官僚制度と計量の世界(21)
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官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
(見出し)
官僚制度と計量の世界(21)戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
(本文)
戦争と経済と昭和天皇裕仁
第一高等学校(旧制) 旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設されたナンバースクールの先駆けであり、1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設された。校名が第一高等学校に改称された1894年(明治27年)以降、一高の修学期間は3年となり、帝国大学の予科と位置付けられた。一部は法学・政治学・文学、二部は工学・理学・農学・薬学、三部は医学であった。また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類という分類となる。一高の卒業生の多くは東京帝国大学へ進学し、戦後、GHQの指導による学制改革に伴って1950年に廃止されるまで、総計18,633人の卒業生を出した。
第一次世界大戦と敗戦国ドイツの賠償金
第一次世界大戦におけるドイツの賠償金の総額は1320億金マルク
ドイツの第一次世界大戦における連合国への賠償金の総額は1320億金マルク、現在の日本円で 200兆円。当時のドイツの国家予算の何十年分にも相当した。
ドイツには払える額ではない。賠償金は3部分に分けられ、うち第3の部分は「空中の楼閣」とするつもりのもので、主な目的は世論を誘導して「最終的には全額支払われる」と信じ込ませた。そのため500億金マルクが連合国が考えるドイツが実際に支払える金額であった。
領土の取り合いという帝国主義戦争となった第一次世界大戦である。国が余ったお金で軍備を整え他国を侵略したのではない。軍備は公債の形式による借金でよって賄われた。領土の奪取は借金の穴埋めに有効である。ドイツに対してイギリス、フランスなど連合国が戦闘を開始し塹壕戦となり戦闘員900万人と非戦闘員700万人が死亡、歴史上、死亡者数の最も多い戦争となった。
イギリス、フランス、ドイツのどの国も借金によって戦争をした
イギリス、フランス、ドイツのどの国も借金によって戦争をした。国民からの借金は自国決済が付くものであるが、イギリスは外債を発行してアメリカ合衆国(米国)から借金をした。
現代の庶民の借金は収入を担保にして銀行からの借り入れによる不動産購入である。同じ形式によって1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日にかけての第一次世界大戦におけるイギリス(グレー ト・ブ リテン)、フランス連合国とドイツは戦争をした。
ドイツが連合諸国に支払う資金の大元は米国からドイツへの貸付金であった
主戦場であるヨーロッパ戦線とは離れて、背後に位置していたのが米国である。米国が参戦したのは1917年4月6日。1917年2月にドイツが対商船に対する無制限潜水艦作戦を再開したことが口実にされた。参戦した米国の役割はイギリス、フランスなどへの金融支援ならびに武器支援。イギリスは米国にお金を借りて、そのお金で米国から武器を買ってドイツと戦争をしていた。米国は参戦と同時に「自由公債法」にもとづき169億ドルの公債を発行、一部を自国の戦費調達に充用し、ほかを連合国への貸付け( 9憶2,300万ドル)た。貸付対象の80%はイギリスとフランス。
第一次世界大戦の最中、ロシアではユリウス暦の1917年10月25日(現在のグレゴリオ暦の11月7日)、ボリシェヴィキ革命がおきて社会主義政権が確立した。
戦争は借金によって経費が賄われる。1919年になって米国がイギリスとフランスなど連合国の諸国に融資(貸付)の償還を求る。連合国の諸国ははドイツからの戦争賠償金を返済に充てる。ドイツが連合諸国に支払う資金の大元は米国からドイツへの貸付金であった。米国のお金がドイツ、イギリス、フランスなどの諸国の負債の帳簿に記載され、ぐるぐる回っているといのが実態で、1934年時点のイギリスは、第一次世界大戦の戦費調達に係る米国からの貸付金残高は44億ドル。全てを返し終わったのは2015年である。ドイツから米国への貸付金返済は1931年に反故にされた。
第一次世界大戦において日本軍は、イギリス軍とともにドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日から 11月7日)。太平洋におけるドイツ領を全て奪取。ドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。日本海軍の遣米支隊のアメリカ沿岸到着後には、イギリス海軍やカナダ海軍、オーストラリア海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇は、ドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開、出雲は第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。
日本軍は、19世紀後半から20世紀初頭に発生した戦争、日清戦争、日露戦争に勝利している。
日清戦争はm1894年に朝鮮をめぐる清との勢力争いをきっかけに開戦。1895年に下関条約によって日本は台湾を領有。清は敗戦により弱体化し、イギリスやフランス、ロシアなどが清に進出して経済的な利権を手にした。
日露戦争は、1904年にロシアが満州を事実上占領し、韓国への進出をうかがっていたことをきっかけに開戦。1905年のポーツマス条約によって朝鮮の外交権を奪い、韓国統監府を設置。また満州では、南満州鉄道株式会社をつくって満州の経済的な利権を拡大した。
第一次世界大戦とロシア革命
第一次世界大戦とロシア革命
ロシア革命は1917年にロシア帝国で起きた2度の革命を指し、1度目の革命は二月革命、2度目の革命は十月革命。ロシア帝国からソビエト連邦社会主義連邦に変わった。
第一次世界大戦で困窮したロシア民衆によるペテルブルクでの「パンよこせデモ」をきっかけとする二月革命、レーニン率いるボリシェヴィキ派による兵士や労働者とが連携した十月革命と社会主義政府の樹立。
レーニンのボリシェヴィキは、地主制の廃止や主要産業の国有化など社会主義政策を採った。マルクス主義に基づく労働者解放を目指す社会主義運動が勢い付いた。ロシア革命は、20世紀において最も巨大な意義をもった社会変革となり、その後の世界情勢を変えた。
日本は江戸期以来ずっとロシアとの勢力争いをつづけ、明治期以降は満州を巡って陣地の取り合いをしてきた。社会主義ロシアが成立してからは、資本主義日本において社会主義思想との抗争があり、これを抑えることを基本政策にしてきた。第二次世界大戦後の日本では社会主義思想への傾倒が起こり、かなりの割合でソビエト連邦を理想とする社会主義経済への希求があった。
「社会主義の弊害と資本主義の幻想」ローマ法王パウロ二世
後になってみれば「社会主義の弊害と資本主義の幻想」というローマ法王パウロ二世による1991年の「レールム・ノヴァルム(回勅)」が、すべてを公平に物語っている。これとてあとになって振り返ってみればということであり、1945年には混沌としている状況であった。中国を社会主義国と規定すると1950年ころには人口だけを抜き出してみれば世界人口の三分の一が社会主義国の下で暮らしていたのである。
ローマ法王パウロ二世の1991年回勅(かいちょく)は、資本主義と社会主義という2つの経済体制の双方に批判的な視点を向けている。ローマ法王パウロ二世は、スターリン時代のポーランドで育ち、ソ連や東欧社会主義の悲惨な状況を経験。ポーランドは19世紀後半の産業構造の変化による不況で労働事情が悪化していた。資本主義国では少数の資本家が富を独占し、行き過ぎた資本主義によって労働者が貧困に苦しむ状況にある。資本主義と社会主義(共産主義)とも、現実的には社会の生産力の発展とその時代における望ましい人の暮らしを実現させてはいない。資本主義と社会主義という2つの経済体制を超えて、すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保されるべきことを強く訴えたのである。また過去半世紀における経済発展は自然環境の破壊を地球的規模で拡大化したたことを憂えた。1991年回勅は、カトリック教会が伝統的農村から新興都市部の労働者に支持を広げることを考慮したと言ってよい。
戦後日本の社会体制の決定したもの
ロマノフ朝ニコライ2世の革命政府による処刑
ニコライ2世は1918年(大正7年)7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で殺された。皇帝ニコライ2世と妻のアレクサンドラ・フョードロヴナ、夫妻の5人の子供オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシア、アレクセイと幽閉先に同行することを選んだ人すべてが銃撃、銃剣突き、銃床での殴打によって。同行者にはエフゲニー・ボトキンやアンナ・デミドヴァ、アレクセイ・トルップ、イヴァン・ハリトーノフが含まれていた。ウラル地区ソビエトの命令により、ヤコフ・ユロフスキーが指揮するボリシェヴィキ軍によってなされたとされる。
300年に及ぶロマノフ朝は、1917年のロシア革命でその幕を閉じた。ニコライ2世は、1917年3月22日には、ロシア国君主ではなくなっており臨時政府により家族や侍従たちとともに軟禁状態に置かれ、幽閉生活を送っていた。1917年8月、臨時政府首相のアレクサンドル・ケレンスキーは、高まる革命の動乱から一家を保護するという名目で、ロマノフ家をトボリスクに避難させた。そこで一家は元知事の邸宅に住み快適な生活を送った。1917年10月にボリシェヴィキが権力を握ると、幽閉はしだいに厳格なものになり、ニコライを裁判にかけることが議論されるようになった。1918年3月1日、一家に与えられるのは兵士への配給品のみになり、家族はバターとコーヒーを諦め、献身的な10人の召し使いとも別れなければならなかった。ボリシェヴィキが力を増すにつれ、政府は4月にニコライとアレクサンドラ、娘のマリアをヴァシーリー・ヤコヴレフの指揮の下、エカテリンブルクに移送した。アレクセイは酷い血友病を患っており、両親と同行することはできず、姉妹のオルガやタチアナ、アナスタシアとともにトボリスクに残った。アレクセイらがトボリスクを離れたのは1918年5月になってからだった。
ロマノフ家への総処刑は反革命軍の利用を恐れてのものか、それまでの圧政と人民弾圧への報復か、それの総合か。決め手はないが革命の動乱がもたらしたものである。ボリス・エリツィン大統領は1998年に行われたロマノフ家の国葬で、この殺害はロシア史上最も恥ずべきページの一つであると述べた。
レーニンはロマノフ朝を300年の不名誉である「帝政の汚物」とし、ニコライ2世を「ロシア人民の最も憎むべき敵で血の死刑執行人、乱暴な憲兵」、「王冠を被った強盗」と言及したとされる。
フランス革命とブルボン王朝国王ルイ16世の処刑
国王ルイ16世は「祖国と革命に対する裏切り」の罪で、1793年1月21日に処刑れた。1789年に始まったフランス革命によってブルボン王朝は倒される。贅沢を尽くした結果とされる財政難のために、ルイ16世は貴族への重課税を課すなどしたためにパリ市民が蜂起してフランス革命が勃発。1791年6月21日にマリ・アントワネットと国外逃亡を企て失敗。1792年8月10日にパリのサンキュロットが決起してテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世とその家族をタンプル塔に幽閉。1793年1月14日の投票は、全員一致でルイ16世の有罪とし、16日夜の投票で死刑が。1793年1月21日午前10時22分、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首された。
立憲君主制を採るイギリス王室は社会主義革命が起これば国王ルイ16世あるいはロマノフ朝のニコライ2世と同じ道を想起しなければならない。日本では徳川の武家政権を打倒した新政府は日本国の王の天皇家を担いで立憲民主制を制度とした。英国王室とともに日本の天皇と皇室は社会主義革命がもたらす運命は切実である。
日清、日露の隣国との戦争に勝利し、第一次世界大戦では日英同盟を名目にドイツを敵国として戦勝国になった。幕末に英国、フランス、ロシア、米国の支配下に置かれかねなかった日本国であり、明治新政府は列強に伍するべく富国強兵策で対応する。三つの戦争での勝利は軍事大国日本こそ生きる道と思わせた。
戦争は全てにおいて自国には開戦の理屈を立て、これに国民が同意する。朝鮮併合、満州国建国、台湾併合はすべて領土拡大である。
満州国建国における満州族、漢民族、蒙古族、朝鮮族、日本民族による五族協和。1932年建国の満州国の実権は日本人にあった。
人種、民族、宗教などの差別なく一つの家に暮らす八紘一宇(はっこういちう)と日本を盟主としてアジア諸国を欧米の植民地支配から解放する共存共栄を謳った大東亜共栄圏。日本が実権を握り、日本のためのアジア諸国という日本の帝国主義支配思想とその実行。見事な文句であり普通の日本国民だけではなく知識人までもこの言葉のようになることを望み、その目的のために突き進んだ。そのための軍事であり軍隊であり、兵隊であり徴兵制であった。
朝鮮併合、満州国建国、台湾併合と大東亜共栄圏が崩れることは日本の敗戦である。
世襲のような高級将校
世襲の様相を呈していた高級将校
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。財政が成り立つはずは無い。が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の「少年のような希望」であった。この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。
上はテレビドラマ、司馬遼太郎「坂の上の雲」の冒頭ナレーションである。
陸軍士官学校および海軍兵学校は、師範学校および高等師範学校と同じように学費の要らない出世の登竜門であり、軍の学校は俸給さえ出たのである。読書階級である旧士族はこれまでの道の延長として軍の学校への進路を求め軍人になった。明治に始まった職業としての軍人としての高級将校は昭和20年(1945年)までは確実に続いた。傷病などを含めて軍人の子弟は士官学校あるいは軍の幼年学校への進路で優遇されていた。国民皆兵、皆が軍人になる世の中では、同じなるなら将校への道を進むことになる。そのような事情もあって高級将校の子は高級将校への道を選んだ。
高級将校としての軍人の生きる道はいつまでも軍があることなのだ。第一次世界大戦の敗戦国ドイツの事例のように負ければ賠償責任が課せられ、国は疲弊し軍人の地位と権威は崩壊する。また軍そのものが解体される。戦争における政治目的は軍人からは排除される。勝ち負けの度合いはない。勝ち三、負け七であっても良いことなのだがそれを自らは許さない。
日清戦争と日露戦争に勝利した日本軍
死に物狂いで戦った日清戦争と日露戦争に偶然にも勝利した日本軍の幹部は戦えば必ず勝つという思いを幼稚な知性のなかに刻んだ。それは江戸幕府を謀略まがいのことまでして打ち負かしたことに起源を発しているかもしれない。
米国との開戦一年後から外務省が諸国の領事館から報告される通信で掴んでいたのは米国に勝てる見込みはなく、1944年8月にはもはや敗戦必至ということである。中国での戦線、南方での戦線でも軍幹部自らが敗戦必至であることを知っていた。日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である大本営は、大日本帝国憲法下において天皇が有する統帥権のもとにあることを利用して、どこまでも戦争を引き延ばした。本土の都市部を焦土とされ、広島と長崎を原子爆弾で壊滅させられ、ソ連の満州進行によって降伏を余儀なくされた。
昭和天皇裕仁
秘録 昭和天皇裕仁「拝謁(はいえつ)記
NHKの取材陣が発掘しドラマ仕立てにしたのがNHKによる初回放送日2019年8月17日の「昭和天皇は何を語ったの-初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記-」は、初代宮内庁長官として昭和天皇のそばにあった田島道治の『拝謁記』である。
1949(昭和24)年から4年10か月の記録には、昭和天皇の言動が、田島との対話形式で克明に記されていた。敗戦の道義的責任を感じていた昭和天皇は、当初「情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」としていた。さらに1952年の独立記念式典の「おことば」で戦争への反省に言及しようとする。しかし吉田茂首相からの要望で、最終的に敗戦への言及は削除されていく。その詳細な経緯が初めて明らかになった。番組では、昭和天皇と田島長官の対話を忠実に再現。戦争への悔恨、そして、新時代の日本への思い。昭和天皇が、戦争の時代を踏まえて象徴としてどのような一歩を踏み出そうとしたのか見つめる。
「昭和天皇拝謁記」は、初代宮内庁長官の田島道治が就任した半年後の昭和24年2月から長官を退いた昭和28年12月までの4年10か月余りの間の拝謁の記録。手帳とノート合わせて18冊に記されている。「拝謁記」は日記とは別に、昭和天皇などと面会した際のやり取りなどを記録していたもので、長年遺族の元で極秘に保管されていた。
「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「詳しくて生々しい昭和天皇の肉声がいっぱい書かれているので非常に驚いた。発言の要旨ではなくほとんど昭和天皇がしゃべったままの言葉が書かれていると思う。昭和天皇の肉声をこれほど継続的に詳しく記録した資料は他に例がなく、今後昭和史を研究する上で超一級の基本資料になる」と述べる。
拝謁(はいえつ)記が伝える天皇裕仁の戦争への態度
昭和天皇裕仁は敗戦色濃厚な中にあって一撃反撃講和にこだわっていた。1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満洲(現在の中国東北部)の遼寧省瀋陽市近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、関東軍が南満洲鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である柳条湖事件。柳条湖事件は満洲事変の発端となった。つづく盧溝橋事件ほか中国戦線における日本軍の軍事行動は陸軍の大佐、中佐などが勝手にやったことだと捉えている。これらの事件のどこかの時点で戦線を納める時期はあったのにその判断を政府も軍もしなかったと考えていた。
穏やかでないニコライ2世と王ルイ16世の処刑
ロマノフ朝ニコライ2世の革命政府による処刑、 ブルボン王朝国王ルイ16世の処刑というロシアとフランスにおける革命が絶対君主を処刑の事例を自分と重ねて昭和天皇裕仁が考えたことであろう。ドイツにおけるヒトラー、イタリアのムッソリーニの末路は天皇裕仁と重なる。いたたまれない筈だ。
昭和天皇裕仁の民主主義は五箇条の御誓文
五箇条の御誓文は、明治天皇が1868年(慶応4年)3月14日に京都御所の紫宸殿で発表した、明治新政府の基本方針。天皇が神に誓う形で出され、日本の民主主義の基本と普遍的な理念が示したことになっている。
五箇条の御誓文の内容と現代語風表記。
第一条 広く会議を開き、万機公論に決すべし。(政治は人々の話し合いで決める)
第二条 上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。(身分の上下を問わず、心を一つにして国を治める)
第三条 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。(役人や武士、庶民など、身分の違いを超えて、それぞれの志を実現できる社会を目指す)
第四条 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。(悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいて行動する)
第五条 智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。(知識を世界に求めて、天皇の統治の基礎をふるい起こす)
「広く会議を開き、万機公論に決すべし」その対象として描かれたのは江戸時代における各藩の藩主とされる。
る国体の護持と戦後の昭和天皇裕仁
日本国は昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報を打った。8月12日に返ってきた回答の解釈を巡って騒動が起きた。外務省は「subject to」を「従属する」ではなく「制限の下に置かれる」、「form of government」を「政治形態」ではなく「政府の形態」と意訳した。政府であれば天皇は含まれない。陸軍など抗戦派の反発を恐れての、精一杯穏やかな表現だった。すでに陸軍も回答を入手し抗戦派は「隷属する」と訳していた。抗戦派は激高し参謀総長と軍令部総長がそろって参内し昭和天皇に受諾拒否を求めた。
この回答ではでは国体護持は危い、徹底抗戦しかないと両総長は憤慨したのである。これに対し昭和天皇は「至極冷静に」対応したと、当時参謀次長だった河辺虎四郎が戦後に回想している。「梅津総長が(皇居から)帰って来られたとき、上奏の際の模様をたずねたところ、天皇は至極冷静に総長の申し上げることをお聴きの後、公式の敵側の返信でもない放送、しかもその日本の訳語もよく練ったものかどうかも疑わしいのに、それをつかまえてやかましく議論立てすることなど、つつしむべきだと、両総長をむしろ戒められるおちを拝したとのことであった」という。
1945年8月14日の抗戦派参謀のクーデター
日本のいちばん長い日 軍部のクーデターと8月15日
抗戦派は1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となってクーデターを起こした。「8月15日事件」または「宮城事件」であり、半藤一利実録小説『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』が、1967年に岡本喜八を監督として配給、上映された。
陸軍幹部と近衛師団参謀によって起こしたクーデターは、近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害し、師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠、陸軍首脳部と東部軍管区の加担を求めて、これに失敗した。これにより玉音放送と日本の降伏表明は予定通り行われた。
参謀本部佐官の反乱者氏名
クーデター参加したのは次の軍人たち。
陸軍省参謀本部では、荒尾興功大佐(陸軍省軍務局軍事課長、陸士35期)関与、稲葉正夫中佐(陸軍省軍務局軍事課編制班長、陸士42期)関与、井田正孝中佐(陸軍省軍務局軍事課員、陸士45期)首謀・自決断念、竹下正彦中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班長、陸士42期)発端文書作成、椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課員、陸士45期)首謀・失敗後自決、畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課員、陸士46期)首謀・失敗後自決。
第12方面軍兼東部軍管区では、古賀秀正少佐(参謀、陸士52期)関与・自決。
東京防衛軍警備第3旅団では、佐々木武雄予備役大尉(横浜警備隊長)民間・関与。
その他では、上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長、陸士55期)自決。
日本国憲法の制定によって天皇条項は、第一章天皇〔天皇の地位と主権在民〕、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされた。
昭和天皇裕仁と国体
昭和天皇裕仁における国体のありさま
降伏の条件に国体の護持を求めたが無条件降伏となった。軍人たちが考えた国体とは天皇主権であった。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の既定の下、昭和天皇裕仁がなしたことは戦後巡幸であった。
1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に各地を巡る巡幸である。演題に天皇が立ち手を振るのに和して集まった大勢の国民が万歳をすることは戦後における天皇と国民の間を取り持つ関係としての国体として昭和天皇裕仁は理解していた節がある。
平成天皇明仁は美智子皇后とともに巡行し、国民とは対面して話を聞くことを主な内容とした。令和天皇徳仁は被災地を見舞うことが多く、雅子皇后とともに国民とは膝を交えて対応する。
終戦の詔勅 1995年8月15日の玉音放送
終戦の詔勅の玉音放送は、1945年(昭和20年)8月15日正午にラジオで放送された。皇居表御座所で録音盤に吹き込んだ昭和天皇自身の声による「終戦の詔書」が予定通りに。8月14日の閣議でポツダム宣言を受諾したことに伴なう無条件降伏である。前線の日本軍将兵や外地の在留邦人の耳にも届くように海外放送も行われた。
玉音放送は事前に伝達されていた。雑音で音声を聞き取れなかった地域は多い。天皇の言葉の意味が聞き分けられなかったという人がいる。戦況を知っている者には意味することが直ぐに飲み込めた。
東京大学を仮卒業して外務省に嘱託官として勤めていた男は次のように証言する。
八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞 く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。
その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦にいたる戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。
2025-01-21-no21-bureaucracy-and-measurement-by-war-economy-and-showa-emperor-hirohito-
├目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介
├
├
├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介
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[以下は覚書]
通産官僚と大分県知事
地方公務員齋藤勝男
地方公務員吉田としお
製鉄会社の計量技術者二人
夜学から大学へ 石川島播磨の男
工業技術院から変わった研究組織はトップを公募として民間の大企業経営者を据えるようになった。
ほか
[資料]国立研究開発法人産業技術総合研究所:役員および執行体制 (aist.go.jp)
https://www.aist.go.jp/aist_j/information/organization/director/director_main.html
├
├
├
├私の履歴書 蓑簔輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
├私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
├私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
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├
├
├指揮幕僚課程 CGS | 戦車兵のブログ (ameblo.jp)
├埼玉県計量協会会報2019年7月号
http://www.saikeikyou.or.jp/custom_contents/cms/linkfile/kyoukaihou-13.pdf
特別寄稿 放射線測定に関する資料を渉猟 日本計量新報 編集部 横田 俊英1)放射線被害を低く見積もらず、放射線測定器の特定計量器化で警鐘を
石島徹前事務局長退任の挨拶
平成25年から6年間、皆様方には大変お世話になりました。令和元年5月31日に退職いたしました。今後の埼玉県計量協会の発展と皆様のご多幸をご祈念いたします。
├(古賀茂明と前川喜平と国家公務員試験)日本の有名企業の採用内容を国家公務員一般職(旧Ⅱ種)試験が映し出す
├私の履歴書/高徳芳忠 (keiryou-keisoku.co.jp)
├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
├計量計測データバンク 私の履歴書
私の履歴書 吉田俊夫 北本舜輝 ※閲覧するにはIDとPWが必要です 徳美恵子
├計量法抵触事例を公表していなかった柳津町 | 水道メーター | 検定有効期限が8年 (seikeitohoku.com)
├エリート職業の鉄板!官僚の結婚相手になるためのポイントを3つ紹介!|結婚相談所パートナーエージェント【成婚率No.1】 (p-a.jp)
├品質工学の考え方 計量士 阿知波正之
├行政の継続性の確保と地方計量行政の在り方
├【計量士の資格認定コース】概略図(PDF形式:62KB)PDFファイル(経済産業省)
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├計量士の国家試験 (計量士 (METI/経済産業省))
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├計量士になる 計量士国家試験合格のための学習図書と講習会特集
├計量士資格認定の申請について
├数学と物理はできないという自己暗示から抜け出せば計量士国家試験は突破できる
├教習・講習・研修の概要説明及び費用:NMIJ (aist.go.jp)
├人の言葉の基(もとい)は教養である
├産総研:採用情報 (aist.go.jp)
2024/2/19 2025年卒修士卒研究職の募集を開始しました。【終了しました】
2024/2/20 2025年卒総合職の募集を開始しました。【終了しました】
採用情報|採用|産総研 (aist.go.jp)
├田中舘愛橘の志賀潔と中村清二への教え方
├品質工学や計量管理の技術を言葉で解き明かすことを課題とする(計量計測データバンク編集部)
├計量標準120周年:NMIJ (aist.go.jp)
├戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲 - Yahoo!マップ
├田中館愛橘博士と航空の歴史
├現代日本の自衛隊とその階級と出世事情
├長島安治 大正15年生れ 昭和18年陸軍予科士官学校入校 陸士とは別に航空士官学校が創設された、ここに入校。
https://www.noandt.com/static/summary/kakigara/documents/libertyjustice_201808.pdf
├解説 国家公務員の中途採用試験の現状(計量計測データバンク編集部)
├私の履歴書 安斎正一 目次
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)
├古賀茂明 - Wikipedia
├私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)
├前川喜平 - Wikipedia
├私の履歴書 蓑輪善藏 目次 大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
├古賀茂明、前川喜平の国家公務員としての経歴
├私の履歴書/吉田俊夫 (keiryou-keisoku.co.jp)
├横田英史の読書コーナー (eis-japan.com)
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電力改革については、発送電分離が有力な選択肢という立場をとる。古賀茂明のベストセラー。
日本中枢の崩壊 古賀茂明、講談社、p.386、¥1680 2011.9.15
現役官僚が民主党政権の国家公務員制度改革などを批判したことで話題を呼んだ、古賀茂明のベストセラー。雑誌論文や国会証言などで政権批判を行ったため経済産業省大臣官房付という閑職に追いやられた。その後も現役官僚の肩書きで政権批判を続けていたが、9月22日付で辞表を提出したようだ。本書は“現役官僚”が徹底的に政権を批判している点で見るべきところはあるものの、内容自体は他の民主党政権批判や官僚批判と大きく異なってる訳ではない。政官界の問題について頭を整理するときに役立つといったところが、本書の評価として妥当なところだろう。
筆者が力点を入れて論じるのが国家公務員制度改革。自民党政権時に渡辺喜美・行政改革担当大臣がどのように改正させたか、成立までの紆余曲折、成立後の官僚の抵抗などを詳述している。自民党への失望が大きかっただけに、民主党にいる政権交代に筆者は期待する。期待はすぐに失望に変わる。期待が高かっただけ、その反動は大きかったといえる。
さすがに現役官僚だけに、官僚機構についての記述は詳細だ。天下りの仕組み、官僚が駆使する騙しのテクニック、大企業との癒着など、自らの体験を踏まえ紹介する。
「経済学に人間の心を持ち込みたい」という経済学者・宇沢弘文が自らの人生哲学を開陳した書。現在の貧困を解決するキーワードとしての社会的共通資本を紹介するとともに、ミルトン・フリードマン流の市場原理主義を徹底的に批判している。リベラルな論客としての宇沢の考え方がよく分かる。本書は2003年に刊行された「経済学と人間の心」に、二つの未公表講演録と池上彰の解説を追加した新装版である。池上の解説がコンパクトでよく出来ている。
第1部「市場原理主義の末路」は経済倶楽部での2本の講演で構成する。2009年の「社会的資本と市場原理」と2010年の「平成大恐慌~パックス・アメリカーナの崩壊の始まりか」である。質疑応答も収録しており、新自由主義や市場原理主義に対する宇沢のスタンスだけではなく、人柄が伝わってくる。もし東日本大震災や原子力発電所の事故後に宇沢が講演していれば、どういった内容になったのか興味のあるところだ。第2部以降は、思想や歴史観、官僚観、教育観を宇沢自らが語るエッセイである。右傾化する日本への危惧、60年代のアメリカ、学の場の再生、地球環境問題への視座という構成をとる。
計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
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計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
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