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官僚制度と計量の世界(27)
Bureaucracy and Metrology-27-
情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府
The Japanese government was unable to determine when the war would end
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

日米開戦前夜、ドイツと日本の敗戦処理のヤルタ会談後、大本営は事態を認識できなかった

情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介

(本文)

日米開戦前夜、ドイツと日本の敗戦処理のヤルタ会談後、大本営は事態を認識できなかった


ヤルタ会談の写真。ヤルタ会談は1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦のクリミアのヤルタにあるリヴァディア宮殿で開かれた。イギリスのチャーチィル、ソ連のスターリン、米国のローズベルトら連合国首脳による会談。米国とソ連はヤルタ秘密を締結。ドイツ降伏から90日後にソ連が対日参戦し、これに伴ない千島列島、樺太、朝鮮半島、台湾などの日本の領土の処置を決めた。

日米戦争開戦前夜のドイツとソ連の東部戦線、フランス国境の西部戦線

 日本の大本営は第二次世界大戦における欧州戦線の戦況把握をしにくい状況であった。大本営から直接に派遣された武官がドイツとソ連の東部戦線、ドイツと英国ならびに米国とフランス軍のレジスタンスとの西部戦線を間近かにみて確かめればある程度のことは掴める。それでも知り得た事実にどの程度の重みがあるのかは別のこと。

 ヒットラーに心酔させたしまったドイツ駐在武官の大島浩は後に駐ドイツ大使となってヒトラーと交流が深かった。ヒトラーはドイツの軍事作戦を大島浩に伝えなかった。ドイツなど日本大使館からの本国への電報が解読されているという前提でヒトラーは大島に話をした。

 ヒトラーがソ連との不可侵条約を破って攻め入ることを大島は周知の事実のようにして知っていた。1941年3月にベルリンに来ていた松岡洋右外務大臣に対して日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言する。ベルリンのあとにしてモスクワ入りした松岡洋右は日ソ中立条約に調印する。それは1941年(昭和16年)4月13日のことであった。1941年6月5日にヒトラーと会った大島は、ドイツがソ連に戦争を仕掛けることを察知し打電した。松岡は取り合わなかった。既に条約締結を決めていたからだ。

独ソ戦 戦況を伝える二つの相反する情報

 大島浩のこのときの伝言の内容は当たっていた。大本営はその後「大島情報は正しい」と思い込む。日本が1941年12月8日に対英米に宣戦布告する時点で、ドイツのスターリングラードへの侵攻が失敗に帰たことが判明していた。大島はヒトラーの口から出た「ドイツの戦意は旺盛」という言葉をそのままに打電した。同じ時期に小野寺信陸軍大佐はスエーデンんのストックフォルムで大使館付き駐在武官として活動していた。ポーランドの高級将校にして諜報武官ペーター・イワノフはソ連が圧倒的に優勢になっていることを小野寺に伝えていた。独ソ戦の戦況はスイスほかの大使館員などとの交流を通じて確かめられていた。小野寺らはこうした戦況を日本に伝える。小野寺の電文は「日米開戦絶対不可ナリ」である。ドイツのソ連侵攻を言い当てていた苦い思いから、大本営は大島の情報に支配されていた。小野寺の「日米開戦絶対不可ナリ」は無視された。

 ミハウ・リビコフスキー(Michał Rybikowski)ことピーター・イワノフは1939年3月19日にポーランド軍の少佐に昇進、歩兵将校軍団で序列88位であった。1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐を隠れ蓑にして諜報収集の組織を広げて活動していた。ヒムラーはリビコフスキを「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」と呼んだ。ポーランドの情報は当然のこととして、ポーランドを支配したドイツがソ連に攻め込む経緯のすべてを知っていたピーター・イワノフは独ソ戦においてドイツ軍が巻き返しの効かない状況に陥っていることを小野寺に伝える。小野寺は周囲の事情をも考慮して事実を確かめ日本に打電した。それが「日米開戦絶対に不可なり」の電文。

 ドイツのスターリングラードへの侵攻失敗の状況下で日本が英米蘭の連合国と戦争に突入することは、ドイツとともに日本が敗戦の憂き目に合う公算が絶大であった。

 小野寺信はずっと後のポツダム宣言受諾が取りざたされているころに、ソ連が中立条約を破棄して日本に侵攻のするポツダム会談の密約を打電する。日本の対英米への開戦の1941年12月8日から4年後の1945年2月のことである。1945(昭和20)年2月4日~11日まで、アメリカ大統領ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソヴィエト連邦共産党書記長スターリンが、クリミア半島のヤルタでヤルタ会談において、千島列島のソ連領有と引き換えに、ソヴィエト連邦はドイツ降伏後3カ月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する密約を交わした。英国、米国、ソ連に独自の情報網を持つピーター・イワノフはこれを確認する。小野寺からのソ連の満州への侵攻の情報を大本営はまたも取り合わなかった。

外務省の嘱託職員が暇にあかして片っ端から拾い読みしていた機密電報

 結核の病によって幹部候補生を招集解除になり、外務省の嘱託職員になっていた福島新吾は、外務省内部の資料によって終戦直前の戦況を把握していた。次のような手記がある。

 「私の勤務なるものは、通常はほとんど無人の部屋で、暇にあかして棚から勝手に機密電報を引っ張り出し、片っ端から拾い読みをすることにつきた。そこには大本営発表とは正反対に、珊瑚海、フィリピン沖海戦の大敗、陸奥、武蔵、信濃、大和など大艦の無為の撃沈や事故、スイス、スウェーデンなど駐在の日本の外交官たちの報告。アイルランドのダブリン駐在の別府節弥領事のものが特にすぐれていた。中立国を介しての米英政府への必死の和平のための接触。外国電報ではpeace-feelersといわれていた。佐藤尚武駐ソ大使以下の、和平斡旋依頼のための近衛特使のソ連派遣受入れ交渉の顛末などが記され、眼から鱗の落ちる思いを日々くりかえしていた」

駐ソ大使佐藤尚武は父親の福島喜三次と東京高等商業学校の同期

 福島新吾の父親の三井合名理事、福島喜三次は1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業するが、佐藤尚武駐ソ大使は父親と学業を競っていた。佐藤は東京高等商業学校全科卒、同専攻部領事科へ入学。1905年(明治38年)、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省した。駐ソ大使佐藤尚武の報告などをみて何を感じていたか。外務省には戦況と各国のようすが小野寺信の報告と同じように確かな形で伝えられていた。

何故このようになってしまったのか

 何度も繰り返すが、第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み、学徒動員につづく幹部候補生の途中で結核のため招集解除になり外務省の嘱託職員として終戦を迎えた男の問いかけである。

一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

 そして「何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか」。負けることが自明の戦争を仕掛け、都市は焼かれ焦土となり、和平も道を探る余地なしで日本の無条件降伏を求められた。

 「何故このようになってしまったのか」を問い、探るための本稿である。

1945年8月16日にストックフォルムに届いたスエーデン国王を通じての和解の執り成し

 ヤルタ会談の密約が1945年8月9日のソ連の対日宣戦布告により満州への進行が確認された、1945年8月15日付の日本から小野寺信への電報はスエーデン国王を通じての和解の電文になっていた。着電は8月16日であった。1954年8月15日の前日はポツダム宣言受諾で軍部に不穏な動きがあった。そうした中での小野寺へのスエーデン国王を通じての和解の執り成しの通信となった。

 国民へは大本営が嘘発表を続けている状況下、大本営はまた欧州戦線での情報ならびにヤルタ密約の内容を伝える電文に疑心暗鬼となっていた。事実を伝える情報の選り分けをする判断力を持ちえなかったか、自己に都合が良いように解釈した。

暗号表による電文と解読合戦

 電文は暗号を用いて発信される。小野寺信大佐からのストックフォルム電報は婦人の小野寺百合子が暗号表を用いて打電していた。日本大使館や日本の駐在武官が本国との通信の電文はドイツにもイギリスにも解読されていた。

 イギリスはドイツによるロンドン空爆などを予測するために暗号解読を推し進め、アラン・チューリングらの働きによって、ドイツの暗号機械「エニグマ」の読解に成功していた。この事実は1970年代まで秘密にされた。

真珠湾攻撃発令の電文 ニイタカヤマノボレ一二〇八

 日米開戦決行の打電はニイタカヤマノボレ 一二〇八。新高山登レ ヒトフタマルハチ)。つまり1941年12月8日に攻撃を開始せよ。想像力を働かせれば1941年12月8日に何かが起こる。新高山登レの意味をどのように理解するか。新高山登レは合図のための隠語であり、つまりは符丁。新高山は当時日本領であった台湾の山で標高3,997メートル。日本で一番高い山だった。

 米国が開戦の暗号を解読していたことを示す証拠はない。日本が戦争を決意していることは察知していた。暗号解読を通じて「これは戦争を意味する」こと程度はわかっていたが日時場所などの詳細は把握できなかった。学習院大学学長をした日本政治外交史の井上寿一はラジオに出演した際に真珠湾攻撃は米国に察知されなかったのは歴史学者の定説になっていると述べている。

 日本政府の対米最後通告は真珠湾攻撃の一時間後となったので、ローズヴェルト大統領は日本の「だまし討ち」と米国民に訴えて戦意を高めることに利用した。米国は第二次大戦後には朝鮮戦争につづくベトナム戦争をする。ベトナム戦争に至っては米国民の戦意は失われ反戦活動に火が付く。その後に米国が仕掛けた戦争には正義はなく、徴兵制は解かれる。

アラン・チューリングによるドイツの暗号解読

 アラン・チューリングらは1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功した。イギリスは解読成功の事実を隠し通したためにドイツ軍は終戦までエニグマを使用した。日本の各国大使館と本国の電報は暗号表によっていたが、戦後になって解読されていた事実が明かされた。

 チューリングは、第二次世界大戦の期間中にブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校にてドイツの暗号の解読に成功する。英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門の責任者となり、エニグマ暗号機を利用した通信における暗号機の設定を見つける機械「bombe」(ボンブ)を開発した。

 第二次世界大戦に先立つ1938年9月からイギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始めたチューリングは、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読を担当。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)とイギリスおよびフランスの関係者によるワルシャワでの会合で、ポーランドが解明したエニグマのローター回路の情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を基にして解読を進めるが、ポーランドの解読法はドイツ側の暗号のキーを変える手法に対応できないでいた。暗号のキーの変更は1940年5月にもなされている。チューリングは汎用的でクリブ式暗号解読全般に使える手法を導き出し、 bombe(ボンブ)の機能として盛り込んだ。

 ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)における暗号解読者はレイェフスキ。1932年12月、シュミット情報を元にレイェフスキは3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。ローター解析には群論が用いられた。ドイツは暗号発信者に安易な開始位置設定をしないように求めても、今度はキーボード配列を借用したQAY、PYX等の鍵が多発する。このころの鍵探索法はgrill-methodとであり、プラグボードが6組の置換であった。このためにエニマグによって発信される暗号の解読された。

 戦後のチューリングは、イギリス国立物理学研究所(NPL)に勤務。プログラム内蔵式コンピュータの初期設計のひとつであるACE (Automatic Computing Engine) に携わったが完成を見ずに異動。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータである Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事、数理生物学に興味を移していった。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応を予言した。

開戦以前から読み解かれていた日本の外交暗号電報

 暗号による通信の解読ができていてもその事実を隠すことは軍事戦略上の常識である。英国が1939年にドイツのローター式暗号機エニグマの解読に成功していたことを明かしたのは1970年代になってからである。簡単な暗号表による通信を米国は早い時期に解読していた。

 山本五十六連合艦隊司令長官の1943年4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に撃墜され戦死した。山本長官の行動予定の暗号無線は解読されていた。

 NHKは1982年09月22日放送の「日米暗号戦争(1)山本五十六の最期1」で、太平洋戦争で使用した日本軍の暗号は、ほとんど米軍側に解読されていたとしている。山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機が米軍機の待ち伏せ攻撃を受けたのも日本海軍の暗号を米軍が解読していたから、として当時の日本の関係者の証言と米軍の記録から長官機撃墜の真相をさぐっている。司会は鈴木健二であった。

 連合艦隊司令長官の山本五十六は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く。前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。小沢治三郎は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機が少ないことを危惧し、先任参謀・黒島亀人に護衛機を50機増やすことを宇垣に伝えるよう託した。黒島はデング熱で体調が悪く宇垣に伝えなかった。一式陸攻の墜落を偶然に目撃した陸軍第六師団歩兵第二十三連隊長・浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず、軍医中尉蜷川親博と見習士官中村常男に捜索と救助命令を出していた。

 アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された山本五十六の慰問計画の暗号電文を解読してこの前線視察の情報を知った。ニミッツは、山本暗殺の議論で後にもっと優秀な司令官が出てくることを心配したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」という答えがあり、また、山本が戦死すれば日本の士気が大きく低下すること、山本がきわめて時間に正確な男で今度も予定を守るだろうということを理由に山本の暗殺を決断し、南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成した。

対英米開戦における英国への攻撃成功の暗号電文はハナサクハナサク

 1941年12月8日朝、真珠湾攻撃と同時刻に第23軍飛行隊は啓徳飛行場の英国軍機に対して航空第一撃を加えた。開戦命令の電文はマレー半島上陸成功を知らせる「ハナサク・ハナサク」という暗号であった。英国軍は対応が遅れ、啓徳空港もこの際に攻撃され、マニラから到着したばかりのパンアメリカン航空のシコルスキーS-42をはじめとする航空機を日本軍に破壊され、空軍機と義勇軍使用の民間機、航空会社の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破し全飛行機を失った。

 英国ロンドン郊外ミルトンキーンズにあるブレッチリーパークに英国のM16が密かに入手した日本陸軍の日本語とアルファベットで書かれた暗号書(乱数表)を展示している。1944年には既に太平洋諸島や欧州などで日本陸軍武官の電報を傍受して解読していた。解読していてもそれを明かすことはない。それ以前に解読されていたと想定される。

解読されていた外交暗号文書

 日本の暗号のうち最も早く解読されたのは外交暗号だった。1940年と真珠湾攻撃の1年以上前から終戦まで外交暗号電報が解読された。ベルリンの大島浩大使の暗号電報を解読して連合国側がナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの本音を読み取っていた。

 外務省電信課長を務めた亀山一二はソ連大使館に参事官として勤務していた1945年12月、戦時中に外務省と在外公館などの間で情報伝達に用いた暗号は理論、技術が幼稚だったと述べる。

 海軍の暗号も日米開戦時から解読されていた。連合国は陸軍の暗号は十文字以内の短文でモールス信号を発信していて手こずった。ニューギニアの村落で玉砕した日本軍が残していた暗号表が解読の鍵となった。

1941年から数学者を集めた暗号解読をしていたら簡単には負けなかった

 日本の相手国暗号の解析のために東大数学科名誉教授高木貞治らが1943年に動員された。小野寺信がスウェーデンで入手したクリプト社の暗号機「クリプトテクニク」を改良して1944年にアメリカの暗号の一部を解き始めた。

 1945年4月からは解読が進み、5月21日は初めて米軍のZ暗号が完全解読できた。7月半ば、米国国務省が重慶の在中国大使館に打電した電文が解読されたことを「暗号を盗んだ男たち」で檜山良昭が述べる。

 日本における暗号解読組織は中央特殊情報部の本部は三宅坂の参謀本部にあった。太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷台に移り、赤坂に移転後、1944年春に英国、米国の暗号を解読する研究部が杉並区高井戸の浴風園という日本最古の養老院に移った。数学、英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧姓中学生を加えると総人数512人が米国軍の各種暗号の解読作業を行なった。

 イギリスの情報機関MI6がロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウスで女性や若いオックスフォードやケンブリッジの学生を動員して各国の傍受電報を解読したステーションX(通称ブレッチリーパーク)と同じである。M16は国外の政治・経済及びその他秘密情報の収集、情報工作を任務としている。

 後二年早く、開戦の1941年から数学者を使い始めていたら、あんなに簡単には負けなかっただろう。暗号少佐だった釜賀一夫が悔やむ。

影佐禎昭陸軍大佐による汪兆銘「南京傀儡」政権の樹立

 日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画を1939年に建てる。1940年3月、南京に日本の傀儡政権の汪兆銘政権が成立。汪兆銘は同年11月には正式に主席となった。計画を建てて実行したのは影佐禎昭陸軍大佐。影佐は1937年陸軍参謀本部第7課(支那課長)、大佐昇進。同年11月、参謀本部第2部(情報部)では対支特務工作専従など日中戦争初期に作戦にかかわる。
影佐を長とする「梅機関」(影佐機関)が汪兆銘政権樹立の工作を進めた。影佐は1939年同年少将に昇進。

蒋介石は南京を追われ重慶に拠点を移して対日戦争を継続

 汪兆銘政権は日本の軍事支配下にある南京で南京国民政府として1940年3月30日に樹立された。国民党の蒋介石は南京を追われ重慶に拠点を移して対日戦争を継続していた。国民党の蒋介石の次ぐ序列であった汪兆銘を担いで傀儡政権の南京国民政府を誕生させた。影佐禎昭は汪政府樹立後は汪政府の軍事最高顧問に就任

米国は汪兆銘「南京傀儡」政権を承認せず

 汪兆銘政権は国民党の正統な後継者であることを主張するため首都を重慶から南京に戻すことを示す「南京還都式」の形式をとる。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えた。国歌は中国国民党党歌をそのまま使用した。重慶政府との合流の可能性をも考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任し、重慶政府の主席である林森を名目上の主席とした。米国国務長官のコーデル・ハルは、汪兆銘政権を承認しなかった。蔣介石は南京国民政府77名への逮捕令を発している。

日中の和平は成立せず

 傀儡政権の南京国民政府を誕生させたものの、汪が意図した重慶政府との和平は実現せず、蔣政権と日本の戦争状態はつづいた。日本とすれば、重慶政府と交戦しながら、南京の汪政権とは和平を結び、日中親善を唱えるという矛盾した状態にあった。蔣介石は中国政治における求心力を高め、抗日闘争が勢いを増した。

蔣介石と汪兆銘「南京傀儡政権」の二つに対して対日和平工作をはかる

 大本営に支那課を中心として国民党の序列二位の汪精衛を担いで傀儡親日政権を作り、戦争を終わらせる秘策、主導したのは参謀本部支那課長から謀略課長を務めた影佐禎昭陸軍大佐。影佐には陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。影佐は、自民党谷垣禎一の母方の祖父。

 大本営内にも現地軍にも、汪兆銘「南京傀儡政権」工作に疑問を持つ者は多かった。彼らは欧米勤務出身者が多くインテリで政治力に欠けた。汪派の人々は長年の中国勤務であったために世界的視野を欠いていたが政治力は強かった。大本営と陸軍参謀本部は汪派の影佐禎昭らに振り回された。

蒋介石の重慶国民党政府との直接和平工作に小野寺信を派遣

 影佐禎昭らの動きに疑念を抱いた参謀本部ロシア課は、汪兆銘工作が重要な局面にあることから、その前に蒋介石の重慶国民党政府との直接和平工作を図るために小野寺信を上海に派遣した。小野寺はロシア課の他に謀略課からも命令を受けていた。謀略課は、汪工作と直接和平工作の二つを同時に模索した。

 ラトビアの首都リガから参謀本部ロシア課に復帰した直後の1938年7月、小野寺はロシア課課員として同じ岩手県出身の板垣征四郎陸相に好感を持たれていた。板垣を通じて大本営本部と連携する小野寺の蒋介石への和平打診は大本営の意思を反映していた。

 小野寺に近衛文麿首相長男の近衛文隆が協力した。近衛文隆は早見親重と友人の武田信近とともに日中和平の工作をした。早見親重は東亜同文書院理事の肩書きで近衛文麿が秘密裏に上海に送り込んだ密偵。近衛文麿は表向きは蒋介石を対手とせず、としていた。

「小野寺機関」における近衛文麿首相長男の近衛文隆と美人諜報員・鄭蘋如

 近衛文隆の行動記録として、小野寺さんの手先となり重慶工作に深入りしつつ、と「木戸幸一日記」に記載がある。早見親重には中支那派遣軍の同僚の三木亮孝が協力した。早見、三木、近衛文隆を介して、鄭蘋如(てい ひんじょ)がこれにかかわった。日中混血の美貌の諜報員の鄭蘋如は、重慶政府の特務機関、国民党中央執行委員会調査統計局に属していた。その鄭蘋如が和平構想に動く「小野寺機関」に協力した。鄭蘋如の役割は翻訳係ということになっている。

 近衛文隆は学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスビル・スクールを卒業、プリンストン大学に学んだ。1939年(昭和14年)、東亜同文書院講師、兼学生主事(俸給・月 117円60銭、在外手当・月 54円40銭)に就任して上海へ。上海では蔣介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため日本帰国。帰国後も青年同志会という組織を作って直接交渉を主張。軍部から問題視され、1940年(昭和15年)2月に召集され、満洲阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍のち中尉昇進。1945年(昭和20年)8月15日、満洲で終戦を迎え、GRUのスメルシ部隊の襲撃を受け8月19日に捕虜となる。シベリア抑留で15ヶ所もの収容所を移動させられた。1956年(昭和31年)10月29日に捕虜収容所で死亡。

 鄭蘋茹(てい ひんじょ)は中華民国の特務諜報員。上海のグラビア雑誌『良友画報』の表紙に載ったことがある。鄭蘋茹に重慶国民政府の特務機関・中央統計局から次の指令がでる。重慶国民政府を裏切って、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者となっていた丁黙邨を暗殺せよと。1939年12月21日に丁の暗殺計画を実行するも失敗。ジェスフィールド76号に出頭、監禁の後、1940年2月に処刑される。

 蒋介石は袂(たもと)を分かって南京傀儡政権をつくった汪兆銘をベトナムのハノイに滞在中に暗殺を図る。汪兆銘の寝室を襲った襲撃はこの日連れの部下の部屋と取り替えていたために命拾いをする。部下は死んだ。蒋介石はこの時代に暗殺は戦術として躊躇(てめらい)なく実行していた。

根本的和平は蒋介石政権との交渉しかない 小野寺信の行動

 影佐禎昭陸軍大佐は傀儡政権を作って和平の道を見出そうとした。小野寺は多くの中国国民の支持を集める蒋介石を相手に戦争を早く切り上げようと考えた。「中国のナショナリズムを考えると、傀儡の汪政権では、中国の民衆の信頼を得られない。根本的に解決するには、蒋介石政権に直接和平交渉を開くしかない。そして天皇の決断を得ずして、泥沼化した日中戦争の終結は無理だろう」と。

 影佐禎昭は東條英機内閣総理大臣の「影佐は中国に対して寛大すぎる」によって、1942年北満国境の第7砲兵司令官へ転任、同年中将。翌1943年にラバウルの第38師団長へ転任。ズンゲンの戦いで生き残った成瀬部隊に玉砕を命じた。水木しげるの漫画「総員玉砕せよ!」がこの顛末を描く。米軍の重爆撃機B-29がラバウル上空を日本本土へ向かう状態の孤立無援のまま当地で終戦を迎えた。

北欧バルト三国駐在を通じて傀儡政権の脆弱さを見ていた小野寺信

 バルト三國のラトビアの首都リガに駐在してヨーロッパで民族の興亡を見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かないことを知っていた。最初のフィンランドのソ連との冬戦争のとき、ソ連が作った傀儡政権では国民が動かなかった。ドイツがノルウェーに作った傀儡政権でも国民は動かなかった。

 小野寺はソ連が世界を共産化する野心を持っていることをラトビア滞在を通じて知った。蒋介石の国民党の背後に敵対関係にありながら、抗日運動を通じて国民党と手を組もうとする中国共産党がいる。中国共産党をコミンテルンが操縦していることを見通した。日本軍と国民党政府との戦争が長期化すると益するのは中国共産党であり、ひいてはソ連。日本軍は蒋介石国民党と和平し、ソ連とコミンテルン対策をすべきと小野寺とその陣営は考えた。

 帰国した小野寺は参謀本部謀略課の臼井茂樹を通じて板垣征四郎陸相と中島鉄蔵参謀次長と面会。小野寺と同郷の板垣陸相は「香港はもちろん、重慶まで行って蒋介石に会う」と語っている。小野寺は作戦課の中で、重慶直接交渉派だった秩父宮や堀場一雄からも激励された。

 小野寺は、東海道線で京都から帰京する近衛文麿に浜松-小田原間の車中で面会する。近衛は軍が同意さえすればと言うだけで、諸手を挙げての賛成ではなかった。失意の小野寺に陸軍士官学校31期で同期の親友、臼井茂樹が手を差し伸べる。臼井は蒋介石と直接交渉する委任状を発行した。

 臼井茂樹は陸軍大学校(38期)。1940年(昭和15年)8月、参謀本部課長に転じ、浜松陸軍飛行学校教官を経て、1941年(昭和16年)7月、飛行第98戦隊長に発令され太平洋戦争に出征。ビルマの戦いに参戦し、1941年12月、ラングーン攻撃の機上で戦死し、陸軍少将に進級した。

 小野寺信は陸軍士官学校31期、歩兵科5位で恩賜の銀時計組。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業。臼井茂樹ともども陸軍の出世街道を歩いていた。

日中和平二つの道 交渉相手は傀儡政権か蒋介石か

 対中国との和平を重慶政府の蔣介石とか汪兆銘の「南京傀儡政権」に分けて、この二つの道筋を政治的な対立として捉えると、重慶政府の蔣介石に重きを置いた小野寺信の側と、汪兆銘「南京傀儡政権」を利用しようとした影佐禎昭の側がある。日中和平工作の二つの道ということになる。

 汪兆銘「南京傀儡政権」を米国は承認しなかった。中国国民は蒋介石の重慶政府を支持した。蒋介石は国共合作で連合国側に付いて対日抗戦を強め、日本の1945年8月15日のポツダム宣言による無条件降伏を引き出す。

皇道派小畑敏四郎の一番弟子小野寺信と統制派東條英機に影響はあったか

 小野寺信の陸軍内部での政治的地位を推し量る。小野寺が陸軍内の権力闘争に敗れた背景には盧溝橋事件の前年1936年2月に発生した二・二六事件があったとされる。陸軍内では、蒋介石と和解しソ連に対抗するため国力の充実を図ろうという勢力と、対ソ連は棚上げにして中国大陸を支配しようという勢力に分かれていた。前者は荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らが率いて皇道派と呼ばれ、永田鉄山、東條英機が主導する後者の統制派である。

 皇道派の若手将校が起こした二・二六事件後、皇道派の人々は陸軍中枢から外れ、統制派が主導権を握るようになった。小野寺は小畑の一番弟子と見なされる皇統派の一端にあった。皇道派と統制派の対立は、駐在武官として小野寺が参謀本部に送る情報の取り扱いに影響し、小野寺からの重要情報である日米欄開戦直前に独ソ戦におけるドイツ軍の苦境の通報、終戦直前におけるヤルタ会談のソ連の対日参戦の密約の通報を、参謀本部は無視することとなった。

蒋介石への和平提案は1938年から1940年12回なされた

 汪政権が成立しても日中和平は実現しなかった。日本政府が親日中国人に約束した大陸からの日本軍の撤退をしなかったこといよる。東條英機に嫌われた主流派だった影佐禎昭はラバウルの第三十八師団長に更迭された。

 蒋介石は「蒋介石日記」の中で、自分に対する日本の和平案は1938年から1940年の間に12回提議され、和平要求を12回拒否したことを明らかにしている。小野寺は12人のうち初期の一人だった。

 小野寺が上海から帰国する寸前、蒋介石は部下の姜豪(きょうごう)を通じて金製のカフスボタンを贈った。カフスボタンには蒋介石が自筆で書いた和平信義の彫が入っていて、国と国の間は和平、人と人との間は信義、との言葉を小野寺に伝えた。小野寺は上海で、中国国民党上海市党部委員の姜豪と接触し、国民党組織部副部長の呉開先を通じて重慶で和平会談の実現をめざした。上海には汪兆銘支援のため影佐禎昭が「梅機関」を設立していて、この路線(汪兆銘工作)と対立したため自然消滅した。姜豪との和平工作は姜豪工工作と呼ばれ1939年(昭和14年)1月に企図された。このとき工作に当たった小野寺信は中佐であり、大日本帝国陸軍中支那派遣軍司令部付であった。

日ソ中立条約調印に向かう松岡洋介外相にヒトラーはソ連への侵攻意図を隠した

 ヒトラーはベルリンを訪問した松岡洋介外相に対して独ソ戦に実行の意図を隠していた。

 ロンドン駐在だった辰巳栄一少将は、1940年10月、独軍の英本土攻略は不可能と断言できぬまでも、その実現は困難と判断する、と参謀本部に報告している。これは英米に偏りすぎたているとして、大島浩大使のベルリンからの親独情報を判断の材料として優先した。統師部は独ソ戦などの小野寺信、辰巳栄一による正確な戦況の知らせが届いていても、ヒトラーに心酔し負け戦を今尚戦意旺盛というヒトラー式大本営発表を真に受けていた駐獨大使大島浩の言葉に寄りかかって日米開戦を決意し、終戦のための和平工作を躊躇した。

ドイツ軍は日本外交団に英本土上陸作戦を匂わせた

 1943年小野寺はノルウェーを占領したドイツ軍に招待され、ノルウェーを訪問したときにドイツ参謀本部のウォロギツキー大佐から次の事実を告げられた。独ソ戦前のドイツ大本営は、作戦準備をカモフラージュするため日本外交団に対して、ドイツ軍が英本土上陸作戦に向かう印象を持たせるように仕組んだ、と。

 ヒトラーは自分たちが伝える情報を鵜呑みにする大島大使を最大限に利用して、偽情報による撹乱作戦行動にでた。

ロンドン暫定ポーランド政府所属の諜報武官幹部のリビコフスキー

 中立国のスエーデンの首都ストックフォルムにはソ連、ドイツの軍事情報を得るために各国の武官が駐留していた。日本のストックホルム駐在武官室の小野寺信に協力していたのがペーター・イワノフである。ポーランド参謀本部の武官であり情報将校の頭(かしら)でもあるミハール・リビコフスキーである。ミハール・リビコフスキーはロンドンの暫定ポーランド政府に所属していた。リビコフスキーはドイツのポーランド侵攻につづくドイツの作戦は対ソ開戦間違いなしという事実を諜報組織を通じて掴んでいた。ドイツ軍は開戦に備えソ連国境に近いポーランド領内で次々と部隊を配置していた。ペーター・イワノフ(ミハール・リビコフスキー)の情報は正確であった。

 エストニアとポーランドの情報武官が小野寺の味方について、非常に精度の高い情報を優先的に回したことで、どこよりも早くて正確な軍事情報を手に入れることができた。

秘密警察ゲシュタポのペーター・イワノフ暗殺指令

 ナチスはペーター・イワノフ(ミハール・リビコフスキー)の暗殺命令をだしていた。ナチスの秘密警察ゲシュタポはリビコフスキーの直属部下のヤクビャニェツ大尉を捕まえた。ヤクビャニェツ大尉はポーランド地下組織のリーダーとして、ドイツとソ連に対する諜報活動をしていた。ヤクビャニェツはリトアニアのカウナス日本領事館で杉原千畝領事代理に協力している。日本とポーランドの諜報協力は強固だった。

 ドイツは、ベルリン駐在の大島大使が自分たちに都合の良いことだけを日本に情報として送っているのに、ストックホルム駐在武官の小野寺が正反対のことを日本に伝え、その情報源がロンドンの暫定ポーランド政府に属する高級将校のリビコフスキーであり、その内容が正確であることを知っていた。ドイツ諜報機関はリビコフスキーの身柄引き渡しを駐独大使の大島浩に要請、これが小野寺信に伝えられたが、小野寺は拒絶した。

 リビコフスキーを殺すためにゲシュタポは躍起になった。リビコフスキーの部下が暗殺されるに至った状況からいよいよリビコフスキーの身が危なくなったために小野寺信はリビコフスキーの身の安全を確保するために次のようなことをした。

英国に逃がすためにペーター・イワノフに日本パスポートを発行

 満州国のパスポートであったリビコフスキーのパスポートをストックホルム公使館の神田代理公使に依頼して、日本パスポートに変更した。ペーター・イワノフのパスポートは白系ロシヤ人として満洲国のパスポートであった。リトアニヤにいた日本領事杉原千畝の斡旋でベルリンの満洲国公使館から発行されていた。満州国は英米などに承認されていない国であるためにパスポートの効力が及ぶ範囲が狭かった。

 リビコフスキーはロンドンに逃れて諜報活動を続け、ヤルタ会談における極東密約、つまりソ連の対日宣戦布告がドイツの無条件降伏後2~3カ月後であることを小野寺に知らせた。このような情報はスイスの日本大使館も掴んでいて参謀本部に打電していたことが判明している。幾つかの情報はドイツ降伏とソ連の対日参戦、満州侵攻の密約を確認していた。

外交クーリエである郵便物でヤルタ密約の知らせが届く

 ポーランド諜報機関の最も危険な将校ミハウ・リビコフスキーを英国に無事に逃したあとで小野寺との通信は途絶えていた。英国から大野寺のもとへ行嚢(こうのう)郵便物が届いた。外交クーリエである。リビコフスキーからのや旅行用の袋であり、大使館などが用いる場合には厳重な封印がなされ何人も開封することができない外交上の取り決め郵便物である。ヤルタ会談の極東密約におけるソ連の満州侵攻の知らせであった。

外交クーリエとは機密文書送付の外交特権郵便

 外交クーリエとは、外交文書を本国と各国の大使館や公使館間で運搬する特使のことで、外交特権の一つ。外交文書には機密文書が多く含まれるため厳重に封印が施され、外交行嚢には「DIPLOMAT(外交官)」の文字が印刷され、税関などで確認が行われない。

 亡命ポーランド政府の情報士官達は、日本の外交特権の行嚢(こうのう)を使って、在欧公使館やバチカンの支援を受け、ポーランドのワルシャワやリトアニアのヴィリニュスからスウェーデンを経由して、ロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る全欧規模の広範な諜報ネットワークを確立していた。行嚢(こうのう)とは、郵便物や旅行用の袋であり、大使館などが用いる場合には厳重な封印がなされ何人も開封することができない外交上の取り決め郵便物である。

 ポーランドの地下組織が日本の各国大使館と外交クーリエの特権を使って情報が伝達されていることについて在ローマ日本大使館の河原峻一郎一等書記官は、イタリア国防省から警告を受けていた。

ポーランド亡命政府公式情報としてのヤルタ密約が小野寺信に届けられていた

 リビコフスキーの身の危険はゲシュタポだけではなく日本大使館大島浩がからんで脅(おびや)かされた。日独伊三国同盟締結後、ドイツ一辺倒になったベルリン日本大使館で、満州国参事官としてポーランドとの諜報協力を主導していた陸軍中野学校の初代校長、秋草俊も露骨にリビコフスキーを嫌悪。ドイツはベルリンの大島浩大使を通じて執拗にリビコフスキーの身柄引き渡しを求めた。

 ストックホルム駐在武官でスエーデン国王の和平仲介を働きかける活動をしていた小野寺信大佐と連携していたはリビコフスキーをストックホルムの武官室で保護しつづけた。ゲシュタポは既にリビコフスキーの協力者の女性を公園で殺し、リビコフスキーが満州の偽造パスポートを使って日本陸軍武官室の職員として諜報活動をしていることを掴んでいた。リビコフスキー身の安全が窮迫するなか、ストックホルム公使館の神田襄太郎代理公使に依頼して日本パスポートを発給の手配をしたのが小野寺信であった。パスポートの名義はピーター・イワノフに漢字を当てた「岩延平太」であった。

 小野寺にリビコフスキ-は、ロンドンの亡命ポーランド情報部が入手した情報を駐在武官のフェリックス・ブルジェスクウィンスキーを経由して届けることを約束していた。それから終戦まで1年半、ロンドンから機密情報が送り届けられた。ブルジェスクウィンスキーはリビコフスキ-の出生地であるリトアニア時代からの友人であった。1945年2月に届けられたソ連の対日参戦のヤルタ密約がこのなかに含まれていた。小野寺信の回想録には、「会談直後の1945年2月半ば、ブルジェスクウィンスキーの長男である少年が、螺旋階段の最上階5階まで駆け上がり、小野寺の自宅郵便受けに手紙を落とした。午後8時、夕食を食べる前だった」とある。外交クーリエとしての行嚢(こうのう)郵便物であった。

 ポーランド軍の高級将校の身分であるのがもともとのリビコフスキ-の立場。ロンドンのバッキンガム宮殿に近くのルーベンスホテルに置かれていた亡命ポーランド政府の下に属する亡命政府陸軍参謀本部出向いたリビコフスキーは、連合国側ポーランド軍の旅団長に任命され、イタリア戦線で指揮を執った。リビコフスキーの上官で情報部長のスタニスロー・ガノ大佐が小野寺信に情報をおくりつづけた。

 ヤルタ密約情報を知らされた小野寺は直ちに日本の参謀本部次長あてに「ソ連はドイツ降伏より、3カ月を準備期間として、対日参戦する」と打電した。

 旧陸軍将校の親睦組織の機関誌『偕行』、1986年4月号「将軍は語る」で、小野寺信は、ヤルタ密約情報は「ポーランド亡命政府の公式情報だった」と述べている。ヤルタ密約の小野寺信情報は、ソ連を通じて和平を実現すると決めてかかっていた日本軍の参謀本部中枢には不都合であった。

 ロンドンにあって連合国側の一員のポーランド亡命政府であり、ここに集まる確かな情報としての対日ソ連参戦のヤルタ密約の内容であった。

ポーランド諜報機関の最も危険な将校ミハウ・リビコフスキー

 ポーランドは第一次世界大戦、第二次世界大戦ほかを通じて他国の侵攻を受けてきた。第二次大戦においてもドイツの侵攻に屈し、ソ連の押し返しのあとには社会主義の勢力下にあった。国の主権を失うか、主権が形だけの状態になることが多かったのがポーランドだ。欧州は陸続きであり軍事力が弱い国は、勢力を増大させた国の軍門に下って植民地支配される。

 ドイツ軍をして「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」とされたミハウ・リビコフスキーことピーター・イワノフは、1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐に協力して、対ソ連、対独の諜報ネットワークを組織して、ソ連、ドイツならびに英米など連合国の動きを探った。ポーランド国の軍人にして士官(陸軍歩兵中佐)リビコフスキーにとっては国の形が一時消えても元の状態に戻すべく行動するのが正義。

 ミハウ・リビコフスキー(Michał Rybikowski、別名ピーター・イワノフ、イアン・ヤコブセン、アダム・ミハウホフスキ、アンジェイ・パシュコフスキ)は、1900年2月3日生れ、戦後は米国に移住し 1991年1月27日まで生きた。ポーランド陸軍歩兵中佐。

 リトアニアのカウナス県の当時のパネヴェジス地区のロカニ生れ。18歳ではポーランド軍に志願、ベラルーシとリトアニアで活動する諜報機関に配属された。ポーランド・ソビエト戦争に参加。1927年、オストルフ・マゾヴィエツカの歩兵士官候補生学校に転属。1927から28年度には第4士官候補生中隊の小隊長、1928から29年度には中隊教官、1929から30年度には第3大隊の副官。1930年6月15日から9月15日まで、砲兵と歩兵のインターンシップ。1930年10月15日から12月15日、高等戦争学校のトライアルコースを修了。1931年1月5日、ワルシャワの高等戦争学校に、1930年から1932年の第11コースの学生として任命。1932年11月1日、課程を修了し認定将校の卒業証書。

 グニェズノの第17大ポーランド歩兵師団の本部に参謀将校として転属。1933年4月29日、彼は1933年1月1日付けで大尉に昇進し、歩兵将校団では116位。1939年3月19日に年功序列で少佐に昇進し、歩兵将校軍団では88位。

 自由都市ダンツィヒ、ケーニヒスベルク、カウナスのポーランド諜報部員であり、1941年からストックホルムの日本大使館の職員である小野寺誠大佐の下で対独の諜報ネットワークを組織して、ドイツならびに連合国の動きを探った。ドイツのヒトラーの取り巻きのヒムラーはリビコフスキを「ポーランド諜報機関の最も危険な将校」と言った。

 1944年10月24日から1945年2月1日まで、カルパチア・ライフルズ第5大隊の指揮官。1945年8月6日、彼は第2カルパティア狙撃旅団の指揮を執り、1947年に解散するまで指揮。

 1991年1月27日にモントリオールで死亡。ポワントクレアのフィールドオブオナー退役軍人墓地に埋葬。

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官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介


目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介




官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介



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