上高地讃歌-その1-私の上高地そして小梨平 執筆 甲斐鐵太郎
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上高地讃歌-その1-私の上高地そして小梨平 執筆 甲斐鐵太郎
上高地バスターミナルの緑が眩しい。
上高地讃歌-その1-私の上高地そして小梨平 執筆 甲斐鐵太郎
上高地・小梨平に九輪草が咲いていた。
(タイトル)
上高地讃歌-その1-私の上高地そして小梨平 執筆 甲斐鐵太郎
(本文)
北アルプスの縦走に若い心が動く。槍ヶ岳をめざして裏銀座だの表銀座だのといったコースを夏休みに歩く。山の雑誌が槍ヶ岳登山を英雄扱いするからそれにつられる。三日も山にいると街が恋しくなる。裏銀座の縦走コースでは尾根道から里はみえない。扇沢から先に進んでブナ立て尾根にとりついてやっとのことで稜線にでる。晴れていればその後の行程は快適であるが雨になると苦渋の縦走だ。表銀座はずっと安曇野の景色がみえている。里と接近した裏山にいる感覚である。
槍ヶ岳を終着点にすることが多いが、穂高連峰まで足を伸ばすこともある。山の稜線に長くいることを厭(いと)わない人は穂高へ向かう。大キレットで刃先の稜線を下って北穂高岳に登る。そこから奥穂高を超えて西穂高まで行くか。前穂高を踏んで横尾に下るか、コースのバリエーションは多い。
西穂高だけに向かうのでなければ奥穂高に行った場合でも前穂高岳に行った場合でも、また槍ヶ岳を終点にする場合でも横尾に降りるのが普通であり、明神池を経て小梨平にでる。小梨平は上高地といってよい。
梅雨明け一週間は山の天気が安定する。北アルプスの縦走に適した時期である。槍ヶ岳のさきの北穂高への大キレットを歩いたあとには涸沢キャンプ場でのビールが美味い。横尾からの平らな道を歩いていると人が暮らす場所はこのようなところだと思う。ある年の夏には小梨平のキャンプ場にテントを張って夜を過ごした。雑音交じりのラジオからプロ野球のオールスター戦のもようが聞こえた。
小梨平の朝を迎える。平らな道を槍ヶ岳、穂高岳に行く人が動いている。小梨平にいる自分に後ろめたさを感じる。西穂などへのルートを選んでもっと山のなかにいろよ、という声が聞こえるのだ。
山岳雑誌が深田久弥の百名山を囃(はや)し立てる。NHKテレビは百名山はすごいところだと印象付ける。人は百名山の数をこなそうとする。百名山を登山者は意識から消し去ることで山登りの自由が広がる。北アルプスは百名山に数えられる山が幾つもある。岩峰の達人やら尾根を疾駆するつわものがいる。職場の同僚は丹沢の岩場で人生を閉じた。
私の上高地への知識は吉野満彦氏によっていろどられた。吉野満彦氏は早稲田中学(旧制)2年、17歳 (1948年、昭和23年)のとき八ヶ岳の主峰赤岳で遭難して凍傷によって両足の指すべてをなくす。1957年(昭和32年)3月の前穂高岳IV峰正面壁積雪期初登攀などをする。芳野満彦氏は上高地で冬の小屋番をしていた。1965年(昭和40年)に渡部恒明氏とマッターホルン北壁の日本人初登攀、日本人のヨーロッパ・アルプス岩峰への登山に目を向けさせた。新田次郎氏の小説『栄光の岩壁』の主人公のモデルは芳野満彦氏である。長野県原村に八ヶ岳美術館で芳野満彦氏の油絵をみて消息を知った。
芳野満彦氏が山への思いを募らせて冬の小屋番をしていた上高地は年間120万人の観光客であふれる場所となった。芳野満彦氏の上高地の雪の朝の陽光の文章には自然の美しさへの感動がおりこまれていた。
上高地の景色は変わらない。変わらないように維持しているのかもしれない。大正池に堆積した土砂の浚渫が1996年(平成8年)からおこなわれるようになった。大正池の枯れ木立が減り池が埋まってはいるが流れはそのままだ。梓川支流の小さな沢と湿地帯を流れる小川にはイワナ(岩魚)が泳いでいる。小梨平では上高地音楽祭が開かれていた。山本潤子が「笑顔を見せて」や「卒業写真」を歌っていた。穂高連峰と梓川を背にして。
釜トンネルの下流の梓川は崖を削っている。崖の縁にあった温泉宿は移動をした。バイパスになる橋をつけると旧道は土に埋まる。川筋に道をつけると維持費は大きくなる。中部縦貫道路がつくられている。
秋の入り口の土曜日の午後、上高地までオートバイで出かけた。その一日がマイカー規制の空白となり、オートバイだけが上高地のバスターミナルまで行くことできた。釜トンネルに入ったのは午後10時であった。旧釜トンネルである。片側通行であるので15分ごとに信号が切り替わる。短気筒のオートバイの音がトンネルの壁に反響する。信号が青に変わるまでは幻想の時空になっていた。
テントをバスターミナルの屋根の下に張った。外が騒がしいので目覚めると大勢の人が観光バスから降りてきた。上高地へのマイカー規制が始まったのは1975年(昭和50年)だ。7月、8月が規制月であった。1996年(平成8年)には通年のマイカー規制となる。その後に夏場の観光バス規制が行われるようになった。新釜トンネルは2005年(平成17年)に開通した。
2018-07-21-kamikochi-hymn-part-1-my-kamikochi-and-konashi-daira-writing-tetutaro-kai-
(写真と文は甲斐鐵太郎)
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