犬を飼うと人は幸せになる
−−紀州犬と柴犬を新しく迎えて思うこと−−
<もくじ>
はじめに
「横田さん雄犬を仕上げるのは大変だよ。管理し切れていないから、誰かいい人がいたら渡した方がいいんではないか」と繁殖者の
I
さんに言われていた。そして、ある展覧会の会場でKさんから「あの壮犬・雄を僕にあずからせてくれませんか」と声が掛かる。私は「困ったなー」と思う。
紀州の子犬
Kさんは「横田さんは仕事が忙しすぎて、紀州犬の雄犬を管理しきれないだろうから、私のところで生まれている雌犬にしたらいいんじゃないの」と言って雌の子犬を勧めてきた。
昨年の夏から縁があれば紀州犬の雌犬を犬舎に迎え入れようと考えていたのであるが、このことを知っている紀州犬保存会役員のSさんが声を掛けてきた。「横田さん、和歌山から生後5ヶ月の雌犬が来ることになっているんだ。向こうでは手元に残しておきたいと言っているほどのいい犬で、差尾なんだ」「ある人に渡すことになっているんだけれど、何かの都合でそれが駄目になったら横田さんところで引き受けてくれるかい」
電話での唐突な申し入れであった。私の事情を知っているSさんの推奨であればこの上ないことだから、「いいですよ。ありがとうございます」と二つ返事となる。Sさんからの話は成就せず、がっかりするやら、安堵するやら複雑な気持ちであった。
Kさんからの申し入れはSさんからの話の結末がつく前だったので、返事をにごしていた。Sさんの話が駄目になったので、Kさんからの勧めに気持ちが傾いていくことになる。 そこでKさんに電話を入れてみることにする。「子犬、雌を私のところに譲っていただけますか。いろんな方から申し入れがあるとは思いますが」
「横田さんは熱心に展覧会に出しているから、つい見かねてね、声を掛けたんですよ。雌にしなさい。雄だと横田さんは時間がなくて管理しきれないと思います。いいですよ、うちの雌犬をお渡しします」
「そうですか、ありがとうございます。楽しみだなー」と思う私。
紀州の子犬を見に行く
子犬を譲ってもらうとなると早速にでも顔を見たくなる。
「横田ですが、これから伺ってもいいですか」と平日にもかかわらずKさんに訪問の打診をすると、「いいですよ」との返事。訪問すると生後36日ではあってが、私からの電話をそのまま持ち帰るものと勘違いして子犬を引き渡す準備をしてくれた。相談した結果、もう少しの間親の元において兄弟犬たちと遊ばせてもらうことにする。
Kさんから、このときもう一度私のところの紀州犬の壮犬・雄犬を譲り受けたい意向を伝えられる。「私は定年退職して、自由業のような状態になりましたから、犬の管理に時間を十分割けます。雄犬の管理は横田さんの忙しさでは無理ですから私に任せてください」
私は、「わかりました。繁殖者のIさんに了解をいただいた上で、Kさんにお願いすることにいたします。どうぞよろしく」と返事をする。
以上のようなことで、紀州の雌の子犬が1匹来ることになり、紀州犬の雄犬・壮犬組が出ていくことになった。
雄1頭が出て、雌2頭が入る
この話にはもう一つおまけが付いていて、急展開する。Iさんに、紀州の雄犬をKさんに飼ってもらうことの了解を求めたところ、IさんはKさんのところで飼育しているに1歳になる柴犬の雌を私に渡すように話を付けてくれていた。
Kさんは「横田さん、水くさいよ。柴犬も欲しいならそのように言ってくれればいいのに」と、紀州の子犬をいつ引き取るか相談するために電話したときに
I さんの話を伝えてきた。
私は「そのことはちょっと違うのです。 I
さんは私が柴犬を連れて展覧会に出ているのを知っていて、展覧会でいい成績を収めようとするならばKさんのところの柴犬を譲ってもらうのが手っ取り早いと考えて話をしていただいたのだと思います。でもそうしていただけるなら有り難いことです」と話す。
以上のようなことで、私が飼っている紀州犬雄犬がKさんのところに渡り、代わって紀州犬の雌の子犬と1歳になる柴犬の雌がわが犬舎に入ることになった。
父犬(種犬)になる条件は厳しい
犬を含めて家畜の世界では雄が自身の直接の子孫を残すため条件は厳しい。ほとんどの雄犬は交配の機会に恵まれない。雌犬はその条件が雄犬ほど厳しくはないが、やはり系統だった血筋を持っていることが求められる。そうでないと子犬の飼い主に巡り会うのに困難が生じることになる。しかし、血筋がしっかりしていて健全な雌犬であれば、大体は子を残せる。
これが紀州犬となると柴犬ほど気軽に子を摂るわけにはいかない。身体が大きな分だけ紀州犬を飼う条件が厳しくなるからである。とくに雄の紀州犬となると飼い主にはある程度の気構えが求められることになる。
柴犬に比べれば相対的に需要の少ない紀州犬であるから繁殖も自制しがちになり、その結果が一般の人が本などを見て紀州犬を欲しいと思ってもおいそれと見つからないことにつながる。繁殖が少ないからといって紀州犬の質が悪いということではない。むしろ無造作な繁殖をしないだけに、産まれてくる子犬は良質なことが多い。繁殖に使われる父母犬はとくに吟味されるからである。
子犬を摂ることは楽しい
雄犬を飼っている場合には、展覧会で成績をあげてその質の良さが公衆のもとで「証明」されていないと種犬として用いられる機会は少なくなる。雌犬の場合は雄に比べて10倍は軽い条件の下で繁殖の機会に恵まれる。
繁殖における血の組み合わせというものは難しく、どの雄と雌との間にいい子犬が産まれるかは運が作用する要素が大きい。雌犬を私の犬舎に迎え入れるときには、将来の繁殖の方向を見据えてた上でのことということになってくる。
子犬を産ませることは飼い主にとっては楽しいことである。飼い主はできるだけ子犬を産ませてることが望みである。そう思って繁殖を繰り返してきているのである。そうした思いを込めて繁殖をつづけ、結果を厳粛に受け止め一歩一歩前進しているのだ。試みた繁殖の結果に喜ぶこともあり、その結果が狙いと違って本人は落胆しても、他の人はその方が良いと評価する場合もある。絶対的な自信をもっている繁殖者は多くないと思う。結果は常に反省と隣り合わせであり、喜ぶ回数よりも嘆きの回数が多くなる。紀州犬の繁殖家は常に日本一の犬を育てることを夢見ているからである。しかし世の中はよくしたもので、先に述べたように繁殖家が自分では思い通りの結果でないと考えても、よその人はその犬がいいという場合が少なからずあるのだ。
私などは犬の繁殖の専門知識はないにので、先輩のアドバイスを受けての試行錯誤となる。子犬の繁殖には経験がいり、生まれた子犬の善し悪しを判別するのにも経験がものをいう。犬を飼っていると人の犬はよく見え、自分の犬の欠点が気に掛かるものである。これが逆の人もいるのであることは展覧会の審査会場で目にする。順番のつく審査とは多くの人に悔しさを与え、一人の人にだけ喜びをもたらすものである。勝負は時の運でもあるから、一人の人だけが何時でも喜びにひたれるのは稀なのである。
犬と展覧会
紀州犬や柴犬を飼うの楽しみは人それぞれで異なる。訓練して鍛え上げて万全の状態で展覧会に出ていい成績を上げることを無上の喜びとする人がいる。展覧会の成績がいいから、繁殖でも好成績を残せるといった保証はないが、展覧会で成績を収めない雄犬の多くは繁殖から遠ざけられる。
展覧会でいい成績をとったもの同士を掛け合わせて、子犬を摂るというのは非常によく行われることではある。可愛い犬の展覧会での成績が良くなくとも、その犬の本質の良さを見抜き指摘してくれるベテランがおり、その犬を繁殖に用いて、2代、3代後にいい犬がつくられることも少なからずある。そうした回り道をしていい犬がつくられることがある。あるいは犬の繁殖とはそういうものかも知れない。
本質はいい犬である場合でも、展覧会で下位に並びつづけると、飼い主はついつい駄目な犬と決めつけてしまう。犬の繁殖にも年季がいる。年季をいれていない人はゆったりと構えて謙虚に展覧会を楽しむべきである。こんなことを東京三多摩支部のOさんにに話したら「はじめは皆そうなんですが、その初心を忘れないことが大事です」と答えをもらった。大事にしなければならない言葉である。
私の場合には飼育上の管理が悪いと常に指摘される。言われても直らない。直す術を知らないからである。これは居直りであるけれども、ベテラン・上手は展覧会には犬をきっちりと仕上げて出してくる。その差たるや大きい。こういう世界にも上手下手があることを知らされる。
そうかと思うと別段の管理をしていなくても展覧会で上席に行く犬がいる。素性のいい犬であるということになるが、それだけでは安定していい成績を収めるというわけにはいかない。犬の体質と個性に合わせた飼育管理というものがあるのだ。
市川市のK・Kさんからは「横田さんが育てたら全国展で1席に入るべきいい素質をもった犬でも15席に入るのがやっとだよ」と揶揄された。しかしこれはその通りに受け止めるべき言葉であると思っている。
やけのやんぱちでときどき言うのは「黙っていてもきっちり育つ素質のいい犬を繁殖してくれよ」ということである。私はこういう居直りをするのであるが、これは展覧会を対象にした場合には無理な注文であるようだ。
犬を飼う目的
ある犬の繁殖家は、「犬を数多く見なければ犬が分かってこない。子犬も数多く見なければ分かってこないし、そのためには子犬を数多く摂らなくては分かってこない」と私に話してくれた。そうだろう。確かにそうである。しかし、一般の犬を飼う人々は心身の健全な質の良い犬と楽しく過ごせるのが一番であり、散歩をしなければならない犬であるならば犬が要求するほどの散歩をさせて、自分も犬に健康をもらうような関係が築ければ、それこそが犬を飼う目的でもある。
私が飼っている犬の何頭かは誰もいない広い野原で離すと喜々として駆け回る。1時間や2時間は追い駆けっこをして、組んずほぐれつして遊んでいる。犬が元気に走り回る姿を見ると嬉しくなる。飼い犬の生命の躍動を見て感動するのである。こういう場面の中にも犬を飼う楽しみがあるのだ。人が犬と無邪気に戯れることの楽しみというものがあることを知って欲しい。
犬を使った狩猟をオリンピック種目に
犬の先祖は人と出逢うことによって犬になった。人は犬に出逢って、犬との共生のもと狩猟生活を確立することができた。狩猟生活からほとんどの人々が離れてしまい、狩猟はスポーツとなり、一部の犬がスポーツの範疇で猟芸を発揮している。犬を使っての狩猟は伝統文化の保存の意味もある。また犬を使った猟がスポーツハンティングであるとすれば、犬はスポーツをするための供をであり、スポーツをする一翼であり、重要な位置にある。犬を使った狩猟がスポーツであればオリンピックや国体の種目に加えられてもいいであろう。オリンピック種目に犬を使ったスポーツハンチングを設けてもちっともおかしくはない。不思議でもない。犬を使っての猟は人類が最初にした、あるいは最初のころにした喜びをもたらす身体運動であったかも知れない。そうするとそれはスポーツの原始である。
犬を飼う人々のほとんどは犬をコンパニオンにしているのであるから、現代の犬のほとんどはコンパニオンドッグである。紀州犬も柴犬も飼われる目的がコンパニオンドッグであるという現実を否定できない。ここに紀州犬や柴犬が持ちつづけてきた狩猟能力との矛盾を内在する。これは統一されるべきものだという声だけは聞こえてくるが明解な解決の答えは出しにくい。
猟能を求めての繁殖もある
他方では、特に紀州犬には猟能を期待し、それを追い求めての繁殖の方向もとられている。コンパニオンドッグが求められているなかで、柴犬も含めて猟能と両立していくものあろうか。私もこの目で現実に、猟能に優れた紀州犬で家庭犬を現実に見ている。すべての紀州犬あるいは柴犬が猟に関する訓練を積むことはできない。というより、ほとんどの犬が猟の訓練とは無縁で過ごしている状況であるから日本犬の猟との関係の捉え方は混迷することになる。猟をしたり、猟の訓練をしている人々に大いに敬意を抱く。
柴犬に猟能があることは現代での実見される。柴犬の猟能を追求している人々が現実におり、紀州犬とは違った猟能を発揮している。
犬に幸せをもらう
犬は人に飼われると幸せなのであるが、幸せな飼われ方というものがある。犬にとって幸せな飼われ方は、人と素直に接する機会が多いことであろう。
日本犬好きの作家の近藤啓太郎は「犬の幸せは1にも2にも散歩」と言い切っている。繋いでおくだけの犬、檻に入れられているだけの日本犬は幸せではないのである。他の犬種だって同じであろう。
犬の幸せが飼い主との散歩であるならば、飼い主はお金がなくても犬に散歩の機会を与えれば、犬に幸せを与えることができる。人間も散歩ができることは幸せなことであり、殊に犬を散歩のお供にさせることが出来ればなお一層である。人は犬に幸せを与え、犬に幸せをもらうのである。これこそが人と犬との関係である。
横田俊英(ある日の手記、記憶を留めておくために)
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