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官僚制度と計量の世界(29)
Bureaucracy and Metrology-29-
1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会
Jingu Gaien Student Mobilization Farewell Ceremony
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(29) 1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(29) 1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会 執筆 夏森龍之介


1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。文部省主催の壮行会は全国七都市と満州などで開かれた。東京の出陣学徒壮行会は、首都圏の77校が参加、ラジオはこの模様を二時間余り実況中継した。1943年9月、東條内閣は、理工医学系、教員養成学校などをのぞく大学・高等専門学校在学生の徴兵猶予の停止を決定。入営延期特権停止によって招集された学徒は10万人と言われているが空襲で記録が焼けるなどしたため正確な人数はわかっていない。

(見出し)

官僚制度と計量の世界(25) 1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会

(本文)

1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会

1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場 学徒出陣壮行会

 日本の学徒出陣壮行会として1943年(昭和18年)10月21日に明治神宮外苑競技場で文部省主催のそれが有名である。東條英機首相が熱のあがらない演説をし学徒代表の決意表明があった。その日は雨。学生服に学生帽。腰ベルトをして銃を持って水たまりを行進する。観覧席には女子生徒と母親たちで埋まっている。軍楽の音がむなしく雨に消える。

 1943年9月に東条内閣が理科系と教員養成系以外の大学と高専在学生の徴兵猶予を停止、この年10月21日に明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。文部省主催の壮行会は全国七都市と満州などで開かれた。東京の出陣学徒壮行会は、首都圏の77校が参加、ラジオはこの模様を二時間余り実況中継した。

 戦時中の東京帝国大学は三年次を終えて卒業であった。二年半ばまでに所定の単位を取っていれば卒業となる学徒動員令である。後に大学教員になる福島新吾は法学部政治学科二年時にこの学徒動員令に対応して出征する。法学部生は政治学科と法律学科あわせて八百名であった。

 当時、東京帝国大学で法学部長は末弘厳太郎であった。昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。末弘厳太郎の法学部長在任期間は、1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)3月まで。末弘厳太郎は学生の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行っていた。1943年(昭和18年)10月21日の明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に際しては「行ってまいります、は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えずに征きます、と言え」といわれて気が引き締まったと福島新吾は手記に残している。

体調が悪いことやお祭り騒ぎを嫌って参加しなかった東大法学部生の福島新吾

 福島新吾は「私は体調が悪かったし、お祭り騒ぎを嫌って参加しなかった」と『学徒出陣落第記』で語っている。甲府市の陸軍第13師団歩兵第49連隊で初年兵となった福島は幹部候補生試験に合格して教育を受けることになっていたが以前から結核が悪化して除隊扱いになる。歩兵第49連隊は3000人規模の兵団で、当時は人口5万2700人余であった。第49連隊については次のような記録がある。1944年(昭和19年)11月フィリピン中部・ビサヤ諸島の東ビサヤ地方に位置するレイテ島で、大部分が壊滅。1945年(昭和20年)8月太平洋戦争終戦に伴い、ビサヤ諸島のセブ島にて武装解除。

 学徒動員に際して学生は仮卒業の資格を得ていた。除隊復学の道もあり福島新吾は同じ死ぬなら学生の身分のままでありたいと考えて復学できる処置をしていた。そのために戦後の大学教授たちの授業の変化を経験し、また戦後の民主主義における学問の息吹に触れることになる。

敗戦後の憲法改正草案を批判した末弘厳太郎教授

 以下は福島新吾の手記の一節である。

 東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に「ドイツ国民に告ぐ」と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、一語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に「押しつけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほかに公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。

 末弘さんは、昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。教授は戦時中私の在学当時の法学部長であった。

 その頃なんと東大の入学式には「父兄同伴」が求められていた。病床の父の代わりに出席した東大物理学科を卒業した兄は、末弘法学部長が訓示して「今は科学万能のようなことを言っているが、理科を出た人間に国家を運営することは出来ない。法科で学ぶ諸君が天下国家を担わなければならない」と激励したので憤慨していた。

 当時東大法学部教授で政治学を担当していた矢部貞治氏は 『矢部貞治日記銀杏の巻』(1974)で末弘氏の法学部長選出に反対して、これは「横田喜三郎一派(つまり親欧米、反 ナチス派というわけ)の策謀と見える」と書いているが、当時かなり厭戦的だと知られていた横田氏の派閥(田中耕太郎氏ら)が推薦したというのはあまり納得できない。矢部氏は南原教授も末弘氏に批判的と書いているが、末弘さんはむしろ当時憂国的だったから南原さんが危惧したのではないだろうか。その外、当時タカ派で思想弾圧のリーダーと見られた大審院検事池田克の夫人が末弘の妹という関係が知られていた場合には不安をもたらしたかも知れない。

 私達の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行い、学徒出陣の壮行会の時には「行ってまいります、は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えず に征きます、と言え」といわれて気が引き締まったことを覚えている。

 そんなわけで学生の眼にはかなり戦争協力的に見え、一部学生は批判的だったが、私は好感を覚え、矢部さんのように軍部に迎合した人とは立場が違うと感じられた。末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。

 しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は継続し、労働者委員の徳田球一(共産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日経連)などとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。

1943年9月に25歳までの入営延期の特権を停止した東條内閣

 学徒動員の狙いと効果についての福島新吾の考察『学徒出陣落第記』がある。次のようなものである。

 1943年9月、東條首相が発表したいわゆる学徒出陣は緊急施策であった。それまで大学、高専在学中は二十歳の兵役年齢を超えても、最高二十五歳まで入営延期の特権があった。この停止で理工医農の技術系を除いて、文科系すべて推定六万強の学徒を一挙に動員したわけだ。のの狙いは何より下級指揮官の級増だった。

 学徒兵が軍隊内で「お前たちは消耗品だ」と罵られたとおり、軍はつぎつぎ倒れる下級指揮官の補充が必要だった。

 「学徒出陣(式)」は一般の関心をかきたてて、国民の戦争協力の強化に役立てる演出に過ぎなかったのえはないか。

 さらに踏み込めば、絶望的な戦況の中で、講和の声をあげやすい社会科学、人文科学系の青年をあらかじめ軍隊内に拘束したのではなかったか。彼らはすべて軍隊内で小さな声で戦争への疑問をささやき続けたに止まったのである。

 大人になる前は子供であり青少年である。ヒトラーと国家への忠誠を誓うように青少年を義務的な組織にはめ込んで統制した。悪知恵を総動員した国家による策謀であり国民はヒトラーを英雄として崇(あが)めた。それは戦争が優位であり生活の向上を実感できる間だけのことであった。

[資料](本文と直接にかんけいするものではありません)

ドイツのナチス時代の経済を示す統計数字

 ヒトラー率いるナチス政権は、1933年1月に成立し、1945年4月30日のヒトラーの死まで存続。この時代は「ナチ時代(NS-Zeit)」と呼ばれ、第二次世界大戦の敗北とともに終わる。

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
年 失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5 - -
1931年 4,519,7 - -
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2 - -
1940年 43,1 - -

ヴァイマル共和政期の航空機生産数
企業\西暦 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 計
Albattros - 1 - 5 23 24 21 22 23 23 25 13 - 180
Arado - - - - - 10 19 8 16 5 4 9 11 82
Casper(英語版) - - 5 3 9 6 7 7 1 - - - - 38
Domier 2 3 6 8 20 38 23 22 30 21 17 19 9 218
Focke-Wulf - - 1 - 2 16 9 7 27 27 14 12 25 140
Fokker 6 15 12 4 - - - - - - - - - 37
Fokker-Grulich - - - - 6 36 - - - - - - -
Heinkel - - - 1 16 18 22 20 25 32 31 25 38 228
Junkers 74 16 9 79 90 78 69 58 62 73 92 88 27 815
Klemm 1 - - - 8 4 4 30 73 82 56 107 85 450
L.F.G 2 6 2 2 2 20 10 - - - - - - 44
Messerschmitt - - - - 3 4 1 7 12 30 57 27 24 165
Rohrbach 1 - - 1 4 9 5 6 5 12 - 1 - 44
Sablatnig(英語版) 9 9 4 - - - - - - - - - - 22
Udet(英語版) 3 9 15 31 33 41 54 29 4 - - 219
その他 - 7 5 18 66 112 107 66 81 45 32 9 12 560
計 95 57 47 130 264 406 330 294 409 379 332 310 231 3,284

貿易
ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
年 四半期 輸入 輸出 貿易収支
1929年 1 3,354.9 3,054.7 -300.2
2 3,465.1 3,476.6 11.5
3 3,338.8 3,487.3 148.5
4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 1 3,171.0 3,222.0 51.0
2 2,533.0 2,983.0 450.0
3 2,440.0 2,923.0 483.0
4 2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1 1,919.0 2,420.0 501.0
2 1,885.0 2,348.0 463.0
3 1,464.0 2,465.0 1001.0
4 1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1 1,251.7 1,605.4 353.7
2 1,142.7 1,382.4 239.7
3 1,057.0 1,302.6 244.7
4 1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1 1,077.0 1,190.0 113.0
2 1,011.0 1,188.0 177.0
3 1,044.0 1,230.0 186.0
4 1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1 1,147.4 1,094.3 -53.1
2 1,152.8 991.9 -160.9
3 1,056.7 1,005.4 -51.3
4 1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1 1,139.7 967.0 -162.7
2 1,008.7 995.0 -13.7
3 965.3 1,099.7 134.4
4 1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1 1,052.9 1,134.2 81.3
2 1,058.4 1,107.7 49.3
3 1,027.6 1,215.8 188.2
4 1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1 1,092.7 1,285.2 192.5
2 1,433.7 1,431.3 -2.4
3 1,443.4 1,565.8 122.4
4 1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1 1,399.0 1,360.0 -39.0
2 1,482.0 1,354.0 -128.0
3 1,476.0 1,375.0 -101.0
4 1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1 1,445.8 1,333.4 -112.4
2 1,285.5 1,459.9 174.4

統計
各国軍需生産の推移(1944年=100)
1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
ドイツ 20 35 35 51 80 100
日本 10 16 32 49 72 100
アメリカ 2 5 11 47 91 100
イギリス 10 34 59 83 100 100
ソ連 20 30 53 71 87 100
ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%) [注釈 49]
産業分野 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年
原料 21 21 22 25 25 24 21
兵器 7 9 16 16 22 31 40
建物 25 23 15 13 9 6 6
その他の投資財 16 18 18 18 19 16 11
消費財 31 29 29 28 25 23 22

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88
ナチス・ドイツの経済

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
年 失業者数 名目時間賃金率 名目週賃金収入
1929年 1,898,6 122.4 149.4
1930年 3,075,5 - -
1931年 4,519,7 - -
1932年 5,575,4 100 100
1933年 4,804,4 97.0 102.2
1934年 2,718,3 96.8 109.7
1935年 2,151,0 96.8 122.3
1936年 1,592,6 96.8 116.6
1937年 912,3 97.0 120.6
1938年 429.4 97.4 126.5
1939年 104,2 - -
1940年 43,1 - -

ナチスドイツにおけるラジオと自動車(フォルクスワーゲン)の生産

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA
国民ラジオ
国民ラジオ(こくみんラジオ、独: Volksempfänger)は、ナチス・ドイツにおいて一般国民に対するプロパガンダの手段として大量生産され、低価格で販売された一連のラジオ受信機の総称。
国民ラジオ計画の進展とともにドイツでのラジオ受信機の普及は急速に進み、1939年にはラジオ受信機を所有する世帯が全体の70%を占めるまでに至った。この普及率は、当時において世界一だった。1933年から1939年までの間に製造された国民ラジオの累計台数は700万台を超えている。
ゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であると考えており、低価格でラジオを流通させたのはその企図によるものだった。すべての国民ラジオは、ローカル局だけしか受信できないように意図的に設計されていた。つまり、ナチスのプロパガンダ放送は聴取できる一方で、たとえば英国放送協会(BBC)の国際放送BBCワールドサービスのような他のメディアは聴取できないように設計されていたのである。
プロパガンダの道具としての国民ラジオの効力に関しては多くのことが語られてきた。最も有名なのは、ナチス・ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがニュルンベルク裁判の最終陳述で語った次の言葉である。

「ヒトラーの独裁は、歴史上の全ての独裁と一つの根本的な点で異なる。あの独裁は、国を統治するためのあらゆる手段を完璧に使用した最初の独裁だ。ラジオと拡声器のような技術的な装置を通して8000万の人々が独立した考えを奪われた。それだけ多くの人々を一人の男の意志に服従させることは、こうした装置によって可能になった。」
ヒトラー演説が行われた放送の聴取は国民に義務付けられ、どこでどのようにラジオを聞いたかの報告が求められた
亡命ドイツ社会民主党の『ドイツ通信(ドイツ語版)』によれば多くの人々が繰り返される演説に飽き飽きしており、ほとんど放送を聞かなかった。このこともあって1934年以降はヒトラーの演説放送回数は半減している。戦局が不利になるとヒトラーの演説に対する意欲も減退、回数も減り、1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となっている。

国民ラジオはヒトラーの演説の「叫び」を送り届けたが、一方の連合国側でも(その影響を受けたものではないものの)ラジオを使ったトップ直々のメッセージ伝達がおこなわれていた。フランクリン・ルーズベルトの炉辺談話は、「叫び」ではなく「話しかけ」を国民に送り届けた。聞く者が音量を調節できるというメディアの性質を考えると、生演説では効果的な「叫び」が、ラジオでは必須ではないのである。

1、ヒトラーは政権獲得後の1933年2月1日にラジオ演説をしたが、演説を聞けたのはドイツの全世帯の4分の1だったといわれる。当時のドイツ人口6600万人に対してラジオは430万台だった。
1、1933年頃のドイツ製ラジオ受信機の価格はローエンドの製品でも150RM前後 。一方、当時のドイツ労働者の平均月収は120 - 150RMだった 。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8A%E6%A7%8B%E6%83%B3
国民車構想
ナチス・ドイツ
ナチス・ドイツでは、1934年にアドルフ・ヒトラーが安価で高性能な自動車を国民に供給する国民車計画を提唱し、数十万人分の予約を取り付けていた。しかし、ヒトラー自身が始めた第二次世界大戦のため量産計画はストップし、国民車の生産工場は軍用車生産のために転用され、結果的に数十万人分の積立金は戦争資金として流用されることとなり、予約購入者には一台も納車されることはなかった。それがフォルクスワーゲン・タイプ1として結実し、大衆車の成功例として注目を集めることになるのは戦後に連合軍の手で工場を復興されてからのことである。

小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p91
「ナチスは良いこともした」という言説は、国内外で定期的に議論の的になり続けている。アウトバーンを建設した、失業率を低下させた、福祉政策を行った――功績とされがちな事象をとりあげ、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証。歴史修正主義が影響力を持つなか、多角的な視点で歴史を考察することの大切さを訴える。

ナチスドイツにおけるアウトバーン建設構想

https://www.y-history.net/appendix/wh1504-089.html
ドイツで建設された自動車専用道路網。ヒトラーの業績とされているが、それ以前から計画されていた。アウトバーンは、しばしばナチス=ドイツの指導者ヒトラーの「唯一の功績」として、あるいはその先見性ある判断、失業者対策の公共事業などとして称賛されている。高校用教科書にも、例えば山川出版社詳説世界史では「ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など大規模な土木工事を起こして失業者を急速に減らし・・・」とある。東京書籍世界史Bは「ナチスはアウトバーン(自動車専用道路)の建設や軍需生産によって失業を克服し、36年からは「四カ年計画」により戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。」としている。そして、2008年度の東大入試にもヒトラーが進めた高速自動車道路の名称を問うている(下掲)。
ヒトラー以前のアウトバーン建設
 しかし、山川用語集、その他の事典類を見てみると、アウトバーンの項目に、「1932年のケルン・ボン線の建設が最初」と説明されている(2018年改訂版では「1933年から建設が開始された」とされている)。建設開始が1932年とすると、ヒトラーの権力掌握は1933年であるから、アウトバーンはヒトラー政権以前から建設が始まっていたことになる。ヒトラーが「建設を推進した」という表現はよいとしても、「ヒトラーが建設を開始した」のではなさそうだ。少なくともそのアイディアまでいかにもヒトラーの発案のような理解は間違えている。そのことに触れているのが、ゲルハルト=プラウゼの『異説歴史事典』である。同書は「アウトバーン」の項で、ハンス=ヨアヒム=ヴィンクラーの『ヒトラーをめぐる伝説』をもとに「そのアイディアですらヒトラーのものでなかった」として、次のように説明している。(同書ではアオトバーンと表記されている)
ベルリンには1921年に全長9.8キロのアーヴスという自動車専用道路があった。これは1912年に着工されたもので、世界最初のアオトバーンと目されている。
 アメリカのハイウェイはすでに1921年代初めにできていた。イタリアでは1923~24年にアウトストラダが建設されていた。1926年に「ハンザ諸都市=フランクフルト=バーゼル間自動車道路建設準備会(ハフラバ HAFRABA)が設立され、1927年には全アオトバーン網の構想を発表した(ハフラバは後にこの構想をヒトラーに売り込んだ)。1931年、国際連盟の国際労働局のきもいりでジュネーヴで第1回国際アオトバーン会議が開催された。目的はアオトバーン建設によって雇用を創出することであった。
1932年8月、全長20キロのケルン=ボン間アオトバーンが開通。これはライン州行政府と当時アデナウアー(戦後の西ドイツの首相)が市長だったケルン市によって建設されたもので、一部は失業者雇用のため生産的失業者救済資金から融資された。
アウトバーン建設の「ヒトラー神話」
 以上がヒトラー政権以前の事実である。1933年、ハフラバが全計画を持ち込むとヒトラーはすぐにとびつき、同年9月23日には早くもフランクフルト=アム=マイン近郊で全国アオトバーン網の鍬入れ式を行い、1938年末までに計画線6900キロのうち3000キロが出来上がった。こうしてアオトバーンは総統の「天才的なアイディア」とか「総統の道路」などという宣伝が行われ、後にはヒトラーは1924年のランツベルク刑務所に禁固中に頭の中に交差点のない自動車専用道路というアイディアがひらめいた、という神話が作られた。実際には、アオトバーン計画は失業対策も含めてヒトラー以前に存在していたわけである。しかも、このような道路は当時のドイツには贅沢だった。1932年の自動車保有者は住民100人に対して一人に過ぎなかった(同時期のアメリカでは5人に一人)。国民が望んでいたのはアオトバーン建設よりも安価な住宅であった。<ゲールハルト=プラウゼ/森川俊夫訳『異説歴史事典』1984 紀伊國屋書店 p.23-26>
出題 東京大学 2008年 第3問 問(10)
 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興と共に高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。

【追悼 池内紀】
川本三郎/『ヒトラーの時代』に込められたもの
ドイツ文学者で自由な文筆家だった池内紀さんが亡くなった(八月三十日。78歳)。
 生前、最後の著書となったのは、七月に中公新書で出版された『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』だった。
 文学者がヒトラーを、ナチズムを語る。勇気がいったことだろう。それでも、書かずにはいられなかった。ドイツ文学者としては当然のことだろう。
 自分が若い頃から親しんだドイツ文学の背後にはいつもナチズムがあった。なぜ愛するドイツがヒトラーを生んだのか。それはゲーテを訳し、チェコ生まれのユダヤ人作家カフカを訳し、ナチズムの時代にドイツにとどまってひそかな抵抗を続けたケストナーを訳し、また、ギュンター・グラスを訳した池内紀さんにとって、避けて通れなかった課題だった。自分自身、もう一度、ドイツ現代史を見直し、「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」を考えざるを得なかった。
 それはドイツ文学者の池内紀さんの誠実な仕事であり、物書きとしての良心の証だった。
 本が出てすぐに読んだ。歴史家の書くものと違って、随所に「なぜ」という文学者の心の痛みが感じられた。「晩年」になって、「なぜドイツにナチズムが」という疑問を放置することは、池内さんにはもう出来なかった。
 振返ってみれば、池内さんはつねに、この問題を考え続けてきた。
 早くには、アウシュヴィッツなどの収容所から奇跡的に生還した思索者、ジャン・アメリーの体験記『罪と罰の彼岸』を翻訳された(最初の版は、1984年に法政大学出版局から。2016年にみすず書房から復刊された)。ナチズムへの関心は、つねに大きく池内さんの心のなかにあったことが分かる。
 そもそも、大学での修士論文はウィーンの批評家、ユダヤ人のカール・クラウスだった。終生、マイナーなもの、小さなもの、「二列目」を愛した池内さんは、ドイツ文学のなかでも、日本では忘れられがちだったユダヤ人作家たちに着目した。カフカも、いうまでもなくユダヤ人であり、池内さんの大学時代には決して、いまのようなメジャーな存在ではなかった。
 ドイツ文学のなかでは、語られることの少ないユダヤ系の作家に着目すること。ここに池内さんの心優しい反骨があった。
 当時の偉いドイツ文学者のなかには、戦時中、ナチス宣伝の書を訳しながら、戦後はそのことに頬かむりして「民主的」な本を訳した学者がいたことへの反発、軽蔑もあっただろう。『ヒトラーの時代』には、戦時中、ナチズムのプロパガンダの本を日本で訳しておきながら、戦後は「民主的文化人として知られたドイツ文学者たち」のことが批判をこめて記されている。
 池内紀さんは人柄は穏健飄逸だし、人と争ったり、論争したりすることを好まなかったが、芯は強く、きちんと一本、筋が通っていた。その点では、温厚な硬派だった。

『ヒトラーの時代』を思い切って書いた池内さんの執筆のモチーフには、近年の日本の非寛容な時代状況への危機感があったと思う。
 昭和十五年生まれ。少年時代、戦後民主主義の明るい空気を吸って育った世代として、ネット社会になって、匿名で人を攻撃したり、相手への敬意なしに自分の狭い知識をひけらかす若い知識人が増えたことには、正直、うんざりしていたことだろう。
 率直にいって、いま「品のない言論」が増大した。平気で他者を悪罵、罵倒する。書き手の「痛み」を理解せずに些末な間違いをあげつらう。説得ある批判とは、他者への敬意、その人がどういう秀れた仕事をしてきたかへの知識があってはじめて成り立つのに、それがない。
『ヒトラーの時代』で、池内さんがいいたかったことのひとつに、「ヒトラーの時代」とは、実は、「私たちの時代」ではないかという危機感があったと思う。
 ヒトラーの時代は、ドイツ人にとっては、少なくとも、体制に異を唱えなければいい時代だった。経済も、治安も安定した。ユダヤ人のことは知らないことにすればいい。
 確か、チェーホフの『すぐり』に、こんな言葉があった。
「幸福な人間が安心した気持でいられるのは、ただ不幸な人々が黙ってその重荷を担ってくれているからであり、この沈黙なしには、幸福はあり得ないからにすぎないのです」
 チェーホフはナチズムを予見していたといえようか。そして、戦後になってドイツ文学を学ぶことになった世代の池内紀さんも、ゲーテやカフカを訳しながら、この言葉を自分の心のなかに刻みつけていた筈だ。歴史学者は、人の心の悲しみにまで言葉を届けることは出来ない。それが出来るのは文学者だけだ。

 中公新書で、池内紀さんが『ヒトラーの時代』を出され、それをすぐに読んだ私は、「毎日新聞」の読書面に、「池内さんが、ついに書いた」という興奮を抑えられないままに書評を書いた。
 ところが、そのあと、ネットで、細かい間違いが多いと指摘されたため、中公新書編集部が、それに応じなければならなくなり、書評掲載のタイミングを失することになってしまった。無念だった。
 いま「波」編集部が、その書評原稿を載せてくれるという。有難い。「毎日新聞」の了解を得たうえで、ここまで書いたことと重複する部分もあるが、以下、拙文を掲載する。細かい間違いのある本かもしれないが、池内さんが書きたかった根幹を紹介しておきたい。
 池内さんの「晩年」の名著『記憶の海辺 一つの同時代史』(青土社、2017年)に、池内さんが八十九歳のレニ・リーフェンシュタールをインタビューした時の文章がある。
 二日にわたる池内さんの質問に疲れ、ワインに酔った老女を池内さんはおぶって寝室に運んだ。「その人はまるで二十世紀をせおっているように重いのだった」。池内さんもまた充分に二十世紀と格闘した。


 池内紀さんがついに書いた。ヒトラーとその時代のことを。ドイツ文学者としてゲーテ、カフカ、あるいはケストナーなどを翻訳してきた氏には、すぐれた文学を生んだ国でどうして、想像を絶する残虐行為を繰り返した政治体制が生まれてしまったのか、は避けて通れない難問だった筈だ。
 実際、カフカの小説を全訳し、さらに評伝を書いている時、カフカが愛した妹たちや恋人が強制収容所で死んだことを、かたときも忘れなかった、という。
 ナチスは弱小政党として登場した。それがまたたくまに国民の支持を得て政権につき、ついにはヒトラーは独裁者となった。どうしてそんなことが可能だったのか。
 当初、ナチスの政策は国民の支持を得るものだったという。第一次世界大戦後、極度のインフレに悩んでいた経済を建て直した。厖大な失業者の数を減らしていった。混乱した社会に秩序を与えた。
 それまで金持ちしか持てなかった自動車を国民のものにするために、低価格のフォルクスワーゲン(国民車)を開発、生産させた。同時にヒトラーの発案により自動車専用道路、アウトバーンを建設していった。公共事業は雇用を生み出した。
 こうしてナチスは着実に国民の支持を得ていった。さらに池内さんは、ナチスの「いい政策」として、これまであまり語られてこなかった「歓かん喜き力りき行こう」を紹介する。
 ドイツ語で「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ」(喜びを通して力を)。当時、日本で「歓喜力行」と訳した。何かというと、労働者の休暇を充実させる政策。とりわけ、旅行に力を入れた。安い費用で労働者が山や海に旅行出来る。さらには客船で憧れの船旅が出来る。
 これが国民に受けた。「ヒトラーに対して警戒の目を向けていた人々までもが、雪崩をうつようにしてナチス讃美に変わっていく」。
 ナチズムも当初は国民に「明るい時代」を演出していった。タバコが癌のもとになるとして癌撲滅のキャンペーンを行った。ヒトラーはタバコを吸わなかった。現在のエコロジーにも早くから目を向けた。
 こうした面だけを見てゆくと、ヒトラーの評伝を書いたジョン・トーランドの言葉、「もしこの独裁者が政権四年目ぐらいに死んでいたら、ドイツ史上もっとも偉大な人物の一人として後世に残っただろう」も納得出来る。
 だが、無論、ヒトラーは死ななかった。1933年に政権を取るや、独裁者として君臨していく。ユダヤ人への苛酷な弾圧が始まる。
 1938年にユダヤ人の出版社によって「亡命ハンドブック」という亡命の手引書が出版された話も興味深い。追いつめられたユダヤ人の必死の自衛本だったが、編集に関わった女性はアウシュヴィッツに送られた。
 ヒトラー体制を支えたのはゲシュタポ、強制収容所、そして拷問だという。池内さんは数々の拷問に耐え、奇跡的にアウシュヴィッツから生還した思索者ジャン・アメリーの収容所体験記『罪と罰の彼岸』という感動的な本を翻訳していることも忘れてはならない。
 最後に「カール氏」という言葉が登場する。1960年代に人気を博した演劇の主人公。ナチスの時代の善良な小市民。しかし彼はユダヤ人の迫害、ナチスの無法に見て見ぬふりをする。自分の小さな幸福だけを守る。ナチズムを支えたのは、国民の大多数の「カール氏」ではなかったか。その指摘は、現代社会に通じる重さがある。

(かわもと・さぶろう)
波 2019年10月号より

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官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介



目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介



関連論説-その2-インフラ建設が経済成長に寄与した時代の経済学 夏森龍之介
├関連論説-その1-経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介


官僚制度と計量の世界(29) 1943年10月 入営延期特権停止と明治神宮外苑学徒出陣壮行会 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦(なぜ戦争をし敗れたのか) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その4- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた蓑輪善藏-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その3-
 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(15) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 大正15年生れ、花の第1期生、戦後第1回度量衡講習生であった男の人生-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 昭和24年生れ 計量教習所修了後に千葉県(計量検定所)に奉職した男の公務員人生-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 専門学校などを紹介する雑誌で計量教習所のことを知った 入所試験を受けると合格した-その1- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 計量公務員への就職事情 国の機関・計量標準総合センターと地方公務員としての計量行政職員 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 陸士、海兵卒業者には旧帝大入学が認められた 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 東京物理学校50年小史が伝える高野瀬宗則 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 中国における科挙制度の歴史 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 官僚 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 国家総合職と官僚機構 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 経済産業省の施策の一つに計量標準の供給と適正計量の実施の確保がある 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) OECDのプリンシパル・アドミニストレーターの古賀茂明 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 計量課に二度目の着任となった高山峰雄計量課長 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 通商産業省秋津修計量課長と芦原駅に降り立つ 執筆 夏森龍之介



官僚制度と計量の世界(29) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その5- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(28) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その4- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その3- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2- 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1- 執筆 夏森龍之介
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官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介




[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介



計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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