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北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
 旅行家 甲斐鐵太郎



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北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎


北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

室堂の高い山から南西の方角にみえる薬師岳。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

北アルプスの再奥地の楽園の雲ノ平。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎岳とそのカールのもよう。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎小屋。三角屋根の小屋は印象に残る。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

三俣蓮華岳と三俣山荘。オーナーは伊東正一氏の一族。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

1979年当時「晴嵐荘」は都はるみが大音量。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

湯俣温泉「晴嵐荘」の食堂のようす。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

(本文)

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りた。真上で雷が炸裂する夜をテントで過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。この間もうかれこれ三泊。夜行寝台で上野駅から富山駅に移動したのであるが、準備の疲れがあった。槍ヶ岳に向かう行程を切り上げて伊東新道を青嵐荘まで下った。1979年夏のことであった。

 伊東新道はこの下山から四年後に廃道になった。伊東新道は登山地図には明確に書かれた道であった。道の状態はこのときすでに廃道といってもよかった。川沿いの傾斜がきつい高巻は砂地になっていて、上から崩れている状態がつづき、踏み跡を確かめることができなかった。靴を垂直に置けない傾斜した砂地は脆く、いつ滑るか知れない。砂の斜面は遙か下の湯俣川に崩れ落ちていた。疑いをもたないほどに明瞭に印刷された伊東新道に首を傾げても、危険はその状態を理解できないまま地図を信じている気持ちがつづいた。地図の記載は過去にあった事実である。この事実は情報なのであるが、事実が変わっているから情報は書き換えなければならない。このことへの理解が不足した。一般人の一般的な登山の行程にこのように地図にある情報が事実と違うことなど想定されなかった。

 1983年に伊東新道は廃道になった。ある橋が壊れたことによる。2018年8月の時点で、伊東新道を再建する動きがあるがまだ一般の人の登山ルートにはなっておらず熟達者でも難しい。

 伊東新道から槍ヶ岳に登るルートとしての選択は現在はない。湯俣温泉から湯俣川を直ぐに左にとって北鎌尾根に向かうルートは登山者の憧れの対象であった。北鎌尾根コースはあとでふれる。

 伊東新道を使って三俣蓮華岳に向かう登山者は少なかった。登山者が少ない山道は荒れる。荒れた果てに廃道となった。登山者が少ないのには理由があった。バス事情といった社会的な理由と吊り橋など登山道維持のための自然にまつわる理由の二つが相乗作用した。

 登山者が少ない伊東新道は荒れた。登山雑誌では伊東正一氏の英雄的な活躍をもてはやしていたことと、登山地図に明瞭に記載された登山路である。情報は登山雑誌と登山地図に限定される。この情報を信じ込んでいるから山小屋の管理人に確認することなど思いもよらない。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊したため登山道としては利用できなくなった。利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊東新道はその後2017年ころ雲ノ平山荘のオーナーによる伊東新道の探索・登山をしている様子をNHK が放送した。道だったところには木が生い茂っている。とても道とは思えない状態だ。探索したのは伊東新道を開いた人の子孫であった。山なれした人でも手を焼く難所になっていた。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊するなどしてして通常の登山道としては利用できなくなった。あえて利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊藤新道は湯俣温泉から湯俣川に沿って遡上し三俣山荘に至るルートである。伊藤正一(1923年から2016年6月17日)氏が1956年に開いた。途中、湯俣川をに5つの吊り橋を架けていた。伊藤正一氏が経営する三俣山荘屋、雲ノ平山荘への補給路として使われていた。その後北アルプス奥地への資材運搬がヘリコプター利用にかわった。物資輸送路としての使われない伊東新道は1983年に吊り橋が崩壊したことによって廃道になった。

 その状況はどうだったか。湯股川に架かる第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地は巨大な岩が崖上50m以上にわたって連なっている。2009年時点ではlpmp巨岩は崩壊していなかった。それが2010年には崩壊した。影響で流れが変わって大激流になったためにわたれなくなった。

 地図情報あるいは雑誌情報はいつでも過去のものである。この情報は現実には追いつかない。山と渓谷誌2010年8月号は、第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地の崩壊前の情報を掲載している。川を渡ることができるといているのだが、巨岩の崩落で川は激流となったために渡ることができない。通過するには高巻きすることになり、さらにロープ(ザイル)を使っての5m懸垂下降が加わる。普通の登山者が足を踏み入れてはならない道に変わった。

 谷地の登山道はいつでも崩落がつづいている。もろい岩肌そして砂地は絶えず崩れている。崩壊地以外の登山道も人が通らないから樹木に覆われるなどする。道とがいえないほどに荒れている伊東新道である。だから一般登山者は近づいてはならない。熟達者でも通行の危険は崩壊がつづいていることなどもあって極度のものである。

 北鎌尾根ルートからの槍ヶ岳登山は憧れの対象であった。少しの岸壁経験でやれると生意気をすると泣きをみる。山歩きをして一年か二年で岩登りの真似事をした男がベテランと二人で北鎌尾根ルートで槍ヶ岳に登ろうとした。疲労と恐怖が頂点に達して岩稜にへたり込んで泣きだした。登山はいつでも英雄主義がつきまといわが身を省みずに雑誌の世界の英雄に自分を写すことがある。生意気かつ軽薄な男の北鎌尾根でのざまであった。

 湯俣から吊橋を渡り湯俣川との合流点を水俣川沿いの道をとって進めば北鎌尾根ルートにさしかかある。現在の北鎌尾根ルートはかつての伊藤新道と同じように崩壊が進行している。上流の吊橋は落ちていて一般道としても面影は全くない。千丈沢と天丈沢の合流点を含めて千天出合(せんてんのであい)までの行程のの崩落は激しい。岩稜と岸壁の登山の技術を要する北鎌尾根よりも途中の崩壊地を通過することのほうがが難しい。

 登山地図に明瞭にルート表示されていてもそれを真に受けてはいけない。その情報は過去のものである。情報が地図に記載されたその翌日に事実は変化しているかも知れない。1979年夏に地図を首をかしげながらの伊東新道の下山路であった。

 恐怖に震えての伊東新道下山を経験した。岩稜登山は手足三カ所を付けていれば安定は確保できる。下は奈落の底の急斜面であれば踏み跡の消えた砂地を歩くことは運を天に任せたものであった。くわばわくわばらの下山路であった。

 このような危険に遭遇するくらいなら槍ヶ岳をへて上高地に向かうのであった。

 伊東新道はなぜ崖崩れと吊り橋が壊れて廃道をよぎなくされたのか。関係者が要因を指摘しているのでそれを拾い上げて考察をする。

 伊東新道は昭和28年から着工、3年後の昭和31年秋に完成した。この道を使って7年がかり(昭和38年)で三俣山荘と雲ノ平山荘が建てられた。登山路は北アルプス最奥地へのルート開拓とあわせて山小屋設営が目的であった。

 昭和54年、高瀬ダムの完成で大量の水を貯水したことにより付近の地下水面が上がった。ダム周辺の山全体が膨らんで崩れやすくなったのである。湯俣の谷も各所が崩壊、桟道も落ちた。湯俣川のあちこちから出ている亜硫酸ガスは吊り橋のワイヤーを腐食させる。昭和44年からの高瀬ダムの工事により登山者が激減した。ダムゲートでの交通の制約とともに大町からのバスが廃止された。このために高瀬からの入山者がさ激減した。

 登山者が大きく減ると登山道は廃れる。伊東新道はて5つの吊り橋の全部落ちてしまった。昭和58年には通行困難な状態に陥り廃道となった。

 雲ノ平に下る三俣蓮華岳の麓(ふもと)に行くには、上高地からと烏帽子から行く二つの道があった。どちらからでも二日がかりである。悪天候になればさらに日数が増える。往復には四日かかる。ヘリコプターで資材を運搬するのはのちに始まったことである。戦後すぐのころには人が荷を背負って行くしかなかった。山小屋を建てるためには一日で登れる道が求められた。

 戦後一年目の昭和21年、伊藤正一氏が湯俣川を下ったのち谷全域を調査するために七年間を費やした。伊東新道の建設工事着工は昭和28年である。ダイナマイトによって岩壁を打ち砕いて道をつけた。三年後の昭和31年秋に伊東新道は完成した。

 昭和38年になって三俣山荘と雲ノ平山荘が完成する。ボッカ(歩荷)による資材の運び上げであった。伊東新道が開通してから七年がかりの建設工事であった。三俣山荘ならびに雲ノ平山荘は北アルプス最奥地に安全に分け入ることに大きな役割を担った。山小屋は暴風雨から登山者の身を守るのに欠かせない。ことに大衆登山が普及するほどに山小屋のもつ意味は大きくなる。山小屋があることによって小さな装備で迅速に北アルプスを歩くことができる。

 北アルプスの槍ヶ岳をめざしての大縦走コースの裏銀座登山路はづっと槍ヶ岳を眺望する。遠くに浮かぶ槍ヶ岳ほど神々しい山はない。伊東新道は湯俣川の谷に深くはいるまでは槍ヶ岳をみながら歩くことができる。湯俣川の槍ヶ岳眺望の地である展望台までのコース、つまり三俣山荘から片道二時間の道が整備されている。往復四時間のコースで槍ガ岳の眺めを堪能することができる。険しい硫黄尾根の景色は圧巻である。鷲羽岳の森林の緑は雄大である。湯俣川はさまざまな水の色をみせる。

 伊東新道の復活のための取り組みがなされている。つくってもまた崩れるという状態の湯俣川沿いの道である。尾根筋つまり稜線の道は安定しているが、谷筋の道は壊れやすい。上高地にむかうターミナルの地、沢渡に橋が架けられて新道が通ると、旧道はすぐに崩れ落ちた土砂で道が消えてしまった。

 ダムをつくると流れ込む川筋の地下水位が上がって膨張現象が発生して、思わぬ事象を引き起こす。日本の谷は深く急峻であり崖はつねに崩れている。手の施しようがないとえる。上高地の玄関口の釜トンネルの下流の梓川の崩落現象をみればわかる。

 湯俣温泉に一つだけ開いている晴嵐荘は青空の下にあった。山小屋で人心地ついた夕食には山菜の天ぷらがでた。晴嵐荘では都はるみのレコードを大音量で流していた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだとしみじみと思った。オーディオもよいものだととも。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。オーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。だれはばかることなく大音量で都はるみを流しているその無邪気さがあった。1979年夏のことである。湯俣温泉は晴嵐荘だけが営業してた。いまも同じである。少し下ったところにある湯俣山荘があるがずっと営業はしていない。

 命を運に預けるような崩壊した伊東新道を下って青嵐荘で生きた心地になる。都はるみのレコード大音量で流しているを無邪気な青嵐荘の老夫婦であった。これは平和な光景なのかも知れない。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた。虫をひょいとつかまえて何々だと教えてくれた。虫をみるために山を歩き晴嵐荘に立ち寄ったのであった。宿泊者はこの人だけであった。湯俣川の下流には葛温泉がある。その先は高瀬ダムである。川は大町に流れ下って不思議な大迂回ををして川中島を流れて行く。その先は信濃川となって日本海に注ぐ。山道には昆虫に目を向けている人もいるのである。25歳を超えない青年であった。昆虫の知識をどのようにして得て、興味をどのようにつなげているのだろう。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への下山であった。余った日取りを葛温泉でのくつろぎに費やした。大町は立山(たてやま)登山、剱岳(つるぎだけ)登山ほかで何度も足を運ぶことになった。

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(写真と文は甲斐鐵太郎)

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