「計量計測データバンク」サイトマップ


官僚制度と計量の世界(26)
Bureaucracy and Metrology-26-
弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-
Small countries grow taller and World War II
目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃-その2-

日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2- 執筆 夏森龍之介

(計量計測データバンク編集部)

官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2- 執筆 夏森龍之介

官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 業-その2- 執筆 夏森龍之介

(見出し)

官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 執筆 夏森龍之介


写真は1941年3月26日、松岡洋右外相がベルリンにヒトラー総統訪問のために降り立った当時のベルリンのアルハンター駅。このころががヒトラーへのドイツ国民の熱狂の頂点であった。
アルハンター駅は第二次世界大戦前、ベルリンにはいくつかのあったターミナル駅の一つ。19世紀中ごろにベルリンとドイツ中部のアンハルト地方(現在のザクセン・アンハルト州)を結ぶ駅として建設されたため、その名に因む。後にベルリン発着の国内外の長距離鉄道の玄関駅の一つとしてとしてにぎわった。


2005年の駅の柱廊玄関。
現在みられるアルハンター駅建物跡は1880年に完成したもので、時のヴィルヘルム1世とビスマルクが落成式に参席した。ベルリン中心部に近く、内外の政府要人が降り立つ堂々たる威容を誇る駅は「カイザー・バーンホフ(皇帝駅)」の異名をもつ。第二次世界大戦の空襲で徹底的に破壊された。現在は正面のファサード部分をわずかに残すのみであり、近くにある同名の近郊電車Sバーン駅が地下に現存している。また、大戦中には大勢のユダヤ人がこの駅からチェコ経由で各地の強制収容所に送られたことを示す案内板が建てられている。

(本文)

日本(1941年4月13日)とドイツ(1939年8月)の対ソ連との相互不可侵条約

日ソ中立条約 1941年4月13日にモスクワで調印

 ソビエト連邦共和国(略称はソ連、ソ連邦)であるソ連と日本ならびにドイツは相互不可侵条約を結んで、対英米戦争への備えとした。スターリンのソ連とドイツならびに日本の間では事実上名目に過ぎないものであり、実際にドイツはポーランドを攻め落とすとソ連へ侵攻した。ソ連はヤルタ会談の密約によってドイツの無条件降伏の日、1945年5月7日から二カ月から三カ月を準備期間として日本に宣戦布告して満州、南樺太、千島列島に攻め入ることになる。日本だって隙あらばソ連に攻め入ることを考えていながら、ソ連が不可侵条約を破棄して攻め込んできたと、ソ連の非正義を攻める。

日ソ中立条約の内容とソ連による破棄と1945年8月9日の満州への侵攻

 日ソ中立条約は、日本とソ連が1941年4月13日にモスクワで調印した。両国の平和友好関係と相互不可侵を定め、一方の国家が他国と戦争になった場合、もう一方の国家は中立を保つことを約束しました。

日ソ中立条約の内容
1、両国の領土保全と相互不可侵を尊重する。
1、締約国の一方が第三国の軍事行動の対象となった場合は、他方は中立を守る。
1、有効期限は5年で、満期の1年前に締約国の一方から破棄の通告がなければ、さらに5年間、自動的に延長される。

日ソ中立条約におけるそれぞれの思惑
1、日本にとっては北方の脅威が減り、南方への進出に力を注ぐことができる。
1、ソ連にとってはドイツと日本を同時に相手とする二正面作戦を回避できる。

日ソ中立条約の破棄

 1945年4月5日にソ連はモロトフ外相がモスクワ駐在の佐藤尚武大使をクレムリンに呼び、日ソ中立条約は1年後に期限が切れるが延長しない方針であると伝えた。1945年8月8日にソ連は日本に宣戦布告し、翌9日、一斉に150万の軍が国境を越えて満州に進撃した。

独ソ条約 1939年8月にモスクワで締結

 独ソ不可侵条約は、ドイツとソ連が1939年8月にモスクワで締結した条約。

独ソ不可侵条約の内容

1、相互に武力行使や侵略行為、攻撃を行わない。
1、一方が第三国の戦争行為の対象となった場合は、もう一方は第三国を支持しない。
1、共同の利益にかかわる諸問題について、将来互いに情報交換を行うため協議を続ける。

独ソ不可侵条約の目的

1、ポーランドへの侵攻を回避する狙いがあった。
1、第一次世界大戦で西のフランスと東のソ連を同時に相手取ることになり苦戦を強いられた反省も生かされている。

ソビエト連邦共和国

 ソビエト連邦は、1922年から1991年までユーラシア大陸北部に存在した社会主義国家。正式な国家名はソビエト社会主義共和国連邦。複数のソビエト社会主義共和国から構成される連邦国家であった。首都はモスクワ。国土面積は約2,240万km2で、世界最大の面積を有していた。国土の南西ではアジアとヨーロッパの各国と国境を接しており、一方の北東部では、海を挟んで北アメリカ大陸と向かい合っていた。人口は1991年時点で2億9,010万人に達し、当時の世界において中国、インドに次ぐ第3位であった。

 第二次世界大戦後、解体するまでの40年以上に渡り、米国と並ぶ世界の超大国の地位を維持していた。軍事力や経済力、代理戦争、発展途上国への影響力、宇宙技術や兵器を中心とした科学研究への資金提供などで、東中欧をはじめ世界的に覇権を行使していた。

1941年4月13日日ソ中立条約に調印

 松岡洋右外相は、ドイツ訪問のあと、1941年4月13日にソビエト連邦のモロトフ外務大臣と日ソ中立条約に調印する。この条約は、締約国のいずれか一方が第三国の軍事行動の対象となった場合に、他の締約国はその紛争の間は中立を守ることを規定していた。一方、日本とドイツとイタリアは、1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟を締結。この同盟は、アジア・ヨーロッパにおける三国の指導的地位を相互尊重し、日中戦争とヨーロッパ戦争に参加していない国(ソ連を除く)から加盟国が攻撃された時は、相互援助することを約束している。

日本ニュース 第46号 松岡外相ヒトラー総統を訪問

 このニュース映像をNHKが記録として残している。アナウンサーが読んだニュースの文章は次のようであった。(動画映像URLは https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300431_00000&chapter=004)

 硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にヒトラー総統を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸(ここで映像中断)。

1941年3月26日、松岡洋右外相がベルリン訪問のころがドイツ国民のヒトラーへの熱狂の最高潮の時期

 松岡洋右外相がベルリンのアルハンター駅に降り立ってヒトラー総統を訪問したときのドイツ国民の歓呼は大変なものであり、この時がヒトラーへのドイツ国民の熱狂の頂点であった。時は1941年3月26日夕刻。ドイツは独ソ不可侵条約を1939年8月に締結しており、このときドイツとソ連の戦いはまだ始まっていなかった。松岡洋右外相がベルリンを訪れたその足でモスクワに向かい、日ソ中立条約を1941年4月13日にモスクワで調印、締結した。

 ヒトラー・ドイツは対英仏戦線で優位にあり、日本が南方の英仏領に侵攻することをけしかけていた。英仏の力が南方に削がれることはドイツにとって優位に働くからである。

ベルリンのアルハンター駅

 松岡洋右外相がベルリンのドイツ迎賓館にヒトラーを訪問したときに降り立ったのがベルリンのアルハンター駅。ドイツ中部と南部、オーストリア、イタリアへの接続に駅であった。

 第二次世界大戦前、ベルリンにはいくつかのターミナル駅が在った。アンハルター駅はその一つで、19世紀中ごろにベルリンとドイツ中部のアンハルト地方(現在のザクセン・アンハルト州)を結ぶ駅として建設されたことから名付けられた駅名である。後にベルリン発着の国内外の長距離鉄道の玄関駅の一つとしてとしてにぎわった。

 現在みられる建物跡は1880年に完成したもので、時のヴィルヘルム1世とビスマルクも落成式に同席した。ベルリン中心部に近く、内外の政府要人が降り立つ堂々たる威容から「カイザー・バーンホフ(皇帝駅)」の異名がある。
 第二次世界大戦の空襲で破壊され、戦後の混乱期は応急的な修繕を行って使われていたが、連合国によるドイツ分割統治によりアルンハルター駅のある西ベルリン地区は、東ドイツの中にある西ドイツの飛び地状態となったことから鉄道網が寸断、1952年には営業を停止。1959年には正面のファサードを残して解体された。

ヒトラーのナチ時代

 ヒトラー率いるナチス政権は、1933年1月に成立し、1945年4月30日のヒトラーの死まで存続。この時代は「ナチ時代(NS-Zeit)」と呼ばれ、第二次世界大戦の敗北とともに終わる。

ドイツ文学者がドイツ国民はなぜヒトラーにに熱狂したのか、と問う

 次の本がある。『ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』池内紀著 (中公新書 2553、発行日2019年07月25日)。

 ナチス体制はなぜ短期間に実現したのか。国民がそれを支持し続けた理由は何か。ヒトラーの政治家デビューから人気絶頂期まで。泡沫政党だったナチスの党首アドルフ・ヒトラーは、圧倒的人気を獲得し、権力の座へ駆け上がった。独裁制はなぜかくも急速に実現したのか。ドイツ国民がそれを支持した理由は何か。アウトバーン建設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産、労働環境の改善、社会福祉の拡充といった巧みな施策、そしてゲッベルス主導のプロパガンダ、ゲシュタポによる弾圧。という内容である。

 ヒトラーへの熱狂をドイツ文学者の池内紀は概説的な論拠を引張り出して説明する。アウトバーン建 設、フォルクスワーゲン(国民車)の生産をその事例として挙げた。ドイツ文学の翻訳者として書き残しておきたかったのだろうが、泡沫政党だったナチスがのし上ると他政党を潰して一党独裁の政権を築き上げたことを説明するには不十分だった。従って書名である「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」著書では未解明のままになっている。

 ヒトラーのナチスは軍部のなかから湧き出たのではない。第一次世界大戦で打ちひしがれたドイツの経済苦境からの復興は軍需産業への過度な依存によってなされた。生産物としての軍備によって近隣国に侵攻し領土を略奪。併合した国からの資源と食料品を略奪する経済として回転するしかなかった。これを実行に移すも対ロシアの東部戦線ではスターリングラードに攻め込むも返り撃ちに合う。西部戦線はノルマンデーに上陸した米英などの連合軍が優勢となりドイツ軍はライン川の内側まで押し返された。

ヒトラー時代のドイツ経済と軍需産業の興隆

ナチス・ドイツの経済


 ナチス・ドイツの経済(ナチス・ドイツのけいざい)では、1933年から1945年までのドイツ、いわゆるナチス・ドイツ時代のドイツ経済の概要。

 ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達した。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)。

 ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。ドイツの恐慌からの回復は軍需産業に依存していて民間消費拡大をともなわなかった。ドイツ経済は外貨不足が続いていたため、資源の輸入ができない状況にあった。軍備拡大は膨大な国家債務を伴なった。1936年からは自給自足経済の掛け声で第二次四カ年計画を開始する不達成となった。1938年には軍備生産を三倍化計画を立てたが、財政危機により不完全なまま第二次世界大戦に突入する。

 戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省が指導する体制になった。占領地のポーランド人の強制労働などによる収奪が始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となって軍需生産は拡大のための総力戦体制を敷くも、東部戦線、西部戦線などでの後退があり、戦局の悪化がつづく中にドイツ経済は破綻した。

 ヒトラーは1933年2月8日の閣議において、「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、いつでもどこでも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」との述べている。ヒトラー時代のドイツ経済政策は軍備拡大が達成しえない目標として掲げられていた。

 ドイツ経済政策は、民族共同体の構築、東方への侵略と植民による「レーベンスラウム」つまり生存圏の拡大であり、そのために軍備拡張のための軍需生産が無理矢理に実施された。

軍務の素人 陸軍伍長にして連絡兵のヒトラー

 ナチスのヒトラーとヒムラーは軍務の素人であった。ヒトラーは第一次世界大戦では普通兵で伍長であり軍の連絡役をしていた。

 ヒムラーは当初ら海軍士官に志願したが、眼鏡をかけていたために受け入れられず、バイエルン王国の第11歩兵連隊フォン・デア・タンに入隊。レーゲンスブルクで6か月の歩兵訓練を受けた後に、1918年6月から三カ月間士官候補生のコースののち、バイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた。第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊。1919年10、ミュンヘン工科大学に入学して農学を学び1922年8月1日、学位を取得して卒業。

 士官教育を受けえていないヒトラーがドイツ軍の大本営参謀として戦争を指揮した。ヒトラーの戦争政策は失敗に帰し、これが明らかになってからは士官学校出の将軍たちが反発し、ヒトラーの暗殺行動を何度も起こしている。

脆弱な経済基盤の上に構築されたドイツの軍事産業

 長期の戦争を維持するための経済基盤に米国およびソ連と開きがあったドイツ軍は劣勢に回ると脆さが露呈する。航空機あるいは戦車あるいは銃などの個別の性能がわずかに優れていても長期戦になると軍備の補強が勝敗を決める。米国は第二次大戦が始まると連合国への武器供与のために国の産業を軍事産業に振り向けた。

 1945年2月ヤルタ会談のときには完全に戦況が決していて、その後の世界の分割をどのようにするかがアメリカ、イギリス、ソ連の首脳によって決められた。ドイツに対しては完全に無条件降伏であり、日本に対しても同じであった。ドイツの無条件降伏の二か月後から三カ月後にはこれを準備期間としてソ連が日本に侵攻する密約が交わされていた。はかったようにドイツの無条件降伏があった1945年5月7日から三カ月後の8月9日にソ連は満州、南樺太に攻め込んだ。ルーズベルトは日本が本土決戦を遂行すれば終戦は一年は伸びることになり、米軍の損害が大きくなることを想定して、ソ連と組むことで終結を早めようとした。1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分の長崎に第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を投下した。三日前の8月6日(月)午前8時15分にウラン235を用いた原子爆弾を投下している。広島型原爆は二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、臨界量を超過させて起爆するガンバレル型。

広島、長崎への原爆投下 ソ連の満州への侵攻 焦土日本と敗戦「なぜこのようになってしまった」

 本稿は次の問いかけを追う作業として資料を集め、書き出して何らかの答えを引き出そうとする。焦土日本と敗戦「なぜこのようになってしまったのか」。

 第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進み、学徒動員につづく幹部候補生の途中で結核のため招集解除になり外務省の嘱託職員として終戦を迎えた男の問いかけである。

何故このようになってしまったのか

一、何故こんな馬鹿げた戦争をしかけたのか。
二、国民は何故あんなに興奮して戦争を歓迎したのか。
三、そこに何を期待していたのか。
四、軍隊は何故あんなに戦意が無かったのか。
五、国民は戦況不利の仲で、何故てのひらをかえしたように、統制経済にそっぽを向き、闇物資の入手に狂奔して経済を混乱させたのか。
六、何故現物があるのに闇価格でなければ流通しなかったのか。

外務省の嘱託職員として終戦を迎えた男の東京大学社会科学研究所助手としての戦後の出発

 男の戦後の生き方への模索である。男は一九四六年末の東京帝国大学新聞で新設の社会科学研究所の助手募集の公示を見つた。仕事場は自宅から徒歩三十分以内で通勤できる場所であり、研究機関なら勤務にも比較的余裕がありそうで体力的に耐えらるかと思えた。調査は外務省でも多少経験し、やれるかも知れない。当たって見ようと、とにかく法学部事務室に書類を求めに行った。するとまず戦時の仮卒業の条件で単位を取らずに卒業が出来ることが分かった。幸い「学徒出陣」前の学業成績は良くて、応募の資格は十分だ。これなら法学部助手にもなれるから、そちらを志願すれば良いとすすめられた。確認しなかったが、その人は多分南原教授の弟子の一人で後に中大教授となった小松春雄氏だった。

 私の東大法学部教授の学識、才能への信仰は未だ強烈だったので、戦時教育で未熟のまま「仮卒業」する身には法学部などとても近寄り難かった。一生かけて調査研究の下働きをやっていれば、何か仕事ができるかも知れない。またその中に戦後急速に脚光をあびたジャーナリズムを通して、民衆啓蒙の仕事も開けるか。戦時中、米国の実情を知らずに開戦した日本の軍人、政治家、官僚。開戦後も戦争政策に国民の総力を集中統合できなかった政治のありかた。これらの原因をつかむべく、日本の政治の実情を研究したいとの念願が強く、高度の理論教育に専念する法学部より社会科学研究所の方が目標に近いと思えた。

 初めに既に法学部で岡義武先生(日本政治史)の助手になっていた一高の同級生横田地弘君(後学習院大教授、欧州政治史)に話を聞きに行ったら、社研所員でやはり一高文丙の先輩、日本政治史の林茂先生を紹介された。訪ねると今度は矢内原忠雄所長に会いなさいとの勧め。戦時に多少の社会経験を積んで度胸が付いた私は平気で経済学部の二階の日当たりのよい研究室に突然訪問した。脱いだ外套を手にかかえ、先生の机の前に直立して応募の心得を質問した。先生は笑顔で気さくに話に応じてくださって、その態度にすっかり嬉しくなり、次第に一高で先生と同級だった伯父杉村英三郎(陽太郎の弟)のこと、自分の兄たちが神戸一中で先輩としての先生の講演を聞き騒いで叱られた話など話し込んでしまった。先生は論文を書く時は引用文献を明確に示すことを厳守するようにという点だけ注意された。

 論文の執筆中に、社会では、労働者運動の占領政策との最初の正面衝突だった二・一ストが計画されていた。あまり大学に出席しなかった一学生の身で、当時いち早く起こっていた学生運動にも関与したことがなく、労働運動については全く外部から新聞・ラジオで知っていただけだったが、ゼネストには、直接の利益はないが同様に貧困と食糧不足に悩む時とて何となく共感を覚えていた。その前夜、突然あの伊井弥四郎議長の涙ながらのスト中止のラジオ放送を聞いた。背後でMPにピストルを突きつけられての放送とは分からなかったものの、占領軍の強制があったことはよく分かり、何とか中止命令に批判や反論は出来ないのかと歯がゆく感じた。前掲の安倍先生の論説のように「占領・民主化」とは何であるのかと反米的な疑問を深めた。

 この日にたまたま社会科学研究所では開所記念講演会を開く予定で、年末に矢内原先生に、是非聞きに来たまえと勧められていた。当日ストは中止になったが事後の興奮に落ち着かず、行かなかった。南原繁東大総長、矢内原所長の挨拶と鈴木鴻一郎「日本現下の経済問題」、鵜飼信成「アメリカ法学におけるリアリズムとラショナリズム」の二つの講演が行われたが法文系二十五番教室も停電で暗く聴衆は僅かだったということだった。これが社研の公的活動の始まりだったので、今もこの日を開所記念日としている。

 三月二十二日に面接があった。朝二時間半ほど待たされ、十二時頃から三十分くらいの面接試問があった。まだ固有の施設の無い社研なので、経済学部の矢内原研究室に、矢内原、山之内、林さんら六人と記録しているから、他に嘉治真三(アメリカ経済地理)、内田力蔵(アメリカ法)、有泉亨(民法)らの諸先生が狭いソファーにすしづめに座っていたのであろう。

 所長には君の論文は文献の引用がしっかり出来ているとまずほめられた。後に聞くと前の志願者の論文が出典抜きで、学生によくある剽窃(ひょうせつ)まがいのものだったこととの対比であったようだ。だが論文中に「政治学の平均的概念」という言葉があるが、平均は統計学の厳密な定義にあわないから不適切だと批判された。それは後に「中間的」と改めた。今ならworkingconcept二作業概念とでもいうべきところだろう。また大学の成績表で政治学の単位を取っていないことが分かり、政治学を志望するのにと呆れられた。

 そこで、矢部教授の講義に不満で、受験に足踏みをしたと答えると、むしろ好意を持たれた。ほかにあまり質問も出なかったが、有泉さんが唐突に「君は講座派ですか」と聞いた。論文の末尾で「何故明治維新は天皇政治と結びついたか--その研究は唯物史観の環境による意識の規定の正しいか否かの証明ともなるであろう」と書いたところから出たものだったかもしれない。しかしこれは正に思想調査にもひとしく、後であれば、反撃したかもしれないが、当時「労農派」「講座派」の意味も対立も全く知らなかったから、返答のしようもなかった。この質問は社研が発足間もないのに、すでに両派の対立が人事に反映しかけていたことを示したのだろう。論文の中で、私が政治学の研究領域として立法に関する研究を法学が行わなっていないから政治学で取り扱うことが必要だと述べた点で、末弘先生に立法学を教えられたのかと内田さんに聞かれた。当時内田さんがその研究を手がけていたためだっただろう。

 また日華学芸懇話会ではその報告を聞き批判的印象を抱いた。山之内さんの側には記憶は無かったはずだが、私の学歴を見て自分も麻布中学の卒業(1913年、私と26年違う)だと名乗られた。

 私もその事は知らなかった。矢内原さんは一高で私の伯父と同級であり、また神戸一 中で私の兄三人の先輩にあたったので、そんな話が続いた。終わり頃に誰かに将来はどうするかと聞かれ、私には東大教授になるほどの能力は無いと思うので、新聞雑誌などで啓蒙的な仕事を見つけたいと答えて和やかに面接が終った。ともかく競争があるとはつゆ知らず楽天的な私は、論文をあまり批判されなかったのだからもう採用が決まったのだと一人決めしていた。矢内原さんの日記にその日、助手試験。応募者五人。私と下山瑛二を採用と記されている。

 ノートに25日午後一時に山之内さんから「最高点で採用」と聞かされたとある。翌々日は事務室から呼び出されて、兵役関係の質問を受けた。現役将校だったときは公職追放に該当するからだった。そして林先生と岡義武先生の研究室で3、4時間話したとある。

 29日に旅行に出たのだが、4月7日朝旅行から帰ると採用決定の郵便が来ていた。えっ、未だ正式には決まっていなかったのかというのが第一印象。次いでその日、所員会が開催されるということで、あわてて初の出勤をしたわけだった。

東大社会科学研究所入所前の広島への旅行

 その社研の面接試験の直後、私は大旅行を計画した。当時交通機関の崩壊で旅行が極めて困難であったにもかかわらず、これから世界の政治を考え、政治学を研究するには、まずヒロシマの原爆被害を直接観察しておくことが不可欠だと考えた。家計も苦しかったのに母が支持してくれた。

 私達一家は14年前まで神戸東郊の御影町に約12年居住した。小学校5年を終えて東京に転校した後その事実上の故郷を訪れたことはなかった。戦後経済界追放にあった母の兄も東京を去り大阪で勤務するようになって数年経っていたから、母にはその消息をたしかめさせたい気持ちもあったのであろう。窮迫の時代にのんきな話のようだが、この当時はよくぞ戦争を生き延びたという感じが強く、親族や旧友の安否を確かめたり、自分の生を回顧し今後の生き方を真剣に考えたいとの思いが強かったのである。

 3月29日行動を開始した。夜は家族に就職祝いをしてもらい10時半に夜行列車に乗った。といっても電灯もつかない真暗闇の有蓋貨車にすしずめ。身体がねじれても身じろぎも出来ぬ混み方でやっと床に座り込んだが足もしびれる状態だった。

 後にナチスのユダヤ人迫害のルポで彼らの輸送列車の状況を読んだとき何度も思い出した。しかしこれは兵隊の監視の無い自由な旅行だった。ほとんど停車もせず岡崎あたりで明るくなり、名古屋に8時、岐阜では「ぶち上げ」といわれていたヤミで運搬されるいもを警察が摘発して線路ぎわに山と積み上げているのを見て暗然とした。統制の功罪二面とノートに記している。京都午後1時で初めて朝食。少し腹痛をおこした。2時やっと大阪に着く。

 鴻池信託に勤務し五十半ばで追放されて個人で堂島で家具店を営んでいた伯父一家と再会。大阪人になった伯父の町人的、資本主義的な話に目を開かれる。家具は豊富に在庫し、元の会社関係の注文を基本にしていたが、いろいろの庶民の苦労を味わっていた。なかでも巡査のたかりに憤慨させられるらしい。翌日は父の友人二人原田立之佑、杉本信一両氏や海軍兵学校出のパイロット(少佐)で無事生き残った親友を訪ねた。今貿易庁に勤める杉本さんが広島までの切符を入手してくれることになった。

 四日目も広島行の切符が入手できたが、翌々日なのでまたまた小学校の友人宅をたずねて泊めてもらった。やっと六日目9時に出発、12時まではやはり貨車に座ったが岡山からやっと客車に乗れた。午後5時今度は三原に下車、昔のお手伝いさんの家に泊めてもらう。七日目やっと11時広島着、中学の親友に案内されて午後4時まであいにくの強風のなか町を歩く。

 その後一人になって広島城を初めとして市内を飛び回り、深刻な印象を受けた。

 広島は被爆から一年半を経過していたが目抜きの通りの両側には、主として飲み屋のバラックが立ち並び特に米兵めあてのパンパン宿がやたら目についた。その裏は全く手つかずの瓦礫の山であった。これは1972年に那覇市を訪れた時、目抜きの平和通りの直ぐ裏が瓦礫の山のままになっていて、驚いたことがあったから、一年半後では当然のことだっただろう。有名な福屋デパートの焼けビルに上って見るとKilroy washere!と米兵が落書きした黒々とした文字が屋上の壁面を埋めて、何とも言えぬ哀愁を感じさせた。Kilroyとはてっきり悪魔をいみするのだろうなどと勝手に解釈していた。

 これはASupplementtotheOxfordEnglishDictionary.Vol.2,1976.によれば、「第二次大戦中米兵が世界中で落書きした、神秘的な人名である」。その意味は不明のようだが、戦時中ベスレヘム製鋼会社のドックで戦艦のタンクや二重底などの検査をしていたKilroy氏が検査官への証拠のためにそう書いたのが急速に一に伝播したのだとの説もそこに記されている。私はすでに東京の神宮外苑の絵画館の壁あたりに書かれたものを見て、従兄の柴 田南雄から由来は聞いていた。

 崩れたデパートの屋上から眺めた広島は未だ完全に焦土の都市であった。そこを離れて西部軍司令部があった広島城祉に着いたのはすでに夕方だった。人影もないそこに、驚いたことに自分も陸軍病院で使った、陸軍の青い星の記章付の瀬戸物の飯碗と皿の類の破片が、まるで今支度が出来ましたというように整然と横に二列をなして向き合って散乱していたのである。ちょうど兵舎で食卓に準備が整った時に原爆が炸裂したのであったろうか。しかもよくあたりを見ると瓦礫の中にまだ細かい白骨の残片がたくさんまじっている。ぞっとしながらさらに見回すと脇の瓦礫の中に白いものが風にひらひらひるがえっている。

 何かと思って一つを拾い上げて見ると、それは美濃紙に細かく記入した兵籍簿であった。陸軍で各中隊事務室で管理・保管していた、在籍兵士の戸籍、住所、家族などを記したものに間違いなかった。

 その時は一体こんなことがあり得るのか、被爆して紙が焼けず、しかも一年半も風雨にさらされ、そのまま片付けられずに残存しているなんてと、総毛立つ思いで眺めた。今思えば資料としてそれを保管すればよかったとおもうが、とうていそれは出来なかった。今も幻覚のような気がする。兵隊の氏名や本籍などをカーボン紙をあてて鉄筆で書いたものがはっきりと読み取れた事に間違いはなかったのである。

すでに被災者はめったにいない事を知った 多くは戦後移住した人達であった

 私はこの短い滞在の間に市内のあちこちで市民に原爆被災直後の状況を質問して歩いた。その間にすでに被災者はめったにいない事を知った。多くは戦後移住した人達であった。また何人かは「そんなことを聞いていると米軍のMPに連行されるぞ」と脅かした。

 東京ではそんな事情を全く知らなかった私には十分恐怖をあたえた。そんなことで、別の人が「比治山の原爆病院に行ってすさまじい傷痕の被爆者を見て来なさい」とすすめた時には臆病になって実行できなかった。長く心残りであった。市内を歩く限り被爆者の姿を見ることはなかった。

 相生橋の欄干が無残に倒れている姿や、原爆ドームの有名な鉄骨、人影だけ残った銀行の石段などは見た。聞き取りをやった目的は何とも恥ずかしいことだが、今後再び原爆攻撃を受けるとしたら、どんな対策を講じておけば良いかという戦略的視点であった。
 米国の被爆者調査とほぼ同じで、原爆戦争は避けられないものとした上で、どうすれば被害を予防できるかと考えていたのであった。聞き取った印象は、意外に罹災直後の復興対策は順調に行われたのではなかったかということである。

ドイツのナチス時代の経済を示す統計数字

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)


ナチス・ドイツの経済

年平均登録失業者数推移(単位千)と賃金推移(1932年=100)
   年  失業者数  名目時間賃金率  名目週賃金収入
1929年  1,898,6      122.4      149.4
1930年  3,075,5              
1931年  4,519,7              
1932年  5,575,4       100      100
1933年  4,804,4       97.0      102.2
1934年  2,718,3       96.8      109.7
1935年  2,151,0       96.8      122.3
1936年  1,592,6       96.8      116.6
1937年   912,3       97.0      120.6
1938年   429.4       97.4      126.5
1939年   104,2               
1940年    43,1              

ヴァイマル共和政期の航空機生産数

企業\西暦
           1920   1921   1922   1923   1924   1925   1926   1927   1928   1929   1930   1931   1932   計

Albattros      -      1    -      5     23    24     21    22     23     23    25     13    -   180
Arado        -      -    -      -      -     10    19     8     16     5     4      9    11   82
Casper(英語版) -      -     5      3      9     6     7     7     1      -     -      -    -   38
Domier        2      3    6      8      20    38    23    22     30     21    17     19     9  218
Focke-Wulf     -      -     1     -       2     16    9     7     27     27    14     12    25   140
Fokker        6      15    12     4      -      -    -     -     -      -     -      -     -    37
Fokker-Grulich   -      -     -     -       6     36    -     -     -      -     -      -     -     
Heinkel        -      -    -      1      16     18    22    20     25     32    31     25    38   228
Junkers       74     16     9     79      90    78    69     58     62     73    92     88    27   815
Klemm         1     -     -     -       8     4     4     30     73      82    56    107   85    450
L.F.G         2      6     2      2      2     20    10     -      -      -     -     -     -    44
Messerschmitt   -      -     -      -       3     4     1     7      12     30    57     27    24   165
Rohrbach       1     -     -      1       4     9     5     6      5      12    -      1    -    44
Sablatnig(英語版) 9      9     4     -       -     -     -     -       -      -    -      -     -    22
Udet(英語版)                3      9     15    31      33     41    54    29      4       -    -    219
その他       -       7      5    18      66     112    107   66     81      45    32     9     12   560

計          95      57    47     130     264    406     330   294    409    379    332    310   231   3,284

貿易

ドイツの貿易収支(単位:百万マルク)
    年      四半期            輸入            輸出             貿易収支

1929年 3,354.9 3,054.7 -300.2  3,465.1 3,476.6 11.5    3,338.8 3,487.3 148.5  4 3,288.0 3,464.4 276.4
1930年 3,171.0 3,222.0 51.0   2,533.0 2,983.0 450.0   2,440.0 2,923.0 483.0  2,249.0 2,908.0 659.0
1931年 1,919.0 2,420.0 501.0  1,885.0 2,348.0 463.0   1,464.0 2,465.0 1001.0  1,459.0 2,366.0 907.0
1932年 1,251.7 1,605.4 353.7  1,142.7 1,382.4 239.7   1,057.0 1,302.6 244.7   1,214.1 1,448.0 233.9
1933年 1,077.0 1,190.0 113.0  1,011.0 1,188.0 177.0   1,044.0 1,230.0 186.0   1,072.1 1,263.0 191.0
1934年 1,147.4 1,094.3 -53.1  1,152.8 991.9 -160.9    1,056.7 1,005.4 -51.3   1,094.1 1,075.3 -18.8
1935年 1,139.7 967.0 -162.7  1,008.7 995.0 -13.7     965.3 1,099.7 134.4    1,055.0 1,208.0 153.0
1936年 1,052.9 1,134.2 81.3   1,058.4 1,107.7 49.3    1,027.6 1,215.8 188.2   1,079.2 1,310.5 231.3
1937年 1,092.7 1,285.2 192.5  1,433.7 1,431.3 -2.4    1,443.4 1,565.8 122.4   1,498.5 1,628.8 130.3
1938年 1,399.0 1,360.0 -39.0  1,482.0 1,354.0 -128.0   1,476.0 1,375.0 -101.0  1,592.0 1,449.0 -143.0
1939年 1,445.8 1,333.4 -112.4 1,285.5 1,459.9 174.4    

統計

各国軍需生産の推移(1944年=100)

      1939年     1940年    1941年    1942年    1943年    1944年
ドイツ     20        35       35       51        80      100
日本     10        16       32       49        72      100
アメリカ    2         5       11       47        91      100
イギリス   10        34       59       83        100      100
ソ連     20        30        53       71        87      100

ドイツ工業純生産に占める各産業分野の比率(%)

産業分野   1938年   1939年   1940年   1941年   1942年   1943年   1944年
原料       21       21      22      25      25      24       21
兵器        7        9      16      16      22      31       40
建物       25       23       15      13      9       6        6
その他の投資財 16      18       18      18     19      16       11
消費財     31        29       29      28     25      23       22

 以上統計資料は ナチス・ドイツの経済 - Wikipedia による。

2025-02-19-no25-2-small-countries-grow-taller-and-world-war-2-

官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦 秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介


目次 官僚制度と計量の世界 執筆 夏森龍之介




官僚制度と計量の世界(28) ローマ教皇ピウス12世のローズヴェルト批判と戦後のナチスとドイツ国民の区別政策 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(27) 情報戦に弱いため開戦の是非と終戦の時期を判断できなかった日本政府 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(26) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その2-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(25) 日本国軍人には眩しすぎたヒトラー・ドイツの快進撃 弱小国の背伸びと第二次世界大戦-その1-執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(24) 戦争への偽りの瀬踏み 日米の産業力比較 陸軍省戦争経済研究班「秋丸機関」の作業 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(23) 第二次大戦突入と焦土の敗戦「なぜ戦争をし敗れたのか」 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(22) 結核で除隊の幹部候補生 外務省職員 福島新吾の場合 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(21) 戦争と経済と昭和天皇裕仁 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(20) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(19) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(18) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(17) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(16) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(15) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(14) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(13) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(12) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(11) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(10) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(9) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(8) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(7) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(6) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(5) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(4) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(3) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(2) 執筆 夏森龍之介
官僚制度と計量の世界(1) 執筆 夏森龍之介


[資料]
経済からみた日米戦争と国力差、ウクライナ戦争の終着点 執筆 夏森龍之介



計量計測トレーサビリティのデータベース(サブタイトル 日本の計量計測とトレーサビリティ)
2019-02-05-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書
2019-02-07-1-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-2-
2019-02-07-2-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-
計量計測トレーサビリティのデータベース(計量計測トレーサビリティ辞書)-3-
2019-02-07-3-database-of-measurement-measurement-traceability-measurement-news-

「計量計測データバンク」サイトマップ