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官僚制度と計量の世界(28)
Bureaucracy and Metrology-28-
ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策
Postwar policy of distinguishing between Nazis and Germans
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

ローマ教皇ピウス12世「戦争の勝利者と公平、正義、平和について」

ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介


サンピエトロ大聖堂とバチカン市国(ローマ)

(見出し)


官僚制度と計量の世界(25)ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介

(本文)

ローマ教皇ピウス12世「戦争の勝利者と公平、正義、平和について」

ナチスとドイツ国民を区別する方針の決定をした米大統領ローズヴェルト

 エウジェニオ・パチェリ―のちのピウス12世は、1944年6月、連合国軍のローマ解放の直前、教皇は「怒りと復讐の本能は、正義と平静の威厳に従わなければならない。あらゆる戦争において、交戦国の一方が剣のみによって明確かつ明白な勝利を収めることに成功したとしても、それは公正な平和ではないことが明らかになる」と演説した。

 ローズヴェルトはこの発言に驚き、テイラー特使を通じて教皇、国務長官らに無条件降伏がドイツの完全な破壊を意味せず、ナチスとドイツ国民を区別する方針を説明させた。

1945年2月4日~11日のヤルタ会談の密約
ドイツ降伏後2か月~3か月の準備期間を経てソ連が対日参戦することで合意


 1945年2月4日から11日まで、アメリカ、イギリス、ソヴィエト連邦の3国首脳は、クリミア半島の保養地ヤルタで会談し、終盤をむかえた第二次世界大戦の終結に向けた戦略、戦後構想を協議をした。会談では極東における太平洋戦争について、ドイツの降伏およびヨーロッパにおける戦争の終結の後、2か月ないし3か月の準備期間を経て、ソ連が対日参戦することが合意された。

 1941年6月以来、ドイツと激しく戦っていたソ連は、独ソ戦の開戦直前に日本との間に中立条約を結んでおり、日ソ間には外交関係が維持されていた。日本軍と政府関係者は開戦当初から中立条約を結んでいるソ連を和平の仲介役にする構想であった。この戦争に完全勝利はなく、有利な戦況を築いて早めの講和を実現させることを想定した。天皇裕仁はバチカンのローマ教皇を和平の仲立ちにする考えをもっていた。

 「視点 日本とバチカン 宣教師から巧みな外交へ-ヴィクトル・ガエタン ナショナル・カトリック・レジスタ紙シニア国際特派員」に次の記載がある。

 1941年10月13日、昭和天皇は次のように記している。「この戦争を避けることはできそうにないが、いったん戦争に突入したら、和平交渉にどのように関与するか今から考えておく必要がある。そのためには、バチカンと外交関係を樹立することが必要である」

ローマ教皇ピウス12世

 ピウス12世(1876年3月2日~ 1958年10月9日)は、第260代ローマ教皇(在位1939年3月2日~1958年10月9日)。本名はエウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・パチェッリ。第一次世界大戦の終戦時には、ベネディクトゥス15世の意を受けて平和のための活動をした。欧州大戦の危機迫る1939年3月2日、パチェッリは教皇に選出されピウス12世を名乗った。戦争が始まると、第一次世界大戦時のベネディクトゥス15世のやり方に倣って、バチカンは不偏を主張した。バチカンがナチス・ドイツのユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことで戦後批判される。

勝ち目の少ない戦争であると知っていて日本の参謀本部は開戦した

 日本の参謀本部は勝ち目の少ない戦争であると知っていて開戦したものの、勝利がつづけば調子に乗って、朝鮮、満州、台湾の領地のほかに南方、そして北樺太を当たらな領土しただろう。中国の戦線での戦闘の連続、あるいは幾つかの海戦の連続勝利、南方の支配を構想していた。参謀本部は南はあるところまでとまでということで認識を一つにしていた。真珠湾攻撃が上手くいってみると欲が出る。この調子が続くことはなくレイテ沖海戦の敗北で日本艦隊は事実上消滅し、負け戦が明確になる。

 どこかで目立つ戦果を挙げて和平に、と身勝手な考えに持つようになる。制海の後退は制空の後退であり米軍による都市爆撃が始まる。1944年(昭和19年)11月以降、B-29が爆撃のためテニアン島から日本に飛んだ。サイパン島に取り残された日本兵をあざ笑うようにB-29が上空を飛んだ。日本には反撃能力はなく。連合艦隊の旗艦である戦艦大和は母港の呉軍港と広島湾そして関門海峡もを機雷で封鎖され身動きが取れない状態にあった。

 戦争末期には日本海軍の暗号は米軍に解読されていた。大和の出撃は通信諜報によって知られた。豊後水道では米軍のスレッドフィン、ハックルバックの2隻の潜水艦に行動を補足された。1945年4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は暗号を組まずに「ヤマト」のその名前のままに本体に連絡していた。

 アメリカ軍の制海権と制空権下を突破して沖縄に到達するのは極めて困難。一億総玉砕の戦う姿勢を示すだけが目的になった戦法。作戦の表向きは、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦。

 1945年(昭和20年)4月7日に6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させ最後のとなる日の行動を開始。沖縄への特攻的な突入作戦である。編成は戦艦大和と第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)。

 待ち構えた米軍の航空機そして駆逐艦などが攻撃をする。大和は左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして14時23分に爆発・沈没。

 日本爆撃の基地になったテニアン島から飛び立ったB-29が、1945年(昭和20年)8月6日に広島、8月9日に長崎への原爆投下している。

ヤルタ密約におけるソ連の対日参戦の政治的・軍事的条件

 ヤルタ密約におけるソ連の対日参戦に関する政治的・軍事的条件は次のようであった。

 ソ連の対日参戦に関する政治的条件は、

1、南樺太およびそれに隣接する島嶼の「返還」、千島諸島の「引き渡し」。

 日本の実質的な支配下にあった遼東半島先端部の大連港の国際化、旅順港の租借権の回復などであった。

ソ連の対日参戦に関する軍事的条件は、

 軍事面では、ローズヴェルト大統領は、米統合参謀本部(JCS)の要求にもとづき、
1、ソ連軍による満洲への全面的侵攻。
1、沿海州への戦略空軍(陸上機)基地の設置。
の二項目を求めた。

 スターリンは、2月8日、ローズヴェルトとの2人の会談で同意を与えた。

[沿海州]
 沿海州とは、ソビエト連邦時代の1938年に分割、改組されて、南半分は沿海地方 、北半分はハバロフスク地方の一部。その後も日本語では慣用的にソ連・ロシア領のこの地域を指して沿海州としている。

日本の戦況悪化のもとソ連の対日参戦は死活問題

 英米蘭戦争開戦後、日本にとって日ソ関係は外交の主軸であり、独ソ和平を日本が仲介することで、戦争を終結させるという構想を開戦当初から持っていた。

 欧州においてドイツの戦局が不利に傾き、日本も決戦と位置づけていたフィリピン・レイテ島における戦いに敗れ、米軍の侵攻が本土に迫っている状況で、ソ連が中立条約を破棄して参戦するという密約は、死活にかかわった。

アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国による「四人の警察官」構想

 米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領は、第二次世界大戦後の世界について、「四人の警察官」構想をとなえ、アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国を世界の平和と安定を担う「大国」と位置付けていた。

 ローズヴェルトにとってソ連との協調関係は、戦後世界において国際政治上も重要であった。このことから極東における日本との戦争にソ連を引き込むこととした。

外交と軍事情報を重視したローズヴェルト

 ローズヴェルトは外交と軍事の情報に気を配った。太平洋戦争開始後、戦時広報を担う戦争情報局(OWI)、秘密情報の収集、謀略、準軍事作戦などを担う戦略情報局(OSS)を設置したのはこのため。

 OSS(米国戦略情報局)の長官は、アイルランド系カトリック教徒で超党派的な人脈をもつウィリアム・ドノヴァンであった。

 ドノヴァンは、諜報員を使って運営する秘密諜報を実施する傍ら、調査分析活動を重要な任務として位置付けた。調査分析部門に人文社会系の大学教授や若手研究者を多数配置して活動した。

ソ連軍、連合国軍のベルリン侵攻とドイツの降伏

東部戦線におけるソ連軍の戦い

 ソ連のベルリン侵攻。つまり東部戦線におけるソ連とドイツのベルリン周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘戦い。ソ連は、1945年4月16日に赤軍のゼーロウ高地攻撃開始、5月2日にドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将は降伏する。

 1944年6月22日に動き出したソビエト赤軍(ソ連軍)によるバグラチオン作戦は、ドイツ軍はソ連領から追い出す戦果を挙げた。1945年1月20日、赤軍は東プロイセンに侵攻。参謀総長ハインツ・グデーリアンはラジオ放送を通じて「赤軍本土侵攻」を報じドイツ国民に警戒を伝達。またヒトラーにベルリン防衛の強化を進言する。ヒトラーは1月23日の会議でオーストリアとドイツの石油の80%を供給するハンガリーの防衛を優先し、ベルリン防衛予定部隊のうち第6SS装甲軍をハンガリーに派遣する。第6SS装甲軍はハンガリー撃滅された。

 東部戦線でも西部戦線でも1944年からドイツ軍の苦戦がつづき敗色が濃くなる。

 東部戦線におけるソ連軍とポーランド軍対ドイツ軍の戦闘が続くなか1944年3月28日、ヒトラーはオーデル戦線におけるキュストリン橋頭堡を守れなかったハインツ・グデーリアンを参謀総長から解任、後任にハンス・クレープスを任命した。キュストリン橋頭堡の戦いで敗走したドイツ軍は、その後の最後の堡塁ともいうべきゼーロウ高地でも敗れ、ソ連軍のベルリン進撃の結果となる。

 ドイツ軍は劣勢に陥っており、首都ベルリンの運命はオーダー河戦線のヴァイクセル軍集団隷下の第3装甲軍と第9軍、中央軍集団隷下の第4装甲軍に委ねられていた。

 予備兵力は薄く、書類上は師団でもその戦力は低下しており、国民擲弾兵や武装SSの外国人義勇兵など、即席部隊で対応しなければならなかった。即席部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられた者が多かった。そのため実質的な指揮官は叩き上げの軍人であるヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将やヴィルヘルム・モーンケSS少将らに委ねられた。

 1945年4月初頭のベルリンは赤軍(ソ連軍)がいつ攻め込んでくるかわからない状況。ベルリン市民は恐怖と絶望にあえぐ。ナチス党員は降伏すれば即決裁判で処刑される。1人でも多くの赤軍将兵を道連れにしようとした。

 ヒトラーはドイツの人種、文化、建造物を自分の運命と一緒に破壊しようとして、その指令を出す。

 ナチスの宣伝省ゲッペルスは徹底抗戦を訴える放送を続ける。市民はもう聞かない。生き残ることだけが大事になっていた。白旗を掲げる家には親衛隊が発砲した。

 発効を1945年5月9日0時として、5月7日にドイツ国防軍全軍は無条件降伏文書に署名した。

 降伏したドイツには、英軍や米軍がベルリンに入ることが決まったため、1945年5月18日に、全ての残留大使館関係者とベルリン郊外のソ連占領区域に避難していた民間人に対して退去が命じられた。20日出発でモスクワ経由でシベリア鉄道で日本への帰国となり、これにスウェーデンに在留していた日本人も合流した。

西部戦線における英米など連合国軍の戦い

 第二次世界大戦における西部戦線(せいぶせんせん、Western Front)は、第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線のうち、ドイツおよびその西方に位置するフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、デンマークなどにおける、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などの連合国と、ナチス・ドイツをはじめとする枢軸国の間で行われた一連の戦闘。東部戦線は、枢軸国とソビエト連邦の戦闘。

 1940年5月、ドイツ軍によるベネルクス三国およびフランス侵攻が開始された。フランス北部を占領下においたドイツ軍は次にブリテン島、つまりイギリス本島への侵攻を図る。上陸作戦の前に制空権を確保しようとするドイツ空軍とそれを迎え撃つ英空軍との戦いが始まる。このブリテンの戦いは英国軍の優勢となり、ドイツは英国本島への侵攻を止める。

 ドイツが制圧した後の2年間は、西部戦線においては特殊部隊の散発的な攻撃やレジスタンスによるゲリラ以外に大規模な戦闘は行われなかった。

 北アフリカではヨーロッパ大陸への反攻に向けて、地中海制圧に乘りだす連合国と、英国への米国からの軍事物資などの海上補給を遮断しようとするドイツ軍との間で海の戦いがつづいていた。

 ドイツ本土に対して米空軍第8軍および英空軍による戦略爆撃が行われ、産業や国民生活に影響を与えた。

 状況を一変させたのは連合軍によるノルマンデー上陸である。攻撃開始は潮位、月齢、天候予測などをもとに1944年6月6日に決定。ノルマンディーへの海からの上陸作戦と海岸の内陸部への空挺部隊による落下傘降下作戦が同時に進行した。連合軍は上陸地点の一つであるオマハ海岸での戦闘で多くの犠牲を出しながらも成功裏にこれを進めて、フランスへの侵攻の橋頭堡を確保した。

 戦線の西側を担当していた米軍はドイツ軍の防衛線を突破しブルターニュ地方へ侵攻するコブラ作戦を7月25日に開始する。数千機の連合軍機による絨毯爆撃の威力は大きくドイツ軍の防衛線は破られた。8月21日まで続いた戦闘でこの方面のドイツ軍は壊滅する。

 連合軍は8月15日に地中海側の南フランスでもニースとトゥーロンの間に上陸と空挺部隊の降下により進攻。ドイツ軍は大きな抵抗をせずに退却した。

 ファレーズ後の西部戦線のドイツ軍は組織的な抵抗はできなくなり、連合軍はさらに東へ進撃して8月25日にパリを解放した。

 バルジの戦いで西部戦線は数ヶ月の停滞を余儀なくされたが、1945年2月からアイゼンハワーは長大な戦線の全面で前進を指示し、徐々にライン川西岸に迫っていた。3月1日はレマーゲンにてライン川東岸に撤退するドイツ軍が爆破しそこなった橋梁を発見し、ライン川渡河への足がかりをつかんだ。そして3月下旬には前線の大半がライン川西岸に到達し、3月23日より大規模なライン川渡河作戦、翌24日にはアメリカ軍の渡河とルール工業地帯包囲を目的としたヴァーシティー作戦が展開され、両作戦は成功した。

[バルジの戦い]
 バルジの戦い( Battle of the Bulge)は、第二次世界大戦の西部戦線において、1944年12月から1945年1月の間アルデンヌ高地で行われた、ナチス・ドイツのドイツ国防軍および武装親衛隊と米軍を主体とする連合軍との戦闘。ドイツ軍は一時的に反撃したものの、態勢を立て直した連合軍はドイツ本土へ進撃する。

 1945年4月25日にエルベ川河岸のトルガウ近郊でソ連軍第1ウクライナ戦線第5親衛軍の部隊と初めて合流する。

 連合軍は北ドイツおよび南ドイツとオーストリア方面へは進軍を続けた。北ドイツでは、英軍が5月2日にハンブルクを占領することでデンマークへの進路を確保し、5月7日にリューベック近郊のヴィスマールでソ連軍と遭遇している。

 南ドイツでは、進軍した米軍が4月28日にミュンヘンを占領、さらにオーストリアのチロル地方に進軍。4月末、米軍第3軍はチェコスロバキア国境を越えて進軍したため、チャーチルは4月30日にチェコスロバキアの首都であるプラハを確保するよう米軍に要請して拒否される。第3軍は5月6日にボヘミア地方西部のプルゼニを解放。アイゼンハワー進軍をそこで止める。

 ベルリンでは1945年4月30日にヒトラーが自殺した。後継者とされたカール・デーニッツ提督のもとで、1945年5月8日にドイツ国防軍は無条件降伏をした。

ドイツ国防軍は無条件降伏

 ドイツ国防軍は、1945年5月7日にフランスのランスで西側連合国に、5月9日にベルリンでソ連軍に無条件降伏した。
[経緯]
1、1945年4月末にヒトラーが自殺し、首都のベルリンがソ連軍に占領された。
2、5月7日にドイツ軍代表がフランスのランスで降伏文書に調印した。
3、5月8日にベルリンのカールホルストで批准手続きが始められ、9日夜に降伏文書調印を行った。

対日戦争とローズヴェルトの企図

 ドイツと連合国の戦い。東部戦線はソ連とドイツ軍の戦いであり、西部戦線は連合軍とドイツ軍の戦いである。ドイツ軍は枢軸国軍ということになるがイタリア軍は早くに瓦解しているので実質はドイツ軍との戦いであった。

 1945年2月4日~11日のヤルタ会談がもたれることには戦況はドイツ軍の敗北が決定的になっており、戦勝国が戦後のヨーロッパとアジアの秩序を定める内容になっている。対日本との戦争においては最後の一押しを、兵士の損耗を極力抑えて切り上げるかを米大統領のローズヴェルトは企図していた。

 ヤルタ会談におけるソ連のスターリンと米国のローズヴェルトの対日作戦における密約がなされていた。その内容は前述している。

1945年1月~5月ころのヨーロッパ戦線の状況と米国OSS調査分析部の活動

 戦争勝利が決定的になっている状況下、米国のOSS 調査分析部(Research & Analysis)は1945年1月~5月ころにヨーロッパの中立国で特に日本の戦争処理のためにどのような活動をしていたのか。

 日本は戦争処理を無条件降伏ではなく和平あるいは講和をめぐって、意向の打診や確かめ合いをしていた。日本の外交官とローマ教皇との接触、米国の関係者との接触などはその後の世界と日本の国家制度あり方につながる幾つかの事実を確認できる。

 そのうちの一つにローマ教皇ピウス12世(エウジェニオ・パチェリ)のナチスへの態度、ドイツ国民への態度、カトリック教徒への態度、共産主義への態度、戦争における勝利者のあり方と取るべき態度などが、米国大統領のローズヴェルトの行動を規制した。

 ナチスへの態度、ドイツ国民への態度に意見が述べられ、カトリック教徒のドイツ国民への配慮があった。ローズヴェルトはナチスとドイツ国民を分離して対処することになり、戦後になってナチスへの激しい批判がドイツ国民から分離されてなされていることの不自然さに理解を与える手がかりとなる。

 ナチスは異常であり人類の敵であり徹底的に排撃する。ドイツ国民は可愛そうであった。そもそもドイツ国民は悪いのではない。ナチスからドイツ国民を分離して戦後の民主社会の一員として共同して生きて行こうというものである。

 共産主義を嫌うローマ教皇ピウス12世であり、同じようにナチスを嫌い排撃する。そのようにしてドイツ国民は庇護された。ドイツは東西に分離され、東ドイツはソ連の影響の下、全体主義にして宗教の自由を制限されたなか、貧しく息苦しい国民生活を強いられてきた。

 以上のようなことが解かると本稿執筆の目的あるいは動機である「何故このようになってしまったのか」という模索の手がかりになる。

一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

米国OSS 調査分析部(Research & Analysis)

 ケベック会議に向かうローズヴェルト大統領に「戦後極東における主導権」という書面を手渡している。書いたのは1943年8月、OSS 調査分析部ソ連課長のジェロイド・ロビンソンである。

 「戦後極東における主導権」は、ソ連は現在は欧州の戦争に手いっぱいだが、極東への利益関心を失ってはいない。「少なくとも北方においては、われわれの敵日本を強力なままにするのか、その地域をソビエト支配へと放り出すのかの、選択をしなければならない」と記している。

 ここで取り上げられているケベック会議は1944年9月12日から16日に開催された第2回ケベック会談のことで、ドイツ占領におけるモーゲンソー計画に対する考え方。

 二度の世界大戦において同盟国(中央同盟国・枢軸国)の中心的存在であったドイツから、戦争を起こす能力を未来永劫奪うため、過酷な手法を用いる懲罰的な計画。

 計画は以下の3つの段階からなっていた。①ドイツを2つの国家(北ドイツと南ドイツ)に分割する。②ドイツの主要な鉱工業地帯であるザールラント、ルール地方、上シレジア(シュレジエン)は国際管理の下に置くか、近隣国家に割譲する。③ドイツの重工業は、その全てを解体あるいは破壊する。

 アメリカ合衆国財務長官でユダヤ系アメリカ人のヘンリー・モーゲンソーによって立案された。

 1943年8月11日から24日に開催された第1回ケベック会談では、ノルマンディー上陸作戦計画が立てられ、連合軍の東南アジア司令部の設置が決定された。

ベティ・カープがソ連の戦勝後の構想を見抜く

 ベティ・カープは、OSS幹部のアレン・ダレスがイスタンブールで見出した諜報員で調査分析部ニューヨーク支部に所属しいた。複数の在米ソ連人からの聞き取りにもとづいて、当時スターリンの有力後継者と目されていたアンドレイ・ジダーノフの発言内容を含む、戦後の中ソ関係の見通しについて1944年11月に報告書を提出している。

 内容は「ソ連は満洲における対日参戦を通じて影響力を拡大したうえ、クレムリンは中国共産党の満洲支配を望むこともありうる。米英両国との協議においては、ソ連は中国、とりわけ満洲におけるソ連の特別の戦略的、経済的利益を承認することを前提条件とするだろう。日本の敗北により、ソ連がアジアで従来よりもはるかに大きな勢力を有することになるという事実から目を背けるべきではなく、大西洋地域の軍事基地と同様に、太平洋地域における軍事基地の維持、強化が欠かせない。対日戦争に関しては、ソ連が戦争終結直前に満洲に侵攻し、満洲の併合や朝鮮の直接的または間接的な支配を主張する可能性がある」というもの。

スイスにおける和平工作の窓口が米国の情報機関 OSS

 日本側と降伏条件をめぐるスイスにおける和平工作の窓口が、米国の情報機関 OSSであった。さまざまなやりとりをしていたことが知られている。

 1945年4月ころ、日本海軍の軍需品買い付けのコンサルタントを勤めてきたフリードリッヒ・ハックを介して、日本海軍の藤村義朗中佐がOSSスイス・ベルン支局長のアレン・ダレスに和平交渉の依頼を行い、降伏条件、とくに天皇の地位保障をめぐって、交渉が行われた。この内容を日本の海軍省は信用せず、外務省でも積極的に取りあげられず、和平交渉の道筋としては機能しなかった。

戦後 CIA 長官をつとめるアレン・ダレス

 アレン・ダレスが主に取り組んでいたのはドイツの反ナチス勢力との和平交渉であった。1945年1月末、OSSベルン支局を拠点に活動していたダレスは、スイスで反ナチのレジスタンスやヒトラーに批判的なドイツ国防軍軍人との接触を重ねていた。

 ダレスは1945年1月27日付の報告書のなかで、44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に身を投じた軍人たちについて次のように説明している。

①無条件降伏は不変の方針であるが、ドイツの軍部の指導者たちはドイツの将来を真剣に憂慮している。
②全ドイツの都市が不必要な破壊を回避し、食糧や物資の適切な配給により、経済生活の回復を図ることができるかどうかの瀬戸際にある。
③ドイツ国防軍内の建設的な政策を持つ将校には、ナチス体制の解体に寄与させるべきである。

 報告書の締め括りは「ソ連が東ドイツでカオスを現実に作り出す前に、ドイツ軍を米英側に帰順させることにつながると信じる」となっている。この報告はOSS 次長から米国軍統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff、略称: JCS)に届けられている。

無条件降伏を求めることと自軍兵士の損耗の計算

 OSSでは、1944年末には次の考え方を明確にしている。

 「ワシントンの本部においても、欧州の戦地においても、ソ連の勢力拡大を防ぎ、米軍兵士の犠牲をできる限り少なくするために、無条件降伏(unconditional surrender)に字義どおり拘泥することなく早期の戦争終結を企図すべきである」

スイスにおける日本との講和のための折衝は1944年夏ころから

 日本に対しても、1944年夏ころから折衝していた。横浜正金銀行ドイツ総支配人兼国際決済銀行(BIS)理事の北村孝治郎は、1944年夏、滞在していたホテルで女性指圧を装った工作員から、ジョセフ・グルー元駐日大使の著書『滞日10年』(Ten Years in Japan)を手渡され、本にはグルーがダレスに献呈したことを示す署名があった。

 ダレスが国務省内の天皇制存続を主張する、いわゆる「ソフト・ピース」派人脈につながっていることを日本側に印象付ける狙いがあった。

フリードリッヒ・ハック情報「日本は和平仲介はソ連を想定」

 OSSベルン支局は、1945年3月21日に、日本海軍の軍需品買い付けのコンサルタントを勤めてきたフリードリッヒ・ハックのもたらした情報として、在ベルンの加瀬俊一公使が、日ソ関係は改善しつつあり、ソ連は日ソ中立条約延長に前向きであると考えているとワシントンの本部に報告している。

 米国の通信傍受解読記録 MAGICによれば、加瀬はドイツ崩壊後の5月14日、東京に以下のような長文の電文を送っている。

 「ソ連は欧州での戦争終結後、戦わずして目的を達成することを望むかもしれない。我々は彼らに提供できるものと引きかえに、ソ連に仲介の役割を取らせる機会を得ることも、かなりあり得るかもしれない。そのうえ、もしこの途に失敗したとしても、直接米英と交渉して失敗することに比すれば、まだましだと考えられる」

 加瀬は5月中旬にソ連を通じた和平仲介が米英との交渉よりも有利であると本国に報告していた。しかし5月12日、ドノヴァンは米国軍統合参謀本部(JCS) に対して、OSSベルン支局からの情報として、極東問題に精通する反ナチス・親日のドイツ人からの報告として次のことを伝えている。

 「加瀬公使は、5月11日の談話において、連合国との和平交渉を希望しており、極東全域における共産勢力の伸長を招くソ連の和平仲介よりも米英との直接交渉が望ましいと考えていると述べた。加瀬は日本の共産化に対する唯一のセーフガードとしての天皇制の存置を和平条件として考えていると思われる。加瀬はグルー国務次官もこの見解を共有していると考えている」

 ダレスは、ドノヴァンを通じて、スイスにおいて日本人グループを公式に代表する加瀬がソ連よりも米英との直接交渉を望んでいるという情報を統合参謀本部に報告していた。加瀬の立場を実際よりも米国との交渉に前向きである。つまりスイスを通じた和平交渉は有望であるとの印象を米国軍統合参謀本部(JCS)や大統領に与えようとした。

ヤルタ密約前にヴァチカンを通じての和平構想

 中立国であるヴァチカン・ローマ教皇をめぐる日本からの働きかけなどの動きには次のようなことがあった。

 昭和天皇裕仁は皇太子時代にヴァチカンを訪問している。以来親近感を抱き日米開戦前から終戦時の和平の仲立ち役としてローマ教皇庁を想定していた。

 開戦後、世界の情報蒐集における便宜、全世界に及ぼす精神的支配力の強さに加えて、カトリック教徒が住民の圧倒的多数を占めるフィリピン統治の必要などから、開戦後東條英機首相に命じて1942年4月、ヴァチカン市国に公使館を開設した。フランス・ヴィシー政権の大使館で参事官を務めていた原田健が初代の特命全権公使として教皇に信任状を捧呈(ほうてい)した。

 1945年1月26日、OSS のチャールズ・チェストン長官代理は、原田公使がローマ教皇に語った次のヴェッセル情報を伝えている。

 「日本政府は、スターリンが日ソ中立条約の更新にソ連が無条件で同意するだろうと確信している。ソ連政府は、日本の駐ソ連大使に、ソ連、中国、英国、米国、フランスそして日本が参加する講和会議に同意することを条件に、米英両国に対して和平の仲介をする用意がある」

モスクワの日本大使情報はソ連の対日参戦のヤルタ密約を予測し伝えていた

 1945年1月17日、バチカンの日本参事官金山政英は、ヴァチカンのジョバンニ・モンティーニ国務長官代行、ドメニコ・タルディーニ ロシア担当教皇委員、教皇の個人秘書と会見で次のことを話した。

 「モスクワの日本大使からの情報によれば、三巨頭会談で極東問題が協議される予定である。米国は、チャーチルの支持を得て、日本を打倒するためにソ連に支援を求めるだろう。米英両国は、ソ連が日ソ中立条約を破棄するよう求め、太平洋戦争に参加し、ソ連領の航空基地を使用させるよう求めることになる」

 金山政英は1942年から1945年までバチカンで日本大使館の参事官を務めた。アウグスティン金山政英の名をもつカトリック外交官。

 日本政府は、このことを理解しておりスターリンが同意を与える前に米英側から和平仲介の動きが出ることを真剣に期待していた。また日本政府は、三首脳がヨーロッパ、とくにポーランド問題を先に討議し、ソ連がそれに満足しなければ、スターリンは極東問題の協議に応じないだろうということも理解している。

 金山は、ヤルタ会談で極東問題が協議される前に、ローマ教皇が和平仲介の手を差し伸べて欲しいという希望を伝えた。モンティーニ国務長官代行が、教皇庁が仲介に乗り出せるように、日本政府は米英側の主張に歩み寄った和平条件を提示できるのか、 と問うたのに対し、モンティーニの意向を日本政府に伝えると述べたうえ、可能ならばただちに教皇庁が仲介を開始して欲しいと重ねて要請している。金山は驚くほど正確にヤルタ会談の内容を把握している。ヤルタ会談の開催前にヤルタ密約の内容を知った日本人である。これらの情報は、OSSから統合参謀本部に伝えられたほか、国務省、ホワイトハウスにも届けられた。

米国戦略情報局(OSS)の欧州中立国での1945年1月~5月における活動

 中立国のヴァチカンを舞台に、ヤルタ密約をめぐって米国とソ連の間で国際的な情報戦が行われていた。ただし1945年1月から5月までの駐ヴァチカン公使館と東京の外務省の電報のやり取りの記録はない。保存されていないのか、どちらにしても公開はない。外務省の嘱託職員の福島新吾が、特別に業務の指示がないために暇に任せて読み漁っていた外交文のなかにバチカンからのものがあったかもしれない。これら外務省本省に保存してあった外交文書を福島新吾は上司の命令によって敗戦に合せて移転先であった第一師範学校の校庭で燃やした。赤い炎を見ながらもったいない、残しておきたいものだと思った。福島新吾は東京帝国大学法学部政治学科卒業の手続きをして、できたばかりの東大社会科学研究所の助手になり、その後は政治学を専攻する大学教授として定年まで勤めた。福島新吾の手記は次のようであった。「降伏の数日後、私は第一師範の校庭に掘った大きな穴に、命じられた膨大な数の「機密文書」の山を次々に投げ込んでは焼き捨てていた。その大部分は戦時中最後まで中立国だった、スウェーデン、アイルランド、スイスなどに残留した日本外交公館が西欧の新聞雑誌などから入手した敵国側の情報を、本省あてに送ってきた暗号電報の解読であった」。

 ドイツ崩壊後の1945年5月末から6月にかけて、OSSは別のチャネルを使って和平工作を行っている。この記録は米国の傍受解読記録 MAGIC、日本の外交文書ともに残っている。OSS の工作担当者の回想記もある。

 1945年6月3日、バチカン日本国公使館原田健在は東京への報告で、和平工作を持ちかけてきた米国側の意図について、「欧州戦争終結せるもその後のソ連の態度により政局益々悪化の徴あり、翻って極東に於いては蘇連は恐らく戦争の最後の段階に参戦し満洲を手中に入れ、中国共産政府を指嗾して其の地盤を確保せんとすべしと察せられ」る、とその背景を推測している。原田健公使の動きには、ヤルタ密約におけるソ連参戦情報が明示されている。(指嗾-しそう-さしずして、そそのかすこと。けしかけ)。

 1942年に日本とバチカンが完全な国交を結ぶことに合意したことで、昭和天皇裕仁はこのネットワークを活用しようと躍起になった。日本はアジアで最初にバチカンと国交を樹立した国であり、このニュースは日本と交戦中の連合国を驚かせた。知らせに米英両国の当局者は激怒した。

 日本による真珠湾攻撃のわずか2カ月後のことであったので、連合国側はバチカンの決定を日本の勝利と国民が見るだろうと考えていた。

 バチカン関係者は連合国のこうした反応を教会の外交ミッションを理解していないことによるものだとしている。教皇ピウス11世が1929年に述べた「魂を救済、あるいは魂へのより大きな害を防ぐことが問題になるとき、私たちは悪魔ともでも直接対話する勇気を感じる」通りのことがバチカンの外交ミッションであるとする。

 バチカン日本国公使館参事官金山政英は、昭和天皇が1942年にバチカンとの外交関係を開始した理由を次のように説明する。

 第一に、天皇は米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領がバチカンと関係を築こうとしていたことに影響を受けていた。
 第二に、真珠湾攻撃以前から、昭和天皇はバチカンが自国の連合国との和平交渉に役立つ可能性を見出していた。

 1941年10月13日、昭和天皇は次のように記している。

 「この戦争を避けることはできそうにないが、いったん戦争に突入したら、和平交渉にどのように関与するか今から考えておく必要がある。そのためには、バチカンと外交関係を樹立することが必要である」(視点 日本とバチカン 宣教師から巧みな外交へ-ヴィクトル・ガエタン ナショナル・カトリック・レジスタ紙シニア国際特派員)

 『広島なき平和 1945年春のバチカンにおける秘密工作』の著者であり、中央情報局(CIA)の前身である戦略事務局(OSS)に所属していた米国の情報機関員マーティン・クイグリーは「米国政府を代表して和平交渉を開始するために、バチカンで日本の外交官に接触した」と述べる。

 当時日本政府は、中立条約を結んでいたソ連とスウェーデン経由で和平交渉の可能性を探っていたが、それはかなり間違った方法であった、というのがバチカンに関係する池原と称する人物の考えである。

 金山政英は東京で法律を学んでいた21歳のとき、ハンセン病病院の礼拝堂で洗礼を受けた。入信の動機は患者たちの信仰と、既知であったカトリック司祭である病院長に感銘を受けたことによる。金山は1942年から1945年までバチカン日本国公使館で参事官を務め、原田健公使が離任したあと1945年から1952年まで後任として勤務した。

ピウス12世の豊富な外交経験とローズヴェルトと書簡のやりとりなど米国との緊密な関係

 後にピウス12世となるエウジェニオ・パチェリは、豊富な外交経験を有し、ローズヴェルトと書簡のやりとりをするなど米国との緊密な関係を維持していた。

 ソ連を戦後ヨーロッパ秩序の担い手とするというローズヴェルトの方針に対しては、早くから懸念を表明していた。ローズヴェルトが1943年1月のカサブランカ会談で打ち出した、日独両国の「無条件降伏」を要求する方針を厳しく批判した。

 1944年6月、連合国軍のローマ解放の直前、教皇は「怒りと復讐の本能は、正義と平静の威厳に従わなければならない。あらゆる戦争において、交戦国の一方が剣のみによって明確かつ明白な勝利を収めることに成功したとしても、それは公正な平和ではないことが明らかになる」と演説した。

 ローズヴェルトはこの発言に驚き、テイラー特使を通じて教皇、国務長官らに無条件降伏がドイツの完全な破壊を意味せず、ナチスとドイツ国民を区別する方針を説明させた。

 教皇は1944年末から1945年の初めにかけて、ソ連軍の東中欧への進出がもたらす危険について懸念を強め、カトリック系住民の多いポーランド、バルト諸国のソ連による占領は、大西洋憲章に反するとの懸念をテイラーに伝達した。

 ヤルタ会談において、ローズヴェルト、チャーチル、スターリンの間で合意されたポーランドの共産党支配、ドイツの分割統治の方針は、教皇、モンティーニ、タルディーニらにとっては最悪の帰結であった。

 ローズヴェルト大統領の死去、ドイツ崩壊の後、ヤルタ密約におけるソ連参戦に関する情報は、ストックホルム、ベルン、リスボンの陸海軍武官から日本に伝達されていた。

 スイスではOSSを通じて米国側との連絡が緊密であったほか、ポーランドの陸軍武官ミハウ・リビコフスキーからの情報は「M情報」と呼ばれる。

 フランクリン・ローズヴェルトはもっとも偉大な大統領の一人としての評価されている。これとは別に第二次世界大戦中のソ連との融和的な対外交は不評である。「大同盟」(Grand Alliance)を維持するための現実主義や軍事的必要性があっのて策であったか。

 ローズヴェルト大統領の側近にソ連に非常な親近感を抱く者たちがいて、その数は200人に及ぶとされ政策立案にも従事していた。あるテレビ番組はこの200人をソ連のスパイと表現している。

 マンハッタン計画を主導し「原爆の父」とされているオッペンハイマーは原子爆弾の設計図をソ連に渡した疑いをかけられるほどに国家の最高機密がソ連に流れていた。第二次世界大戦の始まるころから米ソの対立の基本構造ができつつあり、その状況下でソ連は諜報員を米国政府内に組織していた。ローズヴェルトの戦争政策と戦後の世界秩序構想の政策立案する重要な立場の者にはソ連の息が掛かった者、あるいはソ連の諜報員である者たちがいた。

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官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介


目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介





官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介



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