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東京にある専門学校で担当する「技術英語」における試験問題の質問である。「あなたは将来の伴侶として、どのような人を望むか」、「あなたはこのクラスにどのような印象をもったか」、「あなたの恋人についてお話して下さい」と若者に聞いてみた。答え易い質問だろうと思いきや、「美しい人」「やさしい人」とか「恋人はいません」といった余りにも無内容な日本語での解答を読んでいて、なにか心の中が寒々としてくると同時にがく然とした。英語以前の問題として日本語教育に問題のあることに気がついた。
その昔は、「私の恋人は銭だ。今の世の中、銭さえあれば大抵のことは解決する。私は銭にもならぬ勉強には興味はないが、銭儲けには執着するつもりだ。だから将来は2、3人の工事会社で働き、独立するつもりだ…」といった内容をたどたどしい英語で書く者がいて、感服したものである。
今、巷では教育問題がしきりに世間を騒がしているが、世に出て生きていくのに差し支えのない程度の日本語による読み・書き・ソロバンがいまや危うい状況にあることを皆さんはご存知だろうか。共通言語である日本語での会話が成立していない学級で、英文に慣れ親しむことにどれほどの意味があるのか、じくじたる思いで教えている。
しかしながら、かくいうこの筆者も幼い頃から国語の時間、とくに作文は大嫌いであった。国語というと、教師の「作者は何をいいたいのか」「作者はどのように感じていたか」といったことを延々と問われて、これには閉口したものだ。作者でもあるまいし、何を感じたかなんて知る由もない。そんな訳で、やがて筆者自身がこのような憎たらしいコラムを書くことは全く想像もしていなかった。
筆者がものを書くというきっかけを与えてくれた人がいる。今でこそ、その人に感謝しているものの、当時は陰に陽に筆者に対する八つ当たりは凄まじかった。その人こそ、文化庁からわが高専という職場に天下りしてきた校長である。官庁という官僚集団で生活してきたその代官、学校の教職員を自分の部下であるように錯覚し、大人しい純朴な教職員を小馬鹿にしはじめた。教員という人種は一癖も二癖もあって、担当している教科にはそれなりに自信と、誇りをもっている。だから、木端役人のように牛馬のごとく使われると反撥を覚えるのが教員の習性である。教員の承認もなしに、留学生を受入れ、公開講座の実施、地域社会の文化交流とつぎからつぎへとスタンドプレーによる演出に、一部の教員は閉口し始めた。
そんなとき、筆者は地元新聞の日曜論壇に、月に一回、教育問題についての投稿を依頼された。高専というのは、全国でも少数派の弱小な教育機関であるから、教育の専門的な話題は任の重い仕事でもあった。
その頃は、登校拒否、家庭内暴力、校内暴力といった事件が社会問題になっていた時期であった。筆者は、この問題を「言葉を軽視した報い」と位置づけて、父兄は学校と対立した意見をもった方がよい、けんかし合って脱出口を見つけていくことが何よりも大切であるというようなことを書いた。さらに、この態度が育たない原因の一つに、みんなで話し合った結論を、行政的配慮と称して管理者がつぶしてしまうことがある。(省略)…お互いに言葉を使う場がなくなれば、相手を説得する唯一の手段は暴力しかないと結論づけた。
わが職場の体制を批判したつもりはなかったが、小心の独裁者は敏感に反応し、翌日、学校中、上を下への大騒ぎとなった。激しい怒りをぶつけられた事務員こそはた迷惑で「文化庁のおじさんのこと何か書いたの?見せてくれよ」と飛んできた。わが職場ではこの地元新聞を購読している教職員は皆無に近かったが、この一件以来すっかり教職員の知るところとなった。教員の中には「この間のトピックは余りインパクトないな。つぎは面白いトピックで教官どもの目を醒させてくれよ」と催促する始末。なんにしても、これを機会に筆者は書くことに快感をもちはじめたのは事実である。
その後、文化庁のおじさんが栃木の土着民からすっかり本性を見透かされて這々(ほうほう)の体で退職するまで、筆者は陰湿な攻撃でいじめられたが、それだけ楽しんだのであるから、当然の結果だったかも知れない。
中国の故事に、塞翁(老人)の息子が馬に乗ってけがをして、結局戦争に行かないで済んだという話がある。何が幸せになり、何が不幸になるかは前以て知ることはできないという意味である。筆者の場合、あの日曜論壇の事件以来、わが憎たらしいコラムによる人間観察が開眼した。
(2006年11月24日にアップロードした文章)
黒須茂のエッセー 「人間万事塞翁が馬」天下り校長の悪行を地元紙であばくことで書くことに快感をもつようになった