田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

  田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)
田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


(本文)

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族のの子弟は作人館で和漢ほかを教わった。そのご作人館は盛岡中学に変わる。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでないが、高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。

田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


(本文)

第43話。
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


      権度課課長 高野瀬宗典

第43話、その1。
菊池大麓、山川健次郎、田中館愛橘が主力となって東京大学理学部を運営した

 明治初年からの度量衡制度とその基礎をなす度量衡法令の制定の動きを年代で追ったのが次の年表である。明治初年(1868年)から明治40年(1907年)までの主な動きである。産業革命の技術と思想をとりいれて殖産興を図ろうとする。四書五経を習い覚えることが学問とされていた時代には物理学や数学は学問と思われていなかった。米国エール大学で理学の学んで卒業した会津藩家老の子、山川健次郎は日本と欧米の産業の大きな開きは理学思想にあると感じ取った。理学士となった山川は帰国して開成学校そして東京大学で教鞭を執る。

 米国人のメンデンホール、英国人のユーイング、そののちにやってきた英国人ノットが帰国した後には菊池大麓、山川健次郎、田中館愛橘とその同僚がが主力となって東京大学理学部を運営した。田中館愛橘はノットと入れ替わりで英国ならびにドイツ留学から帰国して教授に任官され、翌年には理学博士になった。菊池大麓、山川健次郎とも東京大学総長の職務を与えれれるが田中館愛橘は理学部長の役職にも付かないで東京大学在職25周年祝賀会の席上で辞職を表明して慰留を拒んで退職した。満60歳のことである。これが東京大学60歳定年の慣行となった。

 田中館愛橘の薫陶を受けた後の東京大学理学部長の中村清二は、菊池大麓、山川健次郎、田中館愛橘の教授陣はどんなに朝早くであっても本を読むなどして勉強していたという。学問にも命をかけて真剣に取り組んでいなくては父に殺されると述べていたという。田中館愛橘のことである。

 このような人々によって日本の理学は背負われて歩みを始めたのである。

第43話、その2。
明治初年(1868年)から明治40年(1907年)までの度量衡制度と度量衡法令の動きの年表

1868年(明治1年)3月、松平慶永(雅号は春嶽)度量衡制度を確立すべきことを建議。

1869年(明治2年)11月、度量衡大蔵省の所管となる。11月、従来の度量衡の制の踏査を東京府に命ず。

1870年(明治3年)8月、大蔵省に度量衡掛を置く。9月、メートル法を基礎とする制度案を衆議院に下問。国際分野では8月にパリで24か国が参加してメートル法国際会議が開かれる、この場で調査準備委員会を設置。

1872年(明治5年)9月24日、第二回国際会議が30か国が参加して開かれる。メートル法および条約の具体案はほとんど決定をみる。また常置委員会を設立した。調査準備委員会白金90%、イリジウム10%お合金を元気材料とする案、線度器とする案、国際局を置く案などを決定。

1875年(明治8年) 8月15日、度量衡取締条例および検査規則、種類表等を頒つ(達135号)。同月、原器および計算表を府県に頒つ(大蔵達2108号)。9月外務省メートル条約加盟のこと上申するも許されず。フランスは駐日公使を通じてメートル条約加盟を勧誘宇。大蔵省は賛成、内務省は反対。3月加盟せずと決定。海外では9月に、メートル法外交官会議が始まる。5月20日、メートル条約成立。10月、国際局の敷地、国際委員会の手に入る。Govi初代局長となる(1877年まで)。

1878年(明治11年) 米人メンデンホールが東京大学教官として重力と地球密度を測定、気象観測等を行う。国際局建築終わる。国際局の最初のメートル原器できる(ジョンソンマッセイ製)。

1881年(明治14年) 4月、度量衡事務農商務省に移管さる。

1882年(明治15年) 6月、気象観測にメートル法を採用(内務省上申)。この年陸軍は陸地測量をメートル法によって行うことを決定する。

1885年(明治18年) 1月、農商務省よりメートル条約加盟のことを上申、4月さらに上申して7月許可となる。10月、メートル条約加盟手続きを終わる。。

1886年(明治19年) 4月16日、メートル条約加入を公布(勅令無号)。Guillaume、超不変鋼を創製(Guillaume、1920年ノーベル物理学賞を受く)。国内では明治13年(1880年)日本の度量衡法と度量衡制度の確立のために東京大学フランス語物理学科を卒業して駒場農学校で教鞭をとっていた高野瀬宗則を農商務省権度課長に招聘する。

1887年(明治21年) 東京天文台設立。

1889年(明治22年) 第1回国際度量衡総会(大山綱耕介出席)、国際原器による単位の定義決定。各国原器の配分。国際局の事業、メートル法の普及の決定。国際局の地点にける重力測定。10月、国際度量衡局においてメートル原器、キログラム原器を受け取る。

1890年(明治23年) 4月、日本原器(国際度量衡局においてメートル原器、キログラム原器)到着。12月、度量衡法案議会に上提。

1891年(明治24年) 3月、度量衡法公布(法律3号)、施行に関する勅令公布(勅令177号)、施行規則公布(農商務令11号)。電気試験所設立。気象台「米」(メートル)、「糎」(センチ)、「瓦」(グラム)などの略字を創出。国際委員会、米、Michelson(後に干渉計による諸研究によりノーベル賞を受く)の招聘を討議。

1893年(明治26年) 1月、度量衡法施行さる。メートル原器を標準とする尺貫法の制定。7月、復原器その他の標準器類を国際局に発注。

1895年(明治28年) 第二回国際総会(曽根荒助出席)。米、Michelsonによるメートルと光波の比較結果を報告、光波を参照として承認。

1899年明治32年 2月、副元器等日本公使館に引渡し終わる。

1901年(明治34年) 第3回国際度量衡総会(田中舘愛橘、高野瀬宗典出席)。キログラムの定期検査結果を報告。質量と重量を区別、標準重力値980.665cm/s2を採用。

1903年(明治36年) 度量衡講習を開始。
12月23日、中央度量衡器検定所を設立の勅令。橘川司亮中央度量衡器検定所長を兼務す。大阪に支所設置。検定を甲種と乙種に分つ。

1907年(明治40年) 第4回国際度量衡総会(田中舘愛橘、橘川司亮出席)。水1kgの体積の測定終わる。カラットを200mgと決定。田中舘愛橘、国際度量衡委員となる(1931年まで)。米、Michelsonが干渉計による諸研究によりノーベル賞を受く。

第43話、その3。
明治8年(1875)大学南校(もとの開成校)に物理学科が開設される

 明治4年(1871年)、文部省の設置にともない大学は文部省の所管に移り大学南校を南校と改称、貢進生を退学させて大学を一時閉鎖、学制を改革を行い新入生を募集し大学を再び開校した。貢進生とは各藩が経費を負担して学ばせている生徒のことである。

 明治10年、創立当時の東京大学4学部の教師39名のうち27名が外国人であった。東京大学は外国人教師を招聘して欧米の学問を学び取る場であった。講義は英語、仏語、ドイツ語など外国人教師の母国語でなされた。

 明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)にかけってアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を回る岩倉使節団が遣された。政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。 目的は不平等条約改正の予備交渉であった。海外視察を通じて日本の近代化すなわち、鹿鳴館に象徴される欧米文化を取り入れることの急務を確認することとなった。

 学制はこの時代右へ行ったり左にそれたり大きく変化する。

 明治5年、南校は第一大学区第一番中学と改称、明治6年には元の開成学校に戻り、明治7年には東京開成学校と名前を変える。明治6年(1873年)には、外国語を英語に限定した法学、理学顎、工学の3科と、諸芸(仏語)、鉱山(独語)の学科をつくり、開成学校から外国語学校を分離する。明治7年には外国語学校から英語科を分離して東京英語学校を開設している。諸芸(仏語)、鉱山(独語)の2学科が廃止される。数学と物理を教える仏語物理学科がつくられる。

 帝国大学総長浜尾新が明治28年2月17日、東京物理学校卒業式の演説に当時の事情が語る。

 「20年前デアリマスルガ東京開成学校ニ於イテ学科ヲ改正シ専門学科ヲ設置スルノ時二当リマシテ当局者ノ思ハレマスルニ理科ハ至重至要ニシテ一般ノ教育ヲ充実ナラシムル為メニモ百工技芸ノ応用学術ヲ拡充セシムル為メニモ之ガ基礎タル物理学数学等ノ純正学術ヲ振興シ上進セシムルニアラザレバ教育ヲ整備シ学術ノ進歩ヲ図カルコトハ能ハザルベケレバ特ニ物理学等ノ専門学科ノ設置ヲ急務トセラレタル次第デ、当時教科ノ改正ニ際シ物理学ヲ一科専門トシテ設置コトトナリ遠ク海外ヨリ物理学及数学専門ノ教師ヲ招傭シ仏語ヲ以テ予科ヲ履修セル学生ヲシテ就キテ専修セシメラレタル次第デアリマス、夫レヨリ数年ナラズシテ始メテ二十餘名ノ物理学卒業ノ学士ヲ出ダスニ至リマシテ尋デ当物理学校ヲ設立セラレタル者ハ即チ此等物理学専修ノ人々デアリマス」

 明治10年(1877年)、東京医学校と東京開成学校は合併して東京大学と改称され、法理文の3学部と医学部計4学部の構成となった。文学部は史学・哲学および政治学科と和漢文学科の2学科、理学部は化学科、数学・物理学・星学科、生物学科、工学科、地質学・採鉱学科の5学科で、物理学は数学と星学と一緒であった。東京英語学校は東京大学予備門と改称して法理文3学部の予科になる。明治元年から明治13年まで開成学校が東京大学になまでの経緯である。

 東京大学理学部で数学、物理学、星学科がそれぞれ3科に分かれたのは、フランス語物理学科が廃止になった明治13年7月の翌年の明治4年である。

 東京大学仏語物理学科を明治11年から明治13年までの間に卒業した21名は理学普及のための教育組織として理学講習所を創設する。高野瀬宗則は明治13年卒業の記録がみられるがそのほかの記載もある。

第43話、その4。
メートル法を推し進めた仏国と東京大学仏語物理学科卒業生の縁(えにし)

 高野瀬宗則が東京大学フランス語物理学科の卒業という経歴と日本でメートル法を基本にした度量衡法を制定して近代度量衡行政を施行していくこととは連動する。東京大学フランス語物理学科を卒業した東京大学理学部教授の寺尾寿はわが国のメートル原器をフランスから持ち帰っている。

 寺尾寿在職満25年祝賀会に於ける東京大学理学部教授で数学担当の藤澤利喜太郎がその事情を次のように語っている。
 
 「明治22年ニハ測地学ノ本邦代表ノ委員トシテ巴里ノ万国会議ニ御列席ニナッテ居リマス、一寸ソノ巴里ニ御出張ニナリマシタコトニ就テ此席ニテ胸ニ浮ビマシタノハ私ノ記憶ノ誤リカモ知レマセヌガ御帰リノ時分ニ現ニ本邦デ用ヰテ居リマス現今商務省ニ保管サレテ居ル我国ノ基本尺及ビ基本分銅ハ寺尾君ガ巴里カラ責任ヲ以テ御携帯ニナッタ様ニ記憶致シマス」(東京理科大学50年誌)

 藤澤利喜太郎は田中舘愛橘とともに東京大学理学部に進んだ四人のうちの一人で、藤澤は数学に、隅本有尚は星学に、田中舘愛橘と田中正平は物理に傾いていった。

(つづく)

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)

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田中館愛橘とその時代−その13−(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代−その12−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代−その11−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


田中館愛橘とその時代−その9−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代−その8−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代−その7−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その6−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代−その5−(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

 
 
 

田中館愛橘とその時代−その10−(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)


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日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

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日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。−その1−(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘−その1−(執筆 横田俊英)

メートル法と田中館愛橘、高野瀬宗則、関菊治の三氏(計量の歴史物語 執筆 横田俊英)






冬の山中湖と富士山

滋賀県・草津市の宿で王将の餃子をたべた

京都三条の街は気詰まりで滅入る

神戸は港町だが山の街でもあり大都市だ


6月24日の霧ヶ峰高原道路だ。強清水から車山・肩駐車場に向かって走る

正月の下呂温泉は一夜にして白銀の世界になった

上高地 晩夏

風の子の子供たちですが人は風邪を引いてはなりません

川崎大師平間寺で願い事をする

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色(2)
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

霧ヶ峰高原 晩秋

和歌山市加太港の浜に立つ

山梨県牧丘村で秋の風景に出会った。今は新しい市になっているがその名は知らない。

ダイヤモンド富士

酉の市(おとりさま)

浅草の浅草寺界隈に足を向けた 外人がいて蜘蛛の巣の鉄塔が見えた

旧塩山の恵林寺界隈を見物した

仙台藩と青葉城

カラスウリが赤くなって秋です

スズランが赤い実を付ける秋の始まりです
 

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-