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北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
 旅行家 甲斐鐵太郎



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北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

室堂の高い山から南西の方角にみえる薬師岳。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

北アルプスの最奥地の楽園の雲ノ平。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎岳とそのカールのもよう。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎小屋。三角屋根の小屋は印象に残る。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

三俣蓮華岳と三俣山荘。オーナーは伊東正一氏の一族。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

1979年当時「晴嵐荘」は都はるみが大音量。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

湯俣温泉「晴嵐荘」の食堂のようす。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

(本文)

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りた。真上で雷が炸裂する夜をテントで過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。この間もうかれこれ三泊。夜行寝台で上野駅から富山駅に移動したのであるが、準備の疲れがあった。槍ヶ岳に向かう行程を切り上げて伊東新道を青嵐荘まで下った。1979年夏のことであった。

 伊東新道はこの下山から四年後に廃道になった。伊東新道は登山地図に明確に書かれた道であった。道の状態はこのときすでに廃道といってもよかった。川沿いの傾斜がきつい高巻は砂地になっていて、上から崩れている状態がつづき、踏み跡を確かめることができなかった。靴を垂直に置けない傾斜した砂地は脆く、いつ滑るか知れない。砂の斜面は遙か下の湯俣川に崩れ落ちていた。危険極まりないその状態にあるにも関わらず、明瞭に印刷された伊東新道の登山地図に首を傾げながらも、この地図は現在の地形とは違うという判断を下すことができなかった。引き返すのと進むのが同じ危険度であってみれば、進むことを選択せざるを得なかった。地図の記載は過去にあった事実である。この事実は情報なのであるが、事実が変わっているから情報は書き換えなければならない。このことへの理解が不足した。一般人の一般的な登山計画では地図にある情報が事実と違うことなど想定されなかった。

 1983年に伊東新道は廃道になった。ある橋が壊れたことによる。2018年8月の時点で、伊東新道を再建する動きがあるがまだ一般の人の登山ルートにはなっておらず熟達者でも難しい。

 伊東新道から槍ヶ岳に登るルートとしての選択は2018年8月の時点ではない。湯俣温泉から湯俣川を直ぐに左にとって北鎌尾根に向かうルートは登山者の憧れの対象であった。北鎌尾根コースはあとでふれる。

 伊東新道を使って三俣蓮華岳に向かう登山者は少なかった。登山者が少ない山道は荒れる。荒れた果てて廃道になった。登山者が少ないのには理由があった。バス事情といった社会的な理由と吊り橋など登山道維持のための自然にまつわる理由の二つが相乗作用した。

 登山者が少ない伊東新道は荒れた。登山雑誌では伊東正一氏の英雄的な活躍をもてはやしていたことと、登山地図に明瞭に記載された登山路である。情報は登山雑誌と登山地図に限定される。この情報を信じ込んでいるから山小屋の管理人に確認することなど思いもよらない。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊したため登山道としては利用できなくなった。利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊東新道はその後2017年ころ雲ノ平山荘のオーナーによる伊東新道の探索・登山をしている様子をNHK が放送した。道だったところには木が生い茂っている。とても道とは思えない状態だ。探索したのは伊東新道を開いた人の子孫であった。山なれした人でも手を焼く難所になっていた。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊するなどしてして通常の登山道としては利用できなくなった。あえて利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊藤新道は湯俣温泉から湯俣川に沿って遡上し三俣山荘に至るルートである。伊藤正一(1923年から2016年6月17日)氏が1956年に開いた。途中、湯俣川をに5つの吊り橋を架けていた。伊藤正一氏が経営する三俣山荘屋、雲ノ平山荘への補給路として使われていた。その後北アルプス奥地への資材運搬がヘリコプター利用にかわった。物資輸送路としての使われない伊東新道は1983年に吊り橋が崩壊したことによって廃道になった。

 その状況はどうだったか。湯股川に架かる第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地は巨大な岩が崖上50m以上にわたって連なっている。2009年時点では巨岩は崩壊していなかった。それが2010年には崩壊した。影響で流れが変わって大激流になったために渡れなくなった。

 地図情報あるいは雑誌情報はいつでも過去のものである。この情報は現実には追いつかない。山と渓谷誌2010年8月号は、第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地の崩壊前の情報を掲載している。川を渡ることができるといているのだが、巨岩の崩落で川は激流となったために渡ることができない。通過するには高巻きすることになり、さらにロープ(ザイル)を使って5mの懸垂下降が加わる。普通の登山者が足を踏み入れてはならない道に変わった。

 谷地の登山道はいつでも崩落がつづいている。もろい岩肌そして砂地は絶えず崩れている。崩壊地以外の登山道も人が通らないから樹木に覆われるなどする。道とがいえないほどに荒れている伊東新道である。だから一般登山者は近づいてはならない。熟達者でも通行は崩壊がつづいていることなどもあって極度に危険である。

 北鎌尾根ルートからの槍ヶ岳登山は憧れの対象であった。少しの岸壁経験でやれると生意気をすると泣きをみる。山歩きをして一年か二年で岩登りの真似事をした男がベテランと二人で北鎌尾根ルートで槍ヶ岳に登ろうとした。疲労と恐怖が頂点に達して岩稜にへたり込んで泣きだした。登山はいつでも英雄主義がつきまといわが身を省みずに雑誌の世界の英雄に自分を写すことがある。生意気かつ軽薄な男の北鎌尾根でのざまであった。

 湯俣から吊橋を渡り湯俣川との合流点を水俣川沿いの道をとって進めば北鎌尾根ルートにさしかかある。現在の北鎌尾根ルートはかつての伊藤新道と同じように崩壊が進行している。上流の吊橋は落ちていて一般道としての面影は全くない。千丈沢と天丈沢の合流点を含めて千天出合(せんてんのであい)までの行程の崩落は激しい。岩稜と岸壁の登山の技術を要する北鎌尾根よりも途中の崩壊地を通過することのほうが難しい。

 登山地図に明瞭にルート表示されていてもそれを真に受けてはいけない。その情報は過去のものである。情報が地図に記載されたその翌日に事実は変化しているかも知れない。1979年夏の地図を首をかしげながらの伊東新道の下山路であった。

 恐怖に震えての伊東新道下山を経験した。岩稜登山は手足三カ所を付けていれば安定は確保できる。下は奈落の底の急斜面であれば踏み跡の消えた砂地を歩くことは運を天に任せたものであった。三点支持などない危険な斜面の横断がつづいた。くわばわくわばらの下山路であった。

 このような危険に遭遇するくらいなら槍ヶ岳をへて上高地に向かうのであった。

 伊東新道はなぜ崖崩れと吊り橋が壊れて廃道をよぎなくされたのか。関係者が要因を指摘しているのでそれを拾い上げて考察をする。

 伊東新道は昭和28年に着工、3年後の昭和31年秋に完成した。この道を使って7年がかり(昭和38年)で三俣山荘と雲ノ平山荘が建てられた。登山路は北アルプス最奥地へのルート開拓とあわせて山小屋設営が目的であった。

 昭和54年、高瀬ダムの完成で大量の水を貯水したことにより付近の地下水面が上がった。ダム周辺の山全体が膨らんで崩れやすくなったのである。湯俣の谷も各所が崩壊、桟道も落ちた。湯俣川のあちこちから出ている亜硫酸ガスは吊り橋のワイヤーを腐食させる。昭和44年からの高瀬ダムの工事により登山者が激減した。ダムゲートでの交通の制約とともに大町からのバスが廃止された。このために高瀬からの入山者が激減した。

 登山者が大きく減ると登山道は廃れる。伊東新道は5つの吊り橋の全部が落ちてしまった。昭和58年には通行困難な状態に陥り廃道となった。

 雲ノ平に下る三俣蓮華岳の麓(ふもと)に行くには、上高地からと烏帽子から行く二つの道があった。どちらからでも二日がかりである。悪天候になればさらに日数が増える。往復には四日かかる。ヘリコプターで資材を運搬するのはのちに始まったことである。戦後すぐのころには人が荷を背負って行くしかなかった。山小屋を建てるためには一日で登れる道が求められた。

 戦後一年目の昭和21年、伊藤正一氏が湯俣川を下ったのち谷全域を調査するために七年を費やした。伊東新道の建設工事着工は昭和28年である。ダイナマイトによって岩壁を打ち砕いて道をつけた。三年後の昭和31年秋に伊東新道は完成した。

 昭和38年になって三俣山荘と雲ノ平山荘が完成する。ボッカ(歩荷)による資材の運び上げであった。伊東新道が開通してから七年がかりの建設工事であった。三俣山荘ならびに雲ノ平山荘は北アルプス最奥地に安全に分け入ることに大きな役割を担った。山小屋は暴風雨から登山者の身を守るのに欠かせない。ことに大衆登山が普及するほどに山小屋のもつ意味は大きくなる。山小屋があることによって小さな装備で迅速に北アルプスを歩くことができる。

 北アルプスの槍ヶ岳をめざしての大縦走コースの裏銀座登山路は槍ヶ岳をずっと眺望する。遠くに浮かぶ槍ヶ岳ほど神々しい山はない。伊東新道は湯俣川の谷に深くはいるまでは槍ヶ岳をみながら歩くことができる。湯俣川の槍ヶ岳眺望の地である展望台までのコース、つまり三俣山荘から片道二時間の道が整備されている。往復四時間のコースで槍ガ岳の眺めを堪能することができる。険しい硫黄尾根の景色は圧巻である。鷲羽岳の森林の緑は雄大である。湯俣川はさまざまな水の色をみせる。

 伊東新道の復活のための取り組みがなされている。つくってもまた崩れるという状態の湯俣川沿いの道である。尾根筋つまり稜線の道は安定しているが、谷筋の道は壊れやすい。上高地にむかうターミナルの地、沢渡に橋が架けられた新道が通ると、旧道はすぐに崩れ落ちた土砂で道が消えてしまった。

 ダムをつくると流れ込む水によって川筋の地下水位が上がるので、地盤の膨張現象が発生して、思わぬ事象を引き起こす。日本の谷は深く急峻であり崖はつねに崩れている。手の施しようがないとえる。上高地の玄関口の釜トンネルの下流の梓川の崩落現象をみればわかる。

 湯俣温泉に一つだけ開いている晴嵐荘は青空の下にあった。山小屋で人心地ついた夕食には山菜の天ぷらがでた。晴嵐荘では都はるみのレコードが大音量で流れていた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだとしみじみと思った。オーディオもよいものだととも。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。オーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。だれはばかることなく大音量で都はるみを流している無邪気さがあった。1979年夏のことである。湯俣温泉は晴嵐荘だけが営業してた。いまも同じである。少し下ったところにある湯俣山荘があるがずっと営業はしていない。

 命を運に預けるようにして崩壊した伊東新道を下った。青嵐荘に辿り着いて生きた心地になった。青嵐荘の老夫婦は山から下りてくる者が危険で心が震えていたことなど感じない様子であった。真夏の晴天に都はるみのレコードの大音量が流れていた。窓の外には赤とんぼが止まっていた。平和な光景だ。夏の静寂とはこのようなものか、と思ったのは何年も後のことである。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた。虫をひょいとつかまえて何々だと語る。虫をみるために山を歩き晴嵐荘に立ち寄っていた。宿泊者はこの人だけであった。湯俣川の下流には葛温泉がある。その先は高瀬ダムである。川は大町に流れ下って大迂回をして川中島を流れて行く。その先は信濃川となって日本海に注ぐ。山道には昆虫に目を向けている人がいた。25歳を超えない青年であった。昆虫の知識をどのようにして得て、興味をどのようにつなげているのだろう。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への下山であった。余った日取りを葛温泉でくつろいだ。葛温泉の高瀬館には安曇野の散策のついでに運んでいる。

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(写真と文は甲斐鐵太郎)

[資料]

伊藤正一 (山小屋経営者) - Wikipedia

湯俣温泉 - Wikipedia

「伝説の登山道」復活 北アルプス「伊藤新道」 ファンら300人祝う /静岡 | 毎日新聞(2023/8/21地方版) (mainichi.jp)
長野、富山両県を結ぶ北アルプスの登山道「伊藤新道」の復活を祝うイベントが19日、出発点となる長野県大町市の湯俣温泉で開かれた。約40年前に廃道となった「伝説の登山道」の本格開通(20日)を前に、登山ファンや山小屋関係者ら約300人が集まり喜びを分かち合った。

長野:父の登山道40年ぶり再生 北ア最奥部至る「伊藤新道」 長男つり橋や桟道再整備:地域ニュース : 読売新聞(2023/08/16 05:00) (yomiuri.co.jp)
北アルプス最奥部の黒部源流域にある 三俣みつまた 山荘(富山県)と大町市の高瀬川上流の湯俣温泉をつなぐ登山道「伊藤新道」が20日、約40年ぶりに本格開通する。伊藤新道は同山荘を営んでいた伊藤正一さん(故人)が60年以上前に整備したが、徐々に荒廃し、一般登山客は通行できなくなっていた。経営を受け継いだ安曇野市在住の長男、圭さん(46)らが、つり橋や桟道を設置し復活に取り組んできた。(鈴木直人)。「ここに桟道があれば登りやすくなる。川が増水しても大丈夫だ」。伊藤新道で今月4日、圭さんが協力者らとともに岩場に桟道の設置を進めていた。伊藤新道は、正一さんが私財を投じて10年ほどかけて整備し、1956年に開通させた。長野、岐阜、富山県境の三俣蓮華岳(2841メートル)や鷲羽岳(2924メートル)に続く全長約10キロ、標高差約800メートルの沢登りルートだ。岩壁の間を流れる湯俣川は温泉成分を含み、その鮮やかな色合いから「湯俣ブルー」と呼ばれる。河原に温泉の沈殿物が 堆積たいせき してできた国の天然記念物「 噴湯丘ふんとうきゅう 」や、豊かな原生林など独特の景観も多くの登山客をひきつけてきた。登山ブームも背景に、1日約500人が利用することもあったが、谷筋の地質は崩れやすく、つり橋の崩落や桟道の腐食などで83年頃には通行が困難になったという。正一さんは、三俣山荘や水晶小屋を経営し、猟師たちの生活などを紹介した「黒部の山賊」の著者としても知られる。2016年に93歳で亡くなるまで、「絶対に復活させてくれ」と繰り返し訴えていた。近年はコロナ禍もあり、人を呼び込むきっかけも必要と考えていた圭さんは昨年5月、クラウドファンディングを始めた。目標額を大きく上回る約1350万円が集まり、「北アルプスに新たな登山道をつくる珍しいプロジェクトが、登山客に熱烈に受け入れられた」と喜ぶ。復活に向けて、沢登りの経験が豊富な関係者と共に、利用者がより安全で歩きやすくするために必要な設備を検討し、3本のつり橋を架け直したり、桟橋を設けたりした。地元有志の協力も得て草刈りなどの地道な作業も進め、当初予定した整備を終えた。自然を生かし、管理の負担を軽減するためにつり橋を2本減らすなど、登山道を長く維持する方法に知恵を絞った。今後は登山客の事故や河川の急な増水に備えて避難小屋の設置も計画している。圭さんは「伊藤新道では、道なき道を探す体験ができ、冒険心をくすぐられる魅力がある。大町の観光振興にも貢献し一体的に盛り上げたい」と語る。今月19、20日には本格開通を記念し、湯俣温泉で登山用品の展示会なども予定されている。伊藤新道などの詳細は、三俣山荘が運営する一般社団法人「ネオアルプス」のウェブサイト(https://neoalps.com)で見られる。

伊藤新道を行く | 岐阜ケルン山岳会 (2023年9月16(土)~18日(月)に伊藤新道へ行ってきました)(gifucairn.jp)

【山案内】約40年振りに復活した幻の古道 黒部の伊藤新道を歩く(2023/09/19) (youtube.com)
伊藤新道はかつて、長野県大町市から北アルプス最奥に位置する黒部源流への最短ルートとして開拓されました。時代の流れにより一度は地図上からルートが消えていましたが、クラウドファンディング伊藤新道復活プロジェクト等により整備がなされていき、2023年8月に再度開通しました。硫黄により変色した沢と岩肌、黒部の奥深くへの誘う道はリスクとそれ以上の魅力を感じることができます。2023年8月に歩いた伊藤新道の様子をご覧ください。(*本ルートは一般登山道ではありません。複数の徒渉を含みます。自分の登山技術や装備に不安のある人は、ガイド同行による山行をおすすめします。)
【目次】
0:00  OP
0:22 噴湯丘までの川の様子
1:35 伊藤新道へ
6:59 湯俣川と別れを告げる
7:27 宿泊地の三俣山荘へ
8:03 今回の行程
【取材日時】
2023年8月21日〜23日
【撮影者】
田丸瑞穂 カメラマン。繊細なライティングにこだわるスタジオでのスティルライフ撮影からクライミングで培った経験を活かし厳しい条件下での渓や森などの中でのアクティブな撮影もこなす。翠に包まれた生命力に溢れる山々が好み。公益社団法人東京都山岳連盟認定エキスパートプロガイド。

復活 伊藤新道 │ 北アルプス黒部源流 (mitsumatasanso.com)
この度のクラウドファンディング「復活! 伊藤新道~避難小屋建造プロジェクト」は2023年9月3日(日)から2023年11月19日(日)の期間中460名の皆様のご支援を賜り7,911,500円の資金を集めることができました。ご協力いただき誠にありがとうございました。

北アルプスの最深部・雲ノ平に続く道、伊藤新道復活に向けて - 山と溪谷オンライン (yamakei-online.com)(本記事は『山と溪谷』2022年5月号に掲載した記事をWeb掲載用に再編集したものです。)

【詳報】男子大学生など2人不明・北アルプス三俣蓮華岳 登っていたのは上級者向け「伊藤新道」か・登山届は… | TBS NEWS DIG (1ページ)(信越放送2023年10月23日(月) 11:48)
北アルプスの三俣蓮華岳に向かったまま行方がわからなくなっている20代の男性2人の捜索が、23日も続けられています。行方が分からなくなっているのは、東京都稲城市の23歳の男子大学生と世田谷区の26歳の自営業の男性です。2人は今月18日に大町市の七倉から入山し、1泊2日の予定で三俣蓮華岳に向かったとみられますが、19日の夕方、大学生の家族に「1泊延長する」と電話して以降、連絡がとれなくなっています。警察によりますと、2人は「伊藤新道」と呼ばれる上級者向けの登山道を登ったとみられ、別の登山者から、「2人らしき登山者とすれ違った」との情報も寄せられているということです。ただ、伊藤新道の登山口にある湯俣山荘によると、任意で提出を呼びかけている登山道の通行届は提出されていませんでした。■湯俣山荘 渡辺嶺さん 「一般登山道と比べると少し挑戦度の高い道といいますか、それなりの経験と知識が必要な道にはなります。■積雪状況は? 「(2人が入山した)18日の前日も雪は降っていましたし、一昨日の夜も降りましたので山の高いところ、2500m付近ではやっぱり真っ白になっているところも見受けられます。よく言われることなんですけど、ちょっと雪がついた山というのは、登ることはできても下るのが、難しかったりするんですね」。警察が21日から捜索を始め、23日も早朝から、地上とヘリコプターの両方で捜しています。周辺の山小屋はすでに今シーズンの営業を終了していて、2人はテント泊の装備を持っているとみられますが、22日の捜索では深いところで足のくるぶしあたりまで積雪があったということです。

道に迷い、食料尽きて沢の水飲む 北アルプスで不明の2人を無事発見 [長野県]:朝日新聞デジタル(井上充昌2023年10月24日10時45分) (asahi.com)
北アルプスの三俣蓮華(みつまたれんげ)岳(標高2841メートル)方面に登山に向かったまま行方不明となっていた東京都内の男性2人が、23日夜から24日朝までに無事発見されたと長野県警大町署が発表した。18日に入山し、19日夕から連絡が途絶えていたが、2人とも命に別条はないという。署によると、2人は稲城市の大学生(23)と世田谷区の自営業(26)。18日から1泊2日の予定で同県大町市の七倉登山口から入山し、19日夕に「もう1泊する」と家族にメールがあって以降、連絡が途絶えていた。23日夜になり、自営業の男性がまず七倉登山口に自力で下山した。男性からの情報をもとに捜索したところ、24日午前6時半ごろ、県警ヘリが三ツ岳の西にある東沢谷(約2200メートル)にいた大学生を見つけ、松本市内の病院に搬送した。大学生は会話ができる状態だという。署によると、2人は持っていた3日分の食料が尽き、沢の水を飲んで過ごしていた。自営業男性は「道に迷ってしまった」と話し。

【事故報告】伊藤新道遭難死亡事故 / もっちさんの野口五郎岳・真砂岳・湯俣岳の活動データ | YAMAP / ヤマップ
2021年10月10日朝、長野県大町市の北アルプス、湯俣川沿いの伊藤新道を遡上中の6名パーティ(私もっちとパートナーを含む)のうち、1名が旧第一吊橋跡(当時)上流側左岸(下流から見て右)、標高約1480m付近の岩場(通称「ガンダム岩」)付近にて10数m墜落する遭難事故が起こった。遭難者(以下「A氏」)は約3時間半後に県警山岳救助隊によりヘリコプターへ収容され、県内の病院へ搬送されるも、出血多量により昼前に死亡が確認された。
2021年10月_伊藤新道山岳遭難事故の当事者による再考察(作成日:2023 年 4 月 1 日(土)).pdf - Google ドライブ

事故は絵空事ではない ~伊藤新道~ - 2012年08月26日 [登山・山行記録]-ヤマレコ (yamareco.com)

登山者の流れを変えた、 幻の古道「伊藤新道」の昔と今 (2023/08/22 更新)| YAMA HACK[ヤマハック]






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横浜市山手の丘にでかけると海が見え瀟洒な家並みにはブリキ博物館が紛れ込んでいた

夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

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松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

金曜日、思いついて新宿から松本に向かう。塩尻駅で降りた。

東京の桜は散って新緑の季節になりました

武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)

北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では28㎝も雪が積もりました)


陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く
5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう

埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)
山みちで老いたキツネにであう 旅行家 甲斐鐵太郎

数学者も物理学者も現在持つ知識は写し取って得たものである
インターネットで拾った文章を繋げて出来上がるニュース報道

数学と物理学者が事実として構想することと実験によって確かめられる事実
(光波干渉測定システムはアインシュタインの理論を事実として確認した)

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