全・安心です」と言っているわけではない。放射能汚染 が起きてしまったら(仕方がないので),年20mSv以下であれば,行政がどこかに低減目標値を設定して,人々が被曝をガマンしながら生活することもあり得るというのが「現存被曝状況」である。

 実は,恥ずかしながら,2011年に福島原発事故が起きるまで私も,ICRPが2007年勧告で「現存被曝状況」という被曝区分を設定していることを知らなかった。放射線・放射能による被害 と被曝基準の歴史とともに,ICRPが「現存被曝状況」に至るまでを振り返りながら,“20mSv安 全・安心キャンペーン”の由来を探ってみた。

放射線障害のはじ まりからICRPの発 足と変遷

 1895年にレントゲ ンがX線を発見してから120年余りになるが,この間の歴史は,人類に放射線障害がもたらされた歴史でもあった。X線の発見にまず着目したのは医療関係者だった。身体の中が透けて見えるという話だから,とんでもないインパクトだったであろう。正体不明なままX線は,その透視能力から骨折や病気の診断,さらにガンの治療といったことに応用されはじめた。

 その結果,X線の濫用は,最初は患者の皮膚炎,次には,医療従事者の皮膚炎,皮膚がんとして現れ,多くの犠牲者を生み出すことになった(1)。一方,放射能(放射性物質)の発見は1896年のベクレルに帰するが,放射能の正体を調べ,ラジウムやポロニウムを発見したマリー・キュリーが,被曝の影響と考えられる再生不良性貧血によって亡くなったことはよく知られている。

 1910年頃から,ラジウムの蛍光作用を用いた夜光時計が使われるようになった。夜光時計の文字盤工は,ラジウム入りの塗料で文字盤を描く際に刷毛の先を舐めながら仕事をしていた。知らず知らずのうちにラジウムを体内に取り込んでしまい,珍しいがんであ る骨がんが5年後くらいから急増をはじめ,多くの若い女性が犠牲になった(2)。

IXRPCの設立

 こうした事情を背景に1928年,X線医療従事者やラジウム取扱者の放射線障害を防ぐため,国際X線およびラジウム防護委員会 (IXRPC)が結成された。IXRPCは1934年,X線作業者の“耐容 線量”として1日あたり0.2レントゲン(約2mSv)を勧告している(3)。

 この勧告は,皮膚に紅斑を生じる被曝量を600レントゲンとし,1カ月あたりその100分の1の6レントゲン以下なら安全としたものだった(1)。人体が耐えられる線量,つまり,この基準を守っていれば放射線障害は起きないという意味で“耐容線量(tolerable dose)”と名付けられた。

 第二次世界大戦では,傷病兵のX線検査の写りをよくする造影剤としてトロトラストが用いられた。トロトラストは,天然放射性物質であるトリウムの酸化物をコロイド状にしたもので,静脈注射によって用いられたが,主に肝臓に蓄積し,数十年後に肝臓がんや白血病を引き起こした。日本の追跡調査では調査対象255人のうち約20% が肝臓がん,約5%が肝硬変で死亡している(4)。

ICRP設立と1950年勧告

 第二次世界大戦後,放射線,放射能の利用の拡大,原子力産業の登場もあって,IXRPCの後身組織である国際放射線防護委員会(ICRP)が1950年に設立された。ICRPは1950年の最初の勧告で,X線作業者に対する被曝基準を,1週間あたり0.5レントゲン(約5mSv)と,それまでの約半分に引き下げ,呼び名は“耐容線量”から“許容線量(permissible dose)”に変更した(5)。この名前の変更は,それまでの“大丈夫で耐えられる線量(tolerable dose)基準”から“安全とは言えないが許されうる線量(permissible dose)基準”に変わったことを意味している。

 ICRPに大きな影響を与えたのは,X線による突然変異誘発実験だった。1927年に米国の生物学者マラーは,ショウジョウバエにX線を照射して劣性致死突然変異を発生させ,それが孫の代に遺伝することを発表した(6)。そして,突然変 異発生率は放射線量に比例し,被曝の効果は不可逆的に蓄積するという線量・効果関係が報告された。

 1950年勧告は,被曝の影響として,貧血や白血病,固形がん,白内障,遺伝的影響をあげ,定量的なリスク評価はないものの,放射線防護の基本スタンスとして「可能な最低レベルまで(to the lowest level)被曝を引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べている。

 ICRP1958年勧告 世界最初の原子力発電所である旧ソ連のオブニ ンスク原発 (黒鉛減速軽水冷却チャンネル炉,5000kW)が運転を始めたのは1954年6月のことで,1956 年10月には英国のコールダーホール原発(黒鉛減 速ガス冷却炉,6万kW),1958年5月には米国のシッピングポート原発(PWR,6万kW)が運転を開始した。

 一方,1949年9月に旧ソビエトが最初の原爆実験を行った後,核軍拡競争が激しくなり,米国は太平洋マーシャル諸島や自国のネバダ実験場で,旧ソ連は現カザフスタン共和国のセミパラチンスク実験場で大気内核実験を繰り返した。日本のマグロ漁船・第五福竜丸が“死の灰”を浴びたのは1954年3月1日の水爆実験だった。

 1955年8月には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。地球規模の放射能汚染を心配する国際世論を背景に,1955年12月の国連総会はUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)の設置を採択した。原子力利用の広まりと地球規模の放射能汚染に対する懸念の中で出されたのがICRP1958年勧告だった(7)。

 職業人の許容線量については,「年齢Nまでの集積線量Dが50×(N-18)mSvを超え ず,かつ3カ月30mSvを超えないこと」とされた。集積線量を週平均で考えると,1週1mSvなので,1950年勧告に比べると5分の1に相当する。

 当時のICRPが最も重視していたのは遺伝的影響で,遺伝的影響の倍加線量は当時,300mSvから800mSv程度と見積もられていた(8)。さらに,公衆に対する許容線量が初めて示され,原子力施設周辺に居住している住民の許容線量は 職業人の10分の1に相当する年間5mSvとされた。

 1950年勧告から1958年勧告になり,許容 線量の数値は厳しくなったものの,ICRPのスタンスに大きな変化があった。つまり,1950年勧 告では「できるだけ低く(to the lowest level)」であったものが1958年勧告では「実際的な範囲で低く(as low as practicable:ALAP)」となった。

 このことは,原子力利用によって新たに加えられる被曝は,「利用から生じる利益を考えると,容認され正当化されてよい」という,リスク・ベネフィットの考え方が放射線防護に持ち込まれたことを意味していた(8)。

 ICRP1965年勧告1965年勧告では,放射線防護の目的を「急性効果を防止し,かつ晩発性効果のリスクを容認できるレベルに制限すること」と明確に述べている(9)。職業人の許容線量は年間50mSvとなった。また,妊娠中の女性に対しては10mSv以下にするよう勧告されている。

 一般公衆については,職業人の10分の1に相当する年間5mSvとされ,一般公衆に対する被曝限度の呼び方は「線量限度(dose limit)」となった。一般公衆の場合,被曝から の直接的利益はないので,「許容線量」というのは不適と判断されたからだった(8)。

 放射線防護のスローガンは,1958年の「実際的な範囲で低く(ALAP)」から,社会的・経済的要因を考慮しながら「容易に達成できる範囲で低く(as low as readily achievable:ALARA)」と変わった。1965年勧告の頃には,低レベル被曝の影響として,広島・長崎の被爆生存者追跡データや妊婦の腹部X線検査についてのデータが報告されるようになり,白血病や固形がんの誘発が懸念されるようになった。

 低線量で閾値があるかどうかの議論は残るが,ICRPとしては直線・しきい値なし(LNT)モデルを採用し,具体的な発がんリスクとして,100万人が10mSvの被曝を受けると約40件の白血病・固形がん死が起きると見積もっている(10)。この値を一般公衆の線量限度である年5mSvに適用すると,1年あたり2×10-5 のがん死率となる。

 ICRP1977年勧告1977年勧告では基準の値は変わらなかったものの,被曝量の単位が,レム(rem,線量当量)からシーベルト(Sv,等価線量)に変わった。1Sv(等価線量)=100rem(線量当量)である (本稿では,1977年勧告以前の remはSvに換算してある)。そして,一般の人には非常に紛らわしい,実効線量という被曝量(単位は同じくSv)が新たに導入された(11)。

 実効線量というのは,身体の部分的な被曝のリスクを全身被曝のリスクに換算するために導入されたもので,臓器iに重みwi(臓器荷重係数,Rwi=1)を割り当て,その臓器の等価線量をHiとすると,全身換算の実効線量Eは,E=Rwi・Hiとなる。

 一見合理的な考え方だが,臓器荷重係数がICRP勧告のたびに変わったりする“いい加減な”被曝単位でもある(たとえば,甲状腺の荷重係数は,1977年0.03,1990年0.05,2007年 0.04と変わっている)。また,職業人の基準値の呼び方も「線量限度」となった。1977年勧告のもうひとつの特徴は,広島・長崎データの蓄積もあって,コスト(リスク)・ベネフィット論が踏み込んで展開されたことである。

 とくにリスクについては,かなり定量化された議論が試みられている。まず職業人の被曝について ICRPは,「放射線作業におけるリスクのレベルが容認できるかどうかを判断する有効な方法は……高い安全水準であると認められている他の職業のリスクと比較するという方法であると委員会は信ずる。高い安全水準の職業とは,職業上の危険による平均年死亡率が10-4 を超えない職業と一般に考えられている」と述べている。

 さらに,「50mSvという年線量当量限度を含めた委員会の勧告が適用されてきた状況では……年線量当量の分布は約5mSvの算術平均をもつ対数正規関数によく合い……リスク係数を上記の平均線量にあてはめると,これら放射線を扱う職業における平均リスクは他の安全な職業における平均リスクと同程度であることがわかる」と述べている。また 1977年勧告に付随する報告(12)では,「すべての作業者がICRPの限度である年50mSvで連続して被曝すれば……致死事故率3.4×10-4/年の職業に相当し,多くの国々での建設業または炭鉱の事故による致死率と同程度である」と述べている。

 公衆の被曝リスクについては,「一般公衆の構成員に関する確率的現象についてのリスクの容認できるレベルは……公共輸送機関の利用に伴うリスクである……この根拠から,年あたり10-6~ 10-5の範囲のリスクは,公衆の個々の構成員のだれにとっても多分容認できるだろう」と述べている。

 広島・長崎データにもとづいて,100万人が10mSvの被曝を受けると100件の白血病・固 形がん死,つまり,10-5/mSvのリスク係数を見込んでいる。公衆に対する線量限度を5mSv/年にすると,公衆平均では0.5mSv/年におさまる。つまり,原子力・放射線の利用にともなう公衆リスクは年間5×10-6 程度であり,だれにとっても 容認可能であろう,というのが一般公衆の線量限度に対する1977年勧告のロジックであった。

 放射線防護のスローガンは,同じALARAでも,「合理的に達成できる範囲で低く(as low as reasonably achievable)」と,容易に(readily)が合理的に(reasonably)に変わり,“社会的・経済的要因を考慮した最適化”が強調されるに至った。

 ICRP1985年パリ声明 ICRPは1985年3月にパリで会合を開いた際,公衆に対する線量限度を年1mSvにするという声明を発表した(13)。その声明では,線量限度引き下げの理由について具体的な言及はされていないが,その頃,広島・長崎の原爆放射線量の見直しや疫学データの蓄積にともなって,被曝にともなうがん死リスクが増大した。

 私が当時,手に入るデータを基に独自にがん死リスクを見積もってみると,ICRP1977勧告の6~16倍になった(14)。年間5mSvという公衆の線量限度にともなうリスクが「だれにとっても容認できるだろう」ともはや言えなくなったことが公衆に対する線量限度引き下げの理由であろうと推察している。

 ICRP1990年勧告職業人の線量限度は,5年間100mSvという条件の下で年50mSv,つまり年平均20mSvとなった(15)。公衆に対する線量限度は,パリ声明が採用され年1mSvとなった。1mSvあたりのがん死リスクは5×10-5で,1977年勧告のときの5倍に見込まれている。

 ただし,この値は,原爆による被曝は短時間の高線量被曝なので,低線量・低線量率被曝の場合は発がん効果が小さくなり,がん死リスクは広島・長崎データの半分になるとして得られている。そして,1990年勧告の付属文書では,生まれたときから年1mSvの被曝が続くと生涯の積算がん死率は0.4%になると見積もっている。

 250人にひとりががん死するような基準では“だれにとっても容認できるだろう”とは とても言えなくなったこともあってか,「公衆の 構成員に対する適切な線量限度を選定することは難しい……読者はリスク情報のみによって早まった結論を導かないように注意されたい」とICRP は述べている。日本のいまの法令基準の基になっているのは,この1990年勧告である。

 ICRP2007年勧告 ICRPのクラーク委員長は1999年,放射線防 護の仕組みが複雑になりすぎたので,放射線作業や医療被曝を合算し,シンプルな基準にして一般の人にわかりやすくしようという提案を行った(16)。しかし,8年後に発表されたICRP2007年勧告の中身は,基本的な基準値は変わらないまま,1990年勧告に比べてむしろ複雑になった(17)。

 2007年勧告では,チェルノブイリのような原子力事故に対応するため「緊急時被曝状況」と「現存被曝状況」という考え方が新たに導入された。

 緊急時被曝状況とは,原発事故によって住民の避難が必要とされるような場合,20~100mSvの間を目安に予測線量がそれ以上であれば行政当局がしかるべき対策をとるべき指標値(参考レベル)を設定するとされた。

 現存被曝状況とは,原発事故によって大規模放射能汚染がおきてしまったような 場合で,汚染地域で生活することもやむを得ないと判断されるようなときは,年間1~20mSvの範囲を目安に指標値(参考レベル)を設定し,そこで生活する人の被曝がそれ以下になるよう努力するという状況である。

 一方,これまでの一般公衆の線量限度である年1mSvは「計画被曝状況」,つまり事故が起きていない場合の被曝に対するもので,汚染が起きてしまった後の被曝には適用されない。

 参考レベルを設定する境目として,1mSv,20mSv,100mSvを選んだ理由については述べられていないが,1mSvというのは公衆に対する年線量限度,20mSvというのは職業人に対する平均年線量限度の値に対応している。

 100mSvについては,2007年勧告に「約100mGy(低LET放 射線又は高LET放射線)までの吸収線量域では,どの組織も臨床的に意味のある機能障害を示すとは判断されない」という記述があり,確定的影響(急性 障害)を防ぐ境目として選ばれたようだ。

 もう一つ,ICRP2007年勧告での重要な変更は,がん死率やがん死数といった具体的な数字で用いるリスク評価の放棄である。従来,ある集団が被 曝を受けた場合には,個人の被曝量の総和である集団被曝線量でもって,集団全体のリスクを評価するのが常道であった。

 たとえば,100万人が10mSvの被曝を受けると,集団被曝線量は100万人×10mSv=1000万人・mSv=1万人・Svとなる。2007年勧告で採用されているがん死リスク係数は1Svあたり0.055なので,この場合のがん死数は,(1万人・Sv)×(0.055/Sv)=550件となる。

 ところが,2007年勧告は,「低線量における 健康影響が不確実であることから,非常に長期間にわたり多数の人が受けたごく小さい線量に関係するかも知れないがん又は遺伝性疾患について仮想的な症例数を計算することは適切でないと判断する」と述べ,集団被曝線量にもとづく議論はしないよう警告するに至った。

 以上,IXRPCから始まって100年近くの ICRPの歴史を眺めてみると,今の時代のICRP の役割がすけて見えてくる。当初は,X線を扱う医師・技師の被曝障害を防ぐための基準を勧告する同業者団体であった。第二次世界大戦後に,放射線,原子力の利用が拡がると,それぞれの国で放射線防護の法令基準を制定することが必要となり,専門家集団による勧告として,ICRP勧告が世界中で尊重されるようになった。

 1950年代まではもっぱら職業人の被曝を問題にしていたが,原子力発電の拡大にともなって,一般公衆の防護基準も勧告に含まれるようになった。役割の拡大にともなって,ICRPのスタンスも「できるだけ低く(to the lowest level)」から「合理的に達成できる範囲で低く(ALARA)」へと変わってきた。

 つまり,ICRPは,学術的な判断にもとづいて防護基準を勧告する団体から,社会的・経済的な要因を重視しながら防護基準を勧告する団体に変わってきた。1977年勧告の頃には,コスト(リスク)・ベネフィット論をベースにして,防護基準を正当化しようと試みていたが,原子力発電の場合,ベネフィットを享受する側とリスクを蒙る側が異なっている こと,そしてリスクそのものの見積りが時代とともに大きくなってしまったことで,リスク・ベネフィット論にもとづく基準の正当化は破綻に至った。

 一般公衆に対する線量限度の被曝がもたらすリスクの大きさが「だれにとっても容認できるだろう」とは言えなくなってしまったので,集団被曝線量を用いたリスク評価を放棄したこともそのあらわれである。

 1986年のチェルノブイリ原発事故は,広大な地域において人工的な放射能汚染による被曝が公衆の線量限度である年間1mSvを超えるという,あってはならない事態をもたらすに至った。

 そこでICRPが発案したのが「現存被曝状況」という考え方だった。起きてしまった放射能汚染は仕方がないので,社会的・経済的な観点を重視し,「この程度なら住民はがまんしましょう」という範囲として行政や原子力産業に救済案を示したのが「現存被曝状況」という区分であった。

福島第一原発事故と緊急時被曝状況

 2011 年 3 月 11 日,地震・津波をきっかけとして福島第一原発事故がはじまった。同日19時3分に菅首相が原子力緊急事態を宣言し,首相官邸に原子力災害対策本部,現地大熊町のオフサイトセンターに現地対策本部が設置された。当時の日本の原子力防災計画は,1999年におきた東海村JCO臨界事故を契機に制定された原子力災害対策特別措置法にもとづくもので,原発から10kmまでを対象としていた。

 首相官邸の災害対策本部は,11日21時23分に周辺3km圏の避難を指示,さらに12日5時44分に10km圏,12日18時 25分に20km圏と避難指示が拡大された。3km 圏の避難指示は1号機ベントにともなう放射能放出に備えたもの,10km圏はベントがうまくいかず1号機格納容器が破壊された場合に備えたもの,20km圏は1号機が水素爆発したので2 機や3号機の爆発に備えたものだったと説明されている(18)。これらの避難指示は,予めの計画に従ったというより,官邸に詰めていた班目原子力安全委員長や首相側近のいわばヤマ勘で決められたものだった。

 防災マニュアルによると,オフサイトセンターの現地対策本部にはしかるべき関係機関の代表が集まって,情報を収集分析したり避難の手配を行ったりする司令部となるはずだった。しかし,地震・津波にともなう混乱もあり,現地対策本部はほとんど機能しないまま事態が進んだ。12日朝,現地対策本部のスタッフが 10km圏の避難指示をテレビで知って驚いた,というのが当時の状況を象徴している。放射線量が高くなった3月15日,現地対策本部は60km離れた福島市へ撤退した。

 「福島がチェルノブイリのようになってしまった」と私が実感したのは,3月15日午前11時の記者会見で,当時の菅首相と枝野官房長官が「2 号機の格納容器が破壊され,4号機でも火災が起きました」と発表したときだった。ところが,福島第一原発周辺で大変な汚染が生じているはずなのに,汚染に関する具体的な情報はほとんど発表されなかった。

 広島・長崎の残留放射能問題やチェルノブイリ事故直後のことを調べてきた私は,「事故直後のデータをキチンと押さえておかないと,事実そのものがなかったことになってしまう」という危惧をもっていた。

 「とにかく自分た ちで調べておかなくては」ということで私たちが飯舘村の汚染調査に入ったのは3月28日と29日のことだった(19)。村役場の方の案内で飯舘村を回ってみると,それまで40年近く放射線作業に従事してきた私の経験からして信じがたいくらいの放射能汚染が飯舘村全域に拡がっていた。そうした汚染の中で,村の人たちが普通の生活を続けているのを見て,私たちは呆然とした。今から思うに,政府自体がどう対応したらよいのかわからず,大混乱になっていたようだ。私は,事故を起こした福島第一原発の3つの原子炉と同じく,日本の原子力防災システムもメルトダウンしてしまっていたと思っている。

 政府が気を取り直して,それなりの対応をとりはじめたと思われたのは4月に入ってからだった。法令には組み込まれていなかったICRPの「緊急時被曝状況」と「現存被曝状況」という考え方が汚染対応の基本として導入され,年間20 mSvを超える恐れのある飯舘村など20km以上の汚染地域が,緊急時被曝状況の区分に従って「計画的避難区域」に指定された。

 首相官邸,原子力安全・保安院,原子力安全委員会がバラバラになっていたと思われる状況下で避難指示の見直しがどのように決められたのか,私にはよくわからなかったが,当時の福山官房副長官によると,政府機関以外の専門家が集まった独立チームを首相官邸内に発足させて見直し案を作ったそうだ(20)。

避難指示解除と 現存被曝状況

 最初に述べたように,飯舘村の大部分などで2017年3月末に避難指示が解除された。手続き的なことをまず確認しておく。

 飯舘村については,昨年6 月17日付けで原子力災害対策本部長から飯舘村村長宛に,原子力災害特別措置法にもとづき「避 難指示解除の要件を満たすので,平成29年3月 31日午前0時でもって避難指示を解除するように」という指示が出されている(21)。

 避難指示解除の要件とは,次の3つである。
1、年間被曝量が20mSv以下になることが確実であること。
2、電気,ガス,水道等のインフラや医療,介護といったサービスが復旧し,生活環境の除染作業が十分に進捗すること。
3、県,市町村,住民との十分な協議。

 原子力災害特別措置法というのは,災害対策基本法に従属している法律であり,「避難指示」にしろ「避難指示解除」にしろ,決定するのは市町村長の権限である。飯舘村のホームページでは,飯舘村長の判断を文書としては確認できなかったが,災害対策本部長の指示に従って避難指示解除 がなされた。

 一方,災害対策本部長の指示文書にある避難指示解除の要件についてトレースバックすると,まず2013(平成25)年11月20日付け原子力規制委員会の「帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方(線量水準に応じた防護措置の具体化のために)」に行き当たる。

 
この文書では以下のように記述している(22)。

 「避難指示区域への住民の帰還にあたっては,当該地域の空間線量率から推定される年間積 算線量が20mSvを下回ることは,必須の条件に過ぎず,同時に,ICRPにおける現存被ばく状況の放射線防護の考え方を踏まえ,以下について,国が責任をもって取組むことが必要である。
⿠長期目標として,帰還後に個人が受ける追加被ばく線量が年間1mSv以下になるよう目指すこと。
⿠避難指示の解除後,住民の被ばく線量を低減し,住民の健康を確保し,放射線に対す る不安に可能な限り応える対策をきめ細かに示すこと」。

 また,原発事故が起きた年の11~12月に,当時の細野環境大臣の肝いりで開催され,年間20mSvをオーソライズしたとされる「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の報告書を改めて読んでみた(23)。

 こちらの文書も,「年間20mSv以下の地域においても,政策として被ばく線量をさらに低減する努力が必要である。なかでも,放射線影響の感受性の高い子ども,特に放射線の影響に対する親の懸念が大きい乳幼児については,放射線防護のための対策を優先する こととし,きめ細かな防護措置を行うことが必要である」,「目標である年間1mSvは,原状回復を実施する立場から,これを目指して対策を講じていくべきである」と述べている。以上から,当局側の公式見解としてわかるのは,

⿠年20mSvを下回ることになった地域は,ICRP勧告の現存被ばく状況とみなし,避難 指示を解除する。

⿠現存被ばく状況の参考レベル(指標線量)としては,ICRPが示している年1~20mSvの範囲のうち最も低い年1mSvを採用し,汚染対 策を行うということである。結論として,「年20mSv以下なら安全・安心です」という見解を述べた文書は行政関連のホー ムページのどこにも見あたらなかった。

「20mSv以下は安 全・安心です」の正体は?

 私はこの数年間,飯舘村へ行く度にとんでもない規模で行われている除染作業と際限なく増えていくフレコンバッグの山を眺めながら「20mSv以下は安全・安心ですと言っているのに,なぜそんなにお金をかけて除染するの?」と機会があったら環境省のお役人に聞いてみたいと思っていた。

 ところが,今回調べたように,彼らは「20mSv以下は安全・安心です」とは表向きには言っていなかった。では,私を含め,福島の地元の方々は“20mSv安全・安心キャンペーン”が行われているとなぜ思い込んだのだろうか。

 
低線量被曝の影響について当局側が示している見解は,以下の3点に集約できそうである。

(1)100mSv以下で被曝の影響は観察されていない福島原発事故が起きて私が驚いたことのひとつは,いろいろな先生方がテレビに出てきたりして,「100mSvまでの被曝は影響ありません」とか「100mSv以下では健康影響は観察されていません」といった発言をし始めたことだった。このことについては,すでに本誌に拙文(24)を掲載してもらったし,岡山大学の津田氏も何度も論考25~28を寄せている。最近は,先生方も役人も「100mSvまで影響はありません」とは言わなくなったが,「100mSv以下で影響は観察されていません」は,いまでも当局サイドによる放射能汚染や被曝に関する説明会での枕コトバになっている。

(2)100mSvの被曝リスクはあったとしても大したことはない ICRPに従うと,100mSvの被曝でがん死が 0.5%ふえるが,当局側のパンフレットでは,その大きさは,野菜不足や受動喫煙のリスクと同じ程度と紹介されている(29)。日本人は被曝がなくても約30%ががんで死亡しており,20mSvくらいの被曝は大したことないと思わせたいようだ。個人リスクに触れることはあっても集団リスクの議論はしない。集団リスクで考えると,1万人が100mSvの被曝を受けると50件のがん死になる。

(3)1mSvの被曝にもリスクがあるというのは,安全側に考えた仮説に過ぎない ICRPは,被曝影響の大きさは被曝量に比例するという「直線・しきい値なし(LNT)モデル」を 採用しているが,LNTモデルは放射線防護のために安全側に仮定したものであり,科学的には認められておらず,不確かなものだと思わせる。

 上記の見解を真に受けてはまってしまったのが, 昨年2月の丸川前環境大臣による「年1mSvの基準に科学的根拠はない」という失言だった。

 上記(1)~(3)のレクチャーを受けた新米の大臣がそう思い込んだのは無理もなかったが,批判を受けて発言の撤回に追い込まれた。20mSv安全・安心キャンペーンは,推進側であっても「20mSv以下は安全・安心です」と明確に発言してはならず,それでもってみんなに何となくそのように思わせる,幻のようなキャンペーンと言っていいであろう。つまり,キャンペーンを真に受けても,誰もサポートしてはくれない。

 
幻のような キャンペーン

 福島の人たちが言っている「20mSv以下なら安全・安心です」というキャンペ ーンについて,その由来と根拠を調べてみた。由来については,ICRP2007年勧告の現存被曝状況という区分に辿り着くものの,20mSv以下は安全・安心ですとICRPは言ってはいない。

 中身については誰も責任をもたない幻のようなキャンペーンだった。 最近の福島では,放射能や被曝について発言しにくくなっているとも聞かされている。汚染や被曝のことに触れると,「風評被害をあおる」とか「復興の妨げになる」ということらしい。

 実は,2013~2014年にかけて私たちのグループは「飯舘村の初期被曝評価研究」というテーマで環境省からの受託研究を行った。その成果報告会に先だって,私は環境省の役人に呼ばれて,「今中先生,こんな報告はリスクコミュニケーションの妨げになります」というご注意を受けた。飯舘村の集団初期外部被曝量42.7人・Svをもとに,2件から 17件と予測されるがん死数を見積もっていたのがお気に召さなかったようだ。

 
結局,被曝量評価は環境省の受託研究結果で,がん死見積りは研究者としての個人的見解と切り分けることで折り合った(30)。

 福島原発事故が起きて以来,汚染地域住民と専門家とのリスクコミュニケーションが大事であると繰り返されている(31)。環境省担当者の指摘のお陰で,私もリスコミというものについていくらか勉強してみた。

 その結果,リスクコミュニケーションとは,関係者がひとつのテーブルに会して,専門家・素人に関係なくフランクに意見交換しあい相互理解を深めながら,みんなが納得できるところを探してみる合意形成法と理解している。放射線と被曝リスクについてキチンとした議論をせずに「20mSv以下は安全・安心です」と思い込ませる当局サイドのやり方は,“リスコミではなくスリコミだ”と言われても仕方がないだろう。

文献 1―舘野之男: 放射線と人間,岩波新書(1974) 2―C. W. Mays: Alpha-particle-induced cancer in humans, Health Physics, 55, 637-652 (1988) 3―IXRPC 1934 Recommendation: http://journals.sagepub.com/ doi/pdf/10.1016/S0074-27402880011-0 4―松岡理: 放射性物質の人体摂取障害の記録,日刊工業新聞社 (1995) 5―ICRP 1950 Recommendation: http://journals.sagepub.com/ doi/pdf/10.1016/S0074-27402880013-4 6―田中司朗・他: 放射線必須データ 32,創元社(2016) 7―ICRP 1958 Recommendation: http://journals.sagepub.com/ doi/pdf/10.1016/S0074-27402880016-X 8―中川保雄: 放射線被曝の歴史,技術と人間(1991) 9―ICRP1965 年勧告: http://www.icrp.org/docs/P9_Japanese.pdf 10―ICRP Pub. 8: 放射線による危険度の評価(1965) ,http:// www.icrp.org/docs/P8_Japanese.pdf 11―ICRP1977 年勧告: http://www.icrp.org/docs/P26_Japanese. pdf 12―ICRP Pub. 27:「害の指標」をつくるときの諸問題,http:// www.icrp.org/docs/P27_Japanese.pdf 13―Statement from the 1985 Paris meeting of ICRP: http:// www.icrp.org/docs/1985%20Paris.pdf 14―今中哲二: 放射線の発がん危険度について,公害研究, 16 巻 No. 2, 47-56(1986) 15―ICRP1990 年勧告: http://www.icrp.org/docs/P60_Japanese. pdf 16―R. Clarke: Control of low-level radiation exposure: time for a change?, J. Radiol. Prot., 19, 107-115 (1999) 17―ICRP2007 年 勧 告: http://www.icrp.org/docs/P103_Japa nese.pdf 18―菅直人: 東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと, 幻冬舎新書 (2012) 19―今中哲二・他: 福島原発事故にともなう飯舘村の放射能汚 染調査報告,科学,81, 594-600 (2011) 20―福山哲郎: 原発危機 官邸からの証言,ちくま新書(2012) 21―経産省 HP: http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu /hinanshiji/2016/pdf/0617_03b.pdf
22― 環 境 省 HP: https://www.env.go.jp/jishin/rmp/conf/10/ref04. pdf 23―内閣官房 HP: http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/1 11222a.pdf 24―今中哲二: “100 ミリシーベルト以下は影響ない”は原子力 村 の 新 た な 神 話 か?,科 学,81, 1150-1155 (2011) ,http:// www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/etc/Kagaku2011-11.pdf 25―津田敏秀・他: 100 mSv 以下の被ばくでは発がん影響はな いのか,科学,83, 735-742 (2013) 26―津田敏秀: 医学情報の科学的条件 ―― 100 mSv をめぐる言 説の誤解を解く,科学,83, 1248-1255 (2013) 27―津田敏秀: 100 mSv 以下の発がんに関する誤読集,科学, 83, 1353-1359 (2013) 28―津田敏秀: 100 mSv をめぐって繰り返される誤解を招く表 現,科学,84, 534-540 (2014) 29―復興庁・他: 放射線リスクに関する基礎情報,2016 年 2 月, http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat1/sub-cat1-1/ 20140603102608.html 30―今中哲二・飯舘村初期被曝評価プロジェクト: 飯舘村住民 の初期外部被曝量の見積もり,科学 84, 322-332 (2014) ,http:// www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/etc/Kagaku2014-3.pdf 31―首相官邸災害対策ページ: http://www.kantei.go.jp/saigai/ senmonka_g57.html

今中哲二 いまなか てつじ 2016 年 3 月京都大学を定年退職し,現在京都大学原子炉実験 所研究員。専門は原子力工学。大学院時代より日本の原子力開 発の在り方に疑問をもちはじめ,研究者としては,原子力を進 めるためではなく原子力利用にともなうデメリットを明らかに するというスタンスでの研究を行ってきた。広島・長崎原爆に よる放射線被曝量の評価,チェルノブイリ原発事故影響の解明, セミパラチンスク核実験場周辺での放射能汚染の現地調査など に従事。2011 年 3 月の福島第一原発事故以降はもっぱら福島 の問題に専念。

第四話 用途としての放射能と放射線の単位があり震災復旧では物を見る目になる

 人の生活は縄文人ほどであることが平和である。ことに地震と津波と原子炉事故のあとでは無造作な文明よりも縄文時代の暮らしが勝るのではないかと素朴な疑問が湧く。日本は明治以降は戦争に明け暮れた。第二次世界大戦の戦乱上手に避けることができなかったものか。屈辱はあっても負けるが勝ちであった。

 地震と津波の事故は忌まわしい。三陸地方の大地震で東日本が被害を受けた。被災地に赴くと「国破れて山河在り」の言葉が浮かぶ。東京電力福島第一原発の事故後には飯館村に人はいなかった。放出された放射線物質は原発から離れた飯館村に大量に降り注いだ。原発から遠くても放射線量が多かった。放射線物質は福島県の中通り地方に思いのほか多く降り注いだ。原子力事業従事者の年間許容被曝量20ミリシーベルトを超えていたし今も超えている地域が多い。国は許容被曝量を引き上げて中通りの人が戻れるようにに法令を変えた。

 元京都大学原子炉実験所助教小出裕章と東京大学アイソトープセンターセンター長児玉龍彦は放射線被害は小さくないと考える。ならば、せめて子供の放射線被害を防ごうと力説する。子供によりましな食品を与えて、自分は汚染度の高い食品を進んで食べると小出裕章はいう。低線量被曝ならびに内部被曝は遺伝子を傷つける。東京電力福島第一原発から飛び散った放射線物質の量は広島原発の100個分を超える。そして現在も放射線物質放出し続けている。

 放射能の量ベクレル(Bq)と放射線の線量グレイ(Gy)ならびにシーベルト(Sv)は国際単位系(SI )で規定された単位である。

 ベクレルは単位の名称であり(単位記号はBq)1秒間に1個の壊変(自然崩壊)を起こす放射線源の放射能。名称はアンリ・ベクレルの名に由来する。基本単位による表現は
s-1。ベクレルは(放射性核種の)放射能の量である。SIが規定する量としては吸収線量·カーマ。

 グレイ (gray、単位記号はGy) とは、放射線によって人体をはじめとした物体に与えられたエネルギーを表す単位。吸収線量またはカーマの単位として主に単位当りの物質が放射線を吸収し発生したエネルギー(温度上昇)で計測する。1ラドは0.01 J/kg に相当し、国際単位系では吸収線量はグレイ (Gy) で表す。1グレイ=100ラドに相当する。基本単位による表現としての組立はJ/kg(m2·s-2)。SIが規定する量としては吸収線量·カーマ。単位の名称の起源(語源)はルイス・ハロルド・グレイによる。

 シーベルトは生体の被曝による生物学的影響の大きさ(線量当量、dose equivalence・等価線量、equivalent dose)を表す単位。組立単位は J/kg。定義は 1Gyに修正係数を乗じた量。名称の起源(語源)は ロルフ・マキシミリアン・シーベルトに由来する。基本単位による表現としての組立はJ/kg(m2·s-2)。

 レントゲンは1895年にX線の発見し、1901年に第一回ノーベル物理学賞を贈られる。キュリー夫妻は新元素ラジウムの精製に成功し、キュリー夫妻は放射線の研究で1903年のノーベル物理学賞をアンリ・ベクレルとともに贈られた。「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」による。キューリー夫妻は1911年のノーベル化学賞を贈られた。キュリー夫妻は後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を贈られている。

 英国の大物理学者ケルヴィン卿は、ラジウムが元素ではなく化合物だと主張していた。キューリー夫人はウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラムの分離を1910年に成し遂げてケルヴィン卿の主張を退けた。

 夫のピエール・キュリーは、イオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げ、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へつながる基本原理などを解明していた。1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねていた。

 田中館愛橘は東京帝国大学教授をしていたときに物理学校の卒業式で祝辞代わりにラジウムの実験をしている。田中館愛橘はケルビン卿の下で学んだ人である。各方面の国際学会に日本代表として出席していたからキューリー夫妻とも交流があった。キューリー夫妻が発見した新元素ラジウムの公開実験を物理学校の20名ほどの卒業生を祝う場で行ったのである。

 ドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルは1900年に、放射線が生物組織に影響することを報告する。ピエールがラジウムを腕に貼り付けると火傷のようになった。ラジウムが発する放射線が細胞を壊すことが確認された。このときには悪性腫瘍を治療するキュリー療法の方向に進んだ。マリ・キューリーの手はラジウムによって火傷のようになっていた。放射線が人の生命を危険に陥れることまでは理解できないでいた。

 新渡戸稲造はユネスコの前身に当る国際知的協力委員会(International Committee on Intellectual Cooperation, ICIC)では、キューリー夫人とともに12人の委員の一人であった。着飾ることをしないキューリー夫人に対して新渡戸稲造は第1回会合時の彼女の印象を「見栄えもしない愛想のない人物」と著している。

 田中館愛橘と新渡戸稲造は盛岡藩の藩校で学んでいる。田中舘愛橘は安政3年9月18日(1856年10月16日)の生まれ、新渡戸稲造は1862年9月1日(文久2年8月8日)の生まれであり、6歳の差がある。少し時期がずれるがともに東大予備門にいた。

 新渡戸稲造の進級は早い。1875年、13歳になると、できたばかりの東京英語学校(東大の前身の一つ)に入学した。15歳になった1877年9月になると札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学した。このころの進路振り分けの事情を田中館愛橘が語っていて面白い。田中館愛橘は官立英語学校から明治9年(1876年)9月に官立東京開成学校予科3級生へと編入する。田中館愛橘と新渡戸稲造の6歳の年の差が東京英語学校では縮まっている。田中館愛橘は回り道して東京大学理学部に入学している。

 この二人がキューリー夫妻と交流していたのである。新渡戸稲造の妻は米国人である。田中館愛橘は早くに夫人を亡くしている。婦人に接する態度におのずと違いがあった。田中館愛橘は外国人婦人に愛嬌を振りまいていたことを弟子が語る。ケルビン卿、キューリー夫妻、田中館愛橘、新渡戸稲造と人のつながりはこの時代の物理学と国際交流を物語る。新渡戸稲造は京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授(第一高等学校校長との兼任)、国際連盟事務次長を務め、『武士道』を著した。

 キューリー夫妻、田中館愛橘ともラジウムの放射線が人の健康に及ぼす影響には無頓着であった。ある程度は知っていたかもしれないが、その取扱い方はその後に知られるような放射線の毒性を知らないかのごとくである。

 8グレイを被曝すると人は死ぬ。茨城県東海村のJCOという燃料加工工場で18グレイと10グレイ浴びた作業者二人がが死んだのは1999年秋のことであった。ウラン溶液の混合作業中に臨界となって放射線を浴びたのである。一人は事故数日後に手に火傷をした程度であった。身体の内臓や骨髄をも損傷していたのである。手厚い医療と看護もむなしく被曝後80日ほどで死亡した。放射線医学の専門医は18グレイと10グレイ浴びた二人の生存はできないと見立てて治療法放棄したため、東大病院に運ばれたのであった。

 東京電力福島第一原発の事故のあとの周辺地域の放射線量は元京都大学原子炉実験所助教小出裕章など原子力業務従事者の年間被曝量20ミリシーベルトを超えている。国が許容被ばく量を変更したからといって人の健康への影響の評価は変わらない。ICRP(国際放射線防護委員会)の2007年勧告では「約100ミリシーベルト以下の線量においては不確実性が伴うものの、癌の場合、疫学研究および実験的研究が放射線リスクの証拠を提供している」としている。ICRP(国際放射線防護委員会)は実際には原子力発電を擁護し推進する組織であると小出裕章は述べる。そのICRPが低線量被曝の危険性に触れているのだ。

 タービンを回すための水蒸気を発生させる。燃やせば処理できない核廃棄物が出てしまうのが原子力発電である。核廃棄物という負の産物だけではなしに放射性物質を人が住む世界に放出してしまった。全電源喪失をおこさない対策はあるか。地震と津波に発電機が耐える保証はなく送電線も切れるとなると原子力発電のどこにも確実性はない。東電の柏崎刈羽原発は地震によって外部のトランスが燃え出しているのに気付かず消火もしない様子がテレビで同時中継されていた。専門家は二重の安全性としてのフェイルセーフを確保した設計になっていると豪語していた。想定が違えば意味をなさないことを事故が物語った。水素爆発も水蒸気爆発も起こさないと見えを切った原発工学の東大教授がいたのだから原発の安全の程度が知れてしまう。

第五話 政府が間被曝量20ミリシーベルトを安全領域にした訳

 政府は年間被曝量20ミリシーベルトを安全領域にしないと、安全区域を確保できないために、原子炉実験所の作業者の特別な被曝量である20ミリシーベルトを一般の環境領域に広げる措置をしたのでった。

 京都大学の小出裕章氏は放射線測定を専門にして、京都大学原子炉実験所に勤めていた。それをやっていれば教える義務も教わることもなく、そして原子力すなわち核のことを研究することができたのであった。

 本格的に放射線測定をするとなるとJQAにあるような校正設備と体制を整えていなくてはならないのです。3万円ほどで売られている測定器では表示される下二桁の値は意味がないようだ。

 20ミリシーベルトという放射線の被曝量は小出裕章氏たち原子炉施設における作業者たちに特別に設けられた限界値であったた。これが福島など日本のあらゆる場所で「許諾」される値になった。基準を変えてそれを「許諾値」にすると安全の領域が広がる。実際には年間被曝量2ミリシーベルトでもガンになる危険度は大きい。作業者に対する年間被曝量20ミリシーベルトは厳格に管理されていた。

 測定領域から退出する際にもある値の放射線量が確認されると衣服を脱ぎ、さらには皮膚の表面を削り落として、規定の値以下にならないと外部に出ることができない、仕組みで管理されていた。

 政府は年間被曝量20ミリシーベルトを安全領域にしないと、安全区域を確保できないために、原子炉実験所の作業者の特別な被曝量である20ミリシーベルトを一般の環境領域に広げる措置をした。

 )医者でもある東京大学アイソトープセンター長の国会における委員会の折の悲痛な、泣き叫ぶような表現は心底からのものなだ。常識を越えた国家による法的措置に対する抵抗でした。

 放射線測定器を誰がどのように校正して、測定値の真っ当性を確保するかということの、社会的体制を福島の現地の人の多くの人が素直に求めている。福島は風評被害という言葉で農産物、海産物の放射能被害のことを述べる。経済の観点からこれらの値が真っ当に測定されないことを望むという心情がある。

 京都大学原子炉実験所に勤務している今中哲二氏は福島産の農産物の残留放射線量を測定したところ思いに反して低レベルの線量であったことが測定値とともに論文の形で発表されている。とりあえずは安心をもたらす測定結果であった。

 放射線測定器は人の生命の安全にかかわる重要な計量器である。環境測定器と比べても計量法が関わるべき重要な計量器だ。環境測定に関係しては環境計量士制度と一体のものとして計量法が制度に組み込んた。横須賀港における米軍の原子力潜水艦入港時の放射線測定が規定値に収まるように改ざんされていたことを共産党の不破哲三衆議院議員が国会で示した。田中角栄総理大臣が環境計量にかかる環境計量士制度をつくることで対応した。田中角栄氏は通産大臣も務めた人である。

 特別に人に有害なある放射線の減衰は30年はおろかもっと長い。100年はつづく。それ以上でもある。別途放射線の物理的半減期を示す。福島第一原子力発電所から放出された放射線の多くがが太平洋に飛散した。それがどのように回遊し、また海産物に蓄積しているか、確かめるためには測定が最大の頼りである。水俣病のように実際には人を実験として使ったようなことになってはならない。

 放射線測定器を計量法における特定計量器に指定して、計量法の下で社会的管理をしなければならない対象である。社会に出た放射線測定器を一品ごとに管理することが難しいのであれば、指定製造事業者制度によって放射線測定器を製造する企業などに適正な機器を製造し供給する責任を課せばよいす。目的を明確に持てばやることやれることがはっきしする。方法はいくらでもでてくる。

 放射線がらみの行政管轄がどのようになっているのか。年間被曝量20ミリシーベルトを「安全領域」にしてしまった国の無謀は、立場を変えれば当然という言い方がでるかもしれない。東京大学アイソトープセンター長の国会における委員会における説明はまともだ。放射線への感受性が高い子供の健康を気遣っての悲痛な叫びこそ真実を示す。

 放射線被害を低く見積もる、放射線被害はないものとする、という安倍晋三内閣の意向は計量法が放射線測定器を特定計量器に指定しないことと通ずると考えられなくもない。政治への忖度があるとも疑われる。

 放射線量の真っ当な測定と管理、そして放出された放射能と向き合うことこそ3.11への真っ当な対処だ。

 放射線測定の確かさを確保し、確かな放射線測定がなされるために私たちがなすべきことは何なのか。

第六話 政府が間被曝量20ミリシーベルトを安全領域にした訳

(1)揚水式の発電機がある。

 これは原子力発電機を昼夜運転し夜間に余った電気で水を山に汲み上げてピーク電力時に落下させる方式の発電である。別の理屈が付くこともあるにはある。原子力発電機を昼夜運転するためにつくられた発電方式だ。タービンを逆回転させて水を山に揚げる。効率は使用電力に対して3割だ。原子力発電の多くが止まっている現在では揚水式の発電は稼働させることがない。動かす意味がないからだ。

(2)水力発電だってダムは水を発電用にまともに使っていない。

 ダムの水を発電用に使うと原子力発電に与えられた容量を侵害する。長野県大町市にある大町ダムダムは国土交通省が管理するダムだが形だけの発電をしている。その上流に東京電力の七倉ダムなどの発電所がある。原子力発電を行うためにダムの水はいびつな形でしか使われていない。変なことは直ぐにわかる。電力会社は農業用水に使われる水があるために、発電用の枠は少ないと妙な理屈によって見学者をごまかしていた。質問をすること傲慢な態度をして答えない。

(3)太陽光発電、風力発電、波あるいは朝夕による発電、地熱発電など自然力による発電がある。太陽光発電はものすごい勢いで増えている。

 甲府市の南西の山一つが、最も南斜面ですが太陽光パネルで埋め尽くされている。電気山だ。ブドウ畑が太陽光パネルで埋め尽くされて電気畑になっている。太陽光パネルはシリコンパネルだ。製造コストはかなりのものである。製造過程で二酸化炭素を沢山排出するとされる。それでも運転すれは処理できない核のゴミを残す原子力発電よりははるかにましだ。

 二酸化炭素による地球温暖化説にはトリックがあり、その正体は原子力発電を推進するためのレトリック(修辞)である。

(4)原子炉を動かすことすなわち原子力発電ということになっている。

 日本における原子力のことだ。原子炉を動かすと核爆弾の元になるプルトニウムをつくりだします。プルトニウムのうち97%は核反応をしない。3%を抽出するためにプルサーマルという原子炉を動かそうとしました。巨費を投じてもでなかった。理論上も無理なのだ。フランスとイギリスに依頼してプルトニウムを精製していた。九州電力は外国に預けているプルトニウムであるという言い方をする。フランスとイギリスはプルトニウムの精製を拒否したのであった。精製したプルトニウムは直ぐに核爆弾になるからだ。

 原子炉(原子力発電所)でウランを燃やしてできたプルトニウムは青森県の六ヶ所村に集めれている。再処理工場という名になっている。結局は再利用できるプルトニウムをつくりだせていなかった。原子炉が動けば動くだけ核のゴミであるプルトニウムがでる。そのゴミが六ヶ所村に集められ増え続けている。

(5)電力をつくりだすだけなら原子力以外の発電方式でまかなえる。

 原子力とは原子炉であり、原子炉はプルトニウムを生み出す装置である。プルトニウムを精製すると原子爆弾をつくりだせる。純度の高い精製されたプルトニウムを持っていれば3カ月で核爆弾をつくれる。だからフランスもイギリスも日本のプルトニウムの精製を拒絶するようになった。米国もまた京都大学原子炉実験所で使う精製されたプルトニウムを日本に渡さなくなった。

【脚注】
1、小出裕章氏
小出 裕章(こいで ひろあき、1949年8月29日から)は、日本の工学者(原子力工学)。元京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)助教。京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻助教(2015年3月定年退職)。評論家。所属学会は日本保健物理学会、エントロピー学会。研究分野は環境動態解析、原子力安全、放射性物質の環境動態。東京都台東区上野出身。工学修士。退職後は松本市に在住。呼ばれて講演することに忙殺されている。山に登って温泉に入るのを喜びにしている。
2、今中哲二氏
今中 哲二(いまなか てつじ、1950年9月18日から)は、日本の工学者(原子力工学)。京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所)助教 兼 京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻助教。瀬尾健とチェルノブイリ原子力発電所事故後の追跡調査を中心に活動した。工学修士。広島県出身。熊取六人衆の一人。2016年3月定年退職。その後引き続いて同所で仕事をしておりました。

3、田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、安政3年9月18日(1856年10月16日)から昭和27年(1952年)5月21日)。日本の地球物理学者。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。グラスゴー大学のウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)の下で学ぶ。キューリー夫人とも交際がある。物理学校の卒業式では祝辞代わりにラジウムの公開実験をした。日本人としては初代の国際度量衡委員。写真はグラスゴー大学留学時34歳。

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横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた
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武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
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