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計量計測データバンク ニュースの窓-153-
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福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長

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福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長

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計量計測データバンク ニュースの窓-153-福島新吾―社会科学としての政治研究―1947~54―東京大学社会科学研究所助手時代と共産党本部の徳田球一書記長







官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介






├福島新吾 社会科学としての政治研究―1947~54(専修大学社会科学研究所月報)
福島新吾 社会科学としての政治研究―1947~54(専修大学社会科学研究所月報)

https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/smr486.pdf

ISSNO286-312X No.478 2003.4.20

はじめに

『専修大学社会科学研究所月報第 478 号』に「体験戦後史 1945~47」と題して敗戦後の体験などを述べた。引き続き発表の機会を与えられた事を深謝し、私の研究者としての出発期を回顧したい。私はこの国に初めて創立された東大社会科学研究所の助手となった(公募第一期)ので、その研究所は当時如何なるものであったのか、そこでは社会科学をどのように考えていたかをふりかえる。この研究所のお蔭で私の政治学研究には社会科学という frame of reference が加わった。私はそれを十分政治学に生かしたとはいえないが、少なくとも同世代の狭義の政治学者とはかなり違ったテーマ、視角、展望をとったと思う。そのいきさつが社会科学の発展史の参考になればと願う。他方世界政治の変遷とその日常生活への浸透にもまれつつ私の政治意識-国家意識あるいは愛国心-が変わっていった経過もふりかえってみたい。

目次

はじめに ································································· 1
§1 東大社会科学研究所 ················································· 2
§2 その組織と活動 ····················································· 5
§3 社会科学をめぐる対立 ··············································· 9
§4 私が経験した調査・研究活動 ········································· 11
① 無産政党の選挙結果 ··············································· 11
② 労働組合の調査・研究 ············································· 12
③ 選挙の実態調査 ··················································· 13
④ 公安委員会調査 ··················································· 14
⑤ 農村調査 ························································· 15
§5 理論と実践 ························································· 18
§6 社会的活動 ························································· 20
編集後記 ································································· 24

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§1 東大社会科学研究所

 そもそもこの国には明治以来学校制度は整ったが、研究所という機関は未成熟であった。

 Institute の起源はフランス革命で既成のアカデミーが破壊されたのち、1795 年につくられたInstitut National des Sciences et des Arts. で、それを受けて英国でも Royal Institute ofBritish Architects.1834. をはじめ多くの研究所がつくられたという(O.E.D.)わが国では1856年の蕃書調所が最初といえるだろうか。『近代日本総合年表』(岩波)によれば1890 年上海で荒尾精が日清貿易研究所を創立しているが、これが研究所に相応しいものだったか?疑問である。同書によれば日本で最初の研究所は 1886 年の帝国大学臨海実験所(三崎)、あるいは1891年に決定、98年に確立、1918年に官制が出来た逓信省電気試験場のようである。その他戦前に設けられた主な研究所は凡そ116だが、その内理工・医学系が 92(しかも1939 年以降設立が実に39、敗戦の年にも3)、文科系はわずか24、その過半数は戦時下に東亞占領地支配の必要に迫られた急造研究所である。京大人文研、東大東洋文文化研も含めて戦時のイデオロギー宣伝の色濃いものが多かった。戦時以前の本格的なものは大原孫三郎が寄与した倉敷労働科学研、大原農業研、大原社会問題研と大阪商大の経済研、山口高商の東亞経済研位に過ぎない。その大原社会問題研究所も敗戦後大内兵衛は東大に、高野岩三郎と権田保之助は日本放送協会へ、森戸辰男は日本社会党へ移動し、久留間鮫造のみ残留の解体状況にあったと聞く。

 1946年8月24日に東大社会科学研究所(以下社研という)は官制(勅令)によって東大に付置された。『社会科学研究所の30年』(社研編1977)によれば東大法学部長南原繁(1889~1974)が戦争中軍部が財政経済を独占して無謀な計画を立てそれに同調した少数の学者が参加して、敗戦の結果になったということを反省し、大学が本格的な研究をして、政府、国会に役立ててもらうようにしたいと戦争末期から考え、戦後自らが総長になってそれを具体化した。これには真理に忠実な南原の科学的調査研究への願いとともに、政府説得のための戦術的な「国策」樹立という方向が示され、かなり素朴な実用主義的学問観がうかがえる。それに対して文部省や内閣法制局は学部の講座を増設すればよいと反対した。研究観の浅薄さ、職名と予算さえあれば研究は直ぐ出来るといった研究と教育の両立の安易な考えのあらわれだろう。また学問は(主に外国の)既成の体系を伝授するだけのもので、新現象を研究するなどは空想的として拒否したのだろうか。とくに「社会科学」にイデオロギー的な反発があったかも知れない。だが南原は文相前田多門(1884~1962、若き日の南原の内務省で群長を志願した先輩)の同意を得てそれをおしきった。占領初期で、占領軍は関与していなかったようだが、知れば恐らく社会科学に好意を寄せたであろう。

 そこで考えられた研究所はどんなものだったのか?官制では「広く世界各国の法律・政治・経済の制度及び事情に関し正確なる史料を組織的系統的に蒐集し且つこれが厳密に科学的なる

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比較研究を行う」ことを目的としている。予算不足の折から北米・英国・本邦公法・本邦内政・本邦産業経済の五部門だけが実現したが、当初の14部門の案には仏(西欧)、独(北欧・中欧・東南欧)、ソ連(東欧)、中華民国、その他の東亞の諸国と本邦私法、外交、財政金融、資料の蒐集及管理が含まれていた。この当初案は 1973 年までかかって 17 部門に完成したが、日本の研究には社会法・農業・工業・労働を加わえ、比較研究では一国別をやめてヨーロッパ圏、アメリカ圏、社会主義圏の法律、政治、経済などに分類された。当初の構成を見れば、従来ドイツ学重視だった社会分野に米英を始め世界各国の知識を急増する位の意図しか見えず、理論がない。オセアニア、アフリカが全く無いのは後進国無視を示していたのか。

 南原は東京帝国大学のなかに戦前には禁止されていた社会科学の研究所をかかえていこうじゃないかということになったのは「一つの変化ですね」と語っている。この発言は学問の自由を謳歌しているが、その内容までは説明していない。『東京大学百年史 部局史四 社会科学研究所』(東京大学百年史編纂委員会編、1987)によれば「いまだ東京帝国大学と言う名称を保持するこの大学に、敗戦からわずか一年後にして社会科学研究所という新研究所が創設されたことは、通常の意味での研究所の新設をこえた、ある種の歴史的意義を有する出来事であった。」「社会科学研究所は、新日本の建設に資する方向への大学と学問の革新の拠点となるべき使命を担っていたといっても過言ではない。」と述べている。設立前に文部省に提出された「社会科学について」と題する説明書では、文化科学ないしは人文科学のもとに「精神科学」と「社会科学」とがあるとし、社会現象を研究する一群の科学の総称としていた。南原自身も社研の開所記念講演(1947.2.1.)で、その特色として比較的、総合的、実態的の三本柱を立てたのみで、なんらかの特定のイデオロギーにたつものでは決してないと強調したが研究の具体的な方法は示さなかった。私は戦後の青年としては学生運動や地域の政治活動に接触せず、家庭に閉じこもってひたすら New York Timesの海外版などから情報を吸収していたが、その中にfact-findingと theory-building の両面を併せ持つ事が肝要だと書かれたのに共鳴していた。

 社研の三本柱は前者を重視していたが、後者は弱かったようだ。私の在職中(初期の7年)に知るかぎり矢内原忠雄所長や所員が方法の問題を提起したことは無かった。1947 年 12 月に社研から刊行された「社会科学叢書」のあとがきに、矢内原は「我が国では社会科学といえば、マルクス主義の代名詞といわれていた時代があったが、私どもは社会科学という語を広義に用いているのであって、マルクス主義も社会科学の一つではあるけれども、その全部ではない」と意識的に区別を立てて説明していた。南原は申請する時にその名称を社会科学研究所と決めるについては「少し新しすぎるじゃないか」という慎重論もあったと語っている。1954 年の高島善哉『社会科学入門』(岩波新書)でさえ「社会科学とは何かしら好ましくない学問であるといったような印象が一部の国民の間にまだ残っている」と書いている。南原などは社会諸科学

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の中にマルクス主義を加える事を公認した点に新しい意味を認めたのだろう。1952年には行政管理庁がたった一時間の行政監察を行った後社研廃止の案を出した。また 1958年頃には東大内部から国際問題研究所に改組する案が提起され、存立の危機が問われた。それらはいずれも無事解消したが、当時の政党などの見解が依然として懐疑的だったことを暗示した。1947 年には英語名称を“Institute of Social Science, Tokyo Imperial University.”と決定している。

 それは占領軍への届け出に必要だったらしいが、単数で表現したことに意味があったのか否かは説明が無い。1947年秋頃に機関誌『社会科学研究』の名前の英文について再び検討され、宇野弘蔵や山之内一郎は単数、鵜飼信成は英語の常識では複数との説でかなり熱心に論争し結局単数と決めている。

 O.E.D.Vol.Ⅱ.1933(The Compact Edition.1971)p.2902.では単数の表現に 1848 年の用例として The conception of a social science is due to M.Comte.(コントの『実証哲学講義』によると思われる)をあげている。またA Supplement to the O.E.D.Vol. Ⅳ, 1986.p.320.でもsocial science を単数であげ「社会の構造と機能の科学的研究。人類社会を総体として、または一部分として組織的方法で研究するすべての学派」と解している。その用例には 1785 のAdams,1821のBenthamから1949のMead,1977のGiddensがあがっている。これらは明らかに単数で総合的な社会科学をとらえた例である。他方同書p.315にはsocialの用例の中に、social sciencesと複数でタイトルを出して「個人と他人とのつきあいから生ずる相互関係に属する、またはそれに基づく、あるいは一グループ、乃至は一つの会の会員になくてはならない機能や構造の」という意味をあげている。この用例にもたしかに J,S,Mill や M.Meadなど諸種の社会科学の用例をあげているから、社会諸科学を全体にまとめた意味で使われたものだろう。この両者の実例では総合的な名辞としてどちらを使うべきかの基準はないといってよいだろう。

 ここで問題になるのは「社会科学」は敗戦当時までの日本社会では一般にはマルクス主義のものをさしていたという慣例である。その場合には、すべての社会において下部構造である生産様式が法律、政治、文化など上部構造の基礎となる。従ってあらゆる学問は経済学に規定されるという史的唯物論の前提がおかれていた。社会科学はその全体が有機的な一体をなすものと考えられたのである。ただし、旧体制の日本にはもちろん明治時代から経済学、法学、政治学、歴史学など社会現象を研究する個々の学問が輸入されていたが、それらの総合はおろか同部門の学会の内部討論さえほとんど無かった。前記『総合年表』によれば、明治以後自然科学系43、人文・社会系 30の学会が記載されているが、その内自然2、人文5は東京、京都両帝大内部に限定したものだった。会員の発表内容を統制するための便法だったのではないか。

 これはもとより政府の言論、思想的弾圧を避けるものだった。では何故社会科学がマルクス主義を意味するとして忌避されたのか。それについては社研月報 135号(1974.12)に「社会科学

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としての政治学の発足」と題して書いたから省略する。

 ドイツでも1918年まで社会民主党はあっても、大学に社会科学部や社会科学研究所は無かったようである。Rolf Wiggershaus の“The Frankfurt School.”(原著は1986、英訳は 1994)によれば、ドイツに現存する、社会科学系の三大研究所のうち、最も古いのは第1次大戦直前の1913年に鉄鋼のクルップ家等の寄付で、キールのクリスティアン・アルプレヒト大学に設立された Royal Institute of World Economy and Marine Transport.(世界経済び海上運輸研究所)のようであるが、それは当然右派的なものであった。それに次いで第1次大戦後 1919 年にケルンに市から 12 万マルクの予算を受けて大学制度(社会学部、社会政策学部)とともに The Research Institute of Social Science.(社会科学調査研究所)が設置された。これには当時ケルン市長で戦後の西独首相になったカトリック中央党の Konrad Adenauer(1876-1967)の要請をうけたカトリックの知的伝統に立つ哲学者 Max Scheler とリベラルの背景に立つ社会学者のLeopold von Wiese とが理事となった。左右の政党のバランスをとったものであった。ドイツでもここに初めて社会科学の名が用いられたようである。三番目に出来たのが有名なFrankfurt Institute of Social Research, (ドイツ 名は Frankfurter Instituts für Sozialforschung. 社会調査研究所)である。これはキールと対象的にユダヤ系の穀物商の富豪ヘルマン及びフェリクス・ヴェイル父子の寄付による、左翼系のイデオロギーに基づく社会科学研究所であった。ヴェイルは純学術的意味でソ連のマルクス・エンゲルス研究所をモデルとしたいとさえ考えたという。ここでも「批判的」と言う言葉がマルクス主義のカムフラージュとして使われたという。

§2 その組織と活動

 社研の所長には官制公布と同時に、南原と経済学部に復帰した大内の協議で矢内原(東大経済学部を1937年に免官。無教会派のキリスト者だが、新渡戸稲造の植民政策の後継者でマルクス経済学と古典経済学を融合した立場。1893~1961)を迎えた。植民地を旧日本帝国が全部喪失し、彼が批判的に研究していた植民政策は国際経済論と改称されたその時期に彼の自由主義的識見を復活させる場となったのである。コミュニストの疑いは持たれず、マルクス経済学では最長老で、社会科学研究所を統率するには絶妙の人事だった。47 年4月当時の部門とスタッフは以下の通りである。

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部 門 教授 助教授 翻訳官 併任教・助教授 助手
第一部(米国)
第二部(英国)
第三部(公法)
第四部(政治)
第五部(経済)
嘉治
鵜飼
山之内
宇野
内田
有泉
高橋
鈴木
大内
遠藤

楊井克己
末延三次・野田良之
岡義武
大河内一男
大塚久雄
下山瑛二
福島新吾
松村憲一
塩田庄兵衛

 しかし当時大学には学長や所長を事務的に補佐する役職は無かった。総長や学部長は大学評議員を相談相手としたようだが、新設で評議員がない社研では矢内原は早々と8月末に嘱託を発令された山之内(ソ連法)、鵜飼(行政法)と翌年1月になった宇野(マルクス経済学)の三教授を頼るしかなかったようだ。その二人が犬猿の仲だったから、運営は難しかったであろう。

 鵜飼は当時稀だった戦前米国留学の知米派学者でマスコミの寵児であり、火中の栗は拾わなかった。翌年3月に前田文相の秘書官から教授に採用された嘉治真三(経済地理学)は業績も乏しく全く消極的であった。有泉亨(民法)、内田力蔵(英法)が主に所長の事務補佐を勤めていたようだ。鈴木鴻一郎(マルクス経済学)、高橋勇治(中国憲法)、林茂(日本政治史)は所内行政にはノータッチのようだった。遠藤湘吉(財政学)、大内力(マルクス経済学)はまだ三十前後だった。その他に非常勤の嘱託で、藤井洋(経済学、後講師、1951死去)、高橋幸八郎(フランス経済史、後教授)、佐藤功(憲法)もいた。一挙に教授クラスを揃えるのに苦心したようである。まず戦前思想的に追放されたり植民地喪失で失職したソ連・中国部門の専門家が考慮された。しかし予算が通らなかったので他部門担当の名目で先行採用した。経済部門は労農派のマルクス経済学者で固めた。戦前の講座派系の大多数が投獄等にあい、採用条件に沿わなかったこともあったのか。大内らの構想に沿わなかったのか。講座派には歴史、社会運動、国家などの専門家もあったが、それらは選考されなかった。全員が東大出身だったが、調査経験者を加えるべきだった。決定したスタッフは在来の学部としては当時の事情ですぐれた選択といえるが、新時代をになうと自負する適格性は乏しかった。在来型の文献的専門研究の学者で弟子がない不安を感じたのか、新制大学院が設置されると争ってその講義を担当し、なぜわざわざ負担を求めるのかと疑問をもたれた。法学でいえば解釈学より法社会学や、歴史研究をより重視すべだっただろう。自然科学系(特に統計学、資源・環境問題)の人も必要だった。

 法・経両学部からの併任教授・助教授は単なる目付け役だった(鵜飼所長の後任選挙に彼らが山之内を排して有泉に投票した為に両者同数となる事件があって、以後併任教授を謝絶した)。

 大河内だけは労働組合の実態調査に深く係わり、専任以上の役割を果たした。社研の内部では

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当初から社会科学とは何を如何に研究するのか、在来の法学、政治学、経済学とマルクス主義とはどう協調するのかという、組織の根本問題に誰一人あえて疑問を提出せず、その立場を考えようともしていなかったようだ。大塚が病床についたことが惜しまれる。『30 年』で有泉は「社会科学とは何ぞやという議論をしてもまとまるわけはなかったのです。結局それぞれが少しづつ自分の関心にしたがってやっていくより仕方がなかったのです」と当初からの絶望的見解を示している。所内の派閥対立がそれほどに激しく収拾がつかなかったところに、日本の革新運動の病弊、世界的なマルクス・レーニン主義の深刻なセクト主義の欠陥があった。少なくともどんな意見が対立するのかを討論すべきだっただろう。しかも社会諸科学の総合、協力という課題は、立場のいかんを問わず考慮されるべきだった。また制度上課せられ、所員の誰も経験のない調査を行うのに、何を、如何に調査するか、それはどのように新日本の建設に資するのかをまず徹底的に論争すべきだっただろう。それを所員会で十分検討することもせず、研究費を申請して通過した事業に応じて調査が始まったといっても良さそうであった。ところがその研究費の申請は本来の予算で各教官に与えられた研究費では総合的な調査を遂行する事は不可能であったので、戦前には自然科学系に限られていた機関研究費の配分を要請し文部省科学研究費特別委員会として、社研中心の「民主主義研究特別委員会」が認められた。文科系では「現代中国研究」、「日本における外国語及外国文学研究法研究」と並び36万円(最高額)が47年度分として4月上旬に内定されていた(実施は42万円。個人研究では普通2千円であったから破格)。それは第一部「民主主義の思想と制度ー各国の比較研究」、第二部「日本における資本主義の発展と民主主義」、第三部「転換期における行政機構の民主主義化の問題、殊に各種委員会の実態調査」、第四部「労働組合運動と民主主義ー特に最近の労働争議にあらわれた民主主義化の実態調査」となっていた。第一部はほぼ全所員の名目で研究題目が羅列され、ほとんど名義人には配分されず、実質は一括して調査費に使用していた。第二部は経済部門の独占で農地改革の実態調査を書面で行っていた。この両者は報告は出ず、わずかに第三部、第四部が単行本で報告を出した。後には農林省林野局、建設省など他の官省、川崎市など地方自治体、その他民間機関から委託研究費を受けるなど、調査の実施には種々苦心があったようである。

 さて私は実際に助手として勤務を始めて研究所の活動が漠然としているのに驚かされた。形式的な研究会、その他の会議が連日のようにあった。記録を再現すれば4月7日所員会。14 日所員会。17 日経済研究会。18 日法律関係例会。21 日民主主義研究委員会総会。24 日経済。28日ロシア語講習会(毎週)。5月1日経済。2日法学。5日所員会。助手研究会。5~7日経済公開講座。9日法研。12~14 日政治公開講座。16 日助手研。17 日労働組合調査。19 日所員会。19~21 日労働法公開講座。22 日農地委員会。26 日所員全体研究会。30 日法学。6月2日所員会。4日労働組合。6日法学。9日所員会。12 日助手研。13 日法研。17 日英米部会研。19 日

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助手研。26 日助手研。27 日民主主義研。30 日英米研。7月4日学術研究会議研。7日所員会といったあんばいである。この他記録がもれたものもあろう。スタッフは自分の領域をかなり限定して休んでいたが、助手はこれらのほとんど全部につきあう建前で容易なことではなかった。当時助手は「御殿女中」と批判もされたが否定しきれない。お茶汲みも使い走りもあった。

 後述の諸調査の実働員は大部分助手だった。その外に研究所として当初助手に命じた雑用があった。先ず図書分類。これは通常の図書分類では経済、法律等が大ざっぱにすぎるから、特に社会科学分野を詳細に、かつ地域研究を考慮して、地域分類を加味した、複雑な社研専用の分類表が作成された。ところが図書係の事務職員にはそれを適用する能力が無いとして、助手がそれを担当することになった。さらに「資料整備」として官庁発行の資料を官庁に配付予算が無かったから、助手が交通費自弁で(といっても交通機関はバスは当てにならず地下鉄虎の門からあとは永田町、霞が関一帯を徒歩でかけまわる)官庁を回り受領に回った。時間のロスも大きく資料は重く、実質的にはそれが価値のあるものか不明で「今日は何貫目稼いだ」などと自嘲するクズ屋だった。不満が二年ほど鬱積して組合を結成した頃廃止された。もうひとつは新聞記事の切り抜きの指定を助手にさせた。これも 48 年秋には廃止されたが助手は貴重な時間とエネルギーを奪われた。しかも大学評議会における他学部特に病院からの反対のため助手を漸次昇格定着させて次代の研究者を自前で養成する方針が拒否された。そこで助手を一般調査業務に従事させながら、任期は学部と同じ三年とし(当初は論文無しに転任が受諾されていた)、助手の異議申立によってやっと一年延ばしたが、適宜他大学等に転出することを期待された。しかも他学部から研究に没頭して顕著な業績を収めた同年配の助手をスタッフとして採用した。これは才能を選択したつもりであろうが、研究所向けの能力選択ではなく、学部教授と同様に文献中心で調査に未経験な研究者を加えたに過ぎなかった。

 研究会活動を省みると、全研究所合同の研究会は矢内原が所員の統合の為に力を入れたが、内田「ベンサムの立法理論」。遠藤「ホッブス・レヴァイアサンの思想」。林「国家の問題」。宇野「資本論の方法」。佐藤「ロバート・フォン・モールの生涯と学説」など分散した報告の為出席者が次第に減り盛り上がりを欠いていった。所員間に共通の問題意識が無いのが原因だっただろう。矢内原が神経痛の持病をもっていたので、報告者が実は神経痛が起きて報告が準備出来なかったと言い訳をする場面などまであった。

 最も活発だったのは毎週宇野が主宰するゼミナールであった。私が入所する前に、野呂栄太郎『日本資本主義発達史』を終え山田盛太郎『日本資本主義分析』が終わりかけていた。宇野が「講座派」の理論の再検討を試みたものだったらしいが、次に平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』が候補となると、もう結構だと拒否し、その後は櫛田民蔵「農業問題」、次いで資本論の歴史的論証の部分や、ヘーゲル法哲学批判などを読んだ。これには経済学部から隅谷三

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喜男、武田隆夫、加藤俊彦、氏原正治郎。外部から大島清(教育大と法政大の同名者二人)なども参加し、社研では経済部門と全助手が出た。法律・政治部門のスタッフは殆ど出なかった。

 しかし報告者のコメントは内容を要約する程度で、一番力を入れていたのは、当時未だ使われていた改造社版全集や、高畠訳の伏字(戦前の検閲により出版、翻訳などで頻繁に登場した)の推定であった。日記に「意外に出席者が不勉強なのでおどろく。研究者の安住的態度か」としている。しかもその後ほとんど宇野の独演的なコメントで終わった。私にとっては何派の区別もなく、未知のマルクス主義的な日本社会の分析の鮮やかさに驚嘆させられた。山田の分析などテキストから多くを学ぶとともに、宇野の意見もまことに多様で示唆的であった。日に日に視野は広がり、戦時からの天皇制への強い共感は、反発とまではいかなかったが薄れていった。だが何しろ参加者すべてが労農派支持で、『分析』の「インド以下的低賃金」という有名なフレーズなどは政治的だと冷笑する。唯一講座派を自認する塩田助手はほとんど発言せず、やがて出席しなくなり、両派対立の根源は検討されず、一方的な印象を免れなかった。宇野が欠席したりすると低調に終わった。

 法律関係の研究会では野田「プラトンのノモス」、有泉「労働争議の法理」、山之内「ソ連法学の概観」、福島「神山茂夫『天皇制の理論的諸問題』(6月発行の新刊書の紹介)」、遠藤の「ブレトンウッヅ協定」などの記録がある。上記の有泉の回顧にあったように、報告者の学問は在来そのままの各個バラバラで、各自の報告が全く統一を欠いていたから、蓄積されるものが無かった。

 社研の公開講座、宇野「資本論入門」。高橋勇治「中国における国民党と共産党」。有泉「労働争議の法律問題」。内田「英米の家族法」。大河内「婦人と労働問題」、山之内「ソ連憲法と婦人の地位」。三日連続で一般の聴衆を集めたが助手には関心は薄かった。外務省の清水威久のロシア語講習会は毎週一回で七月に終わり大変有益であったが多忙でついてゆけなかった。これなど継続してほしかった。さらに助手だけの研究会もレーニン「帝国主義」を読んだ。「帝国主義」とは、現代の植民主義を指すのか(たとえば矢内原の『帝国主義下の台湾』)、金融独占資本主義の総体を指すのか曖昧だとの疑問で混乱した。

§3 社会科学をめぐる対立

 当時統一的な社会科学を強く意識したのは、宇野を筆頭とする労農派の人々であった。彼らはマルクス主義以外に社会科学はありえないと考えており、強い経済学優先思想であった。しかしそれは社会の政治、法律、産業、市民などの分野の諸現象の特殊な研究を自ら総合してゆこうという見解ではなく、社会現象のすべては経済構造によって決定されているから、経済学を知らずして学問は無いとする唯物史観を信奉しているだけであったように思われる。たとえ

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ば宇野の意見では政治思想史などで、基盤の経済構造の変化を乗り越えて各時代間の学者相互の思想や観念に歴史的連続性を認めることなど成立し得ないと丸山の学問を否定した。封建社会の思想と資本主義社会の思想は、全然異質で共通の論理はあり得ないというのであった。だが資本主義以前の経済学について研究する方法論を示すことはなかった。マルクス主義のいわゆる社会発展史観についてもどのように研究するかの方法を持つわけでもなかった。マルクスやその一派がそれをどのように説いているかを知りその方法を模倣しさえすれば総合的な社会科学になると考えているようであった。この立場では解釈法学等は全く技術的な修辞法と考えられたであろう。したがって研究所には法学の専門家は全く無用なのである。宇野がマルクス主義の最高性を主張する時、私は自然科学にも、数学や物理学だけではなく、応用化学のような分野があるではないかと政治学の独自性を擁護した。ただ労農派に対抗する日本共産党、あるいは講座派支持を称する人々の社会科学観はもっと極端だった。

 私自身がやがてその見解に追従したのだから批判する資格もないが、ソ連共産党の正統を受け継ぐ日本共産党の理論だけが社会科学だとする建前であった。この立場では山之内が代表的だった。

 戦前からソ連を公然と支持して研究を続けた勇気と戦闘性は尊敬のほかなかったが、数十年の収集資料を全部空襲で失い、米占領下でソ連資料は入手出来ず細々とソ連紙を読む程度のようで研究の継続は困難だったのだろう。日常的な行動は温厚篤実で、厳格な遵法主義者と見受けられた。しかし公的な論争となると極端なソ連礼賛一辺倒で、一切の伝統的制度を拒否しようと努め、妥協を認めなかった。学問的には戦時の鬱屈から解放されて与えられた言論の自由の快感にひたっていたようで、ソ連の憲法の解説や法学の内部事情の解説を語ることに精力を傾け、かって自ら翻訳したパシュカーニスのやや公式的なソビエト法理論が、ヴィシンスキーのスターリン主義に追随した権力主義的な法理論によって痛烈に批判され、パシュカーニスは粛清されるにいたった経過を無条件に賛美していた。その意欲はすべてスターリン指導のソ連現政権礼賛、宣伝につきたといえる。Off-timeの私生活の言動は同志の学者や朝鮮総連の人々と酒を楽しみつつ、天皇制や労農派の痛罵をくりかえすことのみであった。その言動には社会主義の優秀性を認めさせ、人民戦線への参加を促す寛容性や魅力を示して保守派を説得するどころか、好意を持つ一般の市民や進歩的な学者にさへ、反感を与えることも少なくなかったと思われる。社研設立当初から頑な原則論で矢内原に敵対し、当初好意的だった矢内原にまで、ついに敵意を懐かせるにいたった。

 私はその純粋性を尊敬し、自分の結婚の立会人までお願いしたほどだが、それゆえにもっと学問を、もっと和解をと苦言をくりかえし、ついに激しい不興を買うにいたったのは無念である。その還暦記念論文集が三年もおくれ『今日の法と法学』(下巻)が先生の急死によって追悼論文集となり、そこに捧げた「秘密の保護は『防ちょう...』と同義か?」を生前に見て頂けなかったことも痛恨事であった。一般に進歩派の社研所員としては、占領後の日本はい

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かにあるべきか、日本革命はいかに進めるかの問題を考慮することが最大の急務だったと思う。

 それにはまず戦前のコミンテルンテーゼがどんなものだったか、その現在はどう考えたらよいかという点から出発すべきだったと思う。その為には戦前の経験者は進んで当時の状況を後輩に伝達してほしかった。

 しかし獄中十八年を栄光とする党主流派のセクト主義はそのような教育を意図しなかった。彼らは戦後直後には国民的な人気の高かった山川均の人民戦線提唱に対応して、救国民主統一戦線を叫んで一見呼応するかの如く見せて人民戦線をぶちこわした。ドイツ共産党ピークの「人民統一戦線」を破壊した自己批判も全く顧みられなかった。

 非転向だけを振りかざし、セクト主義の反省を全くせず、戦前の反共派の労農派や社大党の屈伏だけを非難する偏狭さを捨てきれなかった。しかも社研で共産党を支持する人々もそれが革新の主流だからと独善の過ちを看過、許容していたのであった。戦後の共産党は占領下の弾圧とソ連幹部の批判の板挟みになり、テーゼのどの部分が占領民主化によって実現されたか、どの点が不十分なのかという基本問題の討議にふれようとしなかった。

 志賀義雄や神山茂夫らは公式主義ながら若干の発言を行っていたが、中央では秘密裡にそれにからんだ派閥対立を起し除名や脱党が続いていた。その中で1950年1月のコミンフォルムによる野坂批判(実質は徳田批判)がおきた。

 徳田はそれに一度は反発したが一週間で全面降伏した。その間に私は招かれて代々木の共産党本部二階のM.L研究所の会議に出席、眼と鼻の先で徳田球一書記長がまさに真っ赤になって、日本の事情を知りもしない幹部達が勝手に口を出す、二七年テーゼの時と同じだとコミンフォルムの批判に反撃したのを見た。

 当時徳田は日和見主義と批判され、占領軍にはほとんど無抵抗で専ら吉田内閣への議会主義的な非難攻撃のみ(それを串刺し論と称していた)を展開していた。私は二・一スト中止の大打撃以後の米占領軍の公然たる反共主義の下では、日本の革命は出来るはずが無いと半ばあきらめわずかな改良闘争を支持していた。今日から見れば、コミンフォルム批判は朝鮮戦争開始に先立つ第二戦線結成の要求にほかならなかった。

 だから徳田の抵抗は全く意味が無かったわけではない。宮本顕治の国際主義の方が誤っていたであろう。その自己批判は無いのだろうか。

§4 私が経験した研究・調査活動

① 無産政党の選挙結果
 未だ勤務に慣れないうちに初仕事を命じられた。1947年4月の戦後第二回の総選挙で日本社会党が第一党になったので『社会科学研究』の編集委員会が普選以来の無産政党の選挙結果の変遷をまとめる論稿を私に依頼した。だが戦中派の私は何も予備知識が無くて当惑した。政党論を展開するにもやや粗雑な協調会編『無産政党史』などしか参照文献も無く、当時の裏面のかけひきに動かされた政治過程の資料も揃っていないし、当時非合法だった日本共産党を含め

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て、どの政党が正統かなどという評価はもてなかった。出来ることはただ最も正確な選挙結果の記録を集約することと判断した。ところが戦前内務省警保局と衆議院事務局で二種類出していた結果報告が東大にも内務省にも完備していない。ようやく両者取り混ぜて揃えると、今度は内務省編「衆議院議員総選挙結果調」と、衆議院事務局編「衆議院議員総選挙一覧」に所属党派など微妙な食い違いがある。それらを苦心して公平に整理し、無産政党の優勢な選挙区を探ってその特性を指摘するなどのささやかな分析を加えて約二ヵ月で試論を提出した。だが編集部では一種の無産政党論、或いは戦前の無産党右傾化の批判などを求めていたのか、レベルが低いと没にされた。

② 労働組合の調査・研究

 ノートに 47 年5月 24 日9時有楽町(産別)とあるから助手になりたてでいち早く訪問活動がはじまっていたらしい。同年 10月のメモでは連合体、単位産業連合、大企業別連合、地方産業別連合、事業別連合など様々な形態のものを根こそぎ調査しようとの方針がたてられている。

 その中で中央郵便局を訪問し、その委員長で後に全逓委員長として有名になった宝樹文彦にあった。すでに顕著に反共的でこちらの質問にも極めて用心深く回答し、野間宏を知っているか等とカマをかけてこちらの立場をさぐろうとした。他に安立電機、東京都土建製材従組、逓信省本省なども多分訪れたはずだ。この調査の過労と深夜の個人研究の疲労の積算で 1948 年3月頃私は軍隊での結核を再発し以後半年病欠せざるを得なくなった。そのために実行できなかった訪問先も多かったはずである。これらの調査の第一回の報告書『戦後労働組合の実態』(1950 年、日本評論社)は、単位労働組合への文書によるアンケート調査に止まらず、一部は訪問による調査を加えており、未知で注目を集める問題だけに、一応の成果になっていた。

 48 年後半以降の「労働争議に関するゼミ」としたメモは次の様である。

1 争議。大河内、有泉、塩田、福島、川田侃、竹浪祥一郎、遠藤、隅谷三喜男、石川吉右衛門、磯田進、横山不二夫。(大河内、有泉、隅谷は理論研究だけ、石川、磯田、横山は名前だけ)。
2 中小工業。大河内、有泉、隅谷、氏原正治郎、松本達郎、藤田若雄、山中篤太郎、岸本英太郎、名和統一。とあり、原則毎週と決めている(山中、岸本、名和も名目)。
調査原案は1時期の概観。2産業の一般的状況。
3当企業の概観。
4当工場の概観。
5労組調査。
6争議調査。
7この争議を契機として起きたる諸成果、となっている。

 対象としては第一期、京成電鉄、三菱美唄、第二期、電産、二・一スト、第三期、全逓、小松製作所、第四期、東宝、帝国石油があげられ、それぞれに東芝、国電も加えて担当者も決定していた。この労働運動調査は大分後まで継続し、社研の看板の一つになった。研究費かせぎの負担がとれてからかえって本格化したようで、いかにも社研らしいスタイルが確立された。これは大河内、有泉、

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氏原、藤田、隅谷、遠藤、塩田諸氏の奮闘の成果であった。氏原はその職人的調査力を買われて経済学部助手からいち早く社研研究員、助教授の道を突破したが、当然の人事と認められた。

 病気から回復した私は遅れて49年11月10~17日石川県小松製作所の調査に学生安藤昭三を伴って出張した。しかし第二組合が会社と提携して共産党幹部を追放したという生々しいケースで争議も起きていなかった。その経過を共謀した会社と第二組合の側から聞き取るのは大きな限界があった。調査の中でも馘首者と連絡を取らさないように、さまざまの妨害工作を受けた。こうした調査は会社への影響も考慮して発表はずっとおくらされて 1971 年にようやく社研調査報告第 13 集として『戦後初期労働組合調査』が刊行されている。

③ 選挙調査

 1948 年 12 月に朝日新聞の企画で蝋山政道を中心に鵜飼、辻、川原次吉郎(中大)、中村菊男(慶応)が参加し、翌年1月に行われる総選挙の実態調査を日本で初めて行うことになった。

 鵜飼がその企画を持ち込み社研や法学部の助手を調査員に勧誘した。社研の仕事ではないが二人のスタッフが指導するので公然と参加でき、政治研究を目指す私にとっては願ってもない好企画で下山と共に即座に参加した。

 法学部では辻の研究生で左派の阿利莫二や川島門下の法社会学の潮見俊隆、唄孝一、卒業間際の学生の石田雄、広中俊雄らが入った。

 学生も多数動員された。朝日で何度か方針を協議して、調査地区に都市部は東京都第一区の台東区、農村部は第七区の府中町(現府中市)と西府村(現府中市)を選定した。鵜飼、辻が都市部担当、われわれはその協力者となった。

 翌 49年1月23日の投票日まで約1ヵ月上野、浅草地区でなまの選挙の進行を近々と熟視することができた。この調査の方法は委員会で決めた聞き取りの諸項目(一度テスト調査で再考したもの)の印刷を有権者に見せ、面接した大学生の調査員が回答を書き取る方式とした。

 何党に投票するか(回答の信頼性を確かめるため、投票の十日程後に同一人物に再調査した)の他に政治意識の方向を知る狙いで、昭電事件、賃金釘付け、役人、会社の首切り、高い税金、ストライキの諸問題について賛否の意見を聞いた。有権者名簿からの被調査者の無作為抽出を考えてみたが、住所の拡散、勤労者の自宅での面接時刻設定の困難等を考え、朝日が作成した事業所調査表から従業員 30 人以上と 30 人以下とに分けて計 362 の事業所を選び、その中で区内の有権者で前回 1947 年総選挙の投票者を選んで質問することとし、計 743人の被調査者を得た。

 協力者たちも地域の実情を知らないと回答の分析も出来ないと考え、同じ調査表を持って自由に対象を選んで質問し、あわせて地域の政治事情も調査して総括に備えた。それは数量化された回答の意味を判断する上で大変有効であったと考えた。後に統計数理研究所の林知己夫に事業所の抽出、その中のサンプルの選択は有意標本(purposive sample)を選んだことになる、またそれを他の標本調査の知識で解説したのも非科学的だと批判された。統計学の理論を現実に適用するには大変金がかかるという微妙な難しさを感じた。

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 確かに事業所では回答者が自由ではなく、事業主やおかみさんが助言、代弁した例は多かった。我々も聞き取りの依頼に事業所に立ち入るにもなかなか勇気がいった。阿利は勇敢にも浅草のテキヤの元締めとされた芝山組に乗り込み質問を重ねて来た。私が入った小さなぺン製作所では回答者が工場入り口の帳場のおかみさんの前で、社会党に投票すると答えたが、選挙後に再調査に行ったら「社会党なんか内にはおけないよ」とその工員は既に首切られていた。重大な人権侵害と調査者の責任を痛感したが異議申立も出来なかったのは消極的だったと反省している。別の町工場では選挙調査と言っただけで親方にコップの水をかけられて追い出された。

 これらは私にとって調査といえども、戦前の体制を残す支配層と改革をめざす層との闘争になることは否定できないという印象を与え、その後の調査への大きな教訓となった。浅草寺の裏手で飛び込んだ小さな靴屋さんは、対面してみると梅毒で鼻が欠けていた。ぎょっとしながら耐えて質問を終えたが、名刺をもとに三月末に突然東大まで訪ねてきて、企業組合から収入をはるかに越えた所得税の額を割り当てられ、どうにもならないから助けてくれとの依頼を受けた。

 私も自信はなかったが、好都合にも当時取引高税という印紙を貼って所得を証明する税があったので、それを調べると明らかに過重課税が立証された。それを持って税務署に同行したら、名刺の東大助手、文部教官という肩書が強力な効果で所長が出て減税を認めてくれたので大変感謝され当人が亡くなるまで付き合いが続いた。

 この例でも官尊民卑や中小企業の中のボスによる課税の不当な押しつけを知ることが出来た。この調査報告は我々協力者がまとめ、朝日から『政治意識の解剖』と題して9月に刊行され、好評を得て満足することが出来た。また辻の斡旋で『潮流』のコラムに石田雄と二人が無署名で初めて総選挙のルポの短文を寄稿した。

 この選挙は民主自由党が総数466名中264と戦後初めて絶対多数を獲得した。占領軍の施政方針の転換と、翌年の朝鮮戦争というきびしい状況で、日本に一党独裁の弊害を生みこの国の民主主義の定着を大きく歪めることになった。それが今日まで継続する保守政権独走の出発点である。当時それはヒトラーの再現を想起させたし、米国ではすでにその前年から非米活動委員会が国務省の鳩派の赤狩りに猛威をふるい、翌年にはマッカーシズムが台頭したのである。

 私はこの時反ファッショに身をささげる決意で共産党に入党した。反天皇制や日本革命の動機は薄く反米、反ファッショの意識だった。

④ 公安委員会調査

 1949年には社研全体が47年からの民主主義研究特別委員会の総括にあたっていたようだ。

 私は半年病欠し事後も過労を避けて出たり休んだりしていたが僅かに武蔵野市で公安委員に面接し公安委員会担当の報告を作成した。1947 年12 月17 日制定の「警察法」は「内閣総理大臣の所轄の下に、国家公安委員会及び一三万人を越えない国家地方警察隊を置く」とともに「都道府県知事の所轄の下に、都道府県公安委員会を置く」「市及び人口五千以上の市街的町村は、

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その区域内において警察を維持し、法律及び秩序の執行の責に任ずる」「市町村長の所轄の下に市町村公安委員会を置き、その市町村の区域内における警察を管理せしめる」等と規定している。戦前には内務省警保局長が道府県警察部長(東京府は警視総監)を全国一括して管理下において警察国家の悪評を得ていた。それを解体させようと考えた占領軍の意向に基づいた1948年3月7日の同法施行で、警察は一挙に約 1605の小単位に分断され、しかも中央政府の左右し得る警察力は定員でおよそ四分の一、地域は非市街的な部分に限られる形に縮小されたのである。さきに特高警察の解体も完了しておりこれは正に特高・警察国家にとって大打撃であった。

 しかし国民の大多数はそれを知らず、それに直面した地方政治家たちはむしろ財政負担をきらう消極性しか示さなかった。

 他方占領軍に対抗して天皇制国家の柱石に任じていた内務・警察官僚はさまざまの手段を用いてその権限存続につとめた。

 従来の警保局長、警察部長などにかわって公安委員が警察を管理することになったが、その人選が一つの要で、予め旧内務省で適切な人物と推奨する職業、社会的地位などのモデルを作りそれを全国に回付して、警察官の意のままになる保守的な公安委員会が形成された。

 私が面接した武蔵野市の公安委員は慶応の民法教授で比較的率直に内情の一部を語ってくれたが、警察の事前の立案によって警察長の選択や警察官任用が遂行され、公安委員はそれを追認するだけで、自由な意思の発動は殆どありえないものになっていた。

 警察官の採用はすべて旧内務省系の国家地方警察隊が管理する都道府県警察学校卒業者に限られた。しかも警察官の総定員 12 万5千人は従来より約4万人増員されたのでその補充に不足し冗員の割当を待つ状況だったという。ここでも占領民主化の空洞化、旧天皇制の存続陰謀を強く感じた。また治安問題には体制維持の権力の論理が露呈する事を痛感した。

⑤ 農村調査

 行政、経済、社会の各方面から町村行財政の実態を把握しようという試みであったが、それを如何に実施するかの戦略は討議されなかったと思う。私の在職中の調査地域は一括して示せば、次の通りであった。
実施地域 期日
1 茨城県鉾田(ほこた)町 1950 年1月、補充調査4月3~5日。
2 群馬県島村 1950 年5月6~9日。
3 福島県神指(こうざし)村 1950 年8月27~9月4日。
4 静岡県下河津(しもかわず)村 1952 年2月23~26 日。
5 群馬県強戸(ごうど)村 1952 年8月24~9月2日。
6 徳島県木屋平村 1953 年8月。
ただし前4回の調査については、『社会科学研究所の三十年』(1977、東大社研編)には記載

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されていない。第1~3回の資金は『立法及び政治教育の政策に寄与する目的のための農村実態の総合調査』として、1950~51 に科研費試験研究特別研究費を受け、50~53 に実施されたとだけ記録されている。

 鵜飼、辻、高橋幸、林、潮見俊隆、福島、喜多川篤典、磯田、大内、加藤一郎、羽鳥卓也、小山博也、阪本仁作、下山、照井隆太郎、竹浪、中木康夫、吉野悟、秋田成就の名が列記されているのみだ。

 しかし私の記憶では他に内田、遠藤、暉峻衆三らも参加し、その全部に連続参加したのは数人の助手と鵜飼、林くらいであった。その報告は各人の調査結果を一括して審議し評価するシステムをつくらなかったので、個人報告を提出しないスタッフがいて、全体の総合が完成しなかった。そこで正式報告はされず、年表に乗らなかったのかも知れない。また第5回は『日本社会の基礎を為すコンミュニテイーの総合的社会実態調査』として 1952~54 の特別研究費を受け、鵜飼、有泉、内田、林、磯田、加藤俊彦、遠藤、大内、潮見、高柳信一、藤田若雄、福島、小山、長坂聡、江守五夫、岡田与好、大島太郎、藤田勇、戸原四郎、暉峻が名を連ねている。

1 鉾田町。

 私は先乗りとして一人で初めて宿泊先や村その他機関との打合せなど下ごしらえをした。そして折り返して本隊を誘導したが、乗換列車の時刻を誤り、途中駅で待たせる失敗をした。此処を調査地に選定したのは、当時同県の鹿島地帯に常東農民組合があって、若い山口武秀という強力な指導者が出たことに注目したからである。山口はすでに1947年の総選挙に無所属で当選、49年には労農党所属で連続当選し、後には共産党に入党した。調査は数日だっただろうが、初めてふれる農村地域の真っ只中の小商業都市の生活の実情にふれることは誠に新鮮で魅力的だった。

 町はいたって平穏であった。町の人はここは日本の蒙古だと自嘲していた。Y教授の紹介で訪問した医師の娘二人は強烈な東京願望を語り、まさにチェーホフの「三人姉妹」時代だなと痛感させられた。

 予想した農民意識の高揚に反して町の雰囲気は「台風の眼」という停滞した印象であった。若い人々だけは山口を高く評価し、有力者は一斉にアカと攻撃した。この初めての農村調査で、農地改革関係をたずねる経済調査や、婚姻圏関係、夜這いなどを聞く民法関係は比較的話がはずむが、所得や町議会議員・町長選挙の問題になると口は固い。国政関係は関心も薄くて容易に成果が上がらない。出るのは腕力で町政が左右されるといった嘆き程度であった。

 背広の研究者が戸別訪問すると、まず税務署、次いで警察関係者と誤解された。その警戒を一旦解きどこでも出される枝豆をつまみながらの話となっても政治は差し障りが多いと口が重くなった。

 投票に買収ないしそれに近い報酬が出まわっていると察しられたが確証は得られない。こうした一般家庭の戸別訪問をまめに回るのは助手たちだけで、スタッフ連は体裁にこだわるのか、労力を惜しむのか、または細部の問題に無知をさらすのを恐れたのか、町役場とか、農協の事務所などのボス達との格式張った話しか聞かない。そこで全体像を構成する相互討論でも、下からほり出

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した政治、経済の対立関係をボスの力で皆丸くおさまったものと結論したがる矛盾が生じた。

 調査の基本姿勢の不統一であった。一つにはまず事実を発見し、その後に理論を考察するという姿勢がなく、適用すべき理論をまず見つけようとする性急さだったのであろう。その結果報告をまとめる段になって、農民側に立つラディカルな見解と、町の有力者層の反乱抑止型の意見が食い違って、世論の批判を恐れるスタッフ達は報告執筆を怠り、総括にいたらぬまま放棄されてしまった。これは単に一調査の成果ばかりでなく、その後の調査全体の空気となり、助手は労力のみ多くして業績は残せない結果になった。

2 島村。

 これは関東の村の規模として面積、人口がほぼ平均的で、地理的にも関東平野の中心部、商工都市に近在するモデルとして選択された。前者のような革命的政治運動が顕在しないことも考慮されたと思う。ただこの村は 1955 年に境町に合併されたが、中心部が利根川の中州になっており、村の統合にはかなり困難な要因をもっていた。この村には高良とみ参議院議員(1952年に始めて訪ソを果たし、さらに帆足計、宮腰喜助と訪中して初の日中貿易協定を締結した)の生家(蚕糸業の問屋でキリスト教徒だった)があり村人の尊敬を受けていた。

 ここでも私は先乗りをしたが本隊出発の日寝過ごして列車に乗り遅れ、特急で別の道から何とか本隊が到着する時迄にかけつけた。こうした失敗で無能助手の評価を受けたのかも知れない。林に最初に起用されるのは実力検討の意味があるよと警告されたが全然気にしなかった。ここでは私がさきに経験した選挙調査にならって、有権者名簿からランダム・サンプリングで抽出して訪問者を特定する、統計学的に厳密な方法を採用した。しかし質問項目が村民の要求と結びつかず、その回答からあまり明確な問題意識を見い出し難かった。村民の意見は全国的な世論の動向に安易に追随する傾向を確認したにとどまった。朝鮮戦争開始直前で吉田首相が南原東大総長を「曲学阿世の徒」と罵ったり、大学の左翼教授追放の声がやかましい時期であった。この調査で副産物となったのは、時ならぬ若い学者多数の来村を迎えて、村の青年たちが大いに学習意欲を高め、助手の一部もそれを歓迎して座談会を二回組織し総員が発言して大いに熱弁を振るい賑やかな交流が行えたことだ。私の宿泊した家の青年にはその後早大を経て町議会議員を何期か勤めるほどの影響を残した。

3 神指村。

 調査の成果がなかなか纏まらないので、経済部門の主張によったと思うが、幕末時代からの庄屋文書の研究を進めていた福島大学の玉山勇、庄司吉之助教授らの協力を得て、成果をあげようとしたようだ。その反面政治・法律関係ではさっぱり問題がつかめず、外部から参加したT調査員が偏執狂的で、ある部落の冬季の下水溝の溢水をめぐる紛争を過大評価して全般の調査を妨げる言動がありほとんど成果無しに終わった。

4 下河津村。

これはどうして選定されたか不明だが、伊豆の東南部農村で、温泉もあり、温

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暖な農漁村であった。半島の交通不便のため、幕府時代からの若者組の組織、規約などが残っており、その聞き取りは興味があった。これは磯田の持論の村落構造の研究の視点で潮見が選定したのかも知れない。

 私の関心からすると調査がますます現代から離れて、学者の興味本位に走る傾向を感じた。偶然の出会いだったがこの村に大矢好治という米国で花栽培の技術を勉強した指導者がいて、当時としては珍しいカーネーションやバラにビニールハウス栽培を導入し東京への出荷を指導し、大きな成功を収めていた。米作中心の農業学者は重視しなかったが、その後五十年静岡県一帯に定着、発展している。

5 強戸村。

 これは社研に行政管理庁から廃止報告が出された状況下で「コンミュニティーの研究」に研究所全体で取り組むことになった調査であった。私はすでに社研に残れない状況で最後の助手論文に没頭していたからくわしい事情に通じなかったが、調査方針で助手たちがスタッフと衝突し調査は中絶の形に終わったようだ。

 この村は昭和初期に農民組合が強く、土地闘争に勝利して村政まで手中におさめた希有の歴史をもっていた。第一回普選に日本労農党から須永好が立候補したが、当時八百軒の村で五百軒が組合員で村長も農民組合、村議二十五名のうち十九名が組合員という状況であった。その伝統で当時も日本農民組合の勢力が強く、戦後第一回の総選挙でも須永を衆議院(社)に送っていた(46 年死去)。それを太田市出身の大島太郎助手が知っていて推薦したのだったと思う。

6 木屋平村。

 これは私は参加していない。磯田が自己の村落構造の理論を実証する意図で小グループで行い、まとまった単行本の成果をあげた例である。調査員の統制と検証すべき理論仮説の提示が不可欠なことを示した。この外川崎市の市政調査というものも、通勤で行い疲労が大きかった。報告も書いたはずだ。

§5 理論と実践。

 その頃私はようやく自分は社研の調査その他の業務を継続的に忠実に果たすことを期待されず、個人で論文を書き他大学の教育職に転出することを求められていると理解した。就任の際は任期3年、後に1年延期を認められたものの調査と雑用に明け暮れた。

 1950年1月には「政党の社会的基礎」と題した政党の地域別得票とその都道府県の職業別分布との相関から、その支持層を探ろうとした論文を提出したが、数理的分析を政治学に持ち込んだこと、また経済学部の増山元三郎ゼミで学んだ推計学による相関係数の意味の検定を加えた部分などが特に理解されず昇格を認める空気では無かった。

 助手仲間の進退を見ると松村は1年半、塩田は3年8ヵ月で退職したが、特に塩田は社会運動が専攻で左派の学界では早くから著名だったから所内での昇格は有力視されていたが激論の末否決されたと聞いた。続いて下山は3年8ヵ月、渓内謙は3年6ヵ月、川田侃は2年7ヵ月、近江谷左馬之助は4年、喜多川篤典は3年6ヵ月、中木

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は4年3ヵ月それぞれ適職がある時他大学に転出した。私は調査に長く携わって職人的な
fact-finding の実力を養いたいという希望を強めていた。

 私(7年)のほか中小企業の調査に熱を入れていた松本達郎(6年11ヵ月)、政治史の小山(5年2ヵ月)、ソ連経済の竹波(6年8ヵ月)、ローマ法から法契約の本質を考えた吉野(5年)、宗教改革から人間性と政治を考えた阪本(病気欠勤を含めて9年)が研究専念派だったかもしれない。

 だがここには技術指導をする親方がいないから何とか自分自身の理論を確立する事が急務であった。

 当時丸山は東洋政治思想史の講義を開始したばかりで、私は「超国家主義…」には感激し、一連の福沢研究に興味を引かれたが、思想に重点がおかれ過ぎている、政治制度や大衆の政治意識が評価されないなどとして東洋政治思想史と政治学は隔絶していると考えていたらしい。

 マルクスがどこかで「事物の論理」という概念を使っていたように記憶するが、それを発見することが私の理論研究の目標だと思った。何をテーマとするかについてはマルクス主義では当時必ず理論と実践という問題を迫られた。机上の空論より階級闘争に有効な実践に励むべきだというのである。それは活動への参加を求めていたのだが、私は行動のみが実践ではない、理論活動の中で現実とかかわる理論を取り上げる事が学者としての実践だと考えた。

 日本の革命は米占領軍の撤退や世界情勢での左翼勢力の優越が起きなければ不可能だが当面は日本のファッショ化を阻止することが目標でそれに有効な課題を研究することが最も実践的だと考えたが具体化は難しかった。

 当時自分自身にも偏りがあった。私は色弱のため幼児から他人との色彩の認識の不一致に悩まされ、自己の認識の客観性に自信をもてなかった。逆に読書能力は小学一年で六年の教科書が初見ですらすら読めておおむね理解でき、その点での同年者との相違も懐疑主義につながったのかもしれない。

 中学時代から旧盛岡藩出身で母の実家と古くから交流があった元国際連盟事務局次長新渡戸稲造を尊敬していた。その『内観外望』(1933 年)に「教育とは学校で習ったことをことごとく忘れた、その後に残っているものをいうのだ」、「大学で聞いた講義のノートなどを持ち出してチャプター・エンド・バース〔to give chapter and verse=引用句の出所などを明らかにすること〕をやっている時代はまだ本物でない--すっかり自分自身の物になり切った、パーソナル・コンヴィクションになった、それがほんとうの教育である」と述べている。さらにデカルトの説を聞き自分で検証するまで他人の説をうかうか承認するまいとした。

 それは一種の経験主義になろうか。そこで戦後の民主主義全盛期に政治学を研究しようと心掛けていながら、当時全盛のプラトン、アリストテレス、マキアベリ、ホッブス、ロック、ルソー等々の古典やブライスの近代民主政治などをまず学習する方法をかたくなに避けた。そして就職論文執筆以後現実政治に直面してそれを分析することを第一とし、初学者がたどるべき理論研究を後回しにしていた。社会科学の理論でも留保を続けた。講座派、労農派どちらもマルクスの解釈論争で、その依拠した経済・政治史的事実、理論的問題を自ら原資料にあたって著者

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以上に分析しなおす意欲は欠く訓詁学と思った。たとえば天皇制は絶対主義か、近代君主制かと争っていても、マルクスは何を絶対主義、何を近代君主制としていたかを検討する事もなかった。

 そこで私は当時マルクス主義に全面的に傾倒する意思は無く、ソ連や共産主義には批判意識を持ちつづけようと努めた。1949年のメーデーに初めて参加して赤旗の波に生理的違和感を覚えた位だった。マルクス・エンゲルスもその現実性に魅力を感じて基礎的に読み進み、その歴史的業績には大いに傾倒したが、その「具体から抽象へ」という段階には足踏みをしていた。

 資本論も第一巻までは学んだが、第二巻中途あたりから、経済、金融の知識がなくては自分には空論だと足踏みした。初期マルクスや、ヘーゲル批判などまで研究が及ばずマルクスにはあまり政治理論が無いと感じ、エンゲルスに注目したが、その『家族、私有財産及び国家の起源』の実証性には疑問を抱いた。この段階で適切な指導をしてくれる先達を持てなかったのは不幸であった。宇野などにはそんな関心は無かった。こうして私は七年の長期間さまざまな得難い体験を得たが、社研の方針に従って調査の専門家という展望をあきらめ、十分な学者としての準備も出来ぬまま専修大学へ転出することにしたのである。
§6 社会的活動

 社研に入って間もなく先輩から慶応大へ行かされた。京浜地区大学高専助手研究生連絡会とかいうものの初会合だった。そこで戦災後の研究の困難を打開するために東大図書館の利用を各大学に開放してほしいと要望が出て、東大から独り出席した私が図書館にその旨依頼することになった。当然の事と考えた私は帰って司書官に面会し、趣旨を伝えたところ数日のうちに所長に呼び出された。図書館からの苦情を受けた「イワン雷帝」矢内原所長は、新任の助手が権限もない図書館に申し入れをするとは何事かと卓をたたいて叱責した。こちらはその剣幕に震えたが何が悪いのか、戦後の困難を互いに助け合って乗り切るのが当然だ、先生の主張通りではないかと一歩も引かずに抗弁したらやがて所長は破顔一笑君の言い分は正しいが世の中には正義も通らないこともあると非難を撤回した。所長とこんな対決をした助手は私一人だっただろう。

 党に入ると政治的活動が要求された。社研の職務、自己の研究と重なり忙しさがトリップルで目が回るようだった。まず東大法・経・文などでは教授の圧力で作られていなかった労働組合組織を社研で作ろうと1949年2月に塩田を委員長に結成した。助手以上の加入は無かったが、これは当時の社会では当然の行為であまり困難もなかった。しかし組合を拒否する事務長直結の職員と、図書室、用務員との亀裂を生んだ。又思いがけなく経済学部や法学部の図書室系職員たちがそれぞれ職組をつくる刺激を生んだ。私はここで唯一可能な事は教職員の親睦と差別の廃止だと考え年末忘年会などを全員で楽しくやった。5月には大学管理法案反対闘争の委員

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に押し出された。占領軍の意図で政府・与党がしきりに制定の動きを見せた大学の自治をおかす政策で左派の政党・労組・学生はもとより、各大学当局も反対していた。いち早く全学連は運動を展開していたが、5月 28 日全国 70 大学学生参加で大学法対策全国協議会を結成した。これに教職員が加わる形をつくろうと、社研山之内、農学部近藤康男、古島敏雄、大阪大伏見康治、都立大寺沢恒信など少数の教員が参加し、私も山之内の補佐役として学生との連絡にあたった。気炎はあがるが左翼学生ばかりで各大学内での実勢力は頼り無かったが、大学当局もこの運動には教室利用などを許した。

 当時CIEのイールズが新潟大学で左翼教授追放の演説を行ったので、教授連でこれに反撃しようと、総司令部 CIE に7月16日ルーミス、8月4日にはイールズを訪れ米国の有名な Holmes とBrandeis 両判事の a clear and present danger を生み出す状況がないかぎり言論を抑制すべきではないとの判例をあげて、左翼教授の学問の自由を擁護した。民間でどこかの州の countyの教育長だったらしいイールズはそんな憲法の常識すらなく答弁に詰まった。この時案内した学生が高沢寅男(故社会党議員)と戸塚秀夫(元社研教授)だった。この頃から学習運動の助言者も命じられて様々の会合に出掛けた。大学法の解説から破壊活動防止法案など次々とテーマは変わった。スターリンの社会主義経済の諸問題なども大真面目に指導した。塩田退職で社研職組委員長になった 49年12月、恒例の年末一時金闘争が東大職組でも盛り上がった。当時南原総長は対日講和の意見交流で渡米中で瀬藤象二工学部長が代理であった。

 大学事務局の警備不足をついて組合側は大衆交渉にもちこみ、馴れぬ瀬藤に一時金支給の調印をさせた。これが懲戒問題となり約二年公聴会での係争の後原田正道委員長(第二工学部助教授)、大山勲副委員長(理学部助手)は休職、身分保障の無い福本書記長(本部事務局事務官)は気の毒にも解雇となり東職はその救援活動も出来ず、行き詰まった当人は数年後自殺する悲劇に至った。

 この間朝鮮戦争が始まり共産党議員は追放され、幹部は地下活動を開始しいよいよファシズムの出現と緊張した。アカハタが戦争報道により発行禁止となると、戦前の経験にものをいわせて党は次から次へ禁止をくぐってその代替紙や、「占領目的阻害行為禁止令」違反となるコミンフォルム機関紙「恒久平和のために!人民民主主義のために!」、地区の党紙などの非合法紙を発行した。

 その秘密配付が党員の大きな仕事となり、現物を持って警官に自転車の無灯火で意見されたり、大晦日に大量の束を受け取り、新年は縁の下に隠し持ったりヒヤヒヤした。東職本部が懲戒反対闘争に明け暮れているうち連合体の東職の各単位組合は休眠状態におちいった。

 委員長交代が出来ず1年半が過ぎた。組合保全のため放置出来ないとついに 51年4月頃組合新参の私が半年と期限をきり工学部助手の高橋昇書記長(現『技術と人間』編集長)と組んで委員長になった。私は3月に結婚したばかりであった。初代の長畑一正(病院)二代原田は助教授で助手は異例であった。就任にあたり社研のスタッフに挨拶したら昇格に響

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くと警告されたがそんなことは無関係とつっぱねた。医学部(付属病院)、農学部、理学部、工学部、第二工学部(千葉)のほか学部には単位組合は無く、地震研、本部事務局、史料編纂所、理工研、新設の社研の連合であった。

 しかも朝鮮戦争開始から一年、米占領軍の戒厳体制はますますきびしく、学内には本富士署の私服刑事が多数歩きまわっていた。1952年2月の「ポポロ事件」で学生が取り上げた私服刑事の警察手帳(「吾々は告発する-警察手帳の全貌-」)にも私の大学への出入がメモされていた。当時東職委員会はかろうじて四五人の出席で、活動といっても最低限の情報ビラを委員長、書記長と学生書記の四人位で大学構内各所にちらばる連絡のない単位組合の職場まで配って歩く始末だった。だが病院の看護婦が組合のビラなど何年振りと感謝され、工学部の技術実習担当の高齢の元労働者などは、好意をもって受け取りながら弾圧されるぞ気をつけろと戦前の経験を語って励まされた。

 外部では書記長と二人だけで芝公園のデモ禁止のメーデーや労働者決起大会に参加したり(手帳に記載)、無謀にも少数の委員会で差し迫るサンフランシスコ平和会議に向かって 8.15までの数日講演と映画の「平和祭」を計画、人脈を存分に生かして法哲学の尾高朝雄、大河内に紹介された官庁エコノミストの稲葉秀三、渡辺一夫にことわられて一高の恩師フランス文学の市原豊太の三氏を引出した。

 それに毎日一本づつ反戦映画、「また逢う日まで」「大いなる幻影」などを上映した。これで少しは組合員も参加するかと期待したが、強権横行の時代、私服刑事が入り込む状況で学生(夏休みで半年後の「ポポロ事件」の時のように刑事を捕らえるほどの数がなかった)や、ひそかに呼びかけた本郷周辺の労働者、在日朝鮮人の方が多かった。

 最後の8月 14 日第二食堂で平和祭を開こうとしたが、まず大学の用務員、それを説得すると本部事務員、さらには鉄門前に集結した本富士署から、無届け集会禁止で解散を命じられた。組合員の集会だという弁明は参加者を一目すれば崩れる。日頃大学当局は学生デモに対し学内に警察権力を入れないと、大学の自主規制で処理している状況を考慮すると、ここで警察の立ち入りを招くことは影響が悪いと判断して、残念ながら委員長の独断で解散し、参加した朝鮮人に軟弱だと非難された。

 翌日は本富士署に任意出頭で高橋と二人敗戦記念日の暑い西日の中尋問され、前途ある東大の助手が労働者や朝鮮人と共闘するとはと戦線分裂をはかったり、突然机を叩いて怒鳴ったり、硬軟使い分けでさんざん脅かされたが弱音は吹かなかった。

 その夜は大田区の工場で非合法の平和決起集会に参加などした。東職は東京都大学高専教職組連合(略称ダコセ)に加入していたので、その線で総評の平和闘争に参加し、8月末には浅草の仁王門の真ん前の歩道で、すぐ後ろに交番をひかえながら、平垣日教組中執とともに生まれて初めての街頭演説をやり、幼少期の上海の状況を述べて講和後も続く日本の主権喪失を訴えた。

 9月初旬には総評の平和推進国民会議主催の朝鮮戦争後初めての大規模の平和集会とデモに参加して感激した。場所は意外な靖国神社境内、デモも両国震災記念堂だった。インドのネルー首相から友好の象が贈られ、宗教者平和運

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動協議会の日蓮宗妙法寺僧侶が団扇太鼓で参加したり、1年半に及ぶ占領軍の戒厳令的治安に抗した民衆の平和的感情が爆発した。全面講和、再軍備反対、中立維持、軍事基地反対の平和四原則は参加者の大きな願望であった。このデモで私たちダコセグループが先頭に立って組合旗をかかげて行進する姿が『人民日報』に掲載されたと聞いて快哉を叫ぶような子供じみた気分であった。すべて蟷螂の斧であった。

 嵐のような半年はまたたく間に過ぎ、11月には南原後任の総長選挙で、農学部が推した岡田教授を委員会でしりぞけて東職として矢内原を支持し(12月3日当選)最後の統一戦線の仕事を終わった。その後遠山茂樹(史料編纂所助教授格)が後任と決まり、私は破壊活動防止法案反対のための解説執筆や、小集会での報告、講和発効後のメーデー事件など緊張した日常を続けつつ、僅かな余裕を得て二度目の助手論文「戦後日本の警察と治安」を執筆した。尚政治研究そのものについては幸いに専修大学法学研究所紀要 29『政治学の諸問題 Ⅵ』(04年3月)にこの続編として掲載を許されたので併読をお願いしたい。

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〈編集後記〉
 12月号をお届けいたします。福島所員の論考は単なる回顧録にとどまらず、今日でもなお多くの問題提起をし得るものでした。

 社会科学を志す者にとって、理論と実証のバランスはいつでも難しい問題を孕んでいるように思われます。理論なき実証は単なる事実の羅列を招く恐れがありますし、逆に実証という作業は理論に対して絶えず修正を迫ることにもなるでしょう。こうした理論と実証の間の相互補完的発展性は常に念頭に置かれなければなりません。すなわち、原資料にまで下りて、それを丹念に、かつ批判的に読み込んだり、あるいは、自らの理論の枠からはみ出した調査結果を謙虚に受け止めたりする姿勢が研究者には求められているといえます。また、「理論活動の中で現実とかかわる理論を取り上げる事が学者としての実践だ」という筆者の主張は正鵠を得たものです。一方で自らの専門を極めつつ、他方では、大学教育の場において現代社会の諸問題との接点を常に意識することによって、研究者は自らの研究成果を社会に還元することが可能となるように小生には思われます。

 さて、教員としてのわれわれは、「学校で習ったことをことごとく忘れた、その後に残っているもの」を今日の学生にどれだけ与えることができるのでしょうか。(Y.S)

神奈川県川崎市多摩区東三田2丁目1番1号 電話 (044)911-1089
専修大学社会科学研究所
(発行者)柴田弘捷
製作 佐藤印刷株式会社
東京都渋谷区神宮前2-10-2 電話 (03)3404-2561
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官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介


官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介




官僚制度と計量の世界(21) 執筆 夏森龍之介






福島新吾―体験戦後史 1945~47―旧制一高、東大法学部、学徒出陣、東大社会科学研究所助手時代ほか-


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「日本計量新報」今週の話題と重要ニュース(速報版)2024年01月04日号「日本計量新報週報デジタル版」

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「計量法の読み方」全章 |

計量法が定める皮革面積計を解かる (写真と日本産業規格(日本工業規格)JIS B 7614:2010皮革面積計によって理解する)

皮革面積計

計量法が定める皮革面積計を解かる
(写真と日本産業規格(日本工業規格)JIS B 7614:2010皮革面積計によって理解する)



シンボル操作(symbol manipulation)
社会学用語。それ自体は客観的であったり、また多義的に理解されているような物や言語や行動様式をシンボル (象徴) として使い、特定の意味内容をこめて多くの人々のそれへの同調ないし反動形成を促し、一定の方向に行動させること。シンボル操作の典型的な技術の一つが、人々の態度・行為・価値観をあらかじめ意図された方向へ誘導するための組織的コミュニケーション活動といわれる政治宣伝である。マス・メディアの驚異的な発達と宣伝技術の高度化により、現代社会ではシンボル操作の余地は拡大した。


私の自転車物語 | 「計量計測データバンク」とその情報 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

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【第5回】医系技官として国の健康課題に向き合う | 連載 | 未来のドクターへ、期待以上の出会いを。【マイナビRESIDENT】 (mynavi.jp)
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計量計測のエッセー ( 2018年1月22日からの日本計量新報の社説と同じ内容です。)


計量法の皮革面積計の規定そして実働する皮革面積計

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