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自然の写 真の部屋
 
○11月23日 自然博物誌 12 陣馬山の小道の紅葉と山頂の青い空 文章と写真 甲斐鐵太郎(旅行家)  
 
 
○自然博物誌 18 霧ヶ峰高原の最高峰、車山山頂と気象レーダードーム(1月4日撮影 文章と写真は旅行家 甲斐鐵太郎) 

旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 17 黒部第四ダム

(副題)黒部第四ダムの上流の山向こうの大鳶山(おおとんびやま)は越中安政大地震で崩壊、堰き止められた谷の水が流域平野に土石流として流れでて平地を泥の海に変えた

写真(下)は、黒部第4ダムを横から写す。ダムの放水が義務づけられている。ダムの上は人工の黒部湖。黒部第4発電所はここから下流12キロメートルほどの地下につくられている。台風の影響でそれまでのそれまでの晴天から打って変わって小雨になりはじめた。7月19日に撮影。



(タイトル)
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 17 黒部第四ダム

(副題)黒部第四ダムの上流の山向こうの大鳶山(おおとんびやま)は越中安政大地震で崩壊、堰き止められた谷の水が流域平野に土石流として流れでて平地を泥の海に変えた


(本文)

 立山三山や剱岳に登ろうとするときに関東方面からの道順に黒部第四ダムが登場する。大町の扇沢駅からは期待に胸を弾ませての行程となり、黒部第四ダムにでると立山や針木岳、鹿島槍ヶ岳そして赤牛岳の景観に圧倒される。

 黒部ダムによって堰き止められて誕生した黒部湖には遊覧船が運航する。観光客が多いと乗り物にのるのに先を急ぐ気持ちになるので、これを我慢してゆったりした気持ちで景観を楽しむようにしたいものである。

  発電用ダムのうち観光資源として抜き出た存在であるのが関西電力の黒部第四ダムである。長野県の大町からも富山県の富山市からも経路がついている立山黒部アルペンルートは4初旬から11月末ころまでの開通期間中は大勢の観光客を集める。

 大町経由で黒部第四ダムに出るとそびえる立山や針木岳や遠くに見える赤牛岳ほかの北アルプスの景観に感動する。富山経由では途中に弥陀ヶ原や室堂が登場しダムよりも3,000メートル級の高山の景色に圧倒されてそれに満足するので、大町方面を帰途に選んでいなければ黒部第四ダムには降りないのが普通である。

 その名が知れた黒部第四ダムを水源とする黒部第四発電所の発電量は水力発電の上位に属するものの日本一ではない。黒部第四発電所の下には第一、第二、第三の発電所がある。黒部第四ダムの放水はわけあって義務づけられておる。黒部第四発電所は黒部第四ダムの直下にあるのではなく12キロメートルほど下の仙人ダムの少し上に地下発電所がつくられていて、ここまで送水管を引いてその水で発電用のタービンを動かす。

 ダムができると川の水が貯水に回されるために河川の水量が減る。昔を知る高名な地理学者が立山や後立山の山の上で耳を澄ますと聞こえた黒部川の水音が黒部第四ダム建設後には聞こえなくなったと証言している。

 黒部第四ダムの上流には佐々成正が超えたザラ峠が位置し、その山向こうには大鳶山(おおとんびやま)があって、この山に隣り合わせる小子鳶山ともども安政5年(1858年)旧暦2月26日(現在の暦では4月9日)に起きた越中安政大地震で崩壊し、15日後に土砂にふさがれた常願寺川が決壊して大洪水となって流れでて家屋を押し潰し流域の平野を泥の海に変えた。

 これによる死者と損壊家屋は地震にまさり、「その被害は163ヶ村に及び田地草高2万5千石、流出家屋1,600軒、死者1,800人」(越中安政大地震見聞録−立山大鳶崩れの記−所載「活断層としての跡津有峰断層について」富山大学教授理学博士深井三郎)という。

 現在もこの地の平野部に残る巨石はこの遺物である。大鳶山の大崩れは富山市内の呉羽山から巨大な窪地として遠望され、崩壊はいまなおつづいている。

 常願寺川の上流の湯川谷まで砂防工事用の軌道が敷かれ、崩れる斜面と砂防ダム建設による対応の戦いがつづく。

 天下の三霊山の富士山、立山、白山のうち、立山の常願寺川、白山の別当谷と柳谷の水を受ける手取川の砂防費用は巨大である。

 山をおさめ、川をおさめことはたやすいことではない。写真は7月17、18、19日撮影。



(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) (書き殴って読み返しておりません。誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦を)

 
 
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 番外編 bR 小舟とポルシェと青空と白い雲、何気ない風景の背後にあるのは10メートルの大津波(写真は3月26日撮影)   
写真(下)は小舟とポルシェと青空と白い雲の何気ない風景 
 
【写真説明】

 何も考えずにこの写真を見ればのどかな風景である。小舟とポルシェと青空と白い雲。何気ない風景のその背後にあるのは大津波。この写真は三陸地方のある町の公共施設の2階の屋根に出現した風景の一こま。押し寄せた10メートルほどになる津波によってポルシェが屋根に運ばれた。屋根にはもう一台車が駐車しているように乗っていて、1階と2階の窓には何台もの車が網に引っかかったように突っ込んでいた。

 ここで働く人の献身的活動がNHKテレビで報道されていて、その人は施設に取り残された人を避難させる活動をしているうちに波にさらわれて行方不明になった。子どもがいて奥さんがいて親がいる人であった。その親は息子は信念の人間だったとテレビカメラに向かってうなるように話した。この施設の前面には防波堤は築かれていなかったが、その30メートルほど先の防波堤は押し寄せた津波によってひっくり返された。砂の上に台形状の土台を築いて建てられたその堤防は津波の力に太刀打ちできなかった。

 倒れた堤防を見て感ずることは何であろうか。人が自然に対して力で立ち向かうことの意味とその限界である。堤防という力で対応するのか、津波の押し寄せないところに施設をつくりあるいは住むのか。そこに海があり魚がいる、そして海辺の平地は人が家を建てるのに便利である。

 縄文時代の竪穴式住居と質素な暮らしであれば、津波被害からの立ち上がりも容易である。裕福な暮らしのための家や設備そして暮らしのためのシステムができている現代の生活と文化の在り方の是非を少し問いたくなる。この施設を運営するこの町のの中心市街地は津波と同時に発生した火事によって朽ちてしまった。

 3月は大きな災害が襲う月になってしまった。かつての三陸大津波が3月であったし、東京大空襲は3月10日であった。写真のような状態を引きおこした東日本大災害を引きおこした地震と津波と火事は3月11日に発生した。自然恐るべしであり、縄文時代の埴輪などは自然への恐怖、憧憬とあわせて、人への賛美が同居している。そうでなければ尖石遺跡から縄文のビーナスがでてくるわけがない。(写真は3月26日撮影。)旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 番外編 bR 小舟とポルシェと青空と白い雲、何気ない風景の背後にあるのは10メートルの大津波(写真は3月26日撮影) 
 
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