「計量計測データバンク」サイトマップ
measure and measurement data bank of saite map

官僚制度と計量の世界(30)
Bureaucracy and Metrology-30-

-旧制浦和高等学校理科に入学した四人のその後の人生-
The Faculty of Liberal Arts and the students of the newly established University of Tokyo, where Hiroshi Yano studied

官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介

海辺の風景。「見ていた青春」(矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介)

官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介

写真は1950年5月16日東京大学構内におけるイールズ声明反対闘争

(タイトル)

官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介

(本文)

はじめに

 旧制浦和高等学校理科に二戸左登志、大嶋太郎らと同じ時期に在籍していた井伊浩市は新制の東京大学に進学した。井伊浩市は工学部応用物理学科を卒業して政府の工業技術院に属する技術研究機関に入職する。工業技術院は巨大組織であり、通商産業省に属しているが事実上は独立した立場で研究課題を設定し日本産業に貢献する事業を実施していた。工業技術院の院長には井伊浩市が所属する研究組織の所長が就任することがあり、井伊浩市は一代跨ぐ形で工業技術院長に就任している。

 井伊浩市と東京大学と工業技術院のその研究所で同期であったのが矢野宏である。矢野宏は工業技術院から国立大学教員に移るころには品質工学の研究と現場での実行に力を入れるようになっていて、田口玄一を助け、共同してこの技術分野の社会的な認知を広め、技術の発展と確立に貢献した。

 井伊浩市と矢野宏の二人の技術官僚が通商産業省工業技術院の研究機関で働き、その後一人は工業技術院長となり、一人は研究部長を経て大学教授となり品質工学の理論確立と産業社会への普及に大きな役割を果たすことになる。

 こうした二人の技術官僚が戦後の新制東京大学に入学し新しい息吹のもとで社会に出て行ったのかを、当時の東京大学学生のその様子から垣間見て行こうというのが本稿を仕上げた趣旨である。

 敗戦がもらたしたこと、解き放たれた精神にマルクス主義が輝かしく映り、学生がこれに飲み込まれて行き、現実社会との軋轢によって屈辱を味わい、人によっては挫折して道を変更していくことが少なくなかった。解放軍に見えた米国であっても対中ソとの抗争は日本を自由主義主義陣営の砦に変える政策転換をもたらし、社会主義への希望ないし憧れソビエト連邦の崩壊によって、見てはならない夢であったことを知らされた。東欧諸国に対するソビエト連邦の支配とその後の瓦解は、日本がソビエト連邦に組み込まれなかったことを幸運として理解させた。

 激動の戦後初期の若者たちの行動とその心の葛藤を旧制浦和高等学校から旧制東京大学と新制東京大学の学生のようすを通じて読み取っていく。登場する人物の心情に直接に、また深入りすることを避けているので、あるいは回りくどい物語になった。

宇沢弘文、田口玄一、矢野宏、井伊浩市の論理の説き方

 資本主義か社会主義か、についてカトリックの総本山であるローマ教皇庁は「社会主義の弊害と資本主義の幻想」を一貫して説く。 特定の政治体制を支持するのではなく人間尊厳の危機を指摘してのもの。国家権力が人間を管理対象として扱うことで貧困や停滞を招く「社会主義の弊害」、市場に任すとこと格差を広げる「資本主義の幻想」であるとする。

 1981年(昭和56年)2月25日に広島を訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」と核兵器廃絶平和アピールをする。宇沢弘文はローマ教皇が来日するときに日本の状況を伝える書簡を送っており、これが取り上げられたと喜ぶ。

 宇沢弘文は1951年東京大学理学部数学科卒業、1951年から1953年まで同特別研究生。1953年文部省統計数理研究所勤務、1954年朝日生命アクチュアリー、1956年スタンフォード大学経済学部研究員、1958年同助手、1959年同助教授。

 田口玄一は1924年1月1日新潟県六日町生まれ。1942年桐生高等工業学校紡織別科卒業、1942年海軍水路部天文部、1946年厚生省衛生統計課、1948年文部省統計数理研究所
、1950年電電公社電気通信研究所(西堀特別研究室に配属)、1954年インド統計学研究所客員教授、1962年1月プリンストン大学大学院交換教授(8月帰国)。

 宇沢弘文と田口玄一は文部省統計数理研究所に勤務したことがあるが田口玄一は宇沢弘文が在籍する三年前にここを離れている。二人に交通するのは数学、とくに統計学に特別な才能があったこと。筆者は田口玄一の説く数学的論理にらいついて都度はぐらかされるのであった。宇沢弘文も独自の世界があってその論理をつかみにくい。矢野宏がこれに似ている。井伊浩市の話は良くわかるから、この違いは何処からきているのだろう。


旧制中学三修で海軍兵学校生徒に

 太平洋戦争の最末期、海軍兵学校は海軍兵学校は大量に生徒を募集した。それまで旧制中学校4年修了だったものを三年修了に繰り上げての募集であった。募集は1944年の夏。翌年の1945年4月に入学させた。

 父親が海運会社の航海士であったことから神戸で生れた二戸左登志(にのへ さとし)は父親の生まれ故郷の会津に疎開し、会津中学にいて、三修(さんしゅう、三年修了の意味)で江田島の海軍兵学校に入校した。入校の生徒数が多かったために本校のほかに分校がつくれてていて二戸左登志は江田島にある大原分校の海軍兵学校生徒となった。

 このころ既に江田島は米軍に制空権を奪われていて艦載機が頻繁に襲ってきて爆撃や機銃掃射をした。地下に教室をつくることになって入校早々、二戸左登志らの一年生(一号生徒)は、上級の二年生(二号生徒)、三年生(一号生徒)らとともに、瀬戸内の島特有の砂岩に穴を掘っていた。すでに兵学校は教育どころではなく本来はすべきでない穴掘りで一日を過ごしていたが、日本軍隊の野蛮な精神主義による鉄拳制裁だけは変らなかった。

海軍兵学校生徒が江田島から見た原爆の爆発の様子

 海軍兵学校入校から四カ月の1945年(昭和20年)8月6日、月曜日の 午前8時15分、二戸左登志の分隊が食事を済まして隊伍を組んで移動しているときのことであった。凄まじい閃光で眼の前が明るくなった。光は広島市方面。空にキノコ雲が盛り上かり、一分ほどして爆発の轟音が響いた。広島上空に雲が膨れあがった。その雲は夜には赤い色もまじっていて不気味であった。赤い色は広島市街地の火災が映ったのだろう。雲の下では黒い雨が降っていたのだ。海兵生徒は原爆投下のその訳が分からず防空壕を出たり入ったり、うろうろしていたた。江田島の校舎のどこかのガラスが割れたということが聞こえてきたがそれ以外の知らされなかった。江田島に空襲警報は出ていないなかでの原爆投下であった。

玉音放送

 江田島の海軍兵学校生徒にも1945年8月15日、水曜日の正午の玉音放送は知らされていた。全員校庭に整列して聞いた。雑音がひどくて聞き取れなかった。これは二戸左登志の回想である。その後に日本が負けたことを教えられた。負けるとはどういうことか、理解でなかった。そのうちアメリカ軍か占領するのだという。各分隊の小銃を一箇所に集めるように指示された。指定された場所に持っていくと、「海中投棄 無念」と書かれていた。そのうち、軍隊はなくなるのだ、海軍兵学校は閉校になり、生徒は皆故郷に帰るのだ、と聞かされた。負けるとはこういうことかとおぼろげに理解した。

海軍兵学校閉校と帰郷

 海軍兵学校閉校にともなう帰郷の日は8月末であった。生徒の郷里の方向別に組織されて、小さな船で広島港のある宇品に連れていかれた。広島港から広島駅までの線路沿いはビルの残骸だけが形を残していた。一面は焼け野原。広島駅は列車を待つ人でごった返していた。

 列車がいつ来るかわからない。群衆は長時間待っている様子であった。しゃがみこんでいる人々の付近には荷物が置かれ、ゴミが散乱していた。片隅に汚物が積み上がり饐(す)えた匂いが漂う状態であった。やっと列車がきても満員状態。それでも乗り込もうとす躍起になり屈強な復員兵が女子供を突き飛ばしていた。窓ガラスを割って乗り込む。戦争に負けるとはこういうことなのか、と二戸左登志は思った。
 二戸左登志の組の海兵生徒たちはそのうち貨車に乗り込むことができた。乗車したのは石炭を積んだ無蓋車(むがいしゃ)であった。トンネルが多い山陽本線であるから、無蓋車は蒸気機関車の煙に覆われ息ができない。鼻と口を押さえて息を止めてトンネルを抜けるのを待った。北陸本線を経由して会津に辿り着いた。1945年9月1日、海軍兵学校入校から5カ月して元いた旧制会津中学の4年生に復学した。

会津中学校から浦和高等学校へ

 敗戦の1945年の秋、A級戦犯が相次いで逮捕され、12月には梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう)元帥も逮捕された。会津中学の生徒10人ほどが「皇族を逮捕するとは何事か、これを見過ごしていいのか」と校長室に押しかけ、そのなかに二戸左登志が含まれていた。戦時中の軍国少年ぶりと天皇崇拝がそのまま残されていた。世の中は民主主義の時代になったのだ言われたが二戸左登志には、それは胡散臭いものであった。

1947年2.1ゼネストと会津中学生徒の教師糾弾

 1947年の初め、2.1ストに向けて労働運動が盛り上がり、会津中学でも教員たちはストをしようとして生徒に説明した。生徒は「なぜ先生がストをしなければならないのか、それは先生の責任放棄ではないか」と納得せず、先生たちを糾弾した。教員たちが時代の潮流にあわせて動いていたのに対して、旧制中学校生徒はそれに背を向けていた。

1947年に旧制浦和高等学校理科に入学

 物理や化学が得意科目であったこともあって二戸左登志は1947年に旧制浦和高等学校の理科に入学した。浦和高校は旧制の東京大学への進学率が旧制第一高等学校に次ぐ二位、三位は旧制静岡高校であった。旧制高等学校の卒業年数は三カ年。

 旧制浦和高等学校と文科、理科の内訳は次のようであった。
 文科甲43名、乙39名、丙37、理科甲44名、乙35名、丙0、総数198名。甲は英語、乙はドイツ語、丙はフランス語が第一外国語。理科の丙はごく限られた旧制高等学校に設置されていた。なお旧制第一高等学校の入学定員は甲125名、乙36名、丙38、理科甲107名、乙91名、丙0、総数397名。

 帝国大学の入学定員は旧制高校の卒業者数と同じにしてあったので、帝大進学は学科学部の進路振り分けに相当した。旧制東京大学の卒業年数は三カ年。

 好きで理科に入った二戸左登志の関心は運動華やかであったマルクス主義に移る。熱心なマルクス主義の信奉者になっていた級友の誘いでマルクスの初歩的な文献を読むようになった。民衆のエネルギーの高まりのなか、1949年1月総選挙での共産党の大躍進して35名が当選したのを喜んだ。

 マルクス主義に惹かれながら、すっきり納得したわけではなく、マルクス主義への懐疑を残していて、キリスト教の教会を覗いてみたり、宗教や哲学などさまざまな書物を読みあさっていた。

 理科への意識が薄れ、学校の勉強がおろそかになって、1949年初め、2年生の学年末試験で落第する。この年は学制改革の年で、1947年入学の二戸左登志のクラスが旧制高校最後のクラス、下の1948年入学の生徒は1年生を経験しただけで旧制高校は廃止ということになった。2年生で落第すると下がいないので、落第即放校になった。

 こうした場合には旧制浦和高校生徒は新制の埼玉大学に自動的に移ることになる。二戸左登志は1929年12月10日生れ。映画監督になる熊井啓は1930年(昭和5年)6月1日生れ。旧制松本高等学校に1948年(昭和23年)、18歳で入学。学制改革にともなって1949年(昭和24年)、19歳のとき信州大学文理学部に入学した。演劇活動を続けるためにその地に留まった。東京大学を受験して進学する道があったはずである。

旧制浦和高等学校理科に入学した三人のその後の人生

 筆者が知る東京生まれの井伊浩市は1931年(昭和6年)6月1日生れ。熊井啓の一学年下であり、二戸左登志と同じ旧制浦和高等学校の理科にいた。二戸左登志と井伊好蔵は旧制浦和高等学校の理科に同時期に在籍していた。このころ旧制浦和高等学校の理科で在籍していたのがこれも筆者が知る大嶋太朗。大嶋太朗は1929年3月31日生れ。旧制群馬県立太田中学校4年修了で1945年4月に旧制浦和高校在学中に理科に入学。1947年に旧制浦和高校文科一年二組に転科してもう一度一年生として勉学した。経歴書には二組とある。一組が英語の甲で二組はドイツ語の乙であると想定される。二戸左登志、大嶋太朗、井伊浩市の三名は筆者が知る人であり前二者は大学の教員、三人目は技術官僚。大嶋太朗は旧制高等学校で理科から文科に転科、二戸左登志は旧制高等学校を放校処分となって、新制の東京大学の文科に入学した。これも一つの転科である。転科によって一年生をもう一でやり直した大嶋太朗。落第で一年留年した二戸左登志。これより遅れて旧制浦和高校在学中に理科に入学した井伊浩市の三人であった。大嶋太朗は4年修了で入学、しかも3月31日生れであるから、同じ年齢でも二学年の得があることになる。一年の遅れなど気にならない。大嶋太朗は就学年限三年の旧制の東京大学法学部政治学科に進み、二戸左登志は就学年限四年の新制の東京大学経済学部に進んだ。井伊浩市は就学年限四年の新制の東京大学理科一類から工学部応用物理学科に進んだ。筆者は『官僚国家と地方自治』があり、講義を受けるのが一人ということもある大嶋太朗の授業に出ていた。法学部を終えて経済学部に学士入学するときの推薦状には大嶋太朗の名前が書かれていた。

 戦争末期には旧制高等学校の理科生徒などは徴兵猶予となっていた。東京物理学校は未試験で入学できたことから旧制高等学校の試験に落ちた生徒が徴兵逃れのために逃げ込む場所となっていて、そのなかには高級将校の子弟が多くいた。

 二戸左登志、大嶋太朗、井伊浩市と同じ年代なのが宇沢弘文(うざわ ひろふみ)である。宇沢弘文は1928年(昭和3年)7月21日生れ。旧制第一高等学校の理科を経て旧制東京大学の数学科に進む。進級のための単位不足を同級生たちの学校への特別の掛け合いによって卒業扱いとなった。食糧難によりラグビー部の試合の時以外は寮で寝ていて授業にでなかった。このために卒業の規定を満たす単位を取得できなかった宇沢弘文の数学の才能を惜しんで級友たちが高等学校長を説き伏せたのであった。宇沢弘文は東京大学理学部数学科を卒業した後に特別生として大学に残る。教員候補の有給の助手の扱いである。宇沢弘文は自身の栄養失調の経験などもあって数学を貧困日本の救済のために使うと考えた。周囲の反対を押し切って経済学に進路を変更した。二戸左登志は東大経済学部で修士課程とこれに続く博士課程を終えている。二戸左登志と宇沢弘文にどのような関係があるのかは確かめられない。宇沢弘文は二部門成長モデルせ業績を残す。二戸左登志は大学院で山田盛太郎の指導を受ける。戦中の日本経済の構造をマルクス主経済理論で解き明かす試みをした『日本資本主義分析』が山田盛太郎の業績。新制東京大学文学部で歴史学を専攻し、大学院に進むときに歴史学にするか経済学にするか迷った二戸左登志である。選んだのは経済学であった。

 二戸左登志、宇沢弘文の理科から経済学に進み、大嶋太朗は理科から旧制高等学校在学中に文科に転科し、旧制東京大学法学部政治学科を卒業、同大学社会科学研究所の助手となって研究生活を始めた。井伊浩市は理科で通したが行政官僚として最高位に就いている。

 旧制浦和高校を2年で放校となった二戸左登志に親身に接したのがクラス担任だったドイツ語の先生。その年開校の新制大学受験を進められ、6月実施の新制東京大学(就学年限4年)の入試に心機一転して打ち込み教養学部文科二類に合格した。クラス担任の先生は後に東大教授に就任、定年後にある私立大学文学部教授となった。この私立大学で二戸左登志と担任だった先生は教授として教壇に立つ。

東大に進学して全学連副委員長となった二戸左登志

 旧制会津中学校を三年修了で江田島の海軍兵学校に入校して5カ月で終戦となり兵学校閉校となり、四年生として会津中学校に戻った二戸左登志は、その後旧制浦和高等学校理科に進んだ。一年留年したら学制改革でこの学校も閉校となったために新制大学入校のために受験しなおさなければならなくなった。投げやりな気持ちを取り直して新制東京大学(就学年限4年)の教養学部文科二類に合格して1949年夏に入学、駒場寮で生活するようになる。

 旧制浦和高等学校でマルクス主義の洗礼を受けていた二戸左登志には東京大学教養学部と駒場寮は精神を開放する場となった。入寮した駒場寮の夏は蒸し風呂であった。資本論を読み始めた。難解さに苦労した。

 新制東大第一期生である二戸左登志たちは学生自治会結成の運動の波に自ずと飲み込まれた。積極的に運動に関わっていた二戸左登志は結成さた教養学部自治会の副委員長になった。副委員長の任期を終え1950年の夏には全学連の書記局の任務に就いた。教養学部初代学部長の矢内原忠雄とは団交でやりあった。

 全学連の書記局は東大本郷のグラウンドの地下室にあった。毎日通って「学生新聞」を編集し、宣伝ビラ作った。集会やデモを組織しこの運動のために全力を尽くした。

 1949年にはGHQの顧問イールズが赤色教授追放を説くために各大学を行脚した。1950年5月、東北大学の学生がこれに抗議して講演会を流会させた。運動を推進した学生が逮捕された。このことが全国の学生には占領後最初の公然たる反帝国主義闘争として刺激を与えた。事件を契機に全国各大学でレッドパージ反対運動が燃え上がる。全学連は各自治会にゼネストを呼びかけた。1950年 9月、東大教養学部学生自治会はレッドパージ反対を旗印に試験ボイコットを試みた。教養学部における一般試験ボイコットを全員投票で行った。

 試験当日、登校してきた通学生をキャンパスに入れないように、寮の学生たちは正門前にピケラインを張った。これに対して矢内原学部長は警官隊を導入し排除にかかった。このことが学生たちを憤激させた。試験ボイコット反対の学生までがスクラムに参加した。警官隊によって崩されたピケラインを通って試験を受けることは心苦しい。警官隊によって開けられた門を不浄の門だという声があがった。「不浄の門からは入らない」と宣言が発せられ、これに皆が賛同した。矢内原学部長は試験延期を認めざるをえなくなった。このような1950年 9月、10月の東京大学教養学部の一般試験ボイコット運動であった。

 新制東京大学教養学部に第一期生として入学した『全学連血風録』の著者大野明男が次のように証言する。

 学生投票は「約1800対1000」の差で、「試験ボイコット・スト決行」を可決。ストの2日前、正門前のピケット・ラインに警官隊が突っ込んで揉み合いになり、破られたが、ある学生が「ボクは警官隊がつくった道を通って受験しようとは思わない」と叫んだため、スト反対派の学生も動かず、矢内原学部長が南原総長に電話で報告のうえ、「試験中止」を発表する。そして天野文部大臣は「レッドパージの中止」を発表。

  私たちは、1つの「勝利」を得た。その代償として13名の「退学・停学処分」があり、私自身は「復学」することもなかったが、この「10月闘争」のことを1度も後悔したことはない。多くの学友も、ストに賛成した者も、反対した者も、「退学・停学」で「復学」まで遠回りを余儀なくされた者も、ほとんど全員が「後悔」などしなかったはず、と断言できる。

 「職を賭してもレッドパージを行う」という姿勢で知られる天野貞祐(あまの ていゆう)文部大臣は、第3次吉田内閣で文部大臣を務めていた。昭和20年代後半のレッドパージ(共産主義者追放)の波の中で、文部大臣として教育界における共産党員や同調者の排除を推進した。1950年頃から始まったレッドパージは、GHQの指令下、公職追放に次いで大学や教職員組合を対象に行われた。天野文相は、教育界の安定と民主化を大義名分として、この方針を強く支持した。

 二戸左登志は次のような談話を残している。「職を賭してもレッドパージを行う」と明言していた天野貞祐(あまの ていゆう)文部大臣は、方向転換して大学の自治を口にするようになった。

イールズ旋風と東京大学社会科学研究所職員組合の取り組み

 東京大学社会科学研究所助手時代の福島新吾が経験したイールズが赤色教授追放と東京大学社会科学研究所職員組合の取り組みを福島新吾の回想から拾う。

福島新吾の回想

 当時CIEのイールズが新潟大学で左翼教授追放の演説を行ったので、教授連でこれに反撃しようと、総司令部 CIE に7月16日ルーミス、8月4日にはイールズを訪れ米国の有名なHolmesとBrandeis両判事のa clear and present dangerを生み出す状況がないかぎり言論を抑制すべきではないとの判例をあげて、左翼教授の学問の自由を擁護した。民間でどこかの州のcountyの教育長だったらしいイールズはそんな憲法の常識すらなく答弁に詰まった。

 この時案内した学生が高沢寅男(故社会党議員)と戸塚秀夫(元社研教授)だった。この頃から学習運動の助言者も命じられて様々の会合に出掛けた。大学法の解説から破壊活動防止法案など次々とテーマは変わった。スターリンの社会主義経済の諸問題なども大真面目に指導した。塩田退職で社研職組委員長になった 1949年12月、恒例の年末一時金闘争が東大職組でも盛り上がった。当時南原総長は対日講和の意見交流で渡米中で瀬藤象二工学部長が代理であった。

 大学事務局の警備不足をついて組合側は大衆交渉にもちこみ、馴れぬ瀬藤に一時金支給の調印をさせた。これが懲戒問題となり約二年公聴会での係争の後原田正道委員長(第二工学部助教授)、大山勲副委員長(理学部助手)は休職、身分保障の無い福本書記長(本部事務局事務官)は気の毒にも解雇となり東職はその救援活動も出来ず、行き詰まった当人は数年後自殺する悲劇に至った。

 この間朝鮮戦争が始まり共産党議員は追放され、幹部は地下活動を開始しいよいよファシズムの出現と緊張した。アカハタが戦争報道により発行禁止となると、戦前の経験にものをいわせて党は次から次へ禁止をくぐってその代替紙や、「占領目的阻害行為禁止令」違反となるコミンフォルム機関紙「恒久平和のために!人民民主主義のために!」、地区の党紙などの非合法紙を発行した。その秘密配付が党員の大きな仕事となり、現物を持って警官に自転車の無灯火で意見されたり、大晦日に大量の束を受け取り、新年は縁の下に隠し持ったりヒヤヒヤした。東職本部が懲戒反対闘争に明け暮れているうち連合体の東職の各単位組合は休眠状態におちいった。

 委員長交代が出来ず1年半が過ぎた。組合保全のため放置出来ないとついに 51年4月頃組合新参の私が半年と期限をきり工学部助手の高橋昇書記長(現『技術と人間』編集長)と組んで委員長になった。私は3月に結婚したばかりであった。初代の長畑一正(病院)二代原田は助教授で助手は異例であった。就任にあたり社研のスタッフに挨拶したら昇格に響くと警告されたがそんなことは無関係とつっぱねた。医学部(付属病院)、農学部、理学部、工学部、第二工学部(千葉)のほか学部には単位組合は無く、地震研、本部事務局、史料編纂所、理工研、新設の社研の連合であった。

 しかも朝鮮戦争開始から一年、米占領軍の戒厳体制はますますきびしく、学内には本富士署の私服刑事が多数歩きまわっていた。1952年2月の「ポポロ事件」で学生が取り上げた私服刑事の警察手帳(「吾々は告発する-警察手帳の全貌-」)にも私の大学への出入がメモされていた。当時東職委員会はかろうじて四五人の出席で、活動といっても最低限の情報ビラを委員長、書記長と学生書記の四人位で大学構内各所にちらばる連絡のない単位組合の職場まで配って歩く始末だった。だが病院の看護婦が組合のビラなど何年振りと感謝され、工学部の技術実習担当の高齢の元労働者などは、好意をもって受け取りながら弾圧されるぞ気をつけろと戦前の経験を語って励まされた。

 外部では書記長と二人だけで芝公園のデモ禁止のメーデーや労働者決起大会に参加したり(手帳に記載)、無謀にも少数の委員会で差し迫るサンフランシスコ平和会議に向かって 8.15までの数日講演と映画の「平和祭」を計画、人脈を存分に生かして法哲学の尾高朝雄、大河内に紹介された官庁エコノミストの稲葉秀三、渡辺一夫にことわられて一高の恩師フランス文学の市原豊太の三氏を引出した。それに毎日一本づつ反戦映画、「また逢う日まで」「大いなる幻影」などを上映した。これで少しは組合員も参加するかと期待したが、強権横行の時代、私服刑事が入り込む状況で学生(夏休みで半年後の「ポポロ事件」の時のように刑事を捕らえるほどの数がなかった)や、ひそかに呼びかけた本郷周辺の労働者、在日朝鮮人の方が多かった。

 最後の8月 14 日第二食堂で平和祭を開こうとしたが、まず大学の用務員、それを説得すると本部事務員、さらには鉄門前に集結した本富士署から、無届け集会禁止で解散を命じられた。組合員の集会だという弁明は参加者を一目すれば崩れる。日頃大学当局は学生デモに対し学内に警察権力を入れないと、大学の自主規制で処理している状況を考慮すると、ここで警察の立ち入りを招くことは影響が悪いと判断して、残念ながら委員長の独断で解散し、参加した朝鮮人に軟弱だと非難された。翌日は本富士署に任意出頭で高橋と二人敗戦記念日の暑い西日の中尋問され、前途ある東大の助手が労働者や朝鮮人と共闘するとはと戦線分裂をはかったり、突然机を叩いて怒鳴ったり、硬軟使い分けでさんざん脅かされたが弱音は吹かなかった。その夜は大田区の工場で非合法の平和決起集会に参加などした。東職は東京都大学高専教職組連合(略称ダコセ)に加入していたので、その線で総評の平和闘争に参加し、8月末には浅草の仁王門の真ん前の歩道で、すぐ後ろに交番をひかえながら、平垣日教組中執とともに生まれて初めての街頭演説をやり、幼少期の上海の状況を述べて講和後も続く日本の主権喪失を訴えた。

 9月初旬には総評の平和推進国民会議主催の朝鮮戦争後初めての大規模の平和集会とデモに参加して感激した。場所は意外な靖国神社境内、デモも両国震災記念堂だった。インドのネルー首相から友好の象が贈られ、宗教者平和運動協議会の日蓮宗妙法寺僧侶が団扇太鼓で参加したり、1年半に及ぶ占領軍の戒厳令的治安に抗した民衆の平和的感情が爆発した。全面講和、再軍備反対、中立維持、軍事基地反対の平和四原則は参加者の大きな願望であった。このデモで私たちダコセグループが先頭に立って組合旗をかかげて行進する姿が『人民日報』に掲載されたと聞いて快哉を叫ぶような子供じみた気分であった。すべて蟷螂の斧であった。

 嵐のような半年はまたたく間に過ぎ、11月には南原後任の総長選挙で、農学部が推した岡田教授を委員会でしりぞけて東職として矢内原を支持し(12月3日当選)最後の統一戦線の仕事を終わった。その後遠山茂樹(史料編纂所助教授格)が後任と決まり、私は破壊活動防止法案反対のための解説執筆や、小集会での報告、講和発効後のメーデー事件など緊張した日常を続けつつ、僅かな余裕を得て二度目の助手論文「戦後日本の警察と治安」を執筆した。

1950年 全学連は共産党の分裂の影響を受けて二戸左登志が属していた国際派は執行部から追い出される

 1950年は共産党分裂の年でもあった。この年の1月、コミンフォルムの野坂参三批判があり、これは徳田球ーへの批判であったのだが、共産党は徳田球ーら主流派「所感派」と宮本顕冶ら国際派とに分裂した。

 GHQの弾圧のもとで共産党分裂すると学生運動にそれが持ち込まれた。全学連や東大の共産党学生組織は国際派に属し、そのなかに二戸左登志はいた。国際派は、全国的な政治課題、とくに占領軍の政策に対抗して平和・独立・民主主義の課題を提起すれば学生は受け止めて行動に立ちあがると考えていた。その一つがレッドパージ反対運動であった。主流派「所感派」は、経済要求など身近な問題から始めて政治問題に進むべきで、レッドパージ反対でゼネストを呼びかけるのは跳ね上がりだとした。

 国際派に属する二戸左登志たちは、レーニンの『なにをなすべきか』を引き合いに出して、「経済主義」「日和見主義」だと主流派「所感派」を批判した。学生運動の分野では、国際派が優勢であった。1951年秋になるころに状況が変わる。中国とソビエトの共産党が主流派「所感派」を支援するようになった。とくに中国共産党が日本共産党主流派「所感派」を支援し取り込むようになった。

 主流派「所感派」はこの年に新綱領を策定する。中国革命をお手本にして、日本でも武力革命が不可避だとした。主流派「所感派」の極左的運動方針はのちに火炎瓶闘争や山村工作隊などにつながっていく。中国共産党と連携して主流派「所感派」は国際派に攻勢をかけを切り崩す。1952年初め、主流派「所感派」に属する学生自治会が全学連の多数を占めるようになった。武井昭夫や安東仁兵衛らを代表とするそれまでの全学連中央執行委員会と書記局員を、共産党からも全学連からも排除した。国際派に属して全学連の書記局で運動をしていた二戸左登志は同じようにこの時に排除された。

 この時期は後の新左翼がしたような内ゲバには至らなかったものの共産党の両派の対立は深刻を極めた。対立する両派の間で転向が起こる。それまで同じ考え方で行動していた者がある日突然、立場を変えてかつての仲間を人民の敵だと攻撃する。二戸左登志は暗たんたる思いであった。

 1949年に東京大学教養学部に入学と同時に自治会活動に全てを投入した二戸左登志は授業に出席していないこともあって二度落第する。本人はこのように述べるが上の同じ新制東京大学教養学部入学一期生の証言があるから、試験ボイコットのストライキを実施した自治会の副委員長だったから、停学処分を受けたことの結果を述べているかもしれない。旧制浦和高校と相まって落第続きである。教養学部に4年在学した。1952年に全学連の新しい執行部から追い出されたことにより否応なく授業に出席するようになる。1953年に文学部西洋史学科に進学。卒業論文は第1次大戦後のドイツのインフレーションとその終息(レンテンマルクの奇跡)を取り扱った。

 西洋史学科にはドイツ史の大家の林健太郎いた。二戸左登志は林健太郎が嫌いで、非常勤講師として東大に来ていた成践大学の村瀬興雄に指導を仰いだ。村瀬興雄の親身な指導に打たれて入学後初めて本気になって勉強した。そして研究者への道を志す決意を固めた。その道の選択を西洋史の大学院か、経済の大学院かで迷う。卒論のテーマに関係して学んでいた経済学を本格的に学ぶことに気持ち大きく傾く。それで東京大学経済学部大学院を受験して合格する。本人は運良くと注釈をつける。海軍兵学校は閉校によって5カ月で追い出され、旧制高等学校は学制改革の影響で留年による即時放校。東京大学教養学部では二年の留年と事故続きの学業。長い道のりを経て研究者への道は経済学と定まった。

共産党主流派「書簡派」と国際派の議論の現場 福島新吾がみたこと

 大嶋太郎は旧制東京大学法学部政治学科を卒業すると設立間もない東京大学社会科学研究所の助手として勤務した。ここには同じ経歴をもつ福島新吾がいた。1929年(昭和4年)3月31日生れの大嶋太朗に対して福島新吾は1921年(大正10年)5月2日生れであった。外交官志望ながら学徒動員で出征し幹部候補生のときに肺結核で除隊して、外務省で終戦処理の諸業務に従事した経験を持つ。


 福島新吾と大嶋太郎の二人は東京大学社会科学研究所にいて農村や漁村の実態調査の従事した。後にこの二人は二戸左登志や山田盛太郎らと同じ東京の私立大学の教授として教壇に立つ。福島新吾は法学部長、二戸左登志は経済学部長をしたことがある。大嶋太郎は病に倒れてこうした職務には就かなかった。

福島新吾の回想

 一般に進歩派の社研所員としては、占領後の日本はいかにあるべきか、日本革命はいかに進めるかの問題を考慮することが最大の急務だった。それにはまず戦前のコミンテルンテーゼがどんなものだったか、その現在はどう考えたらよいかという点から出発すべきだった。その為には戦前の経験者は進んで当時の状況を後輩に伝達してほしかった。

 獄中十八年を栄光とする党主流派「書簡派」のセクト主義はそのような教育を意図しなかった。彼らは戦後直後には国民的な人気の高かった山川均の人民戦線提唱に対応して、救国民主統一戦線を叫んで一見呼応するかの如く見せて人民戦線をぶちこわした。ドイツ共産党ピークの「人民統一戦線」を破壊した自己批判も全く顧みられなかった。非転向だけを振りかざし、セクト主義の反省を全くせず、戦前の反共派の労農派や社大党の屈伏だけを非難する偏狭さを捨てきれなかった。しかも社研で共産党を支持する人々もそれが革新の主流だからと独善の過ちを看過、許容していたのであった。戦後の共産党は占領下の弾圧とソ連幹部の批判の板挟みになり、テーゼのどの部分が占領民主化によって実現されたか、どの点が不十分なのかという基本問題の討議にふれようとしなかった。

 志賀義雄や神山茂夫らは公式主義ながら若干の発言を行っていたが、中央では秘密裡にそれにからんだ派閥対立を起し除名や脱党が続いていた。その中で1950年1月のコミンフォルムによる野坂批判(実質は徳田批判)がおきた。徳田はそれに一度は反発したが一週間で全面降伏した。その間に私は招かれて代々木の共産党本部二階のM.L研究所の会議に出席、眼と鼻の先で徳田球一書記長がまさに真っ赤になって、日本の事情を知りもしない幹部達が勝手に口を出す、二七年テーゼの時と同じだとコミンフォルムの批判に反撃したのを見た。

 当時徳田は日和見主義と批判され、占領軍にはほとんど無抵抗で専ら吉田内閣への議会主義的な非難攻撃のみ(それを串刺し論と称していた)を展開していた。私は二・一スト中止の大打撃以後の米占領軍の公然たる反共主義の下では、日本の革命は出来るはずが無いと半ばあきらめ、わずかな改良闘争を支持していた。今日から見れば、コミンフォルム批判は朝鮮戦争開始に先立つ第二戦線結成の要求にほかならなかった。だから徳田の抵抗は全く意味が無かったわけではない。宮本顕治の国際主義の方が誤っていたであろう。その自己批判は無いのだろうか。

東京大学経済学大学院では山田盛太郎に師事

 1955年に大学院に入学すると教養学部に同じ年に入学して学生運動でも一緒だった南克巳と金子ハルオがいた。南は二年前に大学院に進学して山田盛太郎ゼミに所属していた。南は恐慌論をテーマとした修士論文で資本主義が崩壊しない前提で経済法則を分析する手法をとっている宇野理論の宇野弘蔵を批判をした。このために宇野憎まれ、博士課程進学を阻まれて浪人中であった。金子ハルオは大学院では二戸左登志の一年先輩、横山正彦ゼミにいた。二戸左登志は、南克巳の強い勧めで山田ゼミに入った。山田ゼミには、特別研究生の小林賢斉、博士課程一年の海道勝稔、同級の高島光郎がいた。

 山田盛太郎は、二戸左登志が文学部出身で経済学の基礎的素養が足りないことを考慮して、学説史を勉強しなさい、アダム・スミスとリカードの蓄積論をやりなさいと指導する。二戸左登志をこれを修士論文のテーマにした。山田ゼミの先輩のリカードの専門家の吉沢芳樹に教えを乞い草稿を書く。しかし山田盛太郎は、はなかなかこれでよろしいとは言わない。二戸左登志は次のように振り返る。当時の私の理解力はまだ幼稚だったと思うが、山田先生の助言も初心者に噛んで含めるようにというものではなく、その言われるところを把握するのに苦労した。

 何とか修士論文を仕上げて、博土課程に進学した二戸左登志であった。

 二戸左登志はその後、法政大学経営学部助手を経て1964年に広島大学教養部に専任講師として赴任する。広島大学は居心地が良いところであったが、山田盛太郎に研究の便利さのために東京に移るように諭される。ある私立大学の助教授の席が空いたことを幸いに東京に移る。この私立大学には1957年に東大定年したて山田盛太郎が勤めることになった。同じ私立大学の経済学部に二戸左登志と山田盛太郎が在籍することになった。

軍人への道を絶たれて新制東京大学第一期生となった二戸左登志と大野明男

 二戸左登志は新制東京大学第一期生。同じ第一期生に大野明男がいる。ともに旧制浦和高等学校に入学している。二戸左登志が浦和高等学校を留年すると次に入学してくる生徒がいないので放校扱いになる。仕方なしに新制東京大学を受験して教養学部文科二類に入学する。事情は定かではないが大野明男も新制東京大学第一期生。大野明男は東京大学教養学部に結成された学生自治会の委員長になる。二戸左登志は副委員長。二戸左登志が浦和高等学校に入学してマルクス主義の熱烈な支持者に誘われて傾倒していく。その勧誘者は大野明男であったろう。それで駒場の養学部に結成された学生自治会の委員長と副委員長になる。

 反イールズを掲げた戦いで教養学部の一般教養試験をボイコットするストライキを決行したことで大野明男は退学処分を受ける。大野明男は大学に再入学することなく東大生協に勤務し、さらに専門紙記者を経て思想分野の文化活動に関わって生きている。二戸左登志は副委員長であるから停学処分を免れることはできない。二戸左登志が残す手記には空白の二年間がある。また大野明男のことはあえて明かさない。その後の活動ほかで道が隔たったからだろう。

 大野明男は1930年(昭和5年)9月12日、東京生まれ。旧制東京都立第三中学校(両国高校を経て現在は東京都立両国高等学校・附属中学校)から東京陸軍幼年学校に進む。終戦で同校が閉校。その後旧制群馬県立桐生中学校から旧制浦和高等学校に進む。

 二戸左登志は1929年12月10日生れ。旧制会津中学校三年修了で海軍兵学校に入校。5カ月在籍したところで廃線によって閉校。旧制会津中学校に復学して旧制浦和高等学校に進む。

 その後、二戸左登志と大野明男はともに新制東京大学第一期生となる。

 陸軍幼年学校は旧東京第一高等学校に入学するよりも難しかった。学科試験と身体能力ほかも問われたからである。海軍兵学校も同じ。ただし陸軍士官学校も海軍兵学校も主戦直前は1,000名を超える入校者(採用者)があり、予科練などの同じように特攻要因として構想されており、軍部は破れかぶれの良い加減な将校学校を編成していた。

学者も官僚も企業経営者も高級将校も同じ学科試験を通過させる日本の学校教育

 大野明男の東京陸軍幼年学校、二戸左登志の海軍兵学校(これは終戦間際に実施された海軍兵学校予科(予科生徒))であったようだ。同年代の入校生に今井敬、早坂暁、小沢昭一、栄久庵憲司、小畠郁生、加藤武、木田元、木谷順行、佐野洋、田中稔、佃公彦、友部達夫、成田豊、深代惇郎、吉田庄司、古田幸男、福島重雄らがいる。

 東京陸軍幼年学校や海軍兵学校に入学した生徒は学科試験の能力は旧制高等学校合格の水準にあった。陸軍士官学校と海軍兵学校が敗戦で閉校となった後で在学中の者には旧制高等学校への編入などが認められていた。卒業者には旧制の東京大学など帝国大学への編入あるいは編入試験が認められて、これが実施された。

 陸軍士官学校と海軍兵学校、そして旧制の高等学校の学力判定は同じ基準で実施されていたから、学制が改められて新制東京大学が設置されても二戸左登志と大野明男には、この試験に合格することができた。

 高級将校への道も、学者への道も、官僚への道も、企業経営者への道も、同じ内容の学科試験を通過しているのが日本の学校教育である。苦節ともいえた二戸左登志と大野明男の二人の経歴がこのことを物語る。

新制東京大学駒場の教養学部と二戸左登志、大野明男、矢野宏、井伊浩市

 旧制浦和高等学校理科に二戸左登志、大嶋太郎らと同じ時期に在籍していた井伊浩市は新制の東京大学に進学した。井伊浩市は工学部応用物理学科を卒業して政府の工業技術院に属する技術研究機関に入職する。工業技術院は巨大組織であり、通商産業省に属しているが事実上は独立した立場で研究課題を設定し日本産業に貢献する事業を実施していた。工業技術院の院長には井伊浩市が所属する研究組織の所長が就任することがあり、井伊浩市は一代跨ぐ形で工業技術院長に就任している。

 井伊浩市と東京大学と工業技術院のその研究所で同期であったのが矢野宏である。矢野宏は工業技術院から国立大学教員に移るころには品質工学の研究と現場での実行に力を入れるようになっていて、田口玄一を助け、共同してこの技術分野の社会的な認知を広め、技術の発展と確立に貢献した。

 矢野宏は1931年(昭和6年)5月13日生れ。井伊浩市は1931年(昭和6年)6月1日生れ。映画監督の熊井啓は1930年(昭和7年)6月1日生れ。熊井啓は旧制松本高等学校で仲間と演劇活動を続けるために、新制信州大学人文学部学部にそのまま残った。矢野宏は青春を演劇に賭けていた。外にはもらさなかったが身内が矢野宏の理解の助けになるようにとこのことを明かした。井伊浩市は新制東京大学の交響楽団でクラリネットを担当した。

 熊井啓、矢野宏、井伊浩市は学制改革によって三年制の旧制大学から四年制の新制大学に生まれ変わった新しい息吹のなかに身を置いたのであった。それが演劇活動であり交響楽団での活動となった。

 東京大学駒場の教養学部学生自治会の反イールズを掲げた試験ボイコットのストライキの責任を退学処分として追わされた二戸左登志の盟友の大野明男と同時期に、矢野宏、井伊浩市の二人は同じ構内で学生生活をしていた。

奇しくも東京の同じ私立大学で教授として教壇に立った二戸左登志、大嶋太郎、福島新吾

 二戸左登志は新制東京大学経済学部大学院の修士課程、博士課程で山田盛太郎に師事してマルクス経済学を収める。法政大学政経学部助手、広島大学政経学部専任講師ののち東京の私立大学移って助教授、教授そして経済学部長を勤めた。

 旧制浦和高等学校理科にいた大嶋太郎は在学中に文科に転じ、旧制の東京大学法学部政治学科(就学年限三年)を卒業して、設立された東京大学社会科学研究所の助手になった。その後に二戸左登志より先にその私立大学に助教授になっている。大嶋太郎はその当時盛んであった区長公選制の運動を練馬区で先頭にたって行っている。

 旧制の東京大学法学部政治学科在学中に学徒動員によて徴兵された福島新吾は大嶋太郎より数年先輩であり東京大学社会科学研究所の助手として調査と研究の活動をしていた。学徒動員の時期が少し遅ければ外交官になっていた筈だが運命のいたずらによって陸軍の幹部候補生のときに肺結核のため除隊、勤労動員されて結核が悪化することを恐れて外務省の嘱託職員になり、敗戦時の混乱のなかで外交機密文書の読む機会を得ていた。

 福島新吾は大嶋太郎、二戸左登志より先に東京のある私立大学の教員になっていて後に法学部長になった。

 素直な形で語った福島新吾の手記は、敗戦後の日本と日本人と戦後の大学における学生の心模様と生活の状態を物語るものとなった。

 戦後日本と軍国青年がマルクス主義に傾倒していったのはなぜだったのか。政治学者の福島新吾が自らの経験にもとづく感想として述べる。これは論文という形で表明されたのではなく、あくまでも経験と感想であり、政治学者の実感である。以下は福島新吾の手記を元にしている。

外務省嘱託職員として福島新吾が1945年5月に経験したこと

外務省課長は破顔一笑「助かった、これで私の家は焼けないですむ」


 1945年5月の空襲で東京霞が関の外務省庁舎は罹災した。焼け跡を囲む古典的な飾りのついた鉄柵ばかりが残って哀れであった。その前に外務省調査局は、今の東急東横線学芸大学駅に近い、当時の東京第一師範(学徒勤労動員で休校状態だったと思う。現在の東京学芸大付属高校)に分室として移転していた。

 8月の11日か12日、東京第一師範校舎に移転していた外務省調査局その一室でのこと。隣の課の課長がいつもより多い四、五人の課員を集めて「まだ秘密だが、ポツダム宣言の受諾がきまって連合国と接触中だ」と伝え、破顔一笑「助かった。これで私の家は焼けないですんだ」とつぶやいた。

秘密電報で敗戦は予感できた

 私はかねて課内で読んでいた外国公館からの秘密電報の内容などから、近くこんな結末になろうとはおよそ承知していたから、事柄には驚きはしなかった。しかし国家の重大事に対するこの課長のあまりにも私的な受け止め方に心から腹を立てた。

 別に神州不滅の狂信に心から同調していたわけではない。ナチスやファシストのような特定の党派に属していたわけでもない。だがこの発言を聞いた私の反応は「裏切り」という感じだった。まだ兵役から病気で復員して、大学在籍のままの一嘱託に過ぎない身であった。しかし何でも腕力に訴える兵隊社会ならここで課長にビンタをくわせるところだとまで憎悪を感じた。

死にさえ無関心になっていたので敗戦を沈黙して受け止めた

 戦争終了で幸いに自分の家も焼け残るのだし、父母と自分の生命の安全は保証されるのに、その喜びを感じなかった。

 戦時の殺伐たる生活の中で「死」にさえ無関心になっていた。生命の価値をまるで知らなかったようだ。結局自分もその時に居あわせた同僚もただ沈黙して受け止めていたが、どんな印象を持ったのか、別れるまで聞く機会を持たなかった。戦後解放史観が通説となり、降伏によって死を免れた喜びを感じたとするのが定説になっている。

特攻命令を受けていた者は救われたと自然に頬が緩んだ

 破滅に打ちのめされて絶望に陥っていた国民の大多数が、安堵を覚えたことも事実である。しかしそれにもかかわらず停戦に矛盾する気持ちを抱いた国民が、当時それ程少なかったのだろうか。今日に至るまで疑問とする。友人の数人に聞いたところ、特攻出撃の命を受けていた人は、救われた意識が頬のゆるみとなってあらわれたという。

日本人の大勢順応主義と真の体制転換

 そこでも日本人の大勢順応主義が働いたであろう。それが結果的には正しかったのであるが、真の体制転換には遠かったであろう。

高等文官試験(外交科)受験機会を逃したがせめて外務省で働きたい

 母方の祖父と伯父が共に外交官だったからかねてその道を目指していた。しかし大学授業短縮で昭和18年(1943年)春の最後の高等文官試験(外交科)を受けられず兵役に服したので、高等官になれない。それは承知でせめて外務省で働きたいと思った。

 成田人事課長に大学を卒業すれば高等官へ推薦の道もあるといわれ、試験もなしに大学生のまま嘱託に採用され、世田谷区下馬の分室勤務を命じられた。1942年秋の初任給も5~60円だった。しかし戦時インフレで、会計課が斡旋したヤミ鯨肉2キロを買ったら最初の月給は無くなった。

 戦争終結に賭ける投機感覚と資金があったら、東京の土地を買い占めることも可能だったかなと思うほどだ。

 特高警察の取締りもうすれて左翼の発禁物もかなり出回っていたが私には関心が無く、山川均の「コミンテルンの歴史」という講座の一分冊を読んだ位だ。むしろ文芸物を折りにふれてあさりまわり、やがて焼けてしまった近所の本屋で、大正10年創刊頃の雑誌 『思想』をバラで手に入れ、ケーベルや中勘助、志賀直哉などの随筆を、夜問空襲を予期しながら宵の床の中で楽んでいた。

敗戦を聞いて冗談ではなく工学部助教授は早く手榴弾を配れ、と

 父の蔵書にあった北一輝『国家改造法案大綱』などを読み、ソ連の講和仲介に密かに期待を寄せたりしていた。はずかしいが当時のあきれるばかりの国家主義、軍国主義への傾倒ぶりを日記の一部を抄録して告白しておこう。

 このような記録はほとんど見かけない。丸山真男氏は最晩年の95年に、1944年11月 から1945年3月頃の経験として、次のように語っている。

 「山上御殿(東大教授達の構内食堂)で「-私の前にすわっていた三〇歳ほどの、工学部の助教授の人が、なんで早く手榴弾を配らないのか、と。これは冗談ではなくて真面目に言っているんです。驚くべきことですね。それがその人の憂国の情なんです。一言にしていえば、私の青年時代を思いまと、日本中オウム真理教だったんじゃないかと。」(『丸山真男手帖』)。

 私も武器を要求するほど具体性をもたなかったが、これと変わらない考えだったわけだ。そして多分これが当時の一部の青年の思想の実態だった。

八月九日(木)ソ連開戦せり、国際法躁躇「武力政治」のみ

 1945年(昭和22年)七月二十九日(日)。昨日早川孜 (故人。麻布中学同級で一高も共にした生涯の親友。当時東大経済学部在学。結核療養で徴兵不合格。戦後は東京銀行に勤務した)が来ていろいろ話した。二人でこの努力を戦争以外にそそぎたいものだと。またこの戦後も結局同じことが繰り返されるのだなあ、と人問の進歩せぬのを慨く。ちょうどチャーチルが労働党に敗れたばかりだったことから国家の今後の方向は当然国家社会主義的になると一致する。

 八月九日(木)。ついにソ連開戦せり。今の世界には道義などかけらほどもない。国際法の躁躇が如何に堂々と行われることか。「武力政治」のみ。如何にして日本はその永遠の生命を守るべきか。危機なる哉。ソ連の出方は意外に早かった。どうもポッダム会談にあまりにスターリンの言い分が通り過ぎると思った。

 戦時の日記はこれが最後でその後の破局の日記はない。この数日後に初めに書いた課長の降伏予告があったはずだ。

8・15玉音放送 発音とアクセントに驚きと幻滅

 八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏(かしこ)まって聞いた。音声は明瞭で予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。

 その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦に至る戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。

 夕刻甲府の家族の許に帰るという親戚の娘さんを、危険な状況があってはと小田急で新宿まで送った。ついでに世間の反応はどうかと駅周辺の様子を見たが、いたって平穏で意外であった。反乱軍でも出ていたら馳せ参じかねない心境だった。

 翌日かその次の日あたり隣組の中年男たちが大声で「軍隊が無くなって、せいせいす る」と話し合っているのを聞いて、人々の変わり身の早さに愕然とした。

 八月末になって一年前に戦病死した戦友故佐久問豊実君の父君を船橋に弔問した。中学校長だったという謹厳な父親は、近くの陸軍の経理の将官が軍用物資を山のようにトラックで持ちかえったと身をふるわせて憤っていた。その痛烈な軍部批判に、観念的な愛国主義者は反省させられることが多かった。

降伏数日後、中立国のスウェーデン、アイルランド、スイスから入手した敵国側の情報を焼却

 降伏の数日後、私は第一師範の校庭に掘った大きな穴に、命じられた膨大な数の「機密文書」の山を次々に投げ込んでは焼き捨てていた。その大部分は戦時中最後まで中立国だった、スウェーデン、アイルランド、スイスなどに残留した日本外交公館が西欧の新聞雑誌などから入手した敵国側の情報を、本省あてに送ってきた暗号電報の解読であった。

 それらは暗号解読の素材になる以外は、戦時中に一般国民や憲兵に対して極秘であっただけで、米国に対して何も秘密な事などなかったのだから、焼却する必要があったかどうか疑わしい。

 その多くは未だ読んでいなかったから、敗戦後でもそこに何が書かれていたのか好奇心があり、何とか焼かずに保管できないものかと思いながら、紅蓮(ぐれん)の炎に空襲の業火を重ね合わせて見守っていた。

一高校長安倍能成先生巻頭文章「日本の出発」

 私の在学中からの一高校長安倍能成先生が敗戦後多分最初の『週刊朝日』1945年9月2日・9日号(9日発行)の巻頭に「日本の出発」という文章を書いた。

 米軍の検閲なしで最後に発行されたと思えるこの論説には「今や日本の歴史あって以来最も大いなる又恐らく世界の国民の経験にも多くを見ざる、苦しい生の長い道が横たわっている。自国の利害を第一とする連合国の方針が、日本人の考える程おめでたいものだかどうだかは分からない。新しく強い重圧の加わる恐れもなくはない。アメリカの大統領トルーマンは、日本人が平和を愛好する国民だという事を信じえて始めて警戒の手をゆるめる。

 といった意味のことを口にしたと記憶する。彼のいわゆる平和がアメリカにとって都合のよい平和であり、平和を愛好することがアメリカに対する従順を意味するという制約も免れがたいであろう。しかし我々日本国民はトルーマンのことばを超えて、真に平和を愛好し、日本の存在を本当に世界諸国民の歓びとし幸福とし得るような、国家として国民としての最高の理想をめがけて進んでゆきたい。

 昭和二十年(1945年)八月二十八日米機のしきりなる爆音を頭上にききつつ)」とあった。

米国に占領されたことは不幸中の幸い 東欧にみるソ連による占領政策の後遺症

 ソ連による東欧の占領政策を知ると、ソ連にではなく米国に占領されたことは不幸中の幸せだったと認めるのが公平かも知れない。そして敗戦の後遺症は今なお続いているのだと自覚する必要があろう。

 母が安倍恭子夫人(藤村操の妹)と東京府立第二高等女学校同級の親友だったので、入閣前から何度かたずねて先生の話を聞く機会があった。十畳位の一間に僅かな食器、日常家具と布団などを積み上げて、夫妻で起居されていた。その不便な暮らしの中で、「今ラジオで「夏の夜の夢」のオペラを聴いていた。面白いね」などと悠々たるものだった。

 宗教とは何かと問うと「個人の命を宇宙の大生命とつらねるものだ」といわれたが、宗教に入らなかったのは何故とたずねる機会はもたなかった。また当時の米国教育使節団と学制改革について論じあい、旧制高等学校の長所を力説しその存続を求めたが受け入れ られなかったとこぼされたていた。

同期生は仮卒業 政治学科407名法律学科87名計494名、入学は約800名

 私は多分9月中旬東京帝国大学(まだこの名前であった)法学部に復学した。学徒出陣にあたり文部省は昭和18年(1943年)9月に二年修了。といっても戦時の学年短縮で、最初の半年で一年の講義を終了したから、実質は入学後一年半だった学生にはある程度の単位取得をしていれば「仮卒業」という資格を与え、在学のまま翌昭和19年(1944年)9月に卒業させた。

 そこで同期生はほとんど仮卒業になっている。。銀杏会調べによると政治学科407名、法律学科87名計494名である。入学は約800名だったはず。私も仮卒業資格があったが、当時まだ三年配当科目など七科目を残しており、「戦死するなら大学生のままでいたい。生きて帰れば、しっかり受講したい」という論理で、仮卒業の申請をしなかった。そこで敗戦後のこの時、仮卒業組は聴講生にされたが、私は復学が出来た。とはいえ食糧危機、インフレ、交通機関の崩壊の中で、結核を患った身には殺人的混雑の電車で通学し、肋骨が折れる危険を冒すのは容易ではなかった。

川島武宜先生は敗戦後には公然とマルクス曰く、と

 講義に出てみると戦前と同じ教授のいうことがまるで変わっており、それに反発を感じる場合もあった。川島武宜先生だった。名著『所有権法の理論』を戦時中にまとめた川島武宜先生は、私達のクラスに物権法の特別講義をして、ゲヴェーレなどという難しい概念を教えて悩ましたが、「私はマルクス主義者ではありませんが」とわさわざことわっておずおずとマルクスの説を一部紹介していた。それが今や公然とマルクス曰く、とやっていた。それが悪いわけではいのだが転換があまり際立っており、大阪高校同窓の安井さんに似たキザな印象があって感情的に反発した。

 他方、丸山真男先生や、一高で教えを受けた大塚久雄先生(戦時中東大講師)の講義を何度か聞けたことがよかった。また多分大河内先生あたりから史的唯物論の壮大な構想を聞くことができて、世界観が変わる思いをした。丸山真男先生がまだ『世界』の論文を発表して強烈な反響を呼ぶ前のこと。

 末弘厳太郎の労働法もようやく禁止が解け、時代の焦点となり興味は深かった。南原繁先生は一度位しか聞けなかった。たまにしか講義に出ず、戦前のようにノートの空白を埋めさせてくれる友もなく参考書も入手できず、うぶなことに空手で受験する勇気が無かったので試験は放棄続きで、卒業のメドがたたなかった。

 大学側は溢れている学生を早く卒業させたがっていたので、早く相談すればよかったのだが、窓口の指導を受けてみたら敗戦から一年半たった1947年(昭和22年)3月になっても戦時の特典があり、既得単位だけで不足があっても卒業できた。

敗戦後の教授たちの自由な講義を聞いて大きな思想的変化

 こうして中途半端な「仮卒業拒否」は消えた。結局私は卒業年度をおくらせ生涯給与 の号数で損をしたが、この一年半の間のわずかな聴講で戦後の教授たちの自由な講義を耳にしたことが私に大きな思想的変化を与えた。そのために同期で戦後に大学の講義を聞かなかった仮卒業組とは生涯長く政治的、社会的な意見が違う思いをした。

 当時盛んに出版されはじめた粗悪でうすっぺらな用紙のマルクス主義のパンフレット「共産党宣言」や「賃労働と資本」なども次々と読んで、軍国青年の心に一抹の抵抗を感じながら、その眼は長くかかって徐々に開かれた。当時戦時中からの寵児西田幾多郎、和辻哲郎などの書はひっぱりだこで、反感を感じたそれらを売っては本屋にならんだ改造社版のマルクス・エンゲルス全集や、特に明治文化全集がバラで安価に出回っていたのを買いあさった。

 河上肇の『日記』は熱読したが、『貧乏物語』その他の経済学はマルクスが先だとして読まずじまいだった。

 世論は当時「民主主義とは何か」「選挙はどうする」「封建制を葬れ」「天皇制は廃止すべきか」という点に集中していた。その中で相変わらず、デモクラシーとはギリシア語のデモスとクラトスとに由来するなどといった、外国古典の安っぽい受け売りばかりが横行して、身近で何が民主的かと考えることは無かった。党より人を選べというのも新聞の流行語であった。年長者が反対意見をのべると封建的とされた。各地の青年会がしきりに座談会式の集まりを持つ。

 1945年(昭和20年)10月頃、アダム・スミス『国富論』の輪読を友人と二人で始めた。敗戦後の経済大混乱を理解すべく手をつけたが、戦争中の空白は大きく英語の読解力もさることながら、経済史の細部に至るまで知らないことだらけだった。戦時中よみかけて、空襲以後中絶していた大塚久雄先生の『近代欧州経済史序説』をまた読み始めていたので、その注にならって、父が米国から持っていた『パルグレーブ政治経済学辞典』を引いて一々未知の概念や史実を調べた。これは自分にはとても面白い勉強だったのだが遅々として読み進まず、戦後の日本経済の現状を知るための研究とはとうてい対応しなかったわけで友人をうんざりさせた。

高等文官試験にパスなかこんな連中に一生使われるのは我慢できない

 外交官庁から占領軍のメッセンジャーボーイに転落した終戦連絡事務局で、属官はさらに高文を通った事務官の使い走りであった。一つの文書に多くの課長や部長のメクラ判をおしてもらう稟議書(りんぎしょ)を持ち回らされて馬鹿々々しくなった。しかもその事務官たちの知的常識の低いことにまたまた呆れさせられた。

 米軍が二十四時間制の文書をよこすのに、十五時と書かれていると午後五時と読み違える始末だった。高等文官試験を戦前にパスしていない身でこんな連中に一生使われたのではとても我慢が出来ないと感じた。多分それらが退職を決意させたのだろう。辞令は1945年(昭和20年)9月18日付けである。

社会政策(大河内一男)、 労働法(末弘厳太郎)、東洋政治思想史(丸山真男)

 大学で写してきた聞きたい講義日程も書いてある。和辻さんと辻さんは多分一度も聞かなかった。

月曜 倫理学(和辻哲郎)
火曜 政治学(南原繁)
水曜 社会政策(大河内一男) 、労働法(末弘厳太郎)
木曜 政治学(辻清明)、和辻〃(末弘)
金曜 東洋政治思想史(丸山真男)

 頭を使うのは深夜部屋にこもって読書と思索にはげむ時、たまに昼間学校に出て友人を見つけて、やっと民主主義、社会主義、軍国主義などと議論に熱を上げる時にすぎなかったが意外に充実した日々だった。東大の御殿下と呼ばれたグランドの前の芝生に、復員服を来た一高文科丙類(フランス語を第一外国語とした)同級の友人たちが、日を追って帰ってきて、再会を喜び合った。

 人間魚雷「回天」の乗組になって、出撃しては故障で生き残った中学の日頃おとなしい友人の話も噂に聞いて襟を正した。

 「9月22日。吉瀬の家に行きアダム・スミスの国富論の輪講を来月半ばから始めることに定める。この事なかなか容易ではあるまい。根気を要する。しかしやりとげれば二人の為に大きな益を残してくれるだろう。敗戦後の平静を失った心のよりどころにも資するため大いに力を注ぎたいと思う。最近いろいろ反省してみて如何に自分が流れに逆らっているつもりで流されていたかを痛感し、自信を失っている。

[筆者・註]
 ここにある吉瀬とは事務次官になる吉瀬大蔵のこと。吉瀬維哉(よしせ しげや)は1922年(大正11年)7月4日から2003年12月22日は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。神奈川県横浜市生まれ。横浜第一中学校時代、「開校以来の秀才」と言われていた。第一高等学校を経て、1944年、東京帝国大学法学部を卒業。武山海兵団に入団後、短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、第31海軍航空廠付となる。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年4月、東京監督官事務所横浜支部に転じ、造船関係を担当。同年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。)

 天野貞佑氏の『学生に与ふる書』にある、人間は最も聖なるものを全の限定としての個人の資格で自己に宿し得るが故に最も高きものに寄与し得るが故に自己を尊敬すべし、に接し大いに我が意を得た。吾々は如何に愚鈍なりとも一臣下として己の誠を捧げて陛下に翼賛し奉る事が出来る。これこそ自己を高しとする所以なのだ。しかもその方途がやはり天野氏の云う如く己の持ち場に於いて誠を尽くすことによってのみ可能なのだ。天野貞佑氏には、それまで流されて何となく反感を抱いていたのだが。

 これこそ誰にでもできることではないか。ここに希望を見いだすべきである。日本再建の路を翼賛せんとするには他の日本人がいずれも最善をつくすかどうかを信用しなければ、己は一局部に閉じこもっている事が出来ぬ。他の全体への全力を捧げての貢献は信じ切って自分の持ち場に全力を打ち込むことが真の協力であると云う事も天野氏に示唆を受けた。雨の夜省線(今のJR)のなかで読みつつ帰り興奮のさめぬまま停電をおかし蝋燭の下に以上の感想を記す。」

 父の皇道主義の影響は強かった。いつまでもぬけない。

 日本共産党は1945年(昭和20年)10月7日の占領軍による解放指令以後いちじるしく脚光をあびていたので、依然たる反共主義から危惧の念を抱いていたが12月1日の代々木本部での党員だけの大会だったようで、傍聴の期待も持てず、出かけなかった。後に新聞に『綴り方教室』で戦前から有名だった豊田正子の報告が出たが、すでに余人には近寄りがたいセクト主義を感じさせられた。

悲痛、残虐で口に出せない経験は歴史には残らないだろう

 これほど劇的な世界に生まれあわせ、何らかの忘れられない体験を持たなかった人はいないであろう。しかもそれが個人的、あるいは少数の人による経験であり、さらに時代の流れを示す意義を持っと考えられる時は、その記憶を後世に伝えたいと思うのは自然であろう。もっとも原爆や空襲罹災、その他戦争犯罪にからまるようなあまりも悲痛、残虐で口に出せない記憶を持った人は、とうてい語りえないかもしれない。多分歴史にはそうした記憶や経験は残らないで消えていくのだろう。

 私の経験は平凡なものだが、時代が大きく変わった今では理解されにくい。なんと違った世界に生きたものか、異常に生真面目な生き方をしてきたのか、という疑問さえ感じさせる側面を持つと思う。少なくとも私個人やその家族の経験では、一度は戦前の天皇制国家を強く支持し、その国家の存亡の危機を感じて、あえて戦いに身を投じようと決心した。そして敗戦を悔しい思いで迎えた。

 占領軍への不信は容易に消えなかった。しかしそうした思いは、当時では行動に表せば反占領軍的として非合法となるものだった。そこで人と多くを語りあうことなく事態を黙視していた。

ソ連型社会主義が崩壊、支持に傾いていた社会科学者の反省

 自分ではその間にマルクス主義の学問、ソ連型社会主義に魅力を感じていった。そこに朝鮮戦争が起こり、日本も半ばその渦中に巻き込まれ、眼前に展開された現代兵器の下の苛烈な戦争は、激しい思想・宣伝戦で実情の把握が極めて困難であった。その後もさまざまな冷戦。そしてソ連・東欧がもろくも崩壊し、その支持に傾いていた私は、社会科学者として深く反省せざるを得なかった。

 この間に私自身もさまざまな文献や資料を研究、思索した結果、ようやく民主主義の理想的な側面を、批判的に支持できるまでに変化した。その時には、すでに米日など西欧の支配層は時代に適応しないとして、それを逸脱する方向に変わりつつある。その代表が憲法改正論であろう。私の感覚からすれば、今尚、進みつつある方向が狂っているとしか思えない。

戦争終結時、愛国主義と好戦主義に立っていた

 私は戦後しばらく生活した後は、日本における社会主義の形成展開に希望をいだき、保守政権に批判的な態度を維持してきた。だがそれ以前の私は戦争終結当時には、おどろくべき愛国主義、好戦主義に立っていた。それがどうして立場を変えてていったのか。

 それにつけてもかっての日本のケースは果たして真の民主化であったのか、それとも大多数の国民の場合はカメレオンのように素早く色を変えただけに過ぎなかったのか。

[資料]
1950年前後の学生運動――北大・東大・早大 イールズ闘争とレッド・パージ反対闘争――1950年前後の学生運動,回顧と分析 岡田裕之
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/651-03.pdf

海軍兵学校 (日本) - Wikipedia
受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者。身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験。面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させた。

レッドパージ反対闘争のこと - 駒場祭情報館 レッドパージ反対闘争のこと 大野明男(第一期生)2019年11月25日 投稿者:wilastone
学生投票は「約1800対1000」の差で、「試験ボイコット・スト決行」を可決。ストの2日前、正門前のピケット・ラインに警官隊が突っ込んで揉み合いになり、破られたが、ある学生が「ボクは警官隊がつくった道を通って受験しようとは思わない」と叫んだため、スト反対派の学生も動かず、矢内原学部長が南原総長に電話で報告のうえ、「試験中止」を発表する。そして天野文部大臣は「レッドパージの中止」を発表。
私たちは、1つの「勝利」を得た。その代償として13名の「退学・停学処分」があり、私自身は「復学」することもなかったが、この「10月闘争」のことを1度も後悔したことはない。多くの学友も、ストに賛成した者も、反対した者も、「退学・停学」で「復学」まで遠回りを余儀なくされた者も、ほとんど全員が「後悔」などしなかったはず、と断言できる。

大野明男 - Wikipedia
大野 明男(おおの あきお、1930年〈昭和5年〉9月12日 - )。
東京生まれ。旧制東京都立第三中学校、東京陸軍幼年学校、旧制群馬県立桐生中学校、旧制浦和高等学校を経て、東京大学に入学。東京大学教養学部の学生自治会委員長としてレッドパージ反対闘争を指揮し、退学処分を受ける。東大を中退後、東大生協、専門紙記者を経てフリーになる。自らの全学連(全日本学生自治会総連合)の経験を踏まえた学生運動や世代論に関する発言を中心に新中間層、経済、経営の分野に及ぶ幅ひろい評論活動を展開する。

福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時代ほか-
福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長

2026-03-13-t-youth-i-witnessed-part-1-the-case-of-satoshi-ninohe-

[資料]

目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

関連論説-その3-3,000万人国家日本と生活の有り様の予測 夏森龍之介
関連論説-その2-インフラ建設が経済成長に寄与した時代の経済学 夏森龍之介
├関連論説-その1-経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(29) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦(なぜ戦争をし敗れたのか) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その3-
 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(15) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 計量公務員への就職事情 国の機関・計量標準総合センターと地方公務員としての計量行政職員 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 中国における科挙制度の歴史 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 官僚 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 国家総合職と官僚機構 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 経済産業省の施策の一つに計量標準の供給と適正計量の実施の確保がある 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) OECDのプリンシパル・アドミニストレーターの古賀茂明 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 計量課に二度目の着任となった高山峰雄計量課長 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 通商産業省秋津修計量課長と芦原駅に降り立つ 執筆 夏森龍之介



旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

←ホームへ





官僚制度と計量の世界(30) 矢野宏と井伊浩市がいた新制東京大学の教養学部と学生のようす 夏森龍之介

韓国でのセミナー講師を通じて感じた韓国の計量事情-その1-

韓国でのセミナー講師を通じて感じた韓国の計量事情-その2- 「日本の計量器産業論-その1-」序論) 

「日本は貿易立国ではない]輸出依存度は15.2%

日本は第3次産業に移行中。変化する産業・職業構造(総務省統計局が2005年国政調査もとにまとめた資料による)

国土地理が日本の重力値の基準を40年ぶりに更新。国土地理院が2017年3月15日に公表

「重力を知る」 重力とは、重力の単位、地球の重力値、重力の役割

計測自動制御学会2017年第1回力学量計測部会運営委員会6月16日(金)に開かれる

5月下旬の韓国ソウル市中心街で過ごした一日(日本と韓国を考えるために役だった滞在だった)


TOPへ



「計量計測データバンク」サイトマップ
measure and measurement data bank of saite map

計量計測データバンク 目次 サイト
計量計測データバンク 目次 サイト(一括閲覧サイト)
社会の統計と計量計測の統計
一括表示版「社会の統計と計量計測の統計」
「計量計測データバンク」小論、評論、随筆、論文、エッセー、文芸ほか(目次版)
計量計測データバンク 目次 サイト(一括閲覧サイト) 
計量計測データバンク「計量計測辞書」 measure and measurement dictionary
「計量計測データバンク」




「計量計測データバンク」サイトマップ
measure and measurement data bank of saite map