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計量計測データバンク2020年3月5日付けニュース(デジタル版)
メートル法の起源、キログラム史話、不滅のメートル法、追録版
アンリ・モロー(Henri Moreau)著 高田誠二訳
(Metric Origins, Kilogram History, Immortal Metrics, Additional Edition)

計量計測データバンク2020年3月5日付けニュース(デジタル版)
2020-03-03-metric-origins-kilogram-history-immortal-metrics-additional-edition-

メートル法の起源、キログラム史話、不滅のメートル法、追録版 アンリ・モロー(Henri Moreau)著 高田誠二訳
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メートル法の起源、キログラム史話、不滅のメートル法、追録版 アンリ・モロー(Henri Moreau)著 高田誠二訳

メートル法の起源、キログラム史話、不滅のメートル法、追録版 アンリ・モロー(Henri Moreau)著 高田誠二訳

(掲載の文書は日本計量新法紙面を簡便な形でデジタル文字として表記したものです。図表などは未掲載ですので正確を期する場合には紙面をご覧ください。)

【原著】
La nature: December, 1948, P.353
“Le syst?me metrique et le Bureau international des poids et Measures”
Henri Moreau

(英訳版)
Journal of Chemical Education : January, 1953 P3~20
“The genesis of the metric system and the work of the international bureau of weights and measures.”
Henri Moreau, translated by Ralph E Oesper

(日本語版) 計量新報 昭和34年(1959年)6月8日号から8月17日号まで11回連載

「メートル法の起源」の復刻に際して(令和元年8月1日)

 「メートル法の起源」は、国際度量衡局(BIPM)のHenri Moreau氏がフランスのLa nature(ラ・ナチュール)誌に1948年に発表した記事です。1953年にアメリカのRalph E Oesper氏がJournal of Chemical Education誌に英訳しました。これをベースに、当時通商産業省中央度量衡検定所(現在の産業技術総合研究所計量標準総合センター)の高田 誠二氏が、日本計量新報社発行の計量新報に寄稿し、昭和34年(1959年)6月8日号から8月17日号まで11回連載したものが、この「メートル法の起源」です。復刻にあたりましては、本記事の中にも登場される小泉袈裟勝氏から東京都計量検定所に寄贈いただきました本記事のスクラップブックから本原稿の文字起こしを行いました。今回の復刻に際し、「メートル法の起源」連載に先立って昭和34年3月25日~4月25日の三回に渡り計量新報に連載された記事(「メートル法の起源」の4,5,6,9章)も併せて収録しましたので、ほぼ完全な形で「メートル法の起源」を復刻することができました。加えて、昭和34年当時と比較して地名・人名や旧仮名遣いなど現代と異なる物については一部変更を加えました。また、BIPMの現在の状況など連載当時と大きく異なるものや、理解を深めるのに必要と思われるものについては、注記を追加しました。注記に際しては、BIPM、AISTのホームページや出版物等を参考とさせていただきました。

「キログラム史話」及び「不滅のメートル法」の追録(令和元年11月1日)

 高田誠二先生が昭和35年新春に計量新報紙に連載した「キログラム史話」(A. ビランボー)と昭和32年に同じく計量新報紙に連載した「不滅のメートル法」(A. ペラール)を追録しました。はかるん(東京都計量検定所公式キャラクター)東京都計量検定所のホームページアドレスhttps://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.jp/keiryo/

目次頁
日本計量新報
掲載号(回)
〔昭和34年〕

訳 序

6月 8日号(1)
古代の計量はいかにまちまちであったか

収拾できぬ混乱状態
不統一匡正への動き
※原注1 「三部会」とは何か
メートル法以前の単位
※原注2 古代フランスの計量単位
フランスの鉄製標準器
フランスの法定標準器
※原注3 グラン・シャトレ、※ 1735年~37年の地球子午線測定、※ トワズ・デュ・ペルー
重量標準器も作られた
※ ビル・ド・シャルマアニュ
無政府状態の解決の鍵

参考1 ★ 度量衡統一の政治的意義 ― 天野氏説

2 メートル制の誕生

6月15日号(2)
新制度の基礎となりうるもの
長さの単位に三様の提案
仏・英両国協調の努力
※ オータンの僧タレイラン、※ 度量衡革命期の政治背景、※ 「秒振子」とは何か
子午線の採用
直ちに計画の実行へ
英国の態度
微妙な米国の態度
秒振子に劣るとの主張

新単位「メートル」の決定
※ フランス革命時の10年、※ 革命暦
長さの単位
※ 仕事中の苦心の実情
子午線弧の測定終わる
重量(質量)の単位
※ ラヴォアジェの業績、※ 公教育委員会
「キログラム」の誕生

6月22日号(3)
単位の素材整う
注目すべき二つの決議
〔1〕暫定的計量制度
〔2〕十進法と単位の呼び名
※ 総裁政府時代の始まり
標準器の製作
初期のメートル標準器(アルシーブ原器)
※原注4 白金
初期のキログラム標準器(アルシーブ原器)
「元老会議」等にも提出
※ メートル・デ・ザルシーヴ、※ キログラム・デ・ザルシーヴ、※ 「フランス国立学士院」
※ 「元老会議」と「五百人会議」
度量衡統一の偉業終結
※ アントワーヌ・ラヴォアジェ

6月29日号(4)

3 メートル法の普及

7月 6日号(5)
メートル法の特徴
※ 接頭語と奇妙な反対論
普及は緩慢で困難
いまわしい混乱の事態
※ 独裁ナポレオンの功罪
絶望的な事態に
※ レジスタンス(抗議)

巌格な罰金制登場
※ 罰 金、※ 女神像の記念のメダル、※ ルイ王とタレイラン
世界へ長足の進展
※ 各国のメートル法採用の年次、※ 注目のドイツの態度
英米のメートル法
※ 米国のメートル法採用の年次の間違い、※ 史上最大で最後の課題、※ 田中舘先生のこと

7月13日号(6)

4 国際度量衡局(BIPM)

国際度量衡局の由来(上)
3月25日号

メートル法の創成と国際度量衡局
5 パヴィヨン・ド・ブルトィユ
6 国際度量衡局の運用

国際度量衡局の由来(中)
4月15日号
国際度量衡総会(CGPM)
国際度量衝委員会(CIPM)
国際度量衡局の機構
国際度量衡局の経費
加盟国の受益

参考2 日本計量新報社 昭和34年7月20日号掲載内容
7月20日号(7)

国際原器

注目すべき決議
単位構成の一つの転機
標準器材料の選択
鋳造技術にも相当苦心
※ 白金・イリジウム合金
鋳造に大統領も立合う
※ 鋳造の様子
難関もようやく克服
※ ジョンソン・マッセイ社
原器合金と英国工業

X形断面とその支持法
※ ベッセル点支持法
キログラム原器
※ 原器の仕上げ
国際原器の決定
厳重な国際原器の保管
原器の各国への分配
※ 原器の分配
新たな定義の承認
※原注8 メートルの定義
原器と初期定義の相違
※ 精密な再測定の産物

7月27日号(8)
単位標準の恒常性保持
※ 光波基準の研究と採用
キログラム原器の安定性
※原注9 キログラム原器の取り扱い、※ 質量原器のむずかしさ、※ メートル原器も二次標準尺へ

8月 3日号(9)

8.ヤードとポンド

8月10日号(10)
英国のヤードとポンド
「王室標準ヤード」
英国単位とメートル法
※ 英国ヤードとメートルの比較
奇妙な米国の現状
米国単位とメートル法

英米標準の将来
※ ガモフの奇抜な単位論

8月17日号(11)

9 国際局の活動

国際度量衡局の由来(下)
4月25日号
長さと質量
1 キログラム(kg)の水の体積
温度
光波干渉測長法(インターフェロメトリー)
重力加速度
電気計測と測光
諮問委員会、その他
国際度量衡局とは何か?

10 むすび

8月17日号(11)

補注 「一王、一法、一度量衡」
2
後記 「メートル法の歴史に筋を通す役目を念願」(訳者)

地名索引

人名索引

参考3 メートル法に関する高田誠二氏の力作
参考4 高田誠二先生の回顧 (一社)日本計量史学会理事 小川実吉
2015年5月17日
参考5 キログラム史話
キログラム史話 -第一部-
キログラム史話(1)
-第一部-
昭和35(1960)年
1月1日号
まえがき
メートル法史への反省
1 真相をえぐり出す諸困難
2 深刻に自己批判させたもの
質量単位設定の真相解明
1 ラヴォアジェはキログラム決定の実験を完了しなかったのか
2 「護衛つき云々」は伝説
3 誠意の努力に脱帽する
古代重量原器の実態
1 「ピル・ド・シャルマアニュ原器」
2 3つの「マルクの定義」
3 ビランボー氏の驚くべき発見

キログラム史話 -第二部-

キログラム史話
(2)
-第二部上-
昭和35(1960)年
ラヴォアジェ実験開始までの道程
1 新旧両制の関係の明確化
2 旧制度を見直す必要
3 器差の取り違えは明らか
4 真相を知らぬための誤り
5 ラヴォアジェの考え

ラヴォアジェ実験のディテール
1 「溶けつつある氷の温度」
2 ラヴォアジェの実験
3 必要なあまたの補正
4 ラヴォアジェの意に反す
5 奇怪な事実とビランボー氏の推理

キログラム史話
(3)
-第二部下-
昭和35(1960)年

キログラム史話 -第三部-

キログラム史話
(4)
-第三部上-
昭和35(1960)年
ラヴォアジェ実験以後
1 フルクロワ報告の意味
2 キログラムという単位名
3 微妙なアユイの立場
4 器差取り違えの後日談


キログラム決定実験の再開
1 キログラム定義の決定
2 ビランボー氏論文の結びの言葉
この研究から何を学ぶべきか
1 キログラム難産の二要因
2 不合理の背後にあるもの
3 歴史はきれいごとでない

キログラム史話
(5)
-第三部下-
昭和35(1960)年
2月1日号

キログラム史話 -第四部-

キログラム史話
(6)
-第四部上-
昭和35(1960)年
エピソード紹介
1 ラヴォアジェの伝記
2 アユイという人
3 フルクロワという人
4 ピル・ド・シャルマアニュのこと
5 十進法計量の起こり
6 ラヴオアジエの分銅
7 当時の検定業務
8 学者と政治家
9 ラヴォアジェ実験の精度

10 ラヴオアジエの綿密さ
後 記

キログラム史話
(7)-第四部下-
昭和35(1960)年

参考6 不滅のメートル法

不滅のメートル法(上)
昭和32(1957)年
9月15日号
訳者まえがき
メートル法の生命 -衰え知らぬ若々しさ
当初のメートル法 -不見識な法令も出た
メートル法の再建 -レジスタンスと闘う
為政者は毅然と -現当局の範となる
六個の基本単位確立へ
電気の単位に問題 -絶対単位と標準器
商工業用計量制度 -ついに日の目を見ず
「MKSA単位系」 -六個の基本単位へ
六基本単位制確立 -動かぬメートル系

十進法の問題点 -十二進法の存在意味
非十進法の二分野 -時間と角度の問題
唯一の共通単位 -時間の60進法
原器の構成変遷のあと
まず天然原器 -困難な正確さの確保
正確な原器の完成 -大きな苦心と努力
「人口原器」時代 -時間は水晶時代に
再び“天然の原器”へ
不変の原器を指向 -光の波長、その他
メートル法のみ不滅か -単位統一の終着点

不滅のメートル法(中)
昭和32(1957)年
つきまとう「不安」 -誤った譲歩と礼儀
工業勢力の実害 -深刻な航空機関係
メートル法の危機 -実際に考えられるのか
理性の王国の勝利 -単位統一への要望

不滅のメートル法(下)
昭和32(1957)年
10月5日

メートル法の起源

Le syst?me metrique et le Bureau international des poids et Measures

The genesis of the metric system and the work of the international bureau of weights and measures.
(Translated by Ralph E Oesper)

アンリ・モロー(Henri Moreau)

高田 誠二 訳

訳 序
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)6月8日号)

 先ごろ三回にわたり本紙上でご紹介したアンリ・モロー氏の記事の残りを邦訳してご参考に供することといたします。

注 今回の復刻(令和元年)に際し、昭和34年3月25日~4月25日の三回の記事も併せて収録し、一部現代に合わせた表現の変更と注記を追加しました。

 あたかも国内メートル法完全実施の年(昭和34年)に当たっておりますので、この一両年わが国では各種のジャーナルやパンフレットにこれと類似の記事が再三見られますが、それらは概して断片的なものがたりと評すべきものが多いように思われます。一方、田中舘愛橘博士(1856-1952)や菅井準一先生(1903-1982)の、啓蒙の意欲に満ちた論説類は今ではなかなか見ることはできませんし、さりとてビゴルダン(Guillaume Bigourdan、1851-1932)の原著とか、国際度量衡局の資料、さらにはオストヴァルト科学古典叢書の一冊としてドイツ訳のある原器決定担当者の手記など、価値ある文献とは教えられても、容易に読み通せるたちのものとは申せません。こうした経緯に照らして私は、最も手ごろな参考文献として、このモロー氏の力篇をご紹介したいと思います.

 前にも書きましたように、モロー氏は永年国際度量衡局に奉職しておられる実験家ですが、その啓蒙的広報活動の筆致には敬服すべきものがあります。訳筆の及ばざることを毎度嘆くばかりです。

 申すまでもなく、メートル法創生史はフランス革命史と時を同じくしております。日本語で読めるフランス革命史書はたくさんありますから、併せ読まれれば興趣は尽きないと存じます。文学好きの方は、ロマン・ロラン(Romain Rolland、1866-1944)の革命史劇などで当時の雰囲気をあじわわれつつ、本稿を脚色してみるのも一興でありましょう。
 革命史上の術語は、ソブール(Albert Soboul、1914-82)著・小場瀬卓三(1906-77)訳の「フランス革命」(岩波新書)によりました。〔※は訳注です。〕

1.古代の計量はいかにまちまちであったか
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)6月8日号)

●収拾できぬ混乱状態
 いつの世にも、社会的交流のある限り、商業取引が円滑にまた不正なく行われるためには、度量衡が必要である。しかし18世紀末の事情はこの目標の達成にはほど遠く、各種各様の単位があって収拾するすべもない混乱状態をひきおこしていた。そればかりか、度量衡の標準が不変であるかどうかについても、少なからぬ疑念がつきまとっていたのである。
 古代度量衡史の細目に立ち入ることはせずとも、度量衡統一が虚妄であったという、顕著な事実だけは察知されるはずである。単位は国ごとに異なり、時として(フランス国内のごとく)州ごとに異なったのみでなく、都市ごとにさえ異なり、また同業組合(コルポラシオン: corporation)すなわちいわゆるギルド(Guild(英):商工業者の間で結成された各種の職業別組合)ごとにも異なっていた。このような事態が、不正・詐欺ないしは果てしない不和やいさかいをひきおこし、かつ科学の進歩に対して深刻な障害となったのは申すまでもない。はっきり定められてもいない単位にいくとおりもの呼び名がつけられ、主要単位の上の位・下の位もまちまちな有様だったから、混乱は一層拍車をかけられていたわけである。

●不統一匡正への動き
 こうした不統一を匡正し、そこに伴う不便さを排除するために、計量を統制する王室令が、時の支配者から告示されたことは何度かあった。その心、実はこれに乗じて全領土に彼の威信をあまねくしようとする野心もあったのである。この種のとりきめが実際に効力を示したこともあった(例えば、シャルマアニュ(Charlemagne, Charles the Great、※フランク王チャールズ大帝注。ローマ789年))けれども、残念ながら支配者の死後も存続するものではありえなかった。
 計量制度改革の議は、「一王、一法、一度量衡」(One King, One Law, One Weight, One Measure)なる標語にたくみに織り込まれ、三部会(原注1)の陳情書にも一度ならず表明されたのであったが、貴族たちの保身的な反対や同業組合からの圧力、そして何らかの意味で、当時はびこっていた無秩序から便益を受けていた連中の抵抗によって、絶えず妨げられた。これらの妨害に加えて、各地方の単位に慣れ切った人々は、反対はせぬまでも全くの無関心ぶりを見せていた。

※原注1 「三部会」とは何か
 三部会(?tats g?n?raux)とは、フランス全国の総議会。代表者は僧族・貴族および第三身分(平民)から出る。第1回の三部会は、1302年パリに召集された。

 当初はかなり政治実権を持っていた三部会も、王室の確立とともに権力を失い、諮問的な、むしろ王権が自らの危機に際して援用する機関になり下がった。1614年以後召集されなかった三部会が1789年に召集されたのは、まさに財政的・政治的危機に陥っていた王制下において、貴族階級が王制への反抗を示して召集を要求したからであった。そして同時に、これを契機として第三身分階級の革命の幕が切って落とされるのである。
 ちなみにメートル法史にも登場する人物では、僧族にタレイラン(Charles Maurice de Talleyrand-P?rigord、1754-1838)、ガブリエル・ムートン(Gabriel Mouton、1618-1694)があり、貴族に侯爵で文化人のコンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet、1743-94)がある。タレイランは革命期を通じて要職に就いたが、コンドルセは文化人として革命期に功あったにもかかわらず、温健なジロンド派に属した故をもって革命期に獄死した。また、ラヴォアジェ(Antoine Laurent Lavoisier、1743-94)は第三身分とはいえ、その最右翼とみられる金融ブルジョワジー人として反動視され、ギロチンにかけられた。その他の学者たちは、概ね第三身分のブルジョワジーの中では下積みの人々である。ブルジョワジー以下の階層で圧政に苦しんでいた都市庶民が革命後期の主導者となった。

注 シャルマアニュ:カール(チャールズ)大帝
 742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ(Charlemagne)といい、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ(神聖ローマ帝国およびオーストリアを含めて)、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。

768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。
(Wikipediaより)

●メートル法以前の単位
 メートル法制定以前にパリで用いられていた主な単位は、長さではピエ・ド・ロワ(pied de roi:直訳すれば王の足0.325m)、重量ではリーヴル・ポワ・ド・マルク(livre poids de marc: 489.5g)であった(原注2)。これらふたつの単位を現示する標準器にそれぞれ、トワズ・デュ・シャトレ(Toise du Ch?telet)およびピル・ド・シャルマアニユ(Pile de Charlemagne)と呼ばれていた。

※原注2 古代フランスの計量単位
 各々の位取りの仕方は、第一表のとおりである。

第一表 古代フランス単位
長 さ
トワズ(toise)
=6ピエ・ド・ロワ
ピエ・ド・ロワ(pied de roi)
=12プース
プース(pouce)
=12リーニュ
リーニュ(ligne)
=12ポアン
重 量
リーヴル(livre)
=2マルク
マルク(marc)
=8オンス
オンス(once)
=8グロ
グロ(gros)
=3ドニエ
ドニエ
=24グレン
そのほか普通に用いられていた長さの単位に
オーヌ = 3ピエ, 7プース, 10 5/6リーニュ
= 1.188 m
リユウ = 2233トワズ = 4.45 km
ペルシュ・ロワヤアル = 3.666トワズ = 7.15 m

●フランスの鉄製標準器
 トワズ・デュ・シャトレ(1.949m)という標準器は鉄製の棒であって、1668年にグラン・シャトレ(原注3)の外城の階段の裾のところに収納された。その両端には、直交した2個の切り込みまたは突起があって、それらの間の寸法がちょうど1トワズに合うとされていた。このトワズ標準器は他の標準尺の調整に利用されたが、そのようにして作られた標準尺の中で有名なのはトワズ・デュ・ペルー(Toise du P?rou)およびトワズ・デュ・ノオル(Toise du Nord)の2つであり、これらはブーゲ(Pierre Bouguer、1698-1758)、ラ・コンダミーヌ(Charles Marie de La Condamine、1701-74)、ゴダン(Louis Godin、1704-60)の三人が赤道下で、またモーペルチュイ(Pierre L. M. de Maupertuis、1698-1759)とクレイロー(Alexis Claude Clairaut、1713-1765)がラップランド(Lappland:北欧)で、1735年~37年に地球子午線を測定するのに利用したものである。

●フランスの法定標準器
 1766年にはトワズ・デュ・シャトレに代わって、トワズ・デュ・ペルー※の方がフランス法定標準器になった。

※原注3 グラン・シャトレ
 グラン・シャトレ(※ le grand ch?telet直訳して大城砦)とは、パリにあった古い砦の一つの名。プチ・シャトレ(※ le petit ch?telet直訳して小城砦)とともに、パリのシテ島(La Cit?: ※セーヌ川(La Seine)中の島。パリ揺籃の地)に渡る二つの橋の守りを固めた。グラン・シャトレは1802年に破壊された。

※ 1735年~37年の地球子午線測定
 この遠征測量は、地球楕円説の量的実証の最初のものとして有名。この目的からして赤道下の南米ペルー(Peru)と北極に近い北欧のラップランド(Lappland)が選ばれた。ここにいう標準尺の名(直訳すればペルーのトワズと北方のトワズ)はこれに由来する。

※トワズ・デュ・ペルー
 原図版にトワズ・デュ・ペルーの写真がある。その解説に別名1735年アカデミーのトワズとある。a図は実物の一方の端を示し、リーニュおよびブースの細分割目盛りも見られる。b図は容器のふたの記銘。この古代標準器はパリの観測所(気象?)に保管されている由。

●重量標準器も作られた
 ピル・ド・シャルマアニュ※という重量標準器は、15世紀の後期の三分の一の期間に製作されたもので、13個の銅製分銅が順次入れ子になっており、全体で50マルク(12.2375kg)の目方であった。

※ピル・ド・シャルマアニュ
 原図版に、とその容器の写真がある。造幣局の最初の分銅と記銘がある。実物は、パリ国立工芸院(Conservatoire national des arts et m?tiers: コンセルヴァトワール・デ・ザール・エ・メチエ)の陳列館に保管されている由。

●無政府状態の解決の鍵
 三部会の票決にも関わらず、パリの単位をフランス全土に押し広げるための方策は、どれもこれも、行き詰まってしまった。歴代政府はおびただしい政務を前にしてたじろいだ。今日に至って想像を働かせても、当時の計量の混乱が巻き起こしていた窮状を目の当たりに思い浮かべることは困難である。けれども、英国の経済学者アーサー・ヤング(Arthur Young、1741-1820)をして「フランス計量の際限もなき混乱のさまはいかなる想像をも超えたり」と評せしめたことや、またタレイランをして「その区々なること戦慄すべきものあり」と公憤せしめたことをはじめとして、メートル法制定以前のフランス度量衡制度をおおっていた無政府状態を叙述した言葉は有り余る程である。
 この事態にあって、問題に学術的根拠をあたえ、かつは完璧な改革を成就せしめるに必要なものは何であったのか。一つには1789年のフランス革命がなしとげた偉大な転換、すなわち封建制と王制をあとかたもなく消滅させることを目標とした彼の大革命であり、二つには、このようなひたむきの前進が国際的意義を担っていることを現実において示したフランス科学者の意欲であった。

参考1 ★ 度量衡統一の政治的意義 : 天野氏説

 故天野清(1907-1945)氏は度量衡統一の政治的意義を次のように明快に表現された。
「…元来、封建制度の政治的構成そのものが度量衡の完全な統一に対する大きな障害である。度量衡の統一は封建的遺制の撤廃と新しい統一国家の成立を前提し、逆に亦、新たに誕生した国家はその統一の実を挙げる為に度量衡の統一を必要とすること1790年代のフランスの如く、1870年代のドイツの如くである。明治維新は度量衡統一の問題においても正にこの新しい時代の開幕であった。」

 また、科学的意欲の指導性についてわが国の例をもって次のように実証しておられる。
「…このように見来ると明治初年政府が採って以て基本とした尺度の根拠は極めて不確実なものであった。……しかし、明治維新の思想的原動力となった革新の精神は、合理性と実証性の性格に依って科学的精神と相通するものがあった。
 その精神はこの一時的な停滞の時期にも尚枯渇せぬ底流として働いた。即ち大蔵当局を始めとして多くの識者は、遠からぬ将来にメートル制の採用の時期の来ることを期待していたのである。かくて明治24年の度量衡法は、形式上は尺・貫を基本とするものであったが、実はその1尺は1メートルの33分の10として定義されたものであるから、真の基本はメートルにあった。」

 「明治制度の起源」 科学史研究第一号(昭和16年)より。

2.メートル制の誕生
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)6月15日号、22日号、29日号)

●新制度の基礎となりうるもの
 度量衡改革の推進者たちをリードした思想は、天然現象から大きさを導き出した標準器もしくは自然界から選び出したひな型に尺度を関係づけ、もって計量の不変性を確保しようとするにあった。そこで、新しいシステムは、「特定の人間に属するものではなくて、また国家間の反目を買うことなしにすべての国が採用しうるところの、天然の普遍単位」を基礎とすることがのぞまれる。

●長さの単位に三様の提案
 この問題が熱心に取り上げられたとき、長さの単位の選定については三様の提案が出された―地球子午線弧長の分数・同じく赤道円周長の分数および秒振子の長さである。
 第一案はフランスの天文学者・数学者であった僧ガブリエル・ムートンが1670年に提唱した意見の復活である。なお、ムートンは同時に単位の位取りに10進法を推奨している。振子の長さを利用する着想は、おそらくロンドン王立協会(Royal Society: ロイヤル・ソサエティ)からきたものであろうが、既に1671年にピカール(Jean Picard、1620-82)、1673に年ホイヘンス(Christiaan Huygens、1629-95、オランダ)およびレーマー(Ole Christensen R?mer、1644-1710、デンマーク)の支持するところであった。真に選一を迫られていたのは、子午線長と振子長の二つであった。
 振子を基にするとの案は魅力的ではあったけれども、たちどころに非難を受けた。すなわち、秒振子の長さは地球重力の大きさに支配され、従って地球上のいたるところで同一ではありえない。しかも、時間の単位である秒が長さの単位の定義に入り込むことになる。

●仏・英両国協調の努力
 さて、度量衡制度改革案の検討を推し進めるに先立って、フランスの当事者たちは英国の協調を得ようとした。それを通じて、新制度が国際的性格を具備していることを証拠立てようとしたわけである。そのころ英国も自国の計量を改革しようとして考慮中であり、あたかもジョン・リグス・ミラー(John Riggs Miller)卿が振子長を基にする案を提出したところであった。(提案は1789年7月)。こうした訳でロンドン王立協会とパリ科学院との間でこの件につき相互了解(アンタント)が成立するにふさわしい時が到来するかに思われた。
 1790年3月、オータン(Autan)の僧タレイラン※は、憲法制定国民議会注(Assembl?e nationale constituante:アッサンブレ・ナシオナール・コンチチュアント)の壇に立って度量衡統一案を提唱した。案の内容はやはり秒振子長を基本とするものであった。また、彼は英国に対して、新制度決定の基礎につきフランスに協力してほしいと申し入れた。

※オータンの僧タレイラン
○正確にはシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles Maurice de Talleyrand-P?rigord)。彼は高級僧族中で数少ない革新主義者であった。
○その肩書アペは司教・僧院長などと訳されているが、ほとんど全部が貴族出身の高級僧侶で、政治・経済上に大きな特権を持っていた。
○フランスのフランス革命から、第一帝政、復古王政、七月王政までの政治家で外交官である。ウィーン会議注(Congr?s de Vienne)ではブルボン家(Maison de Bourbon)代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨した。

注 ウィーン会議
 ウィーン会議は、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として開催された。

※ 度量衡革命期の政治背景
 年代は既に革命期に及んでいるので史実を簡単に注記しておく。前注で触れた三部会の1789年の招集に際して、王は王室財政の危機を救う租税の協賛を求めることを、貴族は王制に反抗して自らの特権を維持することを、そして第三身分は初めは貴族と同体として絶対主権に抗することを、後には貴族とも分かれてすべての特権と闘うことを期したのであった。このような喰い違いは調停するすべもなく、ついに第三身分は自ら組織をつくって国民議会(Assembl?e nationale: アッサンブレ・ナシオナール)と称した(1789年6月17日)。
 こうして三部会は姿を消し、続いて7月9日憲法制定のための憲法制定国民議会が成立した。事態は一層進んで下級庶民が革命動員に突入し、7月14日バスチーユ監獄(Bastille Saint-Antoine)を大挙襲撃してここに旧制度崩壊は決定的となった。
 憲法制定国民議会注は、8月に封建制度廃止宣言と人権宣言を天下に表明し、1791年新憲法を制定して解散し、時代は次の立憲議会の時期に移る。ここまでの変革では、しかし第三身分の上層であるブルジョワジーが中心となっていた。

注 憲法制定国民議会
 憲法制定国民議会とは、フランス革命直前に全国三部会から離脱した第三身分を中心として形成された国民議会が、1789年7月9日に改称して成立したフランス最初の近代議会である。憲法制定議会とも呼ばれる。 1791年憲法を成立させて憲法に基づく選挙を実施し、1791年9月30日に立法議会に引き継がれた。
 
※ 「秒振子」とは何か
 たびたび話が出る「秒振子」とは、一秒打ち、すなわち往・復それぞれ一秒の振子であって、物理学では周期2 秒の振子と呼ぶのが正しい。振子は後代には逆に重力加速度の測定の重要な手段の一つになった。

●子午線の採用
 英国の回答を待っている間に、タレイラン案の検討を終えたパリ科学院は、第一期委員会を編成した。この委員会は度量衡および貨幣の位取りにおしなべて10進法を採りいれることにした(1790年10月27日)。
 第二期の委員会は、ボルダ(Jean Charles Borda、1733-99)、ラグランジュ(Joseph Louis Lagrange、1736-1813)、モンジュ(Gaspard Monge、1746-1818)及びコンドルセをメンバーとし、長さ測定の基礎の決定を任務とした。この委員会は上述の論拠から振子長の案を排し、結局、地球子午線の一象限の長さを採用し、その1千万分の1をもって現実の単位とすることを決した。
 しかし子午線一象限全長の実測は考えるだに困難である。そこでダンケルク(Dankerque、北緯51度2分10.5秒に位置)とバルセロナ(Barcelona、北緯41度21分44.8秒に位置)の間の弧長の実測に留めることにした。この子午線弧の両端はいずれも海面水準にあり、北緯45度を挟んで南北両側に位している(ちょうど中央の点は45度ではなく46度11分58秒のところである)。

●直ちに計画の実行へ
 このプランは1791年3月26日の国民議会の採可するところとなり、科学院は即座にこの計画の完遂に必要な仕事を分担する諸委員会を任命した。ドランブル(Jean Baptiste Joseph Delambre、1749-1822)とメシェン(Pi?rre Fransais Andr? M?chain、1744-1804)が子午線弧の測定を受け持たされ、ラヴォアジェとアユイ(Ren? Just Ha?y、)、後にルフェ-ヴル・ヂノ-(Louis Lef?vre-Gineau、1754-1829)とファブローニ(Giovanni Valentino Mattia Fabbroni、1752-1822)が重量単位決定のために既知体積の水の目方を測定する役目を負わされた。

●英国の態度
 新制度創設に際し切望されていた英国の対仏協調はついに実を結ばなかった。1790年4月13日に、例のリグズ・ミラー案が英国下院に上程されたが、それから幾ばくも無い同年12月3日に至って、英国外務長官リーズ大公(Duke of Leeds (Fransis Osborne)、1751-99)は、フランスの駐英大使リュツェルヌ候(Marguis de la Luzerne)に返書を寄せ、「英国政府は、フランス政府の提案に同調し得ざることを遺憾とす。協定は実行不可能と考慮せらる」との意向を伝えた。

●微妙な米国の態度
 つぎに米国について見るに、ここでもまた度量衡制度の改革は考慮の対象になっていた。1790年1月、ワシントン大統領(George Washington、1732-1799、第一代および第二代の二期にわたり就任)は議会にメッセージを送り、議会にて度量衡制度を調査するよう勧告した。国務大臣トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、1743-1826、1776年米国独立宣言の起草者。1801年第三代大統領に就任)は、二つの解決策を示し、そのいずれかを採るべきことを提案した。すなわち、現行の英国(ヤードポンド)制を単純化・明確化し統一すること、もしくは、秒振子の長さを基としてその10分の3をもって基本単位を定め、十進法で位取りすることの二案である。
 ジェファアスンは、不変にして普遍な標準の採用を熱望したのではあったけれども、やはりパリ科学院の支持する子午線長の案を採用しようとはせず、秒振子長の案に固執した。彼の思慮は次のようなものである。
○ 新制度の基礎は、いずれの国においても支障なく実施しうる測定にこそ置かれるべきである。
○ ところが、目下提出されている子午線測定は、ダンケルク・バルセロナ間を除く他の地域ではほとんど不可能であるから、長さの単位をチェックするにあたってフランスとスペインが独占的有利をほしいままにするであろう。(ダンケルクはフランスの北端、バルセロナはスペインの東端に位置している。)

●秒振子に劣るとの主張
 こうした否定的態度は、降って1795年にフランス共和国の大臣から米国に対しメートル法勧告状が伝えられ、ワシントン大統領の手でそれが米国議会に送られた際に及んで、一層顕著になってしまった。フランス案はほとんど賛成を得ることができず、再現可能の見地より見て、地球の象限弧の1千万分の1を基とする単位は、秒振子に劣るものと判定されたのである。
 ここに至ってフランスは、もっとも深く頼みとした大国の拒否に当面し、独力で新制度の樹立を推し進めることとなった。
 いわゆる、「フランスにて着想され創造されたとはいえ、すべての国のものとなるべき」新制度の樹立を。

●新単位「メートル(metre)」の決定
 タレイランの提案が世に出たのが1790年3月、そして新単位「メートル」の値の最終決定をみたのが1799年12月。この間およそ十年の歳月が流れた。
 人はこの隔たりをあまりにも長いというかもしれない。しかし、長さと重量の単位決定に必要であった作業のすべてが、あの革命の大動乱のさなかに遂行されたことを忘れてはならない。この、混乱定まるところのない世情が、仕事の進行を妨げたことは一通りでなかった。実務の任を負った学者たちといえども何らの特別扱いをうけることなく、時には忠誠心の査問にかけられもし、拘束されもし、獄につながれもし、はなはだしい場合には死刑に処せられもした。この政治的不安と動揺の一時期にあたって、何人かの学者の上にめぐりきたった運命とは、かくのごときものであった。
 もとより、この十年の辛苦をここでつぶさに述べることはできない。あらすじを辿って、真相をうかがい知るにとどめよう。

※ フランス革命時の10年
 バスチーユ(Bastille)獄襲撃の1789年7月14日よりナポレオン(Napoleon Bonaparte、1769-1821)のクーデターの1799年11月9日に至る10年間を以てフランス大革命期と見るのが史学の定説である。この10年間と、本文最初に書かれた、タレイランの提案よりメートル値の決定に至る10年間とが、余りにもよく合致していることにあらためて驚きを感ぜざるをえない。その間の歴史の詳細は専門書に譲り、われわれに関係深い事項だけを整理してみよう。
 三部会召集が機縁となって成立した国民議会および憲法制定国民議会は、封建制廃止と人権確立の宣言を以て革命の原理を天下に示したが、指導層は主に有産ブルジョワであった。民衆の不満と外国の干渉の中に立憲君主制の憲法が成立し国民議会が解散して新たに憲法制定国民議会が開かれた。タレイラン案は憲法制定国民会議に提出されたのである。ここで、王党派の勢力は衰え、温健なジロンド党(Girondins)と急激なジャコバン党(Jacobins)の争いのうちに、三度制度は変わって国民公会注(Convention nationale: コンヴァンション・ナショナル)が開かれ、王制は廃され、共和国が成立する。後述の暫定計量制度(1793年8月1日)や革命暦※は、公会の徹底的合理主義の産物である。世情は凄惨をきわめいわゆる恐怖時代が暫く続く。

注 国民公会
 国民公会は、フランス革命期の1792年9月20日から1795年10月26日まで存在したフランスの一院制の立法府で、諸委員会を通じて執行権をも握っていたので、同時に行政府の役割も担った革命政治の中央機関である。

※革命暦
 革命暦という暦は、1792年9月22日(国民公会成立直後)を第1年第1月(ぶどう月)1日として始められた。週は廃止され、10日ごとに休日を置き、1月はちょうど30日。月の名は別表のとおり。普通暦との対応は端数があって一定でない。
 
別表 革命暦の月名一覧 〔普通暦と対照〕
原 名
訳 名
普通暦の月と旬
Vend?miaire
ヴァンデミエール
ぶどう月
9月下旬~10月中旬
Brumaire
ブリュメール
霧月
10月下旬~11月中旬
Frimaire
フリメール
霜月
11月下旬~12月中旬
Niv?se
ニヴォーズ
雪月
12月下旬~1月中旬
Pluvi?se
プリュヴィオーズ
雨月
1月下旬~2月中旬
Vent?se
ヴァントーズ
風月
2下旬~3月中旬
Germinal
ジェルミナール
芽月
3月下旬~4月中旬
Flor?al
フロレアール
花月
4月下旬~5月中旬
Prairial
プレリアール
草月
5月下旬~6月中旬
Messidor
メスィドール
収穫月
6月下旬~7月中旬
Thermidor
テルミドール
熱月
7月下旬~8月中旬
Fructidor
フリュクティドール
実月
8月下旬~9月中旬

●長さの単位
 子午線の長さの決定は、二つの部分に分けて実行された。ダンケルクよりロデーズ(Rodez)に至る北側にあたる部分はドランブルに託され、ロデーズよりバルセロナに至る南側の部分はメシェンに任された。測地のために彼らは、反覆円儀という器械(そのころにボルダが発明した)を使い、それによって角度を一秒の精度で測定することができた。測定の内容は、三角網測量ならびに経度および方位角の測定を主体とするものであった。
 この大切な仕事は、いろいろな理由で何度か中断の憂き目にあった。その実施中に、二人の上に降りかかった災厄と危難は数知れない。
 
○ 例えば検束、通行権の剥脱、仕事に対する妨害や破壊行為
また、こんなこともあった。
○ 彼らが観測に用いた標識が、人の不信を募らせたというのである。つまりは、標識のはじに取り付けた白布、白は王室の色、とりもなおさず反革命の旗印である。

 そのため二人の科学者と助手たちは、ありとあらゆる通行票・許可証・その他所要の委任状の類を手ぬかりなく所持していた甲斐もなく、地方官憲当局の疑惑の眼を解消させることはできなかったのである。

※仕事中の苦心の実情
 彼らの難渋の様をドランブルの手記からニ、三引用しよう。
「南部を受け持ったメシェンは、現地にはまだまだ遠いパリ近郊で早速暴動市民に途を阻まれた。市民たちは、何を見ても反革命の陰謀と決めつけたのである。」
「我々は協和政府発行のアッシニア紙幣(Assignat)しか持たなかったが、その価値は暴落し、ある地方では隣村に移る馬車賃にも事欠いて足留め状態に陥り、他の地方では宿舎も食糧も求められずに退散を余儀なくされた。」
「初期に、我々は身柄や機材の安全を期するため国王のお墨付きを受け、身に着けていた。これはまさに末期に近づいていた旧権力の公文書であった。当所は曲がりなりにも効力を示したこのお墨つきも、やがてはただの一枚の紙片に過ぎなくなり、ついにはかえって嫌疑の種を蒔くものとなった。」
 彼らの仕事は、ドランブルの手でまとめられ、1806年~1810年、パリで三巻の書として刊行された。その要旨がブロック(Walter Block)により独訳され、オストワルト科学古典叢書に納められているのを参照した。

●子午線弧の測定終わる
 1792年6月に開始されたこの子午線弧測定は、1798年6月に至ってやっと終わりに漕ぎ着けた。測定の成果はフランス人および外国人の学者たちで構成されていた委員会の承認するところなり、北極より赤道に至る距離は、5,130,740 トワズ(toise)ということになった。言い換えれば、1 メートルが3 ピエ(pied de roi)と11.296 リーニュ(ligne)にあたることが結論されたのである。

●重量(質量)の単位
 度量衡改革案は、おしなべて重量と体積(従って長さ)との間に関連を設ける趣旨になっていた。この方面の仕事は、言うまでもなく、パリの科学院(アカデミー)が担当した。
 実際の受け持ちは、1791年に二人のアカデミシャン、ラヴォアジェとアユイに課せられ、両人は1793年8月にはそれをほとんど完了していたのであるが、この時を境として、仕事は、もう一人のアカデミシャン、ルフェーヴル・ジノーとその助手ファブローニ(タスカニー出身の代議士)に引き継がれた。

※ラヴォアジェの業績
 革命前の特権階級保護的な税金のうち、間接税というものの取立は徴税請負人が掌握しており、彼らは大衆から税を取立て国庫に納めるが、そこに莫大な利を私することができた。ラヴォアジェは1768年以後この仕事に関係した。この地位は、彼の実験研究費を生んで化学史に高名を残すことに役立ったが、また反革命的ブルジョワの一人としての彼を断頭台に送ることにもなった。
 科学院のもとで計量改革事業が開始されたとき、彼は水の秤量実験だけでなく、会計その他の雑務や報告文書作成を一手に引き受けたという。科学院が旧制度のなりとして存在を脅かされるに至った時、彼は力を尽くしてこれに抗したが、1793年8月、結局科学院は解散を命じられ度量衡の仕事は公教育委員会※(Comit? d'instruction publique)の管理するところとなった。そこで再び新たに委員会の編成に努力し始めた彼の上にやってきたのは、しかし、家屋捜索(同年9月)、拘束(11月)であった。実験は当然中断絶された。
 彼が獄中から護衛付きで実験室に通ったという伝説は、後年創作されたフィクションであるらしい。有名な「この首を落とすには一瞬で足りたが、百年かかってもこんな首はまたと生まれまい」というラグランジュの哀惜の辞は、われわれの良く知るドランブルに向かって語られた由。

※ 公教育委員会(Comit? d'instruction publique)
 国民公会の下に設けられた極術・教育に関する組織である。それまではほとんど協会のみの手で行われていた一般教育に関する組織である。それまではほとんど教会のみの手で行われていた一般教育を国家の手に移したこと、後代熱学のカルノー(Nicolas Leonard Sadi Carnot、1796-1832)、電気学のビオ(Jean Bptiste Biot、1774-1862)を生んだ理工学校(?cole polytechnique: エコール・ポリテクニーク)の創立などが、当時の教育に関し注目すべき事実である。科学院廃止を身近に感じ始めた頃、ラヴォアジェは、地方で測定に従事していたドランブルに手紙を書いた -「科学院解散のために貴下が事業を遅らせたり、活動を鈍らせてはいけません。公教育委員会がきっと度量衡に関する件の処理に当たってくれます…」と。

●「キログラム(kilogramme)」の誕生
 ルフェーヴル・ジノーとファブローニは、既知体積の水の重量を測定した。その方法は、寸法の詳しく知られた真鍮製中空円筒を、水中と空気とで交互に秤量するというやり方であった。これらのデータから、1 デシメートル立法の蒸留水の重量 (ただしその最大密度(4℃)にて、かつ真空中にて) が求められた。
 この測定の成果も、委員会の承認するところとなり、ビル・ド・シャルマアニュ(※ 既出のフランス古代重量原器)を基にして表すと、18,827.15グレンになった。これが新しい単位 『キログラム』 として採用されたのである。

●単位の素材整う
 こうして、ふたつの重要な測定の結果が得られた以上は、長さと重量との単位設定に必要な素材が整ったということになる。
 ところで、注目しなければならない一つの史実がある。それは、子午線長の決定と重量単位の決定について最終的数値が公にされるより以前に、二項目の決議がなされていることである。

●注目すべき二つの決議
〔1〕暫定的計量制度
 1792年に暫定的計量制度がつくられ、1793年8月1日に採可されている。ここで単位の呼び名が初めて決定され、暫定的な真鍮製メートル尺がルノワール(Marie Alexandre Lenoir)の手で作られ、1795年7月6日に公教育委員会に提示された。このメートルの長さは以前の(※既出1740年の)地球測定結果から導き出されたもので、値は3ピエと11.44リーニュであった。(※本節に述べたドランブルらの得た最終的値に比べると0.15リーニュ、すなわち0.3ミリメートルほど過大である。)

〔2〕十進法と単位の呼び名
 やや遅れて革命歴第3年芽月(ジェルミナール)18日(1795年4月7日)の法律はフランスに十進メートル制度を創設し、単位の呼び名を定めた。それらは今日用いられている通りの名前であって、長さには「メートル」、面積には「アール」、体積には「リットル」、重量(質量)には「グラム(後にキログラム)}がそれぞれ定められた。なお、この法律の一条項において、メートルすなわち新計量制度全体の基本単位に採用された量の大きさを、白金製のものさしに刻み付けておくことも定められたのであった。

※総裁政府時代の始まり
 このころすでに恐怖政治時代は終わりを告げていたが、諸党派の抗争はとどまるところがなかった。あらゆる分野に反動勢力が頭をもたげはじめる。本文にあるジェルミナール(芽月)の頃は、「パンと1793年の憲法を」のスローガンのもとに民衆の暴動が相次いだ。しかしそれはリーダーのないままに全く不成功に終わり、革命の原動力は打ちのめされてまたもやブルジョワを主体とする共和政治体制に移ってゆく。国民公会は革命暦第4年霧月4日(1795年10月26日)に解散し、総裁政府時代が始まる。

●標準器の製作
 革命歴第3年芽月(ジェルミナール)18日(1795年4月7日)の法律に従って、メートル標準器とキログラム標準器が製作されることとなり、値が定められたばかりの新単位の具体的な形が個々に出来上がるに至る。

●初期のメートル標準器(アルシーヴ原器)
 まず、メートル標準器の方であるが、この時に作られたのは(※後のいわゆるメートル原器のごとき)標準尺でなくて、端面基準尺であった。言い換えれば、二本の標線間の距離で長さを示すのではなく、端面間の距離で長さを示すものであった。この標準器は、25.3ミリメートル×4ミリメートルの矩形断面を持つ、まっすぐな棒形の標準尺であり、白金で作られた(原注4)。ルノワールの製作にかかる比長機を用いて、この新標準器とトワズとの比較が行われた。

※原注4 白金
 当時、白金は塩化白金アンモニウムを焼いて作った。スポンジ状白金から得られた。スポンジ状のものを圧縮し、白熱状態にし、それから鍛造した。

●初期のキログラム標準器(アルシーヴ原器)
 次にキログラム標準器の方について述べると、直径と高さの等しい円筒形に磨き上げられた、白金製のものが作られた。その重量はおそらく天びんと分銅(水の既知体積の重量測定に使用したもの)をもって調整されたと思われる。

●「元老会議」等にも提出
 こうして作られた(※仮の)メートル標準器とキログラム標準器は、フランス国立学士院※の代表者を通じて、革命暦第7年収穫月(メシドール)4日(1799年6月22日)に元老会議※および五百人会議※に提出され、引き続き共和国文書保管所(アルシーブ)に収納された。これらの仮標準器がメートル・デ・ザルシーヴ※およびキログラム・デ・ザルシーヴ※と呼ばれるのはこれに由来する。これらの標準器に法的な値が最終的につけられたのは、革命暦第7年霜月(フリメール)19日(1799年12月10日)であった。

※メートル・デ・ザルシーヴ(Metre des Archives)

 共和国文書保管所(Archives de Republic)に保管されたため、文書保管所のメートル(アルシーヴ原器)と呼ばれる。
 ルノワールという人は精密工作技師で、このほかドランブルらが使った基準尺や測量機械、秒振子の実験装置なども製作し、またボルダ・ラヴォアジェに協力して白金の膨張係数測定にも参加した。

※キログラム・デ・ザルシーヴ(Kilogramme des Archives)
 確定キログラム原器(Kilogramme definitif)として作成。共和国文書保管所(Archives de Republic)に保管されたため、文書保管所のキログラム(アルシーヴ原器)と呼ばれる。原文にこの標準器と容器の写真がある。

※ フランス国立学士院(Institut de France)
 これまで「科学院」と訳してきたのは。1666年(ルイ14世(Louis ・・、1638-1715)治下)にパリに設立された「王立科学アカデミー(Acad?mie royale des Sciences: アカデミー・ロワヤール・デ・シアンス)」であって、1662年ロンドンに設立されたロイヤル・ソサエティと共に、現在まで続いているこの種の学術機関の最古のものである。1793年に一旦廃止されたことは既に注記したが、早くも同95年にこれに代わる機関として、ここに「フランス国立学士院」と訳したアンスチチュ・ド・フランス(Institut de France)が開設され、革命がおさまった1816年に組織が整えられて今日に及んでいる。

※「元老会議(Conseil des Anciens、元老会・元老院)」と「五百人会議(Conseil des Cinq-Cents、五百人会・五百人院)」
 元老会議・五百人会議は、共和政時代の1795年8月の憲法で定められた立法の二院。前者は最低年齢40歳、定員250名、後者は最低30歳で500人。後者が提出した法案を前者が票決した。時の行政権は総裁政府(ディレクトール)に委ねられていた。

●度量衡統一の偉業終結
 これをもって度量衡統一の偉大なプランに終結がもたらされた。この偉業について、彼のラヴォアジェ ―『恐怖政治時代の1794年5月8日断頭台にその生涯を閉じるまで、自らもこの改革の準備のあらゆる面で主導的地位に立ち続けたラヴォアジェ』― は、いみじくも言った。「人の手になるものにして、かくも偉大な、かくも単純な、そしてあらゆる部分においてかくも一貫せるものなし」と。

※アントワーヌ・ラヴォアジェ(Antoine Laurent Lavoisier、1743-1794)
 ラヴォアジェについては再々注をつけたが、邦訳のあるエドアール・グリモー(Eduard Grimaux、1835-1900)著の伝記(江上不二夫(1910-1982)訳、白水社)は、「史実を精査した点に価値はある」が、「その纐纈を弁護するあまり」「多少弁護に急な」「偏見が表れている」等の批判を受けている。フリードリヒ・ダンネマン(Friedrich Dannemann、1859-1936)の「大自然科学史」邦訳第四および五巻の訳注や、原光雄氏(1909-96)の評伝(自然昭和26年8月)などを参照されることをお勧めする。なお、数か月前東京で上演されたロマン・ロランの史劇『愛と死との戯れ』に登場するクールヴォアジェなる人物は、コンドルセとラヴォアジェをモデルとして彼らの面影を活かしてあるとロラン自身述べている。学問的な文献として挙げるべきものではないが、併読すればまことに興味深いのでついでに記しておく。

3.メートル法の普及
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月6日号、13日号)

●メートル法の特徴
 メートル法のもつ単純性と一貫性との利点はひろく世に認められている。

『 メートル法の主な特徴を思いうかべるには、二、三言で足りる。
 第一に、それは数の数え方と同様な完全な十進法になっている。
 次に、面積および体積の単位は長さの単位をそれぞれ二乗および三乗して得られる。それから、重量の単位は、体積の単位と直に結びついている。
 最後に、倍量(上の桁)および分量(下の桁)の呼び名は、基本になる単位の名の前に接頭語をつけるだけでできあがる。』

キロ(k)=1,000、ヘクト(h)=100、デカ(da)=10、デシ(d)=10分の1、センチ(c)=100分の1、ミリ(m)=1,000分の1

※接頭語と奇妙な反対論
 キロ、ヘクト、デカはギリシャ語から、デシ、センチ、ミリはラテン語からきた接頭語である。当時の反対論のひとつに「メートル法を使うのにギリシャ語やらラテン語やら習わなければならないようではやり切れない」というのがあったと田中舘博士が書いておられる。(岩波講座、物理学及び化学。昭和四年。科外特別題目)
 その後に定めら れた接頭語は昨年の国際度量衡委員会決議のものまで含めてつぎのとおり。

テラ(T)=10の12乗、ギガ(G)=同9乗、メガ(M)=同6乗、ミクロ(μ)=同マイナス6乗、ナノ(n)=同マイナス9乗、ピコ(p)=同マイナス12乗

●普及は緩慢で困難
 これほど使いやすいものであったにもかかわらず、メートル制がたちどころにフランス全土にあまねく採用されるということにはならなかった。その普及は緩慢であり、また難事業であった。新制度は長く培われた習慣を根こそぎひっくりかえすことを要求する。なかでも、(※単位の)呼び名がすっかり変ったことは、民衆の抗議の的となった。

●いまわしい混乱の事態
 革命暦第9年霧月13日(1800年11月4日)付けの執政令(統領令、Consulat: コンシュラ)は、古い単位名(リュウ、リーヴル、オンス、ペルシュ、など。※第1章の表参照)を復活し、一方、数え方・位取りにはメートル式の十進法をいかすという趣旨のものであったから、ここに再び忌まわしい混乱がまきおこされ、事態は旧に倍して悪化するばかりであった。実際、同じ名前で呼ばれても、その実体をなす単位は別のものといった例が、いくつも見られたのである。
 追って1812年2月12日には、またしても不都合な皇帝令が出た。それは、民衆の声に迎合して「常用」計量制度と称するものを、法定制度と併用することを公認したのである。例えば、2メートルをもって1トワズとし、500グラムをもって1リーヴルとし、ヘクトリットルの8分の1をもって1ボワソオ(英米のブッシェルに相当)とする如くである。そしてこれらの単位を、十進法でなく古式の分割法で位取りしたものであった。

※独裁ナポレオンの功罪
 ブルジョワ共和国を目ざした総裁政府が失敗を重ねている間に、独裁者ナポレオンが頭角をもたげ始める。クーデターのその夜、彼を含む三人の「執政」が任命され、ほどなく実権は彼一人の手に帰し、1804年その頭上に「皇帝」の冠が輝く。
 後世、ナポレオンの天才的軍事行動や、例の「法典」に対しては崇拝者が絶えないが、彼の支配下での度量衡行政実績は本文に見るとおり、甚だ芳しからぬものである。
 余談二、三 『彼のクーデターはサン・クルーにおいて繰り広げられた。つまり、後に国際度量衡局となったパヴィヨン・ド・ブルトイユ(Pavillon de Breteuil)附近(あるいはそのもの?)で折から開かれていた五百人会議(既述)の議場に彼の手兵四千余が突入したのである。
 このパヴイヨンに、ナポレオンとその一族が少時の間起居したことがある』 これは第5章で紹介。
 ナポレオンが「皇帝」の称号を選んだ心事には、往古のチャールズ大帝すなわちシャルマアニュの幻影を追うものがあったという。古代重量原器ピル・ド・シャルマアニュに名を残した前帝の実績(第1章参照)に比べるならば、度量衡統一に関する限り、ナポレオン・ボナパルトは不肖の後継者と呼ばねばならない。

●絶望的な事態に
 こうしてせっかくの度量衡改革も、いつの日に実を結ぶことやら、はかり難い有様であった。その成就は、改革そのことが深刻な脅威にさらされ、ひいては計量制度の中に往時の無政府状態が再び勢いをほしいままにするに至ってはじめて成し遂げられたのである。
 すなわち、レジスタンス(抗議)※の輩は徒党をなして世にはびこる。諷刺文あり、漫画ありで、メートル法をひやかす。しまいにはあちこちに厄介な事件も発生し、ただならぬ暴挙もおこる ― ここに及んでは、時を移さず対策を講じない限り、緒についた大事業の保全を期することはもはや絶望的となった。

※レジスタンス(抗議)
 諷刺文・漫画の例や、騒動・一揆の類の史話は、ペラール氏(Albert Gustave L?on P?rard)著「不滅のメートル法」(拙訳、本紙昭和32年9月15日号)に挙げられている。
 ついでながら、わが国の尺貫法論者たちにも相当猛烈な実績があったことと想像される。どなたかに、まとめておいていただきたいものである。今となっては一場の昔話の種に過ぎないような気もするが、整理しておけば、メートル法の後進国のためには案外役に立つかも知れない。

●厳格な罰金制登場
 この不当な事態に終止符を打ったのは、1837年7月4日の法律である。その条文は、厳格な罰金の制裁のもとに、1840年1月1日以後メートル法以外のいかなる度量衡の使用をも禁止した。こうして、四半世紀を占めた「折衷妥協」時代は確然と幕を閉じ、1840年という年こそは、フランスにおけるメートル法専用の期を劃したのである。

※罰 金
 罰金は次のとおり。
 「すべての公の書類はもちろん、普通の受取書や見積書などにメートル法以外の名前を書いた者は、書付一通に対して金10フラン宛、また公の役人でそういう書付を書いた者は20フラン。」(田中舘博士。前掲岩波講座)

※女神像の記念のメダル
 この快挙を記念してメダルが作られ、その写真が原文に示されている。メダルの表面には、尺度を手にした女神像が、また裏には地球子午線の一象限にコンパスをあてている天使の姿が見られる。この図柄は計量関係の展覧会などでよく利用されるので見覚えのある方も多いであろう。天使像の上に「計量の単位」の文字があり、女神像の上には「すべての時代に、すべての人々に」の標語が見える。その下の記銘は「国民公会。革命暦第一年熱月4日公示」(これは1793年8月1日。第2章参照)および「フランス国王ルイ・フィリップ一世(Louis Philippe、1773-1850)」とあり、専用移行の日付を示してある。
 なおこのメダルは1799年ごろ発案され、のちゴノン(P. M. Gonon)なる人の提議で実現した。製作は1840年ごろ。作者はプナン(Penin)。

※ルイ王とタレイラン
 ナポレオン没落後、ブルボン王朝が復活して「王政復古」の世となったが、1803年の七月革命でルイ・フィリップが推されて王位を襲った。1848年の二月革命までが彼の治世である。世情はバルザック(Honor? de Balzac、1799-1850)の諸作やヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo、1802-85)のレ・ミゼラブル(Les Mis?rables)に描写されている。ルイ・フィリップの祖先、オルレアン公フィリップ二世(Philippe d’Orl?ans、1640-1701)は、パヴィヨン・ド・ブルトイユの造営に功があった。
 メートル法生みの親と呼ばれるタレイランは、貴族の出ながら僧籍に入り、アペという高い身分についた。それが革命時には急進派で破門され、米国に逃げていたこともある。総裁政府時代に外相となり、ナポレオンのエジプト遠征のしり押しをしたり、王政復古時代にはウィーン列国会議をかきまわしたり、ルイ・フィリップ治下では駐英大使として敏腕を示したり、一生大活躍を続けて1838年に死んだ。1837年のメートル専用布告は見届けているわけである。

●世界へ長足の進展
 年とともに国外にも知られ、価値を認められることとなって、メートル法は全世界に長足の進展をとげた。ひとえにその単純性ならびに論理的かつ合理的構成のしからしめるところである。
 イタリアの某州(※正しくは某「国」。当時のイタリアはナポレオンの席捲・ウィーン列国会議の紛糾などのただ中にあり、群小国乱立状態であった)では、19世紀初頭にはやくもメートル法をとり入れている。1816年オランダでその強制採用が宣言される。1849年スペインがメートル法を承認する等々。1860年以降その普及は目ざましいものがあった。

※各国のメートル法採用の年次
 各国での採用の年次は、たとえばモロー氏の「世界のメートル法」(拙訳 本紙昭和31年7月25日号とそれに続く二号)にまとめてある。詳しいことは毎回の国際度量衡総会の記録書の末尾に報告が載る。報告の担当は近頃では本稿の原著者モロー氏である。

※注目のドイツの態度
 ここでよく引き合いに出されるのがドイツの態度である。イギリスの産業革命・フランスの市民革命と並んで、ドイツでは思想・文芸方面で精神革命が遂行された(カント(Immanuel Kant、1724-1804)、ゲーテ(Johann Wolfgang Goethe、1749-1832)等)といわれるが、政治・経済上に立ち遅れの顕著だったドイツ諸小国が、統一国家への歩みを進めるためには、ビスマルク(Otto Eduard Leopold Bismarck、1815-1898)の独裁内政と武力外交を必要とした。
 彼を首相とするプロイセン王国(K?nigreich Preu?en)は、普仏戦争(1870~71年)でナポレオン三世(Louis Napol?on、1808-1873)の帝政フランスを破り、ここに統一「ドイツ帝国」が生れる。多額の賠償金とアルザス(Alsace)・ロレーヌ(Lorraine)のニ州を獲たドイツは、躍進的な国力増強を示しはじめる。勝ったドイツが、敗けたフランスのメートル法を採用した(1875年強制施行)英断は、しばしば美談として引用される。そのことをドイツ政体の変革と対比させて見る時、天野氏の言(参考1に引用)は一層説得力を増す。

●英米のメートル法
 大英国においては、1864年7月29日の法律をもって王室制(Imperial system: インペリアル・システム、※いわゆるヤードポンド制)と並んでメートル度量衡を併用することを公に許可した。

 1866年7月28日※に米合衆国においても同様な決定がなされた。かつて1795年にメートル法を拒否した故事(第2章参照)を歴史に留めたとはいいながら、それを去ること殆ど一世紀の1893年※には、米国でメートル条令が裁可され、もってメートル系度量衡の使用は法制化された。 『条令にいわく「合衆国全土を通じてメートル度量衡の使用は合法なりとす。いかなる契約及び取引、並びにいかなる法廷における陳述も、そこに表記若しくは引照されたる度量衡がメートル法による故をもってしては、無効なるもの、若しくは抗議に服すべきものとみなされることなきものとす」と。』

※米国のメートル法採用の年次の間違い
 米国に関する記事中、原文では1864年7月28日及び1886年とあったが、これはたぶん間違いで、条令が出たのは1866年7月28日、現在のヤードとポンドの値がメートル法を基礎として決められたのは1893年である。

※史上最大で最後の課題
 英米の完全メートル化は、メートル法普及史中最大にして最後の課題と呼ぶにふさわしいであろう。もはや我々の関与する必要のない問題と呼ぶのは早計である。国際会議などでの最近の動向を紹介することは訳者の力を超えるので差し控えたいが、身近な話題を書き留めておくことにする。
 つい先ごろのことである。英国から中央度量衡検定所あてに「英国のメートル化運動の参考にしたいから、日本での完全実施のいきさつを教えてもらいたい。」との首位の紹介があったそうで、回答は英国国立物理研究所に留学中の中央度量衡検定所の飯塚幸三技官を通じてすでに送られたという。まことに感慨深く、また愉快な話である。

※田中舘先生のこと
 英米のメートル化問題に寄せて、誇るべき先覚である田中舘愛橘先生のことに触れておきたい。
 英国の偉大な物理学者ケルヴィン卿(Lord Kelvin (William Thomson)、1824-1907)は英国の事情を慨いて大学の講義の折に「英国の度量衡はノー・システムというものだ。……これをフランス度量衡の規律整然たるものに比較すると実に驚くべき乱雑さである。英国人は常識が発達していると自負しながらこの醜態は何事だ……」と繰り返し議論したそうである。(中村清二博士(1869-1960)著「田中舘愛橘先生」昭和18年)。
・先生と二人の外国人教師
 ところで、田中舘先生が明治初年に東京帝大で師事された外国人教師は、英国のユーイング(James Alfred Ewing、1855-1935)、米国のメンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall、1841-1924)の両氏であって、先生の長い生涯を支配したメートル化促進の熱情は、この両師に由来するところが多いと見ることができる。なぜなら、ユーイングはケルヴィン門下の逸材であり、その縁で先生も渡英中同門に入り、大いに感化を受けられた。先生は、ここに引用したケルヴィンの卓見をまず東大でユーイングから吹き込まれ、さらに留学中に卿から直接に教えられたのである。
 一方、メンデンホールは、帰米後に学会の要職に就き、米国にメートル法の基を築いた功積があり、米国計量制度紙にメンデンホール時代の名を残している。(米国標準局の不定期刊行物サーキュラー593号(1958年)参照。)
 縁はこれに留まらない。メンデンホールは日本に深く好意を寄せ、その遺言により寄付された基金をもって、日本の物理学会のためのメンデンホール賞が設けられ、その第2回受賞者が、田中舘門下の中検の元所長で光波基準研究に功績のあった渡辺襄氏であった。
・「暗い谷間」での戦い
 田中舘先生については、中村博士の手になる伝記に詳しいが、菅井準一氏は先生の長逝を追悼する文の一節で、「中村先生の伝記には「暗い谷間」における田中舘先生のメートル法のための戦い、尺貫論者とのやり取りについては当時の事情もあって記されていないが、近い将来ぜひともこの点を明らかにしておく必要があると思う」と述べておられる。(科学史研究第23号、昭和27年) そのころの事情を回顧した記事が本紙上に何度か掲載されているのは誠に意義深い。今後にも期待する次第である。

4.国際度量衡局(Bureau International des Poids et Measures, BIPM)
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月20日号)
(国際度量衡局の由来(上)  日本計量新報社 昭和34年(1959年)3月25日号より)

●序
 1949年12月10日、その日メートル法の長さの標準メートルは150の齢を重ね1950年5月20日、この日国際度量衡局は創立75周年を迎えた。これらの記念日を人は心に留めることもなく過ごすであろうが、計量の歴史、すなわち文化史そのものというも過言でないその歴史の、重要な日付がここに刻まれたのである。
 メートル法創威歴史とフランス革命史は双生の兄弟であった。フランス全史を通じて類のないこの運命的な時代にあって、指導的要職をになった傑出せる学者、政客の名『人はメートル法誕生の各段階においてこれらの名に遭遇する』。一方、国際度量衡局の創設は、19世紀後半を通じてのメートル法の進展がもたらした成果であったのである。
 以上、メートル法の起源、すなわち、タレイランがいうところの「いつの日か全世界のものとなるべき」大事業のあらすじを示し、あわせて、世界的性格をもつ計量の研究所たる国際度量衡局の業績の主要面を叙したい。

●メートル法の創成と国際度量衡局
 『計量制度の世界的統一が必要である』 この宣言は、ロンドン(1851年)およびパリ(1867年)の万国博覧会を機としてはじめて世人の心にとらえられた。この思想の推進に力があったのは各方面の学術団体(測地協会、セントペテルスブルグ学院、パリ科学院など)の表明した要望、すなわち、当時すでにできていたところのメートル・デ・ザルシーヴおよびキログラム・デ・ザルシーヴを基本として、新たに原器をつくり、その値をメートル系の値として精密に決定せよ、との要望であった。
 1867年ベルリンで催された測地学国際会議は、当時進行中であったヨーロッパの大三角測量網に系統的誤差のある事実を重大視し、ヨーロッパ全土に共通の計算単位を設定する必要を痛感し、また計量に関する国際研究所の設置のことを望んだのである。
 これらの要望に応えて、フランス政府は1870年に諸国の代表を招致した。招きに応じた24か国の代表者は国際メートル委員会を編成したが、その活動は同年の普仏戦争のさまたげるところとなり、この委員会の意図が実行に移されたのは、降って1872年であった。このたびは30か国の代表の列席を見、西欧圏12か国が含まれていた。新原器調整については30余件の決議が裁可され、同時に国際的計量研究機関の創設も関係諸国に勧告されたのであった。
 さて、この委員会のメンバーは学者ばかりであったから、時の政府を動かす力はなかった。この国際研究機関の設置が公式に承認されたのは、年を経て1875年パリ開催の「メートル外交会議」においてである。この会議に列席の28か国全権委員の署名をもって「メートル条約」は成った(1875年5月20日)。この条約(のちに1921年10月6日条項を追加して修正)を通じて、署名各国は共通の負担において学術的恒久機関たる国際度量衡局を設置、維持する義務を負うこととなった。そしてそれがメートル法の誕生の地パリに置かれることになった。
 この国際的機関に課せられた当初の本来の使命は、明確なメートル標準およびキログラム標準の作製と保管の任、並びに諸国に配布された各国原器の比較の任、また計測学のあらゆる分野における進歩を促すべく計測技術を改良する任にあった。この企画の達成に伴って、局の活動は諸量計測の問題点や計測の精度に関与する物理量の探求の方向に転換してきた。近年、局の受け持ちは、電気測定や測光学の領域にも拡張されてきているのである。

5.パヴィヨン・ド・ブルトイユ
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月20日号)
(国際度量衡局の由来(上)  日本計量新報社 昭和34年(1959年)3月25日号より)

 国際度量衡局の置かれるべき地は、結局、振動の憂いに煩わされぬ平和の里、セーヴル(S?vres)のパヴィヨン・ド・ブルトイユ(Pavillon de Breteuil)の料地に決せられた。この資産は国際度量衡委員会の求めのままに、フランス政符より好意をもって提供されたのである。敷地面積25,500m2は小なりといえ、フランス領内に独立した万国共有の地域をなしている。
 パリを出てヴェルサイユ(Versailles)に向かう街道のほとり、サン・クルー公園(Parc de Saint-Cloud)の一隅にあって、セーヴル国立陶磁器製造所(Manufacture nationale de S?vres)にほど近いこのパヴィヨン・ド・ブルトイユは、ありし日の王家の領に築かれた由緒深い建物なのである。

 BIPM - Pavillon de Breteuil F-92312 S?vres Cedex FRANCE

 17世紀中葉にかけて、この地の所有者であったルイ14世は、そのただひとりの弟オルレアン侯フィリップにこれを贈った。侯はこれに手を加え、その功は二、三に留まらない。庭園はかの壮麗なヴェルサイユ宮の園もその手をわずらわせられたという高名の造園美術家ル・ノートル(Andr? Le N?tre、1613-1700)のレイアウトに形を整えるに至った。ここにおいてこの新料地は、サン・クルーのトリアノンすなわちサン・クルー離宮の属領となる。離宮は1870年の戦役(普仏戦争)の難にあった。1743年サン・クルーのトリアノンは、ブルトイユ男爵(Baron de Breteuil)の造嘗にかかる新亭にところをゆずる。王家宮内府の高官であったこの男爵は、以来、今日までこの館にブルトイユの名を残すことになった。
 フランス革命に痛めつけられたこの亭を旧に復したのは、人も知るナポレオン一世、彼が名づけてこの館をイタリー亭と呼んだ日もあった。このひなびた閑居に時を過ごした高貴の人の名を連ねれば、王妃ジョセフィーヌ(Jos?phine de Beauharnais、1763-1814)、マリー・ルイーズ(Marie-Louise d'Autriche、1791-1847)、ナポレオン一世の妹ナポリ王妃(Maria Annunziata Caroline Bonaparte Murat、1782-1839)、オルタンス女王(Hortense de Beauharnais、1783-1837)、とその子女―その一人がのちのナポレオン三世その人である。

図 1800年頃の外観
図 ブルトイユ男爵  図 1793年の図面

 王政復古の世(1814-30年)には、捨てて顧みられぬ憂き目も見たが、ナポレオン三世はおのが従妹にしてナポリ王ジェローム・ボナパルト(J?r?me Bonaparte、1784-1860)の娘である三女マチルド・ボナパルト(Mathilde-L?tizia Wilhelmine Bonaparte、1820-1904)をここに住まわせた。バーデンの大公妃(St?phanie Louise Adrienne de Beauharnais、1789-1860)、ロシアのマリア(Maria Alexandrovna、1824-1880)がかつてこれを居としたこともある。
 さて、天文物理学研究所をここに置く案がまとまった折も折、普仏戦争の宣戦が布告された。パリ攻略のさなかにあって、パヴィヨン・ド・ブルトイユはまたもや少なからぬ痛手をこうむった。
 かくて1875年10月4日、国際度量衡委員会に手渡された日のこの館は、いうならばやつれ果てた姿を見せていたのであった。同委員会はこれに所要の手入れをほどこし、科学機器を収納すべく新館を建てた。その竣工は1878年のことである。降って1930年、国際度量衡局の業務の拡張に呼応して二、三の新実験室の増築が行われたが、これはロックフェラー財団の提供にかかる基金に負うものである。

図 1875年当時の荒廃したパヴィヨン・ド・ブルトイユ

 第二次大戦のパリ空襲の雨は、パヴィヨン・ド・ブルトイユ一帯を見事に避けた。わずかに、セーヴルに隣接するブローニュ・ビヤンクール(Boulogne-Billancourt)のルノー(Renault)の工場をねらった空爆、中でも1942年3月3日のそれが、建物に多少の害を与えたにとどまり、さいわいにして科学測器の類は難をまぬがれた。

 以上、手短ながら、パヴィヨン・ド・ブルトイユの小史をものにした。
 史上の人物あまたが身を寄せたこの館、そして奢りを極めた宴を眼のあたりに見たであろうこの館も、今やメートル法スタンダードの国際的聖域と呼ぶにふさわしいものとなっているのである。

図 2002年の国際度量衡局

6.国際度量衡局の運用
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月20日号)
(国際度量衡局の由来(中) 日本計量新報社 昭和34年(1959年)4月15日号より)

●国際度量衡総会(Conf?rence G?n?rale des Poids et Mesures, CGPM)

 国際度量衡局(BIPM)の管理の最高権限は、メートル条約加盟国の代表で構成される国際度量衡総会にある。国際度量衡総会は通常6年ごとに開かれ、第10回が1954年に予定されている(※予定とおり同年10月5日から14日まで開催された。第11回が明1960年に予定されている。注:第13回(1967年)以降は4年ごとに開催され、2018年の第26回では、質量等SI基本4単位の定義改定が決議された。)。
 総会の開会式はフランス外務省の時計の間(Salon del’Horloge)でフランス外務大臣の司会のもとにとりおこなわれ、本会議はパヴィヨン・ド・ブルトイユを議場として、フランス科学院の議長が会議の座長をつとめる。
 国際度量衡総会の任務は、メートル法の普及と改良とに資すべき方途を論議し実施すること、新たになされた計測学上の基礎的測定を承認すること、および前回会議以後に提案されたさまざまな学術的・行政的決定事項の裁可などである。

注 これまでの主なCGPMでの決議を追記

計量単位に関連する主な国際度量衡総会(CGPM)の決議
開催年

主な決議内容
1875-メートル条約締結、国際度量衡局(BIPM)設立(明治8)
1889-
1
メートルとキログラムの国際原器承認、各国原器配布
1895
2
Cd赤線の波長値を承認
1901
3
リットルの定義、質量の単位と重量の定義
1907
4
メートル原器と光波長の比較研究を決議
1913
5
重力加速度の標準値承認(大正2)
1921
6
電気単位と物理定数を事業に追加
1927
7
国際原器によるメートルの定義の厳密化(昭和2)
1933
8
測光標準を事業に追加
1948
9
力学単位によるアンペアの定義、カンデラの採択、実用単位系の確立、水の三重点を採択、「1948年国際温度目盛」単位記号と数値
1954
10
6つの基本単位の決定、熱力学温度目盛りの定義、標準大気圧の決定
1960
11
国際単位系(略称SI)の内容決定(基本単位、補助単位、組立単位、接頭語)、クリプトン86からの放射波長によるメートルの再定義、太陽年による秒の定義
1964
12
周波数の原子標準の研究をCIPMに要請、キュリーの使用を容認、リットル定義の改定、接頭語の追加
1967
13
セシウム原子の遷移周波数による秒の再定義、熱力学温度ケルヴィンの定義、カンデラの定義修正、組立単位の追加
1971
14
基本単位モルの定義、パスカル及びシーメンスの固有名称、国債原子時(TAI)の定義と確立を要請
1975
15
光の速さの勧告、協定世界時(UTC)使用の奨励、ベクレル及びグレイの固有名称、接頭語の追加
1979
16
単色放射によるカンデラの再定義、シーベルトの固有名称
1983
17
光の速さによる長さの再定義
1987
18
ボルトとオームの表現に対する修正
1991
19
接頭語の追加(平成3)
1995
20
補助単位という階級の廃止
1999
21
キログラムの再定義に関する勧告、カタールの固有名称
2003
22
コンマ、ピリオドの使用の許可
2007
23
ケルヴィンの定義で同位体組成の水を参照
2011
24
SI基本単位定義改定方針の決定
2014
25
SI基本単位定義改定に向けた作業の奨励
2018
26
SI基本単位定義改定決議(2019年5月20日施行)
注 メートル条約に基づく機関の組織(2019)
 現在(2019年)のメートル条約に基づく機関の組織を図示すると下記のようになる。メートル条約組織の最高機関が、国際度量衡総会(CGPM)である。

注 諮問委員会
 諮問委員会(CC:Comit? consultatif<仏>、Consultative Committee<英>)は、国際度量衡総会から国際度量衡委員会に委託された標準に関する国際的な研究課題を具体的に検討する任務をもち、各委員はそれぞれの研究課題に対して研究実績を持った主要加盟国の国家計量標準機関を中心に構成されている。現在10の諮問委員会が設けられており、その下に更に作業部会を設けているものもある。
 最近では、各国国家標準の同等性を確保するために実施している国際比較において重要な役割を果たしている。

●国際度量衝委員会
(Comit? International des Poids et Mesures , CIPM)
 国際度量衡総会の決議は、常設の国際度量衡委員会(CIPM)の手を経て実行に移される。この委員会は2年ごとにパヴィヨン・ド・ブルトイユで開かれる。国際度量衡局の行務や運営もこの委員会の管理するところである。
 18名を限度とするこの委員会のメンバーは、諸国の科学者および技術者より成り、その選任は総会で認証される。総会と総会の途中で物故や引退のため空席が生じた場合は、委員会が選挙の方法でそれを補充しておく。なお、大人口国は永続して議席をあたえられ、小人口国は持ちまわりで議席をあたえられることが、申し合わせになっている。
 現在(1948年)の委員長は英国人シアース (J. E. Sears) 氏、幹事はベルギー人デアリユ(M.Dahalu)氏である。
※現在(1959年)の委員長はフランス人ダンジョン(Danjon)氏、幹事はイタリア人ガシニス(Gassinis)氏
注 2019年時点では委員長はDr. W. Louw (South Africa)、幹事は日本の臼田孝(産業技術総合研究所計量標準総合センター長)

前幹事J. McLaren博士(カナダ)と臼田氏

※日本委員は、田中舘愛橘・長岡半太郎両博士に続いて、現在(1959年)は東大名誉教授山内二郎博士である。
注 2019年のCIPM委員名簿、歴代の委員長、日本委員一覧及び名誉委員を追記

国際度量衡委員会委員名簿(2019)
氏 名
国 籍
着任時期
委員長  W. Louw
南アフリカ
2013年 5月
幹事   T. Usuda
日本
2012年 7月
副委員長 J. Ullrich
ドイツ
2013年 5月
副委員長 J. Olthoff
アメリカ
2019年 3月
F. Bulygin
ロシア
2015年 3月
I. Castelazo
メキシコ
2015年 3月
D. del Campo Maldonado
スペイン
2019年 3月
Y. Duan
中国
2010年 3月
N. Dimarcq
フランス
2019年 3月
H. Laiz
アルゼンチン
2016年12月
T. Liew
シンガポール
2015年 3月
P. Neyezhmakov
ウクライナ
2019年 3月
S. -R. Park
韓国
2019年 3月
M. L. Rastello
イタリア
2016年12月
P. Richard
スイス
2015年 3月
G. Rietveld
オランダ
2015年 3月
M. Sen?
イギリス
2016年12月
A. Steele
カナダ
2019年 3月
(注)委員長及び幹事はメートル条約による役職。副委員長は内規による役職。

歴代CIPM 委員長
氏 名
国 籍
在任期間
C. Iba?ez de Ibero
スペイン
1875-91
W. Foerster
ドイツ
1891-1920
R. Gautier
スイス
1920-21
V. Volterra
イタリア
1921-40
P. Zeeman
オランダ
1940- 43
J.E. Sears
イギリス
1946- 54
A. Danjon
フランス
1954-60
R. Vieweg
ドイツ
1960-64
L.E. Howlett
カナダ
1964-68
J.M. Otero
スペイン
1968-76
J.V. Dunworth
イギリス
1976-84
D. Kind
ドイツ
1984-97
J. Kovalevsky
フランス
1997-2004
E.O. G?bel
ドイツ
2004-10
B. Inglis
オーストラリア
2010-19
W. Louw
南アフリカ
2019 -

日本から選出された
国際度量衡委員

国際度量衡委員会の
名誉委員
氏 名
在任期間

氏 名
国 籍
田中舘 愛橘
1907-31

W. R. Blevin
オーストラリア
長岡 半太郎
1931-48

L. M. Branscomb
米国
山内 二郎
1952-66

K. Iizuka
日本
朝永 良夫
1967-73

E. O. G?bel
ドイツ
桜井 好正
1974-80

J. Kovalevsky
フランス
川田 裕郎
1981-85

J. Sk?kala
スロバキア
飯塚 幸三
1986-2001

R. Kaarls
オランダ
田中 充
2001-12

臼田 孝
2012

●国際度量衡局の機構
 国際度量衡局には、研究員・技術員・事務員など17名(1948年)

※現在(1959年)は20名前後(2019年は常勤70名前後)の職員がおり、国籍は問わない。国際度量衡委員会の投票で指名された局長が国際度量衡局を管理する。現局長(1959年)は、スイス人シヤルル・ヴォレ氏(Charles Volet)である。(※歴代局長は別表のとおり。)

※数年前から今日(1959年)まで引続いて日本の研究者が二年ずつ交替で同局に在職している。吉江(電気試験所)・増井敏郎(中央計量検定所)および平山(電気試験所)の3氏である。

 メートル条約附則の一項には、国際度量衡委員会の委員長、同じく幹事、および国際度量衡局の局長の3名が同一国籍人であってはならない旨、定められている。

国際度量衡局歴代所長

氏 名
生没年
国籍
専攻
在職年次
1
Gilberto Govi
1826-89
イタリア
物理
1875-77
2
J. Pernet

スイス

1877-79
3
Ole Yacob Broch
1818-89
ノルウェイ
数学
1879-89
4
J. Rene Benoit
1844-1922
フランス

1889-1915
5
Charles Edouard Gvillaume
1861-1938
スイス
物理※
1915-36
6
Albert Perard
1880-現
フランス

1936-51
7
Charles Volet
1896-現
スイス

1951-62
8
J. Terrien

フランス

1962-77
9
P. Giacomo

フランス

1978-88
10
T. J. Quinn

英国

1988-2003
11
A. J. Wallard

英国

2004-2010
12
M. K?hne

ドイツ

2011-12
13
M. J. T. Milton

英国

2013

※インヴァー・エリンヴァー等計測学上極めて有用なる合金を開発し、その功により1920年ノーベル物理学賞を受けた。なお、1892-3年第4代局長ブノワと協同で光波干渉測長法による長さの標準の研究を行ったマイケルソン(A. A. Michaelson、1852-1931)も1907年に同賞を受けた。(注 8代目以降は、今回追記。)

注 BIPMの機構図(2019)

●国際度量衡局の経費

 国際度量衡局の経費はメートル条約加盟国からの拠金(分担金)でまかなわれる。第九回総会(1948年)で定められた年間予算は、175,000金フラン(約20,000,000円)であった。

※ 国際度量衡局歳費の額とその各国分担の割り当て方式は、世界経済の動きと共にたびたび変更され、毎回の国際度量衡総会・国際度量衡委員会の主要議題の一つになっている。昨1958年の委員会でもいろいろ議論があった。

注 メートル条約発効当初、国際度量衡局及び国際度量衡委員会の経費は、メートル条約第9条により、加盟国の人口に基づいた分担金によって賄われていた。しかし、第11回総会(1960年)で各国の経済力に応じた分担金とすることが採択され、1962年以降は、国際連合分担金委員会の定める国連係数が採用され、今日に至っている。
 なお、2016年度から2019年度の、各国の分担金総額は、毎年1198万ユーロ(約15.1億円)(注)であり、このうち日本は、約113万ユーロ(約1.4億円)を負担している。(注:総額1198万ユーロは2014年の第25回CGPMで決められた数値であり、その後加盟国が増えたため、2019年度の総額は、1221万ユーロ(約15.4億円)となっている。日本円への換算は2019年1月1日時の為替レート1 ユーロ=126円に基づく。)

●加盟国の受益
 さて、国際度量衡局の維持に寄与する国はすべて国際度量衡局の諸装備の共有者なのであり、各国は国際度量衡局から第一級の標準器の交付を受ける権利と、計測学的諸測定や調査を国際度量衡局に申請する権利を俣有している。しかしこれらの権利と相並んで各国がうける便益の主たるものは、文化的ないし動議的の方面にこそある。計測学の進展に歩調を合わせようとする要望あってはじめて、各国がメートル条約に加盟するに至る動機は生まれる。そして協調を通じて、諸国は世界を一丸とする進歩の一翼を担うことが、文化国家の務めであると悟るのである。

注 現在(2019)の加盟国及び準加盟国を追記

メートル条約加盟国一覧表(2019 年6 月現在、数字は加盟年)
1.
アルゼンチン
1877
21.
インドネシア
1960
41.
ポルトガル
1876
2.
オーストラリア
1947
22.
イラン
1975
42.
ルーマニア
1884
3.
オーストリア
1875
23.
イラク
2013
43.
ロシア
1875
4.
ベルギー
1875
24.
アイルランド
1925
44.
サウジアラビア
2011
5.
ブラジル
1921
25.
イスラエル
1985
45.
セルビア
1879
6.
ブルガリア
1911
26.
イタリア
1875
46.
シンガポール
1994
7.
カナダ
1907
27.
日本
1885
47.
スロバキア
1922
8.
チリ
1908
28.
カザフスタン
2008
48.
スロベニア
2016
9.
中国
1977
29.
ケニア
2010
49.
南アフリカ共和国
1964
10.
コロンビア
2013
30.
韓国
1959
50.
スペイン
1875
11.
クロアチア
2008
31.
リトアニア
2015
51.
スウェーデン
1875
12.
チェコ
1922
32.
マレーシア
2001
52.
スイス
1875
13.
デンマーク
1875
33.
メキシコ
1890
53.
タイ
1912
14.
エジプト
1962
34.
モンテネグロ
1929
54.
チュニジア
2012
15.
フィンランド
1923
35.
モロッコ
2019
55.
トルコ
1875
16.
フランス
1875
36.
オランダ
1929
56.
ウクライナ
2018
17.
ドイツ
1875
37.
ニュージーランド
1991
57.
アラブ首長国連邦
2015
18.
ギリシャ
2001
38.
ノルウェー
1875
58.
英国
1884
19.
ハンガリー
1925
39.
パキスタン
1973
59.
米国
1878
20.
インド
1957
40.
ポーランド
1925
60.
ウルグアイ
1908

国際度量衡総会の準加盟国/経済圏
(2019 年2 月現在、数字は加盟年)
1.
アルバニア
2007
15.
ジョージア
2008
29.
パナマ
2003
2.
アゼルバイジャン
2015
16.
ガーナ
2009
30.
パラグアイ
2009
3.
バングラデシュ
2010
17.
香港
2000
31.
ペルー
2009
4.
ベラルーシ
2003
18.
ジャマイカ
2003
32.
フィリピン
2002
5.
ボリビア
2008
19.
クウェート
2018
33.
カタール
2016
6.
ボスニア・ヘルツェゴビナ
2011
20.
ラトビア
2001
34.
セイシェル共和国
2010
7.
ボツワナ
2012
21.
ルクセンブルグ
2014
35.
スリランカ
2007
8.
カリブ共同体
2005
22.
マルタ
2001
36.
スーダン
2014
9.
台湾
2002
23.
モーリシャス
2010
37.
シリア
2012
10.
コスタリカ
2004
24.
モルドバ
2007
38.
タンザニア
2018
11.
キューバ
2000
25.
モンゴル
2013
39.
ウズベキスタン
2018
12.
エクアドル
2000
26.
ナミビア
2012
40.
ベトナム
2003
13.
エストニア
2005
27.
北マケドニア
2006
41.
ザンビア
2010
14.
エチオピア
2018
28.
オマーン
2012
42.
ジンバブエ
2010

参考2 ★ 日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月20日号掲載内容

4.国際度量衡局
5.パヴィヨン・ド・ブルトイユ
6.国際度量衡局の運用

※この三節は別の機会に拙訳をもって紹介した(本紙3月25日と4月15日号)が、重要事項を再録する。
 
 度量衡の世界的統一の機運を醸したのは、
(1) 万国博覧会 - 1851年ロンドンおよび1867年パリ
(2) 学会の要請 - 測地学協会、各地のアカデミー
(3) 国際測地学会 - 1867年
 なお、原文にはないが、ヴェーバー(Wilhelm Eduard Weber、1804-91)やガウス(Karl Friedrich Gauss、1777-1855)らの電磁気単位系の研究もここに挙げるべきであろう。
 そこでフランス政府は1870年、各國の代表を招き、ここに国際メートル委員会が成立する。次いで1875年メートル外交会議がパリで開催され、5月20日にメートル条約が結ばれた。
 同条約により、国際度量衡局の設置が可決され、ルイ14世をはじめ、史上になじみ深い王族、貴族、あるいはナポレオン一族の所有に属した由緒深い建物、パヴィヨン・ド・ブルトイユがそのために提供された。

7.国際原器
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月20日号、27日号、8月3日号)

 1875年のメートル条約の条項にしたがって国際度量衡局は、まず、国際メートル原器(International Prototype of the meter, IPM)および国際キログラム原器(International Prototype of the kilogram, IPK)の作製、ならびに各国の求めに応じて配布すべき原器のコピーの作製、そしてこれら諸原器の値の決定の仕事にとりかかり、度量衡の世界的統一の歩を進めることとなった。すでに国際メートル委員会の決議のもとに、新たな標準器の実現とその比較方法の改善のための調査研究委員会が1872年に編成されていた。1872年から同80年にかけてのこの分野の研究については詳述しないが、つぎのような決議を見たことは注目する必要がある。

●注目すべき決議
(1)国際メートルは、比較測定と標準維持の便宜にかんがみて、線基準尺とする
※ メートル・デ・ザルシーヴは端面基準尺であった。

(2)標準器に用いる金属は、白金90パーセント・イリジウム10パーセントより成る合金とする
※メートル・デ・ザルシーヴは純白金製、1793年の仮メートルは真鍮製、17世紀のトワズ標準尺は鉄製であった。

(3)メートル尺の断面は、アンリ・トレスカ(Henri ?douard Tresca、1814-81)の計算にもとづくX字形とする
※ メートル・デ・ザルシーヴの断面は矩形であった

●単位構成の一つの転機
(4)メートル標準器およびキログラム標準器の値は、メートル・デ・ザルシーヴおよびキログラム・デ・ザルシーヴの、その時の状態における値から導き出すこと。
※ これは言い換えれば、一番はじめの定義 『地球子午線の一象限弧長の1千万分の1および最大密度における水の1立方デシメートルの重量』 から離れて、人工の標準器の現示する値をもって単位を定義する方式に移ったことを意味する。単位構成の考え方の変遷におけるひとつの転期をなすものとして注目される。

●標準器材料の選択
 標準器製作の材料に、白金・イリジウム合金を選んだ功績は、フランスの化学者H・サントクレール・ドヴイユ(Henri Sainte-Claire Deville、1818-81年)の名の上にとどめられている。この合金は、 『不変性・均質性・かたさ・弾性係数が大きいこと・膨脹係数が比較的小さいこと(温度変化1度あたり、1メートルにつき0.0086ミリメートル)・充分に磨き上げうること』 これらの利点を持っているので、適性は他の材料に比べて抜きんでている。
※メートル・デ・ザルシーヴは純白金製であったため、やわらかすぎて撓みやすかった。

●鋳造技術にも相当苦心
 はっきり定められた組成の白金・イリジウム合金を、相当な分量だけ鋳造することは、その当時では何といっても困難な事業であった。

※白金・イリジウム合金
 溶解点は白金が1 769 ℃、イリジウムが2 443 ℃である。今日、この種の高温作業は高周波電熱炉でさほどの困難もなく行われるが、当時は電熱を利用できず、いっさい酸水素焔でやったものだそうである。これより少し後の話であるが1890年代、創立当初のドイツ国立物理工学研究所で、光度単位や有名な熱幅射の研究が推進されたころにも、白金の加熱とか黒体幅射炉の実験などすべてガス焔で行われ、電気炉は1898年から採用されたという(天野清氏「熱幅射論と量子論の起源」による)。

●鋳造に大統領も立合う
 何回となく鋳込試験が繰り返された。その中の一回(1873年5月6日)には、フランス大統領A・ティエール(Louis Adolphe Thiers、1797-1877、ルイ・フィリップ治下でも首相を務めたが、普仏戦争に敗れたフランスが、ナポレオン三世の帝政から第三共和国に変るときの臨時政府の長に返り咲き、のち大統領となる。歴史家としても名高い。)が立ちあったし、別な一回(1874年5月1日)にはマクマオン元帥(Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon、1808-93、将軍としてイタリア戦・普仏戦に活躍し元師に昇る。のち第三共和国第三代大統領)が臨席した。

※鋳造の様子
 原文に鋳造の情景を描いた絵が転写されている。粗末な作業台に古めかしい炉が載っている。坩堝ばさみで炉内操作をしている人が二人。そのまわりの七、八人は、立ち会った高位顕官連中であろうか、シルクハットに正装といったいでたちである。

●難関もようやく克服
 こうして難関もどうやら克服され、1874年5月13日にはパリ工芸学校(※ 既出コンセルヴァトワール)において、合金150 キログラムの最終的鋳造が行われ、「コンセルヴァトワールの合金」または「1874年の合金」の名で知られる白金・イリジウムが生産されたのである。
 ところが、分析の結果、この合金には少量ながら(※ 2.9 パーセント程度)不純物が含まれていることがわかったので、ロンドンのジョンソン・マッセイ(Johnson Matthey)社※に委託して、より一層純粋(不純物0.08 パーセント程度)な合金をつくらせ(ジヨンソン・マッセイの合金と呼ぶ)、それをもって30本のメートル標準尺を作った。

※ジョンソン・マッセイ(Johnson Matthey)社
 1872年の研究委員会の申し合わせに「不純物は2 パーセント以下」とあったので、コンセルヴァトワール鋳造合金は不可と判定された。
ジョンソン・マッセイ社は高品位の貴金属メーカーとして今日も著名(熱電対素線など)。前注に挙げた創立直後のドイツ国立研究所の光度単位研究に際して純白金が必要であったが、当時市場で入手できる最純白金はやはりジョンソン・マッセイ品で、不純物は0.02 パーセント以下であった。そこで国立研究所はドイツのヘロイス社(W. C. Heraeus)との協同研究で不純物0.01 パーセント以下のものを作り、「ドイツ工学の決定的勝利」と凱歌を挙げたという話がある(天野清氏による)。

●原器合金と英国工業
 原器合金にしても純白金にしても、英国は仏・独に対し一歩先んじていたわけで、産業革命以後大発展をとげた英国工業の優勢の一端をここに見ると云うもあながちこじつけではなさそうである。フランス人であるペラール(Albert Perard)氏(もと国際度量衡局長)が「コンセルヴァトワール合金が不純だったのは、偉い人が列席したせいで技師があがってしまい、坩堝にひびを入らせてしまったのかも知れない……」と冗談半分に書いているのは、照れ隠しのようにもとれる(拙訳本紙昭和32年9月25日号)。
 なお、メートル法のことを書いた邦書で、ジョンソン・マシュー(Johnson Mathew)と誤記しているのが多いことは遺憾である。正しい原綴は、Johnson Mattheyと書く。

●X形断面とその支持法
 このメートル標準直尺は、断面がX形をなしているので、全長にわたって中性面をむき出しにすることができる。それで、中性面上に標線を刻むことが可能であり、従って、どのような方法で支持しても標準器の長さ(※ 正確には中性面の長さ)は、尺の自重によるたわみの影響を受けない。その上、この断面に作れば、限られた物質の量をもって大きな慣性能率、すなわち変形に対する抵抗をもたせることのできる便宜もある。(事実、このX形メートル尺は、両端で支え中央に40 キログラムのおもりをつけても何ら氷久変形を受けない。)この標準直尺を作るには貴金属の分量3.3 キログラムを要するのであるから、上述の(※ 分量が小ですむという)利点は、経費の面で考えて見れば、軽視できないものである。

※ベッセル点(Bessel point)支持法
 原器の支持の仕方により中性面の長さは変らないけれども標線間の水平距離は変る。たとえば両端で支え、中部が下へたるむ形にすると、標線間の水平距離は、原器を水平に置いた時に比し、0.6 マイクロメートル短くなる。二箇所で支持して、しかも水平支持の時と同じ標線距離を呈せしめるには、いわゆるベッセル点支持法をとる。原注8にある、571 ミリメートルの距離で支持するということは、原器の全長102 センチメートルに、ベッセル点の係数0.5594を掛けたものである。
 X形の断面を考え出したH・トレスカ(Henri ?douard Tresca、1814-1881)という人は、フランスの弾性学者。

注 ドイツの数学者、天文学者のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel, 1784-1846)が発見したベッセル点は、右図のように均等荷重の梁を2点で支持したときに、梁の中立軸上の両端間距離に与えるたわみの影響が最小になる支持位置である。端面から全長Lの0.2203倍の位置となるため、支点間距離は0.5594Lとなる。

●キログラム原器
 一方キログラム原器の方は、ガラス・水晶・金といった材質が不適当と判定され、結局、メートル原器と同じ合金を採用することになった。
※キログラム・デ・ザルシーヴは純白金製、15世紀のピル・ド・シャルマアニュ標準器は銅製であった。

 その形はキログラム・デ・ザルシーヴと同じ、すなわち直径と高さとが等しく(約39mm)、完全に磨き上げられた円筒形をなしており、稜はごくわずか丸味をつけてある。

※原器の仕上げ
 メートル原器の仕上げは、ブリュネ(or ブランナ: Brunner)兄弟が、磨き上げと標線の刻み入れはパリ工芸学校が行った。
 キログラム原器の方は、重量調整・磨き上げともにパリの天秤製造家A・コロー(Collot)が行った。
 原文に原器とその容器、収納状況の写真があり、説明もあるが、今さらここに引用するまでもないので省略する。かつて海路輸送に用いたという、ものものしい外装容器は今日不用になり、陳列品として中央計量検定所前庭を飾っている(1959当時)。

●国際原器の決定
 さて、このようにしてメートル標準器が作られたので、国際度量衡局は1888年からこれら標準直尺の相互比較という重要な仕事にとりかかった。なお、標準直尺一本を加えて、これはメートル・デ・ザルシーヴと直接比較するためのものとした。キログラムの方も同様なプランが進められた。こちらは真空中での重量にひきなおして比較したわけである。
※ アルシーヴ原器は純白金、今度の新しい原器は合金で、両方に対する空気浮力が異なるため。

 この比較が終わった後、すべての標準器の中からメートル・デ・ザルシーヴおよびキログラム・デ・ザルシーヴにそれぞれ最も近い値を持つものを選び出し、それを各々国際メートル原器および国際キログラム原器と定めた。

●厳重な国際原器の保管
 国際原器およびその参照標準器(t?moins:テモワン)は、パヴィヨン・ド・ブルトイユの地下8 メートルの収納庫に保管されている。庫の扉を開くには三個の鍵を必要とするが、鍵は三人の人(国際度量衡委員会長、フランス文書保管局(いわゆるアルシーブ)の長、国際度量衡局長)が別々に所持している。パヴィヨン・ド・ブルトイユをおとずれる参観者も国際原器そのものを見ることはできない。参観者むけの展示用には模型標準器が用意されていて、訪客は模型の方を詳しく眺め、また手にとることができ、本物の標準器に害を及ぼすおそれはない。
※ 昭和天皇が国際原器を参観されたという興味深い事実が小泉袈裟勝氏(1918-1998)によって紹介されている(計量新報昭和34年6月8日号)。)

 第二次大戦中も国際原器はパヴィヨン・ド・ブルトイユからもち出されたことはない。ただ、参照標準器と実用標準器の方は、ある期間(1940年5月より9月。※ 大戦開始は39年9月、フランス降伏は40年6月)、ブリタニー(Brittany)およびヴァンデー(Vend?e)地区に疎開された。
※わが国の原器も大戦末期に疎開の難にあったと聞く。

●原器の各国への分配
 第一回国際度量衡総会(1889年9月)は、この重要な仕事(※ 原器群の相互比較および国際原器の選定)の結果を承認し、これに引き続き、原器を各国に配布※することにとりかかった。

※原器の分配
 各国代表者がくじを引いて分配を決めた。日本には、メートル正原器No.22、副原器No.10と20、キログラム正原器No.6、副原器No.39と30が割りあてられた。
 メートル副原器二個のみは1874年コンセルヴァトワール合金、他はすべて1885ジョンソン・マッセイ合金で作られたもの。
 正原器は目下標線引き直しのため国際度量衡局へ送られている。(注:連載当時)
 副原器の戦後の事情については、訳者は詳細を知らない。

●新たな定義の承認
 これと時を同じくしてメートルおよびキログラムの新たな定義の承認もなされた。すなわち、メートルとは、セーヴルのパヴィヨン・ド・ブルトイユに保管されている白金・イリジウム製国際メートル原器(IPM)の0 ℃における長さ、キログラムとは、同じく国際キログラム原器(IPK)の質量ということに定義付けられたのである。(原注8)

※原注8 メートルの定義
 第七回国際度量衡総会(1927年)は、メートルの定義に二、三の細則をつけ加えた。すなわち、「長さの単位はメートルであって、メートルは、国際度量衡局に保管されかつ第一回国際度量衡総会によりメートルの原器であると宣言されたところの、白金イリジウム直尺に刻まれた二箇の中央線の軸間の、0 ℃における距離として定義される。なおこの尺度は、標準大気圧下におかれ、また互に距離571 ミリメートルをへだてて同一水平面内に対称におかれた直径少なくとも1 センチメートルの二箇のローラーをもって支えるものとする。」

●原器と初期定義の相違
 ここに注意しなければならないのは、メートル・デ・ザルシーヴ同様、国際メートル原器は、メートルの初期の定義(※本稿第二章参照)すなわち地球子午線の一象限長の1千万分の1という長さに比べて、約0.2 ミリメートル短いということである。(※・)
 同じことは、国際キログラム原器にもあてはまる。キログラムの初期の定義、すなわち密度最大のときの純粋な水の1 立方デシメートルの質量という大きさに比べて、国際キログラム原器は0.028 グラムだけ超過している。(※・)

※精密な再測定の産物
・ ドランブル、メシェンの測地以後、地球の大きさに関する測定は益々大規模に、益々精密に繰りかえされた。いうまでもなく、それらはメートル原器をもとにし、地球の寸法を未知のものとして行われたのである。その結果わかったことは、「地球が決して単純な回転楕円体でなく、子午線長も一様ではない」という地球物理学的知識であった。実測に融和するように想定された楕円体の一象限は、利用したデータとそのまとめ方により0.01 パーセント位違っている(ベッセル、クラーク(Alexander Ross Clarke、1824-1902))。最も確実と見られているヘイフォード(John Fellmore Hayford、1868-1925)のまとめ方では、一象限が10 002 288 メートル。
・ これももちろんメートル原器とキログラム原器をもとにして測り直したもの。1905~7年国際度量衡局にて。1 キログラムの水の体積1.000 028立方デシメートルが、1 リットルという体積単位になったのである。

※〔原注6、7〕は、原著当時のメートル条約加盟国数と国際委員の顔ぶれなどに関するものなので、本訳文では省いた。

 このような定義は、メートル法の上にそれに似つかわしい性格を付与するものである。実際、メートルおよびキログラムの初期の定義を厳格に墨守することは困難であった。それに固執するとすれば、地球子午線弧長、あるいは水の1 立方デシメートルの質量が測定し直されるたびごとに、原器の値を更新しなければならないはずある。

●単位標準の恒常性保持
 こうした次第で、今や長さの単位の恒常性は、白金・イリジウム直尺の永年にわたる安定性に依存することとなった。そして所要の安定性は、国際原器に随伴させてある参照標準器(テモワン:Temoins)のおかげによって、線基準尺の比較測定の精度限界内では今日に至るまで確信されてきているのである。
 参照標準器として、やはり白金・イリジウム製の直尺三箇が用に供せられているが、なおこれらと全く素性の違った二種のテモワンが考慮の対象になっている。それは、光の波長と結晶状物質とである。そこで現今、カドミウム赤色線の波長およびブラジル産水晶製の平面端度器のシリーズがとり上げられ、(※ 白金・イリジウム製の線度器原器をふくむ)三者間の関係の不変性をよりどころとして、長さ標準の恒常性はチェックされているのである。(カドミウム赤色線の波長をメートル単位であらわした値は、1892年から1940年の間に各国研究所で九回実測され、それらの値はすべて平均値と比べてプラスマイナス1千万分の2以内に入っている。)

※光波基準の研究と採用
 メートル原器の作製配布からわずか数年後に、A・A・マイケルソンの光波基準研究は開始されたのである。以後、渡辺 襄・今泉門助両氏を中心とする中央度量衡検定所での測定を含む戦前の諸国の測定は、物理・実験や計測学の書物にはたいてい引用されている。最近では中谷宇吉郎博士(1900-1962)「科学の方法」(岩波新書、昭和33年)に引用がある。
 戦後、同位元素光譜の研究と相まって、水銀、カドミウム、クリプトンのスペクトル線の優劣が世界的規模で検討され、1957年諮問委員会において、クリプトン86の橙色線に決が下されたことは公知のとおり。詳細は同委員会の資料のほか、出席者、中検所長玉野光男氏の報告(たとえば「計測」昨年第四号)、ちょうどその時期に国際度量衡局で研究された増井敏郎氏の解説(たとえば「計測」昨年第七、八号)、日本からのデータを出された田幸敏治氏(1923-2011)の綜合報告(「応用物理」昨年第三号)、および中検の諸刊行物を参照されたい。原器よりクリプトン光波への移行は、1960年の国際度量衡総会で本決まりになることと予想される。

●キログラム原器の安定性
 他方、キログラム原器の安定性をチェックする問題は、現在のところしかるべき「天然の」参照標準器が見いだされていないため、メートル原器の安定性のチェックよりも困難が多い。そこで質量単位の恒常性を検証するには国際原器とその写しである参照標準器(副原器) 『いわゆるテモワン、これも白金・イリジウム製』 との間の差が不変であることをもってするほかはない。この単位をできるだけ確実に維持するために、国際原器そのものは、製作以来ただの二度(1889年と1946年)注だけ使用されたにすぎない。それというのも、使うことに伴って避けることのできない物質の欠損と最小にとどめたいがためである(原注9)。

注 各国原器とBIPMの副原器の定期校正は、この後1991年に第3回が行われ、2014年にはBIPMの6個の副原器との比較が行われている。測定結果は次のとおり(産総研・藤井博士講演資料及びBIPM・Milton局長講演資料より)で、第3回の結果からIPKが訳50μg軽くなっていることが推測されたこともあり、定義の見直しにつながった。なお、1991の校正時にはIPKの表面洗浄を実施している。

図 IPKと副原器との比較結果

※原注9 キログラム原器の取り扱い
 白金・イリジウム原器の底面積は約12 平方センチメ一トルであって、原器質量を0.1 グラム減らすには底面全体をわずか100万分の4ミリメートル(0.004マイクロメートル)だけ薄くすれば足りる。原器の取扱いにあたって注意を払うべきことは言をまたない。

※質量原器のむずかしさ
 殼粒の大きさや王様の足の長さ以来の古代の単位・原器の変遷に科学史的意味づけを加えることはともかくとして、われわれが見てきたメートル法成立史に特徴的なことは、まず地球という人類共有の一天然物体と、水というこれも人類共有の一天然物質に基礎をおいたことである。そして原器完成とともに、今度は国際原器という世界にただ一個の人造物体が基礎になった。
 今や長さの単位は特定同位元素のスペクトル線波長に移ろうとしているわけで、そうなれば原器が全部つぶされ、はたまた地球がひしゃげたとしても、単位はびくともしない。熱力学による温度目盛・黒体による光度単位・原子時計による時間単位・いわゆる電気の絶対単位、すべて同様であるが、質量ばかりは今のところ原器がつぶれると困る。電子その他の粒子の静止質量など着想はあるが、実際には適当と云えない(芝亀吉博士(1899-1996)「単位の話」に二、三の着想とその不適格さが述べられている)。

※ メートル原器も二次標準尺へ
 以上で原器に関するパラグラフは終わるが、本稿連載が始められて間もない頃に明年の国際度量衡総会のための資料が中検に到着しはじめ、総会開催も遠くないことを身近かに感ずるようになった。予期のとおりに事が運ばれるならば、この総会を境として長さの単位の具現者は国際メートル原器よりクリプトン光波に移る。もちろん将来においても原器は最高級の二次標準尺として尊重されるであろうが、これまで神器のように扱われてきた原器も、ここに第一次標準尺としての重責から解放されることになる。
 増井氏の国際度量衡局留学中のエピソードによれば、1957年の諮問委員会の会期中、クリプトン光波に最終決定を見た日の翌朝、国際度量衡局の廊下の隅に祭壇がしつらえられ、黒布の上に安置された模型メートル原器のために燭台さえ供えられていたという。このユーモラスな行事の中には、永年国際原器の忠宛な保護者であった国際度量衡局職員の、浅からぬ感慨がひそめられて」いたのではあるまいか。
 モロー氏の解説を通じてわれわれは、今年がドランブルらの測地結果からメートル値が決定された日より160年、コンセルヴァトワールでの鋳造完了より85年、国際原器決定より70年の記念すべき年にあたることを学んだ。年が改まればその職責に大きな変化がもたらせられるであろうメートル原器の貢献のあとを、われわれがたどる機会をえたことは誠に奇縁であった。

注 現在(2019)までの長さ及び質量の定義の変遷(CGPM決議)
(1)長さの定義
 長さの計量単位の定義は、この記事の連載時から現在まで、次のように再定義されている。
○1960年(昭和35、第11回CGPM) クリプトン86からの放射波長による再定義
「メートルは、クリプトン86の原子の準位2p10と5d5との間の遷移に対応する光の真空下における波長の1 650 763.73倍に等しい長さとし、国際度量衡総会の採決に従い政令で定める方法により現示する。」
○1983年(昭和58、第17回CGPM) 光の速さによる再定義
「メートルは、1秒の299 792 458 分の1の時間に光が真空中を伝わる行程の長さである。」
○2018年(平成30、第26回CGPM) 定義の表現変更(2019年5月20日施行)
「メートル (記号は m) は長さのSI単位であり、真空中の光の速さ c を単位m?s?1で表したときに、その数値を299 792 458と定めることによって定義される。ここで、秒は ΔνCs によって定義される。」
*計量法計量単位令の定義(令和元年5月20日施行の改正では変更なし)
「真空中で1秒間の299 792 458 分の1の時間に光が進む行程の長さ」
(2)質量の定義
 質量の計量単位の定義は、2019年5月20日に130年ぶりに再定義された。
○2018年(平成30、第26回CGPM)  プランク定数による再定義(2019年5月20日施行)
「キログラム (記号は kg) は質量のSI単位であり、プランク定数 h を単位J s (kg m2 s?1に等しい)で表したときに、その数値を6.626 070 15×10?34と定めることによって定義される。ここで、メートル及び秒は、それぞれ c 及び ΔνCs を用いて定義される。」
* 計量法計量単位令の定義(令和元年5月20日施行で改正され再定義)
「プランク定数を10の34乗分の6.626 070 15ジュール秒とすることによって定まる質量」

8.ヤードとポンド
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)8月10日号、17日号)
7.国際原器
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)7月20日号、27日号、8月3日号)

※ヤードポンド法(Imperial units(英国:帝国単位)、United States customary units(米国:慣用単位))については、グレイズブルック(Richard Tetley Glazebrook、1854-1935)編「応用物理学事典」、エンサイクロペディア・ブリタニカ(Encyclop?dia Britannica)の関係項目や、雑誌「ネイチュア(Nature)」、英米の国立研究所出版物など、すぐれた参考文献があるけれども、平素、この方面を調べることの必要に迫られた経験もなく、今の所はなはだ不勉強なので、このパラグラフは逐語訳だけで終らせていただく。

 メートル系の標準の特徴についてこれまで論じてきたことがらは英国系計量制度の基礎であるヤード(yard)とポンド(pound)、およびそれらとメートル系単位との関係について、論理上同様な考察を導き出すものである。意外なことには、この単位は大英帝国(英国)とアメリカ合衆国(米国)とで同じ値をもっていない。

●英国のヤードとポンド
 英国で古代ヤードは「アイアン・アルナ(Iron Ulna)」(※ アルナはラテン語で肘の意)と呼ばれ、エドワード一世(King Edward ・、1239-1307年)時代からのものである。ヘンリー7世(Henrry ・、1457-1509)治下に作られたものが1588年まで用いられ、エリザベス女王一世(Queen Elizabeth ・、1533-1603)の世に設定されたものが1588年から1824年まで用いられた。いずれも端面基準尺であった。
 1760年にバード(Bird)が作ったヤード尺は、1824年議会の条例によって法定標準器と認められた。これは線基準尺であったが、1834年議事堂炎上の際に失われた。このバード標準尺は、事故があれば秒振子 『ただしロンドンの緯度において真空中で海面レベルにて』 の長さと関係づけられてきていたのであるが、標準ヤード尺が再製作されるに及んで、この関係づけは放棄された。なぜなら、振子に関するケイター(Henry Kater、1777-1835)の測定は、誤差があって信頼できないものであることが知られたからである。新ヤード尺は、旧標準尺にさかのぼって値を定められたのであった。

●「王室標準ヤード」
 新標準尺用に選ばれた金属は、銅16、錫2.5、亜鉛1より成るブロンズ合金(ベイリー(Baily)合金)であった。いくつかの「ものさし」が製作され、それらは、1824年のヤード尺と照らし合わせ済みの古い尺度と比較された。これらの「ものさし」のうちひとつが選び出されて、温度62? (16.66℃)における長さ標準器と定められ、これが王室標準ヤード(Imperial Standard Yard: インペリアル・スタンダード・ヤード)となった。この標準尺は1855年の議会条例で法制化され、ロンドンにある商務省(Board of Trade: ボード・オブ・トレイド)の標準部(Standard dept. : スタンダード・デパートメント)に保管されている。
 王室標準ヤードならびにその複製品五箇は、棒状の線基準尺であって、断面が1 インチ(inch, in、25.4ミリメートル)角の正方形で長さ38 インチ(96.5 センチメートル)である。両端からそれぞれ1 インチのところに、深さ0.5 インチ(12.7 ミリメートル)の円筒形のくぼみがあり、その底には金のプラグがあって、上面に標準の長さを示す標線が刻まれている。

図 王室標準ヤードと構造図

 古代ポンド分銅は、1844年に白金製標準器―王室標準ポンド(Imperial Standard Pound:インペリアル・スタンダード・パウンド)にとりかえられた。このものならびに四箇の複製品は円筒形で、高さは1.35インチ(34.3 ミリメートル)、直径は1.15 インチ(29.2 ミリメートル)である。この標準器も商務省に保管されている。

●英国単位とメートル法
 英国単位とメートル系単位との法的関係は、1898年5月(※19日)に承認されたもの、すなわち
1 ヤード = 0.9143992 メートル
1 ポンド = 0.45359243 キログラム
である。(※ この値はヤードの方は1894-95年、ポンドの方は1883年、国際度量衡局と英商務省との協同測定結果を法的に認めたもの。)
 標準ヤードと標準ポンド、メートルおよびキログラムと比較した最新の結果(ヤードは1947年、ポンドは1933年)は、次のようになった。
1 ヤード = 0.9143975 メートル
1 ポンド = 0.453592338 キログラム
 これを見るに、王室標準ヤード尺は52年の間に1百万分の2程度(1.7 マイクロメートル)漸進的に短くなったことが証拠づけられる。
 王室標準ポンドについても同じように減少の傾向が見られるが、その程度は1千万分の2ほどである。

※英国ヤードとメートルの比較
 英国ヤードとメートルの比較は1922、32、33、47年に英国立物理研究所と国際度量衡局との協同で、また英国ポンドとキログラムの比較は1922、33年に行われた。その一覧表を見ると、英国標準器はたしかに「漸進的に」短く、あるいは軽くなっている。これ以後に比較が行われたかどうかは知らないが、今年の春のニュースでは英国系の諸研究所間で学術上の目的には次の関係を用いることに申し合わせたということである。
1 ヤード = 0.9144 メートル
1 ポンド = 0.45359237 キログラム
(中検時報、昭和34年第四号による)。
 こうすると1 インチはちょうど25.4 ミリメートルになる。

●奇妙な米国の現状
 米国における計量制度の現状は、奇妙というに近い。学街上ではメートル法がほとんど例外なしに採用されている。そしてメートル法が法制化されているのであって、日常の取引で必ず用いられている系統(※ヤードポンド)の方は実は正規の形で公に承認されてきてはいないのである。
 合衆国はヤードまたはポンドの「法的な」標準器の現物を何ら有していない。これら両単位は、国際メートルおよび国際キログラムと直接結びついているのであって、それはメンデンホール令(1893年。※メンデンホールについては、第3章の田中舘先生についての訳注参照)の定めたところである。
 「度量衡局(Office of Weights and Measures: オフィス・オブ・ウェイツ・アンド・メジャーズ)は財務大臣(Secretary of Treasury: セクレタリ・オブ・トレジュアリ)の承認のもとに、今後、国際メートル原器および国際キログラム原器をもって基礎的標準とみなし、慣用単位ヤードおよびポンドは、1866年7月28日の条令(※第3章参照)にしたがい、それら(※国際原器)より導くものとする」。

●米国単位とメートル法
 米国のヤードとポンドは、それぞれメートルとキログラムに対し次の関係をもつ。
1 ヤード(米) = 3937分の3600 メートル 
= 0.91440183 メートル
1 ポンド(米) = 0.453592428 キログラム
 ここで明らかなように、米国ヤードは英王室ヤードに比べ約4千分の1ミリメートル(4.3マイクロメーター)だけ長く、米国ポンドは英王室ポンドに比べ約0.1 ミリグラム(0.09ミリグラム)だけ重い。

●英米標準の将来
 英米標準がまちまちであるこの異常なありさまが、両国の計測学者の注意をひかないはずはない。
 そこで、すでに明白な英国ヤードポンド標準器の不確定さに鑑みて王室制の長さと質量の標準を、国際メートルおよび国際キログラムに対し一定の関係にあるものとして定義することが提案されている。その関係づけを米国も同様に採用するならば両国の単位に合致を招来することができるのである。
 最近カナダは、この線に沿う実例を示した。カナダのヤードとポンドの法的な値は次のようにあたえられた。
1 ヤード(加) = 0.9144 メートル
1 ポンド(加) = 0.45359243 キログラム

※ガモフの奇抜な単位論
 ひとつだけおもしろい引用を加えておきたい。
 「不思議の国のトムキンス」をはじめ、難解な現代物理の理論を、漫画のようなおもしろさで解きあかした好著多数を世に送ったガモフ(George Gamov、1904-1968)が、昨年、教科書風の、しかし相変らず痛快な「現代物理学の世界」(邦訳三巻、伏見康治(1909-2008)・鎮目恭夫(1925-2011)両氏訳)を書いた。その序章に単位の話があり、メートルの由来をひととおり述べてあるが、ヤードポンド法に触れた一節がある。
 「原子爆弾および水素爆弾を開発している、ニューメキシコ(New Mexico)のアメリ力原子力委員会付属ロス・アラモス(Los Alamos)科学研究所には、ひとつの奇妙な事態が存在する。純粋物理学が関係している爆弾の原子核部分はメートル法で表現されているが、これに反し、全体の寸法や重量は通常インチとポンドで表わされている。」
 そのほか此の本には、大は宇宙、小は電子の大きさに及ぶ巨大な尺度を対数目盛で書くと、人間の頭の大きさがちょうどまん中にくるから、われわれは等しい強さの劣等感と優越感をもって宇宙の大を見上げ、電子の小を見下せるという話、時間目盛を十進法にしてセンチ日・ミリ日・キロ日とする話など、ガモフならではの奇抜な単位論が目をひく。

注 英国及び米国のヤードポンド法の使用状況(Wikipediaより)
・英国の現在の状況
 イギリスのメートル法化は1960年代中頃に始まった。メートル法化は最初は自発的なもので、1985年までに、多くの伝統的な帝国単位は小売業で自発的に使用されなくなった。1985年の度量衡法で取引における帝国単位の廃止が法制化されたが、道路標識での使用や、小売におけるばら売り・量り売りでの帝国単位(フィート、インチ、ポンド、オンス、ガロン、パイントなど)の使用は継続されていた。
 2000年1月1日から、補助単位としての使用およびパイントによる生ビールやサイダーの販売、回収可能な容器で売られる牛乳を除いて、イギリス国内の小売業での帝国単位が法律で禁止された。現在でも「反メートル法運動」という、メートル法使用に反対する人たちがいる (Anti-metric movement)。道路標識・車の速度計(イギリス向けに限らずアメリカ・カナダ向けも)や燃料計・小売り販売などでは現在も両方の表示が普通となっている。
・米国の現在の状況
 アメリカ合衆国は、1875年に締結されたメートル条約の原加盟国であり、以降、法律上はメートル法を公式の単位系としている。ヤードポンド法をcustomary unit(慣用単位)と呼んでいるのはそのためである。しかし、メートル条約加盟から1世紀以上も経過している今日でも、アメリカ合衆国では一般にはヤードポンド法が広く使用されている。1992年以降、日常的に使用する単位をメートル法(国際単位系)へ移行するための政府の取り組み(メートル法化)もあるが、法的にはヤードポンド法の使用は禁止されていない。商品のラベルをメートル法のみで記すことは、ニューヨーク州以外では認められている。アメリカ合衆国では、今でも、メートル法への移行に反対する運動がある。

9.国際度量衡局の活動
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)8月17日号)
(国際度量衡局の由来(下) 日本計量新報社 昭和34年(1959年)4月25日号より)

 発足当初には明確に分限を定められ、比較的狭い範囲に制約されていた国際度量衡局の業務も、次第に諸方面に手をひろげ今日に至っている。これらの研究すべてを展望することは、どれほど手際よくまとめるとしても、できるはずがない。参考文献としては各種の科学的・技術的出版物に載せられた多数の記事乃至は、国際度量衡局の「業務報告(トラヴォー:Travux et Memoires)」および国際度量衡委員会の「議事録(プロセ・ヴェルヴォー:Proces Verbaux)を見ていただければよろしい。

●長さと質量
 メートルおよびキログラムの各国原器の定期検査は国際度量衡局の主要な任務のひとつである。このための測定操作は、原理だけを考えれば初歩的測定とも云えようが、そこにどれほどの慎重さを要し、またじかに数多くの操作を重ねなければならないかを思うならば、原器比較作業こそは、各種の最精密測定の典型と呼ぶにふさわしいことを認めうるであろう。3本の標準尺の相互比較のような簡単な例においてすら、考えうるすべての組合せとすべての配置方法を網羅して作業を貫徹するには、2名ないし3名の専門家の手で、実に24回の操作がなされなければならないのである。
 測定法の改艮研究の方面では、ヴォレ(Charles Volet)氏(※現局長(1959年))の反転式測微顕微鏡をはじめ、原器標線を刻む手法や、光電式目盛読み取り装置などが特筆すべき項目である。
 こうして、今日1メートル(m)の標準尺の比較の精度は、0.1 マイクロメートル(μm)、つまり相対精度で1千万分の1にも及んでいる。
 質量原器の比較が最も大規模に行われたのは、1946年と1951年の2回であった。質量原器およびそれに随伴する参照標準器(Temoins)6個、そして約30個の各国原器がこの時比較された。それは通算300余回の最精密天びん(※いわゆる隔離天びん)操作を一日1回の割で継続してはじめて完了するという大変な仕事なのである。これらはA・ボヌール氏の受け持ちであるキログラム原器の清浄方法の如何も軽々しく見過ごすことはできない。何分にも例の白金イリジウム製キログラム原器の表面に厚さ0.001μmの水分層が隈なく付着しているとすると質量は0.01 mgほど狂うわけで、決して無視できない。研究の結果、清浄方法として最も効果的なには蒸留水の蒸気のジェットによる方法であると判断されている。
 質量原器比較の精度は、1 kgに対し0.01 mgすなわち1億分の1の相対精度、のあるいはもっと良い精度と考えられ、全ての精密測定中最高の精度と見ることができる。
 さて、第一次原器は白金イリジウム製であるから、その高価なことはいうまでもない。これに次ぐ二次標準器のための低廉な材料の開発研究について、国際度量衡局のギョーム氏(第5代所長※第6章参照、Charles Edouard Gvillaume)の名を逸することはできない。インヴァー(invar)・エリンヴァー(Elinvar)その他の特殊合金が同氏の手によって作り出され、今日ではひとり計測学のみでなく、諸工業の材料として欠くことのできないものとなっている。
 そのほか、測地用エーデリン線(尺、Jaderin wire)の検度とか、非メートル系の各国単位や古代単位をメートル系で値を決定した仕事(※詳細は略す)なども価値ある成果であった。

●1 キログラム(kg)の水の体積
 メートル法創成期には、質量単位が1 デシ立方メートル(d m3)の水(温度は4 ℃)の質量をもって定義されていた。当時の原器、キログラム・デ・ザルシーヴは、この定義に忠実な質量をもつように製作されたのである。ところが、後年(1895-1907年)国際度量衡局でなされた再測定の結果、原器の質量つまり1 kgの質量をもつ水が4 ℃で占める体積は、正確な1 dm3ではなくして実は1.000028 d m3であるということになった。リットル(L)なる計量単位がこうして世に行われることとなったのである。この差0.000028 という数字は百数十年前のメートル法誕生時代の測定精度を暗示する歴史的記念と見れば興味深くもあるが、d m3とLとの2本立てを象徴する数字と見れば、メートル法にとってあまり愉快なものとは言えまい。

●温度
 すべての計量が測定温度に何らかの影響を受ける事実に鑑みて、国際度量衡局は早くから温度の標準目盛設定のことに志した19世紀半ばまでは、温度計一本一本に異なった目盛が付けられていた有様だった国際度量衡局の初期の努力は極めて優秀な水銀温度計の実現に成果を挙げ、1844-1913年に作られたトンヌロー(Tornelot)およびボーダン(Boudin)の手になる温度計は、今日なおある方面では第一級標準温度計として利用されている。
 水銀温度計の使用法及び検度法の詳細を集大成したギョーム、気体(特に水素)温度計を持つ標準目盛を設定したシャピユイ(P. Chappuis)、抵抗温度計と気体温度計の比較を行ったハーカー(J. Haker)らの国際間での研究は、後年これらを手本として独・米・英で展開された諸研究に引き継がれ、国際度量衡局温度目盛の制定の源をここに見出すの感がある。

●光波干渉測長法
(interferometry: インターフェロメトリー)
 白金イリジウム製のメートル原器の恒常性を、チェックするのに、光の波長を利用しようとの着想は、古くはフィゾー(Fizeau)が波長を呼んで「天然の最高級マイクロメータ」と称した逸話に帰せしめられるかもしれない。国際度量衡局では、早くも1902-3年にマイケルソンとブノワ(※第6章参照)がこの案を取り上げ、カドミウムのスペクトル線の波長とメートルとの関係を示した。続いて1906年にはブノワのほかにファブリー(C. H. Fabry)とペロー(A. Perot)が参加して、いわゆるファブリー・ペロー方式でこの仕事を繰り返し、前の結果を裏書きすることができた。
 その後は、波長とメートルとの関係が念とともに詳しく調べられ(※中検の渡辺・今泉両氏の測定も著名である。)、ついにはごく最近、白金イリジウム製原器に代わって光波の方をこそ基礎的(ファンダメンタル)なものとする案の具体化に及んだ。一方、光波干渉測長法は各所の標準尺材料の膨張係数決定をはじめ、多様の応用面をもつに至り、工業計測器としても広く利用されることになる。(※この方面に功績ある国際度量衡局の担当者はブノワをはじめとして、近くは前局長ペラール氏・現副長テリアン(J. Terien)氏のごとく、要職にある人々であって、光波干渉はまさに同局のお家芸と呼ぶことができる。)

●重力加速度
 いわゆる「G」の絶対測定についても、国際度量衡局の伝統は極めて長い。即ち、1888年すでにこれを手掛けた実績をもっているのである。担当はデフォルジェ(Defforges)、実験は振子の方法であった。いわゆるポツダム系の測定がなされたのは1900年前後である。降って米(NBS)と英(NPL)での絶対測定がポツダム系と合致しない結果を出しGの絶対測定は近時各所で新たな構想のもとに展開されることになった。国際度量衡局では、現局長ヴォレ氏が落体法による測定を推進し、既に興味あるデータが得られている。

●電気計測と測光
 これらの部門での国際度量衡局での伝統は比較的短い(1930年代に着手)。そして実は、いわゆる絶対単位(絶対オーム(Ω)、絶対アンペア(A)およびカンデラ(cd)・ルーメン(lm))の実現に必要な装備はなされていない。しかし、これらの絶対単位の実現に必要な装備はなされていない。しかし、これらの絶対単位の正確な現示になお多くの問題が伴っている現状において、実用的な標準器類(電気ではマンガニン標準抵抗器とウェストン標準電池、電光では光度標準電球と光束標準電球)の採算の国際比較を、自らセンターとなって実行している国際度量衡局の労は高く評価されるべきであろう。

●諮問委員会、その他
 既に述べた国際度量衡総会と国際度量衡委員会の、二つの国際機構の運用に必要な事務的作業が、国際度量衡局によって遂行されるのは申すまでもないが、国際委員会の下に設けられた電気・測光・測温の三つの(※後にメートル定義のそれを加えて4つ、さらには今年新設の放射線単位のそれを加えて5つの)諮問委員会の運用事務も、また局の担当するところである。その他、各国の計量制度の調査や各国からの質疑への助言等々、行政的方面の業務も決して少なくない。(注:第6章に現在の10諮問委員会を記載。)

●国際度量衡局とは何か?
 国際度量衡局とは何か?人は単なる原器保管所と見たかもしれない。しかし、ここに略述した通り、同局は計測学諸部門の研究室を持った、計量標準統一のための国際的センターでこそある。それは、二度の大戦のさなかにも休むことなく不覚不偏の科学的精神を体して、諸国の大研究所と手を取り合いつつ使命を全うしている。
眼を将来に転ずるならば、いわゆる「原始的(アトミック)」標準器(理論的根拠ある天然現象 -例えば光波長とか電子質量とか電子時計のごとき)の発展のかげにかくされて、国際度量衡局の威信もやがては薄れるとの所説も不当ではないかもしれない。しかし、未来の原器がどうあろうとも、計量標準の世界的統一と計測科学の前進のために、この機関が成し遂げてきた大任務が、存在意義を失う謂われのあろうはずはないのである。

10.むすび
(日本計量新報社 昭和34年(1959年)8月17日号)

 以上を一言に要約すれば、メートル法の起源以来の歴史を辿ったということになる。タレイランが礎石を置いた、かの1790年の度量衡改革案このかた、ほぼ世界にあまねしと呼ぶに足るひとつの度量衡制度の発展がなしとげられてきた。その創成の歴史において並々ならぬ役割を果した英・米両国が、今日では非メートル制の二大国として残されてしまったのであるが、この二国においてもメートル制の単純性と首尾一貫性の利点は理解されてきているのである。
 メートル法一世紀余の絶えざる進展も空しく、われらが地球の全体がメートル法でおおわれるには至っていない。しかしながら、メートル法の普遍性が究極において見事に実を結ぶに至るであろうことは、明確に予見されるのである。(終り)
〔補注〕 「一王、一法、一度量衡」

 テクストとしてはラルフ・E・エスパー(Ralph E. Oesper)氏による英訳文(Journal of Chemical Education : January, 1953:ジヤーナル・オブ・ケミカル・エデュケイシヨン(米)、 1953年1月号)を用いましたが、進行中にフランス語原文(La nature:ラ・ナチュール、1948年)を見ることができました。内容について訂正の必要は認めませんでしたが、ひとつ書き添えます。
 拙稿第1章(6月8日号)の古代度量衡制度のところで、「一王、一法、一度量衡」というキャッチフレイズに英文 “One King, One Law, One Weight, One Measure”を書き加えたわけですが、これはフランス語では、“un roi une loi un poids une mesure”と書き、「アン・ロワ、ユヌ・ロワ、アン・ポワ、ユヌ・ムジュール」と、いかにも口調のよいうたい文句であることを知りました。「王は法なり」という旧制度(Ancien r?gime、直訳:古い体制、アンシャン・レヂーム)下の絶対主義の標語なども思い合わされて興味深いので特にここで補足致します。

〔後記〕メートル法の歴史に筋を通す役目を念願

 以上でモロー氏の記事をほとんど余すところなくご紹介することができました。カットしたのは、今日のわれわれに全く所縁がないと思われる、わずかな部分だけであります。
 ややもすればイージーな孫引きですまされてしまうメートル法の歴史に、多少なりとも筋を通す役目を拙訳が果しえたとすれば、極めてとぼしい自由な時間を割いてこの仕事にあたった訳者の労は、すべて報いられると考えております。
 むやみに※が付いておりまして、どなたにも目障りであったことと思います。いざという時にはなかなかひき出せない関連事項を整理しておくのも、此の際有用であろうと独り決めしてやった次第ですが、取材、分量、配置の当否を省みると、いかにも均整を失しておりまして恐縮です。誤解・誤記の類はぜひお教え願いたいと存じます。
 終りにあたって、この仕事の機会を与えられた本紙久保田氏と中検小泉袈裟勝氏に御礼を申し述べます。同時に、平素語学のことや国際関係のことを教えていただいている米田麟吉博士に、また遺著を通じて業績に親しみ、絶えず激励を受けている先輩故天野清氏に、そして引用させていただいた諸文献の著者訳者に、深く謝意を表します。(訳者)

地名索引

1 数字は掲載章
2 原綴は、所在国の言語表記
3 他国綴は、他国語での表記

地名
所在国
掲載章
原 綴
他国綴
ア行
アルザス
フランス
3
Alsace(仏)
Elsass(独)

ヴァンデー
フランス
7
Vend?e(仏)

ウィーン
オーストリア
2,3
Wien(独)
Vienne(仏) Vienna(英)

ヴェルサイユ
フランス
5
Versailles(仏)

オータン
フランス
2
Autun(仏)

サ行
サン・クルー
フランス
3,5
Saint Claud(仏)

シテ
フランス
1
la Cit?(仏)
パリのシテ島

セーヴル
フランス
5,7
S?vre(仏)

セーヌ河
フランス
1
La Seine(仏)

タ行
ダンケルク
フランス
2
Dankerque(仏)
D?nkirch(独)
ナ行
ニューメキシコ
アメリカ
8
New Mexico(英)

ハ行
バスチーユ
フランス
1,2
Bastille(仏)

パリ
フランス
省略
Paris(仏)

バルセロナ
スペイン
2
Barcelona
Barcelone(仏)

ブリタニー
フランス
7
Brittany(仏)

プロイセン
ドイツ
3
Preussen(独)
Prusse(仏) Prussia(英)

ブローニュ=ビヤンクール
フランス
5
Boulogne-Billancourt(仏)

ペルー
ペルー
1
Peru(西)
P?rou(仏)

ベルリン
ドイツ
4,参2
Berlin(独)

ラ行
ラップランド
北欧
1
Lapp(北欧)
Lappland(英)
la Lapone(仏)

ロス・アラモス
米国
8
Los Alamos(英)

ロデーズ
フランス
2
Rodez(仏)

ロレーヌ
フランス
3
Lorraine(仏)
Lothringen(独)

ロンドン
イギリス
2,4,参2
,7,8
London(英)
Londres(仏)
人名索引

日本人編
名前
掲載章

略歴
生没年
あ行
天野清
アマノ キヨシ
参考1,3,7,8
,後記
日本
物理学者,科学史家
1907-1945
飯塚幸三
イイヅカ コウゾウ
3
日本
工業技術院院長
存命
今泉門助
イマイズミ モンスケ
7,9
日本
中央度量衡検定所
不明-1959
江上不二夫
エガミ フジオ
4
日本
生化学者
1910-1982
小場瀬卓三
オバセ タクゾウ
訳序
日本
フランス文学者
1906-1977
か行
小泉袈裟勝
コイズミ ケサカツ
7,後記
日本
中央度量衡検定所、計量史研究家
1918-1998
さ行
芝 亀吉
シバ カメキチ
7
日本
理学博士
1899-1996
鎮目恭夫
シズメ ヤスオ
8
日本
物理学者
1925-2011
昭和天皇
ショウワテンノウ・アキヒト
7
日本

1901-1989
菅井準一
スガイ ジュンイチ
訳序,3
日本
科学史家
1903-1982
た行
田幸敏治
タコウ トシハル
7
日本
中央計量検定所
1923-2011
田中舘愛橘
タナカダテ アイキツ
訳序,3, 6, 8
日本
物理学者
1856-1952
玉野光男
タマノ ミツオ
7
日本
中央計量検定所所長
1904-
な行
長岡半太郎
ナガオカ ハンタロウ
6
日本
第2代CIPM委員(日本)

中村清二
ナカムラ セイジ
3
日本
物理学者、東京帝國大学教授
1869-1960
中谷宇吉郎
ナカヤ ウキチロウ
7
日本
物理学者、随筆家。位階は正三位。勲等は勲一等。学位は理学博士。北海道大学理学部教授、世界初の人工雪の製作に成功。
1900-1962
は行
原 光雄
ハラ ミツオ
2
日本
科学論・科学史研究者
1909-1996
平山
ヒラヤマ
6
日本
電気試験所

伏見康治
フシミ コウジ
8
日本
理論物理学者、理学博士。公明党参議院議員。正四位勲二等。
1909-2008
ま行
増井敏郎
マスイ トシロウ
6,7
日本
中央計量検定所

や行
山内二郎
ヤマウチ ジロウ
6
日本
第3代CIPM委員(日本)

吉江
ヨシエ
6
日本
電気試験所

米田麟吉
ヨネダ リンキチ
後記
日本
電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授
1897-不明
わ行
渡辺 襄
ワタナベ ノボル
3,7
日本
明治-昭和時代前期の物理学者。工務局中央度量衡検定所長。
1881-不明

外国人編
名前
掲載章

略歴
生没年
ア行
アユイ(ルネ=ジュスト)
Ren? Just Ha?y
2
フランス
鉱物学者、聖職者。「結晶学の父」と呼ばれる。
1743-1822
ヴェーバー(ヴィルヘルム)
Wilhelm Eduard Weber
参考2
ドイツ
電磁気学の単位を定めた物理学者
1804-1891
エスパー
Ralph E. Oesper
補注
アメリカ
化学者、英版訳者
1886-1977
エドワード一世
King Edward ・
8
イギリス
英国王
1239-1307
エリザベス一世
Queen Elizabeth ・
8
イギリス
英国女王
1533-1603
オルタンス女王
Hortense de Beauharnais
5
フランス
ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの娘で、ナポレオンの義理の娘、義弟のルイ・ボナパルトと1802年に結婚
1783-1837
カ行
ガウス(カール・フリードリッヒ)
Karl Friedrich Gauss
参考2
ドイツ
数学者、電磁気学、磁束密度
1777-1855
ガモフ(ジョージ)
George Gamov
8
アメリカ
理論物理学者
1904-1968
カルノー(ニコラ・レオナール・サディ)
Nicolas Leonard Sadi Carnot
2
フランス
物理学者、カルノーサイクル
1796-1832
カント(イマヌエル)
Immanuel Kant
3
ドイツ
哲学者
1724-1804
ギョーム(シャルル)
Charles Edouard Gvillaume
6,9
スイス
第5代BIPM局長

クラーク(アレクサンダー)
Alexander Ross Clarke
7
イギリス
測地学者
1824-1902
グリモー(エドアール)
Eduard Grimaux
2
フランス
著述者
1835-1900
クールヴォアジェ
J?r?me de Courvoisier
2
劇中の人物
クレイロー(アレクシ・クロード)
Alexis Claude Clairaut
1
フランス
数学者、天文学者、地球物理学者
1713-1765
グレイズブルック(リチャード)
Richard Tetley Glazebrook
8
イギリス
物理学者、イギリス国立物理学研究所所長
1854-1935
ケイター(ヘンリー)
Henry Kater
8
イギリス
科学者、ケーターの振子
1777-1835
ゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング)
Johann Wolfgang von Goethe
3
ドイツ
詩人
1749-1832
ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)
Lord Kelvin (William Thomson)
3
イギリス
物理学者、絶対温度、トムソンの定理
1824-1907
ゴダン(ルイ)
Louis Godin
1
フランス
天文学者
1704-1760
ゴノン P. M. Gonon
3
フランス

コロー
A. Collot
7
フランス
天びん製造

コンドルセ(ニコラ・ド)
Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet
1,2
フランス
啓蒙思想家、数学者、哲学者、政治家、社会学の創設者の一人
1743-1794
サ行
H・サントクレール・ドヴィユ
Henri Sainte-Claire Deville
7
フランス
化学者
1818-1881
J. E. シアース
J. E. Sears
6
英国
第6代CIPM委員長

シャルマァニユ
Charlemagne, Charles the Great
1,3
ローマ
大帝
742-814
ジェファーソン(トーマス)
Thomas Jefferson
2
アメリカ
大統領
1743-1826
ジェローム・ボナパルト
J?r?me Bonaparte
5
フランス
ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟(末弟)
1784-1860
シャピユイ P. Chappuis
9

BIPM温度担当者

シヤルル・ヴォレ
Charles Volet
6,9
スイス
第7代BIPM局長

王妃ジョセフィーヌ
Jos?phine de Beauharnais
5
フランス
フランス皇后。ナポレオン・ボナパルトの最初の妻。貴族出身。
1763-1814
ジョンソン・マッセイ社
Johnson Matthey
7
英国
合金メーカー
会社名
ソブール(アルベルト)
Albert Soboul
訳序
フランス
革命史研究家
1914-1982
タ行
タレイラン(タレイラン=ペリゴール)
Charles Maurice de Talleyrand - P?rigord
1,2,3,4,10
フランス
政治家で外交官、のちに首相も務める
1754-1838
A. ダンジョン
A. Danjon
6
フランス
第7代CIPM委員長

ダンネマン
Friedrich Dannemann
2
ドイツ
科学史家
1859-1936
ティエール(ルイ・アドルフ)
Louis Adolphe Thiers
7
フランス
第2代フランス大統領
1797-1877
デフォルジェ Defforges
9

BIPM重力加速度担当

テリアン J. Terien
9

BIPM副局長

トレスカ(アンリ)
Henri ?douard Tresca
7
フランス
工学者である。材料力学の分野でトレスカの降伏条件で知られる。
1814-1881
ドランブル(ジャン=バティスト・ジョゼフ)Jean Baptiste Joseph Delambre
2,7
フランス
数学者、天文学者。
1749-1822
トンヌロー Tornelot
9

BIPM温度担当者

ナ行
ナポリ王妃 Maria Annunziata
Caroline Bonaparte Murat
5
フランス
ナポレオン1世の3番目の妹で、ナポリ王妃
1782-1839
ナポレオン一世
Napoleon Bonaparte
2,3,5,
参考2
フランス

1769-1821
ナポレオン三世
Louis Napol?on
3,5,7
フランス

1808-1873
ハ行
ハーカー
J. Haker
9

BIPM温度担当者

バーデン大公妃
St?phanie Louise Adrienne de Beauharnais
5
フランス
フランス皇女、バーデン大公カールの妃。
1789-1860
バード Bird
8

バルザック(オノレ・ド)
Honor? de Balzac
3
フランス
19世紀のフランスを代表する小説家
1799-1850
ビオ(ジャン=バティスト)
Jean Bptiste Biot
2
フランス
物理学者、天文学者、数学者。ビオ・サバールの法則
1774-1862
ピカール(ジャン)
Jean Picard
2
フランス
天文学者、司祭、三角測量を行った最初の一人
1620-1682
ビゴルダン(ギヨーム)
Guillaume Bigourdan
訳序
フランス
天文学者、科学アカデミー会長
1851-1932
ビスマルク(オットー・フォン)
Otto Eduard Leopold Bismarck
3
ドイツ
政治家、貴族。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相」の異名を持つ
1815-1898
ファブリー
C. H. Fabry
9

BIPM長さ担当者

ファブローニ(ジョバンニ)
Giovanni V. M. Fabbroni
2
イタリア
博物学者、経済学者、農学者、化学者。フランスで立法院議員を務めた。
1752-1822
フィゾー Fizeau
9

BIPM長さ担当者

フィリップ2世(オルレアン公)
Philippe d’Orl?ans
3,5
フランス
シャルトル公、後にオルレアン公。1715年から1723年までルイ15世の摂政を務めたフランスの王族でオルレアン家当主。
1640-1701
ブーゲ(ピエール)
Pierre Bouguer
1
フランス
数学者、天文学者、造船工学の先駆者
1698-1758
プナン Penin
3
フランス

J. Rene ブノア
J. Rene Benoit
6,9
フランス
第4代BIPM局長

ブリュネ Brunner
7
フランス

ブルトイユ男爵
Baron de Breteuil
5
フランス

ブロック Walter Block
2

ヘイフォード(ジョン)
John Fellmore Hayford
7
アメリカ
測地学者
1868-1925
ベイリー(合金) Baily
8

ベッセル(フリードリヒ・ヴィルヘルム)
Friedrich Wilhelm Bessel
7
ドイツ
数学者、天文学者。恒星の年周視差を発見し、ベッセル関数を分類
1784-1846
ペラール(アルベルト)
Albert Gustave L?on P?rard
3,7,9
フランス
国際度量衡局第6代所長
1880-不明
ペロー A. Perot
9

BIPM長さ担当者

へロイス社 W. C. Heraeus
7
ドイツ
合金メーカー
会社名
ヘンリー7世
Henrry ・
8
イギリス
テューダー朝初代のイングランド王およびアイルランド卿
1457-1509
ホイヘンス(クリスティアーン)
Christiaan Huygens
2
オランダ
数学者、物理学者、天文学者
1629-1695
ボーダン Boudin
9

BIPM温度担当者

A・ボヌール
9

BIPM質量担当者

ボルダ(ジャン=シャルル・ド・)
Jean Charles Borda
2
フランス
数学者、物理学者、政治学者、航海士
1733-1799
マ行
マイケルソン(アルバート)
Albert Abraham Michelson
6,7
アメリカ
物理学者。アメリカ海軍士官。1907年、光学に関する研究によってノーベル物理学賞を受賞
1852-1931
マクマオン元帥
Marie E. Patrice Maurice de Mac-Mahon
7
フランス
軍人、政治家。第3代大統領(フランス第三共和政)。
1808-93
マチルド・ボナパルト
Mathilde-L?tizia Wilhelmine Bonaparte
5
フランス
ナポレオン1世の末弟ジェローム・ボナパルトの長女。
1820-1904
マリア(ロシアの、アレクサンドロヴナ)
Maria Alexandrovna
5
ロシア
ロシア皇帝アレクサンドル2世の皇后。
1824-1880
マリー・ルイーズ
Marie-Louise d'Autriche
5
オーストリア
神聖ローマ皇帝フランツ2世の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。後にパルマ公国の女公
1791-1847
ミラー(ジョン・リグス)
John Riggs Miller
2
イギリス

ムートン(ガブリエル)
Gabriel Mouton
1,2
フランス
司祭で化学者(数学・天文学)
1618-1694
メシェン(ピエール)
Pi?rre Fransais Andr? M?chain
2,7
フランス
天文学者。生涯で7個の彗星を発見。パリ天文台長。
1744-1804
メンデンホール(トマス)
Thomas Corwin Mendenhall
3,8
アメリカ
物理学者、気象学者。エドワード・S・モースの推薦で1878年、東京帝国大学の物理教師に迎えられる
1841-1924
モーペルチェイ(ピエール・ルイ)
Pierre L. M. de Maupertuis
1
フランス
数学者、著述家
1698-1759
モロー(アンリ)
Henri Moreau
訳序,3,8
フランス
本著の著者、国際度量衡局

モンジュ(ガスパール)
Gaspard Monge
2
フランス
数学者・科学者・工学者・貴族。エコール・ポリテクニークの創設者
1746-1818
ヤ行
ヤング(アーサー)
Arthur Young
1
英国
経済学者
1741-1820
ユーイング(アルフレッド)
James Alfred Ewing
3
英国
工学者,物理学者、元・エジンバラ大学教頭兼副総長。1878来日、東京大学教授となり機械工学などを教える。
1855-1935
ユーゴ―(ヴィクトル)
Victor Hugo
3
フランス
フランス・ロマン主義の詩人、小説家
1802-1885
ラ行
ラヴォアジェ(アントワーヌ)
Antoine Laurent Lavoisier
1,2
フランス
化学者、貴族、質量保存の法則を発見
1743-1794
ラグランジュ(ジョゼフ=ルイ)
Joseph Louis Lagrange
2
イタリア
数学者、天文学者である。オイラーと並んで18世紀最大の数学者といわれている。
1736-1813
ラ・コンダミーヌ(シャルル=マリー・ド)
Charles Marie de La Condamine
1
フランス
地理学者、数学者
1701-1774
リーズ大公(フランシス・オズボーン)
Duke of Leeds (Fransis Osborne)
2
イギリス
政治家、貴族。外務長官。
1751-1799
リュツェルヌ公
Marguis de la Luzerne
2
フランス
駐英大使

ルイ14世
Louis ・・
2,5,参考2

1638-1715
ルイ・フィリップ
Louis Philippe
3,7

1773-1850
ル・ノートル(アンドレ)
Andr? Le N?tre
5
フランス
造園家、ヴェルサイユ宮殿の庭園などを設計し、フランス式庭園の様式を完成。
1613-1700
ルノワール
Marie Alexandre Lenoir
2
フランス
精密工作技師
1762-1839
ルフェーブル・ヂノー(ルイ)
Louis Lef?vre-Gineau
2
フランス
化学者、科学者
1754-1829
レーマー(オーレ・クリステンセン)
Ole Christensen R?mer
2
デンマーク
数学者、天文学者
1644-1710
ロマン・ロラン
Romain Rolland
訳序,2
フランス
作家
1866-1944

ワ行
ワシントン(ジョージ)
George Washington
2
アメリカ
大統領
1732-1799

参考3 メートル法に関する高田誠二氏の労作

「メートル法の起源」
 高田誠二氏訳「メートル法の起源(アンリ・モロー氏)」 〔本紙本年6月8日号から8月17日号まで、十一回にわたって連載〕 ほど各万面から注目され、好評を博した寄稿は少ない。
 この「メートル法の起源」が文字通り「力作」であることは、その分量が多いこと、従って忠実に訳出するという面だけからも大変な仕事であり、それだけでも十分「力作」と呼ぶにふさわしいものであるが、高田氏がこの訳出に当って果したもう一つの大きな仕事、即ち訳注の面で示した同氏の努力と力量が特に大きく評価されている。

 当の高田氏は、この訳出の後記として、極めて謙虚な表現で、
 「ややもすればイージーな孫引きですまされてしまうメートル 法の歴史に、多少なりとも筋を通す役目を拙訳が果しえたとすれば、極めてとぼしい自由な時間をさいてこの仕事にあたった訳者の労は、すべて報いられると考えております。
 むやみに※(訳注)が付いておりまして、どなたにも目ざわりであったことと思います。いざという時には仲々ひき出せない関連事項を整理しておくのも、此の際有用であろうとひとりぎめしてやった次第ですが、取材、分量、配置の当否を省みると、いかにも均勢を失しておりまして恐縮です。」(後略)
 と書かれているが、モロー氏の本文もさることながら、この高田氏の訳注こそ、モロー氏の力作に花を添えたといって過言ではなく、訳注にみせた高田氏の勉強ぶりが読者に特別な感銘を覚えたことは事実である。

高田氏の他の労作

 なお、この際、本紙に掲載された高田氏の他の労作(訳出)について一覧を掲げておく。
「世界のメートル法」 (アンリ・モロー氏)
〔昭和31年7月25日号〕
 この訳の増刷は、メートル法関係の各種の会議に参考資料として広く利用され、「計量新聞」にも転載された。
「不滅のメートル法」 (アルベール・ベラール氏)
〔昭和32年9月15日~10月5日(三回にわたって連載)〕
「国際度量衡局の由来」(アンリ・モロー氏)
〔昭和34年3月25日、4月15日、25日(三回にわたって連載)〕

高田 誠二(たかだ せいじ、1928 - 2015年)氏 略歴

 日本の科学史家、計量工学者、北海道大学名誉教授。
 東京府生まれ。1950年東京大学工学部計測工学科卒業、通商産業省中央度量衡検定所(のち計量研究所)に入り、温度計測・単位論の研究に従事。1961年「金点における黒体放射の実現」で東大工学博士。1970年『単位の進化』で毎日出版文化賞受賞。同年計量研究所研究企画官、72年第二部長、1980年北海道大学理学部教授、1991年退官、名誉教授、久米美術館参事・研究員。
 
 計量に関する研究、一般書の著述のほか、岩倉使節団の自然科学面での研究著述も行った。

高田 誠二氏の主な著書

『単位の進化 原始単位から原子単位へ』講談社ブルーバックス 1970、講談社学術文庫 2007
『単位と単位系』共立出版 1980
『計る・測る・量る そのための七つの知恵』講談社ブルーバックス 1981
『熱エネルギーのおはなし』日本規格協会 1985
『計測の科学的基礎 情報生産論への道』コロナ社 1987
『実験科学の精神』培風館(科学精神の冒険) 1987
『科学方法論序説 自然への問いかけ働きかけ』朝倉書店 1988
『熱をはかる』日本規格協会 1988
『情報生産のための技術論』海鳴社(叢書:技術文明を考える) 1991
『計測の進歩とハイテク』コロナ社 1991
『プランク』清水書院(Century books) 1991
『維新の科学精神-『米欧回覧実記』の見た産業技術』朝日選書 1995
『測れるもの測れないもの』裳華房(ポピュラー・サイエンス) 1998
『図解雑学 単位のしくみ』ナツメ社 1999
『「単位」がわかる』丸善(理科年表読本) 2003
『久米邦武 史学の眼鏡で浮世の景を』ミネルヴァ書房2007
[共編著]
『単位のカタログ 国際単位系に親しむ』大井みさほ共著 新生出版 1978
『『米欧回覧実記』の学際的研究』田中彰共編著 北海道大学図書刊行会 1993
『理工学量の表現辞典 JIS用語から新計量法単位へ』 朝倉書店 1994


参考4 高田誠二先生の回顧 (一社)日本計量史学会理事 小川実吉
日本計量新報 2015年5月17日 (3056号)5面掲載

 高田誠二先生の突然の訃報に驚嘆し、永年にわたるご指導ご鞭撻に感謝しつつ想い出を綴る。

 高田先生と初めての出会いは、計測自動制御学会(SICE)温度計測研究専門委員会の持回り実験である。温度計測専門委員会は、1962年10月9日に開始されて1965年9月14日に終了した。この委員会は、・温度定点小委員会、・純金属線溶融法小委員会、・温度パターン小委員会で構成され・小委員会に上司が委員で参加していた。その研究成果の実証として持回り実験が実施された。定点の実用試験と温度目盛の相互試験を目的として、当時の計量研究所で作成したジフェニルエーテル三重点(28.88℃)を1965年11月4日に小委員会委員長の高田先生と研究員の方が当時の北辰電機(現横河電機)に持参された。使用方法の説明を受けて実現を試みたところ、容易に三重点を実現できて0.01℃以内で当時の計量研究所の温度値と一致した。他の研究機関と初めての相互比較が良い成果を収め、高田先生にほめていただき感激した。それは、研究小委員会のテーマであるナフタレン凝固点(79.72℃)の実験を担当していたことが寄与した。

 その後1970年1月にSICE主催の温度計測講習会(広島市青少年センター)で高田先生の薦めで講師を務めた。現場の温度計測を担当して工業用温度計の講師として上司が登録されていたが突発事変があり、高田先生の推挙で代役を務めることになった。大勢の人前で話すのは初めてであったが関係者にフォローしていただき大過なく終えた。講習会の締め括りに質疑応答があり、受講者は現場技術者が多かったこともあり現場のトラブル事例などの質問があり、先生方に縁遠い事例でも、筆者にとっては定常業務の体験があったので難なく回答することができた。無事に講習会を終えて帰路は、ブルートレイン(寝台車)に乗車し講師を勤めた先生方と食堂車で食事しながら、高田先生のPTB(ドイツ国立理工学研究所)での研究のことなどいろいろな話を聞いたのも良い想い出である。

 翌年(1971年)SICE温度計測部会の主査に高田先生が就任されると運営委員に指名されて2年間務めることになる。その頃、当時の日本学術振興会製鋼第19委員会第2分科会に会社の委員(上司)の指名で、出席することになる。同研究委員会では、製鉄所の熔鋼温度計測が重要課題として産学協同研究が佳境になっていた。委員の上司から指示された課題について実験結果を携えて初めて出席し、錚々たる先生方を前にして説明した。質問になると予想しない厳しい問題が出て、しどろもどろになる場面もあったが、そこで高田先生に援護していただいたのは有難く感謝した。そのとき手がけた研究は、「酢酸ナトリウム転移点によるPR熱電対用補償導線の校正方法」で1972年12月学振法に制定された。このマニュアルの名称は、酢酸ナトリウムの性質から液体から固体への過程は凝固ではなく転移であると高田先生の発案で転移点と決まった。この委員会は年に2回の研究会が継続して開催されたので、永年ご指導を受けることになる。

 SICE温度計測部会では、1979年に温度計測の専門書の出版作業が始まった。各分野の専門家が共同で執筆することになるが、著者として加えてもらった。ここでは、高田先生に貴重なコメントをいただいたのを今も覚えている。それは、「月刊誌は一箇月で更新されるが、書籍は廃刊になるまで継続するので文言は根拠を明確に調査し文脈は誤解を招かないよう留意すべき」と説かれた。そのうえに拙稿は、高田先生に添削をしていただき感謝しつつ脱稿でき、諸先輩をはじめとする専門家の英知を集めた書籍は1981年3月に出版されて、1回改版したものの現在も継続している。この書籍の著者紹介で、誕生日が10年違いの同じ日だったことを知り何かの因縁を感じた。その出版記念講演会の折に、10年ごとにアメリカで開催される温度計測シンポジウムが翌年に第6回がワシントンDCで開催されるので団体で参加しようと発案があり、20数名の参加者に筆者も加えてもらい、初めて海外の学会に参加した。

 現在、計測標準トレーサビリティ制度は、JCSS(計量法校正事業者登録制度)をはじめとして産業界に定着している。その先駆けは、1971年4月に始まった、産業計測標準委員会といっても過言ではない。そこでも高田先生は、多くの分野を横断的に取り纏める重鎮として務められていた。1974年に高田先生の指名を受けて温度標準の分科会に加わり、約2年間委員を務めた。この委員会は、1978年2月に将来への提言をして終息した。ここでの成果は、いくつかの議論が加えられ、1993年11月1日施行の計量法に計量標準供給制度の創設となったと思われる。

 1980年に北海道大学教授に転身された翌年だったと思うが、初夏の頃に社用で札幌出張があり時間が取れたので、高田先生に電話したら近くだからと誘われ、地下鉄の駅で待ち合わせて単身赴任のお宅を訪問し、北海道はアイスクリームが美味しいんだと御馳走になった。

 SICE温度計測部会は、1987年創設25周年を迎えて記念講演会を企画した。その時幹事を務めていたので内容を検討して、歴代主査のなかから高田先生にもお願いした。同年11月の講演会では「計量史のなかの温度計測」の演題で講演していただいたが、予稿は手書きのもので、フリーハンドの挿絵が入った直筆の資料はこれ以降拝見することがなく貴重な遺稿とこれからも大事に保管したい。それから疎遠がつづいた。

 定年を過ぎて社用も少し身軽になった2000年ころ、たびたび投稿していた月刊誌の編集から、温度計測の経緯を含む話題の執筆依頼がきた。定年は会社生活の卒業でもあるから、社業以外に携わった、学会、業界団体などで過ごしてきたことを書いてみようと思い、編集に相談したら諒解が得られたので引き受けた。この執筆にあたっては、前記の通り高田先生との出会いから書かなければと思い、素案をしたためて久米美術館に高田先生を訪ねた。本題は快諾を得たものの日本計量史学会への入会を促されて、即答で諒承した。日本計量史学会に入会したらすぐに仕事を言い渡された。それは、天野清先生の資料を遺族から預っているので整理して纏めることであった。古い資料で持ち運びもままならないものもあり、久米美術館にたびたび出向いて1人会議室で資料の整理をした。その結果は、日本計量史学会の計量史をさぐる会で何度か発表し、学会誌の計量史研究に投稿した。

 高田先生の誘いで軽い気持ちで入会した日本計量史学会は予期せぬ間に重責を担うことになり、最近は分不相応と自戒しながら業務を処理している。一方、温度計測の技術者として高齢になった現在まで業務に携わっていられるのは高田先生の初心者の頃のご指導ご鞭撻があったことに深く感謝しつつ御冥福をお祈りする。

参考5 キログラム史話 A.ビランボー

キログラム史話
A.ビランボー(Arthur Birembaut)
訳 高田誠二

キログラム史話 ― 第一部 ―

●まえがき
メートル法運動もまずは順調のもようで、大慶至極と申すべきところであろうが、この仕事の最前線の方々のお骨折りを脇から拝見していていると、なかなか喜んでばかりはいられないようにも見受けられる。新年にあたって当事の方々にあらためて敬意を表するとともに、これを機として一つの史料をご紹介したい。粗末なひき写し記事に過ぎないけれども、前線の士気高揚に一助ともなれば幸いである。

●メートル法史への反省
 元来われわれが教えられてきたメートル法史は、美談で飾られすぎていたのではあるまいか。また苦心談にしてもえてして美化され、その赤裸々な真相よりは、むしろ勝利の報告ばかりが伝えられているのではなかろうか(それもしばしばオーバーな表現で)。そうだとすれば、浪花節の豪傑伝と撰ぶところはないのである。昨今のわが国のように、幾多の現実的困難を地道に克服しつつ事をおし進めねばならない場合、浪曲的メートル史談は真の指導力をもちえないだろう。

1 真相をえぐり出す諸困難
昨年機会を与えられて、モロー氏の「メートル法の起源」を本誌上に、ひと夏かけてご披露したのであるが、その途中でも前述のようなことは考えた。そこで私の力の及ぶ限り、より多くの真相を書きこんで見たいと思ったけれども、それが至難の業であることはすぐ知れた。
その理由の
第一 手近で参照しうる文献は、おおむね似たりよったりの傾向のものであること。
第二 それらの文献を手掛かりとして原史料に遡ろうとすれば、いわく千七百何年のアカデミーの記録、あるいは例の文書保管所(アルシーヴ)の文書何号といった具合で、とうてい私ごときが手にすることのできないしろものであること。
これに加えて、景気のいい話に熱が入りやすいのは人情であるから、訳筆期せずして美談調に拍車をかけてしまった感がある。ロマン・ロランの戯曲まで引き合いに出したのはいささか浪曲づいていた証拠か?

2 深刻に自己批判させたもの
実を申せば、昨夏の訳業については、編集の方からとほうもないお言葉を頂戴したりもして、以上のような反省も薄らぎかけていた。このあまい私をして深刻に自己批判せしめたのが、ほかならぬこれからご紹介しようとする論文なのである。
とりかかる前に、原著を貸していただいた矢島祐利先生にお礼を申し述べなければならない。原著はフランスの科学史研究専門誌(Revue d’Histoire des Sciences)昨年第一号、著者ビランボー(A. Birembaut)は17・18世紀物理学史の研究を専攻する人のようである。
細字の脚注がどっさりあって、古いフランス文が豊富に引用されている30頁の論文を、そっくり訳しては大変だし、読むかたも退屈されるだろうから、要点を摘録するにとどめる。昨夏の訳稿と関連する個所は【掲載ページ数】で示して重複はさける。

●質量単位設定の真相解明
1 ラヴォアジェはキログラム決定の実験を完了しなかったのか
 ビランボー氏は冒頭にいう。
 「メートル法成立史を扱った書物はかなりの数にのぼる。某書には四千四篇の文献が挙げられている」と。
 私共はこれでまず度肝をぬかれる。僅かばかりの参考書をひろい読みして得々と注をつけていた某訳者のごときは全く問題にならない。ところが「この種の史書の著者は一人としてメートル法質量単位設定実験の真相を解明しようとしていない」のだそうだから案外といえば案外である。
 そこでビランボー氏は次の点に着眼を置く。「ラヴォアジェは1793年アユイと協同で質量単位決定実験を終了している。そのメモはラヴォアジェ全集にも採録されている。しかるにいわゆるキログラムの値は、それに遅れること6年にして、ルフェーヴル・ヂノーとファブローニの手ではじめて確定された。なるほど、両測定の条件は多少異なる(後述)が、その点は簡単な補正計算で処理できたはずだ。またラヴォアジェであれアユイであれ、その学的識見・実験の技量は当代に卓越しており、同時代の学者が両人の得た結果に疑義を抱く(そのためやり直す)ことはありえなかったろう。何故やり直す必要があったのか。」

2 「護衛つき云々」は伝説
 ここで身近にある記事を読みかえして見よう。例のラヴォアジェが護衛つきで獄から実験室に通った云々の伝説は随所に語られて、メートル法史の聴かせどころになっているが、ビランボー氏の論文でもそんなことは一言さえ触れていないから、これが誤伝であることはほとんど疑いない。今はむしろ誤伝の出典をしらべることが問題である。本題にもどってラヴォアジェの実験についてであるが、国産某書には例の誤伝のあとに「実験終わるや処刑され・・・」とあり、私は「拘束…実験は当然中絶された」【p7】と書いた。どちらも正確でないわけである。
 ここでお断りしておきたいが、私共が参照できる本の中で最も信頼されているビグールダンの「メートル法。その成立と普及云々」という書物さえ、「ラヴォアジェの死後おそらく、彼がアユイと共に行った仕事は見失われてしまったのであろう」とか、「仕事が十分進んでいなかったのか、あるいは紛失のうき目にあったのか」といった記述しかしていないのである。ビランボー氏の着眼点は、たしかに研究に値するものであることがわかる。

3 誠意の努力に脱帽する
 原典研究のできない私共は推量を働かせたあげくに、こんな風に解釈するのが関の山である。
 「とにかく革命、投獄等々ゴタゴタした身辺の事情では、実験なんかキチンとはかどるはずはない。多分ラヴォアジェは大体のところで切り上げてしまったのだろう」 とでも。
 ビランボー氏の研究で真相を教えられて見れば、これはこの上のなく失礼な想像であった。かの乱世にあって、アカデミーの運営、教育問題その他にも、誠意を傾けて努力していたラヴォアジェの姿に、あらためて脱帽しなければならない。

●古代重量原器の実態
 「メートル法成立直前の度量衡の乱脈さを詳説することは当面のテーマではない。しかし話を重量単位、それもパリで汎用されていたものだけに限ってもなおそこに錯雑した事情があった。」とビランボー氏は本論に話を進める。
 もちろん、リーヴル、マルク、オンスなどの単位が設定されていた【p2】。
 それらの基本はマルクであった。原器もあった、すなわち15世紀に作られたピル・ド・シャルマアニュは50マルクの目方を示す原器であった。しかし、基本であるべきマルクの値は決して一義的に明確ではなく、実はキログラム決定の難渋は、ひとつにはこの事情から生まれたのである。

1 「ピル・ド・シャルマアニュ原器」
 ビランボー氏は、旧制単位の系統について、また、シャルマアニュ原器の由来や構造について、かなりの紙面を費やしているが、ここでは割愛しよう。ただシャルマアニュ原器のしくみついては述べる必要がある。
 この原器は13個の部分より成る【p3】。一番小さいのは平らな板状の分銅で目方は1グロ(=3ドニエ=72グレン)、つぎはくぼみのある分銅で目方はやはり1グロ、そしてこのくぼみのところへ一番小さい平らなグロ分銅がはまりこむようにできている。三番目はくぼみがあって目方は2グロ、このくぼみには、2番目の「くぼみつきグロ分銅」がはまる以下順次に4グロ、1オンス(=8グロ)、2オンス、4オンス、1マルク(=8オンス)、1リーヴル(=2マルク)、4マルク、8マルク、と等比級数的に進む。あとは14マルク、20マルクがある。全体で50マルク。
 容易にわかるとおり、はじめから7個とると、総計1マルクになる。7個をはめこむと平らな形になるから、これを称して「平らなマルク」または「組立てマルク」と呼んだ。第8番も1マルクであるがこれは「くぼんだマルク」と呼ばれた。

2 3つの「マルクの定義」
 こうしてマルク分銅が2個存在したが、15世紀の技術では両者が等しいと見なされていたのであろうけれども、ラヴォアジェ時代には両者の差は当然問題となる。
 ところで、マルクの定義にはもうひとつ別のものもあった。それは、ピル・ド・シャルマアニュ全量の1/50をもってマルクとするのである。これは「平均マルク」と呼ばれ、「平らなマルク」とも、「くぼんだマルク」とも実量は合致しない。
 さて、三者間の相互差が年代と共に詳しく測定されるようになったとはいいながら、基本となるべきマルクの定義に3種類があったことは、少なからぬ混乱の源となった。その致命的なものは、たやすく想像されるとおり、名称と実量の取り違えであった。ビランボー氏は混同の実例のいくつかを、権威あるべき文書の中に指摘している。

3 ビランボー氏の驚くべき発見
 引きつづいてビランボー氏の刻明な調査は、驚くべきことをわれわれに教えてくれる――ラヴォアジェとアユイとが実験に際して用いたマルク分銅の器差の数値、それは度量衡改革事業の初期に測定され公式記録に載せられたのであるが、その文面に「取り違え」が犯されていたのである。ビランボー氏の表現を写せば「これを要するに、ラヴォアジェとアユイとは、彼らの秤量をピル・ド・シャルマアニュの「くぼんだマルク」との関係において決定したと考えていたのに、実は、それよりも約1グレンだけ軽い「平らなマルク」に準拠していたのである。」

キログラム史話 ― 第二部 ―

●ラヴォアジェ実験開始までの道程
 フランス大革命時代の度量衡改革事業の主目標は、もちろん新制度のメートル法の樹立に置かれていたが、それは旧制度の一切を棄て去って独立に進行したものではなく、新制度への移行を各段階において、新旧両制の関係の明確な表現が必ずなされた。

1 新旧両制の関係の明確化
 質量単位についてはいえば、水という物質をなかだちとしてキログラムの大きさを決定することが眼目であるが、ひとたびキログラムが定まったならばキログラムが旧単位マルク(ないし同系のグレン)であらわしてどれだけにあたるかを、はっきりさせなければならぬ。
 もともと旧制度が不確実であればこそ、より確定的な新制度への移行が要請されるわけであるから新旧制度の関係を実現する際に旧制度の側の不確実に煩わされるのはいたし方がない。そこでたとえば、旧制原器が複数であって一義的でないための不確実さを処理するには、旧制諸原器から一つをえらんで、今はこの原器を旧制の代表と見なして新旧関係を示しておく、という方途がとられることになる。この場合、「どれを旧制度の代表に選ぶべきか」に慎重な配慮をおこたると、混乱がひきおこされる危険がある。
 こうした例は、わが明治度制の起源を実証的に追求した、天野清氏の研究成果の中にも見ることができる。
 
2 旧制度を見直す必要
 さて、フランスの質量単位の往古の乱脈さは、ビランボー氏の調査を通じてわれわれの前に明らかにされた。新制度へ移ろうとするにあたって、旧制度を見直しておく必要のあることは、当時の委員もよく承知していた。質量単位の改革事業の手はじめとして委員会は、旧原器ピル・ド・シャルマアニュの各分銅の検量を実施したのであった。
 はじめから質量単位設定の方面を担当していたラヴォアジェが、旧原器の実態について、どの程度の知識を蓄えていたかは、ビランボー氏の調べた範囲でも明らかでない。ただ、いわゆる「くぼんだマルク」で器差付けされた一連の分銅が、度量衡委員会の管理下におかれていたとのメモが、ラヴォアジェ全集に見出されるばかりである。

3 器差の取り違えは明らか
 しかし、フルクロワという人、またプローニという人の報告を材料として、この空白を埋めることが可能である。フルクロワは、1793年10月国民公会に対し報告をなし、新質量単位決定の進行状況、その困難を述べ、困難さの要因のひとつに旧原器の一貫性のなさを挙げている。
 一方プローニの報告も類似の内容をもつものであるが、日付が不明であって、1794年4月から翌年4月までの間とビランボー氏は認定している。問題はこのプローニ報告に掲げられた数字である。というのは、その中に示された旧原器各分銅の器差の数値を吟味し、後代の検討結果(その中で最も重要なのが後述する1797年のボルダの調査である)と比較すると、疑いもなくプローニ報告は「くぼんだマルク」の器差と「平らなマルク」の器差とを取り違えていることが結論されるのである。

4 真相を知らぬための誤り
 ここで日付に注意しなければならない。ラヴォアジェは1793年1月この実験を一応終ったのであるが、その秋には拘束され、翌年5月に世を去った。従って上に引用した二通の報告書のうち、数字の詳しいプローニ報告にラヴォアジェが眼を通していそうもない。けれども、共同実験者アユイはその後も一貫して度量衡の仕事に関与していて、これらの報告書を校閲していることは確実視される。器差の取り違えが報告者のプローニのミスであったものなら、当然アユイが訂正したはずである。
 こうした調査から、例の取り違えは実験者のミスでもなく、報告者のミスでもなく、四人とも真相を知らなかったという判断が導かれる。ビランボー氏は推測として「ふたりの実験者は、旧原器の器差決定にあたって自ら手を下さず、軽率な第三者にそれを任せたのであろう」と書いている。

5 ラヴォアジェの考え
 なお、ここで明らかにしておかねばならないのは、ラヴォアジェがともかくも「くぼんだマルク」(の現物、ただし誤った器差をもってではあったが)を旧原器の代表として採用する考えをもっていたことである。これは必ずしも当時の主流的な考えではなかった(それが別の問題を生むことが後に述べられる)。主流派は「平均マルク」を根幹と考えたのであるが、既述のとおり、平均マルクはピル・ド・シャルマアニュ全量の50分の1として間接にのみ定義された単位であるから、具体的な現示物をもたない(誘導された第二次標準器は存在したが)。ラヴォアジェはこの具象性のない単位を是認しなかったのである。

●ラヴォアジェ実験のディテール
 ここでビランボー氏の筆はメートル法創成期の概観の叙述に進むが、本稿では省略する。ただし、この部分でも私たちの知識の細部には訂正を要することを教えられる、とだけ書いておきたい。
 以下、ビランボー氏の記述しているラヴォアジェ・アユイの実験のディテールを抄録しよう。

1 「溶けつつある氷の温度」
 彼らの目標は「とけつつある氷の温度において、1立法デシメートルを占める水の質量を決定すること」にあった。デシメートルはもちろん当時難渋裡に進行中であったドランブルとメシエンの測地結果から定められるはずのメートル値の1/10である。注目すべきは、この実験が溶けつつある氷の温度つまり0℃を採用している点であってここに、後のルフェーヴル・ヂノー実験との違いの一つがある。また、ラヴォアジェ実験で定められるべき質量単位は、グラーヴ(grave)と名づけられることになっていた。キログラムの名はまだあらわれていないのである。

参考までに実験費予算を引き写しておこう。度量衡改革事業の総予算30万リーヴルのうち、質量標準の分が当初、1万2000リーヴル、のちに増額されて2万リーヴルであった。これを今の日本の金に直してどの位かよくわからないが、経済変動の激しかった当時の記録の中で、1793年ごろのものを探して見たら、パリの給料生活者の日収が2リーヴル、ただしパンが値上りして一斤8スー(スーは1/20リーヴル)もし、市民は生活に窮したとあった。予算2万リーヴルは今の数百万円というところであろうか)

2 ラヴォアジェの実験
 さて実験は、銅製の凹形円周、高さ直径ともに9ブース(25cm位)を空中及び水中で秤量する方式で行われた。円周の内容積を決めるには、フォルタン製作の比長機を用い、直径24箇所、高さ17箇所を測った。寸法測定の温度は5°R(レオミュール)であった。
 1793年1月3日、銅の円筒はマドレーヌ大通りのラヴォアジェ邸に持ち込まれ、温度6ないし7℃に保たれた大きな水槽内におかれる。そばには巨大な容器があって川の水をくみとめてある。これをろ過して使うのである。多量の蒸留水を用意する余裕はなかった(ここらに委員会の性急な催促ぶりがうかがわれる)。
 翌4日、ふたりは本実験にとりかかる。天秤はやはりフォルタン作、秤量24リーヴル(約12キログラム)で感量1グレン(約60mg)、測定はボルダの方法。水中秤量は朝1回、午後1回行われた、とラヴォアジェは簡潔なメモに書きのこしている。

3 必要なあまたの補正
 これで実験はひとまず完了するが、結果に対してはあまたの補正が必要である。まず、川の水は蒸留水よりも幾分密度が大きい。次に寸法の測定が5°Rでなされたのをアカデミーのトワズ標準尺の校正温度13°Rに関係づけるための補正。それから本実験の水温が朝は6.5℃、午後は6.2℃これを0℃にひきなおす。もちろん空気浮力に関する補正をほどこす。
 これらを経て、18845.25グレンが新単位1グラーヴにあたる旨がその場で決定された(ラヴォアジェ全集に見るとおりである)。この旧単位グレンが問題の在り処である。彼らは「くぼんだマルク」系のグレンの値と信じていたけれども実はそうではなかったわけである。
 ここで、本題とは関連がないが温度の表示のしかたがおもしろい。温度目盛もまだ統一されておらず、レオミュールのRとセシシウスのCがごっちゃに使われている。
 ビランボー氏の説によれば、アユイは古くからのR目盛を墨守し、ラヴォアジェはすでにC目盛を常用していたのだそうである。ついでながら、ビランボー氏は同じ雑誌の前号に、レオミュールの温度測定研究史を詳細に取り扱っている。

4 ラヴォアジェの意に反す
 さて、第一回の実験を終ったふたりの良心的学者が、引き続き一層慎重な実験を企図していたことは史料から証拠づけられる。なによりも蒸留水を、それも多量に、使わなければならぬ。寸法測定ももっと詳しくやりたい。本実験の温度条件を広くとって、測定を繰返す必要がある。
 また、沈める円筒ももっと大きいものでやる方がよい。等々。その証拠は、たとえば度量衡委員会がフォルタンに下命して、60リーヴルまで秤量できる大型天秤を作らせている、との記録に求めることができるのである。
 「しかるに、両人が第一次実験の結果をアカデミーの委員会に報告したとき、何が起ったか?」とビランボー氏は、これまでつまびらかにされていなかった、しかしながらキログラム成立史に逸することのできない、ひとつの事実の解明にとりかかる。
 誠にラヴォアジェの意にそむくことがここに起った。すなわち委員たちは、ラヴォアジェの(くぼんだマルク)説を排して、平均マルクを旧制質量標準の根幹と見なすとの立場を採り、両人の実験値を平均マルク系に換算して、公の記録に留めることとしたのである。

5 奇怪な事実とビランボー氏の推理
 その上更に奇怪な事実がある。公の記録に残された値18841グレンの最後の桁の数字は、由来が解釈しがたい。何故なら、ラヴォアジェ全集に伝えられている値を正当に平均マルク系に換算しても、上掲数値の最後の桁が1には決してならないのである。この点についてはビランボー氏ももはや追求するすべをもたないようである。
 「しかし」とビランボー氏はするどく推理する。「アカデミックな文書というものは、その無味乾燥さにもかかわらず、作意を含む場合においては、その内容によってよりもむしろ欠除によって、多くの真実を語る。」「目下の問題についていえばラヴォアジェとアユイとが彼らの業績を後世に伝えるはずのこの報告書に連著していない、という一事こそは、彼らの不満の意を雄弁に物語っていると見られるのだ」と。
 「彼らはこう考えたことであろうか『質量単位グラーヴが暫定的なものであるからには、われわれは今ここで、ただ一度だけ、勝をゆずったに過ぎないのだ。もちろん勝負はたやすくない。しかし決して終わってはいないのだ』と。」

キログラム史話 ― 第三部 ―

●ラヴォアジェ実験以後
 度量衡改革事業は多くの困難にさまたげられながらも前進を続けた。新質量単位のグラーヴの値を基礎づける実験がラヴォアジェとアユイの手でひとまず終わったのは1793年の初頭であったが、その実験結果により新たな単位グラーヴの原器が作られた。同年10月フルクロワは国民公会に対し、暫定メートル原器【p7】と共にグラーヴ原器を提出し、また報告をなした。
 グラーヴ原器は銅製、作者はやはりフォルタンである。しかし、ビランボー氏は脚注で「フルクロワはグラーヴ原器を公会に提出してはいないように思われる」とも書いている。暫定メートルについては私たちも多少教えられているが、このグラーヴについて知るところは極めてとぼしかった。やはり、長さ標準の方が重点で、質量標準の方が一段軽くみられていたためかも知れない。

1 フルクロワ報告の意味
 このフルクロワ報告は、前に引用したように、質量標準設定の困難さを訴える言葉を含んでいる。しかし、結局のところ、新単位グラーヴが18841グレン(平均マルク系)ということを委員の面々に納得させることになった。けだし、公衆教育委員会の名において発言しているこの報告者フルクロワの自信と権勢によるもの、とビランボー氏は評している。
 そのころすでに反革命的と見なされて身近おだやかなでなかったラヴオアジエが、弟子フルクロワのこの報告を聞き及んだときの心境は、複雑なものであったに相異ない。

2 キログラムという単位名
 年は変わって革命暦第三年芽月18日(1795年4月7日)の布告は、新計量制度メートル法の成立を具体化した【p7】。質量標準について見れば、この段階に至ってグラムないしキログラムが単位名に付与されることになる。ただし、キログラムもこの時にはまだ「溶けつつある氷の温度にての一立方デシメートルの水の質量」と定義されていたから、以前のグラーヴと実質は同じである。
 芽月18日の布告は、また新制度の普及対策をもうたっていて、共和国559地区へ配布すべき検定標準器(今日のいわゆる地方用具)の手配も、緊急の課題となった。なおフルクロワ報告のころからこの時期に至るまでには、度量衡問題所管の委員会の組織や人事に相当顕著な変遷があった。地方用具整備の段階に及んで、当事者が質量標準の件に危惧をいだきはじめたという経緯は、私によくのみこめないのであるが、ビランボー氏が脚注に書いた推測(前述)のごとくに、グラーヴ原器が実は当局に提出されていなかったのであったなら、後の担当者はどうにも拠り所がなくて困惑したであろう。

3 微妙なアユイの立場
 ここで頼りになるのはアユイ一人である。(ラヴォアジェはすでにこの世の人ではない。)
 新委員会はアユイ宛の手紙を再々出して、質量単位の仕事への参加を要請するはめになった。そればかりではない。かつてアユイが拒絶した例の公文書への署名を勧告して「事態を収拾されたい」とも書いている。
 ここに至るまでのアユイの態度についての記述は、ビランボー氏論文も明確さを欠くが、要はその筋に協力的ではなかったに違いない。前述の手紙を受けとってからもしばらくはあえて腰を上げようとしていないのである。
 担当人事は、またも異動を重ねた。その成りゆきを見ていたアユイは、翌年の春ようやく求めに応ずべき時の到来を悟った。それ以後、もろもろの真実が明るみに出された経緯は、余りにこみいっていて私にはうまく要約できない。「市民(シトワヤン)某氏よ!」と、革命期特有の呼びかけに始まる手紙が、何度もやりとりされたその経過は、ここでは省略させていただく。

4 器差取り違えの後日談
 ただ、私たちが最も深く関心を寄せる「器差の取り違え」の後日談は書きとめておく必要があろう。第5年秋(1796年)になってから、ボルダがこの問題をじっくり調べ上げた。第一に旧原器ピル・ド・シャルマアニュの検量し直し、第二に暫定新原器グラーヴの実量再測定。同様な測定は数日おくれてセーヌ地区度量衡監督官ディヨンによっても行われ、ここにはじめて総てが明らかにされたのであった。

●キログラム決定実験の再開
 質量単位の件は要路の人びとの顔ぶれの移りかわりに伴って、微妙な動きをみせつつ完成に近づいていった。
 ドランブルたちの遠征測量も終わり間近かな1796年、アユイの推挙によってその弟子のルフェーヴル・ヂノーが登場し、ここにキログラム決定実験は再開される。助手役をファブローニが務めたことは公知のとおりである【p7】。
 再実験の内容はラヴォアジェのそれと大差はないが、より一層丁寧に遂行されたのはいうまでもない。たとえば、円筒の寸法測定やそのための標準尺目盛の割り出しのごときは、前回よりはるかに綿密になされた。

1 キログラム定義の決定
 実験温度も、いろいろ変えられた。そして、この実験の進行とともに、水の温度との関係が明らかにされ、密度が4℃にて最大になることが知れた。「溶けつつある氷の温度にて云々」の定義をやめて、「最大密度の水云々」の定義に移行することに決定したのは、まさしくこの知識が得られた時においてであった。
 こうして新定義の1キログラムは18827.15グレン(ただし平均マルク系)が最終的に決定された【p7】。
 ここにキログラムは確定し、1799年に白金製新原器は成った。第7年(1799年6月22日)、学者たちは長さの新原器とともにこれを政府に呈出した【詳しくはp8参照】。この原器こそがキログラム・デ・ザルシーブとして、われわれに教えられるものに他ならない。

2 ビランボー氏論文の結びの言葉
 「これでキログラム史の表通りはめでたしと終わりになるが、めでたいなどとはいいたくもなかったと察せられる人物もいた」とビランボー氏はスポットライトをあてて見せてくれる。それはかつて度量衡委員会の光栄ある幹事をも務めたアユイその人である。
 「議事録によれば」とビランボー氏はお手のものの古文書さがしを披露してくれる。「このメシドール4日の原器呈出の盛儀にアユイは参列していない。病気か?あるいは主著「鉱物学概論」の箸述に忙殺されていたのか?いずれもあたっていまい。何故なら、この盛儀をはさむ二回の学士院会(メシドール1日と8日)には、いつものとおり律義に出席しているのだから。」
 「して見れば原器呈出の日に参列をあえて辞したアユイの胸の奥には、過ぎし1793年1月、ラヴォアジェとの実験を報告した折の委員諸公の非礼なやり口に対する、最後の抗議がひそめられていたのではあるまいか」。これがビランボー氏の長い論文の結びの言葉である。

●この研究から何を学ぶべきか
 ビランボー氏は、生の史料を丹念にしらべて、事実の脈絡をたどり、関連をつけ、一部に氏の推論を加味してこの論文を書いたまでであって、格別そこに教訓的意味付けはしていない。
 しかし私は、すぐれた歴史研究は必ず現代に対し教訓をもたらすものと考えている。何を学ぶかは読む人さまざまであってよいわけだが、以下、私の感想を述べてご批判を仰ぎたい。

1 キログラム難産の二要因
 ビランボー氏が着眼したキログラム難産の要因は、結局ラヴォアジェ実験における器差の取り違えと、委員たちの不当な処置とにその核心がある。
 前者は、物理実験で、誤差とは呼ばず、過失と称せられるものであって、この点は実験屋の一人である私自身、身にしみて反省させられる。補正値と器差との符号の書き違えから大変なことになる例など、私も経験しているのだから。
 第二の、委員会の処置の件は、今日ありうべからざる話のようだが、学問の範囲が膨大になり、専門が細分化した現代には、別の意味で類似の結末が招かれるおそれもありそうに思う。畑違いだから、と黙ってしまう委員の前にワンマンショーが展開されるだけの委員会とか、隣の畑の大家の一言で大勢が決まってしまう委員会とかに、その危険のにおいがつきまとう。

2 不合理の背後にあるもの
 前述の二点の直接的教訓を学ぶだけでは、まだ読みが浅いであろう。問題は何故このような不合理が生まれたかである。そこまでさかのぼるには、ビランボー氏の研究もおおむね推測の範囲を出ていない。たとえばアカデミーの性急な催促、委員会の派閥、政治家と学者との対立など、これを当節の米国ロケット研究に結びつけては失笑を買うかも知れないが、広義に研究政策研究管理の一例と見て、そこに学ぶべき点を読むのも現代の課題ではあるまいか。
 更には予算のこと(額の多少もさることながら、予算使用手続きの煩雑は、会計担当のラヴォアジェを大いに悩ませたともある)、学者の自己負担(ラヴォアジェが実験室付きの邸を持ちえたこと、徴税請負収入のこと、この三大噺めいた連関に注目の要がある)等々、また一般論を離れて、度量衡、計量標準、実験精度の歩みぶりなどにも、私はあれこれ意味を考えて見たのであるが、私のひろげた大風呂敷が、原著の価値をけがしては台なしなので、これでやめる。

3 歴史はきれいごとでない
 特筆したいのは、メートル法史は決してきれいごとの連鎖ではないとの一事である。そして、きれいならざる曲折の中からこの大業は成ったという事も。この教訓が、現代わが国のメートル法運動への推進力を、僅かでも強めうるならば、紹介者の狙いは完うされるのである。

キログラム史話 ― 第四部 ―

●エピソード紹介
 ビランボー氏の刻明な歴史研究を摘録するにあたって、私は重苦しい話ばかりを前面に出し過ぎたかも知れない。以下の紙面は、同論文に織り込まれたかずかずのエピソードの紹介にあてて、いささかなりとも寛ごう。

1 ラヴォアジェの伝記
 この大学者の伝記について、私には旧稿で知った風のことを書いた【p8】が、ビランボー氏は最良の伝記文献として、やはりグリモーの著作を挙げている(もちろん、それの補いとすべき他の多数の文献と共に)。
 グリモーの本の邦訳(最近その新版も出た)は完訳ではない。何度もむし返して恐縮であるが、獄から実験に出かけたとの話は、このグリモーの本(邦訳)にももちろん出ていない。強いて似かよった話を探せば、差し押さで封をされた彼の邸から度量衡関係の物品を引き出すことになった際、二人の兵に守られてラヴォアジェは獄から邸に出向き、立ち合ったとある。

2 アユイという人
 鉱物学・結晶学の大家。ダンネマンの本の邦訳第六巻に略伝がある。この人もまた政変の波にもまれて苦労の多い一生を過した。1790年憲法に忠誠を誓うことを拒んで以来にらまれていたのだそうであるが、その事情にもかかわらずラヴォアジェ釈放に力をつくした。

3 フルクロワという人
 ラヴォアジェの弟子。化学の方では師の説の普及に貢献したが、人間としての評判はろくでもないことばかり伝えられている。野心家、時世におもねる輩、臆病ものといった具合である。
 現にラヴォアジェ釈放のために何らなすところはなく、かえって氏の邸の家宅捜索の立会人を務めたりしている。それがラヴォアジェの葬儀には師を讃える言葉を述べているのだから、その人格はおして知るべきというのみである。

4 ピル・ド・シャルマアニュのこと
 この古代原器はなかなか手のこんだもので、一個の美術品と称するにふさわしいようである。
 けものの頭をかたどって云々と、ビランボー氏論文の記載は大変詳しいが、絵がないからわかりにくい。全体の写真はモロー氏の記事にもあったが、ディテールは見えない。
 なおこの項の注で「ピルの起源に関する研究」というのが引用されているが、ヌミスマチック学会報とある。字引きで調べたら「ヌミスマチック(英:numismatics)」とは古銭学、貨幣学、歴史研究法の一部門だそうである。

5 十進法計量の起こり
 これは古いもので、ルネサンス期、東欧における商業の興隆に関連ありという。学問上の文献では1585年、オランダの数学者ステフィン(力学研究家としても有名)の本が最初。そのあとイギリスの哲学者ジョン・ロックの人間悟性論、フランスの百科全書(アンシクロペディ)にダランベールが書いたデシマルという項目など。

6 ラヴオアジエの分銅
 ピル・ド・シャルマアニュに見たような二進法(それも不徹底な)が、当時の分銅の定石であったが、ラヴォアジェは、1,2,3,5、10、20、30、50、・・・というシリーズ(現今のものに通ずるところがある)の分銅を作らせ、十進系分銅群の口火を切った。その現物は、最小の一個を欠くが、コンセルヴァトワールに保管されている

7 当時の検定業務
 1688年の布告にいわく「検定業務は、毎水曜・土曜とし、冬は朝8時より、夏は7時より、造幣局にて行わる。無料--賄賂無用(!)」【!は高田】

8 学者と政治家
 メートル制定事業は華々しく開幕したものの、メシエンたちの測地は容易に片づきそうにない。こうした情勢の1792年11月ボルダは国民公会に進捗状況報告をするに当って、学者らしい用心深さを以て登壇し、代議士たちが例の代案のことを思い出さないように気を配った。例の代案とは1730年代の測定【p3】データを採用してしまえばメートルは一挙に決まるというものである。
 このてっとり早い打開策を代議士が思い出したら大変だ、との配慮であったわけだが、ボルダの作戦もむなしく、公会の議員たちは代案、すなわち暫定メートル案【p7】を通過させてしまった。ビランボー氏はここで「学者よりも実際的であり、より優れた見通しを持っていた公会議員は・・・」という言葉を使っている。

9 ラヴォアジェ実験の精度
 ラヴォアジェ・アユイ実験を現代の眼で見直して、その精度を評価して見よう。
 まずもちろん例のマルクの器差の取り違えを正す(ボルダのデータによる)。次に温度補正をほどこす(彼らの実験温度は6.2-6.5℃、これを4℃になおす。膨張のデ-タには1900年ドイツPTRの値を使う)。最後に彼らが使った尺度(いわゆる暫定メートル=1.000324メートル)との真のメートルとの関係につき修正する。
 これだけの計算を経て、ラヴォアジェのデータから「4℃にて一立方デシメートルを占める水の質量」を求めると、平均マルク系で18825.71グレンとなる。ルフェーヴル・ヂノーの値の差は1.44グレンすなわち約76mgである。相対器差100万分の76。

・ 有名な誤差100万分の28
 ところでルフェーヴル・ヂノーのデータから製作されたキログラム・デ・ザルシ-ブに28mgの誤差が導入されてしまったことはよく知られている。それが当今まで尾を引いて、1リットル=1.000028立法デシメートルという面倒なことになっているわけである。この相対誤差が100万分の28。この100万分の28がルフェーヴル・ヂノーの実験誤差か、原器作製者の側の誤差かは判別できないけれども、とにかく当時の最高精度はこの程度だったのである。ラヴォアジェがせかされながらやった第一回(にして遂に最後の)実験の誤差100万分の76は決して見劣りするものではない。その模範に従ってこそ、後継者は100万分の28まで漕ぎ着けたのである。

・ ラヴォアジェ氏を記念する数字は76
 どうせ原器製作の段で誤差が入り、百数十年後にも体積単位の二本立てを許すのであれば、ラヴォアジェのデータを取り入れたってよかったのではないか、そのため、例えば1リットル=1.000076立法デシメートルとなったとしても誰も文句は言えないはずだし、「この76という半端は、あの大化学者ラヴォアジェを記念する数字である」、とでもパンフレットに書けばおつなものだ、これはビランボー氏の説ではなく、高田の私見である。

10 ラヴオアジエの綿密さ
 ラヴオアジエの実験の綿密さ、特に補正ということについての細心さは、同代に傑出したものであるとビランボー氏は強調して止まない。
 その点についての捜話二題をビランボー氏の論文から借りて、この手際の悪い抄録記事にせめてもの締め括りをつけることにする。
 ラヴォアジェ・アユイ実験の精度は前項に書いたように、悪く見積っても1万分の1のオーダーである。ところが彼らの実験速報を聞いた委員連中(いずれもおなじみの大家、ボルダ、ラプラス、ラグランジュ)は、この結果の精度を1200分の1と評定したのだそうである。というのが体積測定精度1500分の1、秤量精度を6000分の1と見て総合精度をしかじかと計算したらしい。
  どうもラヴォアジェ実験に関する限り(限らないかもしれない!)、委員諸公はくだらないことばかりしているように思える。

・ 一つの逸話――お笑い草
 つぎは時代が降っておよそ20年後、1811年に新たに作った白金製分銅とキログラム・デ・ザルシフとの比較がなされた時の逸話(というよりお笑い草)。
 この測定には数学のルジャンドル、天文台長マシウ、理学機器製作技師フォルタン、その他今日では名前が有名でないが専門家大勢が参与している。天秤両面に載った品物は、一方が銅、他方が白金、寸法も同一でない。
 さて、フォルタン作、感量2mgより小という天秤で、測定は完了した。例によって「議事録は」とビランボー氏は教えてくれる。「議事録は単に、ふたつの物体は天秤上で同一の目方を示したとのみ書きつけてあるだけで空気浮力の等しからざることは誰ひとりとして意に介しなかった」と。
 実はここにほどこすべき補正は4mgに及んだのだそうである。

・ 補、数の神秘を愛するセンス
 ラヴォアジェにとって心外であったデータ処理の結果、18841グレンの数値が強引に公表されたことは前にも述べた。この数字の根拠は不明朗そのものなのであるが、ビランボー氏はなかなかの推理家で、「思うに委員たちは18841なる数が素数であるように見えるので気に入ったとも解しうる。だが本当はしからず、83かける227である」と注記している。
 素数だからおもしろい、ということで実験結果をいじくるとはまた非常識な話だ。しかも本当の素数ではないのだし、私共は考えるけれども、数にまつわる神秘性(ピタゴラス的?)への関心は思いのほかに根強かったのであろうか。ファレンハイト(華氏)温度目盛が氷点に32、体温に96の値を与えたのも、これらの(私共には全く半端で面倒な)数に特別な共感を抱いたらしいとの解釈も思い合わされるのである。

●後記
 終わるに当たって、私個人の興味に偏した題材に多くの紙面を費やしすぎたのではないかとおそれている。こんなものでも載せて下さる本誌をありがたく思うものである。
 せめて私自身のオリジナルな労作でもあればとくやしいが、私には、矢島先生にお約束した(先生がお決めになったのではない)原著貸出期限内に連夜深更まで頑張ったあげく、やっとこれだけの粗雑な引き写し記事を書き上げるのが精一杯である。この小文にしてからが、徹夜をして(なんとか形に仕上げたわけ:一行脱落分を推定して追加)であるけれども、明日実験室でパイロメータをのぞく眼光を鈍らせることだけはしたくない。
 ひとこと個人的事情を書きそえて、引き写しの、きめの粗いことの仕事への後記とする。

【完】

参考6 不滅のメートル法 アルベール・ペラール

不滅のメートル法
La P?rennit? du Syst?me Metrique
アルベール・ペラール(Albert P?rard)
高田誠二訳

訳者まえがき

 この稿は、フランス度量衡誌(Revue de M?trologie 1955年10月, P.539-544)から訳出したもので、原題は”La P?rennit? du Syst?me Metrique” 1956年10月25日、連合学会におけるアルベール・ペラール氏の講演である。
 原著者Albert P?rard 氏は1880年の生れ、1936-1951年国際度量局長、現在フランス学士院(l’Academie des Sciences)会員、計量関係の世界的権威であることは、最近の度量衡総会(1954年)で同氏が議長をつとめたことからも明らかである(*印は訳者補註)。

メートル法の生命 -衰え知らぬ若々しさ
 皆さん・・・。 メートル法が世に行われるようになってからすでに一世紀半を経た今日(*1956年)、あらためてメートル法のお話しようというのは少々勇気のいる仕事です。
 詳しく申しますと、私が皆さんにお話しをしようとしているのは、フランス風の気質(エスプリ)・デカルト流の精神によって生み出されたこの大事業が、すべての時代を通じて、工学上・実際上の求めに応じて満足を与えてきたというのは、一つには、メートル法が幾年月を経ても衰えを知らぬ若々しさにより生気を吹きこまれてきたからであり、また一つには、メートル法が各時代の科学の最前線の要請に遅れをとらぬよう、絶えず努力してきたからなのだということです。
 当代に生をうけ、終始メートル法の中に育ってきた私たちにとりましては、メートル法の思慮などはおそらく少しも感じないでしょう。この制度を次第々々にとり入れてきた諸国(実はフランス自体その例にもれない事情にあったのですが)、収拾がつきかねるほどの雑然とした計量単位制度が巾をきかせていた諸国においては、メートル法こそが、はじめて秩序をもたらしたものであったのです。
 タレーラン(Talleyrand)の言葉を借りますと、それ以前の有様は、まず「数えきれないほどの多種多様な度量衡が存在した」のであり、また一層不都合なことに「同じ名前で呼ばれていながらその実体はまちまちであった」のでした。
 つまり、ひとつの地方と他の地方とで同じ単位名がある、ところがその単位名があらわす量の実体は、それぞれの地方ごとに全く縁もゆかりもないものであった、というような事実を指しているのです。
 ところで現在さえ、メートル法の全面的実施に至っていないどこかの国では、これと似た不都合な事実が多々見受けられるのでありまして、その実例を探すのはさして骨の折れる仕事ではありません。

当初のメートル法 -不見識な法令も出た
 さて、1793年8月1日の法律の趣旨を具現した革命暦3年芽月18日(*西暦1795年4月7日)の法律が、メートル法の生みの親となったわけですが、当初のメートル法は、メートルすなわち長さの単位一個だけを基にして組み立てられたものでありました。
 そして、誘導単位として、面積および体積の二つの幾何学量の単位と、水の密度を仲立ちにして体積との関係から定めた質量の単位を含むにすぎなかったのです。
 この新しい計量制度が日常慣行にひろく行きわたるまでには、幾多の曲折を経なければなりませんでした。当時の世論で最も強く非難されたのは、用語の問題であったようです。その証拠に、1812年2~3月には、この非難に一歩ゆずった不見識な法令布告が行われました。その布告は、「メートル法単位の整数倍量で古い単位になるべくよく合致する値になるものを選び出し、それを呼ぶに古い単位名をもってする」とのシステムを公認したものでした。
 こうして、名前は一つで実体は二本立てという逆コース的事態がまたしても引き起こされてしまったのでした。

メートル法の再建 -レジスタンスと闘う
 降って、1837年7月4日の法律が完璧な形のメートル法を再建しました。
 しかし、学校でメートル法を教えたからといって、日常生活にはなかなか入りこんで行きません。反対にこの制度に抗するレジスタンス運動が相当激しく繰り広げられたものでした。
 各地に騒動が起こりました(中には一揆と称すべきほどの事件もありました)。たとえば、クラムシ(Clamcy)という郡であった話ですが、新しい(*メートル系目盛の)ものさしを配布するため、郡長みずから市場に出向いたところ、護衛兵50人では全然手薄で、退却を余儀なくされ、ものさしはたたきこわされるという始末、そこでやむなく県知事の命令一下、ジョワニー(Joigny)
から軽騎兵一隊、ムーラン(Moulins)から武装騎兵四箇中隊を動員してからくも鎮圧したといことです。
 もちろん抗議(レジスタンス)がことごとくこのような惨事をまきおこしたわけではなく、その気持ちを流行歌に織り込むといった手も使われました。そんな歌には大衆の心に通う不満の情がたくみに表現されています。例えば・・・
「青物市場に 本物の 魔法使いが いればよし さもなきゃ 大学・試験所で 売子の教育 やっとくれ」
 一方、漫画家たちは文筆戦線に身を投じて活躍しました。シャリヴァリ(Charivari:*1832年創刊の諷刺雑誌、誌名は“ドンチャン騒ぎ”というほどの意味)という名の雑誌には、ドーミエ(*Honor? Daumier: 1808~1879、フランスの画家・漫画家)が描く所の漫画が掲載されましたが、そこにはふたりのおかみさんの困り切ったさまが写されています。ひとりは布地を買っているのですが、店員はこんなわけのわからぬことを言いながら布地を測っています。「1メートル、2メートル・・・サーモメートル、バロメートル」。もうひとりは、バター4オンスおくれといっているのに、店員は「1グラム、2グラム・・・フィリグラム、プログラム」とか数えながら渡してくれるというのです。

為政者は毅然と -現当局の範となる
 しかしながら時の政府は、騒動にも苦情にもめけず、頑として動きませんでした。
 今日私たちがメートル法の恩恵を受けているのも当時の為政者の毅然たる態度に負う所があるわけで、この史実からは現今の関係当局の範とすべきものが読み取れます。なぜかと申せば、古い単位制度を相変わらず使っている頑固者、あるいは近年目に余るほどの異端者に対しては当節、騎兵隊を出動させるまでもなく厳に取締まることができるはずなのに、今の当局はそれさえ本腰を入れてやろうとしないではありませんか。
 私ぐらいの年配の者は、若い頃にはリユー(lieue:*メートル法実施前のフランスの長さの単位、約4.45km)とか、リーニュ(ligne: *同上、約2.3m)とかスー(sou:*フランスの古い貨幣単位、1フランの20分の1)とかの言葉を聞いたものでしたが、リユーはカタログから消され、スーも姿をひそめました。
 しかし、リーヴル(livre:*古い質量単位、フランス系のポンド、489.5gにあたる)という言葉は、計量監督官の目の届かない所では今(*1956年当時)でも秘かに使われています。
 また、馬力(cheval vap?ur:*工率単位、わが国の計量法では仏馬力=735.5kwとし、昭和33年までは法定計量単位と認めることになっている)という単位は、40年も前の(*1919年)暫定法規に根拠があるに過ぎないのですが、それが街中で今もって盛んに使われているとは一体どうしたことなのでしょう。

六個の基本単位確立へ
 今日私たちは、三個の力学的基本量『長さ・質量・時間』を基本単位とし、それぞれにセンチメートル・グラム・秒をあてはめたメートル系単位、すなわち「C・G・S単位系」というものを知っておりますが、これは1862年に英国の科学振興協会(the British Association for the Advancement of Science)の創設したものであり、また、主としてケルヴィン卿(Lord Kelvin)の発案にかかるものであります。C・G・S単位系には静電・電気・実用の各系統の電磁気学単位を含めることもできます。

電気の単位に問題 -絶対単位と標準器
 ところで、電気の絶対単位を精密に実現するのはなかなか困難でありますから、諸単位にできる限りよく一致するようにこしらえた標準器の方をおおもとの原器とする考え方が強くなって来て、やがてこの後者の方を公認の単位とするようになり、1881年にはそれが「法定」単位に定められ、また1889年シカゴで開かれた会議では、それを「国際」単位と呼ぶことになりました。この時代になると、標準器は昔よりもずっとよく絶対単位に合うものになってきています。
 その後、1904年にサン・ルイで開かれた電気学者会議で二つの委員会が編成され、そのうち一方が電気の単位と標準器との研究に従事すべきことが協定されましたが、この委員会がのちに1927年創立の電気諮問委員会(*国際度量衡委員会の)に引き継がれたわけです。そして、諮問委員会は初会合の時からすでに、なるべく早く絶対単位の定義に復帰しようとの意向を表明してきまして、そのうちに絶対単位も国際単位とほぼ同等の精度で実現されるようになり、その食い違いが約0.05%であることもわかってきたのです。
かくして、1939年には絶対単位復帰の旨の決議がなされましたが、この決議が実際上の効力を持つようになったのはかなり遅れて、今次大戦後の1948年でありました。

商工業用計量制度 -ついに日の目を見ず
 ところで、フランスには1919年に立案された商工業用の一般的計量制度がありまして、これは長さ・質量・時間の基本単位に、それぞれメートル・トン・秒をあてはめたもの、すなわち「M・T・S単位系」であります。この単位系はなかなかよい組立てになっているのですが、更にこの三個の力学量単位以外に電磁気学単位二個と測光学単位一個とをつけ加えた形の単位系が1913年の度量衡総会に提案され、全員一致で承認されているのです。
しかし、残念なことにこの単位系は、それに値するはずの公のバックも得られず、国内に指令もされず、国外にも宣伝されずという冷遇を受けたため、外国にはもちろん流布しないし、フランス国内でさえ今日では(*M・T・S系単位であった)ステーヌ(Sth?ne:*1 tの質量の物体に1 m/s2 の加速度をあたえたる力=103 Newton=108 dyne)とかピエーズ(Pi?ze:*1・につき1Stheneの圧力1=10-2 bar=10 millibar)とかの呼び名を知る人は稀であります。

「MKSA単位系」 -六個の基本単位へ
 一方、1901年このかた、イタリアのジョルジ教授(*Giovanni Giorgi )は、力学の慣用基本単位三個のほかに、第四の基本単位として電磁気学量一個をくわえるならば「静電」単位と「電磁」単位との二本立てが解消するとの意見を発表してまいりました。そしてその中でも、メートル・キログラム・秒およびアンペアをとる「M・K・S・A単位系」は次第に諸国の物理学者の支持を得つつあります。
 また、1948年に国際度量衡委員会が公式のアンケートを行って、ひろく推奨すべき単位系につき、各国の意見を徴した際に討論資料として送付した文書(実はこれはフランスの案を骨子としたものでしたが)では、六個の基本単位『メートル・キログラム・秒・アンペア・温度の度・新燭(のちにカンデラと命名)』をとるとの案が示されていました。
そして、1954年、すなわち最近の度量衡総会は、このアンケートの結果がフランス案に示された六個の基本単位のシステムを可とするに足りる確答をあたえたと認めております。

六基本単位制確立 -動かぬメートル系
 フランスは、度量衡総会の決議に従って旧法の(1919年)を1948年に改正し、「国際」電気単位から「絶対」電気単位に移行することとしましたが、この措置は前にお話しした文書、つまりアンケートの基礎としたフランス案を法律文の形に書き改め、かつ国際協定にも合致するよう修正したということにほかならないわけです。
 降って1954年来、このフランス計量法はふたたび爼上にのせられ、立法関係者の意向では、法をすっかり編みなおし、また、あとでお話しするような、最近の違反の傾向を取り締るのに効果あらしめるべく修正するよう、議長に求めることになる由です。
 このような経緯を経て、メートル法は、現今(*1956年当時)では六個の基本単位で構成されておりますが、国際的な計量単位系がいつもメートル系のものであつたという点だけは少しも変わっていません。そしてメートル法の大きな長所である特徴、すなわち10進法の数え方に結びついているという点に話を進めることにしましょう。

十進法の問題点 -十二進法の存在意味
 ごく最近、権威ある方面から十進法批判が唱えられ、数え方も計量制度も共に十進法よりむしろ十二進法に基づくべきだと主張されているようですが、これを不当な議論と決めつけることはできません。私自身さえ、個人としては、十二進法の数え方およびそれにむすびついた計量制度に関しては、それが子供達の頭脳に今まで以上の混乱と負担とを課することになるのは承知の上で、なお魅力を感ずるに違いないと自認するものです。
 十進法という現行の数え方は、私達の指が十本あることから由来しているのだという説は、本質に触れるものではありません。学校の生徒でも頭の働く連中であれば、指で10まで数えてしまったあと、12になるまであとふたつの動作を見つけだすことなどわけなくやり遂げるでしょう。これに加えて、10は(*2と5の)二つの約数しかもたないが、12には(*2、3、4、6の)四個の約数をもっているという点が、大きな意味をもつ長所としてあげられます。
 しかし! 9より大きい数をあらいざらい拾い出して、尨大な対照表と読み合わせながら、十二進法に換算する作業を、それもミスが皆無とは言い切れないことを覚悟の上で、やってのけることが果たして許されるでしょうか。いうならば十進法の数え方およびものを十個ひとからげで片づける心理作用というものは、国際会議をひらいたり、約束をしたりといった手数を用いないでも、全世界にあまねく認められているひとつの原則(極めて稀に見る大原則)なのであります。この問題について私達は、あらかじめ取り決められた協定があってはじめて流布されるような派閥の結成をあえてしようとは致しません。革進派学者の夢想にそむいて、私達が十進法の数え方およびそれに歩調を合わせた計量制度を護持して行くであろうことは以上の論拠からだけでも明白に確信せられるのであります。

非十進法の二分野 -時間と角度の問題
 ところがこれほど明確な論拠があり、また先人たちが努力して来たにもかかわらず、十進法に強調しない分野が二つあり、しかも互いに関連をもっていることが知られています。申すまでもなく、それは時間と角度とでありまして、十進法は時間の分野では全然用いられず、また角度の分野では部分的にしか用いられていません。
 1793年5月、フランス学士院(l’ Academie des Sciences)は、国民議会に報告書を呈し、時間・角度ともに十進法分割にしようとの案を提示したことがありました。その案は、真夜中から真夜中に至る一日10時間に、1時間を100分に、1分を100秒に分割する仕組みのもので、こうして決まる1秒は、私達の60進法の1秒の6/7ほどになります。この分割方式が革命暦第3年霜月4日(*1795年11月24日)の法律で公示されることにまでなったのでしたがこの変更から生じる日常生活の不便の度は、他の単位の変更の影響に比べれば実に大きいものでした。
 そこで、ムーニエ(Mounier)男爵は、1837年6月16日、その立場を利用して貴族院につぎのような文書を呈出しました。
 「吾人12分割の時計を見て会議開催時刻を正確に知ることを得べかりしなり。しかるに吾人会議に臨むにあたり刻に違うこと甚だしかりしは論をまたず。爾今十分割時計のひろく流布さるべき将来に及び、吾人の時刻を守ること果して厳正ならんと信ぜらるるや。」
 ほどなくして時計文字盤を十分割することを規定した法律は廃止されてしまったのです。

唯一の共通単位 -時間の60進法
 そして、一日を24時間に分割することに復帰しますと、天文学者達は一円周を360度にとるようになりましたが、測地学者たちは、直角を100等分したクラードという単位およびその再分割という系統にも大きな便宜があって捨てがたいものと思ったのです。それで最近のフランス製のすぐれた地図では、経緯度を示すのに(*六十進法の)度(degre)と(*十進法の)グラード(grad ?)とを併用した方眼のます目を使っているのです。
 おことわりするまでもなく、今日、時間も角度も十進法に変えようと希望したり期待したりする人はありません。政府とて同じことです。1793年当時の政府がこのやり方を皆に馴染ませることに成功しなかったのもむべなるかなと申せます。現代の工学の全部門および時間量と関係ある科学の諸部門は、総じて60進法の秒に基礎を置いています。しかもこの秒なる単位は、C・G・S系にもM・T・S系にも(*M・K・Sの)国際単位系にも、ことごとく共通して含まれている唯一の基礎単位なのであります。

原器の構成変遷のあと
 さて、単位の定義ということを詮索してみますと、この定義を具現する原器の構成の仕方がさまざまの変遷をとげてきたことが証拠づけられて、はなはだ興味深いものがあります。

まず天然原器 -困難な正確さの確保
 その変遷の第一歩をなしたドランブル(Delambre)とメシエン(M?chain)の測量、およびルフェーヴル・ヂノー(Lefevre-Gineau)とファブローニ(Fabbroni)の実験で求めたのは、申すまでもなく「天然にあたえられた原器」であったわけで、メートルは地球子午線の長さから、またキログラムは水の一定体積の質量から導かれたものでした。
 けれども、天然の原器を拠り所にするためには、長期にわたる骨の折れる作業が必ず伴わねばなりません、しかも、その正確さに絶対の保証があるとはなかなか云い切れません。
 従って、1870年から1875年の間に、メートル・デ・ザルシーヴおよびキログラム・デ・ザルシーヴ(*上述の測量と実験との結果作られた純白金製のメートルおおびキログラム原器、フランス共和国古文書保管所に保管)以上の精度をそなえた原器を作ることが問題になった時には、一番はじめ定義の(*地球子午線の長さと一定の体積の水の質量)に遡ってすべてをやりなおそうと考えた人はありません。誰しもメートル・デ・ザルシーヴおよびキログラム・デ・ザルシーヴの写し(コピー)をつくって利用する方がよいと考えたわけです。

正確な原器の完成 -大きな苦心と努力
 (単にコピーをつくるとはいっても)こうした新しい原器を作る作業が、どれほどの慎重さで、またどれほどの物々しさで行われたかは、詳しく話が伝わっています。
 当時フランス共和国の大統領であったチエール(L.A.Thiers)と次代のマレシャル・ド・マクホン(Marechal de Macmahon)とは、みずから多くの大臣とともに、原器用の白金イリジウム合金の最初と第二回の鋳造に立ち合ったものでした(1873年*5月6日と1874年*5月1日)。この合金に所定量以上の不純物が含まれていた(*メートル委員会は不純物2%以下と決議していたが、この鋳物は不純物2.5%程度であったため委員会の承認するところとならず、のちに英国のジヨンソン・マッセイ社(Johnson Matthey)で満足すべき合金をつくって今日の原器材料とした。)というのも、もしかするとこのような高位顕官居並ぶ中で現場の技師・職人たちがあがってしまって、坩堝にひびを入らせたからかどうか、それは余談です。

人工原器」時代 -時間は水晶時代に
 白金イリジウム製の原器が用いられた時代は、「天然」原器の時代に続く「人工」原器の時代と呼んでよいでしょう。「時間」の量についていうならば、ピエゾ電気による水晶振動子の周波数を利用した時代がこれにあたるものでありまして、水晶時代によって逆に、それまでの「天然」原器であった地球回転が、実は不規則なのだということが立証されたのです。
 電気単位についていえば、特定の水銀柱の抵抗値をもって「法定」オームあるいはその次の「国際」オームを定めたのがこの段階と見られます。測光量でも、一群の測光標準電球が「人工」原器の役を果たした時代があるわけです。

再び“天然の原器”へ
 現代は、すべての基本単位について新時代が展開されようとしている時機、あるいは一つの測期的な時機にあるということができます。「ふたたび天然の原器を考えようとしているのだ」と申しましても、この名前は別な、もっと深い内容をもった意味に拡張して使う必要があります。科学の進歩に伴って明らかになってきたことですが、巨視的自然現象から拾いあげた量は、たとえそれが単純な組成の物質に関するものであっても、絶対の不変性を保証しうるものではないのです。

不変の原器を指向 -光の波長、その他
 地球の大きさは変わりつつあります。地球の回転は遅くなって行く傾向をもっています。白金イリジウム合金は、おそらく他のいかなる物質に比べても安定した性質をもつ優秀な合金でありましょうが、それとても第一近似として(つまり我々の観測手段がもつ限りの精度の範囲でのみ)安定であるというに過ぎません。光度標準電球が永年使用とともにその光度を変えて行く事実はよく知られていますし、ガラス管に入れた水銀柱の電気抵抗の値は、ガラスのエイジングと無関係ではありません。
 こうして、自然界にあるがままの形で利用された原器にかわるものとして、物質それ自身に内存する性質、あるいは確たる物理常数に着目するようになったのです。
 長さに対しては、原子核種(nuclide)すなわち同位元素的に分離された元素の発する光の波長がその一例です。時間に対しては特定の物質の振動周波数を利用するいわゆる「原子時計」がそれにあたります。
 測光学ではかなり前からすでに完全輻射体の性質が利用されています。電気では、電流により生じる力を直接利用するわけです。最後に質量ですが、残念ながら現代の科学では静止素粒子の質量をもって十分精密な質量原器を定めることは成功に至っていないのであります。
 
メートル法のみ不滅か -単位統一の終着点
 ひるがえって、工学、科学の諸分野でなし遂げられた進歩と変遷とに思いを馳せ、また我々の思想を根底からくつがえすほどであった革命的事態に思い至るとき、ひとりメ-トル法のみが、創始以来かくも歳月を経た今日、なお不滅の生命をもっと信じていてよいでありましょうか?
 単位系の統一という面で、この質問に答えるならば、メートル法より以上にすぐれたものはもはや求められず、またそれより以上に現代的なものをつくることは考えられもしないと断言できます。そしてここで、アンリ・ポワンカレ(Henri Poincare)の適切な推賞の言葉の中に、メートル法の大きな足がかりをとらえなければなりません-「何処でとどまるべきか?-科学が⇒単純性を見出したときにとどまるべきである」。わがメートル法より以上に単純な構成をそなえたものが他に見出されるでしょうか。

 以上私達は、メートル法がその初頭の定義を墨守する保守的なものでは決してなく、反対にいつの世にも科学の進歩のアヴァンギャルド(前衛隊)をつとめてきた経歴をつぶさに見てきました。ただしここであえて付け加えておきますが、これまでお話してきた絶えざる進歩も、またそれが休みなく利用されてきたのも、ただ単に単位を現示する原器についていわれるだけの話でありまして、単位についての話ではないという点です。「単位そのものの絶対不変性」という命題は、今日なお得心のゆかぬ計測学者たちの野心の対象なのだ、という事実を闇に葬るべきではありません。

つきまとう「不安」 -誤った譲歩と礼儀
 単純性・相関性・調和性・順応性など、メートルには比類のない特徴をそなえているのですが、それにもかかわらず、そこに何か不満(というか、むしろ不安)がつきまとっていることをフランス国内にさえ認めざるをえないようです。もちろんメートル法を棄て去ることはできないと誰もが考えていますが、同時にメートル法に対し、不貞の罪を犯す人もないではないのです。
 フランス語を使った方がずっとハッキリする云い廻しがあるような場合に、わざわざ外国語を使って見ようとする人とか、国際会議の席で意見を述べるのに正確な母国語で発言するのはどうも芸がないというのか、折角のニュアンスを台無しにして、しかも間違った異国語を使う人とか、立派なメートル法で数値を表せばもっと明快直截であるはずのところを、強いて耳なれない単位で表現するとか、このような過ちを犯す人はすべて同罪と申すべきです。
 この態度を異邦の友に対する同情心の発露と見るわけには行きません。各国それぞれ固有の単位を用いる方がいいのだと信じているかに見せるのは、むしろ例を欠くやり方です。

工業勢力の実害 -深刻な航空機関係
 このような事態のよって来るところは、実は今お話ししたような悪趣味からではないのでして、本当は、単位の担い手である工業の勢力が実害の因をなしているのです。私たちが外国から品物を受け入れる時に、メートル系以外の単位が抱き合わさって来ることも少なくない(どんな方面でそれが多いかと申しますと、石油・パイプ電子管、それから特に航空関係の諸工業であります)。
 この最後の点、つまり航空関係での不統一はなかなか深刻なものです。航空機搭乗時の信号了解に過失がある時の危険さに関心を寄せない人はありますまい。国際民間航空機構(Organitsation de L’Aviation Civile Internationale)では、O.A.C.Iの単位表というものを提案しております。
 それは距離で「マイル」、速さで「ノット」の単位を活かしてはいますけれども、計量単位を含んだ通信文は、いかなる場合でも、できるだけメートル系の数値を使うよう各国に義務付けています。この勧告が守られればもうそれで十分なのです。がしかし、決して守られていないのです。

メートル法の危機 -実際に考えられるのか
 それでは、今お話したような忠実でない現状は、果たして根本的に懸念さるべきものでありましょうか?
 また、二、三の悲観論者が唱えるメートル法の危機は実際に考えられるものでありましょうか?
 私はこれらの点を否定するに足りる明確な根拠を知っています。
 広大な国土、膨大な人口をもつソ連邦、中国、インドは、遅かれ早かれ国際貿易の交流の場に立ち戻って来ることでしょう。
 そしてこれら諸国の工業計測は、おしなべてメートル法で行われるようになるに違いありません。
 いまもって保守性の濃い国々の中でも、かなりの部分、すなわち南アフリカ連邦、エジプト、エチオピア、インドネシア、イスラエル、ヨルダン、スーダンは、メートル法全面採用の道程に向けて断乎たる歩みを約し、そこに逆コースの動きは認めえません。
 一方、権威ある機関からの強い働きかけ(例えば1951年英国商務大臣の発表した公式報告)は、出資をおそれての故か引込み思案になって、今もって古い習慣の中であがいている人々が結党している弱小少数派勢力の内部まで、進歩的見解を感じとらせるに至っています。彼等の懸念する出費とて、全世界にあまねくして唯一の計量制度が提供するはかり知れないサービスを、先にいってからとりいれたり、あるいは他人に勧めたりする段になって必要になるはずの出資と比べるなら今日の負担はものの数ではないと思うのですが。

性の王国の勝利 -単位統一への要望
 ありとあらゆる商業取引が行われるべき市場は、今日地球の全土を覆うほどに広がりました。そしてそこでは、全範囲にわたっての計量単位の統一が強く要望されているのであります。そのさまは、メートル法発展に大きな貢献をなしたラプルス(Pi?rre Simon de Laplace)というノルマンディ生まれのひとくせある男が、1837年6月12日の報告書(*おそらくメートル法専用をフランス議会上院に提案した時のもの)にある、つぎ言葉さながらと申せましょう。時は去り行く、そして理性の王国は、遅々たるにもせよ抗しがたき力もて常に終局の勝利を占む」

- 終わり -

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計量計測データバンクニュース・デジタル版 目次
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計量計測データバンク2020年3月15日付けニュース(デジタル版)

計量計測データバンク2020年3月5日付けニュース(デジタル版)

メートル法の起源、キログラム史話、不滅のメートル法、追録版 アンリ・モロー(Henri Moreau)著 高田誠二訳

計量計測データバンク2020年1月30日付けニュース

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人と職業(計量計測データバンク 編集部)
コロナ災害で求人悪化 新卒は第三次就職氷河期世代になりそう(計量計測データバンク 編集部)
砒素鑑定の計測値を100万倍して対数をプロットして同一であると見せかけた(指摘したのは河合潤京大教授)

佐藤優氏によるカルロス・ゴーン事件の分析
佐藤優氏によるカルロス・ゴーン事件の分析(2020年1月17日ラジオ放送より)

逃亡直前のゴーン被告が語ったこととは 郷原弁護士が会見(2020年1月22日)(動画・YouTube)
元東京地検特捜部検事の郷原信郎弁護士が、22日午前11時から日本外国特派員協会(東京・千代田区)で記者会見する。郷原弁護士は昨年11月から12月にかけて、日産自動車元会長のカルロス・ゴーン被告に5回面会し、計10時間以上にわたってインタビューを実施。ゴーン被告がレバノンに逃亡する直前に語った内容を明かす。

テレビ東京ニュース 2020年1月8日ベイルートでカルロス・ゴーン氏会見 2時間34分 動画・YouTube。

カルロス・ゴーン氏の2020年1月8日ベイルートでカルロス・ゴーン氏会見の要旨。

田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


田中館愛橘とその時代-その12-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
関菊治が修業した物理学校度量衡科と物理学校創立した東京大学仏語物理学科卒業の同志21名のことなど。

田中館愛橘とその時代-その11-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
物理学校の度量衡科を卒業した明治7年(1874年)生まれの長州人、関菊治(大阪府権度課長)

田中館愛橘とその時代-その10-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬宗則の権度課長着任と度量衡法制定(メートル条約締結と連動する日本の動き)

田中館愛橘とその時代-その9-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
高野瀬秀隆と肥田城の水攻め(高野瀬宗則とその先祖の高野瀬秀隆)

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その6-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
日本の近代度量衡制度を築き上げるために農商務省の権度課長に指名された高野瀬宗則

田中館愛橘とその時代-その5-(東京大学の始まりのころと現代の高等教育の実情)
日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その5-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その4-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その3-

日本物理学の草創期に物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘をさぐる-その2-

日本物理学の草創期にその後日本の物理学を背負う多くの偉人を育てた日本物理学の祖である田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)をさぐる。-その1-田中舘愛橘が育った江戸から明治にかけての日本の状況(執筆 横田俊英)

初版 物理学者で日本人初の国際度量衡委員の田中舘愛橘-その1-(執筆 横田俊英)

計量計測データバンク2019年12月11日付けニュース
2019-12-11-weighing-data-bank-news-december-11-2019-

2019近畿計量大会2019年11月16日、びわこ大津プリンスホテルで開く(開催日時:2019年11月16日(金)13:00~19:00
2019近畿計量協議会YouTube(2019年11月16日滋賀で開催)。YouTubeの動画です。
現場の計測管理 第12回座談会(日本計量新報社 計量計測データバンク主催)
計量計測データバンクが紹介する計量計測技術センター)(計量計測データバンク・ニュース)(2019年10月28日現在)
吉野彰氏リチウムイオン電池の開発功労で2019年ノーベル化学賞(計量計測データバンクニュース)
ノーベル化学賞吉野彰氏2019年
売り買いの妥当性がネットオークションを成立させた
放射線の測定に関係する資料を渉猟しておりました 執筆 日本計量新報編集部 横田俊英
計量法の検定対象機種に新たに追加された自動ハカリに関係する法規定】(編集部)
東京都計量検定所が自動はかりの法規制の説明会2019年3月12日実施
2019年3月6日計量器コンサルタント協会第2回技術研修会「自動捕捉式はかり」の説明を受ける
(資料) 日本の地方の計量協会など【分類2】[a-1]「計量計測データバンク」社会の統計と計量計測の統計
新潟県計量協会が3月6日に13回指定定期検査機関の日の式典施行。役員ほか総参加者31名で指定定期検査機関推進宣言を唱和。
新潟県計量協会が平成31年3月6日(水)第13回指定定期検査機関の日の式典施行
2019年(第17回)計量士全国大会全国大会(2019年2月22日、福岡市の西鉄グランドホテルで開催)報道特集-総合編-
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