6月に咲くアカシアの白い花がうれしい
「アカシアの雨」の歌詞の下敷きは芹沢光治良『巴里に死す』
6月に咲くアカシアの白い花がうれしい
執筆 旅行家 甲斐鉄太郎
計量計測のエッセー 
6月に咲くアカシアの白い花がうれしい

6月に咲くアカシアの白い花がうれしい 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

アカシアは初夏を告げる花である。近づいてみると清楚な花だ。

6月に咲くアカシアの白い花がうれしい 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

アカシアの雨とはアカシアの花びらが散るさまのことなのだ。

6月に咲くアカシアの白い花がうれしい 執筆 旅行家 甲斐鉄太郎

アカシアことニセアカシアの白い花が同じ道沿いに咲く。

6月になってアカシアの白い花が咲くのがうれしい

 6月になってアカシアの白い花が咲くのがうれしい。4月から咲き始めていて寒い地方あるいは標高の高いところに花が広がっていく。その白い花はアカシアでよいのだが分類学的なこだわりをする人がいるからニセアカシアのことであると言葉を添えておく。

 東京郊外の三増峠に一本の黄色い花をつけた大木があった。これがアカシアなのだが滅多にみない。

 春は桜の花につづいて花桃が咲き、やがてアカシアことニセアカシアの白い花が同じ道沿いに咲く。アカシアは初夏を告げる花である。そのアカシアは川沿いに広がっている。水が好きなのかどうかわからないが川べりによく生えている。明治期に米国からいれられた木であることになっている。それが良く繁茂して6月の川筋はアカシアの白い花でうめつくされる。

 春の菜の花は蜂蜜になる。蓮華の花も蜂蜜になる。咲く花の量を比べるとアカシアの花が圧倒的に多い。蓮華は探さなくてならないほどであり菜の花も養蜂のために栽培するのでは効率が悪い。アカシアが咲き誇っている様子をみるとこれ以上の花はないと言い切れる。蜂蜜の4割はアカシアの花からとれる。いろんな花が集まった百花蜜がある。百花蜜に占めるアカシアの割合は多いからアカシアの花からとれる蜂蜜は全体の6割になると推量できる。

アカシアの花とアカシアの雨

 「アカシアの雨」とは歌の文句である。歌詞の一節だ。「アカシアの雨」とはアカシアの花びらが散るさまのことだ。このアカシアとはニセアカシアである。アカシアというと『アカシアの雨がやむとき』が思い浮かぶ。「アカシヤの雨に打たれて」「このまま死んでしまいたい」というの歌詞の西田佐知子の歌だ。

 「夜が明ける」「日が昇る」「朝の光にのそのなかで」「私は死んでしまいたい」という切ない歌詞だ。「アカシアの雨」とは、アカシアに雨が降っている、とか雨の中のアカシアの花、ということと理解されがちである。アカシアの房になって大量に連なっていて咲き乱れる傍らからチラチラと或いはボサボサと花びらが散るのだ。その様子を雨に見立てて、アカシアの雨としたのである。アカシアの雨とは、雨のようにアカシアの花びらが散るさまのことなのだ。

 『アカシヤの大連』で1970年に清岡卓行は第62回芥川賞を受けた。日本が支配していた大連のようすを乙女への恋心とあわせて描いた。大連の向こうにはがある。私が25年ほど前に大連から203高地にでかけたのはアカシアの花が咲くころであった。未舗装の道に農家がまばらにある景色を『アカシヤの大連』を重ねて考えていた。

 日本ではニセアカシアのことをアカシアと呼んでいる。蜂蜜をとるアカシアはニセアカシアの花である。石原裕次郎は『赤いハンカチ』で「アカシアの花の下で」と歌った。北原白秋の『この道』は「あかしやの花が咲いてる」「白い時計台」とする。アカシアは春であり北国であるか楚々とした土地を思い浮かばせる。この花はニセアカシアの白い花穂のことであり、その花穂は藤の花のように房状に下がる。若い木は上に向けて花をつけている。花の咲き始めは房は小さいが開花がすすむにつれて大きくなる。

「アカシアの雨」の歌詞の下敷きは芹沢光治良『巴里に死す』

 西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』が人気歌謡になったために「アカシヤの雨に打たれて」「このまま死んでしまいたい」の歌詞が日本人に刻み込まれた。

 水木かおるの作詞である。水木かおるは『巴里に死す』という芹沢光治良(せりざわ こうじろう)の『巴里に死す』という小説を下敷きにしている。1943年にだされた作品である。

 芹沢光治良のフランス留学に妻が同行していた。留学先で結核が再発すると妻ははかない生命を意識する。3歳になる娘の行く末などに思いを巡らす。光治良が付き合っていた女性への嫉妬がもちあがる。自分の命をつなぐ娘への愛しさがかすかな希望になる。「アカシアの雨に泣いている」「切ない胸はわかるまい」「アカシアの雨がやむとき」「青空さして鳩がとぶ」

 このような情景をおりこんだのが水木かおる作詞の『アカシアの雨がやむとき』である。『巴里に死す』は1952年に森有正がフランス語に訳し、発売された年に10万部が売れた。芹沢光治良のノーベル賞の調査があったことが伝わっている。アカシアの花にまつわって清岡卓行は第62回芥川賞を受け、芹沢光治良はもれた。清岡卓行も芹沢光治良も大学教員である。

アカシアの花と芹沢光治良と清岡卓行

 妻の結核の再発として小説『巴里に死す』では描いているが実際には光治良自身のことである。光治良は1919年第一高等学校仏法科卒業。一高在学中、肋膜と胃弱に苦しむ。1922年東京帝国大学経済学部卒業。農商務省に入省。1925年農商務省を辞任しソルボンヌ大学に入学、金融社会学のシミアン教授 (François Simiand) に学ぶ。フランス滞在中に結核が再発し療養する。

 スイスのレザンに芹沢光治良が療養したサナトリウムの建物が現存する。1929年帰国、1930年 療養中の体験に基づいた作品『ブルジョア』で文壇に登場。中央大学講師。第5代日本ペンクラブ会長。

 清岡卓行は生まれてから敗戦による本土引き揚げまでの20数年間を大連にいた。この間に一高、東大に在学する。東大在学中の1949年に、プロ野球の日本野球連盟に就職し、連盟分裂後はそのままセ・リーグ事務局に勤務して日程編成を担当。「猛打賞」を発案した。1964年退社し、法政大学講師を経て教授となる。大連の澄明な風土やロシアと日本の租借地で育ったことが作品におりこまれている。

(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)

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