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官僚制度と計量の世界(28)
Bureaucracy and Metrology-28-
弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4-
Small countries grow taller and World War II
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃-その4-

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4- 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(28) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4- 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(28) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4- 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 執筆 夏森龍之介

(本文)

日本列島の外に日本国をつくる 大日本帝国がつくられていった


陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」英米班の集合写真。中央部5人並んだ真ん中が秋丸次朗陸軍主計中佐。英米班主査の統計学の有沢広巳東京帝大助教授は秋丸中佐の左隣り。

日本列島の外に日本国をつくる 大日本帝国がつくられていった
陸軍主計大佐新庄健吉による日米国力さ調査 日本の20倍の産業力の米国
秋丸次朗陸軍主計中佐の陸軍省主計課別班での仮想敵国米英の国力調査


「日本ニュース第17号 日独伊三国同盟」1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡外相のベルリン訪問」の動画映像

 1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡外相のベルリン訪問」の動画映像が残されている。次がその映像である。日本ニュース第17号 日独伊三国同盟

 日本国の松岡洋右外相を迎えるアドルフ・ヒトラードイツ国首および国家元首(総統)以下政府幹部による日独同盟締結の祝賀の式典のニュース映像である。松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使ほか日本の一行は街頭パレードをして、総統官邸のバルコニーから松岡洋右とヒトラーが群衆に手を振る。動員されたドイツ国民の熱狂の度合いは米国が日米戦争に勝利したきやマッカーサーが凱旋したときに勝るも劣らない。沿道をパレードする松岡の車に押し寄せる群衆を制するにがやっとという状態であり、その熱狂は心からのものに見える。



 日本の学徒出陣壮行会として1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場で文部省主催のそれが有名である。東條英機首相が熱のあがらない演説をし学徒代表の決意表明があった。その日は雨。学生服に学生帽。腰ベルトをして銃を持って水たまりを行進する。観覧席には女子生徒と母親たちで埋まっている。軍楽の音がむなしく雨に消える。

 1943年9月に東条内閣が理科系と教員養成系以外の大学と高専在学生の徴兵猶予を停止、この年10月21日に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。文部省主催の壮行会は全国7都市と満州などで開かれた。東京の出陣学徒壮行会は、首都圏の77校が参加、ラジオはこの模様を2時間余り実況中継した。

 戦時中の東京帝国大学は三年次を終えて卒業であった。二年半ばまでに所定の単位を取っていれば卒業となる学徒動員令である。後に大学教員になる福島新吾は法学部政治学科二年時にこの学徒動員令に対応して出征する。法学部生は政治学科と法律学科あわせて八百名であった。

当時、東京帝国大学で法学部長は末弘厳太郎であった。昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。末弘厳太郎の法学部長在任期間は、1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)3月まで。末弘厳太郎は学生の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行っていた。1943年(昭和18年)10月21日の明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に際しては「行ってまいります、は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えずに征きます、と言え」といわれて気が引き締まったと福島新吾は手記に残している。

 福島新吾は「私は体調が悪かったし、お祭り騒ぎを嫌って参加しなかった」と『学徒出陣落第記』で語っている。甲府市の陸軍第13師団歩兵第49連隊で初年兵となった福島は幹部候補生試験に合格して教育を受けることになっていたが以前から結核が悪化して除隊扱いになる。歩兵第49連隊は3000人規模の兵団で、当時は人口5万2700人余であった。第49連隊については次のような記録がある。1944年(昭和19年)11月フィリピン中部・ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置するレイテ島で、大部分が壊滅。1945年(昭和20年)8月太平洋戦争終戦に伴い、ビサヤ諸島のセブ島にて武装解除。


学徒動員に際して学生は仮卒業の資格を得ていた。除隊復学の道もあり福島新吾は同じ死ぬなら学生の身分のままでありたいと考えて復学できる処置をしていた。そのために戦後の大学教授たちの授業の変化を経験し、また戦後の民主主義における学問の息吹に触れることになる。

以下は福島新吾「体験戦後史 1945~47」「社会科学としての政治研究―1947~54」の手記の一節である。

 東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に『ドイツ国民に告ぐ』と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、一語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に「押しつけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほかに公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。

 末弘さんは、昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。教授は戦時中私の在学当時の法学部長であった。

 その頃なんと東大の入学式には「父兄同伴」が求められていた。病床の父の代わりに出席した東大物理学科を卒業した兄は、末弘法学部長が訓示して「今は科学万能のようなことを言っているが、理科を出た人間に国家を運営することは出来ない。法科で学ぶ諸君が天下国家を担わなければならない」と激励したので憤慨していた。

 当時東大法学部教授で政治学を担当していた矢部貞治氏は 『矢部貞治日記銀杏の巻』(1974)で末弘氏の法学部長選出に反対して、これは「横田喜三郎一派[つまり親欧米、反 ナチス派というわけ]の策謀と見える」と書いているが、当時かなり厭戦的だと知られて いた横田氏の派閥(田中耕太郎氏ら)が推薦したというのはあまり納得できない。矢部氏は南原教授も末弘氏に批判的と書いているが、末弘さんはむしろ当時憂国的だったから南原さんが危惧したのではないだろうか。その外、当時タカ派で思想弾圧のリーダーと見られた大審院検事池田克の夫人が末弘の妹という関係が知られていた場合には不安をもたらしたかも知れない。

 私達の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行い、学徒出陣の壮行会の時には「『行ってまいります』は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えず に『征きます』と言え。」といわれて気が引き締まったことを覚えている。

 そんなわけで学生の眼にはかなり戦争協力的に見え、一部学生は批判的だったが、私は好感を覚え、矢部さんのように軍部に迎合した人とは立場が違うと感じられた。末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。

 しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は継続し、労働者委員の徳田球一(共産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日経連)などとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。

以上である。

学徒動員の狙いと効果についての福島新吾の考察『学徒出陣落第記』がある。次のようなものである。

 1943年9月、東條首相が発表したいわゆる学徒出陣は緊急施策であった。それまで大学、高専在学中は二十歳の兵役年齢を超えても、最高二十五歳まで入営塩基の特権があった。この停止で、理工医農の技術系を除いて、文科系すべて推定六万強の学徒を一挙に動員したわけだ。のの狙いは何より下級指揮官の級増だった。

 学徒兵が軍隊内で「お前たちは消耗品だ」と罵られたとおり、軍はつぎつぎ倒れる下級指揮官の補充が比喩用だった。

 「学徒出陣(式)」は一般の関心をかきたてて、国民の戦争協力の強化に役立てる演出に過ぎなかったのえはないか。

 さらに踏み込めば、絶望的な戦況の中で、講和の声をあげやすい社会科学、人文科学系の青年をあらかじめ軍隊内に拘束したのではなかったか。彼らはすべて軍隊内で小さな声で戦争への疑問をささやき続けたに止まったのである。

以上。



 日独同盟締結すなわち1940年(昭和15年)9月27日締結の日独伊三国軍事同盟はののち、1941年(昭和16年)3月、松岡洋右外相がベルリンのドイツ公式迎賓館にヒトラー総統を訪問したときのドイツ国民の熱狂はヒトラーへの熱狂としての最盛期であった。

1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達していた。1940年43万1千人になり、求人が求職を上回る完全雇用が実現していた。ナチスドイツの絶頂期と雇用とが一致している。この時期の松岡洋右外相のベルリン訪問であった。


ドイツ国民のヒトラーへの熱狂の原因は別にして、その熱の冷め方を伝える次の証言がある。亡命ドイツ社会民主党の「ドイツ通信」が伝えるところによると、戦局が不利になるとヒトラーの演説に対する意欲は減退、回数も減り1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となった。ヒトラーの繰り返される演説に多くの人々が飽き飽きしており、ほとんどラジオ放送を聞かなかった。


ヒットラーへの熱狂は第一次世界大戦での敗北に伴う賠償でドイツ経済は疲弊し、産業総失業者割合が40%を超える苦境からの脱出期に重なったことによる。この時代の敗戦国の賠償は身包剥がれる過酷さであった。

 次の本がある。『ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』池内紀著 (中公新書 2553、発行日2019年07月25日)。

 ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期まで。泡沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧。という内容である。

フォルクスワーゲン(国民車)の開発と生産については、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用され、結果的に数十万人分の積立金は戦争資金として流用されることとなり、予約購入者には一台も納車されることはなかった。

 ナチス・ドイツでは、1934年にアドルフ・ヒトラーが安価で高性能な自動車を国民に供給する国民車計画を提唱し、数十万人分の予約を取り付けていた。第二次世界大戦が開始されたために量産計画は破棄、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用された。戦後に連合軍によって工場が復興し、フォルクスワーゲン・タイプ1として大衆車の量産となった。戦中のドイツ国民の収入額は、安くても自家用車を所有できる状態になかった。

アウトバーン建設構想とその計画は失業対策も含めてヒトラー以前に動いていた。1932年の自動車保有者は住民千人一人であった。同時期のアメリカでは五人に一人。アウトバーンはドイツ国民の所得と生活とは無縁であり、国民はアオトバーン建設よりも安価な住宅を欲していた。

 ドイツで建設された自動車専用道路網のアウトバーンは、ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。アウトバーンはヒトラーの唯一の功績として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛された。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、1936年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した」としている。2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている。

 山川用語集、その他の事典類は、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている(2018年改訂版では「1933年から建設が開始された」とされている)。建設開始が1932年とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていた。

ナチスドイツとからめて概念化されているヒトラーへの熱狂の要素としての、ウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産は打ち消される。失業率の改善は軍需生産と連動していた。軍需生産は国民生活を究極的に豊かにするものではない。ドイツはポーランドなどに侵攻し、併合してここから資源と食糧を確保した。ウクライナも維持時期ドイツ領となって小麦の調達先となった。

戦争で疲弊した経済と国民生活の復興とが軍需産業を国内総生産の5割ほどに増やした産業政策によってもたらされた。


ドイツ国防軍の主任エコノミスト、ゲオルク・トーマスの分析(国民所得における軍備の負担)


 1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマス(英語版)が分析した国民所得における軍備の負担は次のとおり。(英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回る)
1、ドイツ23%
1、イギリス12%
1、フランス17%
1、アメリカ2%

 トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった


ナチスドイツにおけるラジオの生産


 ヒトラーを英雄として描き出す巧みな宣伝と先導はラジオをも用いてなされた。国家の意思を国民に伝え、国家の意思に国民を服従させる道具立てとしてナチスドイツ時代にはラジオの役割は大きかった。

 国民ラジオ計画が立てられた。国民ラジオ(こくみんラジオ、独: Volksempfänger)が大量生産され、低価格で販売された。国民ラジオ計画の進展とともにドイツでのラジオ受信機の普及は急速に進み、1939年にはラジオ受信機を所有する世帯が全体の70%を占めた。この普及率は当時において世界一だった。1933年から1939年までの間に製造された国民ラジオの累計台数は700万台を超えている。

 宣伝相のゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であるとした。国民ラジオは、ナチスの放送はだけが受信対象であり英国放送協会(BBC)の国際放送BBCワールドサービスのは聴取できなかった。

 ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがニュルンベルク裁判の最終陳述で次のように語った。
 「ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった」

 次のような資料がある。

1、ヒトラーは政権獲得後の1933年2月1日にラジオ演説をしたが、演説を聞けたのはドイツの全世帯の4分の1だったといわれる。当時のドイツ人口6600万人に対してラジオは430万台だった。
1、1933年頃のドイツ製ラジオ受信機の価格はローエンドの製品でも150RM前後 。一方、当時のドイツ労働者の平均月収は120~150RMだった 。



 1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡洋右外相、のベルリン訪問」の動画映像の最初に取り上げられたのは14歳になったヒトラーユーゲント若者の入団式である。14歳以上の100万人を超える少年と少女はヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟に入ることが義務付けられていた。1941年3月30日の入団式の報道が松岡外相ベルリン訪問のニュースの前に報じられている。

ヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟への入団式には熱気はなく、松岡洋右外相歓迎の沿道の観客は警備の兵隊を押しのけてでも松岡が乗る車ににじり寄るという歓喜があった。日独伊三国同盟締結はドイツ国民には戦争勝利への大きな期待となったことを示す。



ヒトラーユーゲント


 ヒトラーユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler Youth)は、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。


ヒトラーユーゲント女子版のドイツ女子同盟


 ヒトラーユーゲント女子版であるドイツ女子同盟(ドイツじょしどうめい、独: Bund Deutscher Mädel、略称 BDM)は、ナチス・ドイツがドイツに住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。少年によって構成されたヒトラーユーゲントと対を成す。ドイツ少女同盟、ドイツ少女団、ドイツ女子団などとも訳される。1930年から1945年まで活動した。ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足。ヒトラーユーゲント法が成立して全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。入団の資格は、ドイツ民族の血統に属し、かつドイツの国籍を有する18歳までの女子。




 大人になる前は子供であり青少年である。ヒトラーと国家への忠誠を誓うように青少年を義務的な組織にはめ込んで統制した。悪知恵を総動員した国家による策謀であり国民はヒトラーを英雄として崇(あが)めた。それは戦争が優位であり生活の向上を実感できる間だけのことであった。




ヒトラーが台頭して政権を獲る時代に重なって陸軍駐在武官としてドイツに滞在、ヒトラー政権下で駐ドイツ大使となった陸軍中将がいる。父親は陸軍中将であり1916年(大正5年)3月30日~10月9日、第2次大隈内閣陸軍大臣。 10月9日~1918年(大正7年)9月29日、寺内内閣陸軍大臣。ドイツ贔屓(ひいき)の父親に幼少からドイツ語修得のために特別な教育を施され、在日ドイツ人家庭でドイツ語を学んだこの男は物事の発想と身のこなし方までドイツ人のようだといわれるようになる。第一次世界大戦からの復興が軍事産業への重点投資によってなされ、四割を超えていた失業率が完全雇用の状態になるころのドイツ国民のヒトラーへの熱狂をそれ以上の思いで歓喜していた男である。

 この男のヒトラーへの歓喜はドイツ敗戦までつづく。いやその後終生続いていた。大本営発表を疑わずに受け止めていた日本国民は多かった。駐ドイツ大使のこの男はヒトラー政権が発表する戦況をそのままに受け止めて、日本国政府に伝え続けた。

この男、駐ドイツ大使の日本政府への公電は少なくとも二つの時点で日本政府と大本営の判断の間違いを引き起こした。

 日本国が米英に宣戦布告した1941年(昭和16年)12月8日を前にして、ソ連に進行したドイツ軍は、スターリングラードでの戦闘が補給が途絶えて敗北が確定していた。秋の遅くにはこのことが判明していて、中立国のスエーデンのストックホルムでソ連とドイツの戦況を観測していた駐在武官の小野寺信は、ドイツはロシアに負けていて回復困難だから、米英との戦争に突入してはドイツとともに日本は負けるという意味で「開戦絶対に不可なり」と打電していた。

1945年(昭和20年)5月には、米英ソのヤルタ会談において、ドイツ降伏の5月5日から三カ月間を準備期間としてソ連が日本に宣戦布告して攻め込む密約を確かな筋の情報として入手して、日本国政府に打電していた。

学徒動員ののち幹部候補生になっていた福島新吾は結核の発症により招集解除となり、外務省に嘱託として勤務していた。課長、局長などが出勤しない外務省にあって終戦の少し前に外国大使館からの電文や報告書などを見ていた福島はスエーデンからの電報、スイスからの電報、ソ連からの電報ほかを、なかば暇に任せて閲覧していた。日米の戦闘の結果がニューヨークの株価にまったく反映されない状況は勝敗がすでに決しているためであることを局長に報告書にして提出したら、当たり前のことを今更という態度であった。

戦争を最後まで続けようとしたのは高級将校である軍人たちの立場がなさしめた。親の代から続く家業としての将校職であり、それは軍隊あってのものである。駐ドイツ大使のその男もそのようであった。東條英機もしかり、大本営の参謀たちも同じであった。スエーデンの小野寺信からのヤルタ会談の密約を知らせる電文を握りつぶしたのは大本営参謀のある男と推定されている。この男は戦後になって終生参謀時代のことを口にしなかった。大概の参謀たちは良しに付け悪しきにつけ、幾ばくかを口述するか、手記に残している。

ここに登場する駐ドイツ大使は大島浩である。大本営参謀は陸軍中佐である。負けていて負けが決定付けられているにも関わらず焦土決戦を叫び続け、その口実は国体の護持であった。天皇制の存続のためには死中に活を求める一大戦果を挙げてこそというものであった。米国と連合軍はドイツ空爆とベルリン壊滅作戦をそのまま日本侵攻で実行した。1945年初頭、日本軍の戦闘力は無いのと同じであった。都市が焼かれ、軍の基地と軍事産業は完膚なきまでに痛めつけられた。基地に関係しては占領後に米軍と連合国が使うことを想定して一部は爆撃の対象から除外された。

天皇制の扱いについては都市を焼き尽くしたこととあ連動して廃止であり、それ以上深く意に介さなかった。ドイツは国家への忠誠をヒトラーへの忠誠と重ね合わせて国民に求めた。日本国では天皇への忠誠は国家への忠誠であった。ヒトラーが国家の権限を自在に操ったのに対して日本国天皇は遥かに控えめであった。御前会議では天皇は直接に言葉を述べないことになっていて、唯一例外があって、それは明治天皇の言葉である「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」と口にしたことであった。大本営とのやり取りについてはもう少し言葉を残している。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の意味していることは、四方に広がる海(よもの海)で繋がるこの世界は、みな兄弟(はらから)であるように思うのに、なぜ人々の間に戦争などの波風がたってしまうのだろう、ということ。

 このころ場に杉山元参謀総長らは、御上は開戦に反対だぞと会話している。しかし戦争はするな、開戦には反対だと直接には言っていないために、開戦を準備していた大本営は開戦に突き進む。大本営の内部ではここを取ったら次はどこ、と侵略の思想で統一されていた。中国からの撤退は、満州国の放棄にもつながることから、連合国の要求を受け入れ余地は大本営にはなかった。





1941年4月13日日ソ中立条約に調印


 松岡洋右外相は、ドイツ訪問のあと、1941年4月13日にソビエト連邦のモロトフ外務大臣と日ソ中立条約に調印する。この条約は、締約国のいずれか一方が第三国の軍事行動の対象となった場合に、他の締約国はその紛争の間は中立を守ることを規定していた。一方、日本とドイツとイタリアは、1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟を締結。この同盟は、アジア・ヨーロッパにおける三国の指導的地位を相互尊重し、日中戦争とヨーロッパ戦争に参加していない国(ソ連を除く)から加盟国が攻撃された時は、相互援助することを約束している。



https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300431_00000&chapter=004
日本ニュース 第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問


 このニュース映像をNHKが記録として残している。アナウンサーが読んだニュースの文章は次のようであった。

 硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)。


ベルリンのアルハンター駅


松岡洋右外相がベルリンのドイツ迎賓館にヒトラーを訪問したときに降り立ったのがベルリンのアルハンター駅。ドイツ中部と南部、オーストリア、イタリアへの接続に駅であった。

 第二次世界大戦前、ベルリンにはいくつかのターミナル駅が在った。アンハルター駅はその一つで、19世紀中ごろにベルリンとドイツ中部のアンハルト地方(現在のザクセン・アンハルト州)を結ぶ駅として建設されたことから名付けられた駅名である。後にベルリン発着の国内外の長距離鉄道の玄関駅の一つとしてとしてにぎわった。

 現在みられる建物跡は1880年に完成したもので、時のヴィルヘルム1世とビスマルクも落成式に同席した。ベルリン中心部に近く、内外の政府要人が降り立つ堂々たる威容から「カイザー・バーンホフ(皇帝駅)」の異名がある。
 第二次世界大戦の空襲で破壊され、戦後の混乱期は応急的な修繕を行って使われていたが、連合国によるドイツ分割統治によりアルンハルター駅のある西ベルリン地区は、東ドイツの中にある西ドイツの飛び地状態となったことから鉄道網が寸断、1952年には営業を停止。1959年には正面のファサードを残して解体された。


ヒトラーのナチ時代


 ヒトラー率いるナチス政権は、1933年1月に成立し、1945年4月30日のヒトラーの死まで存続。この時代は「ナチ時代(NS-Zeit)」と呼ばれ、第二次世界大戦の敗北とともに終わる。


ドイツのナチス時代の経済を示す統計数字



年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
年 失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5 - -
1931年 4,519,7 - -
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2 - -
1940年 43,1 - -

ヴァイマル共和政期の航空機生産数
企業\西暦 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 計
Albattros - 1 - 5 23 24 21 22 23 23 25 13 - 180
Arado - - - - - 10 19 8 16 5 4 9 11 82
Casper(英語版) - - 5 3 9 6 7 7 1 - - - - 38
Domier 2 3 6 8 20 38 23 22 30 21 17 19 9 218
Focke-Wulf - - 1 - 2 16 9 7 27 27 14 12 25 140
Fokker 6 15 12 4 - - - - - - - - - 37
Fokker-Grulich - - - - 6 36 - - - - - - -
Heinkel - - - 1 16 18 22 20 25 32 31 25 38 228
Junkers 74 16 9 79 90 78 69 58 62 73 92 88 27 815
Klemm 1 - - - 8 4 4 30 73 82 56 107 85 450
L.F.G 2 6 2 2 2 20 10 - - - - - - 44
Messerschmitt - - - - 3 4 1 7 12 30 57 27 24 165
Rohrbach 1 - - 1 4 9 5 6 5 12 - 1 - 44
Sablatnig(英語版) 9 9 4 - - - - - - - - - - 22
Udet(英語版) 3 9 15 31 33 41 54 29 4 - - 219
その他 - 7 5 18 66 112 107 66 81 45 32 9 12 560
計 95 57 47 130 264 406 330 294 409 379 332 310 231 3,284


貿易
ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
年 四半期 輸入 輸出 貿易収支
1929年 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

統計
各国軍需生産の推移(1944年=100)
1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%) [注釈 49]
産業分野 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
原料 21 21 22 25 25 24 21
兵器 7 9 16 16 22 31 40
建物 25 23 15 13 9 6 6
その他の投資財 16 18 18 18 19 16 11
消費財 31 29 29 28 25 23 22



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ナチス・ドイツの経済

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
年 失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5 - -
1931年 4,519,7 - -
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2 - -
1940年 43,1 - -

ヴァイマル共和政期の航空機生産数
企業\西暦 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 計
Albattros - 1 - 5 23 24 21 22 23 23 25 13 - 180
Arado - - - - - 10 19 8 16 5 4 9 11 82
Casper(英語版) - - 5 3 9 6 7 7 1 - - - - 38
Domier 2 3 6 8 20 38 23 22 30 21 17 19 9 218
Focke-Wulf - - 1 - 2 16 9 7 27 27 14 12 25 140
Fokker 6 15 12 4 - - - - - - - - - 37
Fokker-Grulich - - - - 6 36 - - - - - - -
Heinkel - - - 1 16 18 22 20 25 32 31 25 38 228
Junkers 74 16 9 79 90 78 69 58 62 73 92 88 27 815
Klemm 1 - - - 8 4 4 30 73 82 56 107 85 450
L.F.G 2 6 2 2 2 20 10 - - - - - - 44
Messerschmitt - - - - 3 4 1 7 12 30 57 27 24 165
Rohrbach 1 - - 1 4 9 5 6 5 12 - 1 - 44
Sablatnig(英語版) 9 9 4 - - - - - - - - - - 22
Udet(英語版) 3 9 15 31 33 41 54 29 4 - - 219
その他 - 7 5 18 66 112 107 66 81 45 32 9 12 560
計 95 57 47 130 264 406 330 294 409 379 332 310 231 3,284


貿易
ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
年 四半期 輸入 輸出 貿易収支
1929年 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

統計
各国軍需生産の推移(1944年=100)
1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%) [注釈 49]
産業分野 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
原料 21 21 22 25 25 24 21
兵器 7 9 16 16 22 31 40
建物 25 23 15 13 9 6 6
その他の投資財 16 18 18 18 19 16 11
消費財 31 29 29 28 25 23 22




ナチスドイツにおけるラジオと自動車(フォルクスワーゲン)の生産

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA
国民ラジオ
国民ラジオ(こくみんラジオ、独: Volksempfänger)は、ナチス・ドイツにおいて一般国民に対するプロパガンダの手段として大量生産され、低価格で販売された一連のラジオ受信機の総称。
国民ラジオ計画の進展とともにドイツでのラジオ受信機の普及は急速に進み、1939年にはラジオ受信機を所有する世帯が全体の70%を占めるまでに至った。この普及率は、当時において世界一だった。1933年から1939年までの間に製造された国民ラジオの累計台数は700万台を超えている。
ゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であると考えており、低価格でラジオを流通させたのはその企図によるものだった。すべての国民ラジオは、ローカル局だけしか受信できないように意図的に設計されていた。つまり、ナチスのプロパガンダ放送は聴取できる一方で、たとえば英国放送協会(BBC)の国際放送BBCワールドサービスのような他のメディアは聴取できないように設計されていたのである。
プロパガンダの道具としての国民ラジオの効力に関しては多くのことが語られてきた。最も有名なのは、ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがニュルンベルク裁判の最終陳述で語った次の言葉である。

「ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった。」
ヒトラー演説が行われた放送の聴取は国民に義務付けられ、どこでどのようにラジオを聞いたかの報告が求められた
亡命ドイツ社会民主党の『ドイツ通信(ドイツ語版)』によれば多くの人々が繰り返される演説に飽き飽きしており、ほとんど放送を聞かなかった。このこともあって1934年以降はヒトラーの演説放送回数は半減している。戦局が不利になるとヒトラーの演説に対する意欲も減退、回数も減り、1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となっている。

国民ラジオはヒトラーの演説の「叫び」を送り届けたが、一方の連合国側でも(その影響を受けたものではないものの)ラジオを使ったトップ直々のメッセージ伝達がおこなわれていた。フランクリン・ルーズベルトの炉辺談話は、「叫び」ではなく「話しかけ」を国民に送り届けた。聞く者が音量を調節できるというメディアの性質を考えると、生演説では効果的な「叫び」が、ラジオでは必須ではないのである。

1、ヒトラーは政権獲得後の1933年2月1日にラジオ演説をしたが、演説を聞けたのはドイツの全世帯の4分の1だったといわれる。当時のドイツ人口6600万人に対してラジオは430万台だった。
1、1933年頃のドイツ製ラジオ受信機の価格はローエンドの製品でも150RM前後 。一方、当時のドイツ労働者の平均月収は120 - 150RMだった 。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8A%E6%A7%8B%E6%83%B3
国民車構想
ナチス・ドイツ
ナチス・ドイツでは、1934年にアドルフ・ヒトラーが安価で高性能な自動車を国民に供給する国民車計画を提唱し、数十万人分の予約を取り付けていた。しかし、ヒトラー自身が始めた第二次世界大戦のため量産計画はストップし、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用され、結果的に数十万人分の積立金は戦争資金として流用されることとなり、予約購入者には一台も納車されることはなかった。それがフォルクスワーゲン・タイプ1として結実し、大衆車の成功例として注目を集めることになるのは戦後に連合軍の手で工場を復興されてからのことである。


小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p91
「ナチスは良いこともした」という言説は、国内外で定期的に議論の的になり続けている。アウトバーンを建設した、失業率を低下させた、福祉政策を行った――功績とされがちな事象をとりあげ、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証。歴史修正主義が影響力を持つなか、多角的な視点で歴史を考察することの大切さを訴える。



ナチスドイツにおけるアウトバーン建設構想

https://www.y-history.net/appendix/wh1504-089.html
ドイツで建設された自動車専用道路網。ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。アウトバーンは、しばしばナチス=ドイツの指導者ヒトラーの「唯一の功績」として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛されている。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし・・・」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、36年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。」としている。そして、2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている(下掲)。
ヒトラー以前のアウトバーン建設
 しかし、山川用語集、その他の事典類を見てみると、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている(2018年改訂版では「1933年から建設が開始された」とされている)。建設開始が1932年とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていたことになる。ヒトラーが「建設を推進した」という表現はよいとしても、「ヒトラーが建設を開始した」のではなさそうだ。少なくともそのアイディアまでいかにもヒトラーの発案のような理解は間違えている。そのことに触れているのが、ゲルハルト=プラウゼの『異説歴史事典』である。同書は「アウトバーン」の項で、ハンス=ヨアヒム=ヴィンクラーの『ヒトラーをめぐる伝説』をもとに「そのアイディアですらヒトラーのものでなかった」として、次のように説明している。(同書ではアオトバーンと表記されている)
ベルリンには1921年に全長9.8キロのアーヴスという自動車専用道路があった。これは1912年に着工されたもので、世界最初のアオトバーンと目されている。
 アメリカのハイウェイはすでに1921年代初めにできていた。イタリアでは1923~24年にアウトストラダが建設されていた。1926年に「ハンザ諸都市=フランクフルト=バーゼル間自動車道路建設準備会(ハフラバ HAFRABA)が設立され、1927年には全アオトバーン網の構想を発表した(ハフラバは後にこの構想をヒトラーに売り込んだ)。1931年、国際連盟の国際労働局のきもいりでジュネーヴで第1回国際アオトバーン会議が開催された。目的はアオトバーン建設によって雇用を創出することであった。
1932年8月、全長20キロのケルン=ボン間アオトバーンが開通。これはライン州行政府と当時アデナウアー(戦後の西ドイツの首相)が市長だったケルン市によって建設されたもので、一部は失業者雇用のため生産的失業者救済資金から融資された。
アウトバーン建設の「ヒトラー神話」
 以上がヒトラー政権以前の事実である。1933年、ハフラバが全計画を持ち込むとヒトラーはすぐにとびつき、同年9月23日には早くもフランクフルト=アム=マイン近郊で全国アオトバーン網の鍬入れ式を行い、1938年末までに計画線6900キロのうち3000キロが出来上がった。こうしてアオトバーンは総統の「天才的なアイディア」とか「総統の道路」などという宣伝が行われ、後にはヒトラーは1924年のランツベルク刑務所に禁固中に頭の中に交差点のない自動車専用道路というアイディアがひらめいた、という神話が作られた。実際には、アオトバーン計画は失業対策も含めてヒトラー以前に存在していたわけである。しかも、このような道路は当時のドイツには贅沢だった。1932年の自動車保有者は住民100人に対して一人に過ぎなかった(同時期のアメリカでは5人に一人)。国民が望んでいたのはアオトバーン建設よりも安価な住宅であった。<ゲールハルト=プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1984 紀伊國屋書店 p.23-26>
出題 東京大学 2008年 第3問 問(10)
 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興と共に高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。



【追悼 池内紀】
川本三郎/『ヒトラーの時代』に込められたもの
ドイツ文学者で自由な文筆家だった池内紀さんが亡くなった(八月三十日。78歳)。
 生前、最後の著書となったのは、七月に中公新書で出版された『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』だった。
 文学者がヒトラーを、ナチズムを語る。勇気がいったことだろう。それでも、書かずにはいられなかった。ドイツ文学者としては当然のことだろう。
 自分が若い頃から親しんだドイツ文学の背後にはいつもナチズムがあった。なぜ愛するドイツがヒトラーを生んだのか。それはゲーテを訳し、チェコ生まれのユダヤ人作家カフカを訳し、ナチズムの時代にドイツにとどまってひそかな抵抗を続けたケストナーを訳し、また、ギュンター・グラスを訳した池内紀さんにとって、避けて通れなかった課題だった。自分自身、もう一度、ドイツ現代史を見直し、「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」を考えざるを得なかった。
 それはドイツ文学者の池内紀さんの誠実な仕事であり、物書きとしての良心の証だった。
 本が出てすぐに読んだ。歴史家の書くものと違って、随所に「なぜ」という文学者の心の痛みが感じられた。「晩年」になって、「なぜドイツにナチズムが」という疑問を放置することは、池内さんにはもう出来なかった。
 振返ってみれば、池内さんはつねに、この問題を考え続けてきた。
 早くには、アウシュヴィッツなどの収容所から奇跡的に生還した思索者、ジャン・アメリーの体験記『罪と罰の彼岸』を翻訳された(最初の版は、1984年に法政大学出版局から。2016年にみすず書房から復刊された)。ナチズムへの関心は、つねに大きく池内さんの心のなかにあったことが分かる。
 そもそも、大学での修士論文はウィーンの批評家、ユダヤ人のカール・クラウスだった。終生、マイナーなもの、小さなもの、「二列目」を愛した池内さんは、ドイツ文学のなかでも、日本では忘れられがちだったユダヤ人作家たちに着目した。カフカも、いうまでもなくユダヤ人であり、池内さんの大学時代には決して、いまのようなメジャーな存在ではなかった。
 ドイツ文学のなかでは、語られることの少ないユダヤ系の作家に着目すること。ここに池内さんの心優しい反骨があった。
 当時の偉いドイツ文学者のなかには、戦時中、ナチス宣伝の書を訳しながら、戦後はそのことに頬かむりして「民主的」な本を訳した学者がいたことへの反発、軽蔑もあっただろう。『ヒトラーの時代』には、戦時中、ナチズムのプロパガンダの本を日本で訳しておきながら、戦後は「民主的文化人として知られたドイツ文学者たち」のことが批判をこめて記されている。
 池内紀さんは人柄は穏健飄逸だし、人と争ったり、論争したりすることを好まなかったが、芯は強く、きちんと一本、筋が通っていた。その点では、温厚な硬派だった。

『ヒトラーの時代』を思い切って書いた池内さんの執筆のモチーフには、近年の日本の非寛容な時代状況への危機感があったと思う。
 昭和十五年生まれ。少年時代、戦後民主主義の明るい空気を吸って育った世代として、ネット社会になって、匿名で人を攻撃したり、相手への敬意なしに自分の狭い知識をひけらかす若い知識人が増えたことには、正直、うんざりしていたことだろう。
 率直にいって、いま「品のない言論」が増大した。平気で他者を悪罵、罵倒する。書き手の「痛み」を理解せずに些末な間違いをあげつらう。説得ある批判とは、他者への敬意、その人がどういう秀れた仕事をしてきたかへの知識があってはじめて成り立つのに、それがない。
『ヒトラーの時代』で、池内さんがいいたかったことのひとつに、「ヒトラーの時代」とは、実は、「私たちの時代」ではないかという危機感があったと思う。
 ヒトラーの時代は、ドイツ人にとっては、少なくとも、体制に異を唱えなければいい時代だった。経済も、治安も安定した。ユダヤ人のことは知らないことにすればいい。
 確か、チェーホフの『すぐり』に、こんな言葉があった。
「幸福な人間が安心した気持でいられるのは、ただ不幸な人々が黙ってその重荷を担ってくれているからであり、この沈黙なしには、幸福はあり得ないからにすぎないのです」
 チェーホフはナチズムを予見していたといえようか。そして、戦後になってドイツ文学を学ぶことになった世代の池内紀さんも、ゲーテやカフカを訳しながら、この言葉を自分の心のなかに刻みつけていた筈だ。歴史学者は、人の心の悲しみにまで言葉を届けることは出来ない。それが出来るのは文学者だけだ。

 中公新書で、池内紀さんが『ヒトラーの時代』を出され、それをすぐに読んだ私は、「毎日新聞」の読書面に、「池内さんが、ついに書いた」という興奮を抑えられないままに書評を書いた。
 ところが、そのあと、ネットで、細かい間違いが多いと指摘されたため、中公新書編集部が、それに応じなければならなくなり、書評掲載のタイミングを失することになってしまった。無念だった。
 いま「波」編集部が、その書評原稿を載せてくれるという。有難い。「毎日新聞」の了解を得たうえで、ここまで書いたことと重複する部分もあるが、以下、拙文を掲載する。細かい間違いのある本かもしれないが、池内さんが書きたかった根幹を紹介しておきたい。
 池内さんの「晩年」の名著『記憶の海辺 一つの同時代史』(青土社、2017年)に、池内さんが八十九歳のレニ・リーフェンシュタールをインタビューした時の文章がある。
 二日にわたる池内さんの質問に疲れ、ワインに酔った老女を池内さんはおぶって寝室に運んだ。「その人はまるで二十世紀をせおっているように重いのだった」。池内さんもまた充分に二十世紀と格闘した。
 
   *

 池内紀さんがついに書いた。ヒトラーとその時代のことを。ドイツ文学者としてゲーテ、カフカ、あるいはケストナーなどを翻訳してきた氏には、すぐれた文学を生んだ国でどうして、想像を絶する残虐行為を繰り返した政治体制が生まれてしまったのか、は避けて通れない難問だった筈だ。
 実際、カフカの小説を全訳し、さらに評伝を書いている時、カフカが愛した妹たちや恋人が強制収容所で死んだことを、かたときも忘れなかった、という。
 ナチスは弱小政党として登場した。それがまたたくまに国民の支持を得て政権につき、ついにはヒトラーは独裁者となった。どうしてそんなことが可能だったのか。
 当初、ナチスの政策は国民の支持を得るものだったという。第一次世界大戦後、極度のインフレに悩んでいた経済を建て直した。厖大な失業者の数を減らしていった。混乱した社会に秩序を与えた。
 それまで金持ちしか持てなかった自動車を国民のものにするために、低価格のフォルクスワーゲン(国民車)を開発、生産させた。同時にヒトラーの発案により自動車専用道路、アウトバーンを建設していった。公共事業は雇用を生み出した。
 こうしてナチスは着実に国民の支持を得ていった。さらに池内さんは、ナチスの「いい政策」として、これまであまり語られてこなかった「歓かん喜き力りき行こう」を紹介する。
 ドイツ語で「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ」(喜びを通して力を)。当時、日本で「歓喜力行」と訳した。何かというと、労働者の休暇を充実させる政策。とりわけ、旅行に力を入れた。安い費用で労働者が山や海に旅行出来る。さらには客船で憧れの船旅が出来る。
 これが国民に受けた。「ヒトラーに対して警戒の目を向けていた人々までもが、雪崩をうつようにしてナチス讃美に変わっていく」。
 ナチズムも当初は国民に「明るい時代」を演出していった。タバコが癌のもとになるとして癌撲滅のキャンペーンを行った。ヒトラーはタバコを吸わなかった。現在のエコロジーにも早くから目を向けた。
 こうした面だけを見てゆくと、ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドの言葉、「もしこの独裁者が政権四年目ぐらいに死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物の一人として後世に残っただろう」も納得出来る。
 だが、無論、ヒトラーは死ななかった。1933年に政権を取るや、独裁者として君臨していく。ユダヤ人への苛酷な弾圧が始まる。
 1938年にユダヤ人の出版社によって「亡命ハンドブック」という亡命の手引書が出版された話も興味深い。追いつめられたユダヤ人の必死の自衛本だったが、編集に関わった女性はアウシュヴィッツに送られた。
 ヒトラー体制を支えたのはゲシュタポ、強制収容所、そして拷問だという。池内さんは数々の拷問に耐え、奇跡的にアウシュヴィッツから生還した思索者ジャン・アメリーの収容所体験記『罪と罰の彼岸』という感動的な本を翻訳していることも忘れてはならない。
 最後に「カール氏」という言葉が登場する。1960年代に人気を博した演劇の主人公。ナチスの時代の善良な小市民。しかし彼はユダヤ人の迫害、ナチスの無法に見て見ぬふりをする。自分の小さな幸福だけを守る。ナチズムを支えたのは、国民の大多数の「カール氏」ではなかったか。その指摘は、現代社会に通じる重さがある。

(かわもと・さぶろう)
波 2019年10月号より


ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書 2553) 新書 – 2019/7/19

出版社内容情報
ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期までを描く。

内容説明
泡沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧―。さまざまな角度から、ヒトラーを独裁者に押し上げた「時代」を描く。

目次
封印された写真―はしがきにかえて
1(消された過去;演説家ヒトラー―デビューのころ;カリスマの誕生;独裁制の成立;ペンと権力;分かれ道)
2(「歓喜力行」;国民車(フォルクスワーゲン)の誕生
国民ラジオの威力
ゲシュタポの誕生
ヒトラーとマイクロフォン
ジュタックリーン文字
制服国家
独裁制の完成)
3(ナチス式選挙;強制収容所第一号;民族共同体;「長いナイフの夜」;亡命ハンドブックス句;平穏の時代;顔の行方)
小市民について―むすびにかえて

著者等紹介
池内紀[イケウチオサム]
1940年(昭和15年)、兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。


中公新書 2553
ヒトラーの時代
ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか
¥ 946 税込

商品コード
1411739
著者
池内 紀/著
出版社
中央公論新社
ISBN
9784121025531
発行日
2019/07/25
実店舗在庫


ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂
AI による概要
詳細
ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂は、ナチス党の巧みな施策やプロパガンダ、そしてゲシュタポによる弾圧などによって引き起こされました。
【ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂の要因】
アウトバーン建設やフォルクスワーゲン(国民車)の生産などによる経済の好況
労働環境の改善や社会福祉の拡充などによる生活の向上
ゲッベルスによるプロパガンダ
ゲシュタポによる反対派の弾圧
【ヒトラー政権下ドイツの時代】
ヒトラー率いるナチス政権は、1933年1月に成立し、1945年4月30日のヒトラーの死まで存続しました。この時代は「ナチ時代(NS-Zeit)」と呼ばれ、第二次世界大戦の敗北とともに終わりました。
【ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂に関する書籍】
池内紀著『ヒトラーの時代―ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』




ヒトラーユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler Youth)は、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。

ヒトラーユーゲント女子版
ドイツ女子同盟(ドイツじょしどうめい、独: Bund Deutscher Mädel、略称 BDM)は、1930年から1945年まで存在した、ナチス・ドイツがドイツに住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。少年によって構成されたヒトラーユーゲントと対を成す。ドイツ少女同盟、ドイツ少女団、ドイツ女子団などとも訳される。

ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足したものである。

ドイツ女子同盟の変貌は、ヒトラー政権の成立から3年後の1936年である。同年、ヒトラーユーゲント法が成立して全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。入団の資格は、ドイツ民族の血統に属し、かつドイツの国籍を有する、10歳から18歳までの女子である。外国人は徴集の対象から外され、遺伝性の病気や障害を持つ少女についても、優生思想の見地から入団が見送られた。一方で、未婚の女性であれば18歳を過ぎても幹部として在留することができた。



のであり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者[2]。アドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler ドイツ語: [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声ファイル)[1](アードルフ・ヒトゥラ), 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家[2]。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者[2]。ヒトラーアドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler ドイツ語: [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声ファイル)[1](アードルフ・ヒトゥラ), 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家[2]。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者[2]。


【日独同盟】 日本語字幕
ヒトラーユーゲント入団式~松岡外相のベルリン訪問
1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。
ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。



日独三国同盟 松岡外相ベルリン ヒットラー訪問
ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕
ヒトラーユーゲント入団式~松岡外相のベルリン訪問
1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。
ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。



第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問
硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)



アルハンター駅
◆アンハルター駅跡(Anhalter Bahnhof)◆
 第二次世界大戦前、ベルリンにはいくつかのターミナル駅が存在していた。アンハルター駅もその一つで、19世紀中ごろにベルリンとドイツ中部のアンハルト地方(現在のザクセン・アンハルト州)を結ぶ駅として建設されたため、その名に因む。後にベルリン発着の国内外の長距離鉄道の玄関駅の一つとしてとして大いににぎわった。現在みられる建物跡は1880年に完成したもので、時のヴィルヘルム1世とビスマルクも落成式に同席した。また、ベルリン中心部に近く、内外の政府要人が降り立つ堂々たる威容を誇る駅は、「カイザー・バーンホフ(皇帝駅)」の異名を取るほどだった。
 ポツダム駅東側に近接。現在の「ドイツ技術博物館」はこの駅に付属する機関庫だった。第二次世界大戦の空襲で徹底的に破壊された。戦後の混乱期は応急的な修繕を行って使われていたが、連合国によるドイツ分割統治によりアルンハルター駅のある西ベルリン地区は、東ドイツの中にある西ドイツの飛び地状態となったことから鉄道網が寸断され、全盛期の長距離列車の運行は行われることはなく、駅舎も再建されることはなく1952年には完全に営業を停止。1959年には正面のファサードを残して爆破解体された。現在は正面のファサード部分をわずかに残すのみであり、近くにある同名の近郊電車Sバーン駅が地下に現存している。また、大戦中には大勢のユダヤ人たちがこの駅からチェコ経由で各地の強制収容所に送られたことを示す案内板が建てられている。

ベルリン・アンハルター駅は、ポツダム駅に次いでベルリンで2番目に古い駅であり、20世紀半ばまでベルリンで最も重要な長距離駅の1つでした。今日でも、地下鉄Nordsüd-S-Bahnの同じ名前の駅はまだ運営されています。

第二次世界大戦前、この駅はドイツ中部と南部、オーストリア、イタリアへの接続に最も重要な駅でした。堂々とした駅舎の屋根構造。
ベルリン・アンハルター駅の2005年の駅の柱廊玄関の断片

建物内部
2005年の駅の柱廊玄関の断片

日独三国同盟 松岡外相ベルリン ヒットラー訪問
ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕
ヒトラーユーゲント入団式~松岡外相のベルリン訪問
1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。
ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。


第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問
硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)



リッベントロップは、外務大臣でありながら、ヒトラーのバルバロッサ作戦(対ソ作戦)計画を、作戦指令が発せられた1940年12月には知らされず、41年春になって知らされたようである。モロジャコフ博士によれば、バルバロッサ作戦を打ち明けられたリッベントロップは、ヒトラーの意向を替えさせようと必死になった。彼は、先ず、ヒトラーに駐ソ大使シューレンブルクの意見を聴くことをすすめ、会見は1941年4月28日に実現した。シューレンブルクはヒトラーの対ソ戦決意を察知して驚いてモスクワに帰った。また、リッベントロップは、ヒトラーの注意をソ連からイラクへと転換させて、イラクで反英クーデターを支援するようにすすめ、また、対ソ戦のかわりに、スバス・チャンドラ・ボースとインドの反英勢力を支援しようとも試みたが、すべては無駄であった。モロジャコフ博士によれば、対ソ宣戦布告が行われた1941年6月22日の朝の、リッベントロップとベルリン駐在ソ連大使ウラディミール・デカノゾフとの最後の会話を通訳したヴァレンテフィン・ベレシュコフは、リッベントロップのこの時の様子について、心乱れ、取り乱し、ほとんど呂律が回らなくなるほど混乱していた、と後に語った。そして、ベレシュコフは、「どうか、モスクワで、私がこの侵略に反対していた、と告げて欲しい」と言ったリッベントロップの最後の言葉を記憶に留めていた。「私は彼の話を信じる(I believe his tale.)」とモロジャコフ博士は付け加えている。


livedoor Blogはどうなっている
livedoor Blogは低調
livedoor Blogはなぜダメか

三宅正樹明治大学名誉教授日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想 2010年執筆(2023/11/18防衛研究所)

日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想 三宅正樹明治大学名誉教授(2023/11/18防衛研究所)



ドイツとヒットラー

その熱 日本との大きな差
ヒトラーへのドイツ国民の熱気

ヒトラーとドイツの失業者 対策
ヒトラー時代のドイツ失業率の推移
ヒトラー時代のドイツ経済の推移



ヒトラー時代のドイツ経済の推移
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ナチス・ドイツの経済
ナチス・ドイツの経済(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年から1945年までのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代のドイツ経済について記述する。

概要
 ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達し、社会情勢も不安定となった。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきているが、ドイツの回復は賃金の増大や民間消費拡大をともなわなかった。しかもドイツ経済の足かせであった外貨不足や、輸入困難による資源不足は解決されず、軍備拡大のために膨大な国家債務も抱えることになった。1936年からは自給自足経済の成立を唱えた第二次四カ年計画を開始するが、資源難と労働力不足は改善されなかった。1938年には軍備生産を3倍にするという計画が立てられたが、実務において一貫性はなく、財政危機で破綻した[2]。こうして軍拡も不完全なまま第二次世界大戦の開始を迎えた。

 戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省が指導する体制になった。またポーランド人やユダヤ人の強制労働による占領地からの搾取も始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となると、ドイツの軍需生産は拡大されて総力戦体制の構築が進んだ。しかし戦局の悪化とともにドイツ経済は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えた。

 ヒトラーは1933年2月8日の閣議において、「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、いつでもどこでも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と言明するなど、ヒトラー内閣時代の経済政策はすべて軍備増強を念頭に置かれたものであった。

経済政策の基本には、民族共同体の構築、東方への侵略と植民による生存圏(レーベンスラウム)の拡大、そのための軍拡があった。

航空機産業

1932年は航空機産業の雇用者は3200人、航空機の年間製造数は100機未満だった。その後約10年で、雇用者数は25万人、年間製造数は1万機以上となった。航空機を製造したのはユンカース、アラド、ハインケル、ドルニエ、フォッケウルフ、メッサーシュミットの6社で、いずれも1933年以降に急成長した。ユンカースの他は航空省と次官のエアハルト・ミルヒが主導して国家資金で作られた企業。

貿易

ナチス・ドイツ時代を通じて輸入は1938年第四四半期の15.92億マルク、輸出は1937年第四四半期の16.288億マルクが最高であり、いずれも1930年の水準の半分以下であった。ただし世界貿易に占めるドイツ貿易の割合は1929年とほぼ変わりない水準を維持している。1936年には輸入石油への課税は4億2100万マルクで全税収の30%だった。

対外債務

公的・民間をあわせた対外債務は1933年2月28日の段階で187億2千万マルク。アメリカが40%を占め、次いでオランダとスイスの順。政府は1933年6月に対外債務返済の停止を決定した。対外債務はマルクで返済は続けるが、マルクは外貨に替えられなかった。

軍備経済

1933年の8月1日には軍備計画が立てられ、1939年10月1日の時点で平時軍83万人、戦時軍462万人(野戦軍102個師団をふくむ)の編成を目標としていた。1935年から1938年までの総生産増加分の約47%が軍事支出にあたり、これに再軍備優先の投資を加えると67%となる。1935年の国家の購入による財とサービスの70%は国防軍であり、1938年には80%に増えた。第二次世界大戦開始時の航空機生産はイギリスと同程度、戦車にいたってはイギリス以下であった。

戦時経済

1939年9月のポーランド侵攻から1940年5月のフランス侵攻にいたる一連の勝利によって、ドイツはヨーロッパを横断する経済圏を確保した。経済ブロックにするとGDP合計はアメリカやイギリスよりも大きく、影響下の人口は2.9億人、面積はアメリカより若干小さい規模となる。
イギリスのウィンストン・チャーチル政権は戦争の維持を決めており、アメリカも対ドイツ戦のために軍備を進め、1940年12月にはアメリカで武器貸与法が成立した。ドイツ圏と英米には依然として経済格差があり、特にドイツ圏では食糧、石炭、石油が不足していた。石油はルーマニアからの輸入に依存しており、占領地が拡大すると石油消費は増加して1941年から各地で逼迫した。
アメリカ参戦の前にソ連を制圧するためにバルバロッサ作戦を行った。ウクライナの穀倉地帯やコーカサスの油田などの資源を確保するという経済的な目的だったが、フランツ・ハルダーなどの将軍は作戦の成功について悲観的だった。ソ連は当時のアメリカとドイツに次ぐ経済規模であり、消耗戦になればドイツの不利になることが明らかだった。フランス戦と同様に、ソ連戦も短期間で終わらせることが目標になったが、1941年までにソ連を制圧するという目標は達成されなかった。

財政・金融

戦費調達は債券増発でまかなわれることになり、債務は1944年11月までの間に3091億マルク増加した。ライヒスバンクの対政府信用供与も倍増以上となり、1941年の時点で200億マルクを突破した。

税制では、法人税率が1941年に40%から50%、1942年からは55%に引き上げられた。これによって1941年から1943年にかけて合計30億マルク以上税収が増えた。さらに家賃税の10年分前払いによって80億マルクを徴収した。

貿易

開戦から数ヶ月で輸入量が80%減少し、大恐慌時代(1932年)の30%ほどまで下がった。銅と石油の輸入はほぼゼロとなった。同盟国(ルーマニア、イタリア、フィンランド、クロアチア等)や中立国(スウェーデン、トルコ等)に対しては貿易収支の均衡を維持した。

食糧・消費財

食糧調達は海外輸入が途絶したが、非制圧諸国からの移入により状況は悪化しなかった。他方、ポーランドをはじめ占領された地域は食糧不足となった。食糧配給では、ドイツ人が1人あたり2600キロカロリーで、ポーランド人は609キロカロリー、ユダヤ人は503キロカロリーだった。軍以外の食糧消費額は1942年までに20%減少したが、これは肉類が減少してジャガイモや豆が増加するといった質の悪化によるもので、カロリーベースではほとんど変化はなかった。

1940年を100とすると44年には食糧事情。穀倉地であったウクライナやポーランドを奪還されて以降は、食糧調達を国内生産に頼らざるを得なくなった。1944年以降は食料品の不足が明らかになった。

終戦(敗戦と無条件降伏)

1944年6月にはソ連軍のバグラチオン作戦の開始、米英軍によるノルマンディー上陸作戦による西部戦線の再構築とフランス失陥によって、ドイツは戦時経済の基盤としてきた占領地の多くを失った。そして8月にはドイツの主要な石油供給源であったルーマニアのプロイェシュティ油田を喪失し、燃料不足はさらに深刻になった[273]。1945年には戦局がさらに悪化し、ドイツ国民の平均摂取カロリーは2100キロカロリー、外国人は2000キロカロリー、強制労働者にいたっては生存も維持できない量であった。3月20日、ヒトラーは通称ネロ指令と呼ばれる命令を出し、退却地の生産施設をすべて破壊するよう命じた。この命令はシュペーアの判断によって実行されなかったが、すでにドイツ経済は末期状態となっており、5月に終戦を迎えた。



ゲーリングの時代
 1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった。9月9日、ヒトラーはニュルンベルク党大会において、覚書に基づいた自給経済体制(ドイツ語:Autarkie、アウタルキー)の確立を目指す第二次四カ年計画の開始を発表した。10月18日には四カ年計画施行令が発令され、ゲーリングが四カ年計画受託官として、計画遂行のための全権を付与された。1938年頃には過剰な通貨供給と軍需拡大によってさらに景気が過熱し、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻化した。ゲーリングが12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語った。軍需産業への労働力集中は農業人口の減少を招き、食糧自給が困難になった。1937年11月5日の秘密会議でヒトラー自身も完全な自給経済体制構築は不可能であると述べ、自給が可能であるのは石炭・鉄鉱石・軽金属・食用油にすぎず、食糧にいたっては「まったく無理」であるとした。ヒトラーは食糧自給のためにはヨーロッパ内での領土獲得が不可欠であると述べ、近い将来における戦争準備推進を要求した(ホスバッハ覚書)。1939年10月の時点でガソリン、ゴム、鉄鉱石、銅、ボーキサイトの備蓄量はわずか半年分に過ぎなかった。


当事者たちのドイツ経済の分析
 1938年6月2日、国防軍国防経済局とライヒスバンクの共催で会議(ライヒスバンク、国防軍の軍事経済スタッフ、権威ある経済学教授たちが出席)での議論の結果。

 取り上げられた問題点。


1、財政的なその場しのぎの手法(メフォ手形など)。
1、一元化されていないドイツ負債の危険性。
1、公的債務の限界。
1、さらなる消費制限の可能性。
1、ライヒスバンクによるお金と信用創造の管理。
1、将来的な企業部門からの信用要求の増加を満たす可能性。
1、政府発注が一時的に緩和した場合デフレ兆候の危険性。
1、公的部門以外のバブル経済の危険性。
1、誤ったうわべだけの資金流動性が広がることの危険性。
1、企業の自己資金繰りによる危険性。

ドイツ国防軍の主任エコノミスト、ゲオルク・トーマスの分析
(国民所得における軍備の負担)

 1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマス(英語版)が分析した国民所得における軍備の負担は次のとおり。(英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回る)
1、ドイツ23%
1、イギリス12%
1、フランス17%
1、アメリカ2%
 トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった

所得
 1936年の完全雇用時点では、全納税者の62%の1450万人は年収1500マルク以下で週給30マルク・時給約60ペニヒにあたる。ブルーカラー労働者の年収は1500から2400マルク、ホワイトカラー労働者は3000マルクだった。
アメリカやイギリスとの経済格差は大きく、同時代のアメリカのデトロイトと同水準の生活をベルリンやフランクフルトでするには5380マルクから6055マルクが必要だった。1930年代後半にラジオを購入できたのは半数の世帯であり、イギリスは68%、アメリカは80%だった。



ドイツとヒトラー
AI による概要
詳細
アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者として、ドイツを独裁国家に導きました。ナチスは第二次世界大戦を勃発させ、全世界で6000万人にも及ぶ犠牲者を生み出しました。
【ヒトラーとドイツの関係】
ヒトラーはオーストリア出身でしたが、ドイツ国民を扇動してナチスを興隆させました。
1923年にドイツ政府の転覆を謀った罪で逮捕され、投獄されました。
1933年1月にドイツの首相に任命され、ドイツの民主主義に終止符を打った。
恐怖政治によって、個人の自由やプライバシーを奪いました。
1945年4月30日に自殺しました。
【ナチスによる支配】
ナチスは人種差別主義と全体主義に基づき、基本的な自由を廃止しました。
「民族(Volk)」共同体の形成を求め、ドイツのすべての社会階級と地域を統合することを目指しました。
文化、経済、教育、法律をナチスの管理下に置きました。
商業組合を廃止し、労働者や従業員、雇用主をナチスの組織に強制的に組み込みました。


AI による概要
詳細
アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政党「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」の指導者で、ドイツの民主主義を破壊し、一党独裁国家を樹立しました。
【ヒトラーとナチス政権】
1920年にミュンヘンでナチ党の最初の公開会議が開催され、ヒトラーは「25か条綱領」を発行しました。この綱領には人種差別を具体化した内容が盛り込まれていました。
1933年1月30日にヒトラーがドイツの首相に任命され、ナチス政権が樹立されました。
ナチスは、出版や言論、結社の自由を奪い、恐怖政治によって目的を達成しました。
ナチスは、ユダヤ人やロマ民族(ジプシー)、政治的反対者らを迫害しました。
ナチスは、労働組合を支配し、独立した労働者の代表を消滅させました。
【ナチスと第二次世界大戦】
ナチスは第二次世界大戦を勃発させ、全世界で6000万人にも及ぶ犠牲者を生み出しました。
1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ドイツは1945年5月7日に西側連合国に、5月9日にソ連軍に無条件降伏しました。


ヒトラー なぜ人気
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詳細
ヒトラーが人気を集めたのは、ドイツの復興や愛国心を高めるという期待、ヴェルサイユ条約の賠償金の負担軽減への期待、社会民主党政権への不信感、世界恐慌による経済破綻と失業の増加などが理由でした。
【理由】
ドイツ民族の復興や愛国心を高めるという期待
ヴェルサイユ条約の賠償金の負担軽減への期待
社会民主党政権への不信感
世界恐慌による経済破綻と失業の増加
ヒトラーが支持された背景には、次のような事情がありました。
ドイツはヴェルサイユ条約で多額の賠償金を課されており、ヒトラーならその負担や生活の困窮を何とかしてくれると期待された。
それまでの社会民主党政権に対する信用がなかった。
世界恐慌で経済が破綻しており、失業者が増加していた。


ヒトラーとドイツの失業者 対策
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詳細
ヒトラー率いるナチス政権は、失業対策として、経済政策や公共事業の建設、租税の軽減などを行いました。
【経済政策】
大企業や富裕層への増税
株式の配当を最大6%に制限し、残りの利益は国の購入に充当
資産家や大企業によるマネー・ゲームの取り締まり
メイドを雇った者の所得税の減税
家の改築を行った者の減税
労働者や低所得者層への大減税
【公共事業の建設】
ドイツとオーストリアを結ぶ高速自動車道路網「アウトバーン」の建設
住宅建設、農業向けの特別計画
【租税の軽減】
企業の税負担を軽減
企業の収益能力増大を促進
【失業減少のための法律】
ラインハルト計画(財務省次官ラインハルトにちなむ計画)


ヒトラー時代のドイツ失業率の推移
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詳細
ヒトラーが政権を握った1933年頃のドイツの失業率は30%を超えており、経済は麻痺状態でした。その後、失業率は減少していきました。
【失業率の推移】
ヒトラー内閣成立時に失業者は600万人いた
翌年春には失業者は300万人を割った
1936年春には失業者は200万人を切り、1937年春には100万人強にまで落ちた
1938年夏には失業者は20万人ほどとなった
【失業対策】
ヒトラーは、失業対策として、アウトバーン(ドイツとオーストリアを結ぶ高速自動車道路網)の建設事業を通じて雇用を生み出しました。また、1930年代後半からは軍事最優先の生産活動である四カ年計画を実施しました。
【経済恐慌】
ドイツは1929年に始まった世界経済恐慌に痛めつけられ、工業生産は30年前の水準にまで落ちました。経済的困窮はナチ党の急速な支持上昇に貢献しました。



日本国の松岡洋右外相を迎えるアドルフ・ヒトラードイツ国首および国家元首(総統)以下政府幹部による日独同盟締結の祝賀の式典である。松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使ほか日本の一行は街頭パレードをして、総統官邸のバルコニーから松岡洋右とヒトラーが群衆に手を振る。動員されたドイツ国民の熱狂の度合いは米国が日米戦争に勝利したきやマッカーサーが凱旋したときに勝も劣らない。沿道をパレードする松岡の車に押し寄せる群衆を制するにがやっとという状態であり、その熱狂は心からのものと映った。

 日本の学徒出陣壮行会として1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場で文部省主催のそれが有名である。東條英機首相が熱のあがらない演説をし学徒代表の決意表明があった。その日は雨。学生服に学生帽。腰ベルトをして銃を持って水たまりを行進する。観覧席には女子生徒と母親たちが詰めている。軍楽の音がむなしく雨に消える。

 1943年9月に東条内閣が理科系と教員養成系以外の大学と高専在学生の徴兵猶予を停止、この年10月21日に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。文部省主催の壮行会は全国7都市と満州などで開かれた。東京の出陣学徒壮行会は、首都圏の77校が参加、ラジオはこの模様を2時間余り実況中継した。

戦時中の東京帝国大学は三年次を終えて卒業であった。二年半ばまでに所定の単位を取っていれば卒業となる学徒動員令である。後に大学教員になる福島新吾は法学部政治学科二年時にこの学徒動員令に対応して出征する。法学部生は政治学科と法律学科あわせて八百名であった。

当時、東京帝国大学で法学部長は末弘厳太郎であった。昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。末弘厳太郎の法学部長在任期間は、1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)3月まで。末弘厳太郎は学生の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行っていた。1943年(昭和18年)10月21日の明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に際しては「行ってまいります、は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えずに征きます、と言え」といわれて気が引き締まったと福島新吾は手記に残している。

 福島新吾は「私は体調が悪かったし、お祭り騒ぎを嫌って参加しなかった」と『学徒出陣落第記』で語っている。甲府市の陸軍第13師団歩兵第49連隊で初年兵となった福島は幹部候補生試験に合格して教育を受けることになっていたが以前から結核が悪化して除隊扱いになる。歩兵第49連隊は3000人規模の兵団で、当時は人口5万2700人余であった。第49連隊については次のような記録がある。1944年(昭和19年)11月フィリピン中部・ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置するレイテ島で、大部分が壊滅。1945年(昭和20年)8月太平洋戦争終戦に伴い、ビサヤ諸島のセブ島にて武装解除。


学徒動員に際して学生は仮卒業の資格を得ていた。除隊復学の道もあり福島新吾は同じ死ぬなら学生の身分のままでありたいと考えて復学できる処置をしていた。そのために戦後の大学教授たちの授業の変化を経験し、また戦後の民主主義における学問の息吹に触れることになる。

以下は福島新吾「体験戦後史 1945~47」「社会科学としての政治研究―1947~54」の手記の一節である。

 東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に『ドイツ国民に告ぐ』と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、一語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に「押しつけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほかに公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。

 末弘さんは、昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。教授は戦時中私の在学当時の法学部長であった。

 その頃なんと東大の入学式には「父兄同伴」が求められていた。病床の父の代わりに出席した東大物理学科を卒業した兄は、末弘法学部長が訓示して「今は科学万能のようなことを言っているが、理科を出た人間に国家を運営することは出来ない。法科で学ぶ諸君が天下国家を担わなければならない」と激励したので憤慨していた。

 当時東大法学部教授で政治学を担当していた矢部貞治氏は 『矢部貞治日記銀杏の巻』(1974)で末弘氏の法学部長選出に反対して、これは「横田喜三郎一派[つまり親欧米、反 ナチス派というわけ]の策謀と見える」と書いているが、当時かなり厭戦的だと知られて いた横田氏の派閥(田中耕太郎氏ら)が推薦したというのはあまり納得できない。矢部氏は南原教授も末弘氏に批判的と書いているが、末弘さんはむしろ当時憂国的だったから南原さんが危惧したのではないだろうか。その外、当時タカ派で思想弾圧のリーダーと見られた大審院検事池田克の夫人が末弘の妹という関係が知られていた場合には不安をもたらしたかも知れない。

 私達の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行い、学徒出陣の壮行会の時には「『行ってまいります』は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えず に『征きます』と言え。」といわれて気が引き締まったことを覚えている。

 そんなわけで学生の眼にはかなり戦争協力的に見え、一部学生は批判的だったが、私は好感を覚え、矢部さんのように軍部に迎合した人とは立場が違うと感じられた。末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。

 しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は継続し、労働者委員の徳田球一(共産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日経連)などとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。

以上である。

学徒動員の狙いと効果についての福島新吾の考察『学徒出陣落第記』がある。次のようなものである。

 1943年9月、東條首相が発表したいわゆる学徒出陣は緊急施策であった。それまで大学、高専在学中は二十歳の兵役年齢を超えても、最高二十五歳まで入営塩基の特権があった。この停止で、理工医農の技術系を除いて、文科系すべて推定六万強の学徒を一挙に動員したわけだ。のの狙いは何より下級指揮官の級増だった。

 学徒兵が軍隊内で「お前たちは消耗品だ」と罵られたとおり、軍はつぎつぎ倒れる下級指揮官の補充が比喩用だった。

 「学徒出陣(式)」は一般の関心をかきたてて、国民の戦争協力の強化に役立てる演出に過ぎなかったのえはないか。

 さらに踏み込めば、絶望的な戦況の中で、講和の声をあげやすい社会科学、人文科学系の青年をあらかじめ軍隊内に拘束したのではなかったか。彼らはすべて軍隊内で小さな声で戦争への疑問をささやき続けたに止まったのである。

以上。



 日独同盟締結すなわち1940年(昭和15年)9月27日締結の日独伊三国軍事同盟はののち、1941年(昭和16年)3月、松岡洋右外相がベルリンのドイツ公式迎賓館にヒトラー総統を訪問したときのドイツ国民の熱狂はヒトラーへの熱狂としての最盛期であった。

1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達していた。1940年43万1千人になり、求人が求職を上回る完全雇用が実現していた。ナチスドイツの絶頂期と雇用とが一致している。この時期の松岡洋右外相のベルリン訪問であった。


ドイツ国民のヒトラーへの熱狂の原因は別にして、その熱の冷め方を伝える次の証言がある。亡命ドイツ社会民主党の「ドイツ通信」が伝えるところによると、戦局が不利になるとヒトラーの演説に対する意欲は減退、回数も減り1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となった。ヒトラーの繰り返される演説に多くの人々が飽き飽きしており、ほとんどラジオ放送を聞かなかった。


ヒットラーへの熱狂は第一次世界大戦での敗北に伴う賠償でドイツ経済は疲弊し、産業総失業者割合が40%を超える苦境からの脱出期に重なったことによる。この時代の敗戦国の賠償は身包剥がれる過酷さであった。

 次の本がある。『ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』池内紀著 (中公新書 2553、発行日2019年07月25日)。

 ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期まで。泡沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧。という内容である。

フォルクスワーゲン(国民車)の開発と生産については、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用され、結果的に数十万人分の積立金は戦争資金として流用されることとなり、予約購入者には一台も納車されることはなかった。

 ナチス・ドイツでは、1934年にアドルフ・ヒトラーが安価で高性能な自動車を国民に供給する国民車計画を提唱し、数十万人分の予約を取り付けていた。第二次世界大戦が開始されたために量産計画は破棄、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用された。戦後に連合軍によって工場が復興し、フォルクスワーゲン・タイプ1として大衆車の量産となった。戦中のドイツ国民の収入額は、安くても自家用車を所有できる状態になかった。

アウトバーン建設構想とその計画は失業対策も含めてヒトラー以前に動いていた。1932年の自動車保有者は住民千人一人であった。同時期のアメリカでは五人に一人。アウトバーンはドイツ国民の所得と生活とは無縁であり、国民はアオトバーン建設よりも安価な住宅を欲していた。

 ドイツで建設された自動車専用道路網のアウトバーンは、ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。アウトバーンはヒトラーの唯一の功績として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛された。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、1936年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した」としている。2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている。

 山川用語集、その他の事典類は、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている(2018年改訂版では「1933年から建設が開始された」とされている)。建設開始が1932年とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていた。

ナチスドイツとからめて概念化されているヒトラーへの熱狂の要素としての、ウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産は打ち消される。失業率の改善は軍需生産と連動していた。軍需生産は国民生活を究極的に豊かにするものではない。ドイツはポーランドなどに侵攻し、併合してここから資源と食糧を確保した。ウクライナも維持時期ドイツ領となって小麦の調達先となった。

戦争で疲弊した経済と国民生活の復興とが軍需産業を国内総生産の5割ほどに増やした産業政策によってもたらされた。


ドイツ国防軍の主任エコノミスト、ゲオルク・トーマスの分析(国民所得における軍備の負担)


 1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマス(英語版)が分析した国民所得における軍備の負担は次のとおり。(英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回る)
1、ドイツ23%
1、イギリス12%
1、フランス17%
1、アメリカ2%

 トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった


ナチスドイツにおけるラジオの生産


 ヒトラーを英雄として描き出す巧みな宣伝と先導はラジオをも用いてなされた。国家の意思を国民に伝え、国家の意思に国民を服従させる道具立てとしてナチスドイツ時代にはラジオの役割は大きかった。

 国民ラジオ計画が立てられた。国民ラジオ(こくみんラジオ、独: Volksempfänger)が大量生産され、低価格で販売された。国民ラジオ計画の進展とともにドイツでのラジオ受信機の普及は急速に進み、1939年にはラジオ受信機を所有する世帯が全体の70%を占めた。この普及率は当時において世界一だった。1933年から1939年までの間に製造された国民ラジオの累計台数は700万台を超えている。

 宣伝相のゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であるとした。国民ラジオは、ナチスの放送はだけが受信対象であり英国放送協会(BBC)の国際放送BBCワールドサービスのは聴取できなかった。

 ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがニュルンベルク裁判の最終陳述で次のように語った。
 「ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった」

 次のような資料がある。

1、ヒトラーは政権獲得後の1933年2月1日にラジオ演説をしたが、演説を聞けたのはドイツの全世帯の4分の1だったといわれる。当時のドイツ人口6600万人に対してラジオは430万台だった。
1、1933年頃のドイツ製ラジオ受信機の価格はローエンドの製品でも150RM前後 。一方、当時のドイツ労働者の平均月収は120~150RMだった 。



 1941年(昭和16年)4月9日付「ドイツ週刊映画ニュース 日独同盟締結での松岡洋右外相、のベルリン訪問」の動画映像の最初に取り上げられたのは14歳になったヒトラーユーゲント若者の入団式である。14歳以上の100万人を超える少年と少女はヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟に入ることが義務付けられていた。1941年3月30日の入団式の報道が松岡外相ベルリン訪問のニュースの前に報じられている。

ヒトラーユーゲントならびにドイツ女子同盟への入団式には熱気はなく、松岡洋右外相歓迎の沿道の観客は警備の兵隊を押しのけてでも松岡が乗る車ににじり寄るという歓喜があった。日独伊三国同盟締結はドイツ国民には戦争勝利への大きな期待となったことを示す。



ヒトラーユーゲント


 ヒトラーユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler Youth)は、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。


ヒトラーユーゲント女子版のドイツ女子同盟


 ヒトラーユーゲント女子版であるドイツ女子同盟(ドイツじょしどうめい、独: Bund Deutscher Mädel、略称 BDM)は、ナチス・ドイツがドイツに住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。少年によって構成されたヒトラーユーゲントと対を成す。ドイツ少女同盟、ドイツ少女団、ドイツ女子団などとも訳される。1930年から1945年まで活動した。ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足。ヒトラーユーゲント法が成立して全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。入団の資格は、ドイツ民族の血統に属し、かつドイツの国籍を有する18歳までの女子。




 大人になる前は子供であり青少年である。ヒトラーと国家への忠誠を誓うように青少年を義務的な組織にはめ込んで統制した。悪知恵を総動員した国家による策謀であり国民はヒトラーを英雄として崇(あが)めた。それは戦争が優位であり生活の向上を実感できる間だけのことであった。




ヒトラーが台頭して政権を獲る時代に重なって陸軍駐在武官としてドイツに滞在、ヒトラー政権下で駐ドイツ大使となった陸軍中将がいる。父親は陸軍中将であり1916年(大正5年)3月30日~10月9日、第2次大隈内閣陸軍大臣。 10月9日~1918年(大正7年)9月29日、寺内内閣陸軍大臣。ドイツ贔屓(ひいき)の父親に幼少からドイツ語修得のために特別な教育を施され、在日ドイツ人家庭でドイツ語を学んだこの男は物事の発想と身のこなし方までドイツ人のようだといわれるようになる。第一次世界大戦からの復興が軍事産業への重点投資によってなされ、四割を超えていた失業率が完全雇用の状態になるころのドイツ国民のヒトラーへの熱狂をそれ以上の思いで歓喜していた男である。

 この男のヒトラーへの歓喜はドイツ敗戦までつづく。いやその後終生続いていた。大本営発表を疑わずに受け止めていた日本国民は多かった。駐ドイツ大使のこの男はヒトラー政権が発表する戦況をそのままに受け止めて、日本国政府に伝え続けた。

この男、駐ドイツ大使の日本政府への公電は少なくとも二つの時点で日本政府と大本営の判断の間違いを引き起こした。

 日本国が米英に宣戦布告した1941年(昭和16年)12月8日を前にして、ソ連に進行したドイツ軍は、スターリングラードでの戦闘が補給が途絶えて敗北が確定していた。秋の遅くにはこのことが判明していて、中立国のスエーデンのストックホルムでソ連とドイツの戦況を観測していた駐在武官の小野寺信は、ドイツはロシアに負けていて回復困難だから、米英との戦争に突入してはドイツとともに日本は負けるという意味で「開戦絶対に不可なり」と打電していた。

1945年(昭和20年)5月には、米英ソのヤルタ会談において、ドイツ降伏の5月5日から三カ月間を準備期間としてソ連が日本に宣戦布告して攻め込む密約を確かな筋の情報として入手して、日本国政府に打電していた。

学徒動員ののち幹部候補生になっていた福島新吾は結核の発症により招集解除となり、外務省に嘱託として勤務していた。課長、局長などが出勤しない外務省にあって終戦の少し前に外国大使館からの電文や報告書などを見ていた福島はスエーデンからの電報、スイスからの電報、ソ連からの電報ほかを、なかば暇に任せて閲覧していた。日米の戦闘の結果がニューヨークの株価にまったく反映されない状況は勝敗がすでに決しているためであることを局長に報告書にして提出したら、当たり前のことを今更という態度であった。

戦争を最後まで続けようとしたのは高級将校である軍人たちの立場がなさしめた。親の代から続く家業としての将校職であり、それは軍隊あってのものである。駐ドイツ大使のその男もそのようであった。東條英機もしかり、大本営の参謀たちも同じであった。スエーデンの小野寺信からのヤルタ会談の密約を知らせる電文を握りつぶしたのは大本営参謀のある男と推定されている。この男は戦後になって終生参謀時代のことを口にしなかった。大概の参謀たちは良しに付け悪しきにつけ、幾ばくかを口述するか、手記に残している。

ここに登場する駐ドイツ大使は大島浩である。大本営参謀は陸軍中佐である。負けていて負けが決定付けられているにも関わらず焦土決戦を叫び続け、その口実は国体の護持であった。天皇制の存続のためには死中に活を求める一大戦果を挙げてこそというものであった。米国と連合軍はドイツ空爆とベルリン壊滅作戦をそのまま日本侵攻で実行した。1945年初頭、日本軍の戦闘力は無いのと同じであった。都市が焼かれ、軍の基地と軍事産業は完膚なきまでに痛めつけられた。基地に関係しては占領後に米軍と連合国が使うことを想定して一部は爆撃の対象から除外された。

天皇制の扱いについては都市を焼き尽くしたこととあ連動して廃止であり、それ以上深く意に介さなかった。ドイツは国家への忠誠をヒトラーへの忠誠と重ね合わせて国民に求めた。日本国では天皇への忠誠は国家への忠誠であった。ヒトラーが国家の権限を自在に操ったのに対して日本国天皇は遥かに控えめであった。御前会議では天皇は直接に言葉を述べないことになっていて、唯一例外があって、それは明治天皇の言葉である「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」と口にしたことであった。大本営とのやり取りについてはもう少し言葉を残している。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」の意味していることは、四方に広がる海(よもの海)で繋がるこの世界は、みな兄弟(はらから)であるように思うのに、なぜ人々の間に戦争などの波風がたってしまうのだろう、ということ。

 このころ場に杉山元参謀総長らは、御上は開戦に反対だぞと会話している。しかし戦争はするな、開戦には反対だと直接には言っていないために、開戦を準備していた大本営は開戦に突き進む。大本営の内部ではここを取ったら次はどこ、と侵略の思想で統一されていた。中国からの撤退は、満州国の放棄にもつながることから、連合国の要求を受け入れ余地は大本営にはなかった。





1941年4月13日日ソ中立条約に調印


 松岡洋右外相は、ドイツ訪問のあと、1941年4月13日にソビエト連邦のモロトフ外務大臣と日ソ中立条約に調印する。この条約は、締約国のいずれか一方が第三国の軍事行動の対象となった場合に、他の締約国はその紛争の間は中立を守ることを規定していた。一方、日本とドイツとイタリアは、1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟を締結。この同盟は、アジア・ヨーロッパにおける三国の指導的地位を相互尊重し、日中戦争とヨーロッパ戦争に参加していない国(ソ連を除く)から加盟国が攻撃された時は、相互援助することを約束している。



https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300431_00000&chapter=004
日本ニュース 第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問


 このニュース映像をNHKが記録として残している。アナウンサーが読んだニュースの文章は次のようであった。

 硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)。


ベルリンのアルハンター駅


松岡洋右外相がベルリンのドイツ迎賓館にヒトラーを訪問したときに降り立ったのがベルリンのアルハンター駅。ドイツ中部と南部、オーストリア、イタリアへの接続に駅であった。

 第二次世界大戦前、ベルリンにはいくつかのターミナル駅が在った。アンハルター駅はその一つで、19世紀中ごろにベルリンとドイツ中部のアンハルト地方(現在のザクセン・アンハルト州)を結ぶ駅として建設されたことから名付けられた駅名である。後にベルリン発着の国内外の長距離鉄道の玄関駅の一つとしてとしてにぎわった。

 現在みられる建物跡は1880年に完成したもので、時のヴィルヘルム1世とビスマルクも落成式に同席した。ベルリン中心部に近く、内外の政府要人が降り立つ堂々たる威容から「カイザー・バーンホフ(皇帝駅)」の異名がある。
 第二次世界大戦の空襲で破壊され、戦後の混乱期は応急的な修繕を行って使われていたが、連合国によるドイツ分割統治によりアルンハルター駅のある西ベルリン地区は、東ドイツの中にある西ドイツの飛び地状態となったことから鉄道網が寸断、1952年には営業を停止。1959年には正面のファサードを残して解体された。


ヒトラーのナチ時代


 ヒトラー率いるナチス政権は、1933年1月に成立し、1945年4月30日のヒトラーの死まで存続。この時代は「ナチ時代(NS-Zeit)」と呼ばれ、第二次世界大戦の敗北とともに終わる。


ドイツのナチス時代の経済を示す統計数字



年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
年 失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5 - -
1931年 4,519,7 - -
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2 - -
1940年 43,1 - -

ヴァイマル共和政期の航空機生産数
企業\西暦 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 計
Albattros - 1 - 5 23 24 21 22 23 23 25 13 - 180
Arado - - - - - 10 19 8 16 5 4 9 11 82
Casper(英語版) - - 5 3 9 6 7 7 1 - - - - 38
Domier 2 3 6 8 20 38 23 22 30 21 17 19 9 218
Focke-Wulf - - 1 - 2 16 9 7 27 27 14 12 25 140
Fokker 6 15 12 4 - - - - - - - - - 37
Fokker-Grulich - - - - 6 36 - - - - - - -
Heinkel - - - 1 16 18 22 20 25 32 31 25 38 228
Junkers 74 16 9 79 90 78 69 58 62 73 92 88 27 815
Klemm 1 - - - 8 4 4 30 73 82 56 107 85 450
L.F.G 2 6 2 2 2 20 10 - - - - - - 44
Messerschmitt - - - - 3 4 1 7 12 30 57 27 24 165
Rohrbach 1 - - 1 4 9 5 6 5 12 - 1 - 44
Sablatnig(英語版) 9 9 4 - - - - - - - - - - 22
Udet(英語版) 3 9 15 31 33 41 54 29 4 - - 219
その他 - 7 5 18 66 112 107 66 81 45 32 9 12 560
計 95 57 47 130 264 406 330 294 409 379 332 310 231 3,284


貿易
ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
年 四半期 輸入 輸出 貿易収支
1929年 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

統計
各国軍需生産の推移(1944年=100)
1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%) [注釈 49]
産業分野 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
原料 21 21 22 25 25 24 21
兵器 7 9 16 16 22 31 40
建物 25 23 15 13 9 6 6
その他の投資財 16 18 18 18 19 16 11
消費財 31 29 29 28 25 23 22



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ナチス・ドイツの経済

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
年 失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5 - -
1931年 4,519,7 - -
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2 - -
1940年 43,1 - -

ヴァイマル共和政期の航空機生産数
企業\西暦 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 計
Albattros - 1 - 5 23 24 21 22 23 23 25 13 - 180
Arado - - - - - 10 19 8 16 5 4 9 11 82
Casper(英語版) - - 5 3 9 6 7 7 1 - - - - 38
Domier 2 3 6 8 20 38 23 22 30 21 17 19 9 218
Focke-Wulf - - 1 - 2 16 9 7 27 27 14 12 25 140
Fokker 6 15 12 4 - - - - - - - - - 37
Fokker-Grulich - - - - 6 36 - - - - - - -
Heinkel - - - 1 16 18 22 20 25 32 31 25 38 228
Junkers 74 16 9 79 90 78 69 58 62 73 92 88 27 815
Klemm 1 - - - 8 4 4 30 73 82 56 107 85 450
L.F.G 2 6 2 2 2 20 10 - - - - - - 44
Messerschmitt - - - - 3 4 1 7 12 30 57 27 24 165
Rohrbach 1 - - 1 4 9 5 6 5 12 - 1 - 44
Sablatnig(英語版) 9 9 4 - - - - - - - - - - 22
Udet(英語版) 3 9 15 31 33 41 54 29 4 - - 219
その他 - 7 5 18 66 112 107 66 81 45 32 9 12 560
計 95 57 47 130 264 406 330 294 409 379 332 310 231 3,284


貿易
ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
年 四半期 輸入 輸出 貿易収支
1929年 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

統計
各国軍需生産の推移(1944年=100)
1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%) [注釈 49]
産業分野 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
原料 21 21 22 25 25 24 21
兵器 7 9 16 16 22 31 40
建物 25 23 15 13 9 6 6
その他の投資財 16 18 18 18 19 16 11
消費財 31 29 29 28 25 23 22




ナチスドイツにおけるラジオと自動車(フォルクスワーゲン)の生産

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA
国民ラジオ
国民ラジオ(こくみんラジオ、独: Volksempfänger)は、ナチス・ドイツにおいて一般国民に対するプロパガンダの手段として大量生産され、低価格で販売された一連のラジオ受信機の総称。
国民ラジオ計画の進展とともにドイツでのラジオ受信機の普及は急速に進み、1939年にはラジオ受信機を所有する世帯が全体の70%を占めるまでに至った。この普及率は、当時において世界一だった。1933年から1939年までの間に製造された国民ラジオの累計台数は700万台を超えている。
ゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であると考えており、低価格でラジオを流通させたのはその企図によるものだった。すべての国民ラジオは、ローカル局だけしか受信できないように意図的に設計されていた。つまり、ナチスのプロパガンダ放送は聴取できる一方で、たとえば英国放送協会(BBC)の国際放送BBCワールドサービスのような他のメディアは聴取できないように設計されていたのである。
プロパガンダの道具としての国民ラジオの効力に関しては多くのことが語られてきた。最も有名なのは、ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがニュルンベルク裁判の最終陳述で語った次の言葉である。

「ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった。」
ヒトラー演説が行われた放送の聴取は国民に義務付けられ、どこでどのようにラジオを聞いたかの報告が求められた
亡命ドイツ社会民主党の『ドイツ通信(ドイツ語版)』によれば多くの人々が繰り返される演説に飽き飽きしており、ほとんど放送を聞かなかった。このこともあって1934年以降はヒトラーの演説放送回数は半減している。戦局が不利になるとヒトラーの演説に対する意欲も減退、回数も減り、1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となっている。

国民ラジオはヒトラーの演説の「叫び」を送り届けたが、一方の連合国側でも(その影響を受けたものではないものの)ラジオを使ったトップ直々のメッセージ伝達がおこなわれていた。フランクリン・ルーズベルトの炉辺談話は、「叫び」ではなく「話しかけ」を国民に送り届けた。聞く者が音量を調節できるというメディアの性質を考えると、生演説では効果的な「叫び」が、ラジオでは必須ではないのである。

1、ヒトラーは政権獲得後の1933年2月1日にラジオ演説をしたが、演説を聞けたのはドイツの全世帯の4分の1だったといわれる。当時のドイツ人口6600万人に対してラジオは430万台だった。
1、1933年頃のドイツ製ラジオ受信機の価格はローエンドの製品でも150RM前後 。一方、当時のドイツ労働者の平均月収は120 - 150RMだった 。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8A%E6%A7%8B%E6%83%B3
国民車構想
ナチス・ドイツ
ナチス・ドイツでは、1934年にアドルフ・ヒトラーが安価で高性能な自動車を国民に供給する国民車計画を提唱し、数十万人分の予約を取り付けていた。しかし、ヒトラー自身が始めた第二次世界大戦のため量産計画はストップし、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用され、結果的に数十万人分の積立金は戦争資金として流用されることとなり、予約購入者には一台も納車されることはなかった。それがフォルクスワーゲン・タイプ1として結実し、大衆車の成功例として注目を集めることになるのは戦後に連合軍の手で工場を復興されてからのことである。


小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p91
「ナチスは良いこともした」という言説は、国内外で定期的に議論の的になり続けている。アウトバーンを建設した、失業率を低下させた、福祉政策を行った――功績とされがちな事象をとりあげ、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証。歴史修正主義が影響力を持つなか、多角的な視点で歴史を考察することの大切さを訴える。



ナチスドイツにおけるアウトバーン建設構想

https://www.y-history.net/appendix/wh1504-089.html
ドイツで建設された自動車専用道路網。ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。アウトバーンは、しばしばナチス=ドイツの指導者ヒトラーの「唯一の功績」として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛されている。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし・・・」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、36年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。」としている。そして、2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている(下掲)。
ヒトラー以前のアウトバーン建設
 しかし、山川用語集、その他の事典類を見てみると、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている(2018年改訂版では「1933年から建設が開始された」とされている)。建設開始が1932年とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていたことになる。ヒトラーが「建設を推進した」という表現はよいとしても、「ヒトラーが建設を開始した」のではなさそうだ。少なくともそのアイディアまでいかにもヒトラーの発案のような理解は間違えている。そのことに触れているのが、ゲルハルト=プラウゼの『異説歴史事典』である。同書は「アウトバーン」の項で、ハンス=ヨアヒム=ヴィンクラーの『ヒトラーをめぐる伝説』をもとに「そのアイディアですらヒトラーのものでなかった」として、次のように説明している。(同書ではアオトバーンと表記されている)
ベルリンには1921年に全長9.8キロのアーヴスという自動車専用道路があった。これは1912年に着工されたもので、世界最初のアオトバーンと目されている。
 アメリカのハイウェイはすでに1921年代初めにできていた。イタリアでは1923~24年にアウトストラダが建設されていた。1926年に「ハンザ諸都市=フランクフルト=バーゼル間自動車道路建設準備会(ハフラバ HAFRABA)が設立され、1927年には全アオトバーン網の構想を発表した(ハフラバは後にこの構想をヒトラーに売り込んだ)。1931年、国際連盟の国際労働局のきもいりでジュネーヴで第1回国際アオトバーン会議が開催された。目的はアオトバーン建設によって雇用を創出することであった。
1932年8月、全長20キロのケルン=ボン間アオトバーンが開通。これはライン州行政府と当時アデナウアー(戦後の西ドイツの首相)が市長だったケルン市によって建設されたもので、一部は失業者雇用のため生産的失業者救済資金から融資された。
アウトバーン建設の「ヒトラー神話」
 以上がヒトラー政権以前の事実である。1933年、ハフラバが全計画を持ち込むとヒトラーはすぐにとびつき、同年9月23日には早くもフランクフルト=アム=マイン近郊で全国アオトバーン網の鍬入れ式を行い、1938年末までに計画線6900キロのうち3000キロが出来上がった。こうしてアオトバーンは総統の「天才的なアイディア」とか「総統の道路」などという宣伝が行われ、後にはヒトラーは1924年のランツベルク刑務所に禁固中に頭の中に交差点のない自動車専用道路というアイディアがひらめいた、という神話が作られた。実際には、アオトバーン計画は失業対策も含めてヒトラー以前に存在していたわけである。しかも、このような道路は当時のドイツには贅沢だった。1932年の自動車保有者は住民100人に対して一人に過ぎなかった(同時期のアメリカでは5人に一人)。国民が望んでいたのはアオトバーン建設よりも安価な住宅であった。<ゲールハルト=プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1984 紀伊國屋書店 p.23-26>
出題 東京大学 2008年 第3問 問(10)
 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興と共に高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。



【追悼 池内紀】
川本三郎/『ヒトラーの時代』に込められたもの
ドイツ文学者で自由な文筆家だった池内紀さんが亡くなった(八月三十日。78歳)。
 生前、最後の著書となったのは、七月に中公新書で出版された『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』だった。
 文学者がヒトラーを、ナチズムを語る。勇気がいったことだろう。それでも、書かずにはいられなかった。ドイツ文学者としては当然のことだろう。
 自分が若い頃から親しんだドイツ文学の背後にはいつもナチズムがあった。なぜ愛するドイツがヒトラーを生んだのか。それはゲーテを訳し、チェコ生まれのユダヤ人作家カフカを訳し、ナチズムの時代にドイツにとどまってひそかな抵抗を続けたケストナーを訳し、また、ギュンター・グラスを訳した池内紀さんにとって、避けて通れなかった課題だった。自分自身、もう一度、ドイツ現代史を見直し、「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」を考えざるを得なかった。
 それはドイツ文学者の池内紀さんの誠実な仕事であり、物書きとしての良心の証だった。
 本が出てすぐに読んだ。歴史家の書くものと違って、随所に「なぜ」という文学者の心の痛みが感じられた。「晩年」になって、「なぜドイツにナチズムが」という疑問を放置することは、池内さんにはもう出来なかった。
 振返ってみれば、池内さんはつねに、この問題を考え続けてきた。
 早くには、アウシュヴィッツなどの収容所から奇跡的に生還した思索者、ジャン・アメリーの体験記『罪と罰の彼岸』を翻訳された(最初の版は、1984年に法政大学出版局から。2016年にみすず書房から復刊された)。ナチズムへの関心は、つねに大きく池内さんの心のなかにあったことが分かる。
 そもそも、大学での修士論文はウィーンの批評家、ユダヤ人のカール・クラウスだった。終生、マイナーなもの、小さなもの、「二列目」を愛した池内さんは、ドイツ文学のなかでも、日本では忘れられがちだったユダヤ人作家たちに着目した。カフカも、いうまでもなくユダヤ人であり、池内さんの大学時代には決して、いまのようなメジャーな存在ではなかった。
 ドイツ文学のなかでは、語られることの少ないユダヤ系の作家に着目すること。ここに池内さんの心優しい反骨があった。
 当時の偉いドイツ文学者のなかには、戦時中、ナチス宣伝の書を訳しながら、戦後はそのことに頬かむりして「民主的」な本を訳した学者がいたことへの反発、軽蔑もあっただろう。『ヒトラーの時代』には、戦時中、ナチズムのプロパガンダの本を日本で訳しておきながら、戦後は「民主的文化人として知られたドイツ文学者たち」のことが批判をこめて記されている。
 池内紀さんは人柄は穏健飄逸だし、人と争ったり、論争したりすることを好まなかったが、芯は強く、きちんと一本、筋が通っていた。その点では、温厚な硬派だった。

『ヒトラーの時代』を思い切って書いた池内さんの執筆のモチーフには、近年の日本の非寛容な時代状況への危機感があったと思う。
 昭和十五年生まれ。少年時代、戦後民主主義の明るい空気を吸って育った世代として、ネット社会になって、匿名で人を攻撃したり、相手への敬意なしに自分の狭い知識をひけらかす若い知識人が増えたことには、正直、うんざりしていたことだろう。
 率直にいって、いま「品のない言論」が増大した。平気で他者を悪罵、罵倒する。書き手の「痛み」を理解せずに些末な間違いをあげつらう。説得ある批判とは、他者への敬意、その人がどういう秀れた仕事をしてきたかへの知識があってはじめて成り立つのに、それがない。
『ヒトラーの時代』で、池内さんがいいたかったことのひとつに、「ヒトラーの時代」とは、実は、「私たちの時代」ではないかという危機感があったと思う。
 ヒトラーの時代は、ドイツ人にとっては、少なくとも、体制に異を唱えなければいい時代だった。経済も、治安も安定した。ユダヤ人のことは知らないことにすればいい。
 確か、チェーホフの『すぐり』に、こんな言葉があった。
「幸福な人間が安心した気持でいられるのは、ただ不幸な人々が黙ってその重荷を担ってくれているからであり、この沈黙なしには、幸福はあり得ないからにすぎないのです」
 チェーホフはナチズムを予見していたといえようか。そして、戦後になってドイツ文学を学ぶことになった世代の池内紀さんも、ゲーテやカフカを訳しながら、この言葉を自分の心のなかに刻みつけていた筈だ。歴史学者は、人の心の悲しみにまで言葉を届けることは出来ない。それが出来るのは文学者だけだ。

 中公新書で、池内紀さんが『ヒトラーの時代』を出され、それをすぐに読んだ私は、「毎日新聞」の読書面に、「池内さんが、ついに書いた」という興奮を抑えられないままに書評を書いた。
 ところが、そのあと、ネットで、細かい間違いが多いと指摘されたため、中公新書編集部が、それに応じなければならなくなり、書評掲載のタイミングを失することになってしまった。無念だった。
 いま「波」編集部が、その書評原稿を載せてくれるという。有難い。「毎日新聞」の了解を得たうえで、ここまで書いたことと重複する部分もあるが、以下、拙文を掲載する。細かい間違いのある本かもしれないが、池内さんが書きたかった根幹を紹介しておきたい。
 池内さんの「晩年」の名著『記憶の海辺 一つの同時代史』(青土社、2017年)に、池内さんが八十九歳のレニ・リーフェンシュタールをインタビューした時の文章がある。
 二日にわたる池内さんの質問に疲れ、ワインに酔った老女を池内さんはおぶって寝室に運んだ。「その人はまるで二十世紀をせおっているように重いのだった」。池内さんもまた充分に二十世紀と格闘した。
 
   *

 池内紀さんがついに書いた。ヒトラーとその時代のことを。ドイツ文学者としてゲーテ、カフカ、あるいはケストナーなどを翻訳してきた氏には、すぐれた文学を生んだ国でどうして、想像を絶する残虐行為を繰り返した政治体制が生まれてしまったのか、は避けて通れない難問だった筈だ。
 実際、カフカの小説を全訳し、さらに評伝を書いている時、カフカが愛した妹たちや恋人が強制収容所で死んだことを、かたときも忘れなかった、という。
 ナチスは弱小政党として登場した。それがまたたくまに国民の支持を得て政権につき、ついにはヒトラーは独裁者となった。どうしてそんなことが可能だったのか。
 当初、ナチスの政策は国民の支持を得るものだったという。第一次世界大戦後、極度のインフレに悩んでいた経済を建て直した。厖大な失業者の数を減らしていった。混乱した社会に秩序を与えた。
 それまで金持ちしか持てなかった自動車を国民のものにするために、低価格のフォルクスワーゲン(国民車)を開発、生産させた。同時にヒトラーの発案により自動車専用道路、アウトバーンを建設していった。公共事業は雇用を生み出した。
 こうしてナチスは着実に国民の支持を得ていった。さらに池内さんは、ナチスの「いい政策」として、これまであまり語られてこなかった「歓かん喜き力りき行こう」を紹介する。
 ドイツ語で「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ」(喜びを通して力を)。当時、日本で「歓喜力行」と訳した。何かというと、労働者の休暇を充実させる政策。とりわけ、旅行に力を入れた。安い費用で労働者が山や海に旅行出来る。さらには客船で憧れの船旅が出来る。
 これが国民に受けた。「ヒトラーに対して警戒の目を向けていた人々までもが、雪崩をうつようにしてナチス讃美に変わっていく」。
 ナチズムも当初は国民に「明るい時代」を演出していった。タバコが癌のもとになるとして癌撲滅のキャンペーンを行った。ヒトラーはタバコを吸わなかった。現在のエコロジーにも早くから目を向けた。
 こうした面だけを見てゆくと、ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドの言葉、「もしこの独裁者が政権四年目ぐらいに死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物の一人として後世に残っただろう」も納得出来る。
 だが、無論、ヒトラーは死ななかった。1933年に政権を取るや、独裁者として君臨していく。ユダヤ人への苛酷な弾圧が始まる。
 1938年にユダヤ人の出版社によって「亡命ハンドブック」という亡命の手引書が出版された話も興味深い。追いつめられたユダヤ人の必死の自衛本だったが、編集に関わった女性はアウシュヴィッツに送られた。
 ヒトラー体制を支えたのはゲシュタポ、強制収容所、そして拷問だという。池内さんは数々の拷問に耐え、奇跡的にアウシュヴィッツから生還した思索者ジャン・アメリーの収容所体験記『罪と罰の彼岸』という感動的な本を翻訳していることも忘れてはならない。
 最後に「カール氏」という言葉が登場する。1960年代に人気を博した演劇の主人公。ナチスの時代の善良な小市民。しかし彼はユダヤ人の迫害、ナチスの無法に見て見ぬふりをする。自分の小さな幸福だけを守る。ナチズムを支えたのは、国民の大多数の「カール氏」ではなかったか。その指摘は、現代社会に通じる重さがある。

(かわもと・さぶろう)
波 2019年10月号より



使われなかった?正誤表
2021年04月22日 21時50分22秒

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書 2553) 新書 – 2019/7/19

出版社内容情報
ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期までを描く。

内容説明
泡沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧―。さまざまな角度から、ヒトラーを独裁者に押し上げた「時代」を描く。

目次
封印された写真―はしがきにかえて
1(消された過去;演説家ヒトラー―デビューのころ;カリスマの誕生;独裁制の成立;ペンと権力;分かれ道)
2(「歓喜力行」;国民車(フォルクスワーゲン)の誕生
国民ラジオの威力
ゲシュタポの誕生
ヒトラーとマイクロフォン
ジュタックリーン文字
制服国家
独裁制の完成)
3(ナチス式選挙;強制収容所第一号;民族共同体;「長いナイフの夜」;亡命ハンドブックス句;平穏の時代;顔の行方)
小市民について―むすびにかえて

著者等紹介
池内紀[イケウチオサム]
1940年(昭和15年)、兵庫県姫路市生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。


中公新書 2553
ヒトラーの時代
ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか
¥ 946 税込

商品コード
1411739
著者
池内 紀/著
出版社
中央公論新社
ISBN
9784121025531
発行日
2019/07/25
実店舗在庫

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沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧―。さまざまな角度から、ヒトラーを独裁者に押し上げた「時代」を描く。
(出版社情報)



ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂


ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂
AI による概要
詳細
ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂は、ナチス党の巧みな施策やプロパガンダ、そしてゲシュタポによる弾圧などによって引き起こされました。
【ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂の要因】
アウトバーン建設やフォルクスワーゲン(国民車)の生産などによる経済の好況
労働環境の改善や社会福祉の拡充などによる生活の向上
ゲッベルスによるプロパガンダ
ゲシュタポによる反対派の弾圧
【ヒトラー政権下ドイツの時代】
ヒトラー率いるナチス政権は、1933年1月に成立し、1945年4月30日のヒトラーの死まで存続しました。この時代は「ナチ時代(NS-Zeit)」と呼ばれ、第二次世界大戦の敗北とともに終わりました。
【ヒトラー政権下ドイツ国民の熱狂に関する書籍】
池内紀著『ヒトラーの時代―ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』




ヒトラーユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler Youth)は、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。

ヒトラーユーゲント女子版
ドイツ女子同盟(ドイツじょしどうめい、独: Bund Deutscher Mädel、略称 BDM)は、1930年から1945年まで存在した、ナチス・ドイツがドイツに住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。少年によって構成されたヒトラーユーゲントと対を成す。ドイツ少女同盟、ドイツ少女団、ドイツ女子団などとも訳される。

ドイツ女子同盟は、もともとナチズムを信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足したものである。

ドイツ女子同盟の変貌は、ヒトラー政権の成立から3年後の1936年である。同年、ヒトラーユーゲント法が成立して全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。入団の資格は、ドイツ民族の血統に属し、かつドイツの国籍を有する、10歳から18歳までの女子である。外国人は徴集の対象から外され、遺伝性の病気や障害を持つ少女についても、優生思想の見地から入団が見送られた。一方で、未婚の女性であれば18歳を過ぎても幹部として在留することができた。



のであり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者[2]。アドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler ドイツ語: [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声ファイル)[1](アードルフ・ヒトゥラ), 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家[2]。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者[2]。ヒトラーアドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler ドイツ語: [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] ( 音声ファイル)[1](アードルフ・ヒトゥラ), 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家[2]。ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者[2]。


【日独同盟】 日本語字幕
ヒトラーユーゲント入団式~松岡外相のベルリン訪問
1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。
ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。



日独三国同盟 松岡外相ベルリン ヒットラー訪問
ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕
ヒトラーユーゲント入団式~松岡外相のベルリン訪問
1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。
ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。



第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問
硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)



アルハンター駅
◆アンハルター駅跡(Anhalter Bahnhof)◆
 第二次世界大戦前、ベルリンにはいくつかのターミナル駅が存在していた。アンハルター駅もその一つで、19世紀中ごろにベルリンとドイツ中部のアンハルト地方(現在のザクセン・アンハルト州)を結ぶ駅として建設されたため、その名に因む。後にベルリン発着の国内外の長距離鉄道の玄関駅の一つとしてとして大いににぎわった。現在みられる建物跡は1880年に完成したもので、時のヴィルヘルム1世とビスマルクも落成式に同席した。また、ベルリン中心部に近く、内外の政府要人が降り立つ堂々たる威容を誇る駅は、「カイザー・バーンホフ(皇帝駅)」の異名を取るほどだった。
 ポツダム駅東側に近接。現在の「ドイツ技術博物館」はこの駅に付属する機関庫だった。第二次世界大戦の空襲で徹底的に破壊された。戦後の混乱期は応急的な修繕を行って使われていたが、連合国によるドイツ分割統治によりアルンハルター駅のある西ベルリン地区は、東ドイツの中にある西ドイツの飛び地状態となったことから鉄道網が寸断され、全盛期の長距離列車の運行は行われることはなく、駅舎も再建されることはなく1952年には完全に営業を停止。1959年には正面のファサードを残して爆破解体された。現在は正面のファサード部分をわずかに残すのみであり、近くにある同名の近郊電車Sバーン駅が地下に現存している。また、大戦中には大勢のユダヤ人たちがこの駅からチェコ経由で各地の強制収容所に送られたことを示す案内板が建てられている。

ベルリン・アンハルター駅は、ポツダム駅に次いでベルリンで2番目に古い駅であり、20世紀半ばまでベルリンで最も重要な長距離駅の1つでした。今日でも、地下鉄Nordsüd-S-Bahnの同じ名前の駅はまだ運営されています。

第二次世界大戦前、この駅はドイツ中部と南部、オーストリア、イタリアへの接続に最も重要な駅でした。堂々とした駅舎の屋根構造。
ベルリン・アンハルター駅の2005年の駅の柱廊玄関の断片

建物内部
2005年の駅の柱廊玄関の断片

日独三国同盟 松岡外相ベルリン ヒットラー訪問
ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問【日独同盟】 日本語字幕
ヒトラーユーゲント入団式~松岡外相のベルリン訪問
1941年4月9日付のドイツ週間ニュースから。
ヒトラーユーゲントの入団式の模様と三国同盟慶祝を名目としてベルリンを訪問した松岡洋右外相の映像です。


第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問
硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)



リッベントロップは、外務大臣でありながら、ヒトラーのバルバロッサ作戦(対ソ作戦)計画を、作戦指令が発せられた1940年12月には知らされず、41年春になって知らされたようである。モロジャコフ博士によれば、バルバロッサ作戦を打ち明けられたリッベントロップは、ヒトラーの意向を替えさせようと必死になった。彼は、先ず、ヒトラーに駐ソ大使シューレンブルクの意見を聴くことをすすめ、会見は1941年4月28日に実現した。シューレンブルクはヒトラーの対ソ戦決意を察知して驚いてモスクワに帰った。また、リッベントロップは、ヒトラーの注意をソ連からイラクへと転換させて、イラクで反英クーデターを支援するようにすすめ、また、対ソ戦のかわりに、スバス・チャンドラ・ボースとインドの反英勢力を支援しようとも試みたが、すべては無駄であった。モロジャコフ博士によれば、対ソ宣戦布告が行われた1941年6月22日の朝の、リッベントロップとベルリン駐在ソ連大使ウラディミール・デカノゾフとの最後の会話を通訳したヴァレンテフィン・ベレシュコフは、リッベントロップのこの時の様子について、心乱れ、取り乱し、ほとんど呂律が回らなくなるほど混乱していた、と後に語った。そして、ベレシュコフは、「どうか、モスクワで、私がこの侵略に反対していた、と告げて欲しい」と言ったリッベントロップの最後の言葉を記憶に留めていた。「私は彼の話を信じる(I believe his tale.)」とモロジャコフ博士は付け加えている。


livedoor Blogはどうなっている
livedoor Blogは低調
livedoor Blogはなぜダメか

三宅正樹明治大学名誉教授日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想 2010年執筆(2023/11/18防衛研究所)

日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想 三宅正樹明治大学名誉教授(2023/11/18防衛研究所)



ドイツとヒットラー

その熱 日本との大きな差
ヒトラーへのドイツ国民の熱気

ヒトラーとドイツの失業者 対策
ヒトラー時代のドイツ失業率の推移
ヒトラー時代のドイツ経済の推移



ヒトラー時代のドイツ経済の推移
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ナチス・ドイツの経済
ナチス・ドイツの経済(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年から1945年までのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代のドイツ経済について記述する。

概要
 ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達し、社会情勢も不安定となった。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきているが、ドイツの回復は賃金の増大や民間消費拡大をともなわなかった。しかもドイツ経済の足かせであった外貨不足や、輸入困難による資源不足は解決されず、軍備拡大のために膨大な国家債務も抱えることになった。1936年からは自給自足経済の成立を唱えた第二次四カ年計画を開始するが、資源難と労働力不足は改善されなかった。1938年には軍備生産を3倍にするという計画が立てられたが、実務において一貫性はなく、財政危機で破綻した[2]。こうして軍拡も不完全なまま第二次世界大戦の開始を迎えた。

 戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省が指導する体制になった。またポーランド人やユダヤ人の強制労働による占領地からの搾取も始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となると、ドイツの軍需生産は拡大されて総力戦体制の構築が進んだ。しかし戦局の悪化とともにドイツ経済は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えた。

 ヒトラーは1933年2月8日の閣議において、「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、いつでもどこでも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と言明するなど、ヒトラー内閣時代の経済政策はすべて軍備増強を念頭に置かれたものであった。

経済政策の基本には、民族共同体の構築、東方への侵略と植民による生存圏(レーベンスラウム)の拡大、そのための軍拡があった。

航空機産業

1932年は航空機産業の雇用者は3200人、航空機の年間製造数は100機未満だった。その後約10年で、雇用者数は25万人、年間製造数は1万機以上となった。航空機を製造したのはユンカース、アラド、ハインケル、ドルニエ、フォッケウルフ、メッサーシュミットの6社で、いずれも1933年以降に急成長した。ユンカースの他は航空省と次官のエアハルト・ミルヒが主導して国家資金で作られた企業。

貿易

ナチス・ドイツ時代を通じて輸入は1938年第四四半期の15.92億マルク、輸出は1937年第四四半期の16.288億マルクが最高であり、いずれも1930年の水準の半分以下であった。ただし世界貿易に占めるドイツ貿易の割合は1929年とほぼ変わりない水準を維持している。1936年には輸入石油への課税は4億2100万マルクで全税収の30%だった。

対外債務

公的・民間をあわせた対外債務は1933年2月28日の段階で187億2千万マルク。アメリカが40%を占め、次いでオランダとスイスの順。政府は1933年6月に対外債務返済の停止を決定した。対外債務はマルクで返済は続けるが、マルクは外貨に替えられなかった。

軍備経済

1933年の8月1日には軍備計画が立てられ、1939年10月1日の時点で平時軍83万人、戦時軍462万人(野戦軍102個師団をふくむ)の編成を目標としていた。1935年から1938年までの総生産増加分の約47%が軍事支出にあたり、これに再軍備優先の投資を加えると67%となる。1935年の国家の購入による財とサービスの70%は国防軍であり、1938年には80%に増えた。第二次世界大戦開始時の航空機生産はイギリスと同程度、戦車にいたってはイギリス以下であった。

戦時経済

1939年9月のポーランド侵攻から1940年5月のフランス侵攻にいたる一連の勝利によって、ドイツはヨーロッパを横断する経済圏を確保した。経済ブロックにするとGDP合計はアメリカやイギリスよりも大きく、影響下の人口は2.9億人、面積はアメリカより若干小さい規模となる。
イギリスのウィンストン・チャーチル政権は戦争の維持を決めており、アメリカも対ドイツ戦のために軍備を進め、1940年12月にはアメリカで武器貸与法が成立した。ドイツ圏と英米には依然として経済格差があり、特にドイツ圏では食糧、石炭、石油が不足していた。石油はルーマニアからの輸入に依存しており、占領地が拡大すると石油消費は増加して1941年から各地で逼迫した。
アメリカ参戦の前にソ連を制圧するためにバルバロッサ作戦を行った。ウクライナの穀倉地帯やコーカサスの油田などの資源を確保するという経済的な目的だったが、フランツ・ハルダーなどの将軍は作戦の成功について悲観的だった。ソ連は当時のアメリカとドイツに次ぐ経済規模であり、消耗戦になればドイツの不利になることが明らかだった。フランス戦と同様に、ソ連戦も短期間で終わらせることが目標になったが、1941年までにソ連を制圧するという目標は達成されなかった。

財政・金融

戦費調達は債券増発でまかなわれることになり、債務は1944年11月までの間に3091億マルク増加した。ライヒスバンクの対政府信用供与も倍増以上となり、1941年の時点で200億マルクを突破した。

税制では、法人税率が1941年に40%から50%、1942年からは55%に引き上げられた。これによって1941年から1943年にかけて合計30億マルク以上税収が増えた。さらに家賃税の10年分前払いによって80億マルクを徴収した。

貿易

開戦から数ヶ月で輸入量が80%減少し、大恐慌時代(1932年)の30%ほどまで下がった。銅と石油の輸入はほぼゼロとなった。同盟国(ルーマニア、イタリア、フィンランド、クロアチア等)や中立国(スウェーデン、トルコ等)に対しては貿易収支の均衡を維持した。

食糧・消費財

食糧調達は海外輸入が途絶したが、非制圧諸国からの移入により状況は悪化しなかった。他方、ポーランドをはじめ占領された地域は食糧不足となった。食糧配給では、ドイツ人が1人あたり2600キロカロリーで、ポーランド人は609キロカロリー、ユダヤ人は503キロカロリーだった。軍以外の食糧消費額は1942年までに20%減少したが、これは肉類が減少してジャガイモや豆が増加するといった質の悪化によるもので、カロリーベースではほとんど変化はなかった。

1940年を100とすると44年には食糧事情。穀倉地であったウクライナやポーランドを奪還されて以降は、食糧調達を国内生産に頼らざるを得なくなった。1944年以降は食料品の不足が明らかになった。

終戦(敗戦と無条件降伏)

1944年6月にはソ連軍のバグラチオン作戦の開始、米英軍によるノルマンディー上陸作戦による西部戦線の再構築とフランス失陥によって、ドイツは戦時経済の基盤としてきた占領地の多くを失った。そして8月にはドイツの主要な石油供給源であったルーマニアのプロイェシュティ油田を喪失し、燃料不足はさらに深刻になった[273]。1945年には戦局がさらに悪化し、ドイツ国民の平均摂取カロリーは2100キロカロリー、外国人は2000キロカロリー、強制労働者にいたっては生存も維持できない量であった。3月20日、ヒトラーは通称ネロ指令と呼ばれる命令を出し、退却地の生産施設をすべて破壊するよう命じた。この命令はシュペーアの判断によって実行されなかったが、すでにドイツ経済は末期状態となっており、5月に終戦を迎えた。



ゲーリングの時代
 1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった。9月9日、ヒトラーはニュルンベルク党大会において、覚書に基づいた自給経済体制(ドイツ語:Autarkie、アウタルキー)の確立を目指す第二次四カ年計画の開始を発表した。10月18日には四カ年計画施行令が発令され、ゲーリングが四カ年計画受託官として、計画遂行のための全権を付与された。1938年頃には過剰な通貨供給と軍需拡大によってさらに景気が過熱し、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻化した。ゲーリングが12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語った。軍需産業への労働力集中は農業人口の減少を招き、食糧自給が困難になった。1937年11月5日の秘密会議でヒトラー自身も完全な自給経済体制構築は不可能であると述べ、自給が可能であるのは石炭・鉄鉱石・軽金属・食用油にすぎず、食糧にいたっては「まったく無理」であるとした。ヒトラーは食糧自給のためにはヨーロッパ内での領土獲得が不可欠であると述べ、近い将来における戦争準備推進を要求した(ホスバッハ覚書)。1939年10月の時点でガソリン、ゴム、鉄鉱石、銅、ボーキサイトの備蓄量はわずか半年分に過ぎなかった。


当事者たちのドイツ経済の分析
 1938年6月2日、国防軍国防経済局とライヒスバンクの共催で会議(ライヒスバンク、国防軍の軍事経済スタッフ、権威ある経済学教授たちが出席)での議論の結果。

 取り上げられた問題点。


1、財政的なその場しのぎの手法(メフォ手形など)。
1、一元化されていないドイツ負債の危険性。
1、公的債務の限界。
1、さらなる消費制限の可能性。
1、ライヒスバンクによるお金と信用創造の管理。
1、将来的な企業部門からの信用要求の増加を満たす可能性。
1、政府発注が一時的に緩和した場合デフレ兆候の危険性。
1、公的部門以外のバブル経済の危険性。
1、誤ったうわべだけの資金流動性が広がることの危険性。
1、企業の自己資金繰りによる危険性。

ドイツ国防軍の主任エコノミスト、ゲオルク・トーマスの分析
(国民所得における軍備の負担)

 1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマス(英語版)が分析した国民所得における軍備の負担は次のとおり。(英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回る)
1、ドイツ23%
1、イギリス12%
1、フランス17%
1、アメリカ2%
 トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった

所得
 1936年の完全雇用時点では、全納税者の62%の1450万人は年収1500マルク以下で週給30マルク・時給約60ペニヒにあたる。ブルーカラー労働者の年収は1500から2400マルク、ホワイトカラー労働者は3000マルクだった。
アメリカやイギリスとの経済格差は大きく、同時代のアメリカのデトロイトと同水準の生活をベルリンやフランクフルトでするには5380マルクから6055マルクが必要だった。1930年代後半にラジオを購入できたのは半数の世帯であり、イギリスは68%、アメリカは80%だった。



ドイツとヒトラー
AI による概要
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アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者として、ドイツを独裁国家に導きました。ナチスは第二次世界大戦を勃発させ、全世界で6000万人にも及ぶ犠牲者を生み出しました。
【ヒトラーとドイツの関係】
ヒトラーはオーストリア出身でしたが、ドイツ国民を扇動してナチスを興隆させました。
1923年にドイツ政府の転覆を謀った罪で逮捕され、投獄されました。
1933年1月にドイツの首相に任命され、ドイツの民主主義に終止符を打った。
恐怖政治によって、個人の自由やプライバシーを奪いました。
1945年4月30日に自殺しました。
【ナチスによる支配】
ナチスは人種差別主義と全体主義に基づき、基本的な自由を廃止しました。
「民族(Volk)」共同体の形成を求め、ドイツのすべての社会階級と地域を統合することを目指しました。
文化、経済、教育、法律をナチスの管理下に置きました。
商業組合を廃止し、労働者や従業員、雇用主をナチスの組織に強制的に組み込みました。


AI による概要
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アドルフ・ヒトラーは、ドイツの政党「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」の指導者で、ドイツの民主主義を破壊し、一党独裁国家を樹立しました。
【ヒトラーとナチス政権】
1920年にミュンヘンでナチ党の最初の公開会議が開催され、ヒトラーは「25か条綱領」を発行しました。この綱領には人種差別を具体化した内容が盛り込まれていました。
1933年1月30日にヒトラーがドイツの首相に任命され、ナチス政権が樹立されました。
ナチスは、出版や言論、結社の自由を奪い、恐怖政治によって目的を達成しました。
ナチスは、ユダヤ人やロマ民族(ジプシー)、政治的反対者らを迫害しました。
ナチスは、労働組合を支配し、独立した労働者の代表を消滅させました。
【ナチスと第二次世界大戦】
ナチスは第二次世界大戦を勃発させ、全世界で6000万人にも及ぶ犠牲者を生み出しました。
1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ドイツは1945年5月7日に西側連合国に、5月9日にソ連軍に無条件降伏しました。


ヒトラー なぜ人気
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ヒトラーが人気を集めたのは、ドイツの復興や愛国心を高めるという期待、ヴェルサイユ条約の賠償金の負担軽減への期待、社会民主党政権への不信感、世界恐慌による経済破綻と失業の増加などが理由でした。
【理由】
ドイツ民族の復興や愛国心を高めるという期待
ヴェルサイユ条約の賠償金の負担軽減への期待
社会民主党政権への不信感
世界恐慌による経済破綻と失業の増加
ヒトラーが支持された背景には、次のような事情がありました。
ドイツはヴェルサイユ条約で多額の賠償金を課されており、ヒトラーならその負担や生活の困窮を何とかしてくれると期待された。
それまでの社会民主党政権に対する信用がなかった。
世界恐慌で経済が破綻しており、失業者が増加していた。


ヒトラーとドイツの失業者 対策
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ヒトラー率いるナチス政権は、失業対策として、経済政策や公共事業の建設、租税の軽減などを行いました。
【経済政策】
大企業や富裕層への増税
株式の配当を最大6%に制限し、残りの利益は国の購入に充当
資産家や大企業によるマネー・ゲームの取り締まり
メイドを雇った者の所得税の減税
家の改築を行った者の減税
労働者や低所得者層への大減税
【公共事業の建設】
ドイツとオーストリアを結ぶ高速自動車道路網「アウトバーン」の建設
住宅建設、農業向けの特別計画
【租税の軽減】
企業の税負担を軽減
企業の収益能力増大を促進
【失業減少のための法律】
ラインハルト計画(財務省次官ラインハルトにちなむ計画)


ヒトラー時代のドイツ失業率の推移
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ヒトラーが政権を握った1933年頃のドイツの失業率は30%を超えており、経済は麻痺状態でした。その後、失業率は減少していきました。
【失業率の推移】
ヒトラー内閣成立時に失業者は600万人いた
翌年春には失業者は300万人を割った
1936年春には失業者は200万人を切り、1937年春には100万人強にまで落ちた
1938年夏には失業者は20万人ほどとなった
【失業対策】
ヒトラーは、失業対策として、アウトバーン(ドイツとオーストリアを結ぶ高速自動車道路網)の建設事業を通じて雇用を生み出しました。また、1930年代後半からは軍事最優先の生産活動である四カ年計画を実施しました。
【経済恐慌】
ドイツは1929年に始まった世界経済恐慌に痛めつけられ、工業生産は30年前の水準にまで落ちました。経済的困窮はナチ党の急速な支持上昇に貢献しました。


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官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介


目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介





官僚制度と計量の世界(28) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 業-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介



計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書
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