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旅行の部屋
 
1月4日 自然博物誌 18 霧ヶ峰高原の最高峰、車山山頂と気象レーダードーム (文章と写真は旅行家 甲斐鐵太郎)
  
○11月23日 自然博物誌 12 陣馬山の小道の紅葉と山頂の青い空 文章と写真 甲斐鐵太郎(旅行家) 
 
 
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 16 霧ヶ峰高原と車山
(副題)車山(標高1,925メート)に45分で登り高原の尾根道を散策する
(新田次郎はビーナスラインがつくられたことで霧ヶ峰が俗化し、また自然が破壊されることをなげき、霧ヶ峰挽歌として『霧の子孫たち』を書き残したこの文章を残した。)
 
 
○自然博物誌 19 富山県南砺市城端(じょうはな)の城端曳山祭 (5月4日撮影 文章と写真は旅行家 甲斐鐵太郎) 
 
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 17 黒部第四ダム
(副題)黒部第四ダムの上流の山向こうの大鳶山(おおとんびやま)は越中安政大地震で崩壊、堰き止められた谷の水が流域平野に土石流として流れでて平地を泥の海に変えた
 
 
 
 
 
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 番外編 bR 小舟とポルシェと青空と白い雲、何気ない風景の背後にあるのは10メートルの大津波(写真は3月26日撮影) 
 
旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 番外編 bR 小舟とポルシェと青空と白い雲、何気ない風景の背後にあるのは10メートルの大津波(写真は3月26日撮影) 
春分の日に浮かれて富士山と八ヶ岳と諏訪湖を廻る (3月21日 写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) 
雪の日に霧ヶ峰高原を散策する (3月11日 写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) 
白い雪の世界は青空を際だたせて気持ちがよい (写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) 
霧ヶ峰や八ヶ岳に足を運ぶと縄文の世界を思い浮かべる (写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎) 
霧ヶ峰高原の2月22日は標高1,925メートルの車山は雪が少ないので手軽に登ることができる(2月22日 撮影と文書は甲斐鐵太郎) 
諏訪湖畔と「琵琶湖周航の歌」と作詞者の小口太郎(1月13日 撮影甲斐鐵太郎) 
10月11日 霧ヶ峰高原とコロボックルヒュッテ(旅行家 甲斐鐵太郎)
文明を剥ぎ取ると私たちは松尾芭蕉になります(1月21日 執筆横田俊英)
金沢の兼六園では冬の桜がちらりと咲いておりました(1月20日 執筆横田俊英)
縄文の竪穴式住居は現代まで炭焼き小屋の形で使われている(執筆 横田俊英)
芭蕉は歩いて日本を巡ったが私は一瞬にして美しき日本の高原林道を駆け抜ける(執筆 横田俊英)
日本の風景とは何であるかもう少し知りたい(執筆 横田俊英)
飛騨高山の人力車
伊達男はアウトドア雑誌から抜け出した姿で上高地に現れた
TOKYO 私の夏 神田・駿河台下交差点
白昼夢 銀河鉄道につながる道が見えた
ローマの街角で
夏至の日の旅と北アルプスの立山越え
「人はなぜ旅が好きなのでしょう」 旅先で突然芸術家に変身する人N氏
日本人の旅と芭蕉と旅について(旅の考察)
カメラを持った旅人たち
旅と駅弁と富山の鱒ずしと大学教員
心の旅』と青春と「チューリップ」の音楽と

『心の旅』と青春と「チューリップ」の音楽と

 

年間100日の旅人



 旅といってもいろいろあり、ビジネスマン(サラリーマン)の場合は仕事での出張が旅の中心的なものとなる。

 社員百五十名ほどのある会社の社長は、工場、営業所の社員との打ち合わせ、得意先回りで年間百日の旅をする。社員や得意先との密接なコミニュニケーションを図ることを真剣に追及するとこの位 の出張も有り得るかなと思えるが、仕事熱心な社長であることは間違いない。

 登山という旅の形態



 旅の本流は自己の楽しみのために出かけるものであろう。私の旅の最初のものは登山と称して出かけるものであった。東京からの手軽な登山の対象となる地域は中央本線の山々で八ケ岳には夏冬通 して良く出かけた。また登山のために日本の各地を列車でよく移動した。登山という行為のなかに占める列車での移動ということ自体が私には新鮮なことであり、楽しいことであった。

 「何だ、みんな登山といいながら旅行を楽しんでいるのではないか」というのが私の登山に対する強い印象である。高校時代から登山部の連中に「旅行するお金がよくあるものだなー」ということで、その意味で憧れと敬服の念を抱いていたものである。登山を始めてみるとやはり一番お金かかるのが交通 費であった。そんなことで登山をするための移動ということが私の旅の原点である。そして列車の窓からの風景が私の日本の国の記憶であり原風景である。

 この時分の私は懐にあるお金を全部登山に費やしても何の心残りもなった。この時代は貧しくもあり、呑気でもあった。

 この国の大きさを足が覚える



 登山とも旅行ともつかない遊びをしていて、面白いと思ったことの一つに日本列島の大きさを直に感じることができたことである。それは富山から松本に抜ける登山コースとなる北アルプスの「裏銀座縦走」の経験である。富山から松本まで山稜を何日か歩くと日本列島を横切ることになるのが不思議であった。「あれっ、日本という国の大きさはこの程度のものなんだ」という実感は妙なものであった。列車や車で移動すればこの国の大きさはそれなりに分かるのであるが、自分の肉体を動かしてつかんだこの国の大きさの実感は別 物である。

 飛行機から見る世界と日本列島



 視覚的に日本の大きさを分かることができるのは飛行機から日本列島を見ることである。東京から三十分飛ぶとどこまで行けて、一時間飛ぶとここまで来るんだということで、この国の大きさが分かる。  日本の国は大きいのか小さいのか基準のとり方。経済の規模はアメリカに次いで世界の第二位 である。南北の長さで国土の大きさを計ったら小さい国ではない。人口だって一億二千万人もあれば小さな国ではない。気候的にみた利用可能な国土の面 積だって小さくはない。高等教育を受けた人の数でみても世界有数の国である。周囲の海の大きさということでも、これほど海域が大きな国はない。川の数と総延長だって世界有数であろう。

 そんなことは別にして私にとっての日本という国は数日の歩行で横切ることができる程の国なのである。

 シベリアは大きいアメリカは大きい



 「大きな大地があるものだなあ」と感心するのはシベリア上空を飛ぶときである。ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊したあとはシベリア上空で航空機の窓を開けることができるようになった。ヨーロッパへの長旅と移動の途中眠れないことの代償はシベリアを上空から見物できることである。ときどき道路が見えて、雪の山が見えて、湖が見えるシベリアは大きな大地であると思う。

 ニューヨークからロサンゼルスに飛ぶ。これも長い旅だ。ジョンデンバーの歌声が聞こえてきそうな山脈を幾つか越え、夜の飛行の眼下に光の充満した街を幾つも越える。街にさしかかると道路の街路灯がやけに目に付く。そして思うことは「もったいない」ということである。アメリカのエネルギーは安いのだとは分かっていても、やはり「もったいないな」と思うしかない。

 京都駅の思い出



 列車の旅ではその街の印象は駅舎の印象と直結する。

 京都駅が新しくなって久しい。京都の街は寺を中心にした文化遺産に埋もれた街である。かつての京都駅表玄関の二階建ての駅舎は田舎臭いものであった。京都の街は交通 事情に通じない者にとって行動しがたい。時間を持て余した若い頃はどこを見ても同じ事なので、「えい」と駅から歩き出したものである。

 仕事の都合で京都駅に乗降するようになってからは新幹線の時間待ちで、駅舎をうろつくことが多くなった。新幹線の乗り場に近い八条口の近鉄のマーケットの中に「ふたば書房」という本屋があり、帰りの車中で読む本を物色する。時間つぶしにはこれが一番。京都の思い出は駅舎の思い出、そして八条口の本屋の想い出でもある。

 旅と鰻重の思い出



 食事は旅に出ての楽しみの一つである。

 土地には特産物があり、その一つに食べ物がある。食べ物といえば浜松は鰻(うなぎ)である。浜松に出かけたら土産話の一つにでもということで鰻の蒲焼きを食わねばならない。そこで駅前の蒲焼き屋に飛び込んで鰻重を注文。この時は二十歳そこそこの時だった。鰻など滅多に食べたことはなく、その美味しさというのがどんなものなのかも分かっていなかった。浜松の鰻重の味の結論は「大したことないなあ」。

 会社の同僚が浜松で鰻を食べてきたので「大したことなかったろう」と聞くと、「美味かったですよ」との答え。「へえ、そうかい。しかし本当かよ」と私。「ええ、Kさんにおごって貰ったのですけれどね」ときた。「確かにね、おごって貰った鰻の味は格別 かも知れないね」と私。上手い不味いといった味の感想は人それぞれであるようだ。

 名古屋は鰻の名所の一つである。



 おごって貰った鰻の味の美味さのことでは名古屋での思い出がある。ある会社をSさんとたずねた後で、熱田神宮境内の鰻屋に案内された。昼時の込み合う時間に飛び込んだのがいけなかった。人気のお店は込み合っていて随分と待たされた。すっかりおなかが空いたところで出てきたのは、ご飯の間に刻まれた鰻が二段に盛りつけられたお重であった。鰻にはほどよい腰があって、たれも濃くなく薄くなく、その鰻重はことのほか美味かった。

 その名古屋では出張の折り、繁華街の鰻屋を覗いてみた。同僚と連れだっての楽しい晩餐のはずであった。座敷にあがって日本酒をきゅうと一杯やったまでは確かにそうであった。隣に居合わせた客は社員の中年女性を二人連れていた。社員の二人は老人に向かって「社長」「社長」の言葉を連発する。その言葉が耳に触ってならない。そうしたご機嫌取りを隣で聞いているのはまことに癪なものである。懐のお金から出したせっかくの鰻が美味しいとは思えなかった。

 「社長」の国はお隣の韓国である。この国の土産物屋は日本人観光客を見かけると決まって「シャッチョ」と呼びかける。「シャッチョ」「シャッチョ」の連発は皮肉に聞こえてしまうのであるが、名古屋の鰻屋の中年女性達が「シャッチョ」とやっていれば少しは溜飲も下がるというものだ。ご馳走してくれる本当の社長に対しての敬意を込めた「社長」「社長」だったのでどうにも耳に触ってしまった。

 旅の晩酌の一本のビール



 出張先での夕食は人生の縮図のように思える。一仕事終えた後でも一人での夕食は楽しいものではない。夏ならまずはビールを一本注文する。これは儀式といってよい。ビールや日本酒を注文しないで夕食を摂ることほど情けないことはない。出てきたビールをコップに注いでグビッとやる。この一口が晩餐を盛り上げるのである。しかし、一人での晩餐は後が続かない。物思いに耽ったように黙々とそして静静とビールを飲むのである。会話をしようにも相手はいないし困ったものだ。

 京都 大原・三千院と「男二人の湯豆腐」



 京都に同僚と二人で出かけた。折角だからとレンタカーで大原の三千院に出かけてみる。「遊ばなければその土地が見えてこないのだ」と少し理屈をこねる。冬場の三千院では参道の大きなガラス張りのお店に入り湯豆腐を注文するのが通 り相場である。湯豆腐には熱燗ということで一合とっくりを二人で分けてちびりちびりとやる。隣の席に中年男女の二人連れが腰を下ろした。界隈に茶店は幾つもあり私たちの居るところに来なくても良さそうなものだが、客の居ない店には足を運びにくい。隣のカップルの会話が何となく耳にはいる。その内容がこちらを動揺させる。

 「どうも気まずいなあ」と相棒に小声で話すのだが、冬の三千院の湯豆腐の味は、忍ぶ味であったような記憶がある。

 チューリップと「心の旅」と音楽と



 東北への夏の一人旅。岩手県にある早池峰山に出かけたときだった。列車のデッキに陣取った若者達のラジカセテープからは、チューリップの「心の旅」を流れていた。東北への旅に青春と旅の感傷を主題にした音楽を持ちだすことの出来過ぎに一人旅の当方は、面 ばゆい気持ちになった。この曲に付けられている歌詞の一節は「ああ 明日の今頃は僕は汽車の中」。この時私は、この曲を初めて聞いた。作詩・作曲はグループリーダーの財津和夫。一九七三年の曲である。チューリップは一九九七年に再結成して、東京武道館でコンサートを開き、そのライブがCDになって発売された。「ああ だから今夜だけは君を抱いていたい。ああ 明日の今頃は僕は汽車の中」の一節が繰り返される甘い歌が二枚組CDの一枚目の最後の曲として登場する。聞けば恥ずかしくなる歌詞をよくも書き歌えるものだ。

 作詞作曲の財津和夫は私と同じ歳である。今はもうすっかりいいオジさんになっていて、NHKテレビに登場して「青春とは居心地が悪いものです」と語っていた。私は「生きることは恥ずかしいことである」と思っている。

 

旅と駅弁と富山の鱒ずしと大学教員

先生は駅弁の本を書いていた



 列車の旅には駅弁が付き物である。駅弁のことで私には不意をつかれたことがある。不意というより誠に意外な愉快な思い出である。

 それはいつもまじめくさってマスコミ論の講義を担当した大学の教員の思い出である。その講義には受講生は五人位 しか集まらなかった。顔を覚えられた私は欠席するのがためらわれてずっと講義を聴いた。

 卒業して二十五年も経ったある日のこと、神田の古本屋でその先生が書いた「駅弁」の食い歩き経験を元にした本を見つけたのである。講義を受けていたころに既に出版されていたその本は、先生が食いしん坊であることを証明する本なのであるが、講義の中ではそうした気配はみじんもみせなかった。 先生は駅弁を食べ終わると、その包装紙を家に持ち帰って整理しておいた。包装紙がそこそこの数になれば、人に話題を提供できる。映画評論家でもあった先生は、講演旅行の折に食べた駅弁の包装紙を集めたのであった。日本全国の駅弁が語られた楽しい本であるが、出版社に縁故があって本になったのであろう。この先生はマスコミ論の講義に特別 にテキストを指定しなかったし、テストもしなかった。授業の感想文を書かせてテストに換え、私の文章には最上級の点数をくれた。

 「とうへんぼく」の財政学の大学教員



 マスコミ論のことから嫌な大学教員のことを思い出してしまった。

 卒業年次、財政学の教員(教授)はテキストに自分の書いた一冊五〇〇〇円の無名の本を二冊も買わせた。財政学は四年次の必修科目であるのだが、この教員はどのように気が振れたのか半数の者に不合格を付けた。出席簿を付けていたこの教科の私の出席日数は規定に満たなかったので試験の結果 が気掛かりであったのだが「可」の評点であった。卒業式の日、私は苗場山に登る計画になっていて、卒業式には出ずに山にこもった。苗場山の頂上直下の雪洞で卒業式の日を過ごしていたのであるが、一年ほどして学年の半数が留年していたことを聞いて驚いた。

 採点の加算項目として出席をとっていた財政学の講義は、教員の人品いやしきこともあって 、おぼつかない出席日数のまま試験を受けた。私などはこの講義と投げやりな付き合いをしていたから不合格でも仕方ないと考えていたが、出席簿に拘束されてくそ真面 目に与太話を一年間聞かされた上、この一科目のために留年を宣告された者は気の毒である。この大学は追試はしないので卒業単位 が足りない者は有無を言わさず留年とされた。あれから25年以上経つが、最近になってもこの大学を必修科目一科目のために卒業できないでいる子を持つ親の話を聞いた。

 駅弁と富山の鱒鮨



 マスコミ論を担当していた駅弁先生につられて私は駅弁に興味を持つようになった。

 駅弁はその街その駅の象徴である。NHK、朝の連続ドラマの萌ちゃんにはアシモイ駅の駅弁売りが出てきた。アシモイ駅は架空のものだが、この年北海道は観光ブームとなった。

 富山駅の名物弁当は「鱒ずし」である。

 駅売りは「源」であるが、黒部平では「川上」が売られていた。「川上」の鱒ずしは蓋を開けても鱒の切り身が姿を現さないので戸惑うが、底に切り身が敷かれている。蓋を開けたら逆さまにして包丁を入れるのだと添付の説明書に書かれていた。六月の富山行きではこのほかに「青山」の鱒すしを食べた。「青山」は知人から聞いたもので、ホテルの近くにあったその店に足を運んで買った。ここのは鱒の切り身は見事なサーモンピンクで、酢飯がまた美味しい。

 鱒ずしの素晴らしさの一つは日持ちのすることである。夏場でも数日間は大丈夫であり、場所を選べば一週間はもつ。少し値の張ることに目をつむり、重さを厭わなければ有り難い登山のための糧になる。

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カメラを持った旅人たち

 京都を旅する熟年カップル

 旅に出る。京都への旅は格別のものであるようだ。

 十一月中旬の新幹線の中。幾組かの京都旅行の熟年カップルを目にした。京都の秋の旅は紅葉が良い季節ということから、この頃が非常に込み合う。宿の手配も急なことではおぼつかないことが多い。

 京都への新幹線。熟年カップルの一組は洒落たブレザーコートに身を包んでいた。ご主人のブレザーコートは、茶系統のざっくりした風合い。いかにも上等の生地を仕立てたものに見えた。これと対をなすのがご婦人の上衣で、女性物を何というのか知らないが、秋に京都あたりに着ていくのにぴったりと思える衣装。一目で夫婦そろって誂(あつら)えたものと分かる。生地の見事な張り加減から下ろしてこの旅行のために初めて着用したことは明らか。京都に気を張って出かけていることことだろう。

 別のカップルのご主人はライカを手にしていた。このカメラはライカといってもミノルタのライカで「ミノルタCLE」という自動露出方式のレンジファインダーカメラであった。付いていたレンズは広角系のものであり、そのレンズは値が張ることを私は知っている。カメラは裸で首にぶら下げており、時代を経ているにも関わらず擦り傷がないから、旅のための小道具なのであろう。そのような何組かの熟年カップルが京都駅構内に消えた。

 アウトドア雑誌から抜け出してきた姿に



 旅をビシッと決めるとなると衣装に気をつかうことになる。  熟年もジーンズをためらいなく着用する時代になった。ジーンズは年格好をキャンセルするらしい。帽子のうちのキャップが同じ働きをする。昔、流行った頭の形そのままのキャップが復活していて、この帽子をかぶると誰もがアウトドア雑誌から抜け出してきた姿になってしまう。チノパンツに格子縞のカッターシャツを着て、このキャップをかぶり、茶色の本革性の軽登山靴を履いていたら、服装に年齢が無くなってしまう。  このような人々を数多く見かけるようになった。もうじき60歳になるS氏などもハイキングに出かける時は若者と同じ姿で現れる。

 中年ダンディー氏と私



 世の中には洒落者が多くいる。ブランド品以外は決して身に付けることがない人種は何といううのか知らないが、頭のてっぺんから靴と靴下までブランド物で固める。ある旅行でご一緒した中年ダンディー氏と私の靴とがたまたま同じブランドのものであった。

 翌年の旅行に私は別の靴を履いて行ったが、お洒落の中年ダンディー氏はどういう訳か昨年と同じ靴を履いてきた。  

 ダンディー氏は私の風体をみて「横田さん、随分くだけた服装で来ましたね」。

 西郷さんの銅像の草履にはかかとがない



 日本人は靴を履いて歩くようになった。欧米人と日本人の歩行の様子は骨格からくるものなのか、その歩行の姿は明らかに違う。

 最近知ったことであるが、日本人はかかとを着けない歩き方を明治までしてきたのだという。その証拠が上野の森の西郷さんの銅像で、履いている草履にはかかとがない。

 日本人の歩き方の特徴であったことのもう一つは難波(なんば)歩き。同じ側の手と足が同時に前に出る歩き方で、昔の絵巻物がこの歩き方を証明的している。この歩き方は重い物を持って駆けるときに便利であるという。

 歩き方には民族性がにじみ出るもののようだ。

 服装には人柄が出る



 服装の話であった。

 服装には知らず知らずその人の人柄が映し出される。

 現代の日本人の裃(かみしも)は背広にネクタイである。私はこれが大嫌いな口であるが、人間は様々であり働くときはなっぱ服(作業衣)であるものの、通 勤には折り目正しく背広にネクタイ姿の人が割合に多い。

 蒸し風呂といってよい日本の夏にご苦労なことである。

(1998/11/16 京都の宿にて)

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日本人の旅と芭蕉と旅について(旅の考察)

日本の旅は夏。

 夏こそが旅情をかきたてるのが現代であろうか。

 芭蕉の句の印象に残るのが夏の句である。芭蕉の有名な句は奥の細道に多い。 その中に

 ○夏草や 兵共が 夢の跡     芭蕉



  があり  

 ○閑さや 岩にしみいる 蝉の声   芭蕉    

 がある。

 芭蕉の奥の細道のハイライトの東北行脚が夏なのであるから夏を季題にした秀句があるのは頷けることである。

 芭蕉の奥の細道は歌枕を訪ねる旅であり、わが心の師とする西行の足跡を辿る旅でもある。残り少ない人生を「奥の細道」の紀行文を通 じて集約する大事業でもあったと想像される。

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「人はなぜ旅が好きなのでしょう」 旅先で突然芸術家に変身する人N氏

私のパソコンの先生のN氏は旅行に出るといきなり写真芸術家に変身する。素人の芸術家が変身術によって撮影した写 真は、ゲェーと反吐(へど)の出る代物。旅は人の心を舞い上がらせ、「芸術家」に変身する自由を与える。こうした変身は人の迷惑にはならないが、本人が後で考えると恥ずかしくなるだけのこと。だから皆さん旅に出て、大いに変身してください。理由は不明ですが「旅は生命の源」と述べる人がいるのです。

 人はなぜ旅が好きなのでしょう。その理由と思われる説を心理学の専門家がある本で説いていました。そのうちにその説に触れてみようと考えています。

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夏至の日の旅と北アルプスの立山越え

6月の夏至の日に旅をした。

 日が一番長いので、山登りをするととても楽しいから一年で最上の日であると思っている。富山市に出かけ、立山から黒部湖を経て信濃大町に抜ける旅行をしたのである。季節外れの早い台風が到来したので、富山市に予定外の逗留を余儀なくされた後での北アルプス立山越えであった。

 その前年の秋に同じルートを旅した。この日は室堂に宿を手配していたが、山に雪が来る寒さに里心がついて大町に出てしまった。  

 ずいぶん昔に同じルートで剣岳と立山に登ったことがある。このときは剣山荘と室堂の小屋に計二泊した。帰りに大町ルートをとったのだが、室堂からの記憶が全くない。この記憶を呼び戻すことを楽しみの一つに、北アルプス立山越えの旅を二度敢行したものの記憶は戻らなかった。

 それにしても3000メートルを超える日本アルプスを突き抜ける交通 手段ができていることは驚異である。私は、海のまち富山から電車やバスやロープウエイやトローリィーバスを乗り継いで安曇野に出られることが非常に面 白いと思うのである。夏至の日の立山の室堂までのバスルートの一部には6メートルの雪の壁が残っていた。台風一過の立山の夏景色を期待したが室堂はガスに包まれていて気温は摂氏6度であった。

 黒部湖が眼下に見える黒部平にまでロープウエイで下ったところで、雲間から陽光がもれてきて新緑のダケカンバやナナカマドを美しく照らした。

 急ぐ旅ではなく、帰り道に大町でも松本でもどこでも一泊する余裕があったので、私の気持ちはゆとりに満ちていた。

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ローマの街角で

旅は日常からの脱出だ。 

 家と職場の事務所を往復だけで日を過ごしていると、段々と脳髄に澱が沈着して元気がなくなる。人間同じことを繰り返していると飽きてしまうのだ。日常から脱出するには休暇がよく、その休暇には旅に出るといい。旅をすると人間は元気になる。

 旅行評論家の誰かが「旅は生きるエネルギーだ」といっていた。この旅行評論家は人類が人間になるとき大移動したことが現在を生きるホモサピエンスの脳髄の奥深いところに叩き込まれていることは知らなかったようであるが、旅をすると人間が元気になることだけは経験と観察を通 じて知っていたのであろう。見慣れない景色を見ること、知らない風俗に接すること、それはエキゾチズムの体験であり、人間を元気にさせるのである。

 日本人にとってのエキゾチズムは石の家の文化の国である。イタリアのローマほど石の家の文化に包まれているところはない。

 読売巨人軍より「永久に不滅」なのが石造りの古代都市ローマである。日本の苫屋(とまや)は10年で朽ちるけれど、ローマの遺跡は紀元前からのものである。

 ローマは2度訪れている。宿泊した5つ星のホテル・エデンは石造りの立派な建物であった。内装がまた素晴らしく豪華絢爛で王宮に迷い込んだ気持ちなった。

 ファッションといえばミラノになるのであろうか。総じてイタリアンファッション。しかし旅行した先はローマであった。スペイン広場を起点にグッチやフェラガモが店を出しショッピング街を形成する。

 2泊したローマでの夕食はシーフードのサバティーニと浅草・濱清のローマ直営店。東欧が開放されたらパリやローマはこれらの国々から来る観光バスがうんと増えたという。

 普段は文化や歴史に縁遠い私もローマにおのぼりさんとして出かけたのであった。

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白昼夢 銀河鉄道につながる道が見えた

夏休み、1週間です。土、日を加えますと10日間になることもあります。

 この年の夏は鮎釣りを中心にして過ごしてきました。いつも夏休みは東へ西へ、南に北に渓魚と鮎を求めて走り回ります。

 東京の人々の夏の避暑地がある中央道の混み具合は尋常ではありません。相模湖 までなら夜間は1時間で行きますが、平日では下手をすると4時間かかります。暑い暑い4時間です。

 今年は山梨県の山中湖近くの山伏峠を水源とする道志川にも出かけてみました。水がきれいなためでしょうか、小さいけれど姿の良い鮎が棲む川です。春は山女魚の川ですが夏は鮎が勢力を伸ばします。  東北は岩手の川も覗いてきました。小本川、閉伊川、鵜の住川、甲子川に出かけました。岩泉、宮古、釜石です。

 民話のふるさと「遠野」には立ち寄る暇がありませんでした。昨年は宮沢賢治生誕100周年につられて花巻の「宮沢賢治記念館」に出かけました。その賢治は私の勤務する事務所がある神田駿河台の「主婦の友」ビル脇の路上で倒れました。何かの縁と思うのは私の勝手です。

 その身勝手が高じたのでしょうか。新潟県の湯沢町土樽の上越線の高架をみて賢治の「銀河鉄道」を思い浮かべてしまいました。

 写真は私の賢治の銀河鉄道を思うあまりの真夏の白昼夢です。

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TOKYO 私の夏 神田・駿河台下交差点

この年、日本列島の梅雨開けは何時だったろう。

 梅雨が開ける前に東京には猛暑がきた。

 そしてこの夏は台風が3度上陸した。梅雨明け後の台風は南洋の湿った熱い空気を運んでくるので梅雨と同じ気候に後戻りする。

 台風9号は隅田川の花火大会を一日順延させ、7月27日の日曜日に開かせた。花火見物に絶好の立地の「浅草ビューホテル」は普通 の人には予約がとれない。沿道は交通止めになるので早くにゴザで陣取れば見物が可能だがこの日はむせ返る暑さだったのでこれは止め。

 カメラ片手に吾妻橋から雷門に抜けようとすると整理の警察官が立ち止まることを許してくれない。暇なことだしと両国橋の所まで出かけてみたら、いい雰囲気の飲み屋があった。そこで一杯やって午後8時半に店を出たら花火大会は最後のドカン、ドカンやった後で、みんなぞろぞろ帰り支度であった。アレレ・・・これはしくじったと思ったが後の祭りとはこのことか。

 隅田川には屋形船が所狭しとあふれていたのでその提灯行列を見物。暗い川から屋形船の船頭の怒鳴り声が聞こえるので目をやると船と船とが喧嘩をしている。怒鳴り声はスピーカーから発せられていて、進路妨害をしたことが許せないのだといって船方が屋形船の屋根を走りながら竹棒を振り回していた。船方たちもお神酒が入って頭に血が上っているのだろう。川岸からはなかなかの見せ物であった。乗り合いの客達は興冷め顔。この日の隅田川は何時にも増して交通 渋滞であった。

 昨年の同じころ栃木県の那珂川に鮎釣り出かけての帰り道、偶然に真岡市で花火大会に遭遇。道端に車を停めてしばし他人の庭での花火の見物。また新潟県の湯沢町の花火大会は寄付をした人の名前を読み上げながら打ち上げる。小さな町の花火大会は豪勢にはなれない。侘しさをどこかに漂わせた夏の風物詩である。火事と喧嘩と花火は江戸のものなのだろう。

 話が飛んでわが事務所のある神田駿河台界隈の夏。スポーツ店と書店が同居するこの街は出版社の街でもある。大学と専門学校と予備校の街でもある。終電過ぎまで仕事をしていつものビジネスホテルに電話をしたら、予備校の夏季講習に上京してきた受験生で満室であった。受験生の夏は駿河台の夏であり、駿河台は青春の思い出の地になるのだろう。

 写真は東京神田の駿河台交差点風景。コンサイスの三省堂、角川ミニ文庫と書泉ブックマートの大きな看板が夏空に翻る。書泉ブックマートの看板は何故かずっとカワセミなのである。

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伊達男はアウトドア雑誌から抜け出した姿で上高地に現れた

 旅をビシッと決めようとすると服装に気をつかうことになるようだ。近頃は熟年もジーンズをためらいなく着用する。ジーンズは年格好をキャンセルする。ツバつきの帽子のことをキャップという。その昔、流行った頭の形そのままのキャップが復活していて、この帽子をかぶると誰もがアウトドア雑誌から抜け出した姿になる。チノパンツに格子縞のカッターシャツを着て、このキャップをかぶり、本革性の軽登山靴を履いたら、年齢が無くなってしまう。中年ダンディーのS氏はハイキングには若者と同じ姿で現れる。S氏は大学山岳部のOBで日本山岳会の会員である。「Sさん大学で何を習ったの」と聞くと、「僕は山岳士です」と答える。背が高く足も長いS氏は一緒に出かけた上高地には見事ないでたちで現れた。茶をやり、絵を描き、俳句を詠むS氏に俳句の水を向けたが一ひねりはなかった。ならばスケッチをと促した。そのS氏は私のスケッチを見て物怖じしたのである。私のスケッチは串田孫一にならったもので、早ければ3秒遅くても30秒で仕上げてしまう。3秒スケッチを見たS氏は唖然として、ついに自分の画帳を開くことがなかった。S氏のスケッチは克明に描くやつで、20年前の余白がまだ残っている画帳を上高地に持ってきた。私は写 真を撮ってスケッチして野鳥観察もするのでとても忙しい。

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飛騨高山の人力車

 飛騨高山はノーベル科学賞を受賞した白川英樹氏の故郷だ。高山は安房トンネルが開通 したので松本からの冬場の足の便がよくなった。松本からの便がいいということは、東京からは大いに近くなったということであり、嬉しい限りだ。車での旅、列車での旅と旅には様々な旅がある。飛騨高山のような古都や城下町への旅となると、旅人の方も少し身構えるようだ。旅とダンディズムということで、世の中には洒落者が結構多い。私は高山には4度出かけているが、一番新しい高山への旅は観光バスで出かけた。前年も同じような旅をした人々との団体旅行であった。旅行に参加した人々は無意識に衣装比べをしており、私がどうでもいい格好をしていったら「横田さん、今日はずいぶん楽な格好をしているじゃない」。見ているものですね、皆さん。飛騨高山は京都と似ており旅姿に気を使いたくなるところである。昔の建物をおしゃれに飾り立てての土産物屋には風情がある。高山観光の中心街である上三之町には人力車が待機していて、三千円で高山の町を案内してくれる。人力車は2人乗り。これには若いカップルがよく似合う。料金の三千円は思い出の値段ということか。夏に自家用車で郡上八幡に鮎釣りの旅をした帰りに、宮川の朝市を見物できて嬉しかった。

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