漢詩 無法松の一生 作詞 岡千風 想いを寄せる夫人を前に松五郎は「流れ打ち」「勇駒」「暴れ打ち」と太鼓を響かせたのでした(文章は岡和雄)
写真は小倉祇園太鼓(こくらぎおんだいこ)
小倉祇園太鼓(こくらぎおんだいこ)は福岡県北九州市の中心部である小倉で400年近く続いている「国選択無形民俗文化財」に指定された祇園祭である。小倉城を築城した細川忠興公が、城下の無病息災と城下町繁栄を願い、元和3年(1617年)に京都の祇園祭を模して始めたとされる。写真と説明は
小倉祇園太鼓保存振興会による。
漢詩への誘い 懐かしの映画「無法松の一生」 東京計量士会所属計量士 岡和雄
暑い夏に、パワーを届ける詩を作ってみました。次のようなものです。
無法松の一生 作詞 岡千風
小倉生まれの松無頼者
喧嘩博打悪銭の涯(はて)
赤心童稚芽吹く愛
大尉吉岡麗食窺う
家主病魔母子を扶ける
青年隆盛勇駒の姿
祇園太鼓悲恋を告げる
白雪末期残照遺す
上の漢詩の説明です。
明治5年九州小倉で生を受けた俥屋を業とする無学文盲の俥夫富、岡松五郎の物語であります。原作は、岩下俊作。
当時松五郎は、喧嘩と博打に明け暮れ荒んだ生活を送っておりましたが、転機は、吉岡大尉の息子、敏雄に出会ったことでした。
当時家中屋敷「坊ン坊ン」と呼ばれていた幼児、敏雄とのふとしたキッカケで知り合いました。大尉には麗人のような夫人良子がおり、小さな希望が生まれました。
その後、家主は急に肺炎を患いこの世を去ってしましました。
松五郎は夫人と息子を陰から見守り、大正5年熊本の高等学校に入学し、二度目の暑中休暇の時、敏雄は先生を伴い祗園祭りにやってきました。
「松」はその時、太鼓を披露したのでした。「流れ打ち」「勇駒」「暴れ打ち」と街中に響き聞かせたのでした。松五郎は死ぬ1年ほど前、突然吉岡家を訪れ、夫人に想いを告げたのでした。
想いは遂げられませんでした。大正8年白雪の朝、酩酊した松は、小学校の運動場の脇で静かに息を引取っとりました。その後遺品の中に、吉岡夫人と息子宛に高額な貯金通帳が遺されたのでした。
(執筆 岡和雄 2017年6月28日、東京計量士会所属計量士)
漢詩 無法松の一生 作詞 岡千風 想いを寄せる夫人を前に松五郎は「流れ打ち」「勇駒」「暴れ打ち」と太鼓を響かせたのでした(文章は岡和雄)