九戸城主 九戸政実と九戸政実の乱
九戸城主 九戸政実と九戸政実の乱
 
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九戸城主 九戸政実と九戸政実の乱(九戸政実 ウッキペディアより。2018-01-25 横田俊英)

(本文)

 九戸 政実(くのへ まさざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南部氏の家臣。九戸城主。九戸信仲の子。

 生涯[編集]

 九戸氏の勢力拡大[編集]

 九戸氏は、南部氏始祖である南部光行が建久2年(1191年)に地頭職として陸奥国糠部郡に入部して以降、その六男・行連が九戸郡伊保内(岩手県九戸村)に入部して九戸氏を称したとされているが、別姓小笠原氏を名乗っていたとする資料もあり定かではない。室町幕府からは南部宗家と同列の武将と見られていた。関東衆・九平五郎とは政実の事を指すとされている。政実は行連から数えて十一代目にあたるとされ、武将としての器量に優れており政実の代に勢力を大幅に広げた。永禄12年(1569年)、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大している。そして斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い、講和に貢献した。

 晴政・晴継の死と、信直との対立[編集]

 南部氏二十四代・晴政には男子がなかったため、永禄8年(1565年)に石川高信の子(晴政にとり従兄弟)である信直を、長女の婿養子として三戸城に迎え世子とした。その後、晴政は次女を南部一族の中で有力者である九戸政実の弟・九戸実親に嫁がせる。しかし元亀元年(1570年)晴政に男子(後の南部晴継)が出生し、更に天正4年(1576年)信直の妻が没する。信直は嗣子を辞して三戸城から出るが、晴政は信直への不信を抱き続け、晴政ならび九戸氏の連衡と信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。

 天正10年(1582年)、晴政が病死すると南部氏はかつての世子・信直と実子・晴継の間で後継者を巡る激しい家督争いが始まる。晴政の跡は実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。

 急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、晴政の二女の婿で一族の有力勢力である九戸実親と、かつて晴政の養嗣子でもあった信直が候補に挙げられた。評定では実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に他の有力勢力・根城南部氏の八戸政栄を調略し、結局は信愛、南長義らに推された信直が後継者に決定した。 政実としては弟を差し置いて、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還する。

 九戸政実の乱[編集]

詳細は「九戸政実の乱」を参照

 天正14年(1586年)には信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになる。このような政実の姿勢は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなく、ついには天正19年(1591年)1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5,000人の兵力をもって挙兵した。

 もともと南部一族の精鋭であった九戸勢は強く、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、信直は苦戦した。そしてとうとう自力での九戸討伐を諦めて秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始しさらに小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季・大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。

 同年9月1日、討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始する。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始。善戦した政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で討伐軍に降伏した。

 秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族も斬殺され九戸氏は滅亡したが、政実の実弟・中野康実の子孫が、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。

九戸政実を題材とする作品[編集]

高橋克彦『天を衝く』―秀吉に喧嘩を売った男九戸政実(講談社)
三浦哲郎「贋まさざね記」(『東北戦国志』(PHP文庫)所収)
早坂昇龍『九戸戦始末記 北斗英雄伝』(盛岡タイムス)
安部龍太郎『冬を待つ城』(新潮社)
九戸政実プロジェクト『マンガ 九戸政実物語』

関連項目[編集]
戦国時代の人物一覧
安土桃山時代の人物一覧
九戸政実の乱


九戸政実の乱

 九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。

経緯[編集]
背景[編集]

 南部氏最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど領土を広げた第24代当主・南部晴政が、天正10年(1582年)没すると南部家内は後継者問題で分裂する。それ以前から南部晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、田子(石川)信直を盟主とする北信愛、南長義の連合の南部一族間で対立があり、本家である三戸南部家当主を継いだ南部晴継が同天正10年13歳で急死すると、九戸家と田子(石川)家の南部宗家後継者争いが本格化する。

 田子(石川)信直が九戸実親を退けて半ば強引に三戸南部家当主となり南部氏惣領になったことにより、実親の兄・九戸政実は大いに不満を持ち、南部信直との関係は亀裂状態であった。 南部氏は、三戸南部氏を中心とした八戸氏・九戸氏・櫛引氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による連合である「郡中」による同族連合の状況であったが、天正18年(1590年)7月27日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直が南部氏宗家としての地位を公認されて近世大名として組み込まれ、それ以外の有力一族であっても宗家の「家中」あるいは「家臣」として服属することを求められたことで、九戸氏は反発し信直と激しく対立する。

奥州仕置と一揆の勃発[編集]

 南部信直が兵1000を引き連れ小田原征伐とそれに続く奥州仕置に従軍していた留守中の天正18年(1590年)6月、九戸側は三戸南部側である南盛義を攻撃する。南盛義は討ち死にし、以後南部家中は緊張状態が続いた。 その頃、秀吉の奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地などを行ったあと、奉行である浅野長政らが郡代、代官を配置して軍勢を引き揚げた。

 奥州仕置軍が各々領国へ帰って行った同年10月から陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発する。 南部信直は和賀・稗貫一揆に兵を出すが稗貫氏の元居城である鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政代官を、南部氏居城の三戸城へ救出するのが精一杯で、積雪により討伐軍が出せなくなった。

九戸勢の反乱[編集]

 情勢が不穏の中で天正19年(1591年)の新年を迎えると、九戸氏は三戸城における正月参賀を拒絶して南部本家への反意を明確にする。 三戸城に配置されていた浅野長政代官が、2月28日上杉景勝重臣で横手盆地西端の大森城に駐在する色部長実に送った手紙には「逆意を持った侍衆がおり糠部地方が混乱状態にあること、当地の衆が『京儀』を毛嫌いし、豊臣になびく南部信直に反感を抱いていること、仕置軍の加勢が無ければ南部信直は厳しい状態であること」などを伝えている。 また同日に南部信直から色部長実に送られた手紙にも「逆意を持った者達に手を焼いているが仕置軍が来るのは必定である」という旨を書いている。

 同年3月に九戸側の櫛引清長の苫米地城攻撃を皮切りに、ついに九戸政実は5千の兵を動かして挙兵し、九戸側に協力しない周囲の城館を次々に攻め始めた。3月17日付の浅野長政代官から色部長実への手紙には「九戸、櫛引が逆心し油断ならないこと、一揆勢は仕置軍が下向するという噂を聞いて活動を控えている」ということなどが書かれている。

 もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦めて信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、6月9日には秀吉に謁見して情勢を報告した。

奥州再仕置軍の進撃[編集]

九戸以外にも、大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は同年6月20日に号令をかけて、奥州再仕置軍を編成した。

 白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え、これが緒戦となった。9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抗した九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返した。

九戸城の戦い[編集]

 九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた(仕置軍・南部側説)。 そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた(当初から和睦と見せかけた蒲生氏・浅野氏の計略説も在り)。九戸政実はこれを受け入れて、弟・九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏する。

 浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた(小田原攻めの際の北条家家臣の忍城の例も多少関連が在ったとも)。

 その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。

結果[編集]

 この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部信直に引き渡した。信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。

 この乱以後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成する。また南部氏はこれをきっかけに蒲生氏との関係を強めており、蒲生氏郷の養女である源秀院(お武の方)が、南部利直に輿入れしている。戦国変わり兜の一つとして有名な「燕尾形兜」は、この時の引き出物として南部氏にもたらされたものである。

 また氏郷と浅野長政は信直に本拠地を南方に移すことを勧め、これが盛岡城築城のきっかけとなった。なお九戸政実の実弟の中野康実の子孫が中野氏を称して、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。

九戸政実の乱を扱った作品[編集]

渡辺喜恵子 『南部九戸落城』 毎日新聞社、1989年8月30日。ISBN 4-620-10394-2。
高橋克彦 『天を衝く−秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実 上』 講談社、2001年10月19日。ISBN 4-06-210881-X。
高橋克彦 『天を衝く−秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実 下』 講談社、2001年10月19日。ISBN 4-06-210882-8。
安部龍太郎 『冬を待つ城』 新潮社、2014年10月20日。ISBN 4-10-378809-7。
脚注[編集]
二戸市教育委員会 九戸城跡
参考文献[編集]
『岩手県史 第3巻 中世篇 下』 岩手県、1961年10月20日。
児玉 幸阿・坪井 清足 『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』 新人物往来社、1980年7月15日。
『弘前市史・通史編2』 弘前市、2002年6月28日。
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『角川日本地名大辞典 3 岩手県』 角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2。

(ウッキベディア2018-01-26時点での九戸政実の解説です。誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)
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九戸城主 九戸政実と九戸政実の乱




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九戸城主 九戸政実と九戸政実の乱
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霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

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