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計量計測データバンク ニュースの窓-152-
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計量計測データバンク ニュースの窓-152-
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├計量計測データバンク ニュースの窓-152-福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時代ほか
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├官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
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これほど劇的な世界に生まれあわせ、何らかの忘れられない体験を持たなかった人はいないであろう。しかもそれが個人的、あるいは少数の人による経験であり、さらに時代の流れを示す意義を持っと考えられる時は、その記憶を後世に伝えたいと思うのは自然であろう。もっとも原爆や空襲罹災、その他戦争犯罪にからまるようなあまりも悲痛、残虐で口に出せない記憶を持った人は、とうてい語りえないかもしれない。多分歴史にはそうした記憶や経験は残らないで消えていくのだろう。
私の経験は平凡なものだが、時代が大きく変わった今では、理解されにくい。なんと違った世界に生きたものか、異常に生真面目な生き方をしてきたのかという疑問さえ感じさせる側面を持つと思う。少なくとも私個人やその家族の経験では、一度は戦前の天皇制国家を強く支持し、その国家の存亡の危機を感じて、あえて戦いに身を投じようと決心した。そして敗戦を悔しい思いで迎えた。
占領軍への不信は容易に消えなかった。しかしそうした思いは、当時では行動に表せば反占領軍的として非合法となるものだった。そこで人と多くを語りあうことなく事態を黙視していた。
自分ではその間にマルクス主義の学問、ソ連型社会主義に魅力を感じていった。そこに朝鮮戦争が起こり、日本も半ばその渦中に巻き込まれ、眼前に展開された現代兵器の下の苛烈な戦争は、激しい思想・宣伝戦で実情の把握が極めて困難であった。その後もさまざまな冷戦。そしてソ連・東欧がもろくも崩壊し、その支持に傾いていた私は、社会科学者として深く反省せざるを得なかった。
この間に私自身もさまざまな文献や資料を研究、思索した結果、ようやく民主主義の理想的な側面を、批判的に支持できるまでに変化した。その時には、すでに米日など西欧の支配層は時代に適応しないとして、それを逸脱する方向に変わりつつある。その代表が憲法改正論であろう。私の感覚からすれば、今尚、進みつつある方向が狂っているとしか思えない。
もちろん過去の天皇制、ソ連、中国の社会主義、そして今のグローバリゼーション。 いずれの理想も絶対に正しいものではない。少なくとも前二者の大きな誤りは明らかになったと思うが、それすらこの国の一部の人士はその立場によって、部分的にしか認めていないのかも知れない。
過去の何が間違っており、未来への政策の方向の何を正すべきなのか、それはすでに各人の選択するイデオロギーの問題である。新しい時代は脱イデオロギー、それを超越した時代ではなく、形の変わったイデオロギーを強力なマス・メディアを通じておしつけている事を忘れるべきではない。
私が特に今でも拘りを持つのは敗戦後の国民全体の転向の内実である。戦後の通説は、軍部の圧政に苦しんでいた国民が、敗戦によって苦難から解放され、歓喜をもって占領
軍を迎えたということになっているだろう。反動的に言うわけではないが、果たしてそれほど単純なものだっただろうか。
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歴史研究者の立場からいうならば、史料はいつも完全に利用されているとは限らない。そしてさまざまの史料の価値も時代とともに変化する。歴史記述の主な努力は、膨大な資料をいかに捨てるかに集約される。だがそこで何を捨てるかにイデオロギーが係わってくる。だから歴史記述はどんな場合にも時代的制約を受ける。捨てられた多くの無名の記録からも無数の歴史が記述されうる。
ある歴史家が「歴史記述とは、嵐の後の海岸に打ち上げられた難破船の破片からそこに何が起こったのかを推理するようなものだ」と述べていた。その場合も乗員の運命を慮るか、積み荷の中身を探るか、船の構造を推定するか、その難破の原因は事故か、作為か、自然災害かなどを推理する等様々な視点がある。
ささやかな個人史にも一片の資料の価値が存する場合もあるわけだ。私がここに記す事柄も戦後史の反古拾いであり、かなり私的な性格がつよいのだが、その史料的価値
はともかく、現在でも若い人にそんな事もあったのかと、多少の興味がもたれるかと期待する。ここでは特に上述のように戦後の政治意識に重点をおいて記述したつもりである。
私は戦後しばらく生活した後は、日本における社会主義の形成展開に希望をいだき、保守政権に批判的な態度を維持してきた。だがそれ以前の私は戦争終結当時には、おどろくべき愛国主義、抗戦主義に立っていた。それがどうして立場を変えてていったのか。
この記録を記しても、自分でも必ずしも明確に説明できないが、そこに通説とは大きなズレを感じている。
今日アメリカー国外交主義が、自国の主張する民主主義に批判的な国家に干渉し、武力に訴えて政権交代を求める事態が展開されている。そこでその攻撃の対象となる国家では、かっての日本と同様な忠誠の転換の問題が起きていると考える。それらの国家体制への批判は別として、その国民一人一人にとっては、それが外から如何に愚かな態度に見えようとも真剣な問題であろう。それにつけてもかっての日本のケースは果たして真の民主化であったのか、それとも大多数の国民の場合はカメレオンのように素早く色を変えただけに過ぎなかったのか。
今あらためて省みる価値があるのではないだろうか。近来靖国問題が保守政治家の大きな問題になっているのも、この人達が敗戦当時、あるいはその後の日本社会で真の民主化の洗礼や教育を理解しなかった事を証しているのではないだろうか。日本社会に今第二の敗戦などの声があるが、これは五十数年前の敗戦を正しく受容しなかった後遺症ではなかろうか。
叙述は時代を追っているが、問題によっては戦前にさかのぼる。また内容が家族史となる部分、あるいは私の学生時代の論文を引用する箇所も多い。公刊に値しないかと恐れるが、何れも時代意識の例示と考えての記述として許容していただきたい。
資料は、主に自分のノート、日記、書簡で、若干は当時の書物によるが、高齢のため手離してしまった文献が多く、史料考証は最小限しか出来なかった。大部分記憶にたよっていることをお断りする。当初自分の心覚えの為に執筆していたものを、社会的にも多少は意味があろうかと思いなおして公表するので、自己弁明はしていないつもりである。ただ当時と今と自分の思想は大きく変わっているので当
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時の極端な意識については今日の目からの批判的コメントも加えさせてもらう。特定の個人や運動を批判する狙いは全く無いが、プライバシーのため一部の人名は伏せておく。
第一 章 敗戦1945
§1 ポツダム宣言受諾へ
1945年5月の空襲で東京霞が関の外務省庁舎は罹災した。焼け跡を囲む古典的な飾りのついた鉄柵ばかりが残って哀れであった。その前に外務省調査局は、今の東急東横線学芸大学駅に近い、当時の東京第一
師範(学徒勤労動員で休校状態だったと思う。現在の東京学芸大付属高校)に分室として移転していた。本省はどこに移ったのか知らない。
8月の11日か12日、その一室で、隣の課の課長がいつもより多い四、五人の課員を集めて「まだ秘密だが、ポツダム宣言の受諾がきまって連合国と接触中だ」と伝え、破顔一笑「助かった。これで私の家は焼けないですんだ」とつぶやいた。私はかねて課内で読んでいた外国公館からの秘密電報の内容などから、近くこんな結末になろうとはおよそ承知していたから、事柄には驚きはしなかった。しかし国家の重大事に対するこの課長のあまりにも私的な受け止め方に心から腹を立てた。
別に神州不滅の狂信に心から同調していたわけではない。ナチスやファシストのような特定の党派に属していたわけでもない。だがこの発言を聞いた私の反応は「裏切り」という感じだった。
イタリア降伏時にファシストがバドリオ政権に反発した。又第一次大戦後のドイツで、軍部支持派は降伏した政府当局者たちを"DolchstoB(ヒ首〔あいくち〕の一突きを背後から戦線の軍隊に刺した)"と非難した。私の感じはそれに似たものだった。
昭和大恐慌以後の農村崩壊から脱出するには、日本が中国資源を排他的に確保することが不可欠だというドグマを長い間の宣伝によって信じ込まされていたのであろう。頼みの幻の巨大戦艦大和」「武蔵」も、空母も飛行機も失い、もう肉弾以外にはほとんど戦力が無いことも省内の秘密資料で承知していた。しかもなお日米開戦前のハル・ノートの条件から若干の緩和をかちとるまでは戦争をやめられないと妄信していた。大本営発表の決死の切り込み攻撃や最後に予想された焦土決戦に何らかの効果があると誤信していたのである。
陸軍の抗戦派青年将校と接触していたわけではないが、同じ発想であった。敗戦後の農地改革、財閥解体、労働権の保障等々によって、奇跡の高度成長をとげた今では正にバカげたと考えられる展望しか持てなかったのである。
まだ兵役から病気で復員して、大学在籍のままの一嘱託に過ぎない身であった。しか し何でも腕力に訴える兵隊社会ならここで課長にビンタをくわせるところだとまで憎悪
を感じた。戦争終了で幸いに自分の家も焼け残るのだし、軍籍にある兄達の安否は不明だが父母と自分の生
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命の安全は保証されるのに、その喜びを感じなかった。同年配に続々と戦死者、特攻隊出撃者があり、東京周辺では多くの空襲焼死者が出て、敗戦のさなかに無為に生き延びている自分を責めていたためだろうか。この発想は今日の靖国参拝を重視する政治家の思考と類似している。
死者の追悼の仕方、死の意味のとらえ方、死後の霊魂の存在の信仰などの感覚に問題があるだろう。また生活実感の無い独身者だったためでもあるか?戦時の殺伐たる生活の中で、「死」にさえ無関心になっていた。生命の価値をまるで知らなかったようだ。結局自分もその時にいあわせた同僚
もただ沈黙して受け止めていたが、どんな印象を持ったのか、別れるまで聞く機会を持たなかった。
戦後解放史観が通説となり、降伏によって死を免れた喜びを感じたとするのが定説になっている。勿論戦前からの社会認識により、体制転換を実感した世代、知識層があったことは間違いない。また破滅に打ちのめされて、絶望におちいっていた国民の大多数が、安堵を覚えたことも事実である。しかしそれにもかかわらず、停戦に矛盾する気持ちを抱いた国民が、当時それ程少なかったのだろうか。今日に至るまで、疑問とする。友人の数
人に聞いたところ、特攻出撃の命を受けていた人は、救われた意識が頬のゆるみとなってあらわれたという。
直接攻撃の立場になかった基地勤務者などは、同輩の戦死を頭に浮かべて、割り切れない思いを抱き、敵ないし降伏を命じる上官、さ らには兄弟の間で、降伏に順応した者に怒りを覚え、「こんちくしょう」と睨みつけたとか、下士官が剣をふりあげて、将校に迫ったとかいう。戦争下の狂った心境にあっては、停戦即解放の反応は素直には出なかったのではないか。当時はそれがくすぶったまま、やがて和平の建前に統一されていったことも多かったのだと思う。そ
こでも日本人の大勢順応主義が働いたであろう。それが結果 的には正しかったのであるが、真の体制転換には遠かったであろう。
私は『学徒出陣落第記』(1993、オリジン出版センター刊)に書いたが1943年冬の学徒出陣に参加し、病気に倒れて一年で陸軍から復員した。そしてこの年の4月20日(当時未だ霞が関の外務省があった)から縁故をたよって外務省に就職を運動し、5月22日採用、24日からここに勤務した(辞令は6月4日、外務省嘱託、調査局第一課兼第三課勤務、月手当六十円支給)。
ちょうどその夜世田谷区代田の自宅が西部地区二回目の空襲を受けた。依病招集解除で兵役は一年間不適と認定されていた。銃後といわれた市内には、すでに若者の姿は影をひそめ、歩いているのも気が引ける状況であった。結核療養といっても戦時下に医療の便も、投薬の道もなく、気儘に読書にふけり、病気や理科系で兵役に服さない友人と機会をっくっては会って話し合い、軍籍の友が休暇を得一時帰宅すれば慰労にかけつけるなどで気を紛らし、はたから見れば戦時ともいえぬ気楽な生活を送っていた。しかも内心では戦況がますます切迫していたたまれぬ思いであり、他方区役所の労務係から労務徴用を課せられるおそれ知っていた。軍隊
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でその内部規律に強い不信を抱いたから、労務官僚の思索には一層信用がおけなかった。そんな労務徴用で結核を再発しては大変だ、能力を少しでも発揮できるデスクワークにっいておきたいと考えたのである。母方の祖父と伯父が共に外交官だったからかねてその道を目指していた。しかし大学授業短縮で昭和18年春の最後の高等文官試験(外交科)を受
けられず兵役に服したので、高等官になれない。それは承知でせめて外務省で働きたいと思った。
成田人事課長に大学を卒業すれば高等官へ推薦の道もあるといわれ、試験もなしに大学生のまま嘱託に採用され、世田谷区下馬の分室勤務を命じられた。兄の1942年秋の初任給も5~60円だった。しかし戦時インフレで、会計課が斡旋したヤミ鯨肉2キロを買ったら最初の月給は無くなったと記憶する。
空襲被害でもはや電車に頼れず、自宅から約45分の徒歩で通勤した。母は軍隊で死ぬかと思った息子が、時ならず社会人として門出するのを喜んでくれた。私は小学校3年以来ずっとザンギリだった髪を、死ぬ前に一度位はとオールバックに伸ばしていた。国民服も手に入らなかったので、米国生活が長かった母は私に、父の若い頃の派手な背広にチョッキ、ネクタイもしめさせた。さすがにゲートルは巻き母の手製の防空頭巾も肩にかけたにせよ、戦時下では異様な服装だった。自分では何も気にしていなかったが、約三ヶ月の間一度も街頭で文句をいわれなかったのは、不思議なほどだ。空襲に打ちのめされた東京ではもう憲兵や警察、ヒステリックな好戦派の在郷軍人などが国民に干渉する状況は無くなっていたのだろう。
むしろ初出勤して隣室にたむろす大勢の外国育ちの外交官の娘さんたちに、初対面でい きなり「暑いのに何故ヴェストまで着るの」と問いかけられて辟易した。母の着付けが正式と信じていたのでむっとした。しかし「男女七歳にして席を同じうせず」の時代に男ばかりの兄弟で育った若者は、「チョッキ」を「ヴェスト」という外国モードに通じた娘たちに初めてお目にかかってひどいコンプレックスを覚えた。ここには自分と同じに徴用逃れの外交官の子弟がたくさん勤めていた。ここで男女対等の娘たちに接触したおかげで戦後女性蔑視の感覚を捨てることが出来た。
ところで戦争末期の外務省調査局には実は何の仕事もない。人事課の乙津領事は上海で幼い私を覚えていると言われたが、課長の吉田氏は欠勤。かわりの上司にあたる課付きの市川泰治郎元シドニー領事から二三の調査を命じられた。佐藤尚武駐ソ大使公電に報じられた1945年度ソ連国家予算の分析(私の結論はソ連は対独戦は終わるのに国防費を減額
していない。対日戦に要注意ということ)。又当時まだクーリエ(傳書使、courrier)が駐 ソその他中立国大使館から運搬していた"DailyWorker"のレジュメが求められた。
今思うに外務省としてそんな将来的ビジョンなどなかっただろうから、彼の個人的に興味のあるものを小手調べにやらせて見たのだろう。レジュメの意味が分からず、問い返したら、作ったことがないのかとやや軽蔑気味に説明されて屈辱を覚えた。マスプロ教育
の東大と昭和初期の東京商大の違いだった。古
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くから基礎的研究が重んじられた商大ではそんなゼミ教育が行われていたのだろう。東大ではそうした経験を持てなかった。それによって女性たちに、新聞を何時まで読んでいるのと馬鹿にされながら、世界労働組合会議創立総会の概要を作った。さらに世界労連の決議に戦争犯罪人の処罰要求があったので、第一次大戦の戦争犯罪人処罰の実態をアメリカの政治学雑誌で調べた。そしてカイザーはオランダに亡命したので、処罰できず、戦時国際法違反者の処分に終わったと報告した。今一つ自分で考えついて当時『中外商業新報』といったか、『日本産業経済新聞』だったかに掲載されていた米国の株式価格変動を太平洋の戦局(フィリピン、沖縄、硫黄島など)と対比してグラフに取ってみた。株価の上下には全く勝敗の影響が見られず、もはや戦争の大勢は決しているとの判断がついた。
市川氏はそれを見せても口を閉ざしたままで何も感想はもらさなかった。そんなことは多分識者にはすでに当然だったし、憲兵の耳を警戒する面もあったのだろう。当時日本の自然科学者たちが、日本の数字の単位は四桁刻みだから、西洋式に三桁でコ
ンマを入れず、四桁にすべ と提案していたのに同調して、数字を四桁に刻んだら、帰国子女のタイピス トが不思議がった。
ほかには、週一回くらいの防空用の宿直勤務が主な負担だったと記憶する。幸い勤務開始のころまでで東京の大空襲は終わっていたから、宿直の夜に空襲警報は出なかったが、警戒警報下で暗いビルを孤立した二、三人で警備しているのは不安であった。当時問題
の課長など欠勤続きで、市川氏なども空襲にかまけてさっぱり出勤しない。前の机の乾末松嘱託も私の幼年時代に上海で父と面識が有った人だったが、対面しないうちに空襲で焼死し連絡は途絶えたままであった。その机上に残
置されたStatesman'sYearBookなどの参考資料を私がそっくり引き継いで利用した。
そんな状態で勤務中に会話する相手は殆どなかったが、それでも出勤している人は分室全体ではかなりの人数で帰途何人かの同僚と歩きながら短時間でも話すことは楽しみであった。なかに戦前に米国国会図書館日本課長を勤めていて戦時下に交換船で帰国した坂西志保女史(1896~1976、戦後国家公安委員)がいた。
四月からローズベルトに代わって大統領に昇格したトルーマンは"ローズベルトがratherleftだったのと違ってratherrightinthecenter"だと説明してくれて、そういう分類をするものかとそのrの発音と共に感心した記憶がある。
隣の調査局第二課には罹災者に支給された兵隊服を着て肩から雑嚢をかけたやや背の高いロイド眼鏡の人物がいた。これが後に社会科学研究所の教授として再会し、思想的な指導をも受けたソ連法専攻の山之内一郎氏だった。また伯父の隣家にいた伊藤嬢は三軒茶屋から玉川電車に乗るまで帰途が同じでよく会話を楽しんだ。戦争への危機感も一致した。戦後思い出して訪ねたらすでに結婚して不在であった。岡本達郎君という青年は戦後占領軍に勤めていて、再会したことがあった。
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私の勤務なるものは、通常はほとんど無人の部屋で、暇にあかして棚から勝手に機密電報を引っ張り出し、片っ端から拾い読みをすることにつきた。そこには大本営発表とは正反対に、珊瑚海、フィリピン沖海戦の大敗、「陸奥」「武蔵」「信濃」「大和」など大艦の無為の撃沈や事故、スイス、スウェーデンなど駐在の日本の外交官たちの報告(アイルランドのダブリン駐在の別府節弥領事のものが特にすぐれていた)。中立国を介しての米英政府への必死の和平のための接触(外国電報ではpeace-feelersといわれていた)、佐藤尚武駐ソ大使以下の、(和平斡旋依頼のための)近衛特使のソ連派遣受入れ交渉の顛末などが記され、眼から鱗の落ちる思いを日々くりかえしていた。
あきれた事にある日、出仕早々の嘱託の私に、誰も出勤していないから課長会議へ出ろと呼び出しがかかった。多分ほとんど代理ばかりの十人たらずの会議であったが、その議題は東京も危なくなって、もはやこれ以上分室を残置するのは無理だろう。再疎開を考えるなら何処が良いかという話。そして議長の渋沢調査局長は何と未だ食糧のありそうな伊豆半島はどうかという。当時岩手県の宮古や房総ではすでに激しい艦砲射撃を受け敵の本土上陸は近いと予想されていた。九十九里浜か、相模湾が上陸地点と見られたのに、いくら何でもそこに近い危険な所をめざすとはとその非常識に唖然とした。しかしその後報告すべき上司とあわぬうちに私が赤痢にかかって約三週間欠勤してその会議は聞きはなしに終わった。
これより先二月に、東大法学部研究室にゼミナール指導の国際法の安井郁教授に復員の挨拶をした。安井さんは立作太郎教授の門下で横田喜三郎教授とは犬猿の仲。戦争初期にはナチスの国際法学者の欧州広域国際法の理論なるものを紹介、束亜広域国際法を提唱して、大東亜共栄圏構想に協力する態度が濃厚だった。また近衛首相、海軍などに接近し、講義で南京占領後の「蒋介石政権相手にせず」の声明発表の政策進言にかかわったことを匂わせて得意気であった。しかも学徒出陣の頃にはすでに敗戦の見通しをつけマックスウェーバー研究に逃避していた。
戦後は教職追放にあい、杉並区の公民館長を勤め、ビキニの水爆実験にあたり、杉並母の会の人々と原水爆禁止署名運動の口火を切って、戦時下の行動を反省したと全国の運動をリードした。巷間オポチュニストの典型としてそしられている。たしかに直接接した私の感覚でもキザなところが多くて、心から好きになれなかったが、この方は大変頭が切れるスタイリストで、事態の推移の展望と反応が早すぎるが、悪意の人ではなかったと信じている。最晩年にはレーニ
ン平和賞を受けたソ連とも接触が切れ、専ら金日成への信頼が厚かった。結局国際政治の判断力が乏しかったことになろうか。その時安井さんは「もう日本には近代戦を遂行する戦力は無い、南原(繁、政治学史、後の東大総長)、高木(八尺、米国政治史)両教授などが講和のために奔走されている。日ソ中立条約もサンフランシスコ会議後、廃棄は必至だ。最高政策の断が必要だ」と私に語った。当時小磯内閣は公にはまだ焦土抗戦を唱えていたから、実は
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降伏は間近いのかと愕然とした。帰宅して母や戦傷で召集解除巾だった兄にその話を伝 え、政府の無力を嘆きあったものだ。その頃東京は数回の小規模な爆撃、焼夷攻撃を受
け、人は疎開に血眼で古道具や古本はタダ同然に山のように店に出ていた。戦争終結に賭ける投機感覚と資金があったら、東京の土地を買い占めることも可能だったかなと思うほどだ。
特高警察の取締りもうすれて左翼の発禁物もかなり出回っていたが私には関心が無く、山川均の「コミンテルンの歴史」という講座の一分冊を読んだ位だ。むしろ文芸物を折りにふれてあさりまわり、やがて焼けてしまった近所の本屋で、大正10年創刊頃の雑誌
『思想』をバラで手に入れ、ケーベルや中勘助、志賀直哉などの随筆を、夜問空襲を予期しながら宵の床の中で楽んでいた。
明日を知らぬ身にもこれらの文章は読んでそのまま血肉になるような思いがした。死を前にしての諦観だろうか。また父の蔵書にあった北一輝『国家改造法案大綱』などを読み、ソ連の講和仲介に密かに期待を寄せたりしていた。はずかしいが当時のあきれるばかりの国家主義、軍国主義への傾倒ぶりを日記の一部を抄録して告白しておこう。
このような記録はほとんど見かけない。丸山真男氏は最晩年の95年に、1944年11月 から45年3月頃の経験として、次のように語っている。
「山上御殿〔東大教授達の構内食堂〕で--私の前にすわっていた三〇歳ほどの、工学部の助教授の人が、『なんで早く手榴弾を配らないのか』と。これは冗談ではなくて真面目に言っているんです。驚くべきことですね。--(それが)その人の憂国の情なんです。--一言にしていえば、私の青年時代を思いまと、日本中オウム真理教だったんじゃないかと。」(『丸山真男手帖』24,p.42~43)。
私も武器を要求するほど具体性をもたなかったが、これと変わらない考えだったわけだ。そして多分これが当時の一部の青年の思想の実態だったのだ。
すでに二月頃から歯医者に治療に行くと、焼失して家が無い。外務省は就職運動中に戦災にあう。自宅の焼夷弾攻撃と闘い、あわや火災による窒息死の危険も体験したが、なお戦争の最終段階と思えぬほど落ち着いているのは不思議なほどだ。
「四月六日 昨日とうとう小磯内閣総辞職したが、後継は鈴木貫太郎大将だと云ふので些か心配だ。まさか今になって講和の手を打つのではあるまいと思ふが、組閣の交渉相談の相手が岡田啓介、若槻、勝田主計等と云ふ老人の従来の親英米派と目された奴ばかりだから危ない予感がしてならぬ。もしそんな事があって特攻隊になんと申し訳すか。内乱の危機もある。しかし爆撃と疎開者の焦燥との連関等を見ると、都会人の中に敗戦思想が相当流れてゐる事を憂へさせる。元老と云ふものの存在が日本の動きを妨げると思へてならぬ。」--これなど全く青年将校の言いぐさそのままだ。』二月の安井さんの見解はまるで気に止めていない。
「四月二十八日 ベルリンは完全に包囲もされ市内も制圧されてしまって、全く最後の運命に晒された。ドイツに残る山岳ゲリラの手は果たしどの程度に有効か。日本への全面的攻勢の日は近い。死闘の用意を急がねば。」山岳ゲリラなどどこで聞いたのか。
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「七月十四日(土)。今日山本実彦の『満鮮』(旅行記、昭7)を読了。なかなか面白く読んだ。所謂インテリ層の対満州事変態度の一班を知り得る。山本氏など特に優秀な方だろう。その中でも好い意味の層を代表するのだろう。非常に筆致曖昧だが、必ずしも(事変に)全面的反対では無い。列国の反対に関し及び支那軍の抵抗に関し危惧し我が力を過少評価する傾き。必ずしも平和主義ではない。国際連盟の政治的意図も看破している。ただし日本の軍部の意図に信なく人類的見地よりの国策樹立を望んでいる。政党の弊は知りつつも軍部の圧迫に対しては民衆の意思発現の意味から反対のよう。我が政府に国策を樹立遂行するだけの実力なきため対満策がその場当たりに流れすぎることを憂う。要するに悪い所は政治上の民主議会至上主義を内包する点にあるようだ。
その他では
(1)間島の朝鮮少数民族問題。
(2)山東苦力問題。
(3)満州国に於ける労働力濫費問題。
(4)日本人の自作農的移民と一旗的カフェ的移民の問題。
(5)満州国構成上の日本人介入問題。などの所在の指摘。」--〔心底からの帝国主義〕。
七月二十九日(日)。昨日早川(孜 、故人。麻布中学同級で一高も共にした生涯の親友。当時東大経済学部在学。結核療養で徴兵不合格。戦後は東京銀行に勤務した)が来ていろいろ話した中で二人でこの努力を戦争以外にそそぎたいものだと痛感。またこの戦後も結局同じことが繰り返されるのだなあと人問の進歩せぬのを慨く。
ちょうどChurchillが労働党に敗れたばかりだったことから国家の今後の方向は当然国家社会主義的になると一致する。
八月九日(木)。ついにソ連開戦せり。今の世界には道義などかけらほどもない。国際法の躁躇が如何に堂々と行われることか。MachtPolitikのみ。如何にして日本はその永遠の生命を守るべきか。危機なる哉。ソ連の出方は意外に早かったなあ。どうもポッダム会談にあんまりスターリンの言い分が通り過ぎると思った。」
戦時の日記はこれが最後でその後の破局の日記はない。この数日後に初めに書いた課長の降伏予告があったはずだ。
八・一五の玉音放送は、隣組の焼け出された人々がラジオを持たなかったから、我が家に大勢集めて正座で畏まって聞いた。音声は明瞭で、予告もあったから降伏はハッキリ理解した。涙は止まらなかった。省みて政府の戦争方針も不徹底だったし、自分自身も優柔不断で、戦争努力に完全燃焼しきれなかったという悔しさが強かった。同時に初めて聞
く天皇の発音とアクセントの異様さには驚きと幻滅を感じた。
その日の新聞が午後には配られたのだったろうか。そこに敗戦にいたる戦闘の経過が初めて公表されていた。それを食いいるように読んで、嘘を並べてきた軍部に憤りを感じた。
夕刻甲府の家族の許に帰るという親戚の娘さんを、危険な状況があってはと小田急で新宿まで送った。ついでに世間の反応はどうかと駅周辺の様子を見たが、いたって平穏で意外であった。反乱軍でも出ていたら馳せ参じかねない心境だったと思う。
翌日かその次の日あたり隣組の中年男たちが大声で「軍隊が無くなって、せいせいす る」と話
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し合っているのを聞いて、人々の変わり身の早さに愕然とした。
八月末になって一年前に戦病死した戦友故佐久問豊実君の父君を船橋に弔問した。中学校長だったという謹厳な父親は、近くの陸軍の経理の将官が軍用物資を山のようにトラックで持ちかえったと身をふるわせて憤っていた。その痛烈な軍部批判に、観念的な愛国主義者は反省させられることが多かった。
降伏の数日後、私は第一師範の校庭に掘った大きな穴に、命じられた膨大な数の「機密文書」の山を次々に投げ込んでは焼き捨てていた。その大部分は戦時中最後まで中立国だった、スウェーデン、アイルランド、スイスなどに残留した日本外交公館が西欧の新聞雑誌などから入手した敵国側の情報を、本省あてに送ってきた暗号電報の解読であった。
それらは暗号解読の素材になる〔戦争終結後に?〕以外は、戦時中に一般国民や憲兵に対して極秘であっただけで、米国に対して何も秘密な事などなかったのだから、焼却する必要があったかどうか疑わしい。
その多くは未だ読んでいなかったから、敗戦後でもそこに何が書かれていたのか好奇心があり、何とか焼かずに保管できないものかなあと思いながら、紅蓮の炎に空襲の業火を重ね合わせて見守っていた。
「これから日本はどうするのでしょう?」という私の質問に、かって中国に在勤した年長の同僚の属官は「支那では役人も市民もみんなが昼と夜と二重の仕事でかせいで食いつないでいたのさ。日本もそうなる。」と答えた。
幼時に上海でさんざん眺めた、あらゆる町角にあふれる、ボロに包まれたクーリー(苦 力、下層労働者)や、乞食、カッパライとバクチで食いつなぐ浮浪児の姿が眼に浮かんだ。かって農村崩壊を憂いて決起した』二・二六の青年将校達の思想を思い起こすと「戦争で何一つ問題は解決していないではないか!」と悔やまれるのであった。
戦後最初の日記。「八月二十四日(金)。大詔を拝して丸十日、どうやら外地各戦線とも停戦は実行された様子。いよいよ敵の第一次進駐は明後日〔台風で二十八日に延期〕厚木に行われ、明日からは敵の監視飛行が始まって日の丸の飛行機の飛ぶのを見るのは今日を限りとなる。
この十日の心の動きを振り返ると実に複雑なものがある。しかもその中から何等行動の指針がるかみ得なかったところに俺の今の最大の欠点たる無気力が表れている。大詔を拝した瞬間は事をここに至らしめた国民の罪を痛感し陛下にこれほどまでの御言葉を告(の)らせ給うの止むなきに至らしめた輔弼(ほひつ)の臣の無為無策を痛憤した。陛下がこの戦争中国民はその全力を尽くしたとねぎらい給うた時ほど恥ずかしく、嘘だと絶叫したかった事はない。しかも時を経るにつれ、ますます重臣たちが反戦的に策動したという印象が強く戦力が未だ尽きざるに[何と認識が不正確なことだろう!]手をあげる事の『意地』の上からの口惜しさも手伝い、反停戦の暗殺等の噂をきくと、何とか大勢をひっくりかえしてくれぬかとの希望をすら抱いた。
しかし一方東久遍宮の御放送をきくと純粋に大詔を奉戴し再建に努力すべきだとの気持ちも
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沸き他方、一般人の米占領軍に対する不安についてはどうもそれほど組織的に乱暴は行 いそうもないと思うところからやたらに停戦協定に違反する事も考えもの(どうせ再交戦
は不可能なのだから)という気もして両者の矛盾に苦しんだ。」未だ天皇主義にひたりき っていた若者だが、早くも転換の煩悶が始まっていた。天皇が皇室存続のためのみをはかって講和を決断した経過を全く理解していない。
そこに様々の指示と戦時中の指針との矛盾が出ていることに迷わされていたのである。
§2 占領支配
多分9月2日の戦艦「ミゾリー」号艦上での降伏文書調印式の当日、私は港区田村町の元の日産ビル(当時は満州重工業を作った日産コンツェルンとして有名)にあった終戦連絡事務局(8月26日に占領軍と日本政府との連絡のために外務省の外局として新設された)に出向しており、電力不足で昼も薄暗い大きな事務室の一角で、配られた「指令(名前は不正確かも)第1号」「第2号」の綴りに驚いていた。「第2号」は戦犯逮捕の指令であった。
それはポッダム宣言から予期され、私も終戦前に第一次大戦後のドイツの戦犯の処理 を調査したりしていた。
だがその多数の人名の列挙を一見してすぐ頭山満や中野正剛など多くの死亡者、またとても戦犯には当たらない政治的に無力な人物を見た。「何だ。米軍の情報はこの程度か」との軽侮と、戦時中少ない情報で外国政治家の人名録なども印刷配付していた同盟通信のレベルは低くはなかったなと自負の念も起こった。
後に刊行された『日本管理法令研究』(1946年5月)には「指令第2号」(9月3日)は連合国最高司令官の管理すべき地域の降伏その他占領に関する手続きを定めたものであり、戦犯逮捕を命じた指令はない。実際には戦犯一括のリストは公表されず、9月11日東条英機以下36人、12月2日広田弘毅以下59人、同6日近衛、木戸以下9人となしくずしに、およそ100人がA級戦犯として米軍MPにより直接逮捕されたと思う。
そのA級戦犯の人数や氏名も私の記憶の最初の指定とは大きく違っていた。多分この文書は一旦取り消されたのだろう。その後B、C級の戦犯は千人をこえたが、その文書では政治家、軍人、経済人、思想家などの有名人ばかりでB、C級は含まれていなかった。
第1号の方はもっと重大な占領軍の日本直接統治の指令であった。ポツダム宣言で日本は間接統治とされているのにと愕然とした、これは米軍当局者の無知か、連合国の欺隔
か。外務当局の上層部はこれに直ちに抗議しているのだろうかと焦りを覚えた記憶がある。
『管理法令』では「指令第1号」(9月2日)は 「一・般 命令第1号 、陸海軍」(軍 隊が降伏する諸手続きを定めたもの)を発布する命令を中心にした簡単なものである。だが、私の見たものは、9月10日にワシントンで発表した「日本管理方針」に似たものだった。9月22日に日本で発表された
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「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」の第二部第二節には「現存の日本政府機構を利用するが、それを支持するものではない。」としていたから、正式には間接統治は変えなかったわけだ。
この直接統治の文書の記憶について私はずっと幻を抱いていたような気がしていた。この点を「占領史研究会」(後に解散)の天川晃(横浜国大教授)、袖井林二郎(法政大教授)両氏に質問したら、やはり降伏当初Proclamations(布告)というものが二、三発せられ、重光外相が交渉して撤回した経緯があったとその頃分かったらしい。戦犯リストも米軍に準備がなく、フィリピン米軍の参謀部であわててズサンなものをでっち上げたことがあったとサザーランド準将のメモワールにあるそうだ。
私の記憶は幻ではなかった。何しろ米軍が進駐を開始した直後の8月30日一日だけで、私が見た終連横浜支局からの通報では神奈川県下の米兵の強盗、せっ盗、婦女暴行は千件をこえていた。それは戦時中の宣伝の「鬼畜米英」のイメージそのままであった。
数日でこの種の報告は禁止された。新聞ではしばらく「黒い大男の犯行」などと表現 していたが、やがてそれも許されなくなった。
個人的な事例だが我が家で戦前5メートル級中古ヨットを一隻逗子の鐙摺漁港に所有していた。それが米兵のために見苦しいと一方的に焼き捨てられてしまった
ことをずっと後になって知ったが、何処にも訴えようがなかった。
そんな時代であったから、この情報にふれて、ひょっとすると米軍は本気で直接統治 するのかもしれないと不安になった。
その指令?の中に「日本政府の官吏の辞職は一切認めない」という項目もあった。「我 々も止められないのでしょうか?」と慌てて上司に聞いてみたら、「下っ端は問題にならんよ」と一蹴された。
しかし外交官庁から占領軍のメッセンジャーボーイに転落した終戦連絡事務局で、属官はさらに高文を通った事務官の使い走りであった。一つの文書に多くの課長や部長のメ
クラ判をおしてもらう稟議書(りんぎしょ)を持ち回らされて馬鹿々々しくなった。しか もその事務官たちの知的常識の低いことにまたまた呆れさせられた。
米軍が二十四時間制の文書をよこすのに、十五時と書かれていると午後五時と読み違える始末だった。
高等文官試験を戦前にパスしていない身でこんな連中に一生使われたのではとても我慢が出来ないと感じた。
多分それらが退職を決意させたのだろう。辞令は9月18日付けである。
§3 戦後の再出発・復学
私の在学中からの一高校長安倍能成先生が敗戦後多分最初の『週刊朝日』9月2日・9日号(9日発行)の巻頭に「日本の出発」という文章を書いた。米軍の検閲なしで最後に発行されたと思えるこの論説には「今や--日本の歴史あって以来最も大いなる又恐らく世界の国民の経験にも多くを見ざる、苦しい生の長い道が横たわっている。自国の利害を第
一とする連合国の方針が、日本人の考える程おめでたいものだかどうだかは分からない--新しく強い重
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圧の加わる恐れもなくはない…一アメリカの大統領トルーマンは、日本人が平和を愛好する国民だという事を信じえて始めて警戒の手をゆるめるといった意味のことを口にしたと記憶する。彼のいわゆる平和がアメリカにとって都合のよい平和であり、平和を愛好することがアメリカに対する従順を意味するという制約も免れがたいであろう。しかし我々日本国民はトルーマンのことばを超えて、真に平和を愛好し、日本の存在を本当に世界諸国民の歓びとし幸福とし得るような、国家として国民としての最高の理想をめがけて進んでゆきたい。…一(昭
和 二 十年八月二十八日米機のしきりなる爆音を頭上にききつつ)」とあった。
あの時にこれだけの事をいいきったのは実に勇気があったと感心する。それは私が最 も共感を得た文章であり、戦後の再出発の導きであったし、今日にもなお通用する警告である。
ただその後のソ連による東欧の占領政策を知ると、ソ連にではなく米国に占領された ことは不幸中の幸せだったと認めるのが公平かも知れない。そして敗戦の後遺症は今なお続いているのだと自覚する必要があろう。
戦災を受けた安倍先生は世田谷の私の家の近所に仮寓しておられ、46年1月から5月までは幣原内閣の文相を勤めた。母が安倍恭子夫人(藤村操の妹)と東京府立第二高等女学校同級の親友だったので、入閣前から何度かたずねて先生の話を聞く機会があった。十畳位の一間に僅かな食器、日常家具と布団などを積み上げて、夫妻で起居されていた。その不便な暮らしの中で、『今ラジオで「夏の夜の夢」のオペラを聴いていた。面白いね』などと悠々たるものだった。
宗教とは何かと問うと『個人の命を宇宙の大生命とつらねるものだ』といわれたが宗教 に入らなかったのは何故とたずねる機会はもたなかった。また当時の米国教育使節団と学制改革について論じあい、旧制高等学校の長所を力説しその存続を求めたが受け入れ
られなかったとこぼされたこともあった。
アイケルバーガー中将が帰国する時には、貨物船一杯日本の骨董などを持ちかえった と非難されていた。
私は多分9月中旬東京帝国大学(まだこの名前であった)法学部に復学した。学徒出陣にあたり文部省は昭和18年9月に二年修了(とい っても戦時の学年短縮で、最初の半年で一年の講義を終了したから、実質は入学後一年半だった)の学生にはある程度の単位取得をしていれば「仮卒業」という資格を与え、在学のまま翌19年9月に卒業させることに
した。
そこで同期生はほとんど仮卒業になっている。(銀杏会調べによると政治学科407法律学科87計494名である。入学は約800だったはず)。 私も仮卒業資格があったが、当時まだ三年配当科目など七科目を残しており、「戦死するなら大学生のままでいたい。生きて帰れば、しっかり受講したい」という論理で、仮卒業の申請をしなかった。そこで敗戦後のこの時仮卒業組は聴講生にされたが、私は復学が出来た。とはいえ食糧危機、インフレ、交通機関の崩壊の中で、結核を患った身には殺人的混雑の電車で通学し、肋骨が折れる危険を冒すのは容易ではなかった。
この頃の生活
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を示すノートの走り書きがある。
『9月7日(金) 午前支那事変中の思想犯罪に関する文書を読む。参考になった。
8日(土) U.N.Charter写し終わる。大いに能率上げた。帰って裏開墾。
9日(日) 午前は(隣組の)回 報(母が組長だったので、かわって持ち回った)、味噌配給などで忙しく、井戸端の修理 で終わる。午後は大根播種、5×25、愛知大根、6×15、練馬大根、すじまき、約6×2畝[畝といっても家庭・焼け跡菜園の僅かなうねで正規の単位では勿論ない]。
9月16日(日) 個と全との調和哲学に個人差が入ってこぬか、健康なるかぎり全への奉仕は個の幸福となりうる。漢字を断然廃止するか制限すること。古典を翻訳することもかまわんだろう。Latin,Greekのごとき存在とす。新しい仮名をつくる。Lの発音をRのそれと区別できる字体。Vにも。今度ほど人間が本性を現したことはない。leaderのやせ我慢が消滅。「先憂後楽」。
9月21日(金) 西園寺公の言に「政争は議会政治の本質的なるものである。唯その契機が私利に流れるのは政治家のレベルの低さを物語るものである」とあり。考えさせる。
9月22日(土) からし菜一畝半。ほうれん草一畝半。
24日 からし菜発芽。小松菜二畝。小蕪一畝播種。
25日 玉葱播種
28日 小松菜、小蕪発芽、26日ごろ、ほうれん草発芽』といった記述が続く。
別の箇所には大学で写してきた聞きたい講義日程も書いてある。和辻さんと辻さんは多分一度も聞かなかった。
神奈川県大楠町(葉山の南)海岸に、すでに結核を八年療養していた父は、食料配給の制限八時一十時十時一十二時
月曜 倫理学(和辻哲郎)
火曜 政治学(南原繁)
水曜 社会政策(大河内一男) 労働法(末弘厳太郎)
木曜 政治学(辻清明)・和辻〃(末弘)
金曜 東洋政治思想史(丸山)
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から東京都内に戻れず、依然別居していたが、母と兄弟たちとは食糧は不足しても、久し振りに一家団樂の夕食が持てた。戦没者を家族から出さなかった幸運に恵まれた暖かさであった。
毎夜のように停電が続く中で、蝋燭をたよりに、数個の数の足りない蜜柑をジャンケンで取り合いをして笑いころげたこと等、今の人には分からない平和の喜びでなっかしい思い出である。
家族一同でホームソングや当時流行りだした「りんごの唄」などの斉唱を楽しんだ時もあった。
生活上は一日家庭菜園、配給、薪割り、買い出しなど雑用がたえなかった。頭を使うのは、深夜部屋にこもって読書と思索にはげむ時、たまに昼間学校に出て友人を見つけて、やっと民主主義、社会主義、軍国主義などと議論に熱を上げる時にすぎなかったが意外に充実した日々だった。東大の御殿下と呼ばれたグランドの前の芝生に、復員服を来た一高文科丙類(フランス語を第一外国語とした)同級の友人たちが、日を追って帰ってきて、再会を喜び合った。
米兵に大和撫子を躁躇されていると敗戦日本を悲憤する者、沖縄戦で敗走して必死にな って豚小屋にもぐり、泥まみれになって生き延びたいきさつを自ら戯画化して語る友、二度も南海に撃沈されて水泳部の実力を発揮して救われた勇士の話などなど鮮烈に記憶する。
人間魚雷「回天」の乗組になって、出撃しては故障で生き残った中学の日頃おとなしい友人の話も噂に聞いて襟を正した。
ただ講義に出てみると戦前と同じ教授のいうことがまるで変わっており、それに反発を感じる場合もあった。それは多分川島武宜先生だ っただろう。名著『所有権法の理論』を戦時中にまとめた川島さんは、私達のクラスに物権法の特別講義をして、ゲヴェーレなどという難しい概念を教えて悩ましたが、「私はマルクス主義者ではありませんが」とわさわざことわっておずおずとマルクスの説を一部紹介していた。それが今や公然
とマルクス曰くとやっていたからだ。それが悪いわけではいのだが、転換があまり際立ってお り、大阪高校同窓の安井さんに似たキザな印象があって感情的に反発したのだろう。
他方丸山真男先生(まだ『世界』の論文を発表して強烈な反響を呼ぶ前)や 、一高で教えを受けた大塚久雄先生(戦時中東大講師)の講義を何度か聞けたことがよかった。また多分大河内先生あたりから史的唯物論の壮大な構想を聞くことができて、世界観が変わる思いをした。
末弘先生の労働法もようやく禁止が解け、時代の焦点となり興味は深かった。南原先生は一度位しか聞けなか った。たまにしか講義に出ず、戦前のようにノー
トの空白を埋めさせてくれる友もなく参考書も入手できず、うぶなことに空手で受験する勇気が無かったので試験は放棄続きで、卒業のメドがたたなかった。
大学側は溢れている学生を早く卒業させたがっていたので、早く相談すればよかったのだが、窓口の指導を受けてみたら敗戦から一年半たった1947年3月になっても戦時の特典があり、既得単位だけで不足があっても卒業出来た。
こうして中途半端な「仮卒業拒否」は消えた。結局私は卒業年度をおくらせ生涯給与 の号数で損をしたが、この
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一年半の間のわずかな聴講で戦後の教授たちの自由な講義を耳にしたことが私に大きな思想的変化を与えた。そのために同期で戦後に大学の講義を聞かなかった仮卒業組とは生涯長く政治的、社会的な意見が違う思いをした。
当時盛んに出版されはじめた粗悪でうすっぺらな用紙のマルクス主義のパンフレット「共産党宣言」や「賃労働と資本」なども次々と読んで、軍国青年の心に一抹の抵抗を感じながら、その眼は長くかかって徐々に開かれた。当時戦時中からの寵児西田幾多郎、和辻哲郎などの書はひっぱりだこで、反感を感じたそれらを売っては本屋にならんだ改造社版のマルクス・エンゲルス全集や、特に明治文化全集がバラで安価に出回っていたのを買いあさった。
河上肇の『日記』は熱読したが、『貧乏物語』その他の経済学はマルクスが先だとして読まずじまいだった。
世論は当時「民主主義とは何か」「選挙はどうする」「封建制を葬れ」「天皇制は廃止すべきか」という点に集中していた。その中で相変わらず、デモクラシーとはギリシア語のデモスとクラトスとに由来するなどといった、外国古典の安っぽい受け売りばかりが横行して、身近で何が民主的かと考えることは無かった。党より人を選べというのも新聞の流行語であった。
年長者が反対意見をのべると封建的とされた。各地の青年会がしきりに座談会式の集 まりを持つ。
私も友人に誘われ調布付近で参加したが、知ったかぶりの競演で無意味だと感じた。私はそんな時論の受け売りより自分の内面の基礎知識を固めることが第一と考えるにいたった。
10月頃、アダム・スミス『国富論』の輪読を友人と二人で始めた。敗戦後の経済大混乱を理解すべく手をつけたが、戦争中の空白は大きく英語の読解力もさることながら、経済史の細部に至るまで知らないことだらけだった。戦時中よみかけて、空襲以後中絶していた大塚久雄先生の『近代欧州経済史序説』をまた読み始めていたので、その注にならって、父が米国から持っていた"Palgrave'sDictionaryofPoliticalEconomy"を引いて一々未知の概念や史実を調べた。これは自分にはとても面白い勉強だったのだが遅々として読み進まず、戦後の日本経済の現状を知るための研究とはとうてい対応しなかったわけで友人をうん
ざりさせた。
このころのノー トに、「十 月十六 日、p28.c.1.今 日の如 く貨幣 価値 が下 が る と人 はquantityofmoney(貨幣量)で
考 え ることを止 めvalueofuse(使 用価値)を 考 える。或 いはquantityoflabour(労働量)を考える。
米(以下10行ほど文章拾えず)
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のは惜しかった。私も独力では読み続けられず、卒業見込みのたたないまま、転地先の父との連絡、銀行の当座貸越口座からの戦時中の借越返済対策、母の手伝い、家庭の菜園係などをあたふたと続けることになった。
その開始の頃の日記。未だ皇国主義が濃厚であるが、反省の兆しがある。
「9月22日。吉瀬の家にゆきAdamSmithのTheWealthofNationsの輪講を来月半ばから始めることに定める。この事なかなか容易ではあるまい。根気を要する。しかしやりとげれば二人の為に大きな益を残してくれるだろう。敗戦後の平静を失った心のよりどころにも資するため大いに力を注ぎたいと思う。最近いろいろ反省してみて如何に自分が流れに逆らっているつもりで流されていたかを痛感し、自信を失っている。
(大局の把握不足)冷静に判断したところでは、日本が支那事変に移行した時、初めは北支の特殊行政区域化をはか った方針に於いて明らかに攻撃的であり、少くとも今唱える如き対等の友好関係を求める方針ではなかった。満州国建設的な行き方であり、将来大いに努力して楽土と化して初めて正当化する困難な路であった。それが間もなく支那全面に及び、更に注政権支持にかわり、それが更に対等日支国交へ大転換した。この日米国交調整をやるにあたり大陸全面撤兵の譲歩は今から考えれば出来ぬことではなかったのである。しかるに当初の特殊化的考えにこだわってとても出来ぬように考えたのは軍部の考え方に動かされたのであろう。
(現実認識の甘さ)更に昭南、ジャワ、スマトラまで占領するや一応楽観的になり、その時終戦の形式として流石に宣伝の如きN.Y.占領と云う夢物語には同意しなかったにしろ直ぐその時を講和の最適期と考えず、一応内線の防備に成功し、敵が防衛線突破作戦に倦んだ時こそ妥協の時であり、その時も南洋圏の確保が出来ると云うが如き甘い考え方をしていたのも流された証拠だ。
(真実)更に国家意思の遂行を高しとする余り、その国家意思形成の過程が適正なりや否やを判断するを忘れ、或いは戦時中なる故現在存在するものを以て現在得らるる最高のものと仮定する事に同意し、その批判を為すものに好意を持たなかった事、従って真実の貴さを忘れた事も流された大きな点であった。
(無節操)又軍隊に入っては戦勝に向かうの一点を最高目的として他の全てをそれに捧げると云う方針の中に何時か真に目的に指向するかどうかの検討を忘れ、無節操に陥った事は最低の生活態度と云うべきだった。
(無気力)凡て戦争中体力の消耗に伴い戦争目的に何ら貢献し得ぬまま無為に日を過ごしてやむなしとする無気力に陥っていたのも社会一般の風潮に流されていたのだ。体制に流されぬ事は実に難しい。しかし流されぬような自己を築き上げたい。今日天野貞佑氏(故人にも今まで流されて何となく反感を抱いていたのだが)の『学生に与ふる書』に人間は最も聖なるもの
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を全の限定としての個人の資格で自己に宿し得るが故に最も高きものに寄与し得るが故に自己を尊敬すべしとの句に接し、大いに我が意を得た。吾々は如何に愚鈍なりとも一臣下として己の誠を捧げて陛下に翼賛し奉る事が出来る。これこそ自己を高しとする所以なのだ。しかもその方途がやはり天野氏の云う如く己の持ち場に於いて誠を尽くすことによってのみ可能なのだ。
これこそ誰にでもできることではないか。ここに希望を見いだすべきである。日本再建の路を翼賛せんとするには他の日本人がいずれも最善をつくすかどうかを信用しなければ、己は一局部に閉じこもっている事が出来ぬ。他の全体への全力を捧げての貢献は信じ切って自分の持ち場に全力を打ち込むことが真の協力であると云う事も天野氏に示唆を受けた。雨の夜省線(今のJR)のなかで読みつつ帰り興奮のさめぬまま停電をおかし蝋燭の下に以上の感想を記す。」
父の皇道主義の影響は強かった。いつまでもぬけない。
§4戦 後政治の開幕=戦争調査会・政党の再建
①戦争調査会
翌年7月茅ケ崎に疎開していた叔母とその夫柴田雄次(化学者。東大理学部長の後、名古屋大学を創設、理学部長、東京都立大学総長、日本学士院長)を訪ねた。戦後の無事の確認と食糧の調達とを兼ねていたのだろう。そのとき戦時中から軍部の愚行を痛撃していた叔父が「今度の戦争が何故起こったのか、また戦争中の軍事、政治、経済はどの様な支障に直面したのかを政府で調査することになった。徹底的に検討してみるならば、将来に大きな教訓になるだろう」と語った。先に引用した安倍先生の論説も「今度の敗戦の原因について徹底的に究明され認識されなければならぬこというまでもないが、更にさかのぼってかかる戦争をやるに至った原因についてまでも、根本的に聞(せん)明されねばならぬ」と強調していた。それは大変貴重な調査になると大いに期待をもった記憶がある。
この会はその後一般に知られなかったが、昭和20年11月21日の閣議(幣原内閣)で 「大東亜戦争調査会」として官制を決定、翌年1月11日に「戦争調査会」と改称して、しばらく続いたらしい。新聞紙上には報道されなかったようだが、『朝日年鑑』昭和21年版の5月24日現在(吉田内閣)の官庁其他職員録の主要委員会に「戦争調査会」として掲載されている。
総裁吉田茂。
第一部会(政 治外交)部会長斉藤隆夫,同代理大河内輝耕(元大蔵省、貴族院議員)。
第二(軍事)飯村穣(元陸軍中将),代 理戸塚道太郎(元海軍大将)。
第三(財政経済)山室宗文(元三菱財閥役員),代理渡辺鎮蔵(元東大教授、日本米穀会、代議士)。
第四(思想文化)馬場恒吾(ジャーナリスト、元国民新聞),代理和辻哲郎。
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第五(科学技術)八木秀次,代理柴田雄次。
事務局長官青木得三(元大蔵省)。
委員はほかに富塚清,高木八尺,有沢広己,松村義一(元内務省、貴族院議員),中村孝也,片山哲,木村介次(藤倉電線),渡辺幾治郎(歴史家),小汀利得(ジャーナリスト),阿部真之助(ジ
ャーナリスト)、鈴木文四朗(大阪朝日)
臨時委員(公職追放中の旧軍人)飯村,戸塚、宮崎周一,矢 野志加三。
そのメンバーはたしかに保守的な顔触れが多かったといえようが、殆どが戦争に批判的な立場をもっていた当代一流の人だったと思われる。従ってこれが占領軍により間もなく禁止されて何らの成果も資料も残さなかったことは惜しいことであった。それは米軍が恐れたように、軍国主義の再建を企てるより、今日未だに消えない戦争正当化、大東亜解放戦争の意識を否定する国民常識を作りえたかもしれなかった。
② 政党の再建
11月2日(金)日本社会党、同9日(金)日本自由党の結党式はともに日比谷公会堂で開かれた。私は政党というものに大いに関心をそそられて共に傍聴に出掛けた。ほこりだらけの三階席から、戦時の国民服や、復員服と呼んでいた元の兵隊服姿も多い雑然とした会場を見下ろした。まだ「国体護持、反共」の観念からぬけられなかった私は、いちはやく民主主義に便乗する気配の政党には強い不信感を持ち、その宣伝や組織工作にはひっかからないぞと固く決意していて、帰りのアンケートも拒否した程だ。今の右翼青年みたいなものだった。
社会党では、構成員が労働組合、社会運動家ということでなじみにくく雑駁な印象を受けた。
政策として天皇制にどういう態度を示すのかに関心をもって「天皇制、どうする」と野次も飛ばしたほどだが,議事では多分一言もそれにはふれず、僅かに国家主権の思想が主張された程度だったと思う。
自由党についても軍国主義下でのマイナスイメージとしての自由主義への抵抗感が消え去っていなかった。自由党はこれよりさき既成政治家のみで丸の内常磐家で結成準備を進めていた。
なかんずく党首となった鳩山一郎(当時盛んに京大滝川事件の文相として新聞で攻撃されていた)には不信感が強く悪い先入観を持って出ていった。そして形式的な熱弁を聞かされたが、ほとんど何の感慨も受けなかった。
日本進歩党は、大日本政治会という翼賛政治会の後身がさらに変身したもので、最も戦争責任の重いグループだったのに、なんと国体護持派として期待を寄せた。その党はいち早く修正資本主義をとると政策上の急転回を示したのに賛成していた一方、戦前の民政、政友両党から
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復活した政治家が顔を連ね昭和初年の政党腐敗の印象を想起させ、一体今後どんな反省を見せるのかとの興味ももっていた。
病床の父にあてて戦前の知人からの入党要請状も届いていて、出掛けてみたかったが、11月16日丸ビル内の丸の内会館での結党式では学生が足をふみこむ気分にはならなかった。
日本共産党は10月7日の占領軍による解放指令以後いちじるしく脚光をあびていたので、依然たる反共主義から危惧の念を抱いていたが12月1日の代々木本部での党員だけの大会だったようで、傍聴の期待も持てず、出かけなかった。後に新聞に『綴り方教室』で戦前から有名だった豊田正子の報告が出たが、すでに余人には近寄りがたいセクト主義を感じさせられた。
第二章 占領下の思想変化1946年
§5父の生涯
年頭の元旦詔書、いわゆる天皇の「人間宣言」は、五年ぶりに結核療養から体調を回復して来た六十四歳の父と家族六人に、福島本家の当主である四十歳の元海軍技術中佐(プ
ロペラ機のエンジンの専門家)を加えて、そろって新聞で見て大いに話し合った。戦時中熱烈な神国主義だった父が思いがけなくあっさりと同意した。他の家族は皆戦時中から天皇の神格化を認めておらず、その否定こそ天皇制の基礎を固めるのに適切だと大賛成であった。
その詔書の冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文をあげて、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘ ン。朕ハ薙二誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」と述べ、この趣旨に則ることが新しい政治の指針であるかのように表現した点は、五箇条の御誓文の趣旨と違う。
当時の「広ク会議ヲ興シ萬機公論二決スヘシ」は単に大名の意見を聞く意味で、占領軍を欺く表現だと受け取った。
日記に「明治の五ケ条の精神に還りつつ新しい道を開こうとの思し召し、かなりMac(Arthur)向けの感じがあったが、それが意外に米本国に好感をよんだらしい」と書いている。
大江健三郎のいう「あいまいな日本」はこの辺に早くも始まっていたのかも知れない。
ともかくこの元旦詔書を読んだ当時は、一同まだ天皇の「我国民ガ其ノ公民生活二於テ団結シ、相椅リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統二恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン」との期待にこたえようと決意をいだく忠良な「国民」であった。
この問題では私は父の二転、三転の思想的変転の経緯を考えずにはいられない。戦時中父の急進的神道思想は家族にとって大きな精神的圧力となった。逆にその戦後の転換もまたあまりに急角度で、かえって同調しにくいものさえあった。
ここで波瀾に満ちた父の生涯を回顧してみよう。
それはこの軍国主義の時代に実業界で活動したやや偏った一指導者の行動の事例と思うからである。
父の伝記、有田ロータリークラブ蒲
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原権氏編集(有田出身で三井物産社員だが父のはるか後輩)『ロータリアン福島喜三次伝』(1966.10.20,B6小型版66ぺ一ジ)に私が調べた資料を加える。
①苦学の人。喜三次(きそうじ、伝にきさじとあるのは誤り)は福島喜平の第七子、五男。
1881(明治14)年に佐賀県有田村に生まれた。戸籍上の誕生日は10月10日(半年ほど届けがおくれたとの伝承があり正確な日付は不詳)。この日は中華民国が成立した双十節であり、我々がそれを知って父の祝日とふざけると父は大変いやがったので4月10日に祝ったこともあった。
三井物産が停年になる半年前の4月下旬に、三井合名に移り後理事になったので、父が郷里の人に座右の銘としていた「人間万事塞翁が馬」を地でいった。
父の生まれた翌年4月にその父喜平は43才の若さで世を去った。家業を成功に導いた祖父伸右衛門もその三年前に70才で死んだばかりであったから、その染屋、質屋、酒造業は未だ14才の長兄隆一と母達子の手に残され、やがて人手に渡さざるを得なくなったという。9年間苦闘した隆一も多分三代続いた結核で23才で早世する。一家は離散の運命をたどった。
その間里子に出されたりした父は、小学校(尋常科四年、高等科四年)を優秀な成績で卒業すると、郷土の有力者の学資援助により、1900(明治33)年3月28日校長若杉米太郎から第1号の卒業証書を受けて長崎商業を卒業した。さらに佐賀出身の元代議士松尾寛三(天草電灯社長、勧銀監査役、深川製磁監査役)の書生となって同年秋東京高商に入学した。
同期には後の佐藤尚武外相(1882~1971、当時田中姓)、小坂順造信越化学社長(1881~1960)、向井忠晴三井合名理事長・蔵相(1885~1982、雅楽の名門多忠久の長男、二歳で向井忠二郎の養子。飛級で開成中学を経て東京高商に15歳で進学した(追想録『向井忠晴』1986)などがいた。
在学中1902(明治35)年には佐藤、小坂らとともに一橋会と名付けた学生会創立委員の一人となっている(東京商科大学一橋会発行『一橋五十年史』)。当時から英語会で活躍していたようで、ボート部でも選手となった。
苦学ながら明治37年の官報によると144名中の首席で卒業。校費で中国の漢口まで旅行させてもらったという。
②長い在米経験。
ついで向井らと三井物産に入社(前 記向井追想録に三井物産入社十人の写真があり、福島は前列中央に向井は後列にいる。すべて東京高商卒だろうか?。向井は別のところで「戦争景気で
…… 同級生だけでも四十九人も入りました」と述べている。三井物産編『回顧録』。)、門司勤務(1905.2月雑品係、日露戦争中に学業で徴兵を免除されていた身なので有田に帰るとっかまるということで、母が門司まで逢いに来た)の後同年8月5日ニューヨーク支店、翌年8月同勘定係に転出した。当時ニューヨークで日本料理店に二十八人の日本人社員が集まった写真がある。三井の発展ぶりに驚かされる。次いで1906年からオクラホマ、ヒューストンなどを経て1912年ダラス出張所長。以後1920年まで勤務し、綿花の買い付けを中心に15年在米した。1913年には32才で三井物産の現地法人(1911年からつくられていた)Southem
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ProductsCo.(後SouthemCottonCo.)の社長になっている。そして第一次大戦になると米綿が暴落したが、長期的戦略で買い付け、
欧州向け貨物船も先物を大幅に予約したが、その後貨物船の需要が激増し大当たりに当たって、…挙に大手の米国綿花商に頭をさげさせ る世界一流の綿花商になった。
ところが大戦末期には見通し悪く、欧州向けの飛行機までを含む多額の軍需物資を買い付けたところで休戦となり、綿花も大暴落をして当時の金額で400万円(1986年の金で100億円)の損失を出す結末で本社に召還された(『トーメン社内報、昭和56年5・6月』東島健児、『同'86.9.10』浮村専務)。それは当時の本店綿花部長児玉一造の強い支持の下に行われたのであったが、幹部の安川雄之助らの批判で、三井が綿花部を独立させて東洋綿花を設立した(社長児玉一造)きっかけにもなり、この悪印象が父の三井生活で終生深い傷となったようだ。
この長い在米期間(帰国は結婚とその後の二度だけ)に大学も一時聴講し、英語も熟達 し、日本人で初めてダラスロータリー・クラブに入会した。訪米した三井銀行の米山梅吉もこれに強い関心を持った。福島は帰国にあたりクラブの日本での創設を本部に委託され、帰国後米山の協力をあおいで1920年10月に東京ロータリークラブを創設した(チャーターメンバーは会長米山梅吉、幹事福島のほか深井英五、磯村豊太郎、星一、樺山愛輔、牧田環、佐野善作、和田豊治など24名)。滞米の終わりにはダラス・カントリークラブ(ゴルフ)にも入会を許されたし、自家用のフォードを持ち、兎狩りや汽船でのまぐろ釣りなどもするほど豊かでアメリカ社会に溶け込んだ。渡米当時の東洋人蔑視の風潮の中で、多くの屈辱を味わった経験もあったらしいが、それをのりこえて米国社会の内部に受け入れられた実績から、米国の友人も多く民主主義や自主性尊重の良さを十分評価していたはずであった。
事実その家庭内では当時の日本では異例な民主主義で、十二才年が若く自由闊達な母を尊重して、子供たちを自由主義、放任主義で教育することを認めた。我々四人の息子は特別の家訓も受けず、幼稚園や塾の教育も受けなかった。
1932年に暗殺された蔵相井上準之助が日本銀行当時訪米した際案内をしてその深い信頼を受け、自分も尊敬して見合いの仲介さえ依頼し、仲人も頼んだ。どちらかというと政治嫌いで、とかく腐敗の噂がつきまとっていた東京高商同窓(一年おくれ)の内田信也(1880~1971)(後に岡田内閣の鉄道大臣)には強く批判的だった。家庭には米国から帰国して後も神棚、仏壇、父母の位牌をもたず、西本願寺系の菩提寺、墓が佐賀県なので寺詣りもしなかった。
神社に行けば礼拝はおこなっていたが、少なくとも満州・上海事変当時までは神仏信仰への深い関心はなかったようだ。
③ その国粋主義化。
1925年から上海勤務、26年には支店長となりやはり7年間日中貿易に従事した。その間に租界に居留する外国人による上海の市政機関であった工部局参事会に日本人
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代表として立候補した。過去には『中外商業新報』1920.2.20.に工務局選挙結果で前議員の日本人郷氏は三位当選と伝えている。
NHK"ドキュメント昭和"取材班編『ドキュメント昭和』2「上海共同租界」1986年、は1927年にも参事は英5、米2、日2であったと記す。
甫喜山精治氏のご教示によると1929年3月5日の選挙では福島1166票、船津辰一郎(在華日本紡績同業会総務理事)1156、安諾徳(人、漢訳)890、麦克那登少将(英)857、法蘭枢(米)790、歌巴特(英)775、培爾(英)713、雷門(米)672、麦賓(英)651の9人が当選、4人落選
している。堂々の一位当選である。(中国紙『申報』、本埠新聞からの転載)。
また『上海居留民団編上海居留民団三十五年記念誌』には、1931年3月17日の選挙でも福島、岡本乙一の二人が1086票の同点で最高点当選と記す。その選挙権は租界内に500両(テ
ール)以上の土地を所有し、または地租(または地租と市税)年10両以上を納める者、もしくは年額500両を下らない評定家賃の家屋に居住する者であって、日本人の有権者は少なかったという。1939年に日本が5名の立候補者を立てたら3名が落選の浮き目をみたと伝える。
その参事会に二回当選し、さらに在米経験にものをいわせて議長も勤めたと聞いている(それを確認する資料は見当たらない)。外国人問の信用が高かったのであろう。その任期中に満州・上海事変に遭遇した。9月20日に村井総領事の委嘱で上海でも在留日本人の時局委員会が組織されると、市参事として当然であろうがその一員に任命され在留民の避難救護の準備にあたった。
また10月5日にはプレス・ユニオンを組織して外国人方面への広報に努力した。1931年12月には全支日本人居留民大会で12人の発言者(内上海5名)の1人として「新日本の理想」と題する演説を行っている。
このような政治活動の為中国民衆の側からは殺害に三千両の懸賞金をかけるとポスターを貼って憎まれたのであった。
32年1月20日 日本の青年同志会会員が前々日の日蓮宗僧侶襲撃の復讐として三友実業社を襲撃し工部局支那巡捕を死傷させた事件では工部局議長に遺憾の意を表した。28日の日支交戦開始後、海軍陸戦隊の苦戦の状況をみて、居留民時局委員会は米里、福島両委員を代表として犬養総理などに1月30日、2月1日と相次いで陸軍の出兵要請を打電した。
上海居留民団編『昭和七年上海事変誌』は「就中福島委員は事変期間を通じ其の全力を此の方面に傾注奔走し、功績著しいものがあった。」と賛辞を呈している。たしかに他の船津、岡本二人の市参事と米里居留民団長の名は事変誌にあまり出てきていない。この功により後に海軍から銀杯の下賜を受けている。この点について国策研究会事務局長だった矢次一夫(1899~1983)は『昭和動乱私史』上(1971)に、昭和12年同会改組後の創立総会から会員となった福島と親しくなり、直接話を聞いたと次の逸話を紹介している。この出兵要請の時、大使館付武官補佐官だった田中隆吉陸軍少佐が福島にピストルを突きっけて、出兵要請の電報を団琢磨理事長に打てと強要したと称している。事実はどうかという矢次の質問に、福島はその脅迫があったこと、打電したことは事実だが、脅迫に屈したのではなく、上海の事態を早期に
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解決することが得策だと判断したためだと答えたと書いている。家庭では聞いたことは無かった。この話、宛先が首相や陸軍大臣ではなく三井合名の理事長としている点や、民間から救援を求める必然性もなく奇妙である。田中か矢次の作り話ではないかと思える。
事変前後から日本綿紡諸社や、日本領事館がしばしば中国人の襲撃を受けており、2月18日朝には三井物産支店に爆弾が投げられたが、父の出勤前で被害は無かった。白川司令官ら多数の有力幹部が死傷した4月29日の天長節式典の時は幸いにも日本に帰国中で難を免れた。その後三井物産本社から帰国を命じられて、5月18日には市参事会員を辞任し、後任には寺井久信日本郵船支店長があたっている。このように身の危険にさらされながら現地領事館、陸海軍の上層部と提携し、日本居留民の利益擁護に奔走した活動の為当然会社の仕事はそっちのけとなったのであろう。営利重視の三井首脳陣(理事長安川雄之助、向井はこの年取締役に就任した)からきびしく批判され、業務不振の責任を問う形で本社査業課長という閑職におかれた。
しかし時代は三井首脳の伝統的な営利主義の動きとは裏腹な国家主義に急転しており、2月9日の井上準之助に続いて3月5日三井合名理事長団琢磨も暗殺されていた。父自身も五十を越えたこの頃になって、事変の経験でつくづく国権拡大の必要を痛感したためか、そのような事情を理解せずに左遷した首脳部に激しく反発し、抗議の辞職も考えたようであったが母に慰留された。
当時業務上必要があった為か、自主的に接触したのか不明だが蓮沼門三(1882~1980)の修養団(1906~)と接触を持ち、やがて自らそれに加わり後には療養中の身をおして伊勢の五十鈴川でのみそぎに参加した(最近その地を訪れて今なお修養団の宿舎があることを目撃し驚いた)。又三井系がようやく軍需産業に参入して創立した玉造船の職員研修を修養団に担当させるなど熱を入れた。
それとともに家庭内でも急激に国粋主義、伝統的な神仏信仰に没入し、家族に意外な変身を見せていた。
ところが時代の逆風をもろに受けつつあった三井でも、33年には池田成彬が国策協力 をかかげて登場し34年には安川が退く変化が始まり、父の国粋主義を支持する長老(益
田太郎)もあって、物産の定年を目前にして1936年財閥本社である三井合名に転じ調査部長兼考査課長、で理事になり、同時に内閣から企画庁の顧問に任じられた。
これらは三井側に父を通して軍部・右翼の会社への圧力をそらす狙いがあったのかと今日推測される。
このころ鳥羽貞三氏によると三井に関東軍から新京での水力発電開発の依頼があり、その調査団長として父が出張したが、莫大な資金が必要になるため辞退したという。『追想録向井忠晴』(1986)。
二・二六事件の前後には北吟吉、西田税、若干の陸海軍中堅青年将校たちとの交際があった。
私は自宅に西田税が訪問してきた姿を見ている。また父の机上に北玲吉の七百円の借用証書が放り出されていた。何故そんなものを粗末にしていたのか不可解で、返済の可能性のない献金だったのかと推測する。
事件前後に激しい電話の会話が続き、当時コンニャク版といわれたコ
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ピーものの軍部、右翼の内部情報が大量にどこからとなく入っていた。そのころから政治的、思想的には蓑田胸喜(1894~1946,自死。元慶応大予科教員)、
三井甲之(1883~1953,元山梨県敷島村長)らの原理日本社(1925~)、帝国新報社、野依秀市(1885~1968)の実業之世界、帝都日日新聞などの出版物に強く影響されるに至った。
その非合理的思考、たとえば物理学の定説などを頭から否定する主張などを熱烈に支持して、大学で物理学を専攻する兄に議論をふきかける姿は異様で、帝大系統の西欧的合理主義に深い敬意をはらう学統には全く敵対するものであった。
さきの矢次一夫の『昭和動乱私史』によると昭和8年12月28日に発起人会を開いた国策研究会の会員名簿に父の名がある。また昭和11年11月25日に改組した同研究会の創立総会にも出席している。
④欧米経済使節。
そのような思想的活動とは別に、これは三井の財界活動の使命を託されたのだろうが、1937年4月末に日本経済連盟会が米国、英国等に派遣した経済使節団に三井を代表して参加した。
その顔触れは次のようなもので、当時の財界で有力なメンバーだったといえるだろう。
団長 門野重九郎(東京商工会議所会頭、大倉土木会長)
団員 福島喜三次(三井合名理事)。夫人同伴は以上二人のみで、英語会話力とあわせて、事実上の副団長であった。
石坂泰三(第一生命取締役)
木日木中寺出島柏春鈴田小下高秀茂(正 金銀行東京支配人)
弘(住友本社理事)
祥枝(東京海上火災会長)
寛三(三菱商事会長)
源吾(大日本紡績社長)
義雄(名古屋商工会議所副会頭)
誠一(日本経済連盟会常任理事)
随員 以上の団員がそれぞれ一名の若手秘書を伴った。
そのなかで父は最も英語会話にすぐれ、米国財界に既知も多く、団長を助け、約2ヵ月の米国旅行の各地の全ての団長演説原稿を一人で引き受けて作成するなどの激務を果たして過労となった。
そしてついに7月渡欧後に結核を発病、10月半ばに帰国後一年休職することになった。
対照的にその12月向井は三井物産の代表取締役に就任した。父はその後一旦は復職したものの、すぐ病状が再発して昭和15年8月三井総元方に改組した後の理事を退くことになった。
その時の総元方専務理事は向井であった。生涯あくまでライバル的立場にあったのは因縁であった。
両者に公然の対立があったかどうかは詳らかにしないが、その経営思想が全く異質だったこと
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は明らかである。父は国粋主義を奉じ、軍部と親交を結んでも、それを商売に利用しようとはしていなかった。たしかに政治的傾向があったのだろう。
向井はその『追想録』で語られているように山西事件で三井がドル買いをしてもうけたと軍部に強く非難をあび、攻撃を受けていた時に、在支の支店長を集めて配置がえをした際軍に反発した部下に「この戦争中に軍に関係の無い三井の仕事があると思うか」と叱咤したという。あくまで経営第一主義だったのであろう。
この違いはどこから生まれたのか興味ある問題だ。
向井は入社早々上海支店に配置され、当時上海在勤のまま同支店長兼理事だった山本条太郎に目をかけられ、1913年にその世話で同氏夫人の妹と結婚した。この山本との深い関係が向井の三井での昇進に大きな背景となっただろうことは疑い無い。ただしその直後シーメンス事件といわれた軍艦金剛建設の受注にかかわるドイッのシーメンス社の日本海軍高官への贈賄事件、ヴィッカース社の贈賄事件が発覚し、その仲介をした代理店の三井物産社員も逮捕され、山本も控訴審有罪判決の後恩赦をうけたが、三井を引責辞職し、後政界に向かった。
この経験で向井は深刻な影響を受け「三井物産は貿易や平和産業でいかなければいけないと考えるようになった」と述べている。
米国定着のままの父はこの事件には全く無縁だったであろう。しかも向井夫人ヒデと母は女学校卒業当時墜葉会(当時は教会のシスターの作ったグループだったようだが、後の女学校)で学んだ英会話クラスの親友で終生その友情は消えなかった。その縁で両者の対立もとげとげしいものにはならなかったようである。
父は療養中ますますはげしく皇道主義に深入りし、たとえば母が「富士山が美しい」というと「霊山を美しいなどどいうのは不謹慎だ」などと叱責したほどだった。
もっぱら三井甲之一派の雑誌に精神主義的な短歌を投じ、たとえば斉藤茂吉(父の一歳年下になる)の「あららぎ」などを問題にもしなかった。戦況の不利、日本軍の虐殺行為などの噂は一切信ぜず、ひたすら神州不滅を神棚に祈願し続けるのみであった。
母と息子たちは黙って訓戒と叱咤を受け、その行動を見守るしかなかった。
そんな父だったから敗戦は心底からの大打撃であったに違いない。敗戦の詔勅の時私達家族は東京におり、連絡も切れていたから様子は分からなかった。だがその後意外に淡々と事態を受け入れていた事が分かった。
戦争末期から敗戦の実態は当然理解していただろうし、「承詔必謹」(天皇の詔勅を受けたら無条件にそれに従うという意味で当時政府が強く国民に求めた言葉)が何よりの支えだったのだろう。
やがて療養先の三浦半島にも米兵が進駐を始めると、たちまち二十五年前の米国時代 の経験を蘇らせて、"offlimits"、"warrantofficer"などの米軍の新用語の語義や、米軍の指令、行動に深い興味や理解と、時には好意を示した。
米国を知らない若い私の方がかえって反米的でこの態度についてゆけず急速な転身に呆れる思いだった。
⑤労働運動への反発。
当時急速に展開した労働運動によって、生産管理という争議手段が生
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み出された。経営者が物価の不安定などを考慮して、生産活動を躊躇する時に、労働組合が経営権をのっとって、生産を再開する闘争手段であった。年表を見ると45年10月から11月と1件づつ起こったが、12月には12件、46年1月には13件、2月17件、3月13件と次第に頻発した。
2月の三菱美唄炭鉱ごろから世間の注目を集め、それを皮切りに、東宝、東芝、日本鋼管など全国に波及した。
厚生省の5月20日までの統計では103件に達している。
「民主化」の高まり、「資本家の生産サボタージュ」という批判のムードの中で、世論は生産管理を支持する傾向にあった。
京成電鉄の争議は生産管理によって全面勝利となった。
これに対し政府は46年5月ころ、生産管理中の炭鉱組合から直接石炭を購入した日本石炭会社という、戦時中からの石炭販売の統制会社に向かって、炭価を組合に支払うことをひかえるように指示し、経営協議会の設置の提案をかざしながら、生産管理は違法だという見解を示した。
他方大河内一男、末弘厳太郎教授らはこれを争議行為の一環として承認し、争議に中立的であるべき政府が干渉するのは偏った行為だとする論説、経営協議会は平時の機関でそこで妥協できない場合は争議行為の一つとして生産管理を行うのもやむを得ないという見解を新聞に発表した。
私もその流れにそってこれに賛成であった。
だがそのころ療養先で父と話すと、「生産設備は資本家の私有財産で、労働者が勝手にそれを使用するなどもってのほかだ」と、激烈な批判をあびせられた。
敗戦後の生活逼迫の非常事態など全く念頭に無かった。これが企業家魂というものかと、それまで見たことが無かった父の一面を垣間見てびっくりさせられた。戦中の父は軍需生産優先で、軍の企業管理に批判を加えることは全く無かった。ところが戦後になると、所有権尊重を力説し、資本家の「生産サボタージュ」と非難された行為には一言の批判も無かった。
その急変は意外と感じない訳にいかなかった。この論争の際に私の意見に対してそれは「マンチェスタースクールか」と父が問い、不学の私はスミスのことかと反問し、今度は父が答えに詰まったことがあった。いうまでもなくこれは1820~40年代のコブデン、ブライトなどのイギリスの自由貿易主義であり、スミスの系統を受けるものであった。父の学んだころに先進的経済思想とされていたのであろう。ところが私の学んだ頃にはすでに忘れられていたという食い違いがあったのである。
⑥その最期。
父はこの年秋、十年近い結核との闘病のあげくついに家族と離れた保養地で一人さびしくその生涯をとじた。長く親しんだ米国と祖国が戦って破れる悲劇にあい、胸にいだいた神国の夢も消え去った後に、自らきずいた家産もすべてインフレと国家財政の破綻の影に消え、無一物になって、その死期を迎えた父の胸中には万感胸に迫る思いがあったに違いない。
戦後療養の孤独に耐えられず、強く東京の家族との同居を求めて一月ほど実行したが、長年の比較的ゆったりとした単身生活に慣れた習性では、狭い住まいのなかでの大勢の家族の、戦後の貧しい水準の雑居にたえられず、激しく家人と衝突をくりかえした後、未だ完治しない病気
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の家族への感染の警戒もあって(しかし結局母が感染してしまった)再び元の保養地に戻った。
今になってその心境を思うと胸が痛む。
戦時中自己の信念に殉じて、全資産を軍需企業の株券と国債に投入し、生活費はそれらを担保とした銀行からの借入金で賄っていた。敗戦により国債、株式がほとんど無価値になって、破産状態に近い中での死であった。もちろん戦災による資産の喪失は珍しくない時だった。
幸運に家屋の戦災を免れ、いわゆる「たけのこ」生活で手放す家財が残ったのは、はるかに恵まれていた方であろう。私が銀行と協議して負債の返済を僅かな繊維その他の株の売却でやっと済ませた報告を喜んで聞いたが、
その翌日台風襲来の最中に亡くなった。
四人の子供が駆けつけたときはもう間に合わなかった。その頃のことだから逗子と鎌倉の境の丘の上の火葬場で薪を使って焼くのに一昼夜かかった。そのあと骨を拾うと長年の栄養不良で「骨にスが通っている」
と焼き場の人に言われあらためて涙が流れた。10月13日かねて用意してあった多摩墓地に埋葬したが、金が無く白木の墓標を建てたのみで、その後十数年墓石は建てられなかった。やっと墓石を置いた時は木の墓標は腐って折れていた。
§6 占領政治との交渉
占領下になって配給に米軍の野戦用缶詰その他の保存食品が与えられ、駅にMP(憲兵)がいて、発疹チフス予防用に改札口の木枠の上に立って、男女の区別無く通過する乗客の肩から首筋に強制的にÐDTを真っ白にまきかける。道路は米軍のジープばかりが我が物顔にかけまわり、空はもちろん米軍機ばかり。国電には米軍専用車両があり、いつもガラガラでGI(govemmentissueの略で、官費の服装、生活をしているという意味から兵士を意味した)が、ガールフレンドにした日本娘を連れて座っている。日本人はボロボロの車両にすしづめという風景。
罹災地の後片付けには米軍の強力なブルドーザーが働く。これらを疲れ果てた日本人が呆気に取られて莚然と眺めているというのが、当時の東京の姿であった。
しかしそれらを除くと私のように反米的意識を容易に捨てられなかった個人が米兵と接触する機会は意外に少なかった。
この頃の私が占領政治をどのように認識し、どんな印象を受けていたかを示す事例をかえりみておこう。
① 憲法改正案と末弘教授
46年2月日本政府の憲法改正案が保守性を捨てきれない状況をみて、マッカーサー司令部は直接草案を内閣につきつけ、それを政府案として公表する事を迫った。それに屈伏した政府が3月6日、その翻訳を憲法改正草案要綱として発表した。今日マッカーサー草案として広く知られているものだ。
私はそれを朝の新聞で初めて見たが、そこには政府草案とだけ書いていた
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から、すぐ占領軍のものと分かったわけではない。
当時は「国家主権説」「天皇機関説」をとる美濃部達吉教授の戦前からの学説を支持する気持ちだったから、天皇制を維持することが出来るかどうかに関心が高く、まずその点について調べた。そして前文に「ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し」とあるのを見て、これは国民主権をさすものだなと感じた。
さらに第一条天皇をみると、「この地位は日本国民の至高の総意に基く」と記されてい る。そこで、早速通学の駅で"JapanTimes"を求めて対照して見るとやはりそこにはずっと明確な表現が使われていた。
まずタイトルにすでに"DraftConstitutionVestsSovereigntyInPeople'shands."としていた。そして前文はやはり"WetheJapanesepeople,…
…doproclaimthesovereigntyofthepeople'swi11"とし、さらに第一条で明確に"derivinghispositionfromwillofthepeople."と明記していた。
この違いで直ちにこれは天皇を象徴として残していてもこれは明確な「国民主権説」だ、日本政府が起草したものではなく、占領軍の命令を国民の反発を買わないようにごまか
した訳文だと判断した(後に国会審議の46年7月25日、自由党がそれまでの天皇の地位を元首とすべしとの主張をひっこめて、突如前文を「主権が国民に存することを宣言し」と修正するよう提案した。これは占領軍の指示を受けたことは明らかであった)。
当時の私にはこれは一大ショックであった。
その日東大では、戦後開講した労働法の講義があり、末弘厳太郎教授は「諸君は今朝翻訳調の憲法改正草案を見ただろう。かってフィヒテはフランス占領下に『ドイツ国民に告ぐ』と祖国滅亡の危機を訴えた。世界史をふりかえって、今日の日本のように大敗を喫して、国家を再建しえた国はない。かっての大国スウェーデンは二百年以上たっても立ち直らないではないか」と、一語、一語を占領軍批判の色を公然と出さないように慎重に選びながら、悲痛な面持ちで深刻な危機を学生に訴えた。講和後に「押しつけ憲法論」を叫ぶ保守派は多いが、この時期に彼らは一言も発していなかった。東大でも末弘さんのほか
に公然と新憲法案を批判した意見を私が聞いたことは一度もなかった。
末弘さんは、昭和初年の欧米留学で労働法学を日本に持ちかえって開講しようと試みたが、当時の政府につぶされて挫折した。教授は戦時中私の在学当時の法学部長であった。
その頃なんと東大の入学式には「父兄同伴」が求められていた。病床の父の代わりに出席した東大物理学科を卒業した兄は、末弘法学部長が訓示して「今は科学万能のようなことを言っているが、理科を出た人間に国家を運営することは出来ない。法科で学ぶ諸君が天下国家を担わなければならない」と激励したので憤慨していた。
当時東大法学部教授で政治学を担当していた矢部貞治氏は 『矢部貞治日記銀杏の巻』(1974)で末弘氏の法学部長選出に反対して、これは「横田喜三郎一派[つまり親欧米、反
ナチス派というわけ]の策謀と見える」と書いているが、当時かなり厭戦的だと知られて いた横田氏の派閥(田中耕太郎氏ら)が推薦したというのはあま
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り納得できない。矢部氏は南原教授も末弘氏に批判的と書いているが、末弘さんはむしろ当時憂国的だったから南原さんが危惧したのではないだろうか。その外、当時タカ派で思想弾圧のリーダーと見られた大審院検事池田克の夫人が末弘の妹という関係が知られていた場合には不安をもたらしたかも知れない。
私達の軍事教練の野外演習にも、国民服、戦闘帽姿で出席して訓示を行い、学徒出陣の壮行会の時には「『行ってまいります』は生還を前提にした言葉だ。帰ることを考えず
に『征きます』と言え。」といわれて気が引き締まったことを覚えている。
そんなわけで学生の眼にはかなり戦争協力的に見え、一部学生は批判的だったが、私は好感を覚え、矢部さんのように軍部に迎合した人とは立場が違うと感じられた。末弘さんは戦後直ちに労働法講座を復活させ、1946年5月ころに新設された中央労働委員会と東京地方労働委員会の第三者委員となり、委員長の三宅正太郎元大阪控訴院長が追放となった後、委員長になった。
しかし戦時中の言動が占領軍に通報されたのか、たしか大日本武徳会の役員だったとの理由で教職追放になったと思う。ところが公職追放にはならなかったようで、労働委員会の委員長(後に会長)は継続し、労働者委員の徳田球一(共産党)や荒畑勝三、松岡駒吉、西尾末広、鈴木茂三郎(社会党)、使用者側の膳桂之助(日経連)などとわたりあい、その信頼をかち得て、その後長く労使紛争の火中の栗を拾い、労働法の実践にその余生をささげた。
世間のとかくの風評にもかかわらず、その生き方やこの時の訴えに私は深く感銘した。
②占領軍兵士との接触
45年の秋の一日、東横線の事故にあって車内で長時間足止めをくった。たまたま隣に占領軍の下士官がいて(専用車がなかったと見える)事故の話から占領下で初めて米兵と会話をかわした。英語を使って外国人と会話したのも、戦前から初めてだったと思う。単語を思い出すのに骨をおりつつ、スミスを勉強した知識を活用して日本の現状を説明し「日本の農民は平均2エーカー程の農地しか保有していない。米
国と比較してどんなに苦しいか分かるだろう」といささか抗議口調になった。するとすかさず「お前は東条が好きか」と逆襲してきた。やっぱりこう来るのかと鼻白みながら(hateといっては強いかなと迷いながら、dislikeとは思いつかず)「IhateT6j6」とかわす。「明日GHQのこれこれの場所に自分を訪ねて来い、もっと話そう」とさそわれた。
どうやらこいつは周りのシッポをふる奴と違って面白そうだ、使えるかも知れないと見られたらしい。わりに知的な男だったから訪ねて実情をもっと細かく訴えたいという気持ちも動いたが「戦勝国軍人にやすやすと尻尾をふるものか」と片意地をはってそれきりにした。
もし訪ねていたら私の運命は変わったかなと、その後時々思い出した。何しろ当時生活のために最も得やすい職場は占領軍の通訳やPX(軍人用販売店)だった。親友早川も郊外の洋館を米兵に接収されて、その縁で立川基地の通訳に入り、通称はっとむをちじめてTomに
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なったと平気で語るのが情け無い思いだった。彼はそれから米国関係に縁づいて晩年は長く米国銀行に勤めた。外国育ちの従姉も、外務省の元同僚もPXに働いていた。その人達に花瓶や着物などの家財を売る取次ぎをよく頼みにいったが、不思議なことに占領軍兵士との対話は経験しなかった。そんな心境の頃
『世界』の46年2月号 に一高のドイツ語教授の竹山道雄氏が米兵との交遊をヒューマニスティックに描いた「交歓」というエッセーを読んで割り切れない気持ちを抱き、卑屈ではないかといささか詰問的な手紙を送り、弁明の返事を(惜しいかな、紛失した)いただいた事があった。先生はかなり不快であったろうと今は気が咎める。
③CIE図書館
東京日比谷の東宝劇場(もうこわされたが)の隣に戦前あった日束紅茶のティーハウスが占領軍に接収され、CIE=民間情報教育部(CivilInformationandEducationDepartmentofGHQ)のLibrary(米国図書雑誌の閲覧室)が、45年11月ころから一般公開された。
私が1939年に旧制一高に入った時はすでに丸善あたりに新刊外国書籍をほとんど見掛けなかった。間もなく輸入禁止になったか、大戦により貿易が途絶したのだっただろう。だからほとんど初めて外国の新刊図書、雑誌を手にすることができて大変うれしい場所であった。小さい部屋しかなかったが、それまで日本では味わえなかった開架式図書館の自由な雰囲気も良く、いつも混んでいた。上述した国連憲章の写しも点検し直した。朝鮮戦争が始まった1950年ころまでしばしば出掛けて、いろいろと読みあさったものだ。それを種に厚顔にも1949年の『朝日年鑑』に内外の政治学界の展望を書いたことまである。
米軍の宣伝工作では利用範囲は小さかっただろうが、最も成功したものの一つではなかろうか。
ソ連の代表部も丸の内の三菱ビルの一角に小さな部屋をかまえて、ソ連に好意を示す 日本人を招いて雑誌を見せたり、映画を上映していた。GHQに遠慮していたのか、割りにこっそりと開いていたようだ。私は一度だけ行ったように記憶するが、映画には未だ珍しかったテクニカラーの『石の花』など美しいものがあったと聞いている。雑誌や講演などは宣伝臭が強くて興味を引かなかったようだ。CIEとは太刀打ちできなかったと思う。
④戦争犯罪の問題
ポツダム宣言にも予告された戦争犯罪人の処罰問題が45年秋の大きな話題になっていた。当時欲を出して顔を出してみた上智大学でのラテン語講習会の機会に米国のキーナン主席検事が講演したのを聞いて関心を一層そそられた。一年位後に社研の塩田庄兵衛君が知人の弁護士から市ケ谷国際法廷のA級戦争犯罪人審理の傍聴券を入手してくれて、後年労働経済の大家になった氏原正治郎君と三人で実況を見ることが出来た。その日の審理はソ連検察官の出番で、あま
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りドラマティックな場面はなく、法廷のメチャメチャに(米国的水準だったのだろうが)明るい照明と、審理に参加する連合国各国の色とりどりの国旗をずらりと後ろにならべた裁判官の席などまるで歌舞伎の松羽目の舞台を見るようで、その政治的演出を強く感じとることになった。
ここに俘虜虐待問題をとりあげて、友人のために国際法の卒業リポートを書いた原稿が残っている。大学に復帰して久々に図書館を利用したものだったらしい。このリポートは、大学在学中の国際法研究の成果を反映して、形式的には一応整っている。だが問題の本質を深く考えるには至っていない。後のソ連抑留捕虜の問題もあわせて考えると、ジュネーヴ条約の人権擁護の規定の重要性を今知ることが出来る。国際法学は当時このような形式論で固まっていたという気がする。イデオロギー的には私がBC級の軍事裁判に対して、強い反発を持っていたことを示しているが、実際のBC級裁判でこのような形式的な法理論の弁護を展開する余地は無かっただろう。現実には占領軍の強引な審理が進められたのだろうが、実際の資料をフォローする余力がない。唯その報道を見るころには、被告と米国側の証人との醜い責任転嫁の論争がクローズアップされて、正義の論議は影も無く、被占領国民の無力感に押しつぶされていた思いがある。周囲の友人と理論的反発を語りあう気力もなかったらしい[この問題はたまたまイラク戦争で再現しつつある。多少参照の価値もあろう]。
「俘虜虐待問題の国際法的性質」
第一序大東亜戦争の終結に伴い帝国のポツダム宣言受諾による無条件降伏により、連 合国側に於て盛んに戦争犯罪者処罰の問題が論議され、連合軍に対する戦争犯罪者引渡の要求は無条件降伏を行った帝国政府の手によって忠実に履行されつつある。此の戦争犯罪者には大別して二種ある如く思われる。すなわち第一は開戦ないし戦争指導に関する責任者所謂戦争責任者である。第二は戦争に関する国際法の違反者―狭義の戦争犯罪者である。
①
①例えば10月24日チューリッヒ特電として毎日新聞の伝える所によれば日本の戦争犯罪人は、1,戦争を計画せる軍首脳部2,残虐行為を犯した野戦軍司令官3,残虐行為を行った日本軍兵士または非戦闘員の三種に分かれるであろうと述べている。1が前者、2,3が後者に属すると見られる。
この中所謂戦争責任者の処罰に関しては国際法的には果たして適用すべき法規が存するか否か、又存するとするもそれが個人の責任に帰属せしめ得べきか否かは多大の疑問が存する所であり、むしろ多分に政治的意図を含むものと解せられる。この点はしばらくおき,ここには狭義の戦争犯罪者なかんずく問題とされる俘虜虐待者について考察を進めたいと思う。
第二問題の提起 合衆国国務長官バーンズは去る九月五日日本軍による俘虜虐待に関す る
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報告書に於いて「ゼネヴァ陸戦法規ならびに国際法に反する俘虜虐待行為は厳重処罰される筈であり、この点に関し日本の戦争犯罪者はドイツの場合と同様にその責任をあくまで追求されるであろう」と述べたといわれる。
②
②9月8日朝日新聞所載・[2003年3月のイラク戦争では民兵の戦闘参加に対して戦争法規違反と、米英側が非難した。これはヘーグ規則1条によるものだが、同2条の適用もあり、断定は難しい。これはゼネバ陸戦法規違反の争いの実例である。]
先ずポツダム宣言第十項は「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」と述べている。果たしてしからばここに所謂俘虜虐待なる行為は国際法違反であるか、しかしてその責任者は個人的に敵国の手によって処罰を受けるべきであろうか。
この問題を考えるには先ず俘虜取扱に関し日本に適用されるべき国際法規が存在するか否かが考えられねばならぬ。
次にその違反が存在するか否かを定めねばならぬ。そして最後に果たして国際法の違反は何人にその責任を帰属せしめ得べきであるかが考察されねばならぬ。
第三 適用法規の問題 俘虜取扱に関しては1929年ジュネーヴに於いて俘虜の待遇に関する条約(1929.7.29.)が締結されているが、これは帝国の署名のみで批准するに至っていないから帝国を拘束するものではない。この条約に関しては昭和16年12月27日スイス国政府が米国の為に、同17年1月3日アルゼンチ
ン国政府が英国およびその自治領の為に各俘虜の取扱に関する1929年の条約を守る意思あることを帝国政府に伝え、且つ帝国政府の意向を尋ねて来たに対し、昭和17年(1942)1月29日帝国政府よりスイス国
、アルゼンチン国外交代表に向かって「適当なる変更を加えて(mutatismutandis)同条約に依るの意思ある」ことが声明されている。従って法的には拘束力なきも実際上は大体同条約の規定を守るいわば外交道義上の義務を生じていると見るべきであろう。
この条約以前には1907年のヘーグに於ける陸戦の法規慣例に関する条約、附属書陸戦の法規慣例に関する規則第一款(かん)第二章に俘虜に関する規定があり、帝国はこの条約に署名批准しているのであるから、これは一応帝国を拘束するものと云える。しかるに同条約第二条は「第一条に掲げる規則及び本条約の規定は交戦国が悉く本条約の当事者なる時に限り之を適用す」とのいわゆる連帯条項がある。
③今次大戦に於いても交戦国と認められる英帝国の自治領諸国は何れもヘーグ条約には加入していない。
よって本条約の適用の有無につき疑いが生ずる。しかしながら前大戦に於いても実際上は各国政府がヘーグ条約を有効なる如く取り扱った事実もあり、
④又第一次大戦後の新興国あるいは自治領の独立によって連帯条項を適用する時には殆 どすべての戦争法規を無効ならしめる虞もある点も考慮すれば、この第二条の規定に拘わらずこの条約は後の俘虜条約の規定する如く
⑤「之に参加せる交戦者の間に拘束力を有する」如
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く取り扱うを可とするであろう。
かくて俘虜の取扱に関しては法律上は1907年のヘーグ陸戦法規が帝国に対し適用力を有するものと解せられる。しかして道義上は1929年のジュネーヴ条約も「適当なる修正を加えて」遵法さるべきものと云い得るのである。
③国際法外交雑誌42巻7号信夫淳平「従軍所感と国際法」13頁。
④立作太郎博士『現代法学全集第五巻』「国際法の基本観念」167頁参照。
⑤俘虜の待遇に関する条約82条。
第四 違法の要件
しからば俘虜の取扱に関し、いかなる点に於いて違法が成立し得るか。
先ず俘虜は正当な事由なくして生命を奪う事は出来ぬ。正当な事由とは俘虜が違法なる交戦手段を執りたる為俘虜の取扱を受ける権利を失っていた事が判明した場合
⑥又は甚だしき不従順の行為ありたる時 ⑦に限られる。これらの事由なくして俘虜が殺害せられたならばそれは明らかに違法である。
次に俘虜の取扱は人道を以てすべきである。⑧この点は「人道を以て」とのヘーグ条約の規定は明確を欠くが、ジュネーヴ条約は更に詳しく常に博愛の心を以て扱う事、暴行侮辱および公衆の好奇心に対して保護さるべく、又報復の対象たり得ざる事を明定している。
⑨前段に述べた帝国政府の声明の趣旨から推せばこの点はジュネーヴ条約の規定を準用してさしつかえないものと思われる。(但し同条約が俘虜に対し優遇を与えすぎる点にたいする制約は存するが,右の点はその制約は受けぬものと解せられる。
⑩)従って俘虜に対し正当な事由なくして行われたる暴行侮辱は違法と云わなければならぬ。正当な事由とは不従順の行為ある時の処罰、あるいは氏名、階級に対する訊問に対
し実をもって答えざる場合である。ジュネーヴ条約は俘虜に対し一切の体罰を禁じているが
⑪ヘーグ条約に於いては軽度なる体刑は許されると解すべきである。訊問に対する応答の強制は氏名及び階級に限られる。軍事的事実に対する訊問に答えざる場合には何ら体刑を課する事を得ぬ。又俘虜に対する労務は作戦行動に関する事を得ず、又過度なる事を得ぬ。
⑫「作戦行動に関する」とはジュネーヴ条約の規定する如く
⑬「各種兵器弾薬の製造及び運搬ならびに戦闘部隊に宛てられたる材料の運搬」などと解してよいと考えられる。これらの労働に従事することを強制する事は違法である。過度とはその国の労務者がその労働に従事する時間を甚だしく超過する事と解せられる。十分の休養時間もなき奴隷的労働に酷使する事は違法である。又将校に対して労働を課する事も禁止されている。俘虜の給養は捕獲国の政府の軍隊と対等たるべき事が規定されている。しかしながら此の規定の趣旨は俘虜に衣食を与えずして虐待する事を防止するにある事から推して帝国の場合の如く自国の軍隊自身、規定量の衣食の給養を受くるに十分でなかった際に俘虜に対して厳密に同
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等ならざる事は必ずしも違法とは解し得ぬと考えられる。
⑭ただし捕獲国非戦闘員の得べき最低基準量の衣食は給養さるべきものと解すべきであろう。俘虜の収容は収容所内では或る程度の自由を許されねばならぬ。
⑮正当の事由なくして長期間幽閉する事は違法である。俘虜が甚だしく従順を欠き多人数通謀して反抗を企てる場合の如きは正当な事由ありと為すべきである。収容所の設備に関してはヘーグ規則はジュネーヴ条約の如き詳細の規定
⑯なきも人道の見地から可能なる範囲に於いて清潔衛生を保持すべきであろう。捕獲国の軍隊の兵営と同等たる事を標準とすべきであろう。位置に関するジュネーヴ条約の規定⑰は優遇に過ぎると云うべきであろう。従って可能なる範囲に於いて適用すべきも遵法の義務は認め得ぬと解せられる。
⑥ヘーグ陸戦法規第三条第二項
⑦同8条。例えば逃走したる時あるいは多人数通謀して逃走または反抗を企てたる場合の如きは死刑に処し得るとされる。立博士『戦時国際法』195頁。
⑧同第4条。
⑨ジュネーヴ俘虜条約第2条。[2003年3月末、イラクと交戦中の米英国政府は俘虜のTV放映について、この条項違反 と非難している。]
⑩立博士同様。国際法外交雑誌41巻6号82頁。横田喜三郎が当然視するは疑問。国際法外交雑誌42巻5号84頁。けだし連帯条項不適用は事情変更故。
⑪ジュネーヴ条約46条。
⑫ヘーグ規則6条。
⑬ジュネーヴ条約31条。
⑭立博士『戦時国際法』196頁。
⑮ヘーグ規則5条。
⑯ジュネーヴ条約13-1条。
⑰ジュネーヴ条約9条。「不健康地に於いて又は気候温和なる土地より来たれる者に対し有害なる気候の地に於いて捕らえられたる俘虜はなるべく速やかに一層良好なる気候の地に移さるべし。
俘虜は如何なる時たるを問わず戦闘区域の戦火にさらされるべき地域に移送せられることなく又その所在に依り或る地点又は或る地域を砲爆撃より避けしむる為に利用せらることなかるべからず。」
第五 責任の帰属
前節によって俘虜取扱に関し帝国が遵守すべき法規の主要点を指摘し、同時に俘虜取扱 に対する違法の要件を示し得たと思う。よって次にかかる違法あ責任は何人に帰属せらるべきかという問題を検討しよう。
凡そ違法に対する責任を問うのは法の実現に対する保障の手段であり、法の法たる所以であ
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る。国際法も法である以上、違法に対して責任を追及する事によって法の実現を保障せんとする。しかしながら国際法は主として国家間の関係を規律する法である。従って違法の責任を問う者も国内法の如く組織された法の支担者ではなく、国際社会を構成する国家であり、違法に就き責任を負う者も一般に国家でなければならぬ。そこから国際法に於ける強制につき国内法と異なった特殊性―国家の実力関係による多分の政治性―が生ずる。
しかしともかく国際法の主体が国家であると云う点から国際法の違反に対する責任が国家に帰属する事は疑いを入れぬ。
ヘーグ陸戦条約第一条は明瞭に条約国の負う訓令発令義務を規定する上更に第三条に於いて第一条に掲げた規則に違反した当事国はその軍隊を組成する人員の一切の行為につき責任を負ってこれが賠償の責を負うものとしている。
⑱従ってヘーグ陸戦規則の違反責任が国家に帰属し賠償の義務を生ずる事は法文上明瞭と云わねばならぬ。
しかし国家に違法の責任が帰属する場合には何らかの形でその国家の成員たる個人又は団体の違法行為が無ければならぬ。かかる場合に行為者たる個人又は団体は全く違法の責任を負わぬものであろうか。国際慣習法上戦争法規違反を為した個人を自己の権内に収めた交戦国は右個人を戦時犯罪人として厳重に処断し得る事が認められていると云われる。
⑲それはヘーグ規則にも言外に含まれていることが感知され得る。これは行為者たる個人に責任を負わせるものであろうか。
凡そ国際法は国際秩序の間の関係に於いてのみ効力を有する事はあらゆる規範はそれが形成するところの法秩序のうちに於いてのみ法的性質を有するとの原則から見て当然である。
⑳従って国際法は一般に直接個人の行態を規律する事はあり得ない。
この場合のヘーグ規則も直接個人に特殊の行態を要求する如く見えるが、ヘーグ陸戦条約第一条に明らかな如く、右規則は条約国の発すべき国内法規の典型に過ぎぬ。従って右規則が直接個人の行態を規律するものとは云い得ない。帝国はこの規則に則って、しかも多分にジュネーヴ条約の精神に近い俘虜取扱細則、俘虜労務規則、俘虜給与規則等
⑳を定め、又俘虜処罰法を制定した。此等の規定はヘーグ条約第一条を忠実に遵法したものと云い得べきである。かくてヘーグ規則に対する違反は違反者たる個人にとってはそれが規則を準用する国内法規の違反であると云う意味に於いてのみ妥当する。従ってそれら個人は国内法によってのみ処罰され得べきである。しかしながら交戦中は敵国に対し戦争法規違反の責任を求める事は困難である。けだし戦争それ自体が国際法上の強制の形式とも考え得る事を想起すれば直ちに理解されよう。従って交戦国は交戦中国家を通じて敵国の国民に戦争法規の遵守を求める事は出来ぬ。この点からこの場合法規の保障の為には直接敵国の個人(行為者たる)に対し制裁を加える事が許されるので
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ある。故にこれは交戦中に限られるものと解すべきである。停戦後は如何なる違反に対 しても国家に対し責任を問う事を得る。従って国際法の主体ならざる個人に直接国際法規の責任を帰する事はあり得ぬと云うことになる。
最後にかくて国家に帰属する事が明らかになった違法の責任の内容は如何なるものたるべきか。個人の行為の責任を国家に帰する問題に関しては国際法学上古来二つの考え方が行われているとされる。即ち一はゲルマン法的連帯責任の理論であり、他はローマ法的な故意過失の理論である。しかしながらこの二流は何れも国家としての責任を果たすか或いは責任を免れる目的の為に行為者たる個人を処罰すると云う結論に達する。従って此の問題に関する理論上の見解は共に国家の賠償には行為者たる個人の処罰が含まれると云うを得るであろう。
⑳ヘーグ条約第三条は明文を以て国家の無過失責任を認めたるもので前者の理論を汲む ものと見得るがその賠償はやはり行為者の処罰を要求すると解し得るであろう。この場合国家は先ずかかる違法行為が発生せざる如き処置を講じていたか否かが検討せらるべく、次いで違法が発生した場合その行為者に対し刑事上の手続きを執る義務が生ずる。
⑳帝国はヘーグ条約に基ずき夙(つと)に俘虜取扱規則、俘虜収容所条令、俘虜労役規則、俘虜処罰法等を定めていたが、今次大東亜戦争に際してもそれが改正を行うと共に新たに俘虜給与規則(昭17.2.20陸達)等を定めて、その国内への遵法をはかっている。之等法規は条文上国際法に抵触すると見得るものはないから第一の責任は解除されると解される。 そこで国際法規の違法行為者は之等の規定の違反者として国内法上の犯罪を構成し、その責任を追及されることになる。ここで問題となるのは前記の諸法律、命令には条項違反に関する特別の処罰規定がないことである。従って之等条項違反は刑法、陸海軍刑法、命令の条項違反に関する罰則の件等によって処罰する外はないものと解せられる。かように特定の処罰規定を設けていない事は国際法上責任を生ずるやと考えられるが、上記の適用より特に著しい不都合は生じないように考えられるから必ずしも不法ではないと解する。
次に賠償は一般に金銭給付を以て行われるのを常とする。しかしながらこの場合個人の処罰と銭給付とが二重に行われるべきかどうかは疑問である。一般国際法は賠償の一般的性質を定めていないと見られている。⑳
⑱ヘーグ条約1条「締約国は其の陸軍軍隊に対し本条約に附属する陸戦の法規慣例に関する規則に適合する訓令を発すべし」、3条「前記規則の条項に違反したる交戦当事者は損害あるときは之が賠償の責を負うべきものと交戦当事者は其の軍隊を組成する人員の一切の行為に付責任を負う」。
⑲立博士『戦時国際法』p.45-49.
⑳アンチロッチ『国際法の基礎理論』一又正雄訳61頁参照。
⑳俘虜収容所条例 明治38勅28(明38.2.2)。 第二条俘虜収容所は必要に応 じ之を設置す。 その位置
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及び開閉は陸軍大臣之を定む。
俘虜取扱規則中改正追加,明38陸 達7号。
俘虜取扱細則中改正追加,明38陸 達20号。
俘虜労役規則第5条中追加,明38陸 達40号。
俘虜自由散歩及び民家居住規則,明38陸 達21号。
俘虜処罰に関する法律,明38.2.28。法38号。
第一条 俘虜監督者監視者又は護送者に対し反抗もしくは暴行の所為ある者は重禁獄に処しその情軽き者は六月以上五年以下の軽禁固に処す
第二条 俘虜共謀して多衆前条の所為あるときは首魁は死刑に処すその他の者は有期流刑に処しその情軽き者は重禁獄に処す
第三条 俘虜共謀して多衆逃走の所為あるときは首魁は有期流刑に処しその情重き者は死刑に処す その他の者は重禁獄に処しその情軽き者は六月以上五年以下の禁固に処す
第四条 宣誓解放を受けたる俘虜宣誓に背く者は重禁獄に処しその宣誓に背き兵器を執り抗敵する者は死刑に処す
第五条 俘虜逃走せざる宣誓を為し之に背く者は重禁獄に処す その他の宣誓に背く者は軽禁固に処す(以下略)
⑳Anzilotti,p.509-516.
⑳ヘーグ条約第一条参照。
⑳田岡良一教授『国際法大綱』(上)435頁。ここに説く如く国際連盟規約13条も賠償の範囲及び性質の決定は仲裁裁判所又は司法的解決に付し得るものとしていたのは此の証左である。
第六 結語 以上を以て俘虜虐待に関する国際法違反とその責任に就き概説を終わったのであるが、要するにその責任は国家に対し違反行為者の処罰に対する義務と要すれば金銭給付の義務とを負わせるものであって、被害当事国による行為者の裁判権は戦争終結後には法律上認められていないものと解せられる。しかるに現実に於いては連合国による裁判が準備されつつあると伝えられている。ここに帝国に対する国際法違反が問題とされぬ事と共に論者が前節冒頭に於いて指摘した如き国際法適用上の政治的制約が見られるのである。かかる現象は即ち国際法の法的原始性を示すものであり、国際社会の原始性をも物語るものである。吾人はここに益々国際社会の進化につき努力を捧げる必要を感じつつこの稿を終わることとする。
1945.11.27.頃執筆。
後書き。この原稿を浄書しつつ二ケ月以上を経過した そのに俘虜虐待事件の裁判は横浜に開かれ、既に二名の死刑、数名の懲役刑を宣告した。又従来先例のない戦争開始に関する責任者の裁判も近く開かれんとしている。それにつき一部ではこれら裁判を通じて園際法の革新
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が行われつつあるのだとうたう者もある。ポツダム宣言により国際合意が成立したとすればなるほど之も一応の形式をととのえているといえるかもしれぬ。又現実に行われるが故に法であるといえば、いかにも従来の国際法より実定力の強い新たなる法だと言えるかもしれぬ。しかしそれらは法の主たる目的である道義の実現及び人権の確保等を無視したものである。国際法の如き未発達の法にあっては実定性は必ずしも伴わぬ当為として事実の上にのぞむという意味を多分に含むものだということが考えられねばならぬ。事実の前に屈服するのは、専制主義の法学である。又刑法の不遡及の原則の如き専制主義への反動としての重要な成果はそれが国内法の領域に於いて得られたものとはいえ、国際法の領域にも当然守らるべきものであり、それを放棄するのは国際専制主義の承認に外ならぬ。要するにこれらは国際間の実力状態の強弱を基にした専制的悪法である。これらについては国際政治上の痛烈な批判が下されねばならぬと信ずる。
⑤国際連合
占領政策で最大の効果をあげたと思える農地改革には、農村に縁がなかった生活でほとんど注目しなかった。戦前の日本資本主義論争に無知だった証拠であろう。同様に労働組合の公認も現実として受け止めたに止まる。共産党の公認などの思想的自由は全く理解できていなかった。敗戦後の没落市民層の関心はやはり食糧危機の救済にあった。賠償問題は第1次対戦後のドイツの例を思って、襲いかかる嵐を待つように恐怖感をもっていたといえよう。国際政策では国際通貨基金(IMF)を設置して重要だった1944年7月のブレトン・ウッヅ協定による国際通貨会議(46.3)は切り抜きを持っていたが、やはり理解がうすかった。私が具体的に最も関心を持ったのは、直接の日本の問題ではなく国連の問題だったようだ。戦前に国際連盟事務局次長を勤めた伯父杉村陽太郎の影響だっただろう。
多分未だ終戦連絡事務局にいた9月ころだろう。45年6月サンフランシスコで調印されたばかりの国際連合憲章正文をみつけ、感激して全文を筆写した。その後長く保管していたが、何日かかったものか?。9月8日(土)に写し終わっている。時事通信社からの原文対訳は46年5月末にやっと出たし、新聞記事でも46年1月に一部の要約を解説したにすぎないから、それらより大分早く知ったわけだ。当時は未だ冷戦の開始を予想しないから、総会の多数決と安保理の拒否権を定めたことによって、大国の共同歩調で世界をリードするのだ、これで世界が平和になれると、かって国際連盟が総会の全会一致制のため紛争解決能力を持てなかったことと比較し、大きな夢を抱いたことを忘れない。戦時の米ソ蜜月が永続することを期待したのである。
45.10.24.の米国批准による国連の正式成立は新聞に小さく報じられた程度だったが、その
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後ロンドンでの第一回総会が始まる頃には、当時強力だった占領軍の指導をうけた新聞が「国連の機能」などと解説をかかげ、強力な武力を背景に世界の安全保障、平和の維持を目的とすると紹介を始めた。46年1月のトルーマン大統領年頭教書でも「国連は世界平和維持へのわれらの果敢なる冒険が開始されたことを意味する。この平和建設の努力に当たっては小国もまた大国と同じく発言権を有するよう努める方針で一曹一米国としては日独との平和条約締結に際してもかかる機会を小国の為に留保する心算である〔これは全く実行されなかった〕。国際連合の育成支持は米国の永続的政策となるでなろう」とその重視を強調していた〔今読むと米国の現実政策との背反に呆れる〕。4月6日米国陸軍記念日のトルーマン演説でも「米
国外交政策のさしあたっての目標は全力をあげて国連を支援することにある」としていた。世界連邦への夢は世界的に拡がっただろう。こういう世界情勢については、私は敗戦の恨み、復讐戦争の志は残さず、世界平和を望みつつもか
なり冷静に事実を観察していたようだ。この国連憲章のノートを使って46年4月に友人のために卒業リポートを書いたものも残っているが、現実にやがて始まる米ソの冷戦の前兆をしっかりとらえている。
「国際聯合と国家主権」(聯は以下国際聯盟の外は連と改める)
一一 国際連合の成立
第二次世界大戦の戦後秩序建設の為に、前大戦に於いて国際聯盟を平和条約たるヴェルサイユ条約と結び付けた為に種々の不都合を生じた経験にかんがみて、連合国は対日戦争の未だ終わらざる1945年4月早くもサンフランシスコに連合国国際組織会議を開いた。
そして二ケ月の討論の結果6月26日国際連合憲章を採択、参加46ケ国の署名を行った。
この19章111条からなる憲章は、その111条 第3項 の規定する五大国とその他の署名国の過半数の批准書寄托を同年10月24日の米国の批准によって終わり、先の国際聯盟に代わり、今後の世界政治を運用する最大の新国際団体たる国際連合を明示の国際合意に基づいて成立せしめたのである。
そしてその後の参加五ケ国を加えた51ケ国代表は本年(1946)1月10日よりロンドンに会してその第一回総会を開き、各種理事会の構成等を終わり、その活動を開始したが、早くもそこに先の国際聯盟と異なった観念の存することを示しつつある。ここに観察を国際法上の主権の問題に限定しつつその分析を試みよう
。
二 問題の根本と分析の方法
Kelsenの純粋法学を遵奉する横田喜三郎教授は、 国際法の対象の純粋性を強調して政治的事象を国際法の研究対象とする事を拒否するが、その立場は結局国際法秩序乃至国際法の拘束力に対する独断的な信念を基礎としている点で極めて政治的と云えるのであって、教授の国際連
一41一
合讃美論は正しい学問的理論であるとは考えられぬ。国際連合の研究に当たっても、憲章の条文のみの検討に止まって、その論理的完全性を推奨することは容易であるが、第一回総会壁頭英首相Attleeが述べた如く、「原則の肯定は易しいがその行動への転化、理想の現実化はまことに難しい」寧のである。そして現実化されざる法は法と見ることは出来ないのであるから、国際法のごとき法の推進力としての政治との関係の極めて密接な法領域に於いてはその研究対象として法規そのものに止まらず、その背後にある政治現象にも分析の眼を向けることこそ真の学問的態度であると信ずる。
更にその場合純粋法学と逆に分析の根本的立場に於いては全く政治的動機を排すべく、国際法および国際政治現象のありのままを分析すべきことを注意しておく〔以上は反横田の立場を取った安井郁説に忠実な主張である〕。
さてかかる立場から国際連合憲章を見るとそこには二つの互いに矛盾した主義の並び存している事に気付く。すなわち―は従来の伝統たる国際法主体としての国家の絶対的平等を認めてゆく主義であり、他は主権の平等を排し現実的勢力に基づく国家の差別を規定せんとする主義である。現実的な観察に基づけば国際連合には国際連合讃美論者の説く如き、超国家としての連合自体の権力の如きは未だ実効力を伴う段階に立ち至っておらず、その点まだまだ国際社会は未分化[未発達]である事を認識せねばならぬ。よって以下節を分かって上記の二点についての説明を試みよう。
*Time ,1946年1月21日 号,11頁 。
三 主権平等の主義
国際連合憲章前文は「--男女ならびに大小諸国家の平等の権利に対する信念を改めて確認すべく--決意せる我等連合国人民は」と明らかに従来の国際法の伝統的観念たる国家主権の平等の主義を謳っている。それは更に第二条にも「本組織はその全成員の主権平等の原則に基づく」と繰り返されている。
かくて総会、経済社会理事会、信託統治理事会に於いては票決に多数決主義をとり、総会の手続き上の事項と後二者の決議は過半数、総会の重要事項は2/3の多数を以て決すべきものとした。この点は国際聯盟に於いて機械的な主権平等主義に忠実であって全会一致でなければ大部分の議事が決定し得なかった点に比し、必然的な政治原則たる多数決主義を採用した事は、当然とは云え大きな改良と云うことが出来る。
しかし規約内容には必ずしもその原則は徹底していない。詳しくは後に述べるが安全保障理事会に於いて大国と小国との投票の価値に差別を設けた点がその例外である。
ところでこの連合の構成員として平等権を有する国家は如何なるものか。憲章第二条「成員」
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に於いては原成員は サンフランシスコ会議に参加又は1942年1月1日の連合国宣言に署名した国家にして、本憲章に署名批准したものとし(3条)、その他の平和愛好国家にして本憲章の義務を受諾し、本組織の判断に基づき、その義務を有効且つ積極的に履行するものには加入を許す(4条)としている。
ところがこの国家(State)は必ずしも独立せる事を要せざる事は原成員たる諸国家を見れ
ば明らかであって、これは恐らくある程度の自治、外交権を与えられていれば足りると解される。この点は先の聯盟に於いても国、完全な自治を有する領地、又は植民地という条件(1条)の下に、英自治領諸国インド等[カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、南アフリカ]が加盟していたので事実上同一であるが今度は明文がない。
かくて新たに今次大戦中に独立を付与されたシリア、レバノン共和国や、新たに外交権を付与された白ロシア、ウクライナ(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が含まれている。
これらあるいは英勢力下にあるサウディアラビア等がどれほどの外交的独立性を有するか、国際関係に於いて主権を有すると認めるのが正当か否かは相当疑問である。国際政治上これを見ると結局これらの国家の加盟はその実質的指導力を握る英、仏、ソ連等が国際連合に於いて一票以上の投票権を得んが為の形式に外ならぬように解される。殊にサンフランシスコ会議開催直前になって、ソ連が白ロシア、ウクライナの参加承認を求め、しからずんば英自治領も参加すべからずとした如きはこの間の消息を物語っている。
かかるソ連の外交にはイデオロギー的攻勢の立場が看取され、英米の国際的優位に対し着々自己の勢力下の国際法主体を増加して対抗せんとの意向があることは、第一回総会
の議長選挙に当たり、ウクライナ代表より公開選挙を主張した点にうかがわれ、注目される。しかしともかくかかる自治領、構成共和国等は国際連合に関する限り国際法上の主権を認められているわけである。
四 主権差別主義
前節に指摘した如く、国際連合の最も重要な機関たるべき安全保障理事会に於いては11の理事国に対しあらゆる議事は7票の賛成により決議さるべく、手続き以外の事項に関してはその中5常任理事国全部の同意を含むを要するとされている(27条)。
これは明らかに国家主権に優劣の差別を設けるものであり、前文及び第二条の精神に反するものと云わねばならぬ。かかる例は従来割りに少ない。国際聯盟に於いて主たる同盟及び聯合国を常任理事国とし、15条に基づく聯盟総会の報告書が聯盟国に不戦の義務を負わせる[紛争当事国に戦争に訴えないように求める]には常任理事国全部と爾飴過半数の同意を要するとした例(同条10項)と、国際労働機関に於いて労働理事会の政府代表者選定に主要産業国[主要産業国が何処かは国際聯盟理事会が決定する]に優先権を与えた例が顕著であるにすぎぬ(国
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際労働規約393条)。
これは一見前節に述べた主権平等の主義と根本的に矛盾する如く見えるが、これもやはりその根底としての国際政治を考察すれば前節と同じく旧態依然たるPowerPoliticsの別の、より露骨な表現にすぎぬと見ることが出来る。この規定は俗に拒否権と呼ばれているが、サンフランシスコ会議に於いて拒否権を最も強力に主張したのはソ連であり、最も反対したのは英自治領諸国及び中南米諸国であった。拒否権を認めることは如実に大国の専制を認めることになり、ソ連がこれを得なければ勢力下の小国を多数有する英米に事毎に服せねばならぬ事となる訳であったのだ。従ってソ連としては一方に白ロシア、ウクライナの参加を得、他方拒否権の獲得によって自己の立場の強化をはかったと見られる。
[2002-3年の対イラク武力行使をめぐる安保理事会で仏、露、中国の拒否権行使の気配で米国の決議回避の行動を生じた経過は、このシステムの崩壊をうかがわせるものである。]
五 結語
その他なお国際連合が国家に対しどれほどの拘束権を有するかというような根本的の点に関し問題が残るが、未だ発達途上の国際連合に於いて規定のみから判断を下すことは無意味と考えるからここには省く事にする。
以上を要するに国際連合は一部平和主義者の賛美する如き理想的な国際組織ではなく、未だ発達の不十分な国際政治の局面を反映したPowerPoliticsの色彩濃いものという事が出来る。
その点でいたずらに理想に流れて実行力に乏しかった国際聯盟に比して現実的であって実行力に対する希望ももてると云える。しかし本稿に説いた如くその組織は結局英米勢力とソ連勢力との強力な対立をはらみつつ妥協によって結合したものと云う事が出来、その持続性も、その限界をこえる事は出来ないものと云い得る。しかし又考え方によってはかように現実の勢力対立関係が聯盟の場合の如く蔭に潜まず、規約乃至会議の席上に姿を表していることは一の進歩であり、その方向にかえって国際法の発達が期待出来るとも云えよう。
[昭和]21.4.18.執筆。
§7日 華学芸懇話会
一高の文科丙類で一年のクラス担任は漢文の竹田復(さかえ)先生(中国軟文学専攻、1986没)だった。左翼運動華やかなころに学生主事をされたから、いろいろ深刻な経験も持たれたのだろう。年配で小柄の人間的に深味のある非常に面白い方だった。当時の中国人留学生だった趙安博氏も約五十年後に好意をもって回顧していた。私は在学中から時々訪問して話を伺っていたが、この頃市ケ谷のお宅に訪ねた。するとちょうどいい勉強会をや
っているからぜひ聴
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きに来たまえとすすめられた。
それは戦時中解散させられた筈の太平洋問題調査会の後継だったのかも知れない。平野義太郎氏らが同会の資産の運営に当たり、南洋諸島の研究書などを出版していたらしい。
日比谷内幸町の幸ビル六階の多分同会の一室で、毎土曜日に日華学芸懇話会〔当初は文芸〕という小さな研究会が開かれていた。
手元に残る記録によると
46.3.23.山之内一郎「ソ連の憲法」
3.30.橘(立花か?)善守(義盛か?)(多分上海毎日新聞)「上海近情」
4.6.池内宏「神功皇后記」
4.13.鈴木朝英「英国のマライ回教徒政策」、内田某「同華僑政策」
4.20.魚返善雄「外人の見たる新中国文学」
4.27.上田辰之助「月刊誌『アメレシアAmerasia。46,1.』による中国経済学説批判」
5.4.平野義太郎「"WhyBadResultsfromGoodDirectives?"『同46.2.』による」
5.11.清水安三「中国近況」
5.18.李済・張鳳墾氏の予定(キャンセル)。
5.25.松尾某「Roosevelt以後の米国」
6.1.欠席。
6.8.魚返善雄「中国のローマ字国字運動」
6.15.幼方直吉?中国のキリスト(新)教運動」
7.6.増田福太郎「中国宗教の課題」
7.20.直江広治「華北における民問伝承の運搬者」
といった内容であった。私も随分熱心に通ったものだ。必ずしも中国の話題に限定せず、それぞれ専門的な、学者、新聞記者などが二、三十人集まって、戦時中の蓄積を吐き出
している趣であった。討論にも熱気が脹り若い私には大変刺激的であった。
ノートに残る記録を紹介しよう。
1山之内さん。Ideology的にか、研究中に自然にそうなったのか、著しく(ソ連)心酔的傾向が目につく。何故批判力がないのか。没入の中に自己を失うのか。それはそれとして現実政治の話は学問への情熱を増す。山之内さんは外務省調査局で罹災の兵隊服姿が哀れっぽく印象に残っていた。不思議にも後に東大社会科学研究所で再び長老教授として接し、麻布中の先輩でもあった。そんな関係で私に大変好意を示され私達の結婚の立会人(昔の媒酌人に代えた)までお願いした。その大人の風格は深く尊敬していたが、昔風のソ連一辺倒の学風にはいつも反発して直接の論争となったこともある。それで不本意なことに周囲の同僚に仲が悪いと誤解された。私は尊敬するが故に批判していたのであった。もうあんなに純粋に共産主義を信仰できる人は二度と現れないだろう。
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2橘氏。3月8日に上海を立ってきた人。 国民党の独裁が国内的にも国外的にも寿命が来ている。国民党、中共双方の都市政策(生産?)の貧困のための漸江地区の困窮、支那の民族意識としての対日接近感情と経済再建上の対米依存とのdilemmaことに国民党政府では従来抗帝(国主義)一本で来ただけ、対外協同により学生、藍衣社等排外層を導くのは難しく、国民党の衣替え、立て直しは必至と見られる。殊に対ソ関係では条約締結の責を問われている等の指摘が面白かった。この日は竹田先生も出席されて用事を頼まれたりしている。
3魚返氏。一回目は(意味不明。二度報告されたのか?)民国三十五年、中国成年期に達すと、十年前には問題にもならなかった 日欧米人の文学研究がようやく緒についた。日本においては「懐風藻」は早いが、中絶。昭和十年頃「中国文学研究会」ができた。フランスでは初期の支那学者が独創に富む研究をしたが、その後マンネリズムに陥り、どちらも清朝初期で打ち止め。これは留学の支那人に継承され、呉易大の「中国文学概説」がで
きた。欧米人のこれまでの傾向としては、①老荘と旧約聖書との比較、②中世朱子学と中世欧州哲学との比較、③民国文学革命とルネッサンス、④諺、箴言の重視による民族性の探究という特徴があった。エドガー・スノーが"LivingChina"で、死んだ材料ではだめだと、現代文学に目を向け、魯迅を取り上げた。「阿Q正伝」も小説ではなく、歴史小説の短編の引き延ばしだ。これは原稿料が安いことと、講釈師の伝統に基づくとスノーはみる。しかしわたしはこれは支那語自体の特質によると思う。簡潔だから了解しにくいのである。スノーはまた林語堂『我国土我国民
』以後が中国新認識時代とするが、同感である。これがPearlBuckの"Th eGoodEarth"に並立する。エスカラ『支那・過去及現在』もこれに匹敵しないといった内容であった。
4平野氏のは"Amerasia"46年2月号の占領政策批判の紹介で、多分AndrewRossか、Jaffeyの書いたものだろうと推定。"Amerasia"という雑誌(1937.3月創刊とのこと)や、アメリカの左翼ジャーナリストの存在、そのグループによるアメリカの対中国観が"NewFrontier"という点にあることが紹介された。これを聞いて高木八尺教授の講義の「フロンティァ・スピリット」を思い出し、世界史の大きな転換期を感じとった。その批判はまず「日本の識字率は98%というが、14%位しか新聞を楽に読めない。大部分は支配層のスローガンを理解するのみだ。幣原内閣の性格はアンシアン・レジムの代表だ。それを通じてはGHQの良い指令も変わってしまうと急進民主派の立場を取る。農地改革については1、地主保有地五町歩は広すぎる。2、24力年年賦でも農民に購入の資力がない。3、農民の性格をそのままにしておけば元へ戻る。4、農業資本の大部分が土地購入に費やされ、生産力が上がらない。また小地主と小作人の対立を取り上げていない、と新潟、山形、秋田、宮城等水田地帯に昭和初期以来大地主が集中、激増した。生産に協力してゆくものなし。山形の本間
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家が農業倉庫をやるのみ。不在地主は特に寄生的。税を納めぬからだと、大地主の土地没収を主張。しかし日本の問題点は中小地主にあると零細規模農業について、日本の社会経済構造を問題にしている。荒蕪地開拓でも零細規模の問題は残る事に気づいているという。これらの見方は1.P。R.(太平洋問題調査会),"FarEastemSurvey",OwenLatimore,Ross,Jaffey.などに共通した認識だとされた。根本的にはアメリカの一部の人々が日本が戦争を起こさざるを得なかった社会経済機構の窮迫という点に着目し始めていると指摘され、列席の田村幸策氏(元外交官,国際法,東京裁判弁護人)に向かって戦犯裁判の根拠薄弱なことをつき、個人の弁護とは別に日本としては止むに止まれぬものがあったし、今もその原因はあるのだということを説いてもらいたいといわれた。
しかし大平善悟氏は国際法には時効も不遡及の原則も適用されないから、パリ不戦条約を根拠として交戦権をうばうことが可能だと法廷の主張を支持した。
5松尾氏はローズベルトは、国内市場開拓となった失業救済策と、経済制度の矛盾克服をはかった社会政策との妥協に基調を置き、ニュー・ディールを成功させたので、経済支配階級の自信を弱めた。政治による経済干渉の成功であった。しかし景気回復とともに保守派の自信が復活し、1934秋以降のニュー・ディールの政策自体の妥協性と困難性とによる行き詰まりが、その違憲判決を招いた。37年以後の社会政策は資本撒布を恒久的なものと主張したが、それが資本家のPrivateIndustryへの挑戦とみなされ、PublicService,NationalIndustry.に限られるべきものとされて、いやおうなしに、NationalDefence.に向けられざるを得なくなった。そして世界情勢が、それを可能にしたのである。同時にニュー・ディール政策は対外本位に転換。"QuarantineSpeech"(隔離演説)以後がそれで、主体はHullからRooseveltに移った。1940年の予算教書は、外政の干渉政策と内政の国防充実政策の合体で、41年6月の歳計軍事支出は62億ドル(予算の62%で、失業救済費の6倍)だった。
従来あくまで平時産業の付加として賄われてきた軍需産業は、開戦とともに反枢軸(日 独伊)の兵器廠として大転換した。経済界の要人を大量に軍需産業指導に登用した積極性
がスムーズな転換を可能にした。その中で特徴的なことは、①国家資本による軍需工業の比率が増大したことは、戦後、国家の経済への発言権を増大する。②民需工業の戦後の再転換は大問題。③産業人の登用も政府の産業界への圧力を増す。④飛躍的に増大した生産力の戦後の処理はどうなるか。これに付随した現象で、戦時中保守派は自信を回復、ウオレスにかわりステッティニアス、スタンリーにかわりハリマンの保守派が登場した。彼らはニュー・ディール政策への復帰を阻止するため、新たに世界市場を求め、従来の一般世論の干渉主義と合致して今の外交における進歩派の理想主義と混在することになるとした。この報告などは、その後の冷戦に突入する米国の国内的条件を見事に浮き彫りにしており、長く私の分析の基礎となった
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と思い起こす。
6増田氏の「中国宗教」は「中国では仏教の因果論、他界説が理解されず、実体は道、儒、仏一体としうる。道7,仏2,儒1の割合の混和だ。
大成教、斉教、紅槍会などはそれだ。
漢民族の宗教の根本原理は「現実的人間主義、商取引主義」の二つ。その神は人と同格。天地、日月、山海、風雪。それらすべてが共通の性格を持つ。
①発祥月日、姓名を持つ。
②神の代理、出張も信者の需要に応じる。
③持斎ではない神は配偶者(第一夫人、第二夫人など)を持つ。室(寝台)も別に、子もある。伝統的な神には対偶、太陽に太陰。
④供侍、従者があり、神務を司る従者、例えば朝陽門外の東岳大帝は七十二人と、歴史的伝統的なもの、たとえば天上聖母の二人など。
⑤無数の部下を持つ。神将、神兵。
⑥情意を持ち、欠点もある。姦淫、盗賊あり。
⑦金銀を持つ。参詣者が尊前で金紙を焼く(焼金)。祖先を祭るには銀紙。神と霊との差。金紙、銀紙が紙の通貨。
⑧神自体が法律生活を持ち、契約を結ぶ。土地神が山を買い、福徳精神の公山とする。神と人との取引関係。同格に立って取引をする。
(a)有求必慮。額に応じて参詣者の無限の要求に応ず。南方では無縁仏を祀るものに限られる(有慮公)。
(b)算盤を飾る。大衆としては神と人とを差別するのは霊験あるのみ。信仰は霊験のまにまに動く。それが包容性。
迷信。(a)好を呪誼する宗教。(b)荒唐の予言で社会不安を起こすもの。王爺廟など。
正信。(a)個人的にも社会的にも信仰の効果を与うべきもの。(b)科学に耐うべきもの。
神を神像そのもの(物質)と見るのは迷信。神像の差で霊験を考える。代理の差もある。神を人間と考え、知、情、意を考えるのも迷信。』
会の出席者は毎回二、三十人に上った。今考えて必ずしも、いわゆる進歩派に限らず、広く学問を求める人が集まっていたと思う。研究会としては、理想的な運営であったと高く評価している。その後の大学や民間研究団体などがすべてイデオロギー、専門領域、学閥、就職活動などで人を選別する傾向に走り、多様な思考方法をもった人相互の意見交換が行われなくなってしまったのは、自分自身を含めて大きな間違いをおかしたと反省させられる。
竹田先生は時々現れただけだったが、報告者以外にも東京商大で国際法の大平善悟ら同大学関係の方数人。鶴見和子、俊輔氏姉弟の顔もここではじめて見た。米軍が厳しい出版物、郵便の検閲をしていることも和子氏の発言で初めて聞いた。また最近になって
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中国教育学史の斎藤秋男も中国から復員した46年秋以降には私と入れ違いに参加していたとを聞き互いに奇縁を感じた。
その記憶では、野原四郎、幼方直吉らもいたらしい。
ここでは報告のあとに、雑談でさまざまな意見交換があり、戦争に関してアジア諸国の植民地解放が進むが、それが日本の戦争の成果とされては混乱が起きるなどの意見も聞いた。『新中国』、『思想の科学』などの新雑誌も、関係者が持ち込んで購入する機会となった。ここで『日華叢書』として蒋介石、波多野乾一訳『中国の命運』(1946)が出版され、感激を覚えつつ読んだ。毛沢東、同会訳編(やはり解題は波多野)『同撰集上』(1947)も出た。まだ中国で出版が出来ない時で、「章乃器氏等に与う」「持久戦論」などを含み、極め早い紹介だったが、読んだ記憶は無い。この研究会から多くを学んだが、父の死が迫ったことで、縁が切れてしまった。
こんなレベルの高い研究会が当時ささやかに持たれていたことは特筆に値するだろう。
第三章 社会へ1947
§8 学校を出る
中学時代から母方の祖父杉村溶(1898年の朝鮮閲妃殺害事件の時大使館一等書記官で事件の計画にたずさわったとみられる。1906年ブラジル弁理公使の時任地で病死)、伯父杉村陽太郎(1927-33年国際聯盟事務局次長兼政治部長、その後イタリアに次ぐフランス大使の時ガンを発病、帰国後死去)のあとを継ぐ外交官の道を志望していた私は敗戦により目標を失った。戦後の食糧難とインフレの窮迫期で、ヤミ商売を除けば食べてゆける仕事はなく、求職は選び放題だが、どの産業、どの企業にも未来を感じられない時代だった。
特に軍隊で結核を患って、その再発を恐れる身体で殺人的な交通マヒの中、毎日満員電車で通勤する自信はなかった。
東大法学部だったから当然友人が次々官庁に入った。また時代の指針と見られた出版社に入ってゆく人もいた。しかし母が結核で倒れた家庭で、三人の兄は就職して忙しく、私が専ら家族の食事、洗濯、買い物などの雑事を引き受けていたから多忙な日を送り、自分の終生の道をどこに求めるか悩んでいた。
戦時中の外務省で役所勤めにはこりた。当時「(教師に)でもなろうか、(教師に)しかなれない、でもしか教師」という自嘲、ひやかしの言葉が流行っていた。
未来にかける教師は食えないので希望者が少なかったからだ。学徒出陣の時に仮卒業を拒否したので、残した七科目をとらなければいけないと誤解していたことも頭痛の種だった。
一一九四六年末の東京帝国大学新聞で新設の社会科学研究所の助手募集の公示を見つた。
未だ設置の場所もきまらず、航空研究所の跡地(渋谷区駒場の現東大教養学部の裏にあ り、当時占領軍指令で廃止がきまっていた。現東大宇宙科学研究所)に置かれるかと予想されていた。
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それなら自宅から徒歩三十分以内で通勤できる場所であり、研究機関なら勤務にも比較的余裕がありそうで体力的に耐えらるかと思えた。調査は外務省でも多少経験し、やれるかも知れない。当たって見ようと、とにかく法学部事務室に書類を求めに行った。するとまず戦時の仮卒業の条件で単位を取らずに卒業が出来ることが分かった。幸
い「学徒出陣」前の学業成績は良くて、応募の資格は十分だ。これなら法学部助手にもなれるから、そちらを志願すれば良いとすすめられた。確認しなかったが、その人は多分南原教授の弟子の一人で後に中大教授となった小松春雄氏だっただろう。
だが私の東大法学部教授の学識、才能への信仰は未だ強烈だったので、戦時教育で未熟のまま「仮卒業」する身には法学部などとても近寄り難かった。
一生かけて調査研究の下働きをやっていれば、何か仕事ができるかも知れない。またその中に戦後急速に脚光をあびたジャーナリズムを通して、民衆啓蒙の仕事も開けるか。戦時中、米国の実情を知らずに開戦した日本の軍人、政治家、官僚。
開戦後も戦争政策に国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた。これらの原因をつかむべく、日本の政治の実情を研究したいとの念願が強く、高度の理論教育に専念する法学部より社会科学研究所の方が目標に近いと思えた。
初めに既に法学部で岡義武先生(日本政治史)の助手になっていた一高の同級生横田地弘君(後学習院大教授、欧州政治史)に話を聞きに行ったら、社研所員でやはり一高文丙の先輩、日本政治史の林茂先生を紹介された。
訪ねると今度は矢内原忠雄所長に会いなさいとの勧め。
戦時に多少の社会経験を積んで度胸が付いた私は平気で経済学部の二階の日当たりのよい研究室に突然訪問した。脱いだ外套を手にかかえ、先生の机の前に直立して応募の心得を質問した。
先生は笑顔で気さくに話に応じてくださって、その態度にすっかり嬉しくなり、次第に一高で先生と同級だった伯父杉村英三郎(陽太郎の弟)のこと、自分の兄たちが神戸一中で先輩としての先生の講演を聞き騒いで叱られた話など話し込んでしまった。
先生は論文を書く時は引用文献を明確に示すことを厳守するようにという点だけ注意された。
「政治学について」
年末から生まれて初めて与えられた課題なしに自分でテーマを決める論文というものを書くために東大図書館に通った。
目標は政治研究なのだが、どこから手をつけてよいのか分からない。東大法学部の『国家学会雑誌』のバックナンバーをまず手掛かりに次々政治学に関係のありそうな文献を読み漁った。
しかし探しても探しても私の思うような日本政治を分析した業績は見つからない。当時すでに論壇の主流となったマルクス主義文献の参照は不可欠であろうと考えたが、探し方が悪かったのか、未だ戦時中の閲覧禁止処分のカードの回復が十分でなかったのか見当たらず、かろうじて三木清や戸坂潤の論文を多少閲覧し、佐々弘雄の論文にいくらかそれ
らしい文献が引用されているのを見つけ、それを参照することが精一杯だった。
当時の
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ポケット日記に記された読書メモではその頃やっと堺利彦訳「共産党宣言」,エンゲルス 「空想的及科学的社会主義」,マックス・ウエーバー「職業としての学問」,「社会科学と価値判断の諸問題」,タルド「社会法則」,リッケルト「文化科学と自然科学」,蝋山政道「政治学の任務と対象」,大山郁夫「政治の社会的基礎」,堀豊彦「中世紀の政治学」,大類伸「概論
歴史学」などを読んだにすぎない。
戦時の学生時代から遡ってみても、政治学関係といえそうなものは、『アメリカの外交政策』アンドレ・モーロア、『フランス破れたり』滝沢敬一、『第四仏蘭西通信』芦田均、『日本近代外交史』ドーソン、『政治の彼方に』G.F.ハドソン、『世界政治と東亜』H.M.ヴァイナック、『東亜近世史』金井章次、『満蒙行政項談』『ル
ーズベルト政権十年史』『井上馨伝』『伊藤博文伝』『懐往事談』『日本文化史序説』小松緑、『錦旗を続りて』『法哲学 』『大隈伯昔日談』『実定法秩序論』『ビスマルク書簡集』くらいなものであった。
馬鹿々々しい大串兎代夫『国家学研究』などという代物も高文に必要などと聞いて眼をとおしていたのはいまいましい。
そのあげく特に蝋山を読んで過去の所謂政治学なるものは、まるで私の構想するものとかけはなれていて、現実離れした方法論や政治概念論の抽象的論争に終始していたことが段々分かってきた。
最も実践的だった大山郁夫にしても、とても日本の現実政治を分析しているとは思えなかった。結局論文は「政治学について―その対象と方法の一考察」と題して、その過去の状況を批判的に描きつつ、政治の概念とは何かを考察し、最も通説的と考えられる概念を「平均的概念(矢内原さんに「平均」には統計学の厳密な定義があると批判を受けて後に中間的と改めた)」と名付けて示した400字26枚、参照文献と注が10枚ほどの小論文をまとめただけに終わった。
ともかく約三ヶ月たらずの苦闘で私は初めて、当初自分が考えもしていなかった論旨が一篇にまとまるという、未知の創造の喜びを感じる満足だけは味わった。
この論文はその後発表の機会を得ず、1976年になってやっと専修法学論集』22号に書いた「政治学の課題」という論文の附論(p。68~85)として発表した。
その一部を抄録しておこう(抄録なので注は省略する)。
「一序」では「敗戦後の今日、社会科学の必要くらい痛切な要求はない。もとより学問は必要のみに奉仕するものではなく、かかる傾向はむしろ学問を邪道に導くものであることはいうまでもない。が、いかなる自立的の学問でもその始原的要求は学問のための学問ではなく、むしろ人生のための学問であったことは疑えないものだと思う。……」「我が国の社会科学の中でも
一一・政治学のふるわぬことはいちじるしいものがあるように考え られる。おこがましいことをいう資格はないが、これは近時の弾圧に基くばかりではなく、政治学自身の混乱にも基くものと考える。すなわち本来実証的なるべき政治学が、古来の悪弊たる形而上学的独断的教説にまどわされていた形があるので
はなかろうか。もとより学問の困難と自己の無力とは十分知るが、あくまで事実に即し、事実に学んで政治学を考えてみたいと思う。
以下はその出発にあ
一51一
たっての心おぼえである。」とした。
「二 政治概念の不明瞭」では「およそ学問的に事象を認識するには、その対象が定まっていなければならない。植物学を研究しようとして犬や猫をとらえるものはいない
--ところが
一政治学も一応は対象としての政治の概念をもっているといえるであろうか。植物の概念が植物学に始めて志す者にとって、すなわち一般人にとって一定しているようには、政治の概念が一般人にとって一定しているとはいえない。それは個々の植物の実在が我々にとって顕著だということから、それを通じて植物一般の概念をも常識的にも比較的容易に認められるのに反し、政治学の対象は政治一般はいうまでもなく、個々の政治事象それ自身がすでに永続性をもたない、単なる事実現象の経過にすぎないので、常識的な―非組織的な―認識は困難だという点に基くように思われる」として、蝋山政道教授が「政治学の最初になすべき仕事は『政治概念の決定』であるとし、それは『一口に言へば或る現象をして政治現象たらしむる或るものに外ならぬ』とするが、その方法は「実証的であり得るかどうか疑わしい」と疑問を投げ、「先ず(植物におけるような)常識的な概念に代わる意味で厳密に実証的とはいえないにしても、なるべく事実に即した概念を規定することを政治学の最初の任務と考えたい」とリッケルトの「科学はいわば我々の協力なしに始められた現実の概念化の一種の継続及び意識的完成と見倣され得るのである。」という観察にならって「常識的と科学的の中間に位するものもあり得るだろう」とした。
「三 政治の中間的概念」では各種の政治事象を概観し、まず選挙は政府の担当者の地位をめぐる諸党派の闘争だとし、「これはそのまま政治の特質を示すと見る」。そしてその闘争する党派の代表である政党は、「何れも我々のいとなむ社会生活の状態に関係した」理念を明示的、或いは黙示的に掲げ、その実現につとめるととらえる。そして政党員は何れも自党の目的理念に共通の利害を持っものである。行政、司法はこれらの政党の多数をしめるものの支持を得た法を大体において中立的な立場を以て実現してゆく。この意味で行政は政治の重要な部分であるが、司法はみだりに法の逸脱変更をゆるさず、独立している。
次いで外交、軍事・戦争や、予算編成にふれ、政府の作用は何れも国民の生活に大きな関係を持ち、何等かの理想を実現してゆく作用だとした。また国家以外の地方自治団体、力トリック教会、学生自治組織、労働組合、政党自体の内部などにも政治は認められる。
これらでは対立が顕著ではなく、強制の契機が弱いと認められる。それら全体を通じて政治と認められる現象の特色に共通するものは、
第一に対立者間の現象。第二にそれらの人々が社会生活状態に関するさまざまの理想を持ち、その実現にも利害関係をもつ点である。第三にその目的実現の為に反対者と闘争する行為を伴う。
目的実現に有利な地位・手段の獲得の争い、さらにその手段などを用いて反対者を押さえて自己の目的実現につとめる場合の摩擦である。第四にその手段は強制で、物理的、心理的等の力
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を以て行われる。かくて「政治は一つの社会生活状態に関する理想の実現に共通の利害関係をもつ多数の個人又は団体が、その実現のために協力して反対者と闘争し、自己の理想とする目的を強制的手段を用いて実現し、その成果を安定的ならしめようとする行為」であるとした。
「四中間的概念の検討」では、この中間概念を諸学者のとるところと比較する。まず機能主義をとる蝋山は「人間と人間の結合又は協力関係をより高き秩序に組織化する直接或いは間接の行為を言ふ」とし、社会的行為、強制的行為、個人若くは階級の利益を伴ふことがあるとしている。「より高き」という価値判断を伴う点と「階級」を含む点が異な
るが大差はないと考える。
次に社会学的政治学を企図する大山郁夫はその具体的内容を離れては何等の意義をなさないもの」として、特に概念構成を試みないが、「徹頭徹尾一の集団現象」とし、「諸社会群間に於て力の優越」―それは「権力」と呼ばれる―の獲得を目標とする社会的闘争に関連する諸事象だとし、その闘争は「集団としての自己保存及び自己拡大の衝動に基づく経済的共同利害関係に促されて発動する。被支配階級に対する経済的搾取を最も巧妙に―最も『賢明』に―最も『徳道的(ママ)』に行ふ技術だなどと説明する。ここでは集団の衝動を認める点と「支配・被支配間の経済的搾取」と端的に規定した点が問題と考える。
ドイ ツ西南学派の価値関係的普遍化科学の一種として政治学を認める戸沢鉄彦は「一つ又は幾つかの意思の主体が他の一つ又は幾つかの主体を適宜に動かして何か所期の目的を実現する機能」とする。こんな抽象的な概念で政治現象のみを示すことになるかどうか疑問とされると批判している。
最後に現象学的法哲学を求める尾高朝雄は「単一社会団体の内部現象」で「一定の対立を予想しつつ、これを克服して進もうとするところの目的活動」で、「実力の行使によって対立の克服を計るところの目的活動」とする。ここでも目的の内容が規定されていないから株式会社の株主総会等の行為もあてはまるのではないかと考えられる。また国際政治にはあてはまらない。さらに根本規範内とそれをも破砕する闘争の二つを区別し、後者は国家の同一性を中断するもので、単なる力だとする。これらは団体実在の根拠等に関し、大きな問題を投げる。かくてここに検討を試みた概念には一応大きな矛盾はなく、所期の目的には十分たえうるものであるとした。
「五政治学の認識方法」では方法論を検討する。まず政治学は社会現象を対象とする。従ってその認識は客観的実在に即したものでなければならぬ。ただその為には思想の自由が保証されねばならないが、その制約はほとんどどの国にも絶えないようにさえ考えられることと考えあわせると、そこに政治学が永遠に免れ難い重荷があるように思う。次に概念の構成をリッケルトによって、「同質的連続の数学的概念か、異質的不連続の概念かに変形することによって
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のみ合理的に把握出来る」と考え、自然現象と歴史現象とに対応して一般化的方法と個性化的方法を区別する。
歴史的科学又は文化科学は個性化的方法に限られるようだが、その中間として一般化的に構成された群概念の個性的特性などが問題になり得るとする。
タルドは科学は必ず「反復」され、又 は無限に「反復」され得るものと考えられた個体に関する。分化も自然から不特定多数を以てひき出され得る一つの原型として特徴づけ得るので、個人の特典の如き個性は科学の対象となり得ぬ。また科学は実在に個有な「対立」を探究して創造せねばならない。さらに創造的な共同生産の関係である諸現象の「順応」の探究へ導くという。
この「反復」は一般化的概念構成を、「対立」と「順応」は個性化的概念構成を意味すると考えられ、ここでも二方法の併用が考えられる。政治学はそのどちらをとるべきか。
リッケルトを徹底すれば、政治学と政治史の区別がなくなる。歴史と自然現象との区別を無視する史的唯物論にたてば純粋に一般化的法則科学として成立し得る。大山の立場はこれである。
しかし我々は未だ個人の歴史形成の力を全く無視し得る証明を与えられたとは思わぬ。
そこで併用の根拠としてマックス・ウェーバー(現実態の文化意義による理解と、一般化的法則による類概念の分析の併用)、蝋山(社会科学の論理的目的たる文化価値は手段価値であるから、それに関係づけるべき実現手段の客観的存在の可能を証明せねばならぬ)、大類伸(政治史は因果関係による個別化的傾向をもち、文化史は価値による一般化的傾向を有して必ずしも或る事実の経過の一切を考察の対象としない)などを参照しつつ、「政
治学は個性化的概念構成の方法を主とし、歴史学よりは個物を離れて一般化的概念構成を補助手段として群・集団の個性をも求めつつ研究を進めるべきものと考えられる」とし、その際ウェーバーの理想類型は大いに学ばるべきものとした。
「六政治学の領域」では、まず社会学的研究、特に政治的結合関係、心理的要素など、また集団に固有の衝動があるか、団体は単一性をもつ実在と認め得るかなどを研究すべきだ。次に闘争関係では戦争論も含まれる。第三に目的実現の過程の研究では、立法や、行政による法の運用、宣伝的声明など、戸沢のいう「指導・支配・操縦」の検討。
さらに国家以外の政治における強制手段、摩擦克服の手段。最後に当為としてではなく、存在としての政治の目的論、目的の起源の検討、たとえば何故重商主義の産業家たちは自由放任の主張を産んだか、何故明治維新は天皇政治と結びついたか等である。その研究は唯物史観の環境による意識の規定の正しいか否かの証明ともなるであろう。この点に於いて先に述べた文化史的方法が大いに活用され得ると思う」と今後研究すべき諸分野をあげて終わっている。
いたって簡単ではあるが、未だ戦後のアメリカ政治学は全く知られていない時に、政治社会学、Conflict論、戦争研究、政治過程論 、プロパガンダ論など当時の政治学では未知の分野をひろく掲げたことは、評価される点ではないかと思う。少なくとも矢部貞治教授の政治学には
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こうした観点は出てこなかった。さらにその後数ヵ月して『人文』第2号に丸山真男先生が「科学としての政治学」と題して過去の日本の政治学の不毛を論ずる趣旨の論文を発表された。私も幼稚ながらも同じ問題を独立に取り上げられたという思いを抱いて大きな励ましを受けたし、そこでも上記のような具体的内容はあげられなかったので
自信を得た。
当時どうして入手したのか覚えていないが、多分国家公務員用の昭和二十年十二月、印刷局発行の「職員手帖」と題したポケットノー トを使っていた。未だ新憲法以前だとはいえ、占領下数カ月たっているのに、ノートの初めに先ず「教育勅語」「戊申詔書」「国民精神作興二関スル詔書」「太平洋戦争終結二関スル詔書」(この詔書には標題がなく、新聞では戦争終結の大詔と書かれたのだが、これだけは占領軍の用語に従って「太平洋戦争」と付け加えられている。
そこだけは詔書とその上の標題と活字が違い、印刷がずれているので、占領軍の検閲 によって標題をあらためたことを推察させる)「大日本帝国憲法」「皇室典範」が列記され、さらに皇室として朝鮮王公族まで氏名、出生日、住所を列記し、なお御歴代天皇即位年代及年号表、国旗、公式令、内閣官制、官吏服務規律、宮中席次、奏任、判任文官年俸表、服忌
表、郵便電信規則概要、度量衡表、国税納期月別一覧表、日歩年利対照表、複利表の六十頁近く付録が付された驚くべき旧体制のしろものである。占領下でも旧帝国官僚たちがどんなに天皇制的官吏統制維持に心を砕いていたかを知らされる。[よく調べると、表紙に三菱のマークが浮き彫りにされており、叔父の会社で、前年の公務員用ノートの残品を表紙だけかえて作ったものをもらったものと判定した。ここにも戦後の貧しさが分る]。
そのノートを私は一年おくれの日付で使っていた。そこに論文を書き終えた日から、時々メモを記している。それによると、「三月十五日5時半清書終わる。400字24枚。注500字7枚。正午出す。志望者3人。」とある。一応安心したようだ。17日には「高木、Beard,Siegfriedのアメリカ研究の如きが真の政治学の型。政治運動と為政」と記している。
論文の執筆中に、社会では、労働者運動の占領政策との最初の正面衝突だった二・一ストが計画されていた。あまり大学に出席しなかった一学生の身で、当時いち早く起こっていた学生運動にも関与したことがなく、労働運動については全く外部から新聞・ラジオで知っていただけだったが、ゼネストには、直接の利益はないが同様に貧困と食糧不足
に悩む時とて何となく共感を覚えていた。その前夜、突然あの伊井弥四郎議長の涙なが らのスト中止のラジオ放送を聞いた。
背後でMPにピストルを突きつけられての放送とは分からなかったものの、占領軍の強制があったことはよく分かり、何とか中止命令に批判や反論は出来ないのかと歯がゆく感じた。前掲の安倍先生の論説のように「占領・民主化」とは何であるのかと反米的な疑問を深めた。
この日にたまたま社会科学研究所では開所記念講演会を開く予定で、年末に矢内原先生に、是非聞きに来たまえと勧められていた。当日ストは中止になったが事後の興奮に落ち着かず、
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行かなかった。南原繁東大総長、矢内原所長の挨拶と鈴木鴻一郎「日本現下の経済問題 」、鵜飼信成「アメリカ法学におけるリアリズムとラショナリズム」の二つの講演が行われ
たが法文系二十五番教室も停電で暗く聴衆は僅かだったということだった。これが社研の公的活動の始まりだったので、今もこの日を開所記念日としている。
三月二十二日に面接があった。朝二時間半ほど待たされ、十二時頃から三十分くらいの面接試問があった。まだ固有の施設の無い社研なので、経済学部の矢内原研究室に、矢内原、山之内、林さんら六人と記録しているから、他に嘉治真三(アメリカ経済地理)、内田力蔵(アメリカ法)、有泉亨(民法)らの諸先生が狭いソファーにすしづめに座っていたのであろう。
所長には君の論文は文献の引用がしっかり出来ているとまずほめられた(後に聞くと前の志願者の論文が出典抜きで、学生によくある劉切まがいのものだったこととの対比であったようだ)。だが論文中に「政治学の平均的概念」という言葉があるが、平均は統計学の厳密な定義にあわないから不適切だと批判された(それは後に「中間的」と改めた。今ならworkingconcept二作業概念とでもいうべきところだろう)。また大学の成績表で政治学の単位を取っていないことが分かり、政治学を志望するのにと呆れられた。そこで、矢部教授の講義に不満で、受験に足踏みをしたと答えると、むしろ好意を持たれた。ほかにあまり質問も出なかったが、有泉さんが唐突に「君は講座派ですか」と聞いた。論文の末尾で「何故明治維新は天皇政治と結びついたか
…一その研究は唯物史観の環境による意識の規定の正しいか否かの証明ともなるであろう」と書いたところから出たものだったかもしれない。しかしこれは正に思想調査にもひとしく、後であれば、反撃したかもしれないが、当時「労農派」「講座派」の意味も対立も全く知らなかったから、返答のしようもなかった。この質問は社研が発足間もないのに、すでに両派の対立が人事に反映しかけていたことを示したのだろう。論文の中で、私が政治学の研究領域として立法に関する研究を法学が行わなっていないから政治学で取り扱うことが必要だと述べた点で、末弘先生に立法学を教えられたのかと内田さんに聞かれた。当時内田さんがその研究を手がけていたためだっただろう。
48年始めに発行された『社会科学研究』第1号に内田さんの「ベンタムの立法理論研究への序説」が発表されている。山之内さんは上述したように外務省勤務の時に隣の部屋に見掛けていた(昭和9年から21年9月まで外務省嘱託)。
また日華学芸懇話会ではその報告を聞き批判的印象を抱いた。山之内さんの側には記憶は無かったはずだが、私の学歴を見て自分も麻布中学の卒業(1913年,私と26年違う)だ
と名乗られた。
私もその事は知らなかった。矢内原さんは一高で私の伯父と同級であり、また神戸一 中で私の兄三人の先輩にあたったので、そんな話が続いた。終わり頃に誰かに将来はどうするかと聞かれ、私には東大教授になるほどの能力は無いと思うので、新聞雑誌などで啓蒙的な仕事を見つけたいと答えて和やかに面接が終った。ともかく競争があるとはつゆ知らず楽天的な私は、論
一56一
文をあまり批判されなかったのだからもう採用が決まったのだと一人決めしていた。客観的に見て審査の結果は、論文の評価、学部の成績、学閥などの諸要素の何がものをいったのか、不明である。矢内原さんの『日記』にその日助手試験。応募者五人。私と下山瑛二を採用と記されている。
ノートに25日午後一時に山之内さんから「最高点で採用」と聞かされたとある。翌々日は事務室から呼び出されて、兵役関係の質問を受けた。現役将校だったときは公職追放に該当するからだった。そして林先生と岡義武先生の研究室で3、4時間話したとある。29日に旅行に出たのだが、4月7日朝旅行から帰ると採用決定の郵便が来ていた。えっ、未だ正式には決まっていなかったのかというのが第一印象。次いでその日所員会が開催されるということで、あわてて初の出勤をしたわけだった。
法学部、経済学部では助手は教授会に出席出来ず、法学部では助教授すら机につかず壁際に着席して発言ができない慣習だったと灰聞したにもかかわらず、社研は新設の意気に燃えて、教授会にあたる所員会に助手の出席、発言、投票を最初から認めた。人事に関してだけは初め投票権だけなく、後には「人事所員会」が助手を除いて開かれることになった(その際助手はpermanentstaffではないからという理由が示されたので、おや?と思った記憶がある)。こちらは助手のままでも、定年までいられる積もりだった。所員一般の考えでは学部と全く同じに二、三年で研究・教育者を養成して他の大学などに送り出す伝統に従うものときめてかかっていたようだ。だが矢内原さんの意向で助手は教授個人に所属するのでは無く、研究所全体に属するとして、徒弟的師弟関係の廃止を宣言された。ところが各教授は自分の助手を持ちたがっており、私は山之内、鵜飼、林、高橋勇治さんな
ど数人の教授、助教授から所外の人に私の助手ですと紹介され、あれ?と思ったことがある。実際就職の斡旋などの事態に直面すると、研究所全体の助手という理想では処理がつかない点もあった。またすでに初代の助手には所長自身の弟子にあたる松村憲一、大河内ゼミから塩田庄兵衛氏が採用されており、私の次にもやはり所長の弟子というべき松本達郎氏、故藤井洋、川田侃氏など、所長に縁故ある人がとられる傾向があった。惜しくもこの原則は長く続かず、二年後には採用前からゼミなどで教授の指導を受けた人が選抜されるようになり、個人助手の傾向は抜きがたいものとなった。
日記によるとこの出勤第一日のこの日「大した話はない」としつつ、「最初に山之内さんと矢内原さんの激論にぶつかり、一寸考えさせられた。『公務だから尊重すべきだ。』とか『総長の都合で』とか『雑誌社の座談会位だったら』とかいう態度にはやはり官尊的なものがありはしないか。根本は「社会科学のために」「大衆教育のために」あるのではないだろうか。しかも矢内原さんは実に清らかな性格の持ち主のように思われるのである。
その笑顔の可愛さはそれを示すものだ。」と批評している。
「その後の懇親会〔それは何と経済学部の屋上で周りのお花見をしたのだ〕で大塚久雄先生
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が僕を覚えていて下さったことは何より嬉しかった。先生を心から慕うものだから。今後公私ともに導いて頂けるように祈ってやまぬ。その傘一本で鴨川の橋から飛び下りた話。ラグビーであごをぬいた話は先生はこんな朗らかな性格の方かと驚かされるほどだった。
その他内田先生、有泉先生、末延三次先生、野田良之先生何れも心から好きになれる方。林先生はもとより良き師。全くうれしくなった。
助手仲間の松村憲一さんは昭和十三年の高知高校、塩田庄兵衛さんは十八年経済卒業、浪速高校の人。共に採用された下山瑛二君(浦和高)も酒も煙草ものめぬ純情をもった男
らしいのでうれしい。
総じてはしつこい人はいないようだ。
遠藤湘吉、大内力、鈴木鴻一郎さんは(遠くにいたので)よく分からない。」とある(末 延、野田、大塚先生は何れも法学部、経済学部からの併任教授であった。いわば新設の左翼的に走るおそれのある研究所へのお目付け役だったのだろう。他に大河内一男、岡義武、楊井克己、辻清明の諸先生が日を追って追加、あるいは交替して併任になられた)。
初めて公的な所員会に出席して早々にこのような激論 にぶつかり、戸惑ったに違いないが、それにしても日記とはいえ新米にしては戦後の若者はなかなかずけずけと大先輩
を批判する眼も鋭かったものだ。
直情径行で左翼急進派の山之内さんが、所員が公務を休んでジャーナリズムに登場することを批判し、所長が柔軟に考えるようになだめた対話だったと思う。山之内さんの、左翼につつきものの建前をふりかざしての批判の仕方に違和感を感じたようだ。
§9 戦後の旅行事情・原爆後の復旧
その社研の面接試験の直後、私は大旅行を計画した。当時交通機関の崩壊で旅行が極めて困難であったにもかかわらず、これから世界の政治を考え、政治学を研究するには、まずヒロシマの原爆被害を直接観察しておくことが不可欠だと考えた。家計も苦しかったのに母が支持してくれた。
私達一家は14年前まで神戸東郊の御影町に約12年居住した。小学校5年を終えて東京に転校した後その事実上の故郷を訪れたことはなかった。戦後経済界追放にあった母の兄も東京を去り大阪で勤務するようになって数年経っていたから、母にはその消息をたしかめさせたい気持ちもあったのであろう。窮迫の時代にのんきな話のようだが、この当時はよくぞ戦争を生き延びたという感じが強く、親族や旧友の安否を確かめたり、自分の生を回顧し今後の生き方を真剣に考えたいとの思いが強かったのである。
3月29日行動を開始した。旅行にはきびしい制限があった当時のこと、切符は各所のツーリストビューローなどを4時起きでかけまわっても入手できなかったが、不思議なことにその当日かぎりの大阪までの切符を新宿駅交番で手に入れた。そこでその先はまたゆきあたりばったりとして急遽出発することとし、あわてて予定のカボチャやジャガイモの種まき、植えつけなどを片付け、夜は家族に就職祝いをしてもらい10時半に夜行列車に乗った。といっても電灯もつかない真暗闇の有蓋貨車にすしずめ。身体
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がねじれても身じろぎも出来ぬ混み方でやっと床に座り込んだが足もしびれる状態だった。真夜中に一回だけ浜松あたりで用便に停車して外に出ただけだった。後にナチスのユダヤ人迫害のルポで彼らの輸送列車の状況を読んだとき何度も思い出した。しかしこれ
は兵隊の監視の無い自由な旅行だった。ほとんど停車もせず岡崎あたりで明るくなり、名古屋に8時、岐阜では「ぶち上げ」といわれていたヤミで運搬されるいもを警察が摘発して線路ぎわに山と積み上げているのを見て暗然とした。統制の功罪二面とノートに記している。京都午後1時で初めて朝食。少し腹痛をおこした。2時やっと大阪に着く。今の新幹線とくらべると嘘みたいだ。
長年鴻池信託に勤務し五十半ばで追放されて個人で堂島で家具店を営んでいた伯父一家と再会。大阪人になった伯父の町人的、資本主義的な話に目を開かれる。家具は豊富に在庫し、元の会社関係の注文を基本にしていたが、いろいろの庶民の苦労を味わっていた。
なかでも巡査のたかりに憤慨させられるらしい。翌日は父の友人二人原田立之佑、杉本信一両氏や海軍兵学校出のパイロット(少佐)で無事生き残った親友を訪ねた。今貿易庁
に勤める杉本さんが広島までの切符を入手してくれることになった。三日目も御影を歩 き回ったり、旧居や昔の八百屋さん、女医さんを訪れ、母校の小学校の焼け跡を見て懐かしさが胸にあふれた。
原田さんからもらった切符で甲子園の選抜野球までのぞいたが、見物の少年から「お っさん、邪魔や」と呼び掛けられて、自分の変貌ぶりを思い知らされ愕然とした。あちこちでであう人々の家庭では、一様に父親と息子・娘との世界観の食い違い、はげしい葛藤をまざまざと感じさせられ身につまされた。死んだ自分の父親の場合も多かれ少なかれ同じだった。戦後の見えない悲劇がそこにあった。四日目も広島行の切符が入手できたが、翌々日なのでまたまた小学校の友人宅をたずねて泊めてもらった。
やっと六日目9時に出発、12時まではやはり貨車に座ったが岡山からやっと客車に乗れた。午後5時今度は三原に下車、昔のお手伝いさんの家に泊めてもらう。篤農でいろいろ作物を見せてもらった。自分で畑をいじっているのでその技術の高さが良く分かった。
七日目やっと11時広島着、中学の親友に案内されて午後4時まであいにくの強風のなか町を歩く。その後一人になって広島城を初めとして市内を飛び回り、深刻な印象を受けた。翌日7時半にはもう広島を発ち夕方5時三宮に着いた。そのまま港、元町を歩きまわり懐かしいセントラルベーカリーに入ったりしてまた堂島に戻り、11時ころまで話し込んだ。九日目午後2時に大阪を発ち、帰りは客車に乗れたようだ。それでも窓ガラスはほとんど破れ、ベニヤ板張り。乗降口は満員なので、新たな乗客は窓から乗り込むのが普通。車内の混み方はいうまでもなく超満員。両側の座席に三人づつ座り、向き合った客と客
の膝の間に二人くらい立っ。さらに網棚の上に横に寝る者。座席の背もたれの板の」二に下駄の歯をかみあわせて乗せ、そこに身軽に上がって尻をちょんと下して座席の客の頭の後ろに横座りする者。世馴れない私は荘然とした。その中でこれら空中の旅人たちは大声で一般の乗客を尻目に、互いにすさまじい言葉で
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遠くから話し合う。これが当時大盛況だったヤミ屋(米などヤミ食糧の運び屋)の日常的 な旅行スタイルだったそうである。翌朝7時ころ帰宅。直ちに前記の社研所員会にちょっと遅刻して出た。そして午餐会。
さて広島は被爆から一年半を経過していたが目抜きの通りの両側には、主として飲み屋のバラックが立ち並び特に米兵めあてのパンパン(当時インドネシア語の女の読りとかいうこの言葉が売春婦の呼び名となっていた)宿がやたら目についた。しかもその裏は全く手つかずの瓦礫の山であった。これは1972年に那覇市を訪れた時、目抜きの平和通りの直ぐ裏が瓦礫の山のままになっていて、驚いたことがあったから、一年半後では当然のことだっただろう。有名な福屋デパートの焼けビルに上って見ると"Kilroywashere!"と米兵が落書きした黒々とした文字が屋上の壁面を埋めて、何とも言えぬ哀愁を感じさせた。Kilroyとはてっきり悪魔をいみするのだろうなどと勝手に解釈していた。
これは`ASupplementtotheOxfordEnglishDictionary.Vol.2,1976.'によれば、「第二次大戦中米兵が世界中で落書きした、神秘的な人名である。」その意味は不明のようだが、戦時中ベスレヘム製鋼会社のドックで戦艦のタンクや二重底などの検査をしていたKilroy氏が検査官への証拠のためにそう書いたのが急速に…般に伝播したのだとの説もそこに記されている。私はすでに東京の神宮外苑の絵画館の壁あたりに書かれたものを見て、従兄の柴
田南雄から由来は聞いていた。
崩れたデパートの屋上から眺めた広島は未だ完全に焦土の都市であった。そこを離れて西部軍司令部があった広島城祉に着いたのはすでに夕方だった。人影もないそこに、驚いたことに自分も陸軍病院で使った、陸軍の青い星の記章付の瀬戸物の飯碗と皿の類の破片が、まるで今支度が出来ましたというように整然と横に二列をなして向き合って散乱していたのである。ちょうど兵舎で食卓に準備が整った時に原爆が炸裂したのであったろうか。しかもよくあたりを見ると瓦礫の中にまだ細かい白骨の残片がたくさんまじっている。ぞっとしながらさらに見回すと脇の瓦礫の中に白いものが風にひらひらひるがえっている。
何かと思って一つを拾い上げて見ると、それは美濃紙に細かく記入した兵籍簿であった。陸軍で各中隊事務室で管理・保管していた、在籍兵士の戸籍、住所、家族などを記したものに間違いなかった。
その時は一体こんなことがあり得るのか、被爆して紙が焼けず、しかも一年半も風雨にさらされ、そのまま片付けられずに残存しているなんてと、総毛立つ思いで眺めた。今思えば資料としてそれを保管すればよかったとおもうが、とうていそれは出来なかった。今も幻覚のような気がする。
しかし兵隊の氏名や本籍などをカーボン紙をあてて鉄筆で書いたものがはっきりと読み取れた事に間違いはなかったのである。
私はこの短い滞在の間に市内のあちこちで市民に原爆被災直後の状況を質問して歩いた。その間にすでに被災者はめったにいない事を知った。多くは戦後移住した人達であった。また何
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人かは「そんなことを聞いていると米軍のMPに連行されるぞ」と脅かした。東京ではそんな事情を全く知らなかった私には十分恐怖をあたえた。そんなことで、別の人が「比治山の原爆病院に行ってすさまじい傷痕の被爆者を見て来なさい」とすすめた時には臆病になって実行できなかった。長く心残りであった。市内を歩く限り被爆者の姿を見ることはなかった。
相生橋の欄干が無残に倒れている姿や、原爆ドームの有名な鉄骨、人影だけ残った銀行の石段などは見た。しかし聞き取りをやった目的は何とも恥ずかしいことだが、今後再び原爆攻撃を受けるとしたら、どんな対策を講じておけば良いかという戦略的視点であった。
つまり米国の被爆者調査とほぼ同じで、原爆戦争は避けられないものとした上で、どうすれば被害を予防できるかと考えていたのであった。聞き取った印象は、意外に罹災直後の復興対策は順調に行われたのではなかったかということである。
ノートに残されたメモを見よう。
『市内電車〔生き残りの乗務員の話〕。紙屋町一宇品。四日後。5、6台 。護国神社前の変電所が壊滅。本社変電所、本社内車庫、宇品方面で電車100台中5、6台残った。47年4月になお40台しかない。以前より人員も減って44~45人。己斐方面の河は舟で連絡した。乗務員は100人中60~70人残った。女学生の勤労動員の者もいた。被爆後全員出勤、その為に死んだ者もいた。しかし恐怖心はなかった。本社内(鉄筋コンクリートの建物で無事だった)で死んだ者は無し。被爆者の発掘をした。それで横川線の者も2、3日内に死亡した。線路、道路は被害がなかった。架線と電柱の被害。
一般の被害だが3、4日は燃え続けた。その間雨無し。配給は炊き出しで不自由はなかった。
食券を発行した。
国鉄は一昼夜で開通。客車、線路障害。軍用ホーム、枕木焼ける。延焼で駅燃える。(駅での)死傷数名。欠勤者1/3くらい出る。疎開者一週間位で整理。小荷物、戦災者のみ行った。
3、4日後。10月ころ完全復旧。向洋は3日後に開通。
比治山公園の東は家屋が残った。終戦まで三原辺り(東へ18里)では(機密保持の為原爆被害の)実情を知らなかった。
〔一般〕宇品辺りでは北面屋根はすべてくずれているが、家屋倒壊は無いらしく、南面のガラス窓は割れていないものもあり。モルタル壁の家等ガラスの外、北壁も被害無し。白壁はくずれたもの多し。
〔郵便〕8月10日に貯金再開。貯金支局が壊滅した。郵便は記憶がない。
〔新聞〕朝日は当日五日市から乗り込む。自動車で出て連絡した。
〔電気〕9月(復旧)。8月末には電灯会社のみ。変電所は大手町、千田全焼 。段原軽微。大須発電所一部被害。
〔市役所〕1/3翌日出勤。一部事務。女子は全部休む。補充翌年。重要書類は疎開ずみ。 出
一61一
勤者にガラス等の被害。』等とある。
この時現場を見ておいたことはその後長く参考になった。占領下ではほとんど報道が禁止されていた実情はかって「原爆情報の疎外」と題し『平和研究』9号(1985)に書いたが、講和発効直後に『アサヒグラフ』が原爆被害写真の特集を発行したのが、広く目にふれた最初の出版物であったはずである。1950年の東大五月祭の時、社研職員組合の名で見物人に原爆のアンケートを取り、丸木位里・俊さんの原爆デッサンの小パンフレット『ピカドン』を配ったことがあった。しかしその回答は祭りの終わった後のこととて発表方法がなく、東大のアーケードに小さなポスターを貼ったけに終わった。その記録は残っていない。
むすび
戦後体験はまだ続くが、学生時代を一くぎりとして終わる。その後の体験は、機会があれば私の政治研究を中心にまとめる事が出来ればと考えている。自分自身の意識転換については、その後の長い年月をたどっても説明がつけられない予感がある。このような形式の記録の発表を許して頂いたことを厚く感謝する。
(1994年8月起稿、2003年1月21日脱稿)
一62一
〈編集後記〉
4月号をお届けします。今年度は所長、事務局長をはじめ、事務局スタッフが大幅に交替する時期に当たり、発行が年度をまたがるかたちになりました。とはいえ、本号編集
は99%が前編集委員によるもので、編集後記のみ新事務局員が担当しております。さて本号は福島新吾研究参与の御論稿です。
福島参与は1954年に専修大学に入職され、ご退職は1992年でした。社研発足が1949年ですから、その数年後に社研にも入られて、当初は法学部所属のメンバーが少ない中で、社研運営に寄与されてきました。先生はご退職後も社研主催の海外合宿研究会などにも参加されたり、今回もお元気に健筆をふるっておられます。御論稿は1945年から1947年まで、ちょうど敗戦からその直後の時代、激動の中で過ごした学生時代から東大社研への就職に至る青年期を思い起こしつつ、御自身のその時々の時代認識を振り返るものです。
その中に、お父上の思い出、あるいは敗戦2年後の広島旅行で得た印象などが挿入されています。戦後を構想するためにも「ヒロシマ」を見ておきたい、という志から来る旅行だったようです。敗戦を迎えるに至り「一度は戦前の天皇制国家を強く支持し、その国家の存亡の危機を感じて、あえて戦いに身を投じようと決心した。そして敗戦を悔しい思いで迎えた」青年福島が、その後大きく「意識転換」を遂げていくことになる、いわばその出発点で、どのように時代を認識し、戦後を構想しようとしたか、ここでは日記やノート、そのほかに「友人のために卒業レポートを書いたもの」(2本)などの資料を用いて書かれています。
残念ながら、専修大学時代、あるいは氏の「大きな意識転換」について、知りたいものですが、「その後の体験は、機会があれば私の政治研究を中心にまとめる事が出来ればと考えている」とのことで、それは今後の機会を待ちたいと思います。(S.M.)
神奈川県川崎市多摩区東三田2丁目1番1号
電話(044)911-1089
専修大学社会科学研究所
(発行者)柴田弘捷
製作 佐藤印刷株式会社
東京都渋谷区神宮前2-10-2電 話(03)3404-2561
一63
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├福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長
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├福島新吾 社会科学としての政治研究―1947~54(専修大学社会科学研究所月報)
福島新吾 社会科学としての政治研究―1947~54(専修大学社会科学研究所月報)
https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/smr486.pdf
ISSNO286-312X No.478 2003.4.20
はじめに
『専修大学社会科学研究所月報第 478 号』に「体験戦後史 1945~47」と題して敗戦後の体験などを述べた。引き続き発表の機会を与えられた事を深謝し、私の研究者としての出発期を回顧したい。私はこの国に初めて創立された東大社会科学研究所の助手となった(公募第一期)ので、その研究所は当時如何なるものであったのか、そこでは社会科学をどのように考えていたかをふりかえる。この研究所のお蔭で私の政治学研究には社会科学という
frame of reference が加わった。私はそれを十分政治学に生かしたとはいえないが、少なくとも同世代の狭義の政治学者とはかなり違ったテーマ、視角、展望をとったと思う。そのいきさつが社会科学の発展史の参考になればと願う。他方世界政治の変遷とその日常生活への浸透にもまれつつ私の政治意識-国家意識あるいは愛国心-が変わっていった経過もふりかえってみたい。
目次
はじめに ·································································
1
§1 東大社会科学研究所 ················································· 2
§2 その組織と活動 ····················································· 5
§3 社会科学をめぐる対立 ··············································· 9
§4 私が経験した調査・研究活動 ········································· 11
① 無産政党の選挙結果 ··············································· 11
② 労働組合の調査・研究 ············································· 12
③ 選挙の実態調査 ··················································· 13
④ 公安委員会調査 ··················································· 14
⑤ 農村調査 ························································· 15
§5 理論と実践 ························································· 18
§6 社会的活動 ························································· 20
編集後記 ·································································
24
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├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
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├官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
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├官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
├日本計量新報2024年1月1日(1月7日)合併号
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├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2024年01月04日号「日本計量新報週報デジタル版」
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├青木湖は糸魚川静岡構造線による地溝上にできた断層性構造湖で、流入河川が無いにもかかわらず水位が維持されていることから、湖底にかなりの量の湧水があると考えられる。
| 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
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├能登大地震-その6-小さな記録 能登半島 港湾部の隆起現象(1)(計量計測データバンク) | 「計量計測データバンク」ニュース - 楽天ブログ
(rakuten.co.jp)
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├生活インフラとしての電気、ガス、水道のメーター
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├清流と名水の城下町、郡上おどりのふるさと (gujohachiman.com)
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├2024年郡上おどり日程 (gujohachiman.com)
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├白銀の山のこと 甲斐鐵太郎
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├地球大気の温度変化と温度計
├「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2024年01月11日号「日本計量新報週報デジタル版」
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├標高1,600にある私の小さな山荘 八ヶ岳のロッジのこと 甲斐鐵太郎
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├計量計測データバンク ニュースの窓-152-
旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎
essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro
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├計量計測データバンク ニュースの窓 目次
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├日本の国家公務員の機構を旧日本軍の将校機構(士官学校、兵学校、陸軍大学、海軍大学)と対比する
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夏森龍之介のエッセー
田渕義雄エッセーの紹介
2024-02-17-news-152-materia-content-collection-of-metrology-databank-152-1-
「計量計測データバンク」サイトマップ
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