漱石、龍之介、鴎外、子規にみる頭の形(日本人の頭の形)
夏目漱石と芥川龍之介が鉢の開いた頭と表現するその形はどのようであるか
漱石、龍之介、鴎外、子規にみる頭の形(日本人の頭の形)
計量計測のエッセー 
漱石、龍之介、鴎外、子規にみる頭の形(日本人の頭の形)

夏目漱石も芥川龍之介も鉢の開いた頭と表現する

 頭の形のことを夏目漱石と芥川龍之介がともに「鉢(はち)の開いた頭」として触れている。夏目漱石と芥川龍之介は師弟関係でもある。

 夏目漱石は「坊っちゃん」で、庭続きの質屋山城屋の十三四のせがれ勘太郎を「鉢(はち)の開いた頭」と表現する。

 その一節は次のような内容だ。

 勘太郎は弱虫の癖くせに四つ目垣を乗りこえて栗を盗ぬすみにくる。向むこうは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。「鉢(はち)の開いた頭」をこっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷あわせの袖の中にはいった。足搦(あしがら)をかけて向うへ倒たおすと勘太郎は自分の領分へ落ちて、ぐうと云った。おれの袷の片袖がもげたので母が山城屋に詫わびに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。

 芥川龍之介は「竜」で法師恵門の頭を「鉢(はち)の開ひらいた頭」と三度表現も述べた。

 興福寺の南大門のまえにある猿沢の池から竜が飛び立つという悪ふざけの立て札が本当になった話だ。 悪ふざけの立て札をだしたのは恵門と同じ坊に住む恵印法師である。「鉢(はち)の開ひらいた頭」とされた恵門のことが次のように述べる。

 片意地な恵門は竜などでるはずがないと、「鉢(はち)の開ひらいた頭」を聳(そび)やかせたまま、行きすぎようと致しましたが、恵印の挑発にのせられて立て札をみると「ははあ、そのような高札こうさつが建ちましたか」と気のない声で云い捨てながら、またてくてくと歩き出しましたが、今度は「鉢の開いた頭」を傾けて、何やら考えて行くらしいのでございます。立て札が評判になって集まった大勢のなかに恵門法師がいてあいかわらず「鉢の開いた頭」を一きわ高く聳やかせながら、鵜の目もふらず池の方を眺めて居るではございませんか。

蓮の花が咲きおわって実がなると上部が平で下部が萎(しぼ)んだ逆円錐形になる、そのことを指すのか

 夏目漱石と芥川龍之介がともに「鉢(はち)の開いた頭」と表現した内容は同一のことであろう。おそらくは蓮の花が咲きおわって実がなると上部が平で下部が萎(しぼ)んだ逆円錐形になる。漱石と龍之介はその状態を述べているのだろう。そのような頭の形をした日本人が大勢いる。大きく立派な頭の形である。

漱石、龍之介、鴎外、子規の顔と頭の形


日本の文芸人 千円札の夏目漱石


日本の文芸人 少し違った夏目漱石


日本の文芸人 芥川龍之介


日本の文芸人 森鴎外の横顔


日本の文芸人 正岡子規の横顔

 芥川龍之介は面長の顔立ちであり美男だ。夏目漱石は横に張った顔立ちであることが千円札の絵が示す。顎(あご)が張っている。芥川龍之介の頭蓋骨はどのように眺めても「鉢(はち)の開いた頭」ではない。

 夏目漱石は教頭の赤シャツのことを学士と言っているが松山中学では学士は漱石一人だけであり校長よりも給料が多かった。北杜夫の漱石全集への解説に書かれている。高等師範学校の教師から旧制松山中学に移り、一年で熊本の旧制第五高等学校に転じている。「坊ちゃん」のなかで漱石は自分のことを別な登場人物に移し替えて表現する。隣の質屋、山城屋のせがれ勘太郎の面立ちは或いは漱石自身のことを写しているのではないか。

 漱石は松山時代に帝国大学の学び仲間だった正岡子規と旧交をあたため、俳句の作句に熱をいれていた。正岡子規は結核が悪化して松山で病気と闘っている。子規は「坂の上の雲」にでてくる海軍士官の秋山真之とは松山中学と大学予備門で一緒だった。人の縁の妙である。

 芥川龍之介の写真は斜めからのものがあって後頭部の形をある程度みることができる。夏目漱石の写真はせいぜい浅い角度の斜めからのものであり後頭部はみえない。文豪というくくりで取り上げると森鴎外は完全な横からの写真があって張り出た後頭部と丸い頭の形が写されている。森鴎外が頭の形に自信があったことによる横からの写真撮影の承諾だったか、鴎外が医者で陸軍軍医局長(中将相当)であったことによるのか。森鴎外の頭の形はどのようにみても「鉢(はち)の開いた頭」ではない。

漱石、鴎外、子規、龍之介の業績

 夏目漱石は英国留学を命じられて滞在するも大学には通わずに自らの文学論を模索する。それまでの講談物のような文芸から新しい文芸を編み出そうとする。「坊っちゃん」などの大衆文芸をてがけるうちに「行人」「こゝろ」「硝子戸の中」など人の心のことなどに心理描写の手法を築き上げる。夏目漱石が切り開いた口語体による小説手法はその後の日本の文芸の基礎となった。

 森鴎外は東京大学医学部卒業ののち軍医本部付となり、1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられる。
帰ってのち陸軍省医務局長を8年半勤めて退く。

 1889年(明治22年)には読売新聞の付録に「小説論」を書いている。森鴎外が外国語を日本語に翻訳した言葉は多い。歴史に題材をとった小説「阿部一族」や「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斎」を書く。1915年(大正4年)ころまで現代小説も書いていた。森鴎外の小倉時代は松本清張の筆がそのようすを描写する。

 正岡子規(まさおか しき)は漱石と親交がある。1883年(明治16年)上京し共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門に入学する。松山中、共立学校で同級だった秋山真之とは松山時代からの友。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓である。

 大学中退後、日清戦争では1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡る。同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)に挨拶をして帰国する。帰途の船中で喀血して重態に陥る。「鳴いて血を吐く」ホトトギスになぞらえてホトトギスの漢字表記「子規」を俳号とした。1897年(明治30年)に俳句雑誌「ホトトギス」を創刊。俳句分類や与謝蕪村などを研究。日本の近代俳句のいしずえを築いた。漱石と同宿して俳句会などを開いていたこともある。1902年9月19日(34歳没)。

 芥川龍之介の命日である7月24日の法要が河童忌である。文学者たちが集まる法要だったがいつしかこの呼び名が定着した。芥川の心境は「河童」など晩年の作品に現れている。漠然とした不安にさいなまれていた。

 東京帝大在学中の1914年(大正3年)一高同期の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行するなど文芸活動を行っていて、1915年(大正4年)「羅生門」を「発表。このころに夏目漱石門下に入る。

 1916年(大正5年)に発表した「鼻」を漱石がほめる。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。文豪や名作家といわれる人の作品には下敷きとなる古い物語があることが多い。龍之介も似たことをしている。作品のなかに心を解き放つことができるようになるのは後の世代の作家に持ち越されたのだ。

 芥川龍之介の命日である7月24日の法要が河童忌である。文学者たちが集まる法要だったがいつしかこの呼び名が定着した。芥川の心境は「河童」など晩年の作品に現れている。漠然とした不安にさいなまれていた。

 東京帝大在学中の1914年(大正3年)一高同期の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行するなど文芸活動を行っていて、1915年(大正4年)「羅生門」を「発表。このころに夏目漱石門下に入る。

 1916年(大正5年)に発表した「鼻」を漱石がほめる。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。文豪や名作家といわれる人の作品には下敷きとなる古い物語があることが多い。龍之介も似たことをしている。作品のなかに心を解き放つことができるようになるのは後の世代の作家に持ち越されたのだ。漱石も鴎外も龍之介も作品に自分を投げ出してそのことと調和し心の平穏を実現することができなかったようである。

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(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)

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